「少年ー 洗濯物終わった?」
早朝の澄んだ空気の中、アイリスののんびりとした声が響く。学園艦の甲板から届く潮風を受けながら、少年――ジョンは物干し竿に最後の一枚を掛け終え、肩越しに振り返った。
「ああ、姉御 丁度終えたところ」
少年は短くそう返し、リビングへと戻る。しかし、そこで彼を待ち受けていたのは、あろうことか下着姿のまま、髪はボサボサ、ついさっき起きたと言わんばかりの「同居人」の姿があった。
「どうも……って、いい加減に服を着たらどうなの?」
「……下着姿のやつに言われても説得力の欠片もないな」
少年が呆れたように指摘する。はたから見れば、あまりに無防備で誤解を招きかねない光景。しかし、これは2人にとってただの「日常」に過ぎなかった。故に、互いに今の現状をあまり意識し合うことはない。
「…。朝食はできてるよ」
アイリスは特に気にする様子もなく、わざとらしく呆れたように息をつくと、テーブルを指差した。そこには、朝食にしては豪華なイタリア料理が並べられていた。
「いやいや、それ昨日俺がが作ったカチャトーラ 俺が作ったマリネ」
当然のツッコミが入る。並んでいるのは、昨日少年が作り置きしていたものであった。
「何をいっているの?パンをトースターで焼いてコーヒーを淹れたのは私よ」
アイリスが胸を張る。よく見ると確かに、コーヒーとパンからは焼きたての香ばしい湯気が立ち上っていた。
「それとも私の手料理食べたいの?」
彼女はいたずらっぽく指を鳴らしてそう言った。
「……遠慮しておこう」
彼女の「破壊的」な料理の腕を知っている少年は、素直に降参して席に着き、朝食をとり始めた。
「しっかし相変わらず見事な腕前ね」
「どうしたんだ突然」
「いや、前は朝食なんて全てコンビニだったんだけど」
「コンビニ…… って確かガソリンスタンドの併用している店じゃなかったか?」
少年の脳裏にあるのは、海外の殺風景なロードサイド店舗の記憶だ。
「……あなた行ったことないの 日本のコンビニは海外と違って種類も豊富で何でも揃っているのよ」
「……悪かったな 物を知らなくて」
「あなたも行ってみるといいわ 色々あって面白いわよ それに24時間空いてるし」
「……24時間 それはそれは ご苦労なこった」
朝食を終え、少年は深緑色のズボンが特徴的な大洗女子学園の制服に身を包んだ。一方、アイリスは地下室での「作業」に向けて、怪しげな機材や資材の準備を始めていた。
「少年。『行ってきます』は?」
玄関へ向かう少年の背中に、アイリスの声が飛ぶ。振り返ると、彼女は悪戯っぽく口元を歪めて笑っていた。
「……行ってきます これでいいか姉御」
「はい、いってらっしゃい」
どこか突き放したような、それでいて親密な挨拶を背に受け、少年はドアを閉めた。彼女の気配が遠ざかり、重い地下扉が開く音と、階下へ降りていく足音だけが残った。
「今日はどこで過ごすか……」
学校へと続く並木道。少年は一人、木漏れ日の中を歩きながら小さく呟いた。
彼は決して、教師に好かれるような勤勉な生徒ではない。必要最低限の授業には出席するが、それ以外の時間は校内の「聖域」を探して彷徨うのが常だった。
(まずは図書館で時間を潰すか。それとも、少し眠いから裏庭の木陰で昼寝でも……)
そんな不真面目な計画を練っていた、その時だった。
――ドンッ!
「!?」
「痛っ……!」
背後から突然、小柄な衝撃がぶつかってきた。何の気配もなく懐に入られたことに、少年は咄嗟に身構えてしまった。振り返ると、そこには自分より頭一つ分ほど背の低い少女が尻餅をついていた。肩まで切りそろえられた茶色のボブカットが、驚きでふわふわと揺れている。
「……悪い、大丈夫か?」
少年は彼女から一切の敵意を感じないことを悟り、落ち着かせるように手を差し伸べようとした。
「あ、あの……ごめんなさいっ!」
だが、少女は差し出された手を取るどころか、林檎のように顔を真っ赤にして、脱兎のごとく駆け去ってしまった。少年は伸ばした手を所在なげに空中に留めたまま、その小さな背中を見送る。
(何だったんだ、今のは……)
唐突な衝突。見覚えのない顔。今年になって転校生が来たと噂に聞いていたが、少年にそれを確かめる術はない。奇妙な違和感を覚えながらも、少年は重い足取りで校門へと向かった。
「いつも時間ギリギリね」
校門で待ち構えていたのは、腕に風紀委員の腕章を巻き、仁王立ちする女子生徒――園みどり子だった。定規で測ったかのようなおかっぱ頭。彼女の生真面目さを体現したようなその髪型が、朝の光を反射してツヤを放っている。
「どうも。毎日ご苦労なこった」
「そう思うなら、あなたも風紀委員に入りなさい。そうすれば、そのだらしない生活習慣も矯正されるわ!」
始まった。いつもの説教だ。
「悪いが、そんな髪型になるのはごめんだ。それに俺は、こう見えて無遅刻無欠席の模範的生徒だぞ」
「何が模範的よ! あなた、授業出席数も単位も赤点寸前の崖っぷちじゃない!」
彼女は憤慨しながら、手に持ったタブレットを少年の鼻先に突きつけた。画面には、彼の危うい出席状況が鮮やかな赤字で並んでいる。
「だが、その下の成績は、オールA、最高評価だ」
「そんなの関係ないわ! とにかく授業にはちゃんと出なさい! わかった!?」
有無を言わせぬ正論の嵐に、少年は肩をすくめる。
「……気が向いたらな」
「何か言った?」
「いや、何でもない」
鋭い視線から逃れるように、少年はそそくさと校舎の中へ消えた。
四限が終わり、校舎が昼休みの喧騒に包まれると、少年は人混みを避けるように屋上へと這い上がった。重い扉を押し開ければ、そこには遮るもののない青空と、水平線の彼方まで続く広大な海が広がっている。
「あっ、あの!」
隅のベンチに腰を下ろし、自作の携帯用食――レーションのような缶詰を開けようとした時、聞き覚えのある声に呼び止められた。再び気配もなく話しかけられたことに驚き、少年は即座に振り返った。そこに立っていたのは、今朝の茶髪のボブカットの少女だった。
「……確か、今朝の……」
「あっ、今朝は本当にごめんなさい!」
少女は勢いよく深々と頭を下げた。丁寧すぎて、こちらが恐縮してしまうほどだ。
「いや、こちらこそ不注意だった。……ええっと、失礼だが名前は?」
「あっ、はい! 今年になってこちらの学校に転校してきました!西住みほです!」
キビキビとした、けれどどこか自信なさげな返答。
「西住さん、か。俺は――」
「ジョン・N・ウォーカーさんだよね? 誕生日は7月20日…」
自己紹介を遮るように放たれた言葉に、少年は文字通り固まった。
「……驚いたな。名前はともかく、誕生日まで把握しているとは……」
「えっと、いつでもクラスの人と友達になれるように、全員の顔と名前、誕生日は覚えておこうと思って……」
西住みほは、顔を赤らめながらも健気に理由を説明した。そのあまりの真面目さに、少年は毒気を抜かれる。
「それはそれは。……それで、何か用か? 今朝のことだけじゃないと思うが」
「あ、えっと、お昼ご飯、まだだよね?」
彼女は背中に何かを隠すようにして、じりじりと距離を詰めてくる。
「……よかったら、一緒に……ご飯、どうかな?」
消え入りそうな声。けれど、その瞳は必死だった。少年は周囲を見渡す。人気のない屋上。
「……他のクラスの誰かと食べればいいんじゃないか?」
率直な疑問を投げかけたが、彼女が視線を泳がせた瞬間、ジョンはすべてを察した。転校して一週間。既にグループができあがったクラス。内気な彼女がその輪に飛び込むのは、かなりの勇気がいることだろう。
「……俺は構わないが」
「えっ、いいの!?」
ぱあぁ、と花が咲くように彼女の表情が輝いた。
「別に屋上は俺の私有地じゃないからな」
少年がそう言いながらベンチの端に寄ると、彼女は嬉しそうに隣に腰を下ろし、ビニール袋からサンドウィッチと牛乳を取り出した。しかし、少年はその袋を見て眉をひそめる。
「……」
「ええっと、どうしたのかな」
西住が不思議そうに少年に尋ねた。
「いや、それは購買で買った物なのか?袋のデザインが少し違うような……」
「ううん、これは今朝のコンビニで買った物だよ」
西住は少年に、袋にプリントされたロゴを見せてきた。
「コンビニ…… 」
「……もしかしてコンビニ知らないの?」
「いや、コンビニエンスストアのことだろ だが知人の話では日本のコンビニは違うと」
「日本のコンビニ?」
西住は首を傾げて聞き返した。
「ああ、海外生活が長くてな 海外のコンビニはガソリンスタンドの併用している場合が多かったが、知人の話では日本のコンビニはかなりちがうと……」
「そうなんだよ コンビニはすごいんだよ 24時間空いてるし、何でも揃ってるんだよ それに限定のスイーツなんて本当に最高なんだよ」
西住は目を輝かせながら熱弁し始めた。
「……そうか」
少年はその圧倒的な熱量に、そう返すのが精一杯だった。
「…… ああっ ごめんなさい 突然」
熱く語りすぎたことに気づき、彼女は慌てて縮こまった。
「いや、それよりコンビニってそんなにすごいんだな」
「うん、今度一緒に行こうよ」
「ああ、考えておく」
そして二人は、静かに昼食をとり始めた。
2人は昼食をとり、屋上から見える地平線を眺めて、海風に当たっていた。
「結構いい場所だろ、ここは」
「うん! ジョン君は昼休み、いつもここにいるの?」
「(ジョン君、か)……天気が悪い日以外はな」
いつの間にか「君」付けになった呼び方に苦笑しながら、ジョンは隣の少女を見つめる。彼女の瞳には、初めて見る景色の感動がキラキラと宿っていた。
「転校して一週間、だったな。……まずは武部さんあたりと話せばいい。彼女は誰にでも分け隔てなく接するタイプだ」
「武部沙織さんと……?」
「ああ。、新しい友達が欲しいって言ってたぞ。俺みたいな躁鬱気質より、ずっと馴染みやすいはずだ」
「ええっと、そんなことはないと思うけど」
西住の瞳に、かすかな希望の光が宿る。
「……あ、そうだ。西住さん。いい機会だから一つ忠告しておく。この学校の生徒会には――」
ピンポンパンポン――。
不吉なチャイムが、ジョンの言葉を遮った。
『普通一科二年C組、ジョン・N・ウォーカー。至急、生徒会室に来てください』
「……噂をすれば何とやら、か」
少年は深くため息をつき、天を仰いだ。
「あの、ジョン君?」
「西住さん。この学校の生徒会とは関わらない方がいい。君の平穏が天国になるか地獄になるかは、彼女たちとの距離で決まる」
「えっ、そうなの? でも、もうすぐ授業が……」
「この学校では生徒会の命令は絶対なんだ。何故そんな権限があるのかは不明だがな。……とにかく、自分勝手で面倒なことは全部人任せ、それが実態だ。巻き込まれたら最後、ろくなことにならない」
少年の辛辣な言葉に、西住は不安そうに首を傾げた。
「じゃあ、ジョン君は生徒会と関わりがあるんだ…」
「……好き好んでじゃない。……っと、時間が無いな。西住さん、教室に戻ったほうがいい」
立ち上がった少年に、西住が慌てて声をかける。
「あっ、あの! ジョン君! 今日、一緒に帰れるかな? もっと話したいことがあって……それに帰りにコンビニに……」
その期待に満ちた瞳を前に、少年は一瞬言い淀んだ。
「せっかくで悪いが、生徒会に捕まるといつ解放されるか分からない。……話はまた明日でもいいか?」
「うん、わかった。じゃえね、ジョン君!」
大きく手を振って走り去る彼女の後姿。少年はその光景を見送りながら、ふと足を止めた。
(まさかな……気のせいか)
脳裏を掠めた、説明のつかない奇妙な既視感。ジ 少年はその違和感を振り払うように頭を振り、処刑場へと向かう足取りで生徒会室の重い扉に手をかけた。
次回もプロローグになります。