統率者の顔をした男の皮膚の下にはビリビリと冷たい血が迸っていた。
船内の空気が黒く断層する。男の苛烈が伝播する。悪党の焼け爛れる怒りは耐え難い。威圧された部下は屠殺される豚の顔をして冷や汗をダラダラと流していた。
もはやこのままでは使い物にはならぬ。聞きたいことを聞くためだけに赤髪は部下に手を伸ばした。とっぷりと暮れた穴のような瞳が炯々と迫る。誰もが息をのんだ。死の理不尽が吐息の感じるところまで迫っていた。縋れる神もいなかった。
「落ち着け。お頭」
分厚い手が赤髪の肩を掴んで制止した。重たい声は海の蠢く音に似ていた。副船長だ。助かった。…
そんな安堵がしみこむ前に哀れ霧散する。平静の薄皮を破って見え隠れする怒りがあった。瞳の中には鬼火がズルズルと這っている。噛み締めた歯の隙間から薄く出入りする吐息が震えている。
怒っている。これ以上ないほど。この男も。
ひび割れては噴き上げるマグマだまりの熱がある。よりにもよってこのふたりを同時に怒らせた馬鹿がこの海にいる!
「幹部はもう集めた。俺が説明する」
天気晴朗。波穏やかなり。母の羊水ほどの揺れの中、赤髪の部下は渦中の大馬鹿者がこの船の人間ではないことをただ祈った。
◾️
当該の配信映像を首尾よく入手したシャンクスは、そういう機械にでもなったように再生と停止を繰り返していた。この男の無言は水より重い。画面越しには実に十年ぶりの愛娘の姿があった。前のめりで食い入るように見つめていた。五体が揃っている。髪艶もいい。何より、笑顔だ。…
感慨に揺れる。昔日に沈む。眉間の皺は何も苦渋のためだけではなかった。
「──、──ッ……」
突如、映像がブレた。ノイズが走る。ウタの目線が初めて逸れた。画面外から腕が生える。
若い男のものだ。浮いた血管と飛び出た節は成長しきった枝葉のようだった。それが不躾に薄い肩を覆う。ウタはもうこちらを見ない。映像は忠実で平等、そして無常だ。
ウタはシャンクスを見つめ、笑いかけていた。彼女がそうと知らなくとも、シャンクスが画面越し、熱心に/愚直に/切実に見つめた分を返してくれる。シャンクスにとっては夢のような時間は、まさしく夢で巨壁の現実逃避でしかならない。
シャンクスは何もできない。当然だ。これは過去の一幕を切り取っただけの平面的なインスタントなのだから。繰り返す都度擦り切れる絡繰りでしかないのだ。
意志の熱が引いた目だ。瞬きが少ない。剣のように冷たく硬い視線であった。だからつぶさに、と言うよりはやはり機械的なそれ故に非情の宿るツラが固定されている。熱心に執拗さが加わる。撫で切るように苛烈な瞳だ。四方八方に飛び火しそうな激情を押さえつける冷徹には、一分の隙も存在しなかった。
おおよそ荒事には縁のなさそうな優男であった。シャンクスは銃口ほどに血生臭い目つきをして一部始終をひたとねめつけていた。画面の端から男にしては長い金髪があぶれる。陽光を砕く波しぶきの白に似ていた。つるりとした薄い皮膚にかかる細い沙糸。青い血管が透けて見えるのが何とも人間味を薄めている。ガラス細工の繊細な美男子ではあったが、それだけに薄気味悪かった。
髪は傷み知らずで青白い肌は粉っぽい。冷めた印象を受ける細面だ。海の潮臭さがない。しかし陸の健全とも違った。
錦絵に油彩の影が立ったような…人間の群れの中に足の生えた幽霊が混じっているような…そう言う類のちぐはぐな違和が背筋をズルズル登っているのだ。
表情の枯れ切った顔でシャンクスは抉るようにその男をジッ…と見ていた。すると突如、瞳がバチ! とこちらを見た。睫毛は針みたく上向いており、意志の強さが窺い知れる。
罪知らぬ瞳だ。悪党のするそれではない。少年時代の過渡期にしてはシンと凪いでいるが、澄み切った紫は椀の底みたく滑らかで何も見えなかった。
男の手が迫る。皮膚の薄く骨の太い掌が映像いっぱいに広がった。配信に気づいたのだ。ひときわ大きく横揺れしたのち、ブツ、とひと鳴きし──電伝虫は完全に沈黙した。当然、続きはない。シャンクスは映像電伝虫にもう一度手を伸ばす。これが何回目かなど、端から数えちゃいなかった。……
「お頭」
無骨な掌がやんわりと重なった。乾燥して分厚いそれは海の男の手だ。年月が層となり傷跡は固く盛り上がり/凹み、日に焼けた皮膚から滑らかさはとうに失われている。シャンクスがこの船で最も信頼している男の手であった。
「既に分析は終わっている。その配信映像から得られる情報はもうない」
ベックマンは努めて冷静を装い嗜めたのだと思う。声は硬質で無表情であった。だが瞳だけが煮え滾っている。その熱にくべられるものがある。そうだ。この男は本気で憤れば静かになる。落日に色濃くなる影のような…幼き日の記憶に何故か爪痕を残す船倉の薄暗さのような…根源的恐怖に訴えかけるざらついた目をするのだ。
「──お頭」
歯の隙間から薄く伸ばして空気を吐いた。掻き上げた髪が二房落ちる。
「十年前、あの日の選択に過ちがあったとするならば……それは俺たち全員の責任だ」
「なんだ、慰めてくれているのかベック」
シャンクスが映像電伝虫から手を外した。こめかみに脈打つ血流が意識にしこりとして残る。心臓の裏が冷たい。この男は至極冷静であった。怒りに冴えてゆくタチだ。これから自分たちが何をすべきかを知っている。
「心配いらない──ウタは必ず取り返す」
〝四皇〟赤髪がそう言った。
◾️
柔らかくて甘ったるい、幸せなだけの香りがする。誰もいないキッチンでパンケーキがひっくり返る。風を読んだ操舵輪がひとりでに回る。
この帆船は快適だ。傍目からは吹けば飛ぶ笹舟ほどに頼りなく見えるだろうが、この船の動力は何も風や波だけではない。目に見えるものすべてが真実とは限らず、外面を誤魔化す方法など、いくらでもあるのだ。不自由と制限だけを排している。何でも望めるこの船は、まるで魔法使いの城であった。
「──Teach us something please,Whether we be old and bald,」
皿がダイニングに並ぶ。潮騒がここまで届く。白く光る風だ。海も輝いている。陸で眺めていたときとはまた違う表情を見せてくれている。喜んでいる。祝福している。
「──Or young with scabby knees,Our heads could do with filling,」
聞こえる鼻歌はこの世界の誰もその名を知らない。
清潔で、無垢で、整頓された白い箱庭に流れる時間は至極緩やかだ。世界のどこにも接続されない完結した平和があった。
「──With some interesting stuff,For now they're bare and full of air,Dead flies and bits of fluff,So teach us things worth knowing,」
ぬるま湯のような安穏が皮膚の上を絶え間なく伝う。
皿に着地したパンケーキはハニーとアイスで着飾った。
「──Bring back what we've forgot,Just do your best, we'll do the rest,And learn until our brains all rot────…………」
この船に目的地はない。だが、終着だけは知っていた。
──この平和から孵化をする。ただ、その日を待っている。
◾️
船長と幹部が九人と一匹集まれば、地下にある薄暗い船室はあっという間に手狭となった。新世界の入り口にほど近い縄張りに船をつけて纜を渡した。当面の補給のためだ。穏やかな波が船舶の表面を叩いている。海の表情は海面と海底とでまるで違う。女のようなものである。海流は太くうねり水は黒い。こんなとき、世界に底なんてないのではないかと思う。
誰かが魚油で湿ったオイルランプの芯に火を灯した。それでぼやけたオレンジの光がボウとつく。輪郭も曖昧に手元だけを照らして揺らめいている。色が暖かいだけの亡霊みたいな火だ。その分濃い影が目の下と足元に落ちる。
スネイクがオイルランプをペーパーウェイト代わりに海図を広げた。
「件の配信があったのが今からおよそ二十二時間前だ」
地図の上のエレジアに赤いペンで丸をつける。数字と図式に落とし込めば何だか随分と小さく見えた。
「ほぼ丸一日、夜通し船を走らせていたとしたら既に偉大なる航路に突入していてもおかしくはない」
「──もちろん四つの海にいてもな」
ホンゴウが感情の薄い声でそう付け加える。
シャンクスがガタン! と四肢を放り投げるようにして椅子に腰かけた。海鳴りが脳みその血管に響く。シンとした沈黙は水より重い。手に余る怒りと殺意が心臓を動かしていた。
海の茫洋を恨めしく思ったのはこれが初めてであった。
「四つの海と偉大なる航路の前半での捜索は傘下に協力を仰ぐ。俺たちは新世界だ」
「……。いいのか? 新世界からエレジアまではそれなりに距離がある。第一、下手人が人攫いであったなら仮に行き先が新世界だったとして、辿り着くまでに売り飛ばされている可能性も──」
「ただの人攫いがこんな大胆な真似するかよ」
バチっ! と叩きつける声でシャンクスは断言した。グリフォンの柄を爪でカツ、カツと弾きながら海図をねめつけていた。ベックマンは目をクッと伏せて肩を竦め、顎を緩く傾けることで、その取り付く島もない言葉に諸を示した。
進路が決まった。海は荒ぶっていた。並大抵では鎮火せぬ怒りはすでに大火と育った。
「──エレジア近海のあの島は?」
「ダメだ。外れだった」
「南東に七十キロのあっちの島はどうだ。交易で成り立っている。奴隷商人の出入りも盛んだ」
「いやそこはすでに出入りする業者が決まり切っている。新たに参入する隙はねえ」
「じゃあ──」
「そっちも──……」
シャンクスは苛立っていた。今日だけの話ではない。もうずっとだ。喉がジクジクと焼ける焦慮を飲み下せないままでいる。この男は許容を超えた怒りには黙るタチだ。だから今はむっつりと石のように黙りこくっている。それはマグマが溜まるための準備期間で、嵐の前の静けさとやらであった。
「気分転換でもしてきたらどうだ」
気づけば隣にベックマンが突っ立っていた。薄暗い部屋から覗く押し入れの隙間みたいな瞳でそう言った。シャンクスはこの年上の副船長に甘えている節があるから、反射で噛みつきそうになり、しかしグウと押し黙った。ベックマンの目を正面からひたと見てしまったのだ。
彼の目の縁の薄い皮膚は赤く乾燥していた。覇気なく開いた唇からはドロドロと引っ切り無しに煙草の煙が逃げている。色男は草臥れたとて色男だが、ここまでらしくない彼を見たのは長い付き合いの中でも初めてであった。
フト、周りを見渡した。先ほどまでの、心臓に穴を空けるような際限ない焦燥の熱が少し遠のく。脳みそに冷たい風が一陣吹いたみたいであった。ひとりでグルグルと熱を滾らせていたから、自分の必死以外が目に入っていなかったのだ。途端、音と匂いと熱気の皮膚感覚が戻ってくる。地面に足がつく。現実の解像度が上がった。
シャンクスの自慢の船員は誰も彼もベックマンと似たり寄ったりのツラを突き合わせて方や意見を交わし、方や海図に線やら丸やらを書きこんでいる。凄まじい気迫だ。カタギの鉄火場は多分こんな感じなのだろう。社会不適格者のならず者たちが足りない知恵を寄せ果め、それでもこの広い海で一粒の砂金を探すがごとくのマラソンレースを繰り返している。
すでにあの配信から一日以上は経過していた。
「休息をとれ。あんたが一番酷い」
死人みたいなツラをぶら下げた副船長にそう言われて言葉を失った。俺はこれより酷いのか。いやしかし、この賢い男は概ね真実しか言わないので、多分そうなのだろう。
感情はウイルスみたいなもので、特に頭の不安定は伝播しやすい。円の内部を腐らせる。
組織としての脆弱を補強するのが副船長の仕事であった。
「……悪いな。外の空気でも吸ってくるよ」
「ああそうしろ。昨日島に船をつけたばかりだってのに閉じこもってばかりだろう。アンタがそれじゃ気味が悪い」
喉を鳴らして吐息だけでベックマンが笑う。歯の隙間からスーッと痛みを耐えるような顔で重たい煙を吐き出した。
◾️
シャンクスはひとりで船から降りた。グリフォンを腰からぶら下げ、あとは懐に金貨をとりあえず数枚突っ込んで、それだけの身軽な姿でふらりと下船したのだ。
いつもなら島が見えれば船員を数人捕まえ、我先にと降りては地酒を買い込んでいるのだが、どうにも足が向かなかった。別に今日に限っての話ではない。酒も気持ちよく酔えないのなら濁った水と変わらない。とは言っても略奪稼業で趣味は宴の専業海賊だ。シャンクスの知識は偏重しており、それで事足りてきた人生なのだ。ほかの娯楽はピンと来ない。しかし、ベックマンは少し休めと言った。息抜きでもして来いと。
足が止まった。途方に暮れる。わかっていたことだが重傷であった。焦燥や苛立ちを押し込めたとて平静を取り戻せるとは限らないのだ。現実逃避に向いている人種と向いていない人種がいて、人の上に立つ人間は大抵が後者でこの男も例に漏れずそうであった。
立ち止まってしまえば途端に現実の重さが身に染みる。取り繕った外面の脆弱が真に迫る。前を向いて歩き続けることに神経を割いていなければ、往々にして空いた脳内メモリが漠然とした不安を読み込みキリがない。
この男の前向きは美点であり欠点でもあるが、いかにシャンクスと言えど現状を楽観視するには後手に回りすぎていた。
「そこの人、大丈夫?」
清涼な声が差した。シャンクスはハッとして前を見た。そこには背の高い──ベックマンほどではないが──青年が立っていた。如何にも気づかわし気な表情が人畜無害を思わせる白い面の男であった。長い手足が光の滑る眩しい白シャツから伸びている。頬に垂れた男にしては長い金髪を薬指でなぞり、耳に掬い上げてかけた。シャンクスとはまた別種の目立つ若者であった。若さを滾らせた清潔な──生活感が希薄でさえある美しい青年だ。
「あ、あァ……道の半ばで立ち止まってすまない。別に怪しい者じゃないんだ」
「疑っちゃいないさ。けど気を付けたほうがいい。そのセリフは不審者の常套句だからな」
そう言うと柳眉の下がった顔で青年はふふ、と柔く笑った。ケレン味のない正直な言葉を使う若者だなとシャンクスは思った。度胸があるというか…飾り気がないというか……。
その親しみ深い振る舞いは青年の輪郭を明瞭にする。質感を現実に寄せ、人間味を持たせる。
光の束を流したような白い金髪/薄い皮膚の陶器肌/光の粒が浮いている水っぽい紫の瞳……それらが厚みを増して立体となるのだ。
美人画を眺めて緊張する人間がいないのは、それが現実のもではないからだ。しかし、鑑賞物であった彼/彼女が気まぐれに段差を一段降りて自分に近づいてきたならば、呼気があって人肌の温度があって微笑みがあることがわかるだろう。同じ人間なのだと気づいてしまう。途端、緊張やその他の要因で心臓に熱がこもる。頬が火照る。見られていることを何だかとても意識してしまう。居た堪れない。……
だからこの青年の見目にはそぐわぬ気安い態度は、却って彼をより魅力的に演出した。
長い睫毛まで金色だから、瞳の形がよく透けて見える。形の良いアーモンド型が愛想よく笑んだ。シャンクスをニコニコと見つめている。
「この島は治安もいいし食べ物も美味しい。息抜きには打ってつけだと思うよ」
「へぇ、それはいいな。何かおすすめでもあるのか?」
「ンん……、おすすめね。僕も現地住民じゃないのだけれど……それでも良いなら着いておいで」
強い風が海の方から吹いた。潮風は少しだけ重たくて分厚い。風がぶわりと入り込んで青年の白シャツが膨らむ。緩く前を開けていたから、白く光る腹筋の上にも風が滑るのが見えた。骨太の体格は傷み知らずの髪や肌とは裏腹に、それなりに鍛えられているらしかった。
背中を向けたその拍子に散らばる金髪が目に焼ける。多分、あの世の水先案内人はこんな風に白が似合うのだろうと、フト思った。
「酒屋がいいかな」
そう聞くともなしに呟いた青年は、シャンクスを港町にほど近い通りへと案内した。坂が多く道の狭い、日差しを照り返す乳白色のレンガ造りの街並みには、露店が横並びに敷き詰められており、呼び込みの声もけたたましい。
すれ違う人間の中には、人混みから頭一つ飛び出した赤い髪にチラと一瞥くれる者もいるが、誰も彼もが足を止めずそのまま通り過ぎてゆく。忙しないほど流動的で連綿とした人の営みがそこにはあった。
活気のいい街だ。多分、今日だけではなくずっと。
「ほらここ。現地の人に聞いたから間違いないとも」
人混みの間を風みたくスルスル抜けていた青年が足を止めた。露店と露店の境目、積み上げたレンガの壁を大きく割り貫いたようにしてその酒屋はあった。立てかけられた看板の縁は経年劣化で丸くなり、潮風に晒され続け水分を吸ったのか、でこぼこと歪に厚くなっている。文字は掠れて店名はほとんど読めない。老舗と言うよりは年季の入った酒屋であった。
「奥に樽が並んでいるだろう。あれ全部お酒らしいよ。この島の地酒は……あァ、これだ」
地面に直置きにされていた酒瓶の砂埃を軽くはたいて青年はそれを手渡した。青いびいどろから透けて見える酒は清酒というわけでもないのに、濁りっ気もなく揺れている。
シャンクスはそれを掲げて軽く振った。刺さった光が乱反射する。酒瓶を挟んで向こう側に立つ青年の、たっぷりとした金の睫毛の奥に沈んだ紫に、青みがかかって酒とともに揺らめいた。
「ああ。いいな、これ」
「それはよかった。店主を呼んでこよう」
そう言い残して奥を覗こうとする青年をシャンクスは「あ、」と口を開き咄嗟に引き留めた。
「……、……どうかしたのかい?」
「あ、いや名前……そう言えば聞いてなかったから。教えてくれないか」
何だか変に緊張してしまい、たどたどしく痞えた言葉を吐いた。四十路に片足突っ込んでいるのに、いや四十路に片足突っ込んでいるからこそ、言葉が硬くなってしまう。
普段ならば泰然と呵々大笑して肩のひとつでも組めるのだが、シャンクスはもうずっと自分のペースを見失っていたから。
波は満ち潮で黒い渦が激流をつくっている。怒りと焦燥に心臓を握られていたから、涼しい風にでもあたってこいと船を蹴りだされた次第なもので。
白い街に白い青年は美しく精巧な鑑賞物であった。ゆえに居心地が悪い。この赤い髪が、荒れた掌が、場違いに思えてしまう。ざらついた心が常日頃なら気にも留めないような繊細な違和感をいちいち堰き止めるのだ。
「名前……」と淡く呟いた。そして「名乗ってなかったか」とでも言うようにフ、と美青年は微笑む。睫毛の束が筆で刷いたように分厚く寝かせられた白く眩い微笑であった。
「ローレル……ローレル・レガシーだ」
「ローレルと呼んでおくれ」そう差し出された掌をシャンクスは緩く握り返す。彼の手は無機物みたくひんやりとしており、皮膚はやはり薄かった。すらりと骨が浮いて輪郭が角ばった器用そうな指先は、シャンクスの分厚い掌を包んですぐに離れた。
「それじゃあどうか──また会う日までお元気で」
酒を買って外に出れば、ローレルはお行儀のよい挨拶とともに、花弁が擦れるようなウィンクを飛ばし、人波を縫って金色の煙みたくスルスルと消えていった。日が暮れる。白い街と白い青年が遠のいてゆく。せっかく島に降りたにもかかわらず、酒を一瓶買っただけで終わった日は初めてであった。
見知らぬ街は絶えず動き続けていたのに、シャンクスは立ち呆けていた。水面で揺れるほどの浅い夢から覚めた心地だ。二度と振り返らなかった彼の背中は、談笑していたときよりも何だかずっと大きく感じた。
夕日が近い。影が差す。白い街が彩度高く染め上げられる。艶のあるレンガは乳白色の面影を残しながらキラキラと照り返している。この街の美しい色に再現性はない。振り返らない背中と同じでこの今日はもう二度と来ない。
赤い船に早く戻ろうと思った。息抜きになったかはわからないけれど、休ませてやりたい奴はたくさんいたから。
もはや街に人は疎らで、狭くて白い一本道が蛇の腹みたく港まで連綿と続くまでだ。白いレンガが沈みかけの光を吸って水平線まで一筆のその帰路は、黄金のようであった。白く、肌理の細かい金だ。まるで、彼の金髪のような。……
「金髪?」
港はもうそこにあるのに、フト立ち止まったのは看過できぬ違和感を見つけたからだ。悍ましい何かに足が生えてシャンクスの背中を一息に駆け上がった。何か、何かを見落としている。重大で、肝要な……シャンクスたちの進退に関わる物事の芯だ。
ひたひたとにじり寄るのは強烈なデジャブだ。最初からそこにあった分水嶺に唐突に躓いた。かけられた魔法は解けるものだ。白い街と白い青年が遠のいて、知らず侵食していた白が波引くように晴れてゆく。天使のふりした悪魔の表皮が剥がれ落ちる。美しく従順で清らかなだけのものは信用ならない。どうして今まで忘れていた!
仄白い金髪。白磁の肌。ひび割れひとつない指先。均整の取れた体駆。薄く角のない皮膚。
何より、パッと紫の花が咲いたようなあの美しい魔の目──……。
気づいた! 気づいてしまった! 何故気づかなかった!? 白い街のあの若者は配信に映り込んだ不気味な優男と瓜二つではないか!
シャンクスは元来た道を走り出した。白靄の晴れた先はただの荒野であった。今更ながらその輪郭が鮮明だ。一寸先すら盲いた間抜けを晒していた。怒りで血が燃える。慚愧に堪えない。この屈辱も憤りも後悔も、あの白首に刃を添えて晴らさでおくべきか!
壁を垂直に蹴り上げる。そのまま宙へと一息に駆け上がり、街全体を息詰めて脾睨する。
燃える赤髪は、地上からは点ほどの大きさで望めない。
もはやこの白い街の端から端までを掌中に収めたも同然であった。あの金色の得体の知れない悪魔に見聞色が何処まで通じるかはわからなかったが、兎にも角にもシャンクスはこれ以上ないほどの必死と全力をかき集め、目を皿にした。
「クソッ」
しかし、悪魔は白靄とともに消えてしまった。美しい街は美しいまま、あの男だけがいない。沈みゆく夕日の侘しさ、帰宅の途についた人々の匂い立つ気配。それらは日常の太い流れとなって過ぎゆき、いつも通りの一日が終わる。些細な変化は見落とされ、街の表情は穏やかなものであった。
港の片端に降りたシャンクスは、骨がキリキリと軋むほど右拳を握りしめ、ダン! と勢い任せに腿を打った。ついさっき、ついさっきなのだ。あの男と友のように語らい、そして別れた。目を離したのは一瞬だ。出会いを喜び、再会を匂わせ、小さくなる背中を惜しみ、幾許かの感傷に一日の終わりを予期し、──そうして我に返ったのだ。
知らぬ酩酊がいつの間にやら脳を触んでいた。過ぎ去るまでは敵であることすら気づかなかった。素面に戻るのは一瞬で、弄ばれた反動に怒りが動脈を波打つ。危険を冒してまで堂々赤髪の縄張りに侵入し、自身に接触してきたその理由すら、泥に沈んで掴めない。ただひとつ察しえることと言えば、十中八九──美男子の皮を被ったあの化け物はこの逃亡劇にシャンクスという鬼役を望んでいるということであった。
──海に濃厚な橙を溶かすように夕日が沈んでゆく。あとひと呼吸で一日が終わる。赤い竜の巨大船が目を光らせている中、その晩出港した船はついぞ確認できなかった。
◾️
この広い海で彼の聡明と機転と才能はあまりにも噛み合っており、いっそ悪魔的でさえあった。
白い帆船は緩やかに波を掻き分け進む。この船はいつだって揺りかごのようなもので、自然のご機嫌に左右されることはない。過ぎゆく時間はただ穏やかなだけでトロトロと流れゆく。
瑕疵のない平和だ。未だ誰にも脅かされない。
青年は甲板に出した白い椅子に腰かけ、その美しい金髪を日光で洗うようにして海を望んでいた。この辺りは強烈な磯の香りがしない。海産物が取れないのだろう。ただ穏やかな表情でそこにあるだけ。栄養のない水で満たされている。その価値は美しいことの一点のみだ。茫洋とした清潔な水たまりみたいな海であった。
青年は瞳を閉じる。船舶を叩く波が彼を緩やかに揺さぶる。潮風が薄い白シャツを膨らませる。荒波も向かい風も立たないこんな一日をもうずっと繰り返している。
もう一度瞳が開かれた。その二揃いの紫からは彼の心は読み取れない。湖の底のような目なのだ。臆病に陰ることがない。ゆえに起伏が伺えず、少しだけ、人間味から遠かった。
つい二日前、青年は久方ぶりに陸の土を踏んだ。食料調達のためでもあったが、停滞の栓を抜いてやるためでもあった。口実は何だって良かったし、どうでも良かった。だから彼は実のところ、進んで酒を嗜むことはあまりない。あの酒屋でも結局は何も買わなかった。青いびいどろの酒が美味しいかどうかも本当は知らない。いくつか用意していた口実のひとつを即興で披露したに過ぎないのだ。同行者も今のところは飲酒に興味ないようで、果物をいくつか選んでその日のうちに島を離れた。
赤い船の監視と警戒を尻目に出港した。彼らは港から舐めるように島を睥睨していた。数人の船員は船からも降り、島の周りをグルグルとぬらついた目で虱潰しに漫ろ歩いていた。
その挙動はまるで手負いの獣の様相であった。彼らの傷が何であるかは語るまでもない。血は流れ、あるいは膿み、ジワジワと嬲るように深くなる。
停滞は人間の敵だ。進歩のない閉塞は精神を削り、息の根を止める。少々行き過ぎた挑発ではあったが、硬くなった怒りに新しい油を注いでやったのだ。纜はとうの昔に千切れている。きっと終わりは近いのだろう。そのときを、青年たちは首を長くして待っているのだ。
◾️
すぐそこにあった憎らしい正鵠の首を飛ばせなかったのは、悔やみきれない失態であった。
レッド・フォースに急ぎ戻り、次第包囲網を張り巡らせたがもはや後の祭り。下手人は金の轍すら残さず露と消えてそれまでであった。
だが収穫もあった。幾許かの島民は、人目を惹くあの白皙の男を覚えていたのだ。男は大抵いつも一人で──稀に白磁に金を振ったような揃いの髪を背中に流した少女を連れ──街を遊山していたと言う。そしてこれも大抵のうちは、日が落ちきる前に岸の岩間につけた白い船に帰っていたとのことだ。
船は新品同然の小さな帆船で、いつの間にかそこにあり、誰も出港した姿を見ていない。薄気味悪く腑に落ちない話だ。
しかし、肝心の島民の口からは偶に疑問符の体裁を取った言葉がポロポロ落ちるのみで、真に迫る不安は見当たらない。ましてやその不気味と不調和に眉を顰める人間などいるはずもなかった。語らう口調はどこか腑抜けに誰も彼も柔らかい。それは苦々しいことだが、あの男の演出が上手いせいだ。
潔癖な美しさはいっそ神秘的でもあり、有無を言わさぬ説得力をそれは孕む。得体の知れぬ異邦の旅人、人の波間に唐突に現れ、瞬きの内に消えていった浅い夢の住人を不思議に思えど、誰もが不審には思わなかった。
万華鏡の仕組みを分解してただの絡繰りに引きずり落とす無粋など誰もしたがらないのだ。小賢しい若者だ。世界が滅多なことでは自身の敵に回らぬことを知っているのだろう。
「要するに足がわかったってことだろう。上等じゃねぇか」
ベックマンが言った。シャンクスは舌を打った。
「足しかわからなかったんだ。目と鼻の先の距離にいたにもかかわらず、だ」
「いいや進歩だ、お頭。少なくとも、昨日までのことを思えば。どの海にいるかも判明した。俺たちと同じ、新世界だ」
咥え煙草の煙は潮風に揺さぶられ流れてゆく。
あとは囲い込み漁の要領だ。四方の海に散らばった傘下に招集をかけ虱潰す。要するに、数の暴力であった。
「やっと枕を高くして寝れるじゃねえか。お頭」
そう軽口を叩くホンゴウにシャンクスはどちらが、と肩を竦めた。他人の苦労を俯瞰したような口調でシャンクスを宥めているこの男とて、今も落ち着きなく椅子に浅く腰を引っかけては右足を揺らさずにはおれていない。
普段なら船員の不摂生に船医としてお小言を飛ばす立場である以上、ついぞ酒にも煙草にも逃げられなかった男だ。気が気ではない状態を素面で幕無し昼夜を越えた。肋骨の囲いから心臓が逃げ出した気分であったことだろう。血の流れさえ乾いたようなツラをしていたから。
「──野郎ども、ここからが正念場だ。気合い入れろよ」
流れる血まで黒く燃やす大海賊どもの怒りはひとつの指向性を持って奈落を舐める鬼火と育ち切ったのだ。
鬼より怖い男の怒りだ。
海をも燃やす王の大炎だ。
それは、世界すらも脅かす悪党どもの海底叩く親心であった。
「オレたちの家族に手を出したんだ。落とし前は必ずつけさせる!」
皇帝が、そう宣言した。