OVERLORD:The Invisible Watchmaker 作:Stormgren
竜の眼下に広がるは、朝餉の煙をたなびかせ、今日という日に目覚めゆく
規則正しく積まれた石垣。朝靄に白く映える漆喰。要所に建つ、小屋をまっすぐ幾重にも積んだような望楼。
色とりどりの瓦屋根に彩られた鮮やかな街並みは、こうして天空から見渡す竜たちの眼を楽しませるため、地上の人々が様々な趣向と計算を凝らした美観であるという。
竜は――ツァインドルクス=ヴァイシオンは、この景色を見慣れている。
しかし、幾たび見下ろしてもなお、
この早朝から道を出歩き、あるいは窓を開いていた町人たちの一部が、上空を飛ぶ〝
手を振る者。飛び跳ねる者。深々と頭を下げる者――
子を抱いて涙ぐむ女の、
彼らの声は遠すぎて、竜の耳にも聞こえない。
だが、口の動きを読むまでもなく、彼は知っている。人々が何と言ったのか。この地で自分がどのように呼ばれているか。
歓迎されているのだと、解ってはいても。
祈りが無形の鎖となって巻きつくような心地を覚え、
――相変わらず、この地の民の信仰は……重い。
白金の巨竜は、己の帰還を報せるように都市上空をゆっくりと周回し、それから北側に並ぶ尖った岩山のひとつへ翼を向けた。
都を挟むように六対、天を衝く灰白色の鋭鋒。
当地の神話によれば、それは世界の礎となった〝始祖竜〟の、化石に変じた肋骨の先端であるという。
ツアーにしてみれば、伝承が事実かどうかは疑わしい。しかし半神の如き力ある竜をして、自然の神秘を感ぜしめる光景ではあった。
そのような謂れある奇岩の中腹、竜王たちのために築かれた
岩肌を彫り抜いた
神代より生きる竜王の鎮座すべき天つ宮であるから、主殿は相応に巨大な建造物だ。
それでも、正面に開かれた
これはなにも、
随分と昔――自分がここで祀られる竜王の一柱となったころ――門を壊さぬよう、注意深く身を縮めて通ろうとして、当時の宮司に窘められた。そのことを、ツアーは今も覚えている。
曰く、『竜宮』の正門は
壊れた
老いた人間の男だった。戦う力など何一つ持たないような、脆弱きわまる生きもの。それが、竜帝の最後の継嗣たる〝白金〟に対し、まるで子供に言い聞かせるような口ぶりで説くのだ。目の前の強大な生命を恐れる様子など、これっぽっちも見せず。
ツアーは怒るでもなく、不敬を咎めるでもなく、ただ己の無知を正してくれた老人に感謝した。そういうものか、と頷いて。
門の破壊と修復を繰り返して喜ぶ彼らの心理を、真に理解できたわけではない。結局は金と労力を徒に費やす、無益な営みであろうとも思う。
けれども爾後、出入りの際にはいつも、正門を
件の老宮司は、とうに亡い。遠い、遠い日の記憶だ。
世界が変わってしまう前、未だ多くが失われていなかった頃の――
「〝紅炎〟様をお目覚まし奉れ!
思い出の情景は薄れて消え、朝靄にけぶる
いつものように、門を壊しながらの殿中入り。飛散する建材の破片をするりと躱し、凛と張った声で禰宜たちを走らすのは、一見すると人間の若い女。
纏う羽衣は竜の秘宝の一つ。もはや同じ物は作れない、失われた旧き魔法の遺産。
夏の夜空に似た濃紺の髪を、連なる二つの輪に束ねて留める、珠飾りの
女の上背は周囲の男たちとさほど差がなく、しかし首・肩・腰と流れる輪郭の滑らかさは、竜の目にも〝これはヒトの雌だな〟と瞭然に察せられるほど。
――と言っても、彼女は人間種
「やあ、斎王。長らく留守を任せてしまって、悪かったね」
やわらかな声でツアーが話しかけると、女はさっさと祭殿の奥へ向かって歩き出してしまう。少しばかり慌てて、竜王は四足で後を追った。
「無事のお報せを戴いてから、ずいぶん時をかけてお戻りになりましたのね?
拗ねたような女の顔と声。種の隔たりを越えて、機微な感情を読める程度には、ツアーと〝斎王〟の付き合いは長い。
「君たちがこの地を守っていてくれるから、安心して寄り道をしながら帰って来られたのさ。
なにしろ私がいなくなったと聞いた途端、喜び勇んで悪さを始めた輩が方々にいたものでね……少しばかり挨拶回りをして、
「まあ怖い」
ふふ、と艶っぽく笑う斎王。通りがかった禰宜の男がそれを見て、煙でも吹きそうなほどに顔を赤くしている。その反応を、ツアーは興味深く眺める。
おそらく人の尺度でも、彼女は美しいのだろう。魅力的なのだろう。
なにしろ、人間の男どもの反応ときたら、彼らの
「――グレン
「
翁の言いそうなことだ、とツアーは微笑した。そもそも武技が届く距離まで彼に近づける者など、人の世界にはいないと思うが。
生きている同族の中では最も古い知己となった老竜――〝
実際は傷どころでなく、敗れて死に瀕し、〝敵〟の手で生かされ――不気味なほど旨すぎる
主殿の奥、人の身長の数倍も高い段差を登った先。
本来は火山ならぬ岩山を縦貫する〝火口〟が、ぽっかりと
山の底から吹き上がり、遥か上方の円い空へ抜けてゆく熱気流。この先へ立ち入れるのは真なる竜王か、同格の強者だけだ。
斎王は西方でいう〝神人〟に匹敵する、超越者とも呼ぶべき破格の個であるが――彼女とて、〝紅炎〟の纏う灼熱に曝されれば、長くは生きられない。
「出迎えご苦労さま、斎王。ここまででいいよ。グレン翁には、私から話をする」
「……あとでゆっくりと、イツハにも土産話を聞かせてくださいましね?」
イツハ、というのは斎王自身の名である。禰宜や宮司たちの前で、彼女がこのような子供じみた物言いをすることはない。
露骨に甘えられるほど信頼を勝ち得たのだ、と喜ぶべきか。
自分のような小狡い竜にしか甘えられぬ彼女を、憐れむべきか――
惑うツアーを残して、斎王は来た道を戻っていった。
「……さて。――グレン翁、私だ! 戻ったぞ!」
気を取り直し、ツアーは翼を広げて〝火口〟の底へと降りてゆく。深く、深く。
陽も届かぬ山体の内奥である。本来ならば暗いはずの大空洞は、しかし赤熱する岩に下方から照らされて、明るい。
どれほど下ったか――見えてくるは縦穴の最深部。
煮えた溶岩の地底湖に身を浮かべて、一頭の巨大な赤竜が微睡んでいる。
途方もない巨体であった。人から見れば充分に巨竜と形容し得るツアーよりも、なお三倍近く大きい。
熔鉄の輝きを宿す赤鱗と、老いても隆々たる筋骨に、刻まれた数多の古傷。八欲王やその眷属がつけた傷ではない。もっと古く――〝紅炎〟が竜帝の懐刀であった時代、全盛期の竜族が始祖なる
ツアーの見るところ、どうやら禰宜たちの〈
どうあれ、同族にして
「おお……よくぞご無事に戻られました、
無傷も同然で戻られたということは……此度の〝ぷれいやー〟どもには、快勝なされたのですかな? それにしては、長く消息を絶っておられましたが」
グレン翁の巨体がただ在るだけで放つ熱は凄まじく、同じ竜王でさえ至近距離には近づけない。
翼を広げ、離れた空中に留まりながら、ツアーは己の師にして腹心たる古竜へ語りかける。
「ちゃんと話すよ。いろいろと、相談して決めなきゃいけないこともあるからね――」
語った。
大陸中央に出現した雲塊はやはり〝ぷれいやー〟の拠点であり、彼らが災いを成す前にと、最速での奇襲を敢行したこと。
死力を尽くして戦ったがなお及ばず、虜囚の身で生かされていたこと。
今代の〝ぷれいやー〟から奇妙な取引を持ち掛けられ、彼らの〝事業〟を監視する百年の契約と引き換えに、解き放たれたこと――。
途中からは驚きを露わにしつつ聞いていたグレン翁が、語り終えたツアーにまずぶつけたのは、静かで重い叱責だった。
「軽挙でしたな。……あまりにも」
まったく正しい。ツアーには返す言葉もない。
翁に事前の相談もなく飛び出してしまったこと、相手を見極めもせず殺しにかかったこと、端末でなく本体で挑んだこと――挙げればきりがないほどに、すべてが裏目に出た。
慢心、だったのだろう。八欲王が遺した眷属どもの討伐に明け暮れ、力を付けたつもりでいた。
これこそ最小の犠牲、最良の手段と信じて。〝今なら負けない、万事は勝てばよい〟と前のめりになって。
本当に討ちたかった仇は、もういないというのに。
誰より殺したかったのは、かつての戦いで何ひとつ守れなかった、
結局、自分はまたしても敗れた。それも最初から最後まで、手心を加えられて。
こうして生還できたのも、奇襲を受けた〝ぷれいやー〟たちがこの地を巻き込んだ苛烈な報復に出なかったのも、ひとえに
一歩間違えば……新たな〝世界の敵〟を、第二の八欲王を、自分の愚行で生み出してしまうところだった。
臓腑が凍るようなその可能性にツアーが気付けたのは、囚われた不可解な空間から釈放され、外の世界が
戦いの中で、自分が死ぬ覚悟は済ませていた。そのためにひとりで出陣もした。――だが、滅びるのが
「力を持つ者は、その力の揮い方に注意を払い、また行いの結果に責任を持たねばならない……ワシらは教えたはずですぞ。あな、嘆かわしや……。
憎き〝ぷれいやー〟どもに感謝するなど業腹の極みなれど、此度はそうせねばなりますまい。
「ああ……彼らとの契約については、真摯に取り組むとも。
ここへ戻ってくる道中にも、端末を一体送って、彼らの仕事ぶりを見てきたところさ。あれが今後も続くのなら……そう……悪くはないと、思えてしまった。
――けれどグレン翁、あの〝ぷれいやー〟たちを
「
ツアーがまた感情に流されて判断を誤らぬように、との気遣いか。わざとらしいほど強い口調で、老竜はぴしゃりと断言した。
「あまりに不気味。どう考えても、真の意図を隠していると見るのが自然……
なればこそ、あなたは奴らの望み通りに〝監視者〟の役割を全うせねばなりません。奴らの真意……本性……そして弱点。それらが奈辺にあるのかを見極めるためにも、あえて懐に深く入り込むのです。
ワシの身体が満足に動けば、お役目を代わって差し上げたかったのですが」
「これは私の失態が招いたことだよ……責めも役務も、私が負うのが筋だろう」
グレン翁は八欲王の時代でさえ、もう戦えないほどに傷つき、老いていた。
今もこうしてツアーの頼れる相談役ではあってくれるし、この地の運営を任せてもいる。しかしもはや、戦力として数えるわけにはいかない。
当人は「あと一度くらいなら、全盛期の力を絞り出してみせましょうぞ」などと気張っているが――それをさせれば、彼は死ぬだろう。
だから、ツアーはひとりで戦うしかない。これから先もずっと。
竜帝の仔。呪われし血の宿命。誰にも頼れないと、覚悟したはずだ。
……それとも、
――お前はもうひとりで戦わなくていい。
あのカレルレンなる〝ぷれいやー〟がぬけぬけと言い放った台詞を、なぜか可笑しさと共に思い出す。
もし……自分たちが疑うような〝真の意図〟などというものはなく、彼らが本当の善意であのような展望を語っていたのだとしたら。
「ばかなことを……運命は既に決まっている。あの日、私が、自分で選んだ。
彼らが真に善き〝ぷれいやー〟なのだとしても……
誰に聞かせるでもない言葉だった。
だが、瞑目したツアーの脳裏に、定かならぬ彼方からの
《ふふふ……御立派ですよ、
此度の〝ぷれいやー〟たちが、真にそのようなお人好しであるなら……貴方が正しく導き、大義のための礎となってもらえばよいではありませんか》
絡みつくような、
ツアーはグレン翁に視線をやった。老竜は皺と傷だらけの顔を盛大にしかめている。彼にも聞こえたのだ。
ならばこの〝声〟はツアー個人ではなく、
「盗み聞きとは趣味が良くないな、〝
《ええ、ええ。御免あそばせ。
嫌味たらしい口ぶりだが、これも正論だ。ツアーは元々、この声の主――〝真言〟の推し進める
必要とされるものは竜帝の血筋。代えは利かない。十中八九、勝手に先走って死にかけた話まで聞かれていただろうから――盗聴の是非はともかく――向こうが自分の妄動を責めたくなる気持ちは、ツアーとて理解できる。
「……あの〝ぷれいやー〟たちが仮に、世界を汚す存在でなくても……貴女の計画を蔑ろにするつもりは、私にはない。そこは、安心していい」
《ホホホ! 素晴らしいですわねぇ、流石は
もし、件の者どもを討たねばならぬときは――
それでも足りぬとあれば……我らが教団の信徒を、いつでも、御身の贄と――》
「やめろ!」
敢えて考えないようにしていた〝奥の手〟に言及され、ツアーの顔が歪んだ。
「そんなことはしないし、させない。ただ戦って勝つために、一切の手段を選ばなくなれば……今度は私たちが、世界を汚す者に堕するだろう。
《お優しいこと……》
多分に
《その強き御心こそ、
運命ですよ――さきほど御自分で、そうおっしゃった通り。星の巡りのように、すべては定められているのです。
ツァインドルクス、貴方は正しい……御父上の為されたことは、息子が責任を取らなくてはねぇ……?》
幾度となく聞かされ続けた言葉を残して、〝真言〟の気配は消えた。
もっとも、まだ盗聴されている可能性は排除できない。話の続きは後日にすべきか――思案するツアーの耳に、苦り切ったグレン翁の声が飛び込む。
「……毒婦め。八欲王の
「よさないか、グレン翁。彼女には……いろいろと、助けられてもいる」
あの女怪が陰口の一つ二つでへそを曲げるとも思えないが、わざわざ聞こえよがしに罵ってまで、余計な隔意を持たせるべきではない。
同族に疎まれがちな〝竜帝の息子〟にとって、組織力を有する協力者は貴重な存在だ。ツアー自身の目的を果たすためにも、互恵的な関係を維持する必要がある――少なくとも、
まったくもって、反りは合わない。彼女と話すたびに精神がささくれ立つ。しかし今日は少しだけ、いつもより気が楽だった。笑える余裕すらあった。
カレルレンの何も考えていなさそうな言葉を、また思い出したからだ。
――親の罪を子が償う必要なんかない。ないんだよ。
あると言ってくる奴がいたら、そいつはお前に汚れ仕事を押し付けたいだけのクソ野郎だ。
彼の
目的の違いや、日ごろの物言いに含むところあるとはいえ、ツアーも彼女をそこまでの卑語で罵倒しようとは思わない。カレルレンの意見に同意もしない。
けれど、そう――ほんの少し――愉快な心地には、なった。
「ふ……私たちは人間のように無責任ではないよ、〝ぷれいやー〟……」
竜帝の最後の仔として、責任を果たす。だがその相手は〝ぷれいやー〟ではなく、この世界の方だ。
すべてを救うことはできない。選べるのは二つに一つ。
ツァインドルクス=ヴァイシオンは、とうに選んでいる。
押し付けられたから、やるのではない。これが己の使命と信じればこそ、殉ずるのだ。
「あの戦いを……本当の意味で経験し、
もう誰も残っていない。マハナも、ジンも、トリシュ先生も。無様に生き残ったのは、私だけだ……
「ワシがおります、
「ああ、そうだね……グレン翁。父が消えた後、どこへでも行けた貴方が、こうして支えてくれることには感謝しかないよ。
けれど、貴方はもう戦えない――私が戦わせない。これ以上、喪うのは御免だ」
老いた赤竜は、
「僭越ながら、
我らの生は永くあれば、同族の先達も、定命の友も、みな先立ってゆくものです。それが、自然の定めたもうた摂理でもある」
「長く生きれば生きるほど、喪ったものばかりが増えてゆく……それが当然だから、受け容れて生きていけと言うのか?
ほんとうに皆、こんな虚しさに耐えているのだとしたら……すごいな。この世界は、心強き者たちで溢れている……」
この世の最強種たる竜でありながら、こんなことに悩み患うのは、きっと自分が弱いからだ。ツアーはそう思っているし、それは仕方のないことだと、どこかで諦めてもいる。
自分はそのように生まれて、生きてきた――いくら敵を屠っても、強大な魔法を身に着けても、心まで強くすることはできない。
「……無駄なぼやきを聞かせてしまったね。忘れてほしい。
そろそろ私はお
翼を翻し、火口へ昇ってゆくツアー。
去り際の背に、何かを悟ったようなグレン翁の声が聞こえた。
「なるほど……命は儚いと知ればこそ、竜は古来、財宝を求めるのやもしれませんな。
死せず、腐らず、輝きを失わぬ、不変の価値を……」