「…て言ったってほとんどが素人だろう」
蝶野教官の命令の元、各自それぞれ目的地に向かうが、案の定どの車両も未だ動かずにいた
戦車を動か仕方を知っているのはおそらく西住と少年だけだろう
少年がまずは基本操作をした方がいいのではないかと考えだした時、それぞれの車両のエンジンが掛かった音が聞こえて来た おそらく少年が作成したマニュアルを読んだのだろう そして、遅ればせながらも各自それぞれの目的地に向かっていた
「ふへへへ、いよいよ我々が戦車を動かす時が」
秋山は戦車が動くのを今か今かと待ちわびていた そう、未だ動かずにいたのはAチーム、Ⅳ号戦車だけであった
「あの…どうやって動かせば…」
操縦席に座っている五十鈴華が、不安げな声を上げた
「まずイグニッションを入れて」
経験者である西住みほが、落ち着いた声で答えた
「そのボタンのことだ」
少年は隣の通信席から身を乗り出し、イグニッションのボタンを指さした
「これですか?」
五十鈴は言われた通り、イグニッションのスイッチに指をかけた すると重々しいエンジン音が車内に響き渡った
「やっほぉー!最高だぜー!」
エンジンが始動した途端、秋山優花里は満面の笑みを浮かべ、ハイテンションになった
「え…人が変わった…」
武部沙織はその様子を見て、か かなり引いていた
「パンツァーハイ……」
西住が小さく呟いた
西住が言うパンツァーハイとは、おそらくコンバットハイやランナーハイに近いものだろうと少年は思った 秋山の高揚した心境を、経験者として理解しているのだ
「すみません あの、それからどうすれば…」
五十鈴は操縦のことで完全に手一杯らしく、秋山と武部のやり取りなど全く見ていなかったようだ
「後はアクセルを踏んだら前進 前のレバーが操縦桿で、右がシフトレバー。ギアを入れて」
「う〜ん…重いです…ふーん…」
五十鈴は小さな身体で懸命に操縦桿を握り、座席の右にあるシフトレバーに手をかけた 力を込めて力一杯引っ張ると、けたたましい音を立てていた戦車のエンジンの振動がぴたりと止んだ
「止まっちゃたじゃん!」
「どうしてでしょう…」
武部と秋山は、突然戦車のエンジンが停止したことに動揺した
「……ただのエンストだ 五十鈴さん、クラッチを入れていなかっただろ」
少年は冷静に指摘した
「クラッチを静かに繋いでから、アクセルを踏んで」
西住が補足するように指示を出した
「分かりました」
五十鈴は少年と西住に言われた通り、慎重にクラッチを踏み込み、ゆっくりと繋いだ そして、今度は優しくアクセルペダルに足を乗せた しかし、緊張のせいか、ほんの少しだけ強く踏み込みすぎていた 重量級のⅣ号戦車は急後退し始めた
「うわぁ!下がってる!下がってる!壁にぶつかるーっ!」
キューポラから身を乗り出していた武部が、悲鳴のような声で状況を報告した
「ブレーキ踏んで!」
西住は慌てて五十鈴に指示を出した
「ええっと…ブレーキ、ブレーキ…」
しかし、パニックに陥った五十鈴は、どのペダルがブレーキなのか分からず、完全に混乱していた
「まずいっ!」
このままでは確実に車庫の壁に激突すると少年は判断し、急いで通信席から隣の操縦席に身を乗り出し、咄嗟にブレーキペダルを踏み込んだ
「えっ…きゃあ!」
突然のことに、五十鈴は小さく悲鳴を上げた 少年の咄嗟の行動により、Ⅳ号戦車は寸前のところで停止し、なんとか壁への激突は免れた
「ふぅー……五十鈴さん、クラッチはゆっくり入れるように」
そう言いながら、少年は自分の席である隣の通信席に戻った
「あ…はい……」
五十鈴は急な出来事に心臓がドキドキしていた。頬はほんのりと赤らみ、まだ放心状態のようだった
「華さん、落ち着いて。大丈夫だから」
西住に優しく声をかけられ、ようやく五十鈴は我に返った そして、今度は先程の失敗を教訓に、ゆっくりと慎重にアクセルを踏み込み、Ⅳ号戦車はゆっくりと前進を始めた
「何かお尻がぶるぶるする」
武部が戦車の激しい揺れに対して不満を漏らした 確かに、普段乗る自家用車などとは比較にならないほどの強烈な振動と騒音が車内を支配していた
「これがいいんですよぉ!ねっ、西住殿!ジョン殿!」
対して秋山は、この騒音と振動にむしろ快感を覚えているようだった 目を輝かせ、興奮気味に二人に同意を求めた
「ええっと…私は慣れてるから、なんとも思わないけど」
西住は冷静に答えた
「……後ろに同じく」
少年もまた、過去に戦車に乗った経験があるので、特に不快には感じなかった
「えっ!ジョン殿って戦車に乗られたことがあるんですか?」
秋山は驚いた表情で少年に問いかけた
「そうなの?ジョン君」
西住も興味津々といった様子で身を乗り出した
「……多少な まあ、西住さんほどではないが……」
少年には複雑な事情があり、過去の経験について詳しく語るつもりはなかった 曖昧な返答で話を打ち切ろうとした
「ええっと…華、少し左に行って」
武部はキューポラから周囲の状況を確認しながら、五十鈴に指示を出したが、戦車の騒音でうまく声が伝わらない 五十鈴は武部の指示に気づかず、そのまま前進を続けた
「うわぁー!ちょっとぶつかる!左!左!」
キューポラから上半身を出していた武部は、迫り来る木の枝に気づき、慌てて車内に身を引っ込めた
「左って言ったのに!」
車内に戻った武部は、不満そうな表情で五十鈴に言った
「すみません…聞こえなくて…ジョンさん、聞こえましたか?」
五十鈴の言う通り、戦車の中にいると騒音が激しく、キューポラから聞こえてくる武部の声はほとんど聞き取れなかったようだ
「俺もほとんど聞き取れなかった 普通はヘッドフォンとマイクなどで指示を出したり受け取ったりするものだが、それがないとすると……」
少年が困っていると、西住が意外な提案をした
「車長が足で方向を合図してあげて」
「足でどうやって?」
少年は西住に聞き返した まさかそんなアナログな方法があるとは想像もしていなかった
「操縦手の肩を進む方向に蹴るの」
「……マジか」
確かに、この騒音の中では、それが最も確実性の高い意思伝達手段かもしれない しかし、まさかそんな原始的な方法で意思疎通を図るとは思ってもいなかった
「親友にそんな事出来ないよぉ!」
武部は、いくら指示のためとはいえ、いきなり友達の肩を蹴るなど到底できないと拒否した 確かに、常識的に考えれば無理もない反応だった
「思いっ切り蹴って下さい!」
しかし、意外にも五十鈴は覚悟を決めたように、真剣な表情でそう答えた
「えぇ…じゃあ、左」
武部は五十鈴に言われた通り、意を決して五十鈴の左肩を思いっ切り蹴った
「イッ!」
鈍い音が車内に響いた
ゴンッ!
「ああっ、沙織さん!ストップストップ!」
「武部殿、それは五十鈴殿の肩ではありません!」
「えっ?じゃあ何?あっ!」
西住と秋山に慌てて止められ、武部が自分の足元を確認すると、なんと蹴ったのは五十鈴の肩ではなく、すぐ後ろに座っていた少年の後頭部だった 少年の頭部は、武部の渾身の一撃を受け、勢いよく戦車の内壁に激突した
「ああっ!ごめん!ジョン!」
「ジョンさん!大丈夫ですか!」
武部は咄嗟に謝罪し、隣にいた五十鈴は慌てて戦車を停止させ、苦悶の表情を浮かべる少年に声をかけた
「……大丈夫ではないが、医者が必要なほどでもない、と言ったところだな……」
少年は後頭部を押さえながら、痛みに顔を歪めて答えた
「ジョンさん、鼻血が」
西住が冷静に指摘した
「あっ……」
少年が鼻の下の人中を手で拭うと、手のひらは赤色の血が付着していた おそらく、武部に蹴り飛ばされ、その勢いで戦車の車内に顔面をぶつけたのが原因だろう
「ジョンさん、こちらを」
五十鈴は、鼻血を垂れ流している少年に、自分の持っていたティッシュを差し出した
「すまない」
少年はそう言い、申し訳なさそうにティッシュを受け取り、出血している鼻を押さえた
「ごめん!ジョン!大丈夫?」
再度、武部は心配そうな表情で少年の安否を確認した
「全く……どうしてくれ……」
少年は振り返り、武部を睨みつけようとしたが、途中で動きを止めて固まってしまった 少年が座っている通信席は、装填席や砲手席、車長席などよりも50センチほど低い位置にある そう、この位置からでは、目の前に座っている西住たちのスカートの中が、否応なしに視界に入ってしまうのだ
「ああっ!ジョン君、片方からも!」
西住にそう言われて確認すると、なんと反対側の鼻の穴からも鮮血が流れ出していた まさか、鼻血が両方から出るとは思ってもいなかった
少年は慌てて再び正面を向き、両方の鼻の穴をティッシュで塞いだ
西住は、自分が持っていた予備のティッシュを少年に手渡した
少年は鼻を押さえながらも、ありがたくそのティッシュを受け取り、もう片方の鼻の穴にも詰め込んだ
「相当強く打ったみたいですね」
秋山は、両方の鼻にティッシュを詰め、痛みに顔をしかめる少年の状態を見て、冷静に呟いた
「……そのようだ(……まあ、片方のは別の理由かもしれんが……)」
少年は、微妙な表情で鼻を触りながら答えた
「……西住さん、他の合図はないのか?」
少年は、このままではまたいつ武部に蹴り飛ばされるか分からないと考え、早急に西住に別の伝達方法がないのか尋ねた
「ええっと……後は棒で操縦士の方を叩く、かな」
そう言って、西住はそばにあった適当な長さの棒を武部に手渡した
「みほ こんなのあったんなら最初から渡してよ」
武部は、少し弱々と西住に言った
(全くだ)
少年の心中も全く同じだった 最初からこの棒を使って指示を出していれば、武部が誤って少年を蹴り飛ばすこともなかっただろうし、少年も痛い思いをする必要はなかったのだ
「ごめん。でも私はそうしてきたから」
西住は、あっけらかんと答えた
「……」
彼女のは言い方にも悪意がなかったので彼女の言う通りなのだろう
どうやら、操縦士はヘッドフォンが支給されるまでは、色々と大変な目に遭うようだ
「じゃあ、気を取り直して前進!」
武部は元気よく言い、五十鈴も頷き、Ⅳ号戦車は再びゆっくりと前進を開始した
(先が思いやられるな……)
そんなことを考えながら、少年は痛む後頭部を庇うように、座席に深くへたり込んだ
「よし、到着」
しばらくの走行の後、武部が明るい声で言った
「ようやくですね」
秋山も嬉しそうな表情で同意した
「五十鈴さん、お疲れ様」
西住が労いの言葉をかけた
「はい、なんとなくコツが掴めてきました」
五十鈴の表情にも、いくらか自信がついたようだ
『皆、スタート地点に着いたようね』
Ⅳ号戦車の無線機から、到着してすぐに蝶野教官の声が聞こえてきた どうやら、他のメンバーは我々Aチームよりも先に目的地に到着していたようだ
『ルールは簡単、ガンガン前進してバンバン撃って!やっつければいい訳!分かった?』
蝶野教官のあまりにも単純すぎるルール説明に、一同は唖然としていた
『戦車道は礼に始まって礼に終わるの』
しかし、次の瞬間、教官の声は凛としたものに変わり、一同の背筋が伸びた
(そういや、これは武道だったな)
少年は教官の言葉を聞き自身の鼻を触り出血が止まっているのを確認すると詰めてあったティッシュを取り、自然と姿勢を正していた
『一同、礼』
『よろしくお願いします!』
少年を含めたⅣ号戦車のメンバー全員も、真剣な面持ちで頭を下げた
『それでは、試合開始!』
教官の合図と共に、4vs1の模擬戦が始まるのだった