OVERLORD:The Invisible Watchmaker 作:Stormgren
▼かくて立つ、無明樹海の女王(1)
おとぎ話の中の
誰もが美しく、歌うように話し、足音もなく舞うように歩く。弓を射れば百発百中。魔法に明るく、古の伝承に通じ、芸術にも造詣が深い。木々と暮らし、動物を友とし、ときには精霊や竜とさえ心通わす。……ほとんど半神的といっていい、浮世離れした描写ばかり。
でも現実のエルフは、マシな暮らしをしていても〝森の蛮族〟といったところ。
たくさんの氏族が小さな隠れ里に分かれて、自分たちより強い亜人や魔獣に怯えながら、息を潜めて森で暮らしている。洗練された文化だの文明だの、そんなものはお目にかかったこともない。どこの世界とも知れない優美なエルフ像を描いた、氏族長の家に伝わる古い
大昔の誰かが理想を盛りに盛ったのであろう物語とは、似ても似つかない現実。
そんな暮らしでさえ、必死に守っていても突然に失われるのが、この世界の残酷な
メイラス・レッドゴールドの世界が変わってしまったあの日。
何の前触れもなく氏族の里に攻め込んできた
逃げる者は投石や魔法で殺され、立ち向かう者は拳や棍棒で叩き潰された。
メイラスの両親も里を守ろうと戦ったが、一矢報いることすらできず。氏族長である母は頭を食いちぎられ、戦士長の職位に就く父は棍棒で
放心していたメイラスが我に返ったとき、半日で滅びた故郷は既に遠く。
巨人の国へ運ばれ、同じ境遇のエルフたちとともに、冷たい石の牢獄に繋がれていた。
もう、三年前のことになる。
大陸中央の一角、巨人国ブロジンラーグにおいて、
かつては単なる食糧だったが、手先の器用さと御しやすい弱さを買われ、あるとき奉仕種族へ
聖地ヨグノスの神託がどうの、巨神王の慈悲と叡智がどうの。メイラスの
――人間種よ、弱きものよ、おまえたちは
メイラスは慣れた。この吐き気を催す支配者たちの理屈に。それを延々と聞かされながら、仕事の手を止めず、合間に相槌を打ってやるという
だが己の惨めさだけは、決して慣れも忘れもしなかった。
人間種は、ただ弱いから搾取される。弱いから好き放題
気まぐれに
何が悪かったのか。どうすればよかったのか。
巨人たちの奴隷に落とされ、餌を見るような視線に怯えながら生きてきた三年間、その問いはメイラスの頭の片隅でぐるぐると回り続けた。
隠れ里をもっと見つかりにくい場所に移動させておけば――二十歳にもなっていなかった小娘が、どうやって里のみんなを説得できた?
巨人に対抗できるだけの軍備を整えておけば――あまりに非現実的。たとえ里の住人全員が戦士としての訓練を積んでいても、結果は同じだっただろう。
ああしておけば――こうしておけば――思いつく方法すべてに根本的な不可能性が立ちはだかる。そうして最後に、投げやりな自虐とともに思うのだ。
おとぎ話と違って、現実は優雅でも神話的でもない。
エルフなんて
里が滅びた日と同じくらい、何の前触れもなく転機はやってきた。
「よい報せだ。
仕事を終えて帰宅した主人が、上機嫌で語った言葉。
奴隷にそんなことを聞かせても仕方がないのではないか――と訝りながらも、メイラスは追従の言葉を返す。主人の機嫌を損ねて良いことはない。
「お、おめでとうございます?」
「それも、ほとんど私個人の外交成果としてだ。殺すばかりが軍人の能ではないということよ。グフフ……これは上位将軍への昇進も視野に入ってきたのではないか?」
メイラスの主人は、ただの
巨人国ブロジンラーグに十二人しかいない中位将軍のひとり。
衣食住に不備なく、実力と理知を兼ね備えた高位の武官。奴隷の主人としては〝当たり〟の部類だろう。実際メイラスも、同じ家で飼われている他の奴隷たちも、飢えたり
が、それは彼が人間種の奴隷を巨人と対等に扱ったり、ましてや家族の一員と看做したりしていた――などという意味では決してない。
中位将軍アーレスは奴隷たちに対し、常に絶対的上位者として振る舞った。巨人国の偉大さ、巨人という種族の強さ、それらを劣等種族に啓蒙する
もっとも、そうでなくともメイラスは彼を赦さなかっただろう。
三年前、レッドゴールド氏族の隠れ里を滅ぼした〝労働資源回収部隊〟。その指揮を執った憎むべき仇こそ、誰あろうこのアーレス・アルペイガースだったのだから。
「メイラス。わが忠実なる奴隷よ。おまえを手に入れて三年……これまでよく働いてくれたと思う。
その忠勤に報いようではないか。明日、おまえに最後の仕事を命じる。
「えっ?」
忠勤に報いる。最後の仕事。
もしや、奴隷の立場から解放すると言っているのか――メイラスの胸中で、期待とも不安ともつかぬ感情がざわつく。
巨人国の奴隷制は高度に整備されており、所有者が正式な手続きを踏むならば、人間種であっても解放奴隷として自由の身になることができる。
むろん、そのまま巨人国に留まれば、別の主人を見つけて奴隷に再就職するしかない。人間種に市民権はないのだ。本当の意味で自由を取り戻すなら、国外へ出て生き延びる手段を模索する必要はあるが――その困難を差し引いてもなお、氏族の仇にお国自慢を聞かされ続ける日々から脱け出せると思えば、誘惑の大きさは心を揺らすに足りて余りある。
メイラスは感謝の意を表すように跪き、深く頭を下げることで、およそ感謝とは程遠い陰惨な微笑を隠した。
「ありがとうございます、ご主人様。これまでの御恩に報いさせていただきます」
明日で、この屈従の日々が終わるのだとしても。
そのまま逃げ出すわけにはいかない。氏族を守ろうとして散った父母に、里の戦士たちに、祖霊に顔向けができない。
――せめて、最後に一矢は報いなければ。
少女の中には三年前からずっと、ひとつの
他国の要人との会食で給仕を任されるというのは、当然ながら最も容易に毒を混入できる立場であるから、〝誰より信用できる者〟として指名されるにも等しい。
三年間ひたすら従順に尽くしてきた甲斐あって、アーレスはすっかり自分のことを信用し切っているらしい。好都合だった。これならきっと、上手くいく。
突然巡ってきた、最後にして最大の好機。こうした機会に備えて仕入れておいた
〈
できるならば、氏族の仇であるアーレスにこれを盛ってやりたい。百度でも死ねるほどの量を。しかしメイラスは、
レッドゴールドの里を滅ぼした部隊の指揮官は、確かにあの男だった。だが、軍人である彼にそれを命じたのはブロジンラーグの国家機構である。
無力な人間種を狩り集め、奴隷として・食糧として・繁栄の礎に供する。強者として生まれ付いた種族が当然の権利と信じるもの、この傲慢こそ真の仇ではないか。
これを滅ぼさなければ――できぬとしても、あたう限り大きな傷をつけてやらねば――理不尽にすべてを奪われた同胞の恨みは、晴らされまい。
一人を殺して満足するには、メイラスの怒りは大きすぎた。
ゆえにメイラスは、機を待っていた。巨人国に最大の損害を与えるために。
脱走奴隷の地下組織や、国外の勢力とも渡りをつけて、毒のほかにも様々な手段を準備してきた。魔法武器、
皮肉にも、その才能を開花させたのは他ならぬ彼女の仇だった。
高度な教育を受けた裕福な主人のもとで奴隷として暮らす歳月は、エルフの隠れ里では決して学べないような知識と教養をメイラスに与えていたのだから。
中位将軍アーレス・アルペイガースと、
氏族にとって直接の仇であるアーレスには、あえて一滴の毒も盛らない。メイラスが狙うのは、相互不可侵条約の事前調整にやってくるという使者の方だ。
使者の毒殺未遂。そうなれば当然、会談どころではなくなる。不可侵条約の話は白紙に還り、両国の関係も劇的に悪化するだろう。うまくすれば、
第三者の工作を疑われぬよう――事実としてそうなのだが――メイラスがその場で犯行を〝自供〟して、「ブロジンラーグ万歳」とか「偉大なる
いずれにせよメイラスは怒り狂った
劣等種族にも誇りがある。愛がある。
悲しみがあり、憎しみがあり、巨人に決して劣らぬ悪意がある。
傲慢なる上位者たちに、それを思い知らせてやるのだ。
翌日――二か国の軍事的代表者による、不可侵条約の予備交渉を目的とした会食。
会談の場となったのは、国境付近の街にある巨人向けレストランだった。
人種ごとの体格差が大きい
貸し切られた食堂。
そこに、メイラス・レッドゴールドの姿もあった。
「いじらしい
アーレスが大仰な身振りで嘆きを表明する。指先につまむのは、巨人からするとあまりにも小さい一本の瓶。メイラスが今日この場に持ち込もうと、調味料の中に紛れさせていた
「この私を、直に毒殺しようとしなかった自制心は見事。限られたカードで、敵に最大の被害を与えるための計算ができる。軍師の素質があったかもしれん」
巨人国と
皿の上で汗と涙と涎を垂れ流し、砕けた四肢の痛みに悶えるメイラスには、もはや報いるべき一矢も残されていない。彼女は悟ってしまっていた。
アーレスは最初から
氏族の仇である己に、メイラスが真の忠誠など誓っていないことも。隙を見せれば乾坤一擲の復讐を仕掛けてくるであろうことも。だから、油断し切っているふりをしてここまで毒を持ち込ませた。使者をもてなすパフォーマンスの道具とするために。
自分は、まんまと罠にかかった餌だったのだ――。
「いかがですかな、ゼ・バン殿。この者は、私が手ずから滅ぼしたエルフの里の、氏族長の娘。仇の奴隷となって三年間、ひたすら復讐の機を窺ってきたのです。
おお、涙ぐましき努力! 忍耐! 不屈の意志よ! 私はこの、ちっぽけな戦士の矜持に敬意を表する。
長い顎髭を揺らし、年老いた
「アルペイガース将軍、あなたもなかなかよい趣味をしていらっしゃる……食材を
粗暴な種族として知られる
身動きできぬようにされて、皿の上に
――罰なのだろうか。
巨人国にも民間人はいる。
メイラスはそれを良しとした。
巨人という種がすべてのエルフを奴隷ないし食糧として扱うなら、エルフもまた巨人族一般を
アーレス一人の命では足りない。巨人国そのものに、より多くの血を流させなければ。自分は感情に流されず冷徹な計算ができている。――そう思いたくて、ひとつの洞察に蓋をした。巨人国を首尾よく戦乱のなかに叩き込めたとして、もっとも多く血を流すのはきっと、メイラスが憎み切れない市井の人々なのだと。そんなことも解らない愚鈍を装った。
その結果がこれなら、あるいは因果が巡ってきただけではないのか――。
「将軍、このエルフは……好きな食べ方でいただいてよろしいのかな? 貴国の流儀に合わせた方がよければ、そうするが」
「どうぞ、お好みの方法でお召し上がりください。ナイフで食べやすく切り分けてもよし。徐々に削ぎながら悲鳴を愉しむもよし。ドレッシングはお使いになりますかな? 小骨が気になるようでしたら、棍棒をお貸しいたしましょう。叩けばもっと柔らかくなりますよ。もちろん、そのまま豪快にかぶりついても構いません」
「グフフ……次から次へと、涎が湧くようなことを仰らないでいただきたい」
命を捨てる覚悟とは、鋭く脆い刃のようなもの。氏族の無念すら利用され、自分は何もできずに死ぬのだと悟ったとき、メイラスの心は呆気なく折れてしまっていた。
弱肉強食。それが世界の理であるならば、しょせん人間種など、奴隷か食糧が似合いの下等生物に相違なく。
痛み。怒り。絶望。世界を呪う溶岩のごとく、熱い涙が溢れ、少女は嗚咽した。死ぬときくらいレッドゴールド氏族の誇りを保てと、己を叱咤する声は頭の片隅に追いやられて。ただ圧倒的な、どうしようもない後悔が、胸の内側で膨れ続ける。
「……い……や、だ」
折れたはずの心が、まだ何かに引っかかっている。
里の、氏族の、愛する両親の無念を晴らせず死ぬのだとしても。
憎き仇に出世の具とされ、
おとぎ話と現実の落差に失望し、世界の広さも、恋の疼きも知らぬままになるのだとしても――。
「嫌だッ! わたしは……!」
メイラス・レッドゴールドという少女の中で、最後に残ったむき出しの願い。
その言葉は〝生きたい〟でも、〝死にたくない〟でもなかった。
「生まれてきたことを、後悔するのだけは! ――嫌だッ!」
怒りでも、恐怖でも、絶望でも諦めでもなく。
少女の
願いを叶える星のように。
「――助けてあげようか?」
まったく聞き覚えのない声が、食堂の時間を凍らせた。
ゼ・バンの視線が横に逸れる。つられてメイラスの目も、その先を追う。
そうとしか呼べないものが、いつの間にか食卓に立って、メイラスの濡れた瞳を覗き込んでいた。