【完結】黄昏の輪舞   作:扇架

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五話

 ユスティヌが、と一族は騒然としていた。動揺に包まれたパッサント城で、彼は息子と対面していた。

「リーンが危険です。あのユスティヌが近くにいるのですよ。周りはブラックやマルフォイの勢力があります。あの子の身の安全を考慮すれば……ホグワーツを退学させ、手元で養育するべきです。今まで、退学者がいなかったわけでもない」

 彼の次男は言い募った。よほど姪が不憫とみえる。

「訊こう。ステータント・リアイス。お前はステータントを完全に掌握していると言い切れるか? いや、言えるまい……私はホグワーツのほうがよほど安全だろうと思うがな」

 ネレイドは押し黙った。覚えがあるのだろう。パッサント・リアイスでさえ、押さえが効いているとはいえない。グリフィンドール主義とでもいうべき思想に凝り固まった親族よりも、まだしも従者たちのほうが拘泥しないだろう。

「一族はリーンを殺しかねん」

「まさか、そこまでは―」

「無いとは言い切れない。今はあの帝王のせいでスリザリンに属する者への反発が最高潮に達している。かつての我が一族の黎明期に勝るとも劣るまい」

「リアイス内が危険だとおっしゃるのなら、ポッターか他の一族に、預けることもできます」

 グリフィンドール系純血名門ではポッター、ロングボトム、プルフェット、ウィーズリー、マッキノンが有名だった。リアイスを入れてグリフィンドール六大名門と言われている。

「中立であるハッフルパフやレイブンクロー系でも、この際構いません。マグダラやディゴリー、クラウチ、マッキノン、ボーンズ家などがあるでしょう! 彼らならばさほどしがらみもありますまい。ここ最近姻戚関係もあります。受け入れてくれるでしょう」

――もし預けるのならば、ポッター家とロングボトム家は避けた方がいい。彼らはゴドリックの谷に居を構えている。それは我が一族とも近いということだ。

 ウィーズリー家であれば、快く迎えてくれるだろう。あそこはさほど利権にこだわらない。よい家風だ。

「ホグワーツにいさせるべきだ。あの子はランパント・リアイス。グリフィンドールの後継者。困難から逃げ続ける癖をつけてしまうのは、あの子のためにはならぬ。決して目を背けてはならぬ。我が一族の矛盾と闇から」

 ネレイドが目を見開いた。ユスティヌ、と呟くのを彼は聞き取った。

「"紫薇戦争”も元はといえば我らの業が引き起こしたもの。ユスティヌには我らを恨む権利はある。消された歴史の系譜を引く者たちなのだから」

 ◆

 リーンはスリザリンのネクタイをむしり取った。

――どうせ付けていようといなかろうと、皆私のことを『異端のリアイス』としてしか見ないわ

 減点するならすればいい。自寮になんの愛着もない。今日は魔法薬学があるはずだった。リーンにとって最悪なことにグリフィンドールとの合同授業だ。

 冷たい風はリーンの短くなった髪を乱す。父が好きだった黒髪。

 喪の色に身を包み、葬儀に参列したことを思い出す。母の金髪はくすんでいたが、群青の目には見る者をたじろがせるような、強い感情が浮かんでいたことも。

――父様が逝かなければ、母も心を病まなかっただろうに

 親子の溝は埋めることはできない。死んでほしいとは思わないが、互いに姿を見たくない。あえて触れたくない。そんなところだろう。

 傷は治った。精神的な痛手はまだ完全には癒えていないが。

――あの憎悪と敵意

 あれこそ、グリフィンドール――リアイスがおよそ千年の歴史で培ってきたものの、暗部だ。スリザリンが純血思想を育ててきたように、グリフィンドールもまた闇を飼っている。

 寒気を覚え、肩を抱いた。

 誰も意識すらしていない。その歪みを。グリフィンドールの闇を。異端を許さないという点において、スリザリンと何の違いがあるだろうか?

「……リアイス、急がないと遅れるぞ」

 セブルスがブックバンドで縛った本を片手に、いらだたしげに足で床を軽く叩いた。友人は意外とせっかちだ。リーンは謝って、彼に駆け寄った。

「嫌な空気だな」

 顔をしかめながら、行き過ぎる生徒の群れを眺めている。言葉を額面どおりに受け取るならば、この地下の空気の濁りを指しているのだろうが、そうではないようだ。リーンは敵意には敏感だが、セブルスの言うそれは分からなかった。

「害意ではない……と思うが、気に食わない。神経に障る」

 強く嫌悪が滲んだ声音だった。言われてみれば、リーンも気づいた。ちら、と向けられる眼に。地下はスリザリンの領域。基本的にはスリザリン生が多く行き交っている。

「レストレンジにメルフルア、ヤックスリーにノット、ブルストロード……おやおや、盛り沢山ですね」

「お前、取り巻きは」

 呆れて口にしたセブルスに、ふらりと現れたレギュラスは肩をすくめる。「人を侍らす趣味はないんですよ」とさらりと言う。

「よくざっと見ただけで分かるわね」

 感心して口を挟む。レギュラスはリーンの短くなった黒髪に少し驚いたようだったが、気を取り直して答えた。

「色々な家のパーティに呼ばれていたので……スリザリン系名門の顔と名前は大抵分かりますよ。リアイス先輩はそういった社交の場には?」

「まったく出してもらっていないわ。一応、礼儀作法は学んだけれど、実際には」

 返し、レギュラスの表情から、それがどれほど異常なことなのかが推し量れた。仮にも名門の子女がこの年になっても公の場に姿を現さないことは、ありえない事なのだろう。

「とにかく、気をつけたほうがいいでしょう。どうやら、あなた狙いらしい」

 笑んで、レギュラスは優雅に身を翻し、去っていった。

 

 彼はふっと顔を上げた。先ほどまで読み進めていた書物をぱたんと閉じ、雑然とした机を杖の一振りで片づけてしまう。

「しかしまあ、いつもにも増して燃え立つような魔力じゃの」

 城の障壁を軽々と越え、気配の主はやってくる。力の余波がぴりぴりと肌を粟立たせる。現在ホグワーツは彼に任されている。代々そうであったように彼もまた障壁を越えてくるものをある程度は感知することが可能だった。

――彼よりも訪問者の方が城との結びつきは深い

 リアイスとリアイス――本家と筆頭分家長子の間に生まれた正真正銘のリアイス。グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクローという、ホグワーツ創始者の血を色濃く受け継ぐ末裔。

 彼女の名は、アリアドネ・イシュタル・ランパント・グリフィンドール・リアイス。当代リアイス本家当主・ランパントであった。

 ◆

「さて、用件は何かのお、アリアドネ」

 あくまでも穏やかに問いかけるダンブルドアとは違い、訪問者であるアリアドネの顔つきは険しい、淡い白金の髪をきっちりと結い、娘と同じ群青色の目には刃のような輝きを秘めている。

 全体的に淡い色合いで構成されている容姿に反し、気配は猛々しい。笑みは母を彷彿とされるが、眼差しの鋭さは確実に父親譲りだろう。ダンブルドアはその射るような眼が大の苦手だった。

――似ずともいいところばかり似る

「……ユスティヌをホグワーツに受け入れたとか」

「それが何か?」

 とぼけた返事に、アリアドネの眉間に皺が刻まれた。声の震えを誤魔化すように、指を緩く組んだ。

「先生ならば火種を消してくださると思っていた私が愚かでした。ユスティヌが危険分子と知りながらホグワーツに招き入れるとは!! 裏切りですわ!!!」

 『氷の心臓を持つ魔女』と恐れられる闇祓いの激した姿を、ダンブルドアはただ淡々と見つめた。

「また敵を作り出すつもりかね」

「最初から敵ですわ」

 アリアドネの返答はにべも無い。だが、校長たちの肖像画の非難が耳に届いたのか、きっと彼らを睨みつけた。

「忌々しいブラックどもはともかく、あなたがたまで私を詰るのですか!」

「我が孫よ……貴女は性急すぎるわ」

 リアイス姓の校長の一人が静かに言った。周りもうなずき、ある者は殺気立ったスリザリン派の校長を宥めている。

「我らがホグワーツに、ユスティヌがやってきたというのに慎重な対処など必要だと?」

 吐き捨てるように返し、アリアドネはダンブルドアに向き直った。

「ユスティヌを追放してくださいな、先生……我が娘もろともに」

 校長たちが派閥問わず息を呑んだ。あまりに無慈悲な発言がもたらした衝撃から立ち直ったのは意外にもスリザリン派の方が早かった。

「小娘! 言葉が過ぎるぞ」

「なんと愚かなリアイスか!」

 校長室は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。ダンブルドアはぱん、と両手を打ち鳴らし場を鎮める。静寂が立ち戻る。

「君は祖先が侵した過ちを繰り返そうとしておる」

「今度こそ上手くやりますわ。完璧に」

「無理じゃ。そんなことは不可能なのじゃよ……ウラニア・ユスティヌやリーンがなにをしたと言うのかね? 罪はない。なにも。そもそも、リーンの養育を放棄した時点で君に口を出す権利はなにもない」

 いつも冷静沈着なダンブルドアの口調が、わずかに乱れた。アリアドネはくすりと笑う。

「ユスティヌは穢れたる血。リーンはできそこないのリアイス。どちらも目障りなのですよ……口にこそ出さないけれど、それがリアイスの本音」

「リーンは君の娘じゃ」

「私はあれに胎を貸し与えただけですわ。母子に必ず絆があるなどという馬鹿げた話は聞きたくありません……そのお顔では、私の要求は呑んでくださらないようですね、先生」

「君が一番わかっているじゃろう」

 愚問でした、と言ってアリアドネは立ち上がった。

「先生とは永遠に分かりあえないようですね。母だから、子だからと枠に当てはめていかにも正しいことばかり言っているあなたには反吐が出ますわ」

「残念じゃな、アリアドネ。君とは意見が合わぬ」

 アリアドネの声に負けず劣らず、ダンブルドアの声も冷えていた。教え子が踵を返して出ていくのを、彼は黙って見送った。

 そしてこれが、最後の会話となった。

 

 教科書を腕に抱え、インク壷と羽根ペンはローブのポケットに入れて、昼食に向かっていた。鞄はない。誰かに破られていたからだった。修復呪文で直しようがないほどの損傷で、リーンにはお手上げだった。

――犯人を捜しても無駄だわ

 諦めていたものの、やりきれない怒りと悲しみがこみ上げてきた。セブルスとは途中で分かれたし、多少内心で弱音を吐いたところで、問題はないだろう。

 鞄は屋敷しもべが懸命に作ってくれたもので、リーンの気に入りだった。彼女は妖精が好きだった。母のいない空白を埋めるように、服や鞄を作ってくれ、願えば食事も一緒に摂ってくれた。風邪の時は心配そうな顔をして側にいてくれた。

 破られたなんて言ったら、あの小さな妖精は、どんな顔をするだろうか。

――早く大広間に行こう

 何をされるか分かったものではない。

「また一人かよ、お前」

 むすっとした声とともに、誰かがリーンの横に並んだ。彼の腕にも本がある。ちらりと題を見れば『最上級魔法第五篇』『最上級変身術』『形態模写――その働き』『闇の魔法生物・森林編』等だ。

――二年生の範囲ではない

 とんでもなく高度な内容だ。少なくとも五年生以上の。

――一体何をたくらんでいるのかしら

 手の込んだ悪戯をするにしては、闇の魔法生物の本は必要ないはずだ。頭の中でぱちぱちとピースを当てはめていく。リーンが本を見ているのに気づいたのか、ブラックは慌てたように本を鞄の中に放り込んだ。

「ジェームズたちはどうしたのよ」

「あいつらはまだ図書館」

「勉強熱心ね」

 素っ気無いやりとりが続く。表情が硬いのは気のせいではないだろう。リーンを警戒している。悪戯の計画なら、これほど警戒心を剥き出しにすることも無いだろう。

「……リーマスは? 医務室かしら」

 なるべくいつもの口調で言えば、ブラックの歩調が僅かに乱れた。

「風邪で医務室にいる」

――ビンゴ

 この態度、ブラック――というより、ジェームズたちはリーマスの正体を知っている。その上で何かをしようとしている。リーンが脱狼薬を作ろうとしているように。

 ホグワーツ生たちにリーマスが人狼だと露見しなければいいが。

 友人を案じながらも歩みは止まらない。やっと玄関ホールまで差し掛かったとき、目の端に紅い色が掠めた。自然と視線が吸い寄せられ、ぎょっとして立ち止まる。

「どうした?」

 ブラックの怪訝そうな問いかけにも、声が出ない。ホグワーツ生は立ち止まったリーン、ブラックをものめずらしげに見て、大広間に吸い込まれていく。

『彼女』がこちらを向いた。ぬくもりの無い眼がひたと据えられる。

 母様、と呟いたのか呟いていないのか。

――どうしてここに?

 紅い衣を纏った魔女は、リーンの隣に視線を滑らせ、つと眉を顰めた。

「――スリザリンに組み分けされたのみならず、ブラック家の者と親しくするとは……リアイスとしての矜持も無くした出来損ないが」

 唇が震えた。血の気が引いていくのが分かった。何か言い返さなければ。好きで組み分けされたのではないとか、闇の勢力を嫌悪しているのは貴女と同じだとか。

 昨年送ってこられた吼えメールを思い出し、口の中が干上がった。何を言おうとも受け入れられないに決まっている。この魔女はリーンを切り捨てたのだ。

 腕をつかまれ、ぐいと後ろに引っ張られる。入れ替わりにブラックが前に出た。リーンの視界から母の姿が消える。

「こいつの母親ですか? 申し訳ありませんが、昼食を摂る時間がなくなるので、失礼します」

 落ち着いた声だった。手を掴まれ、母の脇を引きずられるように通り抜けた。大広間に行くのかと思えば違う。母の声が追いかけてきた。

「この子は嵐の目よ、シリウス・ブラック。関わらないことね」

「んなこととっくに知ってるよ」

 丁寧な口調は崩れ、ブラックは刺々しく返す。そのまま連れて行かれたのは城の厨房だった。

 妖精たちは訪問者に大喜びで、すぐさま食事を用意してくれた。ホットココアが注がれたカップを両手で包むようにして、手の震えを誤魔化そうとする。

「……ありがとう」

 別に、とブラックは言った。

「あの母親、俺の母親とそっくりだったからさ……腹が立って。単語を入れ替えたら言ってることほぼ同じだぜ」

「――どこも、同じなのかしらね」

「かもな……俺の母親よりも、お前の母親のほうがおっかないかも。何するか分からない目つきだった」

 ブラックはコーヒーをすする。その表情は昏い。リーンは引きつった笑いを漏らした。

「そんなもの百も承知よ。あの人の心臓は氷でできているんだから」

――そしてその氷は、誰にも溶かすことはできない

 それができる人はもういないのだから。

 

 

――しんと冷えた夜だった

 アリアドネ・イシュタル・ランパント・グリフィンドール・リアイスは杖を引き抜いた。暴れ柳とグリフィンの羽根から作らせた特注品だ。

 幸いにして雪は止んだ。雲の狭間から顔を覗かせた月がアリアドネの行く手を照らす。

「……やってくれたわね」

 血溜まりに部下たちの亡骸が転がっている。手足をもがれ、いたぶられた後に喉首を噛み切られたのだろう。その死に様は彼女の夫と同じ。

「芸のないこと」

 どこかに潜んでいるであろう獣に向かって呟いた。今宵は満月――人狼が目覚める日。

――討手を分散させたのが間違いだった

 自分の判断が部下たちを殺してしまった。しかし、悔いるよりも先にやることがある。闇に潜む金の目はどこなのか。

――人狼め!

 魔力の触手を細く伸ばし、敵を探る。仕掛けてきたのはあちらから。ならば、潜んでいるはずだ。

 かさ、と音がする。大きく一歩跳びのいたその場所に、影が降ってきた。『それ』の毛が銀色に輝く。顔面に大きな傷の走った狼――。

 にぃ、と彼女は笑う。血が復讐を高らかに叫ぶ。

「来たわね……フェンリール!」

 凍ったように冷えた肌を、血が伝い落ちる。足元にはフェンリールが銀の毛皮を赤く汚し、倒れていた。

「我が夫を殺した罪、償ってもらうわ」

 噛まれた傷跡が痛む。喉笛を噛み切られなかっただけ幸運か。だが、これでアリアドネも人狼の仲間入りなのだ。汚らわしい、獣と同じになってしまう。

――堪えられない

 だが堪えなければならない。彼女にはまだやるべきことが残っている。グリフィンドールとしての崇高なる使命がこの身には科せられている。たとえ堕ちようとも、それは為さねばならぬのだ。

 杖を倒れたフェンリールに向ける。闇祓いには死の呪文、磔刑の呪文、服従の呪文の使用が許される。その特権付与を魔法省にねじ込んだのは局長であるアリアドネ自身。全ては闇の魔法使いを殲滅させるためだった。

――決着を

 そのためにいままで生きてきたのだ。

「……アバダ――」

 息絶えよ、と唱え終わる前に、膨れ上がった魔力の存在がアリアドネの集中を乱した。ぎりっと歯を食いしばりながら振り向いた。覚えのありすぎる魔力――信じられぬほどに濁ってしまったそれは、彼女がよく知っている男のものだ。

 闇で織ったかのようなローブが翻る。眼の色は燃えるような紅玉の色。肌は骨を想起させる。

「お前は戦っている時の顔が一番好みだな」

 久々に懐かしい友に会ったとでもいうように、ゆったりとした足取りでやってくる。だが、アリアドネは彼の言葉の端々に毒が滴っているのを分かっていた。負の感情と恨みによって捻じ曲がり、構成された男は麗しい仮面の下にどす黒いものを隠している。

「あなたは相変わらず血の臭いがするわね……ヴォル」

「お前もな」

 表向きは互いに自然を装い、その実闘志をみなぎらせ、二人は杖を構えた。闇の帝王を前にして、救援を呼ぶ隙などあるわけもない。抹殺するしかアリアドネの生き残る道はありえなかった。

 構えを取ったままにらみ合うこと数秒――帝王がうっそりと笑う。

「グリフィンドールよ。貴様とは今宵が最後となろう。そして、娘は俺が貰うぞ」

 アリアドネの眼が冷えた輝きを纏った。娘――リーン・リアイス。彼女の群青の眼を継ぎ、次代のランパントとして生まれた子。そして呪縛された、いてはならない子。そんなものが、この男は欲しいと言う。

 自分は胎を貸しただけ。間違いの元に生まれた娘を頑丈な檻に閉じ込めたつもりだった。しかしそれは失敗した。このままでは十中八九帝王の手に堕ちる。

「私がその可能性を考えていないとでも? ヴォル」

 アリアドネはくすりと笑った。ひどく若々しい笑みに、じわりと影と闇が滲んでいく。帝王が瞬くのを、とっくりと見やる。

「あなたの手駒にならないように、手は打っているわ……私はグリフィンドール。為すべきことを為さねばならないのだからね」

 ◆

 凍ったような月が、部屋の中を照らしていた。冬期休暇のパッサント城の中は寒々しく、月光がそれに拍車をかけている。寝台の側近くに、影が伸びている。リーンは蒼い闇の中に浮かぶ、そのゴールデン・オレンジの双眸をじっと見つめた。

 男なのか、女なのか。若いのか年老いているのか。そのどれもが分からない人物だった。眼はともし火のような色合いをしているのに酷く冷たい光を宿している。手には杖。その先はリーンの喉首にぴたりと当てられている。切断呪文で首を落とすことも、粉々呪文で潰すこともできる絶妙な位置に。

――詰んだわね

 リーンは弱い。逃げることはできない。杖は遠くに転がされ、手にはナイフもなにも持っていない。よしんばこの場を逃れられたとしても、永遠に逃げ続けることは不可能だった。

――ついに来たのだ

 お母様、と呟いた。リアイスの城に入ることができるのは一族か、許された人間のみ。そして今のところ許諾を得て外部の者が留まっているという情報は入っていない。であれば、目の前の人物はリアイス一族の誰か。

 いくらスリザリンに組み分けされたといえど、リーンを直接害するのはあまりにも危険すぎる。“獅子公”アシュタルテの膝元での凶行など。

――本家当主たるアリアドネ・リアイスの命を受けていなければ

「……名も、どこの分家の者だとも訊かないのですね」

 声音は柔らかい。突きつけられた杖さえなければ、心地よく聞こえただろうと思うほどに。

「訊いてもどうにもならないでしょうに……それとも、あなたは訊いて欲しいのかしら?」

「どちらでも」

 遊ぶように杖をちょっと揺らす。ともし火色の眼がリーンにじっと注がれた。殺意も敵意も何もない。憐れみすらも。

「貴女にはあまり会ったことがないものでね。見かける機会自体少なかった……さて、消すべきか残すべきか」

「選択肢があるというの」

 母の命を受けてきたのではないのか。影は淡く笑みを刷いた。

「あの方のご命令が正しいと思えば私は殺してきた。多くの裏切り者の闇祓いや、リアイスの敵たるリアイス。純血派の者達。命を受けてきたのは確かだが、選択肢は私にある」

 手を下すも下さないも私の判断に掛かっている、と影は続けた。

「貴女の母君は少々狂っておられる。私が命令を履行しない可能性を考えておられぬ。老いたものよ」

 段々と口調が変化する。

「長口上は聞き飽きたわ。この首を飛ばすか飛ばさないか、はっきりしたらどうなのかしら」

 すっと眼が細められる。ゆらゆらと揺れていた杖がぴたりと止まった。つぅ、と唇が孤を描く。

「跡継ぎはお母君がまたお産みになればよいか。貴女様はランパントを狂わせる……」

 優しく、甘く、けれども冷たい声音で囁いて。影は呪文を唱えようとした――そのとき。

 ドン、とリーンの心臓が脈打った。身体を電撃が貫いたかのような衝撃が走る。影も軽く胸に手を当て、杖をおろした。リアイスたる二人は衝撃を共有した。その意味が分からないはずもない。

 数秒か、数分か。

――宙に炎が顕現した

 リーンと影は、視線を滑らせ炎の色を眼に映す。色は――漆黒。凶事を報せる闇の炎。ひらりと紙片が落ちる。

「私の命令は白紙に戻ったようだ」

 もたらされたのは死の報せ。

「貴女を殺すのは止めにしましょう」

――ランパント様、と影は囁いた

 

 

 視界が紅い。背の高い影が彼女を見下ろしている。

 愚かなアリアドネ、と帝王は囁きかけてきた。彼女の娘を奪うとも。彼女の罪は購いきれぬとも。

 彼女は帝王の傍らに立つ小柄な影を認めた。絹糸のような髪、暗い紅藤色の眼。

――ユスティヌ

 我らが宿敵、恨みの血を持つもの。近くて遠いその系譜。絶やさなければならぬ血筋。

 力が入らない。帝王が歌うように呪文を唱えるのと同時に、アリアドネも術を行使し――。

――その眸から光が失われた

 一族を死の衝撃が襲う。

――ランパント、崩御

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