アビドス砂漠の砂糖スレ自作概念置き場   作:砂糖堕ちハナエちゃんの人

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第9話ヒナ(5)

 

「食後のおやつに~、ゴ~リゴ~リ君~♪」

 

ゲヘナ自治区の片隅、エンジェル24の看板を掲げたコンビニから、温泉開発部員・下倉メグは上機嫌で鼻歌を歌いながらステップを踏んで出てきた。その両手には、不釣り合いなほど厳重に密閉された大型の保冷バッグが握られている。

 

「……あら。メグじゃない」

 

メグが弾かれたように顔を上げると、そこには風紀委員長、空崎ヒナが直立していた。

 

「ふ、風紀委員長!?」

 

「ここには何の用で来ているの? ……まさか、またこんな往来の激しい場所で、温泉を掘りに来たわけじゃないでしょうね」

 

ヒナに軽く睨みを効かされ、メグは慌てて首を左右に激しく振った。

 

「え? ううん、違うよ~っ! おやつにゴリゴリ君を買いに来ただけ! ほら、これ!」

 

メグは言い訳を証明するように、抱えていた保冷バッグのジッパーを勢いよく引き開けて見せた。中には、青いパッケージの氷菓が隙間なくぎっしりと詰め込まれている。

 

ヒナはバッグの中身を冷ややかな目で見つめ、小さく溜息をついた。

 

「こんなに大量にアイスを買って大丈夫なの? もう季節は冬に入りかけているわよ。アイスのシーズンはとっくに過ぎているはずだけど」

 

「へへー、こんな時期だからこそだよ〜。温泉をガガガッと掘り終わって、汗をしっかりかいた後に食べるアイスはね、いつでも格別なんだから!」

 

「……やっぱり、温泉を掘ったのね」

「あっ……」

 

メグは慌てて自らの口を塞いだが、時すでに遅かった。完全に墓穴を掘ってしまったことに気がつき、メグはオロオロと慌てふためく。

そんな彼女に、ヒナは予想に反して、ふっと柔らかく微笑んだ

 

「別に、いいわよ」

 

「え……? 風紀委員長……? 怒らないの……?」

 

「ええ。今日はね、私も大きなお仕事を一つ終えて今帰ってきたところなの。だから今日だけは特別に見逃してあげる」

 

ニコニコと、まるで慈母のような笑みを浮かべるヒナ。その異常な優しさに一瞬の違和感を覚えつつも、メグは「良かった〜!」と胸を撫で下ろした。

 

「あっ! そうだ!」

 

メグは何かを思いついたように保冷バッグから青いアイスを一本引っ張り出すと、それをヒナの目の前に突き出した。

 

「風紀委員長も一仕事終えてお疲れなんだよね。はい、これあげる! ゴリゴリ君とっても美味しいよ〜!」

 

「……ありがとう。いただくわ」

 

ヒナはそれを拒まず、小さな手で受け取った。丁寧にパッケージの封を裂き、青い氷の塊を口元へと運ぶ。

サク、と小気味よい音が響き、ヒナの歯がアイスを噛み砕いた。

しかし、それを咀嚼するヒナの表情には何の感慨も浮かばない。

甘さもソーダの風味も、それどころか氷がもたらすはずの「冷たさ」すらも今の彼女の舌は捉えることができなかった。

まるで何の味もしない異物の粒が混じった、無機質な液体を口の中で転がしているだけのような感覚。

 

(何も感じない……アイスなのに……甘さも……冷たさすらも……)

 

その時、ヒナのすぐ耳元で、甘ったるく粘り気のある声が直接脳に響いた。

 

【委員長、砂漠の砂糖を掛けてみてください。とても美味しくなりますよ】

 

幻覚のアコが、ヒナの肩に白く透き通った手を置き、妖しく囁いている。

アコの言葉に導かれるように、ヒナは小さく頷いた。

 

彼女は迷いのない手つきで制服のポケットに手を突っ込むと、そこから透明な小瓶を取り出す。中には鈍く輝くあの「砂漠の砂糖」が詰まっていた。

ヒナは静かに齧りかけのアイスの上に、その白い粒子をサラサラと振りかけ始める。

 

「ふ、風紀委員長!? 何してるのっ!?」

 

メグの叫び声にもヒナは視線すら動かさない。

 

「どうしたの? ただ砂糖をかけているだけじゃない。それの何がおかしいの?」

 

「だって、アイスに砂糖をかけてるんだよ! 元々甘いのに、さらに砂糖をかけるなんて絶対におかしいよ!」

 

メグの常識的な抗議など、今のヒナの耳には届かない。砂糖まみれになり、異様な白さを帯びたアイスを、ヒナは再び口へと運んだ。

 

一口、噛み締めた瞬間――。

 

「~~~~~~っっっ!!!」

 

強烈な脳髄を直接灼くような暴力的甘味が、一瞬にして失われていた「冷たさ」の感覚を引きずり出し、ヒナの全神経を激しく揺さぶった。

ヒナの顔が、見たこともないほど幸せそうに艶めかしく綻ぶ。

あまりの衝撃に身悶えし、その圧倒的な多幸感を数秒間堪能した後、彼女は獣のように夢中でアイスを貪り食い始めた。

 

しゃく、じゃりじゃり……しゃく、じゃりじゃり……しゃく、じゃりじゃり……!

 

強烈に甘い香気が、辺り一帯の空気に広がり、静まり返った路地にただヒナがアイスを咀嚼する音だけが響いている。

あっという間にアイスを平らげると、ヒナは木製の棒に残った僅かな結晶すら逃さぬよう、そして溶けてベトベトになった手袋の指先を丹念に何度も何度も長い舌を這わせて舐め回した。

その姿は、高潔な風紀委員長ではなく、快楽に溺れる淫靡な悪魔そのものだ。

 

「はふぅっ……ごちそうさま。……あら、どうしたの、メグ?」

 

たっぷりとお砂糖を堪能したヒナが濡れた唇を拭いながら視線を上げると、恐怖を通り越し呆然とした様子で、しかしどこか強い興味を惹かれたようにヒナを見つめるメグが居た。

 

「ヒナ委員長……本当に、それ、美味しいの……?」

 

「ええ。とても甘くて美味しくて、世界で一番幸せになるわ。……あなたも、どうかしら?」

 

ヒナは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、砂糖の小瓶をメグに差し出した。

メグの手が吸い寄せられるように保冷バッグから新しいアイスを取り出し、ヒナの前へと差し出す。

 

シャッ、シャッ、シャッ……。

 

静まり返った路地に砂糖が擦れ合う音がやけに大きく不吉に響く。

鮮やかだった青いアイスが、またたく間に不気味な純白へと染まっていく。

 

「ふふっ、たっぷりとかけてあげたわ。さぁ、召し上がれ」

 

メグは生唾を飲み込み、ゆっくりと、砂漠の砂糖まみれになったアイスを口元へと運んだ。

 

そして、大きく一口――。

 

「――っ!、!?!?!?」

 

齧りついた瞬間、メグの全身の細胞が爆発するような凄まじい衝撃が駆け巡った。

感じたことのない、脳の髄まで一瞬で溶かすような強烈な甘み。そして世界がすべて肯定されたかのような、圧倒的な多幸感がメグを包み込む。

気がつけばメグは言葉を失い、無我夢中でアイスを貪り喰っていた。咀嚼する手を止められず、あっという間にアイスは消え去る。

 

「しあわせ……っ、なぁにこれ、こんなの……知らない、よぉ……」

 

込み上げる快楽の総量がメグの許容量を遥かに超え、頭の芯がどろどろに痺れていく。

自分が立っていることすら認識できなくなり、吸い寄せられるように膝から地面へと崩れ落ちるメグ。

その身体がアスファルトに倒れ伏す直前、ヒナがすっと動きメグの身体を優しく抱き寄せ、その華奢な身体で支えた。

 

「ふふ……お気に召したようね、メグ」

 

ヒナの甘い吐息がメグの耳孔から脳神経へと侵入し、優しく犯していく。

 

「欲しいよぉ……もっと、もっと、この甘くて美味しいお砂糖、食べたいよぉ……!」

 

震えながら、喘ぐように懇願するメグ。ヒナはその頭を愛おしそうに撫でた。

 

「良いわよ。もっと、もっといっぱいあげる。……でもね、メグ。あなただけが、こんなに幸せになって良いのかしら?」

 

「え……?」

 

「あなたには、大切な仲間がいるでしょう?」

 

メグの濁った瞳が、一瞬だけ何かを思い出すように彷徨いすぐに快楽の泥に染まった。

 

「温泉開発部のみんなにも……あげるよぉ……。カスミ部長にも食べさせて幸せにしてあげるよぉ……!」

 

満足げに頷くヒナ。

 

「良いわね。お砂糖をいっぱいあげるから、カスミ達を幸せにしてあげましょう」

 

「うん……ありがとう、ヒナ委員長……」

 

「……ヒナ」

 

「えっ……?」

 

「私の事は、ヒナって呼んで。もう私達、お友達じゃない」

 

メグのドロドロに融けた脳に、その言葉が決定的な楔となる。

 

「……っ、はい、ヒナ様……♡」

 

「ふふっ、可愛いわ、メグ」

 

二人の顔が近づき、自然と唇が重ね合わされた。

薄暗い路地裏で、ちゅ、ちゅう、と不穏で熱い水音がしばらくの間、静かに響き渡る。

やがてゆっくりと離れた二人の唇の間には、名残を惜しむかのように細く銀色の糸が一本きらめきながら架けられていた。

それは黄昏のわずかな光を吸ってかすかにきらめき、互いの吐息が届くほどの距離で切なく張り詰め、やがて音もなく融けて消えた。

 

「じゃあ……さっそくみんなの所へ、カスミの所へ案内してくれるかしら」

 

「……はい、お任せください、ヒナ様」

 

メグは、どろりとした深い闇に染まった瞳で、狂気の微笑みを浮かべて答えた。

 

 

 

 

 

視界に広がるのは現世の境界線を融解させたかのような、昏く、しかし妖しい極彩色の世界だった。

空は紫と金色の混ざり合った混沌とした色に染まり、現実の物理法則が一切通用しないその世界の中心に、ひときわ巨大な、半ば朽ちかけた鳥居がそびえ立っている。

そしてその鳥居の根元に場違いなほど立派な「岩の湯船」が一つ、鎮座していた。

 

幻想的な世界の真ん中にぽっかりと空いた違和感の塊。

その温泉に、ゲヘナの温泉開発部部長鬼怒川カスミが肩までどっぷりと湯に浸かり、目を細めていた。

 

「いやぁ、温泉はいいねぇ。温泉は身と心を潤してくれる、リリンが生み出した文化の極みだよ。そう感じないかい? 碇シン――ふんぎゃあ!?」

 

カスミの後頭部に乾いた容赦のない衝撃が叩きつけられる。

ゴツッ!!と盛大な音が響き、カスミは涙目を浮かべ叩かれた部分を両手で摩りながら激怒して振り返った。

 

「酷いじゃないか! 人が最高の温泉に浸かって文化を堪能しているときに、どつくなんて!」

 

カスミが不満げに見上げれば、そこには長い煙管を手にし、非常に胡乱な表情で自分を見下ろしている一人の少女が立っていた。

どこか浮世離れした、ただ者ではない気配を纏った少女である。

 

「まったく……人の住居(すまい)の敷地に勝手にドリルを打ち込み、温泉など掘りよって……相変わらず礼儀の範疇を置き忘れてきたような小童じゃな」

 

深いため息をつく少女に、カスミは悪びれる様子もなく不敵に笑った。

 

「そんな堅苦しいことを言うなよ。お前さんも、この温泉を楽しんでいるじゃないか――なぁ、クズノハ?」

 

名前を呼ばれた彼女――百鬼夜行の大預言者クズノハはすでにいつもの陰陽師の狩衣のような白い袖広上着を脱いで湯浴みの仕度を整えており、手ぬぐい一枚だけを持った姿でそこに立っていた。

 

 

 

 

カポーン。

 

現実には存在するはずのない、風情ある湯桶の音が世界の境界に響く。

黄昏の妖しい空の下、二人の少女――カスミとクズノハが、並んで温泉に浸かっていた。

 

「良い湯だねぇ~、実に素晴らしい!」

 

「当たり前じゃ。ここは妾の世界、世界の裏側。湧き出る湯も、現世の泥に塗れたものとは格別よ」

 

「掘ったのは私なんだけどなぁ~……あいたぁ!」

 

クズノハの前に浮かんでいた熱燗の入った湯桶にカスミがこっそり手を伸ばそうとした瞬間、クズノハの手が容赦なくカスミの手の甲をひっぱたいた。

 

「酷いじゃないか、私にも一口くらい分けてくれたってバチは当たらないだろう」

 

「駄目じゃ。これはお主にはまだ早い」

 

「私とクズノハ、見た目の年齢的なアレはあんまり変わらない気がするんだけどなぁ」

 

「お主のような、高々十数年しか生きておらぬ小童と妾を一緒にするでない」

 

そんな風に、二人のいつものような軽妙なやり取りがしばらく続いた。

しかし、クズノハがふっと猪口を湯桶に置き、湯面に浮かぶ湯気を切なげに見つめたことで空気の温度が変わった。

 

「――で、本当は何をしに来たのじゃ、カスミ」

 

「何とは何だい?」

 

「お主が妾を揶揄うためだけに、わざわざ3時間も湯船に浸かってタイミングを計るような真似をするわけなかろう」

 

クズノハの静かな問いに、カスミの顔からそれまでの不敵な笑みがすっと消え去った。冷徹で極めて理知的な「温泉開発部部長」の表情へと切り替わる。

 

「アポピスの核を見つけた」

 

「……何と……?」

 

クズノハの動きが止まる。その双眸に宿る色が驚愕から深い警戒のそれへと静かに変わっていった。

 

「旧アビドス高校本校舎の地下800メートル、いや、正確には地上から数えて1000メートルの深さだ。そこにとんでもなく巨大な地下神殿があってな。その最奥の祭壇らしき場所に、まるで祀られるように悍ましく鎮座していたよ」

 

「そのような場所……妾の『眼』には何も映らなかったぞ。世界の理を見渡す妾の結界を抜けるなど……」

 

「あたりまえさ。解析不能の、神々の時代の未知の技術で組まれた『認識阻害防壁』が、二重三重どころか五層も厳重に組まれていたからな。まあ、我が温泉開発部が誇る超大型ドリルの敵ではなかったがね。ハーッハッハッハ!」

 

いつもの高笑い。しかし、その笑い声にはいつもの余裕はなかった。カスミはすぐに声を潜める。

 

「推定損傷率は8割超え。辛うじて稼働している、といった状態だった。だが、奇妙なことに……その核には、真新しい傷がいくつか刻まれていたんだ」

 

「真新しい傷……? 神々の時代の闘争の跡ではなく、か?」

 

「ああ。もっと新しい――まるで、つい最近、何者かによって意図的に付けられたような傷だ」

 

「まさか……」

 

「誰が、どうやってあの領域に侵入し、ダメージを与えたのかはわからない。だが、その致命傷こそが、アポピスを変質させた原因だ」

 

カスミは湯をすくい、それが指の隙間からこぼれ落ちるのを見つめた。

 

「砂漠の砂糖か」

 

「おそらく、奴は戦略を変えたに違いない。私達『忘れられた神々』を、正面からの正攻法ではなく、少女の心を弄ぶような搦手で攻める方向へと変えた……何かがあったんだ。とにかく、あれはマズい。稼働率2割未満のボロボロの状態で生み出す砂糖ですら、キヴォトス大部分にあれだけの被害を出している。もし、あの核が完全復活し『励起状態』へと移行すれば……キヴォトスは確実に滅ぶ。甘味の海に沈んで、誰も彼もが狂い死ぬさ」

 

カスミは、真剣な眼差しでクズノハを真っ直ぐに見据えた。

 

「クズノハ、力を貸してくれ。今ならまだ、本体を叩けば間に合う」

 

「……無理じゃ。今の妾には、現世への直接の干渉は出来ぬ。手を出すことは叶わん」

 

「なら、お前の持つ神器『白蓮』を貸してくれ。あれがあれば、あの核を確実に……」

 

「それも出来ぬ。あれは、百花繚乱の者にしか授けられぬ誓いの物じゃ。世界の理を歪めるわけにはいかん」

 

「…………そうか」

 

しばらくの間、カスミは沈黙し、考え込んだ。

そして、よし、と短く頷くと、再びいつもの不敵な笑みを顔に貼り付けた。

 

「わかった。なら、私達だけで行くさ」

 

その言葉に、クズノハの顔に微かな動揺と何かを言いたげな張り裂けそうな表情が浮かぶ。

それを見たカスミは、わざとらしく胸を張った。

 

「ハーッハッハッハ! 心配ご無用! 相手は本体の主導権を奪われ、ボロボロの核で砂糖を垂れ流すことしかできない俎上の鯉だ。我々温泉開発部の敵ではない!」

 

カスミはザバーッと勢いよく温泉から立ち上がった。

 

「よし。さっそくこれから、部下達を率いて『蛇退治』と洒落込もうじゃないか」

 

「今から行くというのか。あそこはすでに、下手に触れれば何を引き起こすか分からぬ予測のつかぬ状態じゃぞ……」

 

クズノハが引き留めようとするが、カスミはそれを手で制した。

 

「ああ。実はね、あの秘密地下神殿のさらにその下には、未知の巨大な源泉の層があることが我が部の調査で判明しているんだ。きっと、キヴォトスの歴史上、今までにない最高の温泉が掘れるとみている

 

カスミは振り返り、クズノハに不敵な笑みを見せた。

 

「我々は温泉開発部。この世のすべての温泉を掘り出し、整えるのが使命。それを蓋して邪魔する蛇がいるなら、退治することくらい何でもないのさ! だからクズノハ、お前さんが気に揉む必要は、どこにもないのだよ」

 

カスミは誇らしげに語る。

 

「世界を救うとか、そんな高貴な使命なぞクソ喰らえさ。我らはただ、温泉を掘る。邪魔するものや障害物があれば、それが何であれ排除する。ただ、それだけのことさ。いつものことだよ、いつものね」

 

踵を返し、歩き出そうとするカスミ。その背中に、クズノハが叫んだ。

 

「待つのじゃ!」

 

クズノハが激しく湯を撥ね退け、立ち上がってカスミの腕を強く掴んだ。振り返ったカスミの額に、クズノハは自らの掌をピタリと当てる。

 

その口から、現世の言葉ではない、古い祝詞のような呟きが漏れると、淡い、しかし強固な光の力が、カスミの身体の奥深くへと流れ込み、染み込んでいった。

 

「……せめて、妾の護符(むすび)だけでも与えよう。お守り代わりに持っていくが良い」

 

「……ふっ、ありがとう、クズノハ。蛇を退治して、最高の温泉を掘り当てたら、一番湯はお前さんに譲ってあげるよ。楽しみにしていてくれ」

 

そう言い残すと、カスミは湯船の中心へと潜り込んでいった。

 

別時空と現世を繋ぐ温泉の底へと消えていく。しばらくの間、ブクブクと泡が立っていたが、それもやがて消え去り、別時空の隠れ処には、再び静寂だけが戻ってきた。

 

クズノハは、カスミが消えた、未だ波紋の残る水面をじっと見つめていた。

ふっと、彼女の唇から微かな、しかし深い吐息が漏れ、湯面に浮かぶ湯気を白く揺らした。

 

 

「……カスミは行ったかい?」

 

背後から、鈴を転がすような、しかし酷く疲弊した声が響いた。

 

クズノハが振り返ると、半ば朽ちかけた鳥居の太い柱の陰から、一人の狐耳の少女――百合園セイアが現れた。その姿は、世界の因果の捩れに耐えているかのように、微かにノイズのように揺れている。

 

クズノハは、絞り出すような声で問いかけた。

 

「お主の言った通り、カスミはここに現れた。お主の言った通り、カスミはあの砂蛇の正確な居場所を突き止めておった。そして……お主の言った通り、妾はカスミに直接の助力はせず、見捨てたぞ。……これで、本当に良いのだな、セイア」

 

狐耳の少女、セイアは痛みに耐えるように目を閉じ、静かに首を縦に振った。

 

「ああ。それで構わないよ、クズノハ」

 

「……本当に、これしか無かったのか? 他の手段は、本当に、何一つとして無かったのか……!?」

 

「残念ながら、無いね。それが、この『世界』が選択した冷酷な決定事項だからだ」

 

セイアは自らの小さな手のひらを見つめる。そこには、無数の「世界線」の記憶が、焼き付いた傷跡のように刻まれていた。

 

「……お主は、今まで何度も、これを繰り返したのじゃったな」

 

「そうだよ。私も、カスミを見殺しになんてしたくない。できることなら、私のこの命に代えてでも救いたいさ。でも……それは世界が許さなかった。……15,498回」

 

「……なんじゃと?」

 

「15,498回。それが、私がカスミを救おうとして、この狂った世界に抗い、そして失敗した回数さ」

 

セイアの口から漏れる数字の重みに、クズノハは息を呑む。

 

「結局、その全ての回数において、カスミも世界も救えなかった。だけど、前回のループだけは違ったんだ。私は……カスミを見捨てた。彼女の犠牲を『鍵』にすることで、世界の方程式は確かに書き換わった。最終的には、私の些細なミスで世界は滅んでしまったけれど、手応えはあったんだ」

 

セイアは自嘲気味に笑う。その瞳には、果てしない絶望と、僅かな執念が混ざり合っていた。

 

「15,500回目――この世界線において、私はすでにその『ミス』を犯してしまっている。もう、後戻りはできない。だから、この世界線では……カスミは救えないんだ」

 

「………難儀なものじゃな、妾達は。世界の理を知る者が、最も無力とは」

 

「そうだね。本当に、歯がゆいよ」

 

セイアは世界の境界の向こう、現世のゲヘナの空を睨み据えるように見つめた。

 

「だから、今は耐えよう。……あの『勇者』が、目覚めを迎えるその時まで――」

 

 

 

 

 

ザパーーーッ!!!

 

 

温泉開発部が風紀委員会の目を盗んで構築した、最重要機密アジト。その中央にある巨大な温泉の湯面が激しく爆発し、中からカスミが勢いよく飛び出してきた。

 

「ぷはぁあああ!!! いやぁ、良い湯だった! さて、身体も温まったところで、さっそくあのクソ蛇退治と行こうじゃないか!」

 

カスミは湯縁に手をかけ、アジトの広い空間を見渡しながら大声で叫んだ。

 

「メグー! メグー! みんなを呼んできてくれぇ! これからアビドスへ蛇退治と温泉掘りに行くぞー!!」

 

しかし。

 

いつもなら「おー!」と威勢のいい返事が返ってくるはずのアジト内は、不気味なほどに静まり返っていた。

ただ、湯面が立てるパシャパシャいう音と、湿気を含んだ空気だけが滞留している。

 

「おやぁ? 皆、一体どこへ行ったんだい? 持ち場を離れるなんて、珍しいこともあるものだ……」

 

カスミが訝しげに首をかしげた、その時。

 

彼女の背後から、アジト内のすべての熱量を一瞬で奪い去るような、身体中が凍りつきそうなほど冷酷で、そして不自然に重圧の籠った声が響いた。

 

「――こんなところへ、隠れていたのね。カスミ」

 

カスミの背筋に最大級の戦慄が走る。

ゆっくりと錆びついた人形のように振り返ったカスミの視界に飛び込んできたのは、風紀委員長空崎ヒナの姿だった。

 

「ひ、ひ、ひえええぇっ!!! ふ、風紀委員長ぉっ!!! どどどどうしてここが分かったんだいぃっ!?」

 

カスミは本気で狼狽した。

ここは風紀委員会に絶対に見つけられないよう、温泉開発部が総力を挙げて存在も場所も厳重に秘匿していた、最重要アジトのはずだった。

 

「……私達が、ヒナ様に教えたんだよ。ここに、部長が隠れてるってね」

 

アジトの暗がりから、ぞろぞろと影が這い出てきた。

 

その先頭に立っていたのは、下倉メグ。

そして、その後ろには温泉開発部の全部員たちが、足元をふらつかせながら並んでいた。

 

「メグ……!? みんな……!? どうして、場所を……」

 

どうして場所を漏らしたのか、そう問いただそうとしたカスミは彼女たちの異様な姿を見て言葉を失った。

メグをはじめとする部員全員の瞳が、ハイライトを完全に失い、ドス黒い底のない闇のような色に染まっている。

そして何より、彼女たちの身体からは頭を狂わせるような強烈で悍ましい「甘い香り」が漂ってきていたのだ。

 

「まさか……お前たち、あの『砂漠の砂糖』を盛られたのか……!?」

 

カスミの戦慄の問いに、メグはふにゃふにゃとした、生気のない笑みを浮かべて答えた。

 

「違うよ、部長。盛られたんじゃないよぉ……。私達が、ヒナ様にお砂糖を『恵んで』もらったんだよ……」

 

言うが早いか、メグをはじめとする部員たちは、ヒナの足元へと吸い寄せられるように膝を突き、祈りを捧げる。

 

「ヒナ様……約束通り、部長の所に案内しました……。だから、ご褒美……ご褒美をください……」

 

「ええ。よくやったわ、メグ。貴方は本当に、私の最高のオトモダチよ」

 

ヒナは冷酷な笑みを浮かべ、膝突くメグの首に自らの腕を回すと、その身体を引き寄せた。

そして、カスミの目の前で、メグの唇へと自らの唇を深く重ね合わせた。

ちゅぷ、じゅ、と、濃厚で、嫌らしい大人の水音がアジト内に響き渡る。

カスミは、自らの忠実な部下達が、宿敵である風紀委員長に、文字通り「調教」されているその光景に、精神が発狂しそうになるのを感じた。

 

「んむ……はぁっ……」

 

ヒナが唇を離すと、メグは完全に放心状態で、床にぺたんと割座した。

その瞳は完全に虚空を彷徨っており、ヒナから口移しで流し込まれた「砂漠の砂糖」の高濃度結晶の飴玉を、うっとりと幸せそうに口の中で転がしている。

ヒナはその後ろに控える他の部員たちにも、ポケットから取り出した飴玉を次々と配り、その口内へと無理やり押し込んでいった。

 

「美味しい……っ」

 

「甘い……すごいの……」

 

「しあわせ……」

 

「おんせんより、おさとうだいすき……」

 

部員たちは完全に理性を失い、甘味の暴力によって全身をビクビクと痙攣させながら、放心状態で悦びに浸っている。

 

「さてと……。逃がさないわよ、カスミ」

 

「ひぃぃぃぃっ!?」

 

形勢不利と見て、こっそり裏口へ逃げようとしたカスミだったが、ヒナの素早い動きに遮られる。

ヒナはカスミの長い尾を容赦なく踏んづけて転ばせると、その尻尾を乱暴に引っ張ってカスミの身体を手元へと手繰り寄せた。

 

「ひっ、あ痛たたた!」

 

カスミの胸倉を容赦なく掴み上げ、顔を至近距離まで近づけるヒナ。その瞳には、もはやかつての正義の風紀委員長の面影は微塵もない。

 

「ねぇ、カスミ。あなたに、いくつか聞きたいことがあるのよ」

 

「ひっ!! わ、私は何も知らないっ! 私は何も知らないっっ!!」

 

「シラを切るのね。いいわ……なら、直接聞くわ。――あなたの『身体』にねっ!!」

 

ヒナの紫色の瞳から、完全に光が消え失せた。

 

その瞬間、ヒナの肉体に、見る者を慄かせるような異様な変化が起きた。

ヒナの細い腕が、まるで自らの意志を奪われたマリオネットのように、ピキピキと、骨の鳴る不自然な角度で後方へと引き絞られる。その背後には、まるで背後霊の如き悍ましい闇の気配が揺らめき、彼女を呪縛するようにその肩口へとまとわりついていた。

 

ヒナの手袋が内側からの圧力によってバリバリと引き裂かれ、その指先から、人間のものではない、大きく鋭利に研ぎ澄まされた「黒い五指の爪」が飛び出してくる。

 

「死になさい」

 

空気の壁を切り裂く、凄まじい風切り音。刃物と化したヒナの五指が、カスミの顔面へと肉薄した、その時――。

 

バチィィィィンッ!!!!

 

強烈な破裂音がアジト内に響き渡った。

しかし、引き裂かれたのはカスミの肉体ではなかった。ヒナの鋭い爪の方が目に見えない強固な結界の壁に激突し、激しく砕かれて弾け飛んだのだ。

クズノハが授けた護符の力が、カスミの身を完全に守ったのである。

 

「ぎぃいっ……あああぁっ!!」

 

右腕の爪を砕かれ、その衝撃で激痛に身悶えするヒナ。

あまりの痛みに視界が白む中、ヒナは自身の右腕だけでなくまるで全身の血が逆流するような奇妙で圧倒的な「断絶感」を同時に感知した。

 

ハッと目を見開いたヒナの視界に、信じられない光景が飛び込んでくる。自身の右腕の激痛など霞むほどの衝撃に、彼女は我を忘れて叫んだ。

 

「アコッ!? アコッ!! しっかりしてっ!!」

 

見ると、ヒナのすぐ隣の空間で、幻覚のアコが床に激しく倒れ伏していた。

アコもまたヒナと同じ右腕を負傷していたが、その傷はヒナのものより遥かに深く重症だった。

ヒナに何度も名前を呼ばれ、幻覚アコは辛うじて片目を開けた。

 

【ヒナ……委員長……。申し訳……ございません……。委員長のお身体……お守り、きれませんでした……】

 

そう言い残すと、幻覚アコは再び煙のように意識を失った。

ヒナはその瞬間、アコが、自分の身代わりとなってあの強烈な結界の反動を受けてくれたのだと理解した。

 

「よくも……私のアコを、よくもぉぉぉっっっ!!!!」

 

怒狂ったヒナは、痛む右腕を無理やり動かし、逃げようとするカスミに向けて愛銃を構え、全弾を乱射した。

 

激しい銃声がアジト内に響き渡り、カスミは防御壁が弱まった隙を突かれ、蜂の巣にされてボロボロの姿で床へと倒れ込んだ。

 

「ぎゃああああああああっっ!!」

 

悲鳴を上げるカスミに、ヒナはさらに追撃を加えようと機械的にリロードしたが、その銃身を、背後から伸びてきた白い手が静かに押さえつけた。

 

【駄目だよ、ヒナちゃん。これ以上やったら、カスミちゃんが『壊れ』ちゃうよ】

 

淡い緑色の美しい髪を靡かせ、柔らかな、しかし底知れない笑みを浮かべたアビドスの制服姿の幻覚の少女が現れ、ヒナの銃を優しく愛撫するように抑えながら微笑んでいた。

 

【アコちゃんなら、私がちゃあんと癒して(直して)あげるから安心して。今はそれよりも、ほら……カスミちゃんに、自慢のお砂糖を御馳走してあげようよ。そうすれば、きっとなんでも素直に話してくれるよ】

 

そう言うと、幻覚の少女はふっと空気の中に溶けるように姿を消した。

気づけば、先ほどまで重傷を負っていたはずの幻覚アコが完全に回復しており、ヒナの傍らで【お手数おかけします、アポピス様】と、虚空に向けて恭しく臣下の礼を執っていた。

 

「……そうね。彼女の言う通りだわ。私ったら、アコを傷つけられて、つい頭に血が上っていたわ」

 

ヒナは冷酷な笑みを取り戻し、倒れ伏すカスミへと一歩ずつ近づいていく。

 

「カスミ。さぁ、みんなと一緒に、幸せになりましょう?」

 

ヒナはカスミの身体を後ろから羽交い締めに拘束すると、そのままメグたちの前へと引き摺って行く。

 

「メグ、みんな。カスミを、最高に幸せにしてあげて」

 

ヒナの冷たい合図に、メグ達温泉開発部員は、まるで邪悪な蛇のような、歪んだ笑みを一斉に顔に浮かべた。

彼女たちは、両手で山盛りの砂漠の砂糖を掴み取り、カスミへと近づいてきた。

 

「や、やだ……やめてくれ……! メグぅ、みんな、お願いだ、目を覚ましてくれぇっ!!」

 

カスミが必死の悲鳴を上げるが、メグの耳には届かない。

 

「目を覚ますのは、部長の方だよぉ……」

 

メグは温泉掘削で鍛えたもの凄い怪力で、カスミの顎を無理やりこじ開けると、その口内へ、容赦なく山盛りの砂糖の塊をねじ込んだ。

 

「モガーーーっ!? むぐぅぅぅぅぅ、んぐぅぅぅっっ!!!」

 

カスミは目を血走らせて必死に暴れるが、部員たちに身体を押さえつけられ、喉の奥へと強制的に砂糖を流し込まれ続ける。

 

「良いなぁ〜、メグちゃんずるい」

 

「私達も、部長にお砂糖を食べさせてあげたいなぁ……」

 

砂糖を掴んだまま、手持ち無沙汰にしている部員たちを見て、ヒナはクスクスと残酷に嗤いながら、ある提案をした。

 

「大丈夫よ。カスミに砂糖を注ぎ込める『口』なら、他にもたくさんあるわ」

 

ヒナはカスミの身体を器用にねじり、床の上へと持ち上げた。

そして、彼女の制服の短パンを、下着ごと容赦なく引きずり下ろす。

衣服が剥ぎ取られ、カスミの完全に無防備な下半身が、アジトの冷たい空気に晒された。

 

「ほら、ここと、ここにも、お利口なお口があるでしょう? こっちの締まりのないお口なんて、早くお砂糖を入れてほしくて、物欲しそうに涎(蜜)を垂らして待っているわよ」

 

ヒナが細い指で、カスミの秘裂と菊門を交互に指差す。

それを見た部員たちは、「わーい、やったー!」と無邪気な歓声を上げながら近づき、その二つの窄みへと、結晶の塊を容赦なく、指で、棒で、狂ったようにねじ込み始めた。

 

「もがあぁあああああっっ!!! うぎいぃぃぃぃぃぃしぃぃっっっ!!!」

 

カスミは顔を真っ赤に変色させ、目から血涙を流さんばかりに見開き、全身の筋肉を硬直させて悶絶した。

 

「どうかしら? 砂漠の砂糖の『粘膜摂取』。脳へと直接突き抜けるこの快楽、最高にハイになるでしょう、カスミ?」

 

ヒナがいやらしい笑みを浮かべて問いかけるが、カスミの口からはすでに意味のある言葉は返ってこない。ただ腰を激しく波打たせ、痙攣している。

 

「ふふっ。気持ち良すぎて、返事をする余裕もないみたいね」

 

数十キログラムもの砂糖をあらゆる器官から体内へと過剰投与した後、ヒナの合図で部員たちはようやくカスミから離れた。

ぶるぶると生まれたての小鹿のように震えながら悶えるカスミの髪を、ヒナは乱暴に掴んで顔を上げさせた。

 

「ねぇ、カスミ。そろそろ素直になったかしら? ……あなたが頑なに拒んでいるあの至高の『砂糖』の素晴らしさについて、私にお話聞かせてほしいわ」

 

しかし。カスミの精神は気丈にもまだ耐えていた。その瞳には薄れていく理性の奥底で、温泉開発部としての執念の炎が微かに灯っている。

 

「い、イヤ、だぁ……! わたしは……お砂糖なんて……認め、ない……温泉を……汚す、な……」

 

凄まじい砂糖の中毒症状が現れているにもかかわらず、カスミはまだ完全に堕ちていなかった。

 

「しぶといわね。本当に不快で目障りな存在だわ」

 

ヒナが不機嫌そうに眉をひそめた時、傍らの幻覚アコがその耳元で何かを囁いた。それを聞いたヒナは、一瞬で邪悪な表情へと戻る。

 

「そうだわ。あなたの大好きな『方法』が、まだ残っていたわね」

 

 

 

 

ヒナの指示を受け、メグたちが倉庫から砂糖の大袋を何十袋も担いできた。

そして、その封を一斉に切ると、先ほどまでカスミが浸かっていた、あのアジト中央の美しい温泉の中へと、一気に流し込み始めたのだ。

 

「やだぁっっ!!! やめてくれっ!!! お願いだ、温泉を……私の温泉を汚すのはやめてくれぇぇぇ~~~っっ!!!」

 

カスミが、この日一番の、魂を切り裂くような絶望の悲鳴を上げた。

しかし、砂糖で脳を完全に破壊されたメグたちには、その叫びすら心地よい音楽でしかなかった。

「さすがヒナ様! お砂糖温泉なんて、私達じゃ思いつかなかったよ~!」と喜びの声を上げながら、どんどんと砂糖を投入していく。

 

温泉の熱によって砂糖が急速に融解し、アジト内に鼻が狂うほどの強烈な甘い匂いが立ち込める。

透明だった湯の色がドロリと変わりその濁った水底には、溶けきれない砂糖の結晶が白く分厚く降り積もっているのがはっきりと見て取れた。

 

「準備ができたわ。さぁ、入れなさい」

 

ヒナの言葉を合図に、数人の部員がカスミの四肢を分担して持ち上げた。

まるで人間ブランコのように、カスミの身体を大きく前後に振り始める。

 

「せーのっ!」

 

ヒナの号令と共に手が離され、カスミの身体は空中を放物線を描いて飛び、そのまま――ドボン!!!と、超高濃度の砂糖風呂の中へと派手に沈められた。

 

「ガハッ!? ゴホッ!! た、助けてくれ、息が……っ!!」

 

カスミは必死に顔を上げ、手足をばたつかせて湯船から出ようとする。しかし底に大量に積もった砂糖の粒のせいで足元が激しく滑り、まともに立ち上がることすらできない。

溺れまいと必死に湯を掻き分け暴れるカスミ。その姿をヒナは冷酷に見下ろす。

 

「だめよ、カスミ。お風呂に入るときはね、ちゃあんと頭まで浸かって、100まで数えなきゃいけないって、言うでしょう?」

 

ヒナが目で合図するとメグたちが湯船へと入り、暴れるカスミの頭と背中を上から強い力で泥水の中へと無理やり沈め込んだ。

 

ゴボッ! ガババッ!!

 

水面が激しく揺れ、絶望的な気泡がいくつも湧き上がる中、ヒナの、ゆっくりとした、死を告げるカウントがアジト内に響き渡る。

 

「1……2……3……4……5……6……」

 

【ヒナ委員長……】

 

不意に、幻覚のアコがヒナに話しかけてくる。

 

「16……17……何かしら、アコ?」

 

カウントを中断して振り返ったヒナに、幻覚アコはくすくすと妖しく嗤った。

 

【ふふっ。何でもありませんわ、委員長】

 

「そう。ならいいけれど……。あら、どこまで数えたか忘れてしまったわ。やり直しね」

 

ヒナは再び、冷酷な笑みを浮かべてカウントを最初から始めた。

 

「1……2……3……4……」

 

ヒナがカウントを進め、それを幻覚アコが他愛のない話で遮り、カウントがリセットされる。そんな悪夢のようなやり取りが、何度も、何度も繰り返された。

気がつけば、あれほど激しく揺れていた水面は完全に静まり返り、湯船の底には、ピクリとも動かなくなったカスミの身体が沈んでいた。

 

「あら。カスミが動かなくなったわね」

 

【ご安心ください、委員長。カスミさんが『砂漠の砂糖』を完全に受け入れてくださっていれば、この高濃度の砂漠の砂糖水の中では窒息溺死することなどあり得ませんわ】

 

「あら、砂漠の砂糖って、そんな便利な能力(ちから)があるのね」

 

ヒナと幻覚アコは、顔を見合わせて残酷に嗤い合った。

 

「もういいわ。十分温まった事だし、カスミを引き上げなさい」

 

「はぁーい、ヒナ様ぁ」

 

メグたちが湯底に沈んでいたカスミの脱力した身体を引き揚げ、湯縁の床へと無造作に放り投げた。

カスミの身体は濡れた音を立ててベシャリと通路に転がる。

ヒナは歩み寄り、自らの足先でカスミの身体を蹴り飛ばして仰向けにさせた。

そしてその場にしゃがみ込み、カスミの顔を覗き込む。

ペち、ペち、と、カスミの頬を数度、強めに叩くと――カスミの完全に濁りきって焦点を失った瞳が、ゆっくりと開かれた。

 

「カスミ、起きなさい。あなたに色々聞きたいことがあるのよ。さぁ、答えなさい」

 

ヒナは冷たく問いかける。しかし、カスミの口から漏れ出たのは――。

 

「あ……、う……、お……」

 

「……カスミ?」

 

ヒナの眉がピクリと跳ね上がる。問いかけに対する反抗の言葉も、いつもの不敵な高笑いも返ってこない。

ただ虚空を見つめ、焦点の合わない目で小さく口を震わせるだけの姿に、ヒナの胸に言い知れぬ違和感がよぎった。

先ほどまであれほど激しく温泉開発部の誇りを叫び、抵抗していた彼女の「心」の気配がどこを探しても見当たらないのだ。

 

「あぅ……くぅ……、うー……」

 

カスミの開いた口から言葉にすらならない無垢なクーイングが漏れ出る。

ヒナが覗き込む顔を認識しているのかすら怪しく、ただ目の前の光や影に反応するように喉の奥からちいさく「あー……、うー……」と、赤子のような甘えた声を漏らすだけ。

指先をかすかに動かしては自分の濡れた髪の毛を掴んで無邪気に笑うその姿には、かつてキヴォトス中を震撼させたテロリストの面影など微塵も残されていなかった。

 

ヒナが顔をさらに近づけ「私の声が聞こえているの?」と重ねて問い詰めても、返ってくるのはただ涎を溢れさせながら喉を鳴らす音だけ。

そこには論理的な思考も、他者との対話を成立させる知性も一切存在していなかった。

 

 

彼女の精神は、完全に崩壊していた。

 

 

 

--------

 

完全に陥落した温泉開発部の極秘アジトの一室。

薄暗いその部屋の奥で、ソファーベッドに横たえられたカスミの姿があった。

その枕元には空崎ヒナが直立不動で佇んでいる。彼女の瞳からは完全に光が消え去っており、まるで一本の糸で吊るされた操り人形のようだった。

 

【う~ん、駄目ですね。全然手応えがありませんわね……】

 

ソファーの傍らに立つ幻覚のアコが、退屈そうに困った表情を浮かべて呟く。

 

【もう少し深く、意識の奥を探ってみましょうか。……お願いしますね、委員長】

 

くすくすと楽しげに嗤いながら、幻覚アコは己の両手の指をまるで見えないピアノの鍵盤を叩くように――、あるいは愛しい者の髪を梳くように細かく妖艶に動かした。

アコが指を動かすと、それに完全に連動して、ヒナの身体がピクリと動く。

そう――今、空崎ヒナの肉体と神秘は幻覚アコによって完全に精神を乗っ取られ、操られていたのだ。

 

アコの指の動きに合わせヒナの小さな両手が機械的に動き出す。

ヒナは横たわるカスミの額やこめかみにそっと両手を当て、愛おしいものを慈しむかのように優しく円を描きながら微細に撫で回し始めた。

それはアコの遠隔操作による壊れた玩具の調子を確かめるかのような冷徹な精神の「触診」であった。

 

ヒナの手の平から濃密な精神干渉の波動が流し込まれダイレクトにカスミの意識の深奥へと浸透していく。

 

「あぅ……くぅ……、あー……う……」

 

その優しいはずの手触りが脳を揺さぶり記憶を吸い上げ始めた瞬間、カスミの口から幼児退行した無垢な母音の塊が漏れる。

操り人形化したヒナは、壊れてしまった彼女の頭部を外側からそっと愛撫するように撫で回し、混濁した意識の海から断片的な情報の残骸をじりじりとすくい取っていく。

 

「うー……、くぅ、あぅ……っ」

 

思考のまとまらない幼子のような甘えた喘ぎ声だけが、静かな部屋の中に不気味に響き渡っていた。

 

【ふふ、やはりここまで精神が溶けてしまっては、あなたを裏から手引きしていた『何者か』の情報を綺麗に引きずり出すのは骨が折れますわね。ですが、これも委員長が私に身を委ねてくださっているおかげ。すべては、あの方のために……】

 

アコが恍惚とした表情で、ピアノを弾くようにさらに指を躍らせる。

それに合わせてヒナの手が再びカスミの頭部をゆっくりとしかし容赦なく撫で回したその時――。

 

パチ、と部屋の明かりが微かに明滅した。

 

同時に、部屋全体の気温が肌を刺すような冷気へと一変する。

 

【おや……? この気配は……。あ、アポピス様……!】

 

アコはその表情を一瞬で歓喜と崇拝の色に染め上げ、操っているヒナの動きをピタリと止めた。

薄暗い部屋の隅、影が最も濃く落ちる場所から、ゆらりと「それ」が染み出すように姿を現す。

 

【ふふ、相変わらず頑張り屋さんだね、アコちゃん。いつも私のために色々動いてくれて、本当にありがとう】

 

優しく、おっとりとした温かみのある少女の声。

そこへ現れたのは、アビドス高等学校の制服を身に纏った、一人の少女――梔子ユメの姿の幻覚、蛇神アポピスであった。

 

【――お疲れ様です、アポピス様。お手を煩わせるような真似をしてしまい、申し訳ありません】

 

幻覚アコはいつもの彼女らしい丁寧な部下の態度で、しかし深い敬意を込めて一礼した。その動きに連動して操り人形であるヒナもまた、深く頭を垂れて直立不動の姿勢をとる。

 

幻覚ユメは、いつもの心優しい彼女そのものの笑顔で歩み寄り、ソファーベッドの上で赤子のように喉を鳴らすカスミの頭を愛おしそうにそっと撫でた。

 

【ふふっ、カスミちゃん……私の邪魔をするためにあんなに一生懸命がんばってくれていたのに、疲れちゃったんだね。でも、これでもう苦しまなくて大丈夫だよ」

 

本当にカスミを労うかのような、慈愛に満ちた優しい声。

しかしその瞳の奥には一切の感情が通っていない虚無の暗黒が広がっている。

ユメはそのままアコへと振り返り、にこりと微笑んだ。

 

【手加減を間違えちゃったのかな? でも、カスミちゃんの背後にいる『誰かさん』が分からなくなっちゃうのは、ちょっと困っちゃうかも。どうしたらいいかな、アコちゃん?】

 

アコはいつもの有能な行政官としての笑みを浮かべ、自信に満ちた声で恭しく答えた。

 

【ご安心ください、アポピス様。実は先ほど、委員長の手を通じて鬼怒川カスミの意識を浅く浚(さら)ってみたのですが……すでに断片的ではあるものの、その『背後にいる存在』の手がかりをいくつか掴みました』

 

【へぇ、本当? さすがアコちゃんだね。どんなことが分かったの?】

 

幻覚ユメが嬉しそうに目を細めて問いかける。アコは平伏したままのヒナの頭をそっと見下ろしながら淡々と、しかし確信に満ちた口調で報告を続けた。

 

【はい。鬼怒川カスミの精神の最奥にある記憶の領域に、このキヴォトスの一般的な生徒とは明らかに異なる、ひどく古風で、なおかつ強大な『神秘』の残滓がこびり付いていました。浮かび上がってきたのは……『百鬼夜行』、そして『大預言者』という不穏な単語(ワード)】

 

そこまで言って、アコはフッと妖艶な笑みを深める。

 

【――おそらく、表舞台には決して姿を現さない歴史の闇、クズノハと呼ばれる存在です。カスミはその者から、アポピス様の復活を阻止するための知恵や力を与えられていたようです】

 

【へぇ……、クズノハ、ちゃん……? そっかぁ、そんな人が百鬼夜行に隠れて、私の邪魔をしようとしていたんだね】

 

幻覚ユメはちっとも怖がる様子もなく、まるで初めて知った新しいお友達の名前を口にするかのような、どこまでも心優しい笑顔のままふんわりと呟いた。

 

【本当にありがとう、アコちゃん。アコちゃんが居てくれて、私はとっても助かっているよ。……うん、やっぱりアコちゃんは、世界で一番優秀で、可愛い私の部下だね】

 

【っ……! 勿体なきお言葉です、アポピス様……!】

 

絶対的な主君からの至上の賛辞に、アコは歓喜のあまり身体を微かに震わせ、その頬を紅潮させた。

 

幻覚ユメは満足そうに微笑むと、そのまま平伏しているヒナと、ベッドの上で無垢な声を漏らすカスミを一瞥し、おっとりとした調子のまま背を向ける。

 

【それじゃあ、私はもう行くね。引き続き、ゲヘナのことはアコちゃんに任せるよ。ヒナちゃんと一緒に、素敵に壊してね?】

 

【はい、お任せください。すべては、アポピス様の望むままに……】

 

アコが微笑みながら、どこまでも忠実な部下として一礼する。その言葉を見届けるようにして、幻覚ユメの姿は部屋の隅の影へと、ふっと溶けるように消え去っていった。

 

 

 

 

ゲヘナ自治区の遥か上空、雲をも見下ろす漆黒の虚空に、その少女――幻覚ユメ(アポピス)は静かに佇んでいた。

地上を見下ろす彼女の顔から、先ほどまでアコやカスミに向けていたおっとりとした笑みが消える。

 

【ちょっと、厄介なことになっちゃったなぁ……。せっかく、すべてが順調に行っていたのに……】

 

幻覚ユメは、不満げにため息をついた。

生徒という「少女のテクスチャ(器)」を自らに張り付けたことで、アポピスは『心』という不安定ながらも恐ろしく強大な力を得た宿敵――『忘れられた神々』の性質を完全に理解した。

その強大な力を秘めながらも、非常に繊細で、いつ暴発してもおかしくない彼女たちのメンタルを自慢の砂糖で侵食し、攻略する方法を確立したのだ。

もはや己の勝利は揺るぎなく、キヴォトスの滅亡は確定。あとは残された少女たちの心をいかに弄び、愉しみながら、ゆっくりと壊していくだけの簡単なゲームのはずだった。

 

しかし、ここにきてその完璧な計画に、不快なイレギュラーが発生したのだ。

 

【百鬼夜行の大預言者……クズノハ……】

 

破壊されたカスミの脳の残骸からかき集めた、断片的な情報。

生徒のテクスチャを纏いながらも、内側から滲み出るその圧倒的な神性は、自分たちとほぼ同格の存在。

そしておそらくこの先、自分の計画にとって最大の障害となるであろう存在。

 

暁のホルス(ホシノ)や、死の神アヌビス(シロコ・テラー)にすら決して悟られなかった、アポピス自身の本体――隠された『核』の正確な場所を突き止めただけでなく、自慢の5層の認識阻害防御障壁を易々と破壊し侵入を許してしまったこと。

あの時、侵入したカスミが軽装であり調査だけで実態を掴むとすぐに撤退したことは、アポピスにとってはまさに九死に一生を得るレベルの危機だったのだ。

最初は、鬼怒川カスミという生徒自体がホルスらを超えるほどの異常な神秘の持ち主なのかと警戒したが、こうして砂糖漬けにして手元に置いてみれば、彼女自身の神秘は大したレベルではないことが判明している。

 

【クズノハ……お前の細工だったわけだね……】

 

カスミは、かなり以前からクズノハと秘密裏に接触し、連携して『砂漠の砂糖』の共同調査にあたっていた。

ホシノですらまだ気づいていない世界の真実を見つけ、あの神殿にまでたどり着いたのはキヴォトス全土を探してもカスミが初めてだったのだ。

その頃からカスミの行動の背後に、妙な『神性の影』を感じ取ってはいたが、今日ようやくその背後にいる黒幕の正体を完全に掴むことができた。

 

【早めに、あの障害は排除しておかないと……】

 

しかし、クズノハは現世から隔離された「別時空」の領域に引きこもっており、こちら側からは絶対に手を出すことができない。それが、非常に砂蛇の神経をいら立たせていた。

思考に焦りのノイズが走る。

 

【ダメ、落ち着かなきゃ……。このテクスチャに引っ張られちゃダメ……っ!】

 

ユメの姿をしたアポピスは、自らの頬をペチペチと両手で叩いた。

この『少女』というテクスチャは、こうして物理的に頬を叩くと、人間の肉体に引っ張られて生じたノイズ混じりの思考がクリアになるという、奇妙な特性を持っていた。

痛みが頭を冷やし、蛇の冷徹な計算が蘇る。

 

【大丈夫、勝機は十分にこちらにある】

 

こちらから手が出せないのと同時に、あちらからもこちらに直接手出しはできないことは確認済みだ。おまけに、現世への干渉率(アドバンテージ)はこちらが圧倒的に優位であり、勝っている。

 

【こっちには、キヴォトス中の虫ケラ(生徒)たちを、いくらでも代わりがいる駒として自由に動かせる。……でも、どうやらクズノハには、現世の生徒を直接駒として動かすことはできないみたいだね。せいぜい、さっきの鬼怒川カスミにしたみたいに、簡易的なバフや、使い捨ての防御壁を授ける程度が限界のようだね】

 

ユメの顔が、ニィッと、耳元まで裂けるような邪悪な笑みへと変わっていく。

 

【だったら、奴をこちら(現世)の舞台へと無理やり引き摺り出してしまえば私の勝ちだね】

 

クズノハもまた『少女』のテクスチャを纏っている以上、現世に完全に顕現してしまえばテクスチャのルールに取り込まれて肉体が固着してしまう。そうなれば、ただの無力な少女だ。

あとはキヴォトスの他の生徒と同じように砂糖で頭を狂わせ彼女にとっての弱みとなる存在を幻覚として精神に纏わり付かせれば、あとは勝手に自壊していく。

 

【そのためにも……百鬼夜行を燃やさないとね♪】

 

クズノハを現世に顕現させるための触媒は、必ず百鬼夜行自治区にあるはずだ。それを炙り出すためには、百鬼夜行自治区全体を砂糖漬けにして生徒たちを狂わせ、己の専用フィールド(支配下)にするのが一番の手っ取り早い方法だった。

 

【それにしても、ホシノちゃんも意地悪だなぁ~。ホシノちゃんの記憶を覗いた時は百鬼夜行なんて『わざわざ急いで砂糖を広めるような価値も意味もない場所』程度の認識だったから、すっかり後回しにしちゃっていたのに。まさかあんなに濃い神性の溢れる、美味しくて面白そうな場所が隠れていたなんてね、どうして教えてくれなかったんだろう!】

 

ホシノの精神を支配して以降、彼女の口から百鬼夜行についての言及はほとんど無かった。

さらにホシノの膨大な記憶と心をどれだけ覗き見ても、百鬼夜行に関する情報もほとんど存在しなかった。

せいぜい、「キヴォトスの東の端にある、極東の小さな自治区」程度の認識でしかなかったのだ。

しかし、実際にアポピス自身が調べてみれば、百鬼夜行は他のどの自治区とも遜色ない、いや、それ以上に濃密な独自の神性と神秘が溢れかえる、最高の空間だったのだ。

それは、砂糖の侵食を進めるアポピスにとって、格好の、そして最高のご馳走(餌場)であった。

 

【さっそく、アビドスに帰ってホシノちゃんにおねだり(精神干渉)しなくちゃ。『百鬼夜行を砂糖漬けにしようよ』ってね】

 

ふふ、と無邪気な声を漏らし幻覚ユメは踵を返そうとして――もう一度だけ、振り返って目を細めた。

遥か東の果て。神秘のヴェールに包まれた、小さな学園自治区。そのさらに裏側の暗闇に隠れている、愚かな卑怯者に向けて、蛇の睨みを利かせるように。

 

【クズノハ……。あなたを砂糖で狂わせ、あなたの大事なもの、全部奪って、破壊し尽くしてあげるからね】

 

少女の形をした幻覚の顔が、一瞬、おぞましい蛇の形へと歪む。

 

【きゃはははははははははははははははッ!!】

 

狂ったように笑い続ける少女。生前のユメからは決して発されるはずのない、しかし紛れもなくユメの声をしたその絶叫は、世界の終末を告げる不吉な鐘の音のように、静かに、しかし確実にキヴォトス全土の闇へと広がっていったのだった。

 

 

 

-----------------

 

 

 

 

翌日、ゲヘナ学園万魔殿から、全校生徒に向けていくつかの通達が慌ただしく発信された。

 

一つは、昨日ゲヘナを揺るがした大騒動について。

あちこちを爆破して回っていた温泉開発部が、活動中の不慮の「事故」によって、アジトもろとも再起不能なまでの壊滅状態に陥ったという報せ。

これを受けて万魔殿は、部としての存続は不可能かつ今後活動が再開される見込みもないと迅速に判断し、そのまま半ば強制的に正式な廃部手続きへと移行させた、という事実上の取り潰しの報告であった。

そしてもう一つは、温泉開発部のツートップ――鬼怒川カスミと下倉メグの両名が、重度の病気療養を理由に、本日付で無期限休学となる旨の告知であった。

 

「……以上が、万魔殿からの公式発表だ。まったく、騒がしい連中がいなくなって、ようやくこの自治区にもまともな静寂が訪れるというものだな」

 

演台で書類をまとめる万魔殿の生徒の言葉通り、ゲヘナの街からは、あれほど至る所でダイナマイトの爆音を響かせ、無差別に地面を爆破しては黒煙と泥水を撒き散らしていた温泉開発部の部員たちが、文字通り「一人残らず」姿を消していた。

残された部室やアジトはもぬけの殻。誰一人として連絡すら取れず、完全に全員が行方不明となっていた。

 

しかし、その不自然極まりない蒸発に対して、深く勘繰る者は誰もいなかった。

 

「おい、聞いたか? カスミの奴らが休学だってよ!」

「マジか! 温泉開発部が廃部かよ! やったぜ、これで明日から突然足元を爆破されずに済むんだな!」

 

ゲヘナ学園の生徒たちは、いつ爆弾が降ってくるか分からない恐怖から解放され、口々に喜びを分かち合っている。

いつもより少しだけ静かになったゲヘナの街並みを、生徒や市民たちの安堵の声と笑顔が満たしていく。

 

 

あのドロドロとした琥珀色の湯の底に、一体何が沈められたのか。

彼女たちの脳髄に、誰が何の手を施したのか。

 

その真実を知る者は、歓声に沸く街の中には、もう誰も存在しなかった。

 

 

(つづく)

 

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