「あはは……」
思い返す度に、乾いた笑いが込み上げる。
あの頃の私は、本当に、どうしようもないクソガキだった。
愚かで、間抜けで、ただ何処までもうぬぼれていて……。
「……ぁ」
電車内で笑ってしまった事で、周りに座っていた人の視線がふと私に注がれた。
私はそれが恥ずかしくなって、小さく縮こまる。
そして縮こまった事で、そんな自分が無性に情けなくなり、更に恥ずかしくなってしまう。
「……窓付き……私、結局こんな大人になっちゃったよ……」
誰にも聞こえないくらいの小声で、もう一度、愛しい彼女の名前を呼ぶ。
そして引き続き、こんな現実から逃げるように、窓付きとの出会いの日についての回想を続けていく……。
---
「…………」
窓付きは、何と言うか、無口な子だった。
全然喋らなかった。
自分の思いというものを全然口に出さなかった。
……しかし、その代わりに表情がとても豊かだった。
何かを感じているという事自体は、その表情を見るだけで、手に取るように分かるような子でもあった。
「あー、えっと、大丈夫。私の家、今は私しかいないからさ」
「…………そう」
この子はたぶん、母親に虐待とかをされている。
だから、他人というものが苦手なのだろう。
……子供の私でも、そのくらいの事は流石に推察出来た。
「この時間、私しかいないから。……大丈夫だからさ」
ぎゅっと、私は窓付きの手を握った。
「…………うん」
窓付きはぎゅっと、その手を握り返してくれた。
……その頃にはもう既に、窓付きは私を神聖視すらしていたんだと思う。
こんなに怖がりな子に、初対面で、いきなりこれ程までに信頼されている。
私ってもしかして、自分が今まで気が付いていなかっただけで、本当は凄い人徳を持っているのでは?
そんなふざけた気持ちでいたと思う。
……過去に戻れるなら、まずは私を、殺してやりたい。
---
「ほら、ここが私の部屋だよ」
「……そう」
言葉は淡々としているが、私の部屋に興味がない訳ではなさそうだった。
……というかむしろ、その目は宝石箱でも見るかのように、何処までもきらきらと輝いていた。
「ちなみに、窓付きってさ……、友達の家とか来た事あるの?」
「…………」
ふるふる。
「じゃあ、私が初めてなんだ」
「…………」
こくこく。
「へへ、そっか。なんかお姉さん、光栄だなー」
「…………」
それは、ただの確認だった。
先程の話が真実なら、この子は母親に虐められているせいで学校にすら行けていない。
つまり、私のような同年代の友達もいないのではないだろうか?
…そんな想像をして、それが当たっただけだった。
嬉しかった。
ワクワクしていた。
こんなに私を特別視してくれる子など、他にはまずいない。
私はもっと、この女の子の特別になりたくて、得意になって気を引こうとした。
「窓付きってさ、こういうの読んだことある?」
「なに、それ……?」
「小説。自慢じゃないけど、私って昔の文豪の小説とか見るの、結構好きなんだよねー」
……嘘だ。凄く、自慢だ。
「ない……」
「じゃあ、読んでみる?」
はいどうぞ。そう言って、私は本を手渡した。
「…………」
窓付きは、ひとしきり難しそうな顔をした後。
「……わかんない」
そう言って、悲しそうに本を返してくれた。
「どの辺が分かんなかった?」
「……ぜんぶ」
「全部って……、具体的に、どの辺?」
「…………ぜんぶ」
窓付きはそう言って、顔を俯かせてしまう。
……意地悪が成功して、私は後ろ暗い笑みを浮かべていた。
彼女は学校に通っていない。だから、その時の私は、この子には分からないだろうなぁとニヤニヤしながら、わざとそんな事を聞いていたんだ。
「全部って事はないでしょ。例えばほら、最初の数ページくらいは読めるんじゃない?」
「わかんない……。わたし、がっこう、いってない……」
「ほら、こことか、別に難しい漢字もないし、こんなの小学生でも読めるよ」
「よめない……。かんじ、にがて……」
「……え? マジ?」
……驚いたのは、本当だ。
本の内容は分からなくても、そのページの漢字くらいは読めると思っていた。
だってそこには、小学校低学年くらいの子でも読めそうなレベルの漢字しか載っていなかった。
……本当に、マジで学校に行かせて貰っていないのだなぁ。
そんな事を思っていた。
「じゃあ、漫画は読める? 例えばこういうの」
「……わかんない」
「分かんないかー」
私は相当なクソガキだったが……、その時ばかりは流石に、虚栄心よりも素直な憐れみが勝っていたように思う。
「じゃあ、テレビとかは?」
「……わかる」
「んじゃ、テレビ見る?」
「でも、いつもみてる……」
「あー、そっか。じゃあテレビも無しねー」
私は部屋を見渡して、窓付きにでも出来そうなものを探す。
この可哀そうな子を、私が楽しませてあげよう。
私のマウント欲求は、そんな方向へとシフトしていた。
「そだ、これとかいいんじゃない?」
私が手に取ったもの。それは、テレビゲームだった。
「なす?」
「……? 何で茄子?」
「だって、げーむ。だからなす、おちてくる……」
……当時の窓付きは、そのよく分からないゲームだけを、ゲームというものの全てだと思っていたらしい。
「よく分かんないけど、そのゲームじゃないよ。
これはRPGって言って、冒険するタイプのやつ。
たぶん、あなたが知ってるのより楽しいよー。
……どう、やってみる?」
「…………」
こくこく。
「じゃあ、やってみなよ。困ったら横からアドバイスしてあげるからさぁ」
「…………」
こくこく。
窓付きは、ただひたすらに目を輝かせていた。
そして、ただひたすらに黙々と、私が手渡したRPGゲームをプレイしていった。
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「…………」
何時間経っても、全く飽きる様子がなかった。
窓付きは本当に、私の家にあるRPGゲームを心から気に入ってくれていた。
……最初、私はそれが面白かった。
こんなに楽しそうにゲームをする子は初めてだったし、そのゲームは私の持ち物だったから、それが何だか誇らしかった。
けれど、私はやっぱり私だから、段々退屈に耐えられなくなっていった。
「……窓付きってさ、普段は何してんの?」
横から、そんな事を尋ねてみる。
窓付きは律儀に手を止めて、私の退屈しのぎに付き合ってくれる。
「……おしごと」
「仕事って、きゅっきゅって言ってた奴だっけ。それって結局、具体的に何してるの?」
「……きゅっきゅ」
「いや、だから……」
「…………」
もしかしたら、あまり聞かれたくない事なのかもしれない。
っていうかまあ、親にさせられてる強制労働の話なんてしても楽しくないか。
……そんな事を思った私は、空気が悪くなる前に、特に気にもせず話題を変えていた。
「じゃあ、どの辺に住んでるの?」
「……むこう」
窓付きは、窓へと向かって指を刺した。
「あー、あの辺りか。じゃあ、私とは学区は違うんだね」
「…………」
「……違うんだよね?」
「……わかんない。がっこう、いったことない」
……窓付きと話を弾ませるのは、最初は特に、大変だった。
「えーっと……。じゃあさ、仕事の時以外は、何してるの?」
「……さんぽ」
「へー、散歩かぁ。だからこの辺りにも来たんだね」
「うん」
「じゃあ、散歩以外は?」
「…………」
そこで窓付きは、言葉を詰まらせる。
躊躇いを見せて、だけど、私の目をじっと見る。
……今思うと、その時の私はいきなり、彼女の最も深い部分へと切り込んでしまっていた。
窓付きは、そんな私を酷く恐れ、警戒し……。
だけど、それでも彼女の中で何かが勝ったのか、恐る恐る会話のやり取りを続けてくれた。
「ゆめのにっき、かいてる……」
「夢の日記……?」
「うん。それを、まいにち」
「毎日!? それって、どのくらい前からやってるの?」
「……わかんない。ずっとむかしから、まいにち」
「へー」
その時の私は、珍しく、ただただ素直に関心していたと思う。
「凄いんだね」
「なんで……?」
「だって、日記なんて私、夏休みの宿題でもめんどくさいよ。
それをずっと昔から毎日書いてるなんて、意外とマメなんだねぇ、窓付きって」
……意外と、というのは余計な一言だ。
直ぐにこういう迂闊な事を言うから、子供の頃の私は、そこまで他人に敬われなかった。
……だから、窓付きだけだったんだと思う。
自分が見下されている事など露ほども気にせず、素直に照れて、顔を俯かせくれるような子は。
「……えへへ」
……とても可愛いと、そう感じたのを覚えている。
「夢日記って、何書くの? 今日の夢にはこんなのが出てきたとか、そういう感じ?」
「うん。きのうは、あかいにゅるにゅる、いた」
「赤いにゅるにゅる……?」
「てのぶぶんが、にゅるにゅる」
……窓付きのあの、ゆめにっきは、口で説明されて理解出来るようなものではない。
「めは、ぐるぐる」
「ては、にゅるにゅる」
「とおいとあかくて、ちかくであうと、くろくなる」
「くろくなると、ひとになる」
「もりとしろくろとの、あいだにいる……」
窓付きは頑張って説明してくれるが、私は当然、何も分かりはしない。
「へー」
だから私は、なんだかすっと面倒になって、適当な生返事だけを返していた。
「あ、そうそう。その先ボスがいるから、気を付けて」
「………………わかった」
一通り構って貰えて気が済んだ私は、再び窓付きをゲームの世界へと帰らせた。
窓付きは、何処か少しだけ話し足り無さそうにしながら、寂しそうにダンジョンの奥へと潜っていった。
---
「……ぽにこは、ふだん、なにしてるの?」
しばらくゲームを進めた後。
窓付きが私へと、逆にそんな事を尋ねてきた。
……思い返せば、彼女が明確に言葉で私へと話を振ってくるような事は、とても珍しい事だった。
きっと、気になってくれたのだろう。そのくらい、私という人間の事が。
「私? 私はとりあえず、普段は学校行ってるかなー」
「がっこう……」
「うん、学校ー」
「……たのしい?」
一体どんな気持ちで、それを聞いたのだろう……。
「うーん。まあ正直、あんまり楽しくはないかな」
「……そうなの?」
「うん。勉強したり友達を作ったりって、世間体的にはそりゃあ大事な事なんだけどさ。
それが本当に私の人生に必要かって言われたら、たぶんそれは、またちょっと別なんだよねぇ」
「…………?」
窓付きは、よく分かっていなさそうだった。
だから私は、彼女がそういう顔を浮かべる度に、得意になってわざと難しい事を言ってやった。
「……窓付き。実は私ってさ、その正体は風船なんだよ」
「ふうせん……?」
「そう。流石に知ってるでしょ。空に飛んでいく、あのふわふわしたやつね」
「……しってる」
ああ……、そうだったな……。
「私はね、あれと同じなんだよ。
……みんなの手に捕まえられているから、それが理由で、地面に留まっている」
「だけど本当は、空に飛んでいくのが私の使命」
「私はそういう人間だし、きっと、そういう風にしか生きられない。
だから私は、何時か、自由になりたいんだ」
この話をしてしまったのは、この時だった……。
「学校には、その自由はないんだよ。
……ううん、学校だけじゃないね」
「この家にも、この街にも、私の本当の自由はない。
親は金持ちとしてのしがらみばかりだし、私はこの街になんてもう、とっくに飽きてしまっている。
……だから、もう少し大人になったら私は、もっと本当に、私が楽しいと思える事をしたいんだ」
「誰にも縛られない、自由な生き方ってやつを、してみたいんだよ」
私は、どうしようもない嘘つきで……。
「……す……ごい……」
あの子は、どうしようもない程に純粋で……。
「……へへ。まあ、親とかにこんな事言っても、子供が何言ってんのって言われちゃうんだけどね」
私達は、どうしようもない程にズレていて……。
「……なれる……よ……」
「……え?」
「……ポニ子なら……なれる……とおもう……」
だけど、お互いが求めている言葉だけは、かけあう事が出来てしまって……。
「……窓付きも、そう思ってくれるかい?」
「うん……、うん……」
「……ふふ、そっかぁ」
だから……、それがあまりにも、嬉しかったから……。
「……ってか、私は思うんだけどさぁ。
人はそもそも、誰だってみんな自由なんだよ。
だから、お母さんも友達も、みんな難しく考え過ぎなんだよね」
「私は自由になりたいと思ってる。だから私は、自由になれる。
難しくなんて考えなくても、それで良い訳。
……そもそも、人なんてみんな、自分で自分を勝手に縛り付けているだけなんだよ」
得意になって、また、本当は何も分かっていない事を口にして……。
「……そう……なの……?」
また、窓付きに憧れられてしまう……。
「そうだよ。きっとね」
「……わたしも……そう……なの……?」
「……窓付きは、自由じゃないの?」
やめろ……、その子は、真剣なんだ……。
「じゃあ、私と一緒だ。
今はまだ、私達は自由じゃない」
「だけどね……それは、あなたも風船なだけ。
誰かに足を掴まれていて、だからたまたま、飛び立てないだけ。
だからそれは、本当の私達じゃないんだよ」
ああ……。
こんな適当に思い付いた話を、窓付きは一体、どんな思いで聞いていたのだろう……。
「……じゆう……」
ぽたぽたと、彼女は泣いていた。
それは、先ほど家の前で見せたような、激しい涙ではない。
けれど、きっとそれ以上に、彼女は心から涙というものを流していた。
「なりたい……。わたしも……じゆうに……なりたい……」
やめてくれ……。
もうこれ以上、私を得意にさせないでくれ……。
「……なれるよ」
私は、ただふざけているだけなんだ……。
「窓付きも、自由になれる」
その言葉の意味すら、本当は、何も分かっていなかったんだ……。
「………ひっく………ひっく…………」
だから……、お願い……どうか……。
「……そして私達はね、自由になって、何時か知るんだよ」
「…………なに…………を…………?」
私を…………見ないで…………。
「……自分が生まれてきた、意味ってやつをさ」
私の言葉を…………聞かないで…………。
---
夕方になった。
夢のように楽しい時間も、そろそろ終わりが近づいていた。
「そろそろ……かえらないと……」
「えー、もう帰っちゃうのー?」
「うん……、おしごと……」
「……それ、サボっちゃダメ?」
きっと、私なんかとは比べ物にすらならない程悲しそうに、窓付きは首を横に振る。
「おしごと……こわい……」
「おこられるの……もっと……こわい……」
「だから……にげれない……」
「……そっかぁ」
分かっているようで何も分かっていない私は、窓付きの言葉に納得してしまう。
そして代わりに、また別の事を提案する。
「じゃあ、次の休みの日でも、また遊びに来てよ」
「……え……?」
「明日から私は学校に戻るけど、土曜になったら家にいるからさ。その時、今日の続きをしよう!」
恐る恐る、窓付きは私の事を見つめる。
「……いいの……?」
「うん。窓付きと遊ぶの、なんか凄く楽しいんだよね。今の内に、家の電話番号とかも交換しとこうよー」
「……わ……、……わか……った……」
……この時代は、スマートフォンなんて便利なものはなかった。
携帯電話はあったけど、子供が誰でも持っているものでもなかった。
だから、交換するのは家の電話番号だった。
「この紙、絶対無くさないでね」
「うん……」
「予定空けとくからさ、ちゃんと、遊びに来てよね!」
「うんっ……! うんっ……!」
ああ、なんて可愛い子なのだろう。
……そんな事だけを思っていたのを覚えている。
窓付きという女の子は、愚かで、哀れで、無知で、素直で、……だから、私にとって、ただの最高のおもちゃだった。
だからなのだろう。
その日、私は窓付きと友達になった。
……だけど、この優越感は何時までもは続かない。
最後の方は、私は逆に、窓付きにとても強く憧れていた。
憧れて、尊敬して、敵わないという事をどうしようもなく思い知らされて……だから、醜い嫉妬すら浮かべていた。
今ではもう、浮かんでくるのは諦観だけだ。
私は決して、彼女のようになる事は出来ない。
憧れはとっくに絶望に変わっていて、今の私はもう、ただ生きているだけの屍でしかない。
……この日、本当に哀れだったのは、彼女か私か、一体どちらだったのだろう。