ピノコニ―での騒動後、呆然自失の最中「夢境の案内人」からメールが届いて……?
▼『崩壊:スターレイル』より、星(女性主人公)× 花火 です。

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五尺万華鏡

 夢の地、ピノコニ―。

 夢のような一夜が過ぎ、茫然自失のまま数日が過ぎ去った。

 

 本来ならば既に開催されていた筈の『調和セレモニー』は()()()により延期され、参加者には事態収拾まで暫くの間ホテル内にて待機、という名の軟禁が強いられている。

 

 だが私は開拓者だ。

 大いなる開拓の意志の前には、如何なる障壁もルールも破られるために存在している――。

 

 どうやら界域アンカーは問題なく利用できるようで、以前訪れたことのあるアンカーならば行き来することが可能であった。見上げても遥か先まで客室が並ぶピノコニ―の宿泊客が、たった一人姿をくらましたところで大した問題にはならない。はずである。

 

 薄暗い客室の中に籠っていても気分が落ち込むだけなので、各地を巡り気晴らしを試みた。

 

 ベロブルグを訪れ、ドスクロのフック様の秘密作戦に参加した。

 羅浮を訪れ、青雀に『帝垣美玉牌』を習った。

 夢境を訪れ、行き交う人々の感情を操作してみた。

 

 どこへ行こうとも、何を行おうとも。

 ――それでも、あの一夜の情景が、思考の隅を汚して拭えなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 それは、歩き疲れたため列車へと帰り、ソファに腰を据えていた時であった。

 チロン、と聞きなれた音が聞こえ、反射でスマホを取り出す。

 広い星海を電子の体で飛び回り、一通のメールがやってきた時の着信音である。

 

 宛名は――

 ……ふざけている。

 

――――――――――――

 

 「ひさしぶり!」

 「最近夢境で見かけないけど、どうかしたの?」

 

 ふざけないで

 それだけは、あんたは私にするべきでなかった

 

 「どうしたの?あたし、なにか悪いことしちゃったかな?」

 

 そんなものに騙されない

 花火、悪趣味な真似はやめて

 

 「えーっ!これなら騙せると思ったんだけどな!」

 「葦毛ちゃんって、思ったよりも疑り深くて面白くない!」

 「もう少しユーモアを覚えられないの?」

 

 少なくとも、あんたよりは面白いよ。あんたの冗談は笑えない

 

 「ひど~い!花火だって花火なりに頑張ってるのに!」

 「笑えないのを花火のせいにするのはいいけど、そもそも最近笑ってないんじゃない?」

 「だめだよ、笑わなきゃ!笑顔で居る事がいっちばん愉しいことなのに!」

 「花火が笑顔になれる方法、教えてあげよっか。葦毛ちゃん?」

 

 必要ない。あんたなんかに教わりたくもない

 

 「遠慮しなくていいのに!」

 「じゃあこうしよう――花火は『黄金の刻』のピノコニ―大劇場前で待ってる。葦毛ちゃんと初めて()()()場所だよ~!」

 「覚えてるよね?」

 

 私はいかないよ。あんたの期待外れだったね。

 

 「来るよ、葦毛ちゃん。楽しみにしてるね!」

 「来なかったら……おかしな時計の像を爆破しちゃうかも!」

 

 △メッセージの送信に失敗しました。

 △このアカウントは削除されました。

 

――――――――――――

 

 「そんな脅しは通用しない」

 打ち込んだ返信は、届くことなく星海に消えた。もっとも、届いたとしてこの言葉に大した意味は見出すことができないであろう。

 

 はぁ、と大きく息を吐き、画面から顔を離す。

 どうやらスマホを持つ手に力を入れていたらしく、手汗がじっとりと浮かんでいた。

 

 彼女――花火は『愉悦の愚者』と呼ばれ、宇宙から危険視されている存在のひとつである。

 愚者たちは『愉悦(たのしいこと)』を求めることこそが本懐であり、その為ならばどのようなこともやってのける。勿論、悪い意味でだ。

 ナナシビトも愚者とは因縁があり、過去には列車に忍び込み、内側から爆破するという()()を挙げられたこともある。

 

 列車の過去もそうだが、個人としての因縁も浅くない。

 初対面では()()()()()に扮して接近し、夢境の奥、整備のなされていない危険な地帯に落とされた。仮に親切なメモリキーパーの助けが無ければ、こうしてぼんやりと列車のソファで物思いに耽ることもなかっただろう。

 その後も、ピノコニ―で行動する際には何かと彼女が絡むことがあった。

 知らぬ間に目を付けられてしまったのであろうか?

 

 とにかく、言えることは。

 愚者と関わってもいいことがない、ということである。

 

 

 どうやら、それなりの時間動きを止めていたようだ。

 列車の留守をしていた丹恒が、いつの間にかコーヒーを淹れて持ってきていたらしい。傍らに設置されていた机に、既にぬるくなったカップが置かれていることに気が付いた。

 心配をしてくれているのだろうが、声を掛けずにいてくれる所が実に彼らしい。

 

 ぬるいコーヒーを喉に流し込むと、ほぅと温かい息が溢れた。

 先程まで無意識にしていたように、少し顔を上げ天井の鯨を眺める。

 

 ――行くべきか、行かざるべきか。

 

 確かに、あの夜以来まともに笑えていない気がする。仮に笑顔を上手く見せられていたとしても、笑ってはいないと断言できるだろう。心にひびが入り、元の形を取り戻せないでいる。

 もしも彼らにその痛みを和らげる方法があるとすれば、それを利用してやるという手も捨てられない。ただし、上手い様に騙され使われるだけの可能性が高いことも事実だ。信用するなんて以ての外である。

 

 「どうしよう……」

 

 頭で喋ったはずだったが、音として出力されたことに驚いた。自分がこれほど、傍から見れば答えが簡単なはずの問いに悩むとは。

 両手の手のひらが自然に後頭部へ置かれ、強く頭を抱えるような体勢になる。

 

 どうせ悩むぐらいなら、いっそ――

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 凄惨な事件が発生してから、数日。

 『黄金の時』は依然変わりなく、人通りの絶えない賑やかな場所である。しかし、初めて訪れた時よりも確実にハウンド家の数は増えており、底冷えするような緊張感を感じる。

 仮にもセレモニーの招待客が、こんなところを普通に歩いていて良いのだろうかと頭をよぎった。しかし特に咎められる事も無いところを見るに、ファミリーは夢境内ならば確実な管理ができる、とでも言いたげな自信があるのだろう。

 

 ……結局、この地に足を運んでしまった。

 おそらくこれは罠であり、これから痛い目を見て後悔することになる確率の方が高い。しかし、仮に敵の群れの中に放り込まれようとも、銀河打者の実力は見せつければいいだけだ。自慢のバットと一緒ならば、どこへだって開拓していくことができる。

 そう自分に言い聞かせ、歩を進めた。

 

 

 そうこうしていると、どうやら目的地付近に到着していたようだ。遠くに見えるピノコニ―大劇場は未だ燦然と輝いており、主の不在を感じさせない。この場所へ来るのは久しぶりの感覚だが、外面は特に大きな変化は見られなかった。

 行き交う人々の姿も変わらず、せいぜい順通りに開催されなかったセレモニーに対しての不満や不信、根も葉もない噂話なんかが囁き声で聞こえてくるだけだ。

 

 ふと、花火が行ったのは「場所の指定」のみであり、「時限の指定」が無かったことを思い出した。スマホを取り出し会話の履歴を確認するが、確かに場所の指定がされているだけである。これでは、正しい場所に何日居れば良いのかもわからない。

 

 (折角来たところだけど、日にちも時間もわからないならしょうがないし……。帰ろうかな。)

 

 そう思い、踵を返して歩き出そうとした瞬間。

 振り返るために引いた左肩に、重い衝撃が走った。

 ただ痛みは無く、振り向き際に近くを歩いていた人とぶつかってしまっただけのようである。

 

 いくらなんでも気が散漫とし過ぎだ、と自省しつつ、唐突に体をぶつけられた憐れな通行人に一声かけるべく目線を移動させる。

 相手はどうやら私より少し背が高く、すらりとした細身のようだ。独特な服装とアシンメトリーな青い髪が特徴的で……。

 待った。

 

 「サン――」

 

 言い終わる前に、自分が床を眺めていたことに気が付く。

 またか、また同じような手に引っかかったのか。

 

 「ああ!お得意様を騙すような真似はあまりしたくなかったのですが……こちらにもやむを得ない事情がありまして。どうか、恨まないでくださいね――」 

 

 視界が不明瞭になっていく中、聞きなれた声の聞きなれた言葉がぼんやりと通り過ぎる。

 嗚呼、どうしてここに来るという選択肢を選んでしまったのだろうか。どうして物思いに耽り、周囲を警戒することを怠ったのだろうか。どうして『愉悦の愚者』と関わろうとしてしまったのか。どうして、どうして、どうして――

 自責の言葉も、意識と共に泡となって消えた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 目が覚める。

 

 まずは状況の整理からだ。ここがどこで、私はどの場所に飛ばされたのか。

 そう思い見渡すと、どうやら場所はホテルの客室――それも自分が元々居た客室とそっくりであり、私は室内のドリームプールに浸かった状態、つまり夢境から醒めたところだと見受けられる。だが、これが夢境の中の似たような景色であり、夢境から脱していない可能性も捨てきれない。

 

 もっと情報を集めねば――そう思いドリームプールから身を起こそうとした時、左半身に違和感を覚えた。それは重み、誰かが肩を寄せているような負荷のように感じるが……まさか。

 

 それが何を意味しているのかは、目を遣らずとも理解することができる。

 彼女が、花火がそこにいるのだ。

 

 反射的に振り払おうと腕を動かしたが、上手く力が入らないのか、彼女の細腕で絡め取られ満足に動かすことが出来ない。

 全身の体重を遣って腕を引き抜こうとした所で、肩越しに愉悦の表情を浮かべた彼女が愉しそうに口を開いた。

 

 「おはよう!葦毛ちゃん。良い夢は見られたかな~?」

 

 腕を引っ張るが、依然抜け出すことはできない。

 彼女は目尻と口角をさらに上げ、

 

 「あはは、そんなに逃げ出そうとしなくてもいいのに!花火は葦毛ちゃんをユッケにして食べたりしないよ~」

 

 と、さらに愉しそうに続ける。

 腕が拘束されている現状では、逃げるにしても抵抗するにしてもままならない。先ずはこの腕を何とかしなくては。

 

 「とにかく、腕を離して」

 

 現状力ずくではどうすることもできないため、ダメ元で説得を試みる。

 

 「ああ、腕を離して欲しかったんだね!抵抗されなかったから、気に入られてるのかと思ってた。いいよ~、放してあげる!」

 

 相変わらずの挑発的な表情のままそう言った後、ぱっと腕が解放された。

 「抵抗されなかった」という言い回しが気になるが、まずは行動を起こさなければ。

 自由になったと同時にドリームプールを飛び出し、相棒のバットを探す。対等に会話するためには、まず武力が無ければ始まらないからだ。しかし、見渡す限りに相棒の姿はない。

 

 「武器を探してるの?それなら……花火が隠しちゃった!花火たちのおはなしに、そんな真面目なものは必要ないからね~」

 

 それならば、ここは一先ず逃げるべきだ。愚者と二人きりで密室、それに抵抗の手段が存在しない現状は、一方的に殴打されるプーマンと何ら変わりがない。

 急いで出入り口のドアへ駆け寄る。しかし、そのドアが開くことはない。

 

 「残念だったね~、逃げられないみたい!もう観念したらどうかな?」

 

 何度もドアノブを動かそうと試みるが、最初からただの飾りであるかのように動作をすることがない。体全体を利用した体当たりも、たいして効果が見られない。

 

 そうしている間にも、彼女は妖しい笑みを浮かべ、とんとんと軽快な足音を立て距離を詰める。

 彼女と壁との距離はどんどん狭まり、追いやられていく。

 何かないのか、抵抗する手段は何か、何か、何か何か何か

 

 ドンッ

 

 とうとう壁際まで追いやられ、遂には逃げ場を無くしてしまった。

 人一人分ほどあった距離も一気に詰められ、もはや体全体が接触する間際まで接近している。

 半ば強引に両脚の間に右脚を割り込まれ、右手で左腕を壁に抑え込まれる。

 彼女の方が一回り身長が低いのにも関わらず、いたずらっぽい顔で見上げる彼女の威圧感に圧倒されてしまう。

 

 「ねぇ葦毛ちゃん、いい事教えてあげよっか」

 

 彼女の顔がぐいと近づく。

 花のような甘い、而して頭がくらくらするような危険な香りが鼻腔をくすぐる。

 

 「葦毛ちゃんはずっと、逃げられないよ~って頑張ってたみたいだけど……花火は何もしてないよ。ただ腕に軽ーく抱き着いていただけ、ドアもいつだって開閉できる」

 

 そんなはずはない。彼女が掴んでいた腕はがっしりと拘束されていたし、ドアも建付け自体が大幅に狂ったかのように動くことはなかった。

 

 「じゃあ、どうして抵抗できなかったんだと思う?」

 

 彼女の口が耳元に近づく。温かな吐息が耳を撫でる。

 

 「葦毛ちゃんがそれを望んだから……だよ」

 

 一瞬の沈黙の後、それが何を意味するのかを理解した。

 顔が、いや全身が真っ赤に加熱していくのを感じる。

 

 「ち、違う!私はそんなこと望んでいない!」

 

 震える声で言い返すが、紅潮と共に視界が潤み瞼が痙攣し、思考が白く染まる。そんな、得体のしれない相手に、期待なんてするはずがない。あってはならないのだ。

 彼女の嘲笑うような笑い声が何度も聞こえる。聞こえるたびに胸から全身に熱い血が流れ、全身から力が抜けてしまう。

 

 「花火はね、他人の心の奥深くの感情にちょこ~っとだけ刺激を加えることが出来るんだよ。刺激を加えると、抑えられていた感情が少しづつ膨らんで大きくなって……もう限界だよ~!ってなった時には『バン!』って溢れ出ちゃうんだ!」

 

 彼女の左手が、右脚の太腿に触れた。五本の指の腹が柔らかに密着し、円を描くようにゆっくりと鼠径部を目指して伝う。指が動き肌と擦れるたび、背筋に電撃が走り呼吸が乱れてしまう。

 

 「つまり、葦毛ちゃんは心の中に「うぅ~負けたいよ~、委ねたいよ~」っていう感情があって、解放されるのを待ってたってこと!」

 

 「そんなこと……」

 

 「あはは!そうやって抵抗した方が、自分自身を気持ちよくできるもんね~!」

 

 高笑いをしながら、彼女の太腿に触れる手は激しさを増す。

 激しいながらも、繊細さを感じる指遣いについ声が漏れてしまう。

 

 「葦毛ちゃんはこれを望んだ……つまりこれが『愉しい』と思ってるってこと!だから、我慢しなくていいんだよ?もっと愉しく、一緒にもっと愉しくなろうよ!」

 

 部屋中に彼女の笑い声が響く。ゆっくり鼠径部を目指し伝ってきた指が、スカートの裾をまくり秘部に到達しようとしていた。

 とうとう足腰に力が入らなくなり、壁伝いになよなよと地面へへたり込んでしまう。

 それを見た彼女も膝を折り、今度は見下すように話を続ける。

 

 「賢い人は、感情を隠すことこそが正しい行いだと信じてる……だけど、それは本当に賢いことなの?自分に噓をついて蓋をするなんて、演技の幅を狭めるだけ。感情も信念も欲望も、全部を利用して全身全霊演じる事こそ『愉しい』ことなのに!」

 

 「どうして、どうしてあんたは私に目を付けたの」

 

 上擦った、荒い呼吸交じりの声で、抱えていた疑念を捻り出した。

 現状、彼女は身体的及び精神的苦痛を与えてきているわけではない。いや、考えようによっては精神的苦痛であるのだが。少なくとも、これまでバットを交えてきた相手とは違い、生命を害する意思を今の彼女からは感じられない。

 

 そもそも、彼女は何故わざわざ私を呼び出したのかが理解できないのだ。

 来る可能性の低い誘いをし、反撃される可能性がある状況を自分で設定した。

 打算的な性格をしているからこそ、そこまでして得られるメリットは、まさか自身の欲を満たすことのみとは考え難い。

 

 「うーん」

 

 一瞬、考えるようなポーズと空想するような顔になったが、すぐにいつもの細く鋭い、挑発的な表情へと戻った。

 

 「ひとつめは……花火と似ていると思ったことかな!」

 

 「私が……?あんたと似てる?」

 

 いったいどんな部分が似ているというのだろうか。

 こんな、何を考えてるのかわからない存在と一緒にされたくはない。

 

 「そう~!花火も葦毛ちゃんも、本当の自分を知らないけど、それはどうでもいいって思ってるところとか……『今』を愉しむための選択を惜しまないところ!」

 

 確かに、私は自分の過去を知らない。興味がないと言えば嘘になるが、過去の私と今の私は別の存在であって、考慮に含むほどのものではない。

 選択を選ぶときに、後悔の無いように選択をしていることも確かだ。それが『愉しい』と思うためかは一考の余地があるが。

 

 「ふたつめは……」

 

 ジャカジャカと口頭によるセルフドラムロールを挟んだ後、

 

 「花火と葦毛ちゃんは違うっていうところ!」

 

 と言い放った。

 

 一つ目と二つ目の理由が矛盾している。

 似ているから気に入っているはずなのに、違うから気に入っているとは?

 

 「……どういう意味?」

 

 「葦毛ちゃんは花火とは違って、舞台上で踊る主役を演じなきゃいけないの。星核を宿したその身で世界を救ったこともあるから、宇宙中に名が広まってる……もう舞台裏には来れないよね?」

 

 力が抜けだらんと投げ出していた脚の上に、彼女は跨る様に座り込む。

 両腕が首を包み込むように伸び、優しく体重が掛けられる。

 お互いの距離が再び近くなり、傍から見れば抱き合っているように見えているだろう。

 

 「花火はね……悲しくて苦しくてつらいのに、それを()に出せない葦毛ちゃんを見かねたの。主役が何も表情の無い仮面を被ってた舞台に立っていたって、味気ないだけだよね?舞台に上がるなら、ドラマティックに演じなきゃ!」

 

 「つまりあんたは……私を心配しているの?」

 

 「えへへ、葦毛ちゃんがそうだと思うなら、そういうことでいいよ~!」

 

 おそらく、心配などしていないのだろう。表立って行動する私が意気消沈してしまっている現状に、何かしらの()()()が生じているのか。それとも、今媚びを売って後で何かを求めてくるのか。

 

 だが今は、その軽い言葉が妙に心地よく聞こえてしまった。

 素直な励ましの言葉よりも深く、自分の心の傷に寄り添うような感覚を感じてしまったのだ。

 

 こんなことはいけない、だがこう思ってしまった。

 心が熱く滾り、喉に突っかかる想いの塊を吐き出して、楽になりたい。

 愚者でもいいから、感情を相手に委ねたい――

 

 直後、視界が急激に狭まる。

 一瞬の出来事に頭が混乱する。

 

 呼吸が止まる。

 前髪が前髪と触れる。

 香りが頭を通り抜ける。

 体全体が密着する。

 

 ――やわらかい唇が、触れる。

 

 先程まで部屋中に響いていた声や吐息が止まり、静寂に包まれる。

 彼女が呼吸するたびに当たる暖かさと、唇に触れる柔らかさのみが、まるで世界の全てかのように感じる。

 

 呼吸が苦しい。だが、離れたくない。

 気が付けば、無意識に手を彼女の腰に回していた。

 

 反射的にぎゅっと瞑ってしまった目を、おじおじと開く。

 彼女はずっとこちらの様子を窺っていたのか、しっかりと目が合ってしまう。

 その底の無い深い赤で染められた瞳には、夜空を舞う蝶を連想させる。見つめているだけで、心の内から彼女に吸い込まれてしまいそうだ。

 

 

 快感と動揺、そして言いようのない悲しみが頭に流れる。

 彼女と目が合う度、彼女の息が触れる度、彼女の唇を感じる度。

 複雑で多様な感情が心を掻き乱す。

 

 涙が、止め処なく溢れ出して止まらない。

 

 

 ――どれだけの時間、唇を重ねていたのだろうか。

 とても長く感じていたが、実際はほんの数秒だったかもしれない。

 

 塞がっていた口が解放され、呼吸が楽になる。

 不足していた酸素を取り込まんとする激しい息遣いが、静寂の室内で交わり合う。

 

 溢れ落ちる涙が止まらない。

 私は何故、この涙を流しているのか。

 

 呼吸を荒くしながらも、先に口を開いたのは彼女だった。

 

 「……やっと会えたね、葦毛ちゃん」

 

 呼吸音が響く。

 

 「『花火』はそんな、素直な葦毛ちゃんに会いたかったんだよ!」

 

 呼吸音が響く。

 

 「ねぇ、花火とのキスはどうだった?愉しかった?」

 

 呼吸音が響く。

 

 「もしかして……ファーストキスだったりして!もしそうなら『花火』も嬉しいな~!」

 

 呼吸音が響く。

 

 散漫だった思考が、ゆっくりと元の形を取り戻していく。

 元の形を取り戻していく程、羞恥、後悔、快楽、絶望、安心……そして哀惜が混じり合い、涙として流れ出す。

 喉奥が締め付けられるように痛み、声にならない声が漏れだしてしまう。

 

 饒舌な彼女はいつもの笑みを浮かべ、何も声を掛ける事無く様子を窺っていた。

 

 「――あの日の事を、今でも後悔している。もっと他にできることはなかったのか、あと少しでも時間があれば救えたんじゃないか……そんな選択肢の事を考えてしまう。あの時、ブラックスワンは私に責任を感じる必要はないといったけど……それを信じることが出来ない」

 

 呼吸を整えながらゆっくりと繰り出した言葉は、自分でも驚くほど長尺で心中を語るものとなってしまった。普段は無口なのだが、珍しいことをした気がする。

 

 「「葦毛ちゃんは悪くない」なんてセリフ、ほんとは聞きたくないんでしょ?でも、『花火』も葦毛ちゃんを悪いとは思わないよ。危機的な状況に陥った時、最善すべきは自分の身を守ることだしね~。それができてるだけでも、葦毛ちゃんは凄いんじゃないかな」

 

 本当に花火はそんなことを言うのだろうか。一瞬そんな疑問が浮かんだが、聞き心地の良い言葉を前にして、浮かんだ疑問は過ぎ去った。

 

 「それでも葦毛ちゃんが自分を認められないなら……」

 

 彼女は両手を指が交差するように組み、手のひらをこちらに向けた。

 その手のひらを、依然として涙が溢れ続けている目元を覆い隠すように被せ、続ける。

 

 「……『花火』が仮面を被せてあげる!」

 

 視界は彼女の手のひらで埋まり、何も見ることが出来ない。

 しかし、手のひらから伝わる熱と見通すことのできない暗闇に優しく包みこまれ、妙な安心感を覚える。ずっとこのまま、彼女に身を委ねたいとさえ思ってしまう。

 

 沈黙が流れる。

 だが、それは心地よい沈黙であった。

 

 「私は……あんたとなら、どんな舞台でも演じられる」

 

 口から零れた言葉が何を意味しているのか、放った後に気が付いた。

 だが、それを訂正するつもりはない。

 

 「ほんと?えへへ、葦毛ちゃんが花火にそう言ってくれるなんて嬉しいな~!」

 

 一瞬彼女の笑顔が赤く紅潮したように見えたが、気のせいだろう。

 

 「でもね、葦毛ちゃん。『花火』と一緒に過ごす、なんてことはできないよ。花火は誰にも縛ることが出来ない……『花火』にもね!」

 

 首に回された腕の力が緩み、直感でそれが立ち上がる動作をしようとしているのだと察知する。

 思わず、彼女の腰に回していた腕の力を強め、強く抱きしめた。

 

 「はぁ、本当に葦毛ちゃんはかわいい~!『花火』もずっとこのままで居たいけれど……もう時間が来ちゃったみたい」

 

 部屋の外から、何者かが近づく気配を感じる。

 今の今まで忘れていたが、ここはやはり現実世界の自室で間違いないようだ。

 

 「それじゃあね、葦毛ちゃん。今日は愉しかったよ!」

 

 嫌だ。こんな中途半端な感情で別れるなんて、嫌だ。

 

 「正直来てくれないと思ってたけど……来てくれて嬉しかったよ」

 

 待って。もっと色々なことを話したい、聞かせて欲しい。

 

 「『花火』は葦毛ちゃんの事が好き!今度は花火に葦毛ちゃんを好きにさせてね!楽しみにしてるよ~!」

 

 とん、と軽く触れた唇に、反射的に目を瞑ってしまった。

 次に目を開くと、そこには静寂に包まれた部屋が残されていた。

 

◇◆◇◆◇

 

 あの日――花火に呼ばれ、花火に落ちた日から既に数夜が過ぎた。

 

 扉に迫ってきていた気配の正体は、同じ列車に乗るナナシビトのヴェルトのものだった。

 彼女が消えた間も無くドアがノックされ、部屋の外にバットが置かれていることに違和感を覚えた彼が、どうやら鍵すらかかっていなかった部屋に突入し、入口付近で呆然と涙を流していた私を発見した――というのがその後の流れらしい。

 

 らしい、というのも、彼女が去った後の記憶がいまいち曖昧になってしまっていたのだ。

 ただ一通り落ち着いた後、列車組にあの夜起きた出来事――大切な友達を失ったことを、事実だけではなく自分の感情を交えて打ち明けた。

 各々が各々の反応を見せていたが、皆優しく受け止めてくれた。

 

 ピノコニ―での激動の一日で付いた心の傷は、未だに癒えきっていない。

 しかし仲間を信じ、なによりも自分の心を信じて打ち明けることで、抱えている荷物を分担でき、少しでも前に進めたのではないだろうか。少なくとも、その一点ではあの日の出来事に後悔を抱くことはない。

 

 ただし、新たな悩みも生じてしまった。

 以前までは常に「あの夜の光景」が付きまとってきていたが、それに加えて「あの日の情景」が頭にこびりつき、離れなくなってしまっている。

 

 結局あの日以降、彼女と接触することはなかった。

 本来であればそれでいいはずなのだが……心の中で、残念に思う自分が存在している。

 あの日の――彼女との事を思い出し、悶々とすることも少なくない。

 

 列車のソファに深々と座り、ぼんやりと天井の鯨を眺め、はぁと大きく息を吐く。

 

 「やっぱり、愚者と関わってもいいことがない……」


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