アビドス砂漠の砂糖スレ自作概念置き場   作:砂糖堕ちハナエちゃんの人

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【本作を読む前にお読みください】
この物語は、原作公式ゲーム「ブルーアーカイブ」の公式シナリオである、


・2026年7月実装イベントシナリオ「出航!万魔船 マコト議長の華麗なる避暑」

・2026年8月実装メインストーリー第2部 Vol.1「炎と影」編(通称:ゲヘナ編)


の発表前に構想・執筆された作品です。

上記シナリオにて明かされた最新の公式設定や新事実は一切反映されておりません。

この設定の乖離はあくまで構想・執筆時期によるものであり、原作の未履修や知識不足によるものではございません。


公式設定との乖離や矛盾が多々あるかと存じますが、以上の点を十分にご留意の上、お楽しみいただけますと幸いです。


第14話 美食研究会(4)

ゲヘナ編第14話

 

戦火と狂気から遠く離れた、ゲヘナ学園裏通りの人気のない街角。

コンクリートで無機質に護岸整備された都市型の用水路沿いで、黒舘ハルナは引きずるようにして持ち帰った愛銃《アイディール》を足元に転がし、ガードレールに両手を突っ張ってうつ伏せにもたれかかるようにして崩れ落ちた。

 

這うようにして逃げ出した全身は、冷たい汗と脂でびっしょりと濡れている。彼女はガードレールに腹部を押し当て、身体を九の字に鋭く折り曲げると、水量の少ない川底へと向けて激しく上体を揺らした。

 

「――ッ、げ、がッ……! ぐぅ、おぉッ、ぇぇ……ッッ!!」

 

喉の奥から、破裂するような濁ったえづき声が放たれる。

胃袋を雑巾のように雑に絞り上げられるような劇烈な痙攣。ハルナは涙と鼻水を顔にくしゃくしゃに滲ませながら、口を大きく開いて体内からこみ上げる異物を吐き出した。

 

ビチャッ! グジュッ、ビチャビチャッ……!

 

舌を伝って転がり落ちたのは、通常の嘔吐物などではない。

先ほど、鰐渕アカリに覆いかぶされ、全身の穴やスカートの内側から無理やり注入された――あの悪夢のクリーチャー『パンちゃん』の高濃度の緑色の粘液の塊だった。毒々しく泡立つ不快なスライム状の塊が、都心部の冷たいコンクリートで囲まれた用水路の底へと無残に落ちていく。

 

「はぁっ、ごほっ……! う、がっ、ぇっ、ゴボッ……ッ!!」

 

ハルナは自ら震える右手の指を二本、喉の奥深くへと乱暴に突っ込んだ。

舌根を無理やり押し潰し、嘔吐反射を強制的に誘発させる。体内に少しでもあの邪悪な「砂漠の砂糖」の成分が残っていれば、自身の脳と理性が再び狂わされてしまうという極限の恐怖からだ。

 

指を突っ込むたびに、胃液と共に残った緑色の粘液がダラダラと口の端から垂れ流される。

だが、何度も何度も気が狂ったように指を押し込み、喉を傷つけて出血を伴うほどにえづきを繰り返しても、やがて何も出てこなくなった。

ただ「かえッ、ひっ、ごほぉッ!」と空気を吐き出す乾いた痙攣だけが腹筋を痛めつける。

 

「はぁ……っ、あ……っ、ふぅ……っ、はぁ……」

 

川底へ突き出していた上半身をのろのろと引き戻し、ガードレールの冷たい金属に額を押し当てて、苦しそうに浅い呼吸を繰り返すハルナ。

しかし、吐き出せるモノはすべて吐き出したはずなのに、自身の胸の奥底、そしてスカートに隠された下腹部の奥深い粘膜には、まだあの悍ましいモノの気配と、甘く熱い毒の感覚が残っているような違和感が決して消えてくれなかった。

 

もう一度、喉に指を込めて腹をよじらせる。

だが、すでに胃液すら一滴も残っていなかった。

酸性の胃液の苦味と、それを上回る圧倒的な砂糖の毒々しい甘みが、口の中と食道をただ熱く焼いているだけだ。

 

「……何も、出ない……っ」

 

まだ身体の奥底が蠢いているような悪寒と違和感に身を震わせながらも、とりあえず物理的な粘液の塊を吐ききったことにハルナはほんの少しだけ安堵の息を漏らした。

 

その時だった。ふと、制服のスカートの右ポケットに、硬い「何か」が転がっている違和感に気がつく。

 

震える指先でポケットを探り、それを引きずり出す。

ハルナの血の気が完全に引いた。彼女の手のひらに握られていたのは、以前まだ関係が良好だった頃に牛牧ジュリから「とびきりの新作です」と手渡された精製された高純度の『砂漠の砂糖の飴玉』だった。

ポケットから外気に触れたその瞬間、小さく固められたその結晶から濃密で邪悪な胸をかきむしりたくなるような悍ましい甘い香煙がふわりと立ち上り、周囲の空気を歪ませた。

 

「――っ!?」

 

香りを鼻腔から吸い込んだ瞬間、ハルナの脳髄に強烈な稲妻が走り全身の細胞が快楽を求めて悲鳴を上げた。

干からびた喉が勝手に鳴り、胃の奥底に残った違和感がその飴玉を迎え入れようと激しく共鳴して熱を放ち始める。

視界がグラリと揺れ、先ほどまで抱いていた恐怖すらも、甘い糖蜜で塗り潰されそうになる感覚。

 

(このままだと……またあの砂糖の毒に堕ちてしまうっ!)

 

脳裏に蘇るのは、無数のパンちゃんに寄生され理性を溶かされて獣のように涎を流して笑っていた相棒のアカリの末路だった。

 

「あ……ああ、ああっ……!!」

 

ハルナは恐怖に目を見開き、握りしめた高純度の飴玉を用水路の向こう側へと、まるで悪魔の呪いを振り払うかのように全力で右腕を振って投げ捨てた。

 

飴玉は間違いなく手放した――そう固く思い込んだハルナは、それがどこへ飛んでいったのか確認することすら恐怖し、ただ「ううううっ……!!」と苦痛と屈辱の声を漏らしながらガードレールから離れる。

地面に転がっていた愛銃《アイディール》を拾い上げると、ふらつく足取りで誰の救いもないゲヘナの暗い街角の奥へと、ハルナはよろよろと姿を消していくのだった。

 

 

 

---

 

 

 

ハルナを逃がし、ジュリが姿を消した爆心地の街路。

焦げた砂糖の甘い香煙と瓦礫の粉塵が舞う廃墟の中心で、獅子堂イズミと鰐渕アカリだけが取り残されていた。

 

「ゔあぁ……! きヒィ……ッ、ゔぅぅぅぅ!!」

 

体内の異形に完全に理性を喰い潰されたアカリが、濁った瞳孔をぎらつきながら喉を鳴らす。

口からは白い泡と緑色の粘液、そして粘っこい涎がダラダラと顎を伝い、手に握られた愛銃《ボトムレス》の銃口がゆらりとイズミへと向けられた。

 

「アカリ……お願い、もうやめてよっ! 私だよ、イズミだよっ!」

 

入院着の上から制服を羽織っただけの乱れた格好のまま、イズミは自身の愛銃である重機関銃《デイリーカトラリー》を構える。

だが、銃身を握る指先は微かに震えていた。

何度も一緒に笑い合い、お腹いっぱいご馳走を食べて、馬鹿な騒ぎを繰り返してきた大切な美食研究会の仲間。

その身体に、どうして本気で鉛の雨を浴びせられようか。

 

その躊躇いを、獣と化したアカリが見逃すはずもなかった。

 

「いひッ――!!」

 

アスファルトを爆砕するような踏み込みと共にアカリが突撃を仕掛ける。

かつてない暴走状態によって生まれ持った並外れた体力と打たれ強さは、底知れぬ怪物へと昇華していた。

アカリは引き金を弾き、アサルトライフルのフルオート射撃を絶え間なく浴びせかける。

ただでさえ重い銃弾が、射撃を重ねるごとに彼女の本能的な凶暴性を刺激し、腕力と破壊力を際限なく跳ね上げていった。

 

「きゃあっ!? くうぅっ……!!」

 

降り注ぐ凶悪な弾幕が、イズミの周囲の瓦礫を消し飛ばす。

イズミはこのゲヘナの市街地を知り尽くしており、街路や遮蔽物を活かして軽やかに駆け回る並外れた身のこなしを持っていた。

崩れたコンクリート壁を蹴り、驚異的な敏捷性で射線を避けようとするが、増幅されたアカリの銃撃の余波はそれすらも許さない。

何より身の軽いイズミにとって、アカリの放つ爆発的な威力を持った銃弾は一発かすっただけでも皮を裂き、骨を揺らす致命的な脅威だった。

 

「がはっ……! あ、アカリ、目を覚ましてってばぁっ!」

 

イズミは防戦一方に後退しながら、愛銃の銃口を向けて反撃の銃弾を放つ。

しかし、アカリを殺したくないという強い手加減と迷いが、狙いを足元や銃身の周辺にしか向かわせない。

おまけに、偶発的にアカリの身体へ届いた弾丸も彼女の体内で蠢くパンちゃんの異様な弾力によって火花を散らして硬く弾かれ、効果的な傷を与えることができないのだ。

 

「あ゙はぁっ! けへッ、ゔぁ゙っ!!」

 

自身の痛みを一切介さないアカリが、狂気の笑みを深めて距離を詰める。

その左手が《ボトムレス》の銃身下部に装着された大口径のグレネードランチャーへと伸びた。

 

――カチン。

 

「えっ……嘘、待って――!」

 

轟音。銃身下部から放たれたHE弾が、イズミの目の前の瓦礫に直撃して炸裂した。

炎と衝撃波、そして爆風に乗った鋭い破片の嵐が、軽装のイズミの身体を容赦なく吹き飛ばす。

 

「ぎゃあああっ!!?」

 

瓦礫の山へと背中から叩きつけられ、全身を襲う脳揺れと骨が軋む劇痛。

通常の生徒であれば即座にヘイローの光を失い、気絶していてもおかしくない圧倒的な必殺の一撃だった。

 

 

だが――崩れ落ちた噴煙の底から、イズミは不屈の闘志で顔を上げた。

 

 

彼女の身体には生まれつきどのような傷も、手当てや栄養の摂取によって周囲の何倍もの効率で急速に吸収・回復させる驚異的な体質が備わっていた。

どれほど痛みを負おうとも、生きる生命力と美食への執着が彼女の精神を底から支えている。

 

「こんなところで……負けてたまるもんですかぁっ……!」

 

イズミは震える手で制服のポケットに突っ込み、携行用のチョコバーを引きずり出すと、包装紙ごと乱暴に食らいついた。

ひとくち咀嚼し、嚥下する。そ

の強い意志と行動を合図に、彼女の体内に爆発的な癒しのエネルギーが巡り始めた。

流れていた血が止まり、打撲の痛みが急速に引いていくと同時に彼女の全身に並外れた気合と活力が漲っていく。

 

「いっけぇぇぇーーっ!!」

 

イズミは愛銃《デイリーカトラリー》を構え直し、引き金を力強く引き絞った。

体力が蘇ったことで、ただでさえ重い機関銃の連射スピードと取り回しが、目にも留まらない爆発的な速度へと跳ね上がる。

さらに元気一杯に残された体力の多さに比例して、銃口から放たれる弾丸の一発一発にまるで鉄槌のような重い圧力と追い打ちの勢いが乗っていった。

 

ズドドドドドドドドドドドドッ!!!!

 

アカリの身体を貫くためではない。

突進してくる獣を、その怪力ごと物理的に押し留めるための分厚い鉄の壁としての弾幕だ。

高速で降り注ぐ銃弾がアスファルトを砕き、アカリの足元へと弾幕の嵐を形成する。

さらに、射撃を続けるイズミが無意識の習性として時折放つ、とてつもない破壊力を秘めた渾身の一発がアカリの銃身や足元の瓦礫を正確に爆砕し、その突進を強制的に足止めした。

 

「ゔぐううぅぅっ!? ――ッ、きヒィっ!!」

 

連射の嵐と重い衝撃波に押され、アカリが初めて数歩後退する。

しかし、その濁った瞳からは殺気が消えるどころか、足止めされた苛立ちによってさらなる獣性の咆哮が上がった。

 

「アカリぃっ! お願いだから、もう正気に戻ってよぉっ!!」

 

イズミは涙を浮かべながら、必死に銃の引き金を弾き続ける。

相手は大幅に強化された不死身の獣。こちらは傷を癒しながら必死に弾幕を張るだけの防戦一方。

それでも、大切な仲間を見捨てることも、殺すこともできない。

焦げた砂糖と硝煙の匂いが混ざり合う廃墟の街角で終わりなき悲痛な戦いの銃声が虚しく響き、渡り高速で降り注ぐ機関銃の弾幕がアスファルトを砕き、アカリの足元へと防壁を形成し続ける。

 

しかし、どれほど体力を振り絞り回復の力で痛みをやり過ごそうとも、手加減を込めたイズミの反撃と理性を完全に失って殺意のままに突進してくるアカリの圧倒的な怪力との間には、決して埋められない残酷な力の差が存在していた。

 

「ぎ、がっ……! これ以上は……っ!」

 

激しい連射による発熱と疲労でイズミの構える愛銃《デイリーカトラリー》の銃口が僅かに跳ね上がった、まさにその一瞬の隙だった。

 

「きヒィっ――!!」

 

弾幕の切れ目を縫うようにしてアカリが瓦礫を蹴り飛ばし、肉食獣のような跳躍でイズミの懐へと肉薄した。

 

「えっ……!?」

 

銃を構え直す間すらない。

驚きに見開かれたイズミの目の前に、白い泡と緑色の粘液に塗れたアカリの顔面が迫る。

アカリは銃を撃つのではなく、獣に堕ちた本能のまま大きく開いたその口でイズミの利き腕――機関銃のグリップを握りしめていた右腕へと、容赦なく喰らいついた。

 

「――っ!? 痛っ、痛い痛いっ! 何するのよアカリっ!」

 

鋭い歯が皮膚と制服を噛み破り深く食い込む。

だが、悪夢はそれだけでは終わらなかった。

アカリはその強靭な顎で腕を噛み締めたまま、全身の体重を乗せて大きく身体を捻り上げたのだ。

 

 

――ベキッ!!

 

 

まるで太い木の枝が不自然にへし折られるような、乾燥した鈍い破砕音が響いた。

 

 

「ぎゃあああああああああっっ!!!」

 

 

右腕を不自然な角度へと折られ、かつて経験したことのない劇烈な激痛にイズミの喉から絶望の悲鳴が上がり、視界が真っ白に染まる。

指先から完全に力が抜け、愛銃《デイリーカトラリー》がカラン……と虚しい音を立てて冷たいアスファルトへ零れ落ちた。

 

アカリは血の滴る口元を歪め、地面に落ちたその重い機関銃の銃先を片手で乱暴に掴み上げる。

そして、まるで目障りな小石でも捨てるかのようにイズミの唯一の武器を遠くの廃墟の彼方へと軽々と投げ捨ててしまった。

 

「あ……ああ……私の、銃が……っ」

 

武器を失い、折れた右腕をかばいながら後退しようとするイズミ。

その無防備な身体へ、アカリの丸太のように重く無慈悲な拳と蹴りの雨が襲いかかった。

 

ドゴッ! ガキィッ! バキィッ!!

 

「ぐあっ! がはっ……! げぇっ……!!」

 

軽装備の身に、重装甲すら砕く怪力が直接叩き込まれる。骨が軋み、内臓を揺らされる圧倒的な暴力。

体質による癒しの追いつかないほどの激しい連続殴打に、イズミの身体から完全に力が抜け、ぼろ布のようにその場へ倒れ込んだ。

 

「ゔぁ゙っ……けへッ!」

 

動けなくなったイズミを見下ろし、アカリがその細い首元を大きな手でガシリと掴む。

そして、息も絶え絶えな少女の身体を、地面から引き剥がすように片手で高く持ち上げた。

 

「がっ……、うぐっ……! あ、アカリ……」

 

宙に浮いた足が苦しげに空を掻く。

イズミは折れていない左手で、自身の首を絞めるアカリの腕を必死に掴み、涙と血でぐしゃぐしゃになった顔で呼びかけ続けた。

 

「目を……覚ましてよぉっ……! 私たち……また、みんなで……お腹いっぱい……美味しいもの、食べるんでしょ……!? ねぇ……っ、お願いだから……っ!」

 

必死の涙と想い。だが、パンちゃんに寄生され、理性を完全に溶かされた怪物の耳にその言葉が届くはずもなかった。

アカリは無機質な濁った瞳孔を揺らしながら、「いひっ……♪」と笑い、首を掴む指先にさらなる致命的な怪力を込め始めた。

 

――メリ、メリメリッ……!!

 

華奢な首の骨が悲鳴を上げ、不気味に軋む異音が響く。

気道と血管を完全に押し潰され、酸素が途絶えたイズミの顔から急速に血の気が引き、頭上のヘイローが限界の明滅を始めた。

 

「ぎっ……、が……ぁ……っ……」

 

息が一切できず、喉の奥から声にならない断末魔の呻きが漏れる。

目の前が真っ暗になり、イズミの意識が最期の暗闇へと沈みかけ――もうダメだとすべてを諦めかけた、まさにその瞬間だった。

 

 

 

空間そのものを消し飛ばすような、極太で重厚な爆音の狙撃音が連続して轟いた。

 

それはただの銃弾ではない。研ぎ澄まされた高密度の「神秘」の力がたっぷりと込められた、一撃一撃が大砲の直撃にも匹敵する絶対的な破壊の意志を纏う3連射の必殺弾だった。

 

空気を引き裂き、扇状の衝撃波を巻き起こして飛来した重銃弾が、イズミの首を絞め上げていたアカリの胴体と側頭部、そして肩口へと寸分の狂いもなく直撃する。

 

 

「ぎガァあ゙あ゙あ゙っ!? ――ギ、グォォッッ!!?」

 

人間離れした傷ついた猛獣の耳を裂く咆哮が、爆心地に轟いた。

さすがの怪物も、重装甲を根底から粉砕する極限の圧力を伴う3連続の重衝撃には耐えきれなかった。

アカリの手から強制的に力が抜け、その大きな身体がダンプカーに横腹を轢かれたかのように数メートル先のアスファルトへと激しく吹き飛ばされ、地面を転がった。

 

 

「がはっ……! ごほっ、こほっ、あーっ、はぁっ、はぁっ……!!」

 

首を解放され、冷たいアスファルトへ落下したイズミが、酸素を貪るように激しく咳き込みながら咽ぶ。

ぼやけた視線で銃弾の飛来した街路の先を振り向くと、爆煙を切り裂くようにして響き渡る、凛とした怒声が耳に届いた。

 

 

「お前らなにやってるんだー!!」

 

 

そこに立っていたのは、愛銃《クラックショット》を構え鋭い視線を光らせる風紀委員――銀鏡イオリだった。

彼女は、救護セットと銃を携えた火宮チナツをはじめとする大勢の風紀委員の精鋭たちを引き連れ、無法地帯と化した爆心地へと、まさに怒涛の勢いで突入してきたのだった。

 

 

 

 

---

 

 

 

「チナツ! 獅子堂イズミの救護と後退を最優先にしろ! ここは私が食い止める!」

 

「了解しました! イオリの補佐を――いえ、今のイオリの狙線に入ると巻き込まれますね。部隊は私と共に負傷者の搬送と周囲の警戒を!」

 

風紀委員会の精鋭たちが迅速に動き、瀕死のイズミを担架へと乗せる。

その盾となるように銀鏡イオリは愛銃《クラックショット》を構え、土煙の向こうで蠢く異形――鰐渕アカリを睨みつけた。

 

風紀委員会切り込み隊長として、これまで数多の荒くれ者をねじ伏せ数々の戦場をくぐり抜けてきたイオリの実力は圧倒的だ。

誰がどう見ても、武器を失い理性を完全に飛ばした単身の暴徒相手なら、彼女が瞬く間に制圧して圧勝する――その場にいた誰もがそう信じていた。

 

 

だが、この日のゲヘナの街路は、イオリにとって最悪の条件が揃いすぎていた。

 

 

「きヒィッ……! ぁ゙はぁッ!!」

 

アカリが血と粘液を滴らせながら、四つ足の獣のような低い姿勢で地を蹴る。

その手には愛銃《ボトムレス》が握られており、狙いを定めることもなく、ただ近づくものを粉砕するためだけに引き金が乱暴に引き絞られた。

 

ダダダダダッ!! ドッガァァンッ!!

 

「くぅっ……! こいつ、なんてデタラメな銃撃を……!」

 

重厚なコンクリート壁や舗装された街路など、障害物が多く見通しの悪い市街地――ここは、イオリが最も得意とする狭所や見通しの良い屋内の戦場とは異なり、彼女の精密なステップやフットワークのキレを鈍らせる苦手な環境だった。

逆に、ゲヘナの市街地や野外での暴動に慣れ親しんだアカリは、崩れた瓦礫や障害物を水を得た魚のように利用し、不気味なスピードで跳躍と突進を繰り返す。

 

「舐めるなっ! その程度の動き、私の目からは逃げられない!」

 

イオリは持ち前の卓越した眼力と集中力で獣の軌跡を捉え、ボルトアクションの狙撃銃を寸分の狂いもなく構えた。

 

――ダーンッ!!

 

鋭く放たれた銃弾は、敵の装甲を鋭く貫くことに特化した特殊弾だ。

放たれた弾丸は正確にアカリの右肩の重装甲を撃ち抜き、火花と黒血を激しく噴き出させた。

本来であれば、重装甲をまとった相手の急所を貫く、まさに致命の一撃。

通常の生徒なら撃ち貫かれた衝撃だけで腕が麻痺し、地に崩れ落ちているはずだった。

 

 

しかし――アカリは止まらない。

 

 

「ぎっ……、いひ、きヒィィィッッ――!!」

 

肩を撃ち抜かれた痛みを完全に無視し、むしろ傷口からあふれる自身の血の匂いに狂喜するように、アカリの濁った瞳孔が不気味に縮んだ。

彼女の肉体は元来、他の生徒を遥かに凌駕する圧倒的なタフネスと生命力で構成されている。

それに加えて、体内に寄生した無数のパンちゃんが肉体を強制的に接着し、人間としての痛覚とブレーキを完全に麻痺させていたのだ。

 

「なっ……!? 急所を貫通させたはずだぞ! なぜ倒れない!?」

 

驚愕に目を剥くイオリの眼前へ、血だらけの怪物が肉薄する。

 

「ゔあ゙あ゙あ゙あああッッ!!」

 

アカリが《ボトムレス》を振り回し、至近距離からアサルトライフルのフルオート射撃を浴びせかけた。

弾幕を避けようとイオリは地面を転がるが、ここでさらなる悪夢のような悪循環がアカリの身体に発生する。

 

アカリには、銃を撃ち続け、興奮が高まるほどに無意識下で自身の腕力と破壊力を際限なく跳ね上げていく異常な戦意の高揚(才能)が備わっていた。

一つだけでも厄介なその戦意の高揚が、理性を失った狂乱の共鳴により、二重、三重に重ね掛けされていく。

 

カチン――!

 

アカリの左手が銃身下部のグレネードランチャーを乱打した。

 

「――チッ!!」

 

イオリは咄嗟に瓦礫の裏へと身を飛び込ませる。

次の瞬間、高爆薬榴弾が炸裂し、凶悪な爆風とエネルギーの嵐がイオリの全身を容赦なく叩きつけた。

 

 

ドッガァァァァンッ!!

 

 

「きゃあああっ!?」

 

イオリの悲鳴が上がり、制服が衝撃波で引き裂かれる。

本来、イオリは隠れ場所に身を潜めることなく、自身の姿を敵の前に堂々と晒して銃を撃ち合うことで、極限まで威力を高める捨て身の戦法を最も得意としていた。

だが今、背後には瀕死のイズミを搬送するチナツたち医療部隊がいる。

自分が障害物から飛び出して大きく移動すれば、アカリのデタラメな弾幕と榴弾の爆風が背後の負傷者たちへ直撃してしまう。

 

(くそっ……! 私がここで引き撃ちや迂回をすれば、後ろの奴らが巻き込まれる! ここで止めるしかないっ!)

 

風紀委員としての誇りと責任が、イオリの最大の武器である「隠れない捨て身の超攻撃」を封じ、足場が悪く苦手な市街地の瓦礫を盾にした「防戦」へと彼女を強制的に縛り付けていた。

 

「ゔぅぅぅ……、きひ、ぁ゙はぁッ!!」

 

増幅されきったアカリの暴力は、もはや災害の領域に達していた。

放たれる弾丸が瓦礫を豆腐のように粉砕し、榴弾の着弾衝撃が地震のように地面を揺らす。

 

「はぁっ、はぁっ……! なんだこいつは……! 撃っても撃っても止まらない……!」

 

イオリは肩で荒い息を吐き、煤と血に汚れた額の汗を拭った。

こちらの必殺の狙撃で確実に肉体を穿っているはずなのに、倒れるどころか笑いながら火力を増していく不死身の怪物。

自分が盾にならなければ後方が全滅するという極限のプレッシャー。

 

圧倒的強者を誇るはずの銀鏡イオリの表情に、かつてない焦燥と、底知れぬ狂気への冷や汗がにじみ始める。

 

「がっ、はぁっ……! なんてデタラメな腕力だ……っ!」

 

連射の熱で煙を吐く愛銃《クラックショット》を盾に、イオリは必死に距離を取ろうと足掻く。

しかし、崩れた瓦礫や見通しの悪い狭所を得意とするアカリの獣性は、イオリが息を吸うほんの一瞬の隙すらも見逃さなかった。

 

「いひッ――!!」

 

弾幕の切れ目を縫い、猛獣のような低い姿勢でアカリが地を蹴る。

気づいた時には、緑色の粘液と白い泡に塗れた狂気の顔面が、イオリの目の前――完全に懐の内側へと潜り込んでいた。

 

「なっ……!?」

 

銃を振り向ける時間すらない。アカリの丸太のようにぶ厚く重い拳が、至近距離からイオリの腹部へと容赦なく叩き込まれた。

 

 

――メキリッ!!

 

 

あばら骨が不気味に軋み、砕ける嫌な音が響いた。

その圧倒的な衝撃に、イオリの華奢な身体がボールのように宙を舞う。

 

「げふぅっ……!!」

 

口から血を吐き出しながら、アスファルトの上を激しく転がるイオリ。

だが、痛みに耐えて姿勢を立て直そうとする間もなく、アカリの無慈悲な追撃が襲いかかった。

 

「あ゙あ゙あ゙あああッッ!!」

 

まるでダンプカーのような勢いで突進してきたアカリの肩が、起き上がりかけたイオリの身体をさらに激しく跳ね飛ばす。

宙を舞ったイオリは、背後にある崩れかけたコンクリートの壁へと、その頭部と背中から思いっきりめり込むようにして激突した。

 

「ぎゃあっ……! ――ぁ……っ」

 

激しい衝突音と共に壁にクレーターのような亀裂が走る。

頭部への劇烈なダメージに脳を揺らされ、あばらの劇痛に呼吸すらままならない。

壁にめり込んだまま、イオリの全身から完全に力が抜け、ズルズルと血の痕を残しながら地面へと崩れ落ちた。

 

(動け……! 足、動けよ……っ! 私が倒れたら、チナツたちが……っ!)

 

視界が真っ赤な血と暗闇で明滅し、ぼやける。

その霞む視界の向こうから「きヒィッ、ぁ゙はぁ……!」と不気味な吐息を漏らしながら、アカリがゆっくりと一歩、また一歩と距離を詰めてくるのが分かった。

手のひらには愛銃が握られているが、持ち上げる腕力すら残っていない。

 

もうだめだ。ここで、やられる――!

 

イオリが歯を食いしばり、最期の一撃を覚悟して目を閉じかけた、まさにその瞬間だった。

 

――ブロロロロロロロロロッッッ!!!!

 

突如として瓦礫の立ち並ぶ廃墟の向こうから、重厚なエンジンが荒々しく唸りを上げる爆音のような駆動音が響き渡った。

 

「……?」

 

アカリが怪訝に首を向けた次の瞬間。

 

――ドコォォォッッ!!

 

すさまじい金属の衝突音と鈍い肉弾音が轟き、イオリの目の前に迫っていたアカリの大きな身体が、まるで紙屑のように横方向へと激しくブレた。

 

突如として街路へ乱入してきたのは、車体前面に重厚なバンパーの大型の軍用トラック――ゲヘナ学園救急医学部の特殊車両『緊急車両11号』だった。

 

トラックは減速するどころかアクセルを全開にしたまま、狂暴化していたアカリを無慈悲な突進で正面から跳ね飛ばしたのだ。

さらに、跳ね飛ばされてアスファルトへ落ちたアカリの身体を大きな前輪で力任せに巻き込むと、猛烈なタイヤのスキール音と黒煙を上げながら、そのまま十数メートルもアスファルトを削って滑走し、急停止した。

 

「な……なんだ、これ……!?」

 

壁にめり込みながら、イオリが唖然として目を見開く。

もうもうと立ちこめる砂塵とタイヤの煙の向こうで止まったトラックの運転席ドアが、ガチャリと静かに開いた。

そこから姿を現し、青い制服に純白のエプロンを揺らして煙を払うように降りてきたのは、ゲヘナ学園救急医学部の部長――氷室セナだった。

彼女はいつも通りの冷徹で無表情な顔つきのまま、トラックのタイヤの下で緑色の粘液にまみれて完全に気を失っているアカリや、激しい戦闘によって荒れ果てた周囲の惨状を、きょろきょろと平然とした様子で見渡した。

 

そして、手にしたクリップボードに視線を落としながら、まるで日常の買い出しにでも来たかのような淡々とした声で、こう呟いたのだった。

 

 

「――美食研究会の、新鮮な死体を取りに来ました」

 

 

---

 

 

「う、うぅぅ……!」

 

陽の差さないゲヘナの薄暗い裏路地。コンクリートのビルの壁に頭と肩を擦り付けるようにして、黒舘ハルナは泥酔者のような覚束ない足取りで彷徨い歩いていた。

その整った顔立ちは苦悶に歪み、見開かれた瞳の下には、酷使された精神を物語るような濃く大きな黒隈が刻み込まれている。

 

「これで良かった……これで……良かったのです……」

 

世界がぐらぐらと揺れ、景色が悍ましい極彩色の渦となって廻る。

それでもハルナは、必死に駅のある方向へと向かって歩を進めようとしていた。

 

「た……たすけてください……先生……先生ぇぇ……」

 

駅の方向、そしてその遥か遠く、ここからは見えないはずのD.U.にあるシャーレのビルへと向かって、すがりつくように震える手を伸ばす。

砂漠の砂糖の毒に脳髄まで染まり、呪いに蝕まれていく中で、ハルナは絶望的な事実に気がついてしまっていた。ゲヘナはもう完全に、あの邪悪な砂糖の毒に染まり上がっている。どこもかしこも脳を焼くような甘い匂いが充満し、ハルナに残された逃げ場など、この自治区のどこにも存在しないのだ。

 

だからこそ、最後の救いを求めて、自分たちを導いてくれる唯一の存在である『先生』の元へ行こうと足掻いていた。

だが、そんなハルナの惨めな姿を嘲笑うかのように、幻聴が頭蓋の内側で反響し始める。

 

『ねぇ見なさいよ。ハルナがシャーレに向かおうとしてるわ。ほんと哀れよね』

 

『ふふっ、ハルナも本当に愚かですね。今シャーレに行ったって、先生なんて居ないのに☆』

 

「うるさい……ですわね……」

 

『もうそろそろ限界でしょ。さっさとそのお砂糖を食べなさいよ』

 

『ええ、痩せ我慢は身体に毒ですよ☆』

 

まとわりつく三つの声。己の精神を底へ底へと引きずり込もうとする『砂糖の悪魔たち』の悪意ある幻聴が、絶え間なく響き続ける。

 

「あんなもの……私は二度と食べませんわ……!!」

 

心砕けそうになるのを必死に自らを鼓舞し、ハルナは叫ぶ。

 

『あははっ! 二度と食べない、ですって? よくそんな事が言えるよね』

 

『でも、口と頭と違って身体の方は正直だよね~!』

 

『その手に握っているモノを、よぉくご覧なさいな☆』

 

「ッ!!?」

 

脳内に響く悪魔らの声に指摘され、ハルナは自身の最も力を込めやすい利き手――右手を見遣った。

自分の知らない間にその手は爪が掌に食い込み、血が滲むほどに固く握りしめられていた。

まるで手の中にある”ナニか”を絶対に離さないと、本能が叫んでいるかのように。

 

『何してんのよ、さっさと開いて見なさいよ』

 

無意識に固く握りしめていた手から恐る恐る力を抜き、指を開く。

掌の空間に隠されていた物が露わになった瞬間。

 

「ひっ……!」

 

ハルナの口から、悲鳴が漏れた。

そこには、”捨てたはず”の数粒の『砂漠の砂糖』の飴玉が、ねっとりとした汗にまみれてへばりついていたのだ。

確かにここに来る前、用水路の川底へ向かって全力で投げ捨てたはずだった。だというのに、自身の手はそれを手放すことすら拒絶していたというのか。

 

『ソレを捨てるだなんて、良いわけ無いじゃない』

 

『本当に捨てたと思っていたのですか?』

 

「こんなものが……っ、こんなものがあるからっっ!!」

 

手の中にある飴玉が酷く悍ましく、おぞましい寄生虫のように感じられ、ハルナは今度こそ遠くへ投げ捨てようと大きく右腕を振りかぶった。

 

『あら、ミュロンのディスコボロスみたいな格好して、一体何がしたいんですか?☆』

 

「ッ!? そ、んな……」

 

振り下ろせない。

手の中の飴玉を投げ捨てようと腕を振りかぶった姿勢のまま、ハルナの身体は空中でピタリと硬直して動けなくなっていた。

必死に放り投げようとする心に反して、筋肉と神経が激しく抗い、飴玉を手放すことを完全に拒絶している。

ハルナはついに理解してしまった。自分の身体が、自分の理性では既に制御できなくなっているという絶望的な事実を。

 

『あははっ! ほらね? 言った通りでしょー?』

 

砂糖の悪魔が脳内で、耳元で、その惨めな姿を嗤う。

 

「うるさい……うるさいうるさいぃッ……!!! ………こんな、美食を冒涜するものを、絶対に私は認めませんわ…!」

 

ハルナは自らを奮い立たせる様に叫んだ。

黒舘ハルナの美食への流儀と情熱は本物だ。彼女の信念とも言える美食の定義は、味や材料の良し悪しだけではない。そのホスピタリティや、誰と共に食卓を囲むのかといった環境的要因もすべてが加味されてこその『美食』なのだ。

だというのに、手の中のものは、その尊い過程の全てを暴力的なまでの単純な快楽で塗り潰してしまう。そんなものを、ハルナが許せるはずが無かった。

 

「こんなものより、先生と一緒に頂く食事の方が、ずっと……!」

 

『へーそうなんだ。だったら教えてほしいなー』

 

『砂漠の砂糖よりも素晴らしい美食があるなら、是非知りたいですね☆』

 

『私達に教えてよ、その先生と一緒に食べる最高の美食って奴を!』

 

脳内で響く悪魔たちのざわつきに、これが反撃のチャンスだとばかりにハルナは心を震わせ叫んだ。

 

「ええ、とくと語りましょう。あれは――――」

 

声の主張を否定する為、これまでの人生で最高の美食を思い出す。

最も愛しい人と語らいながら、好きなものを食べたあの幸福な瞬間。あの時感じた味は───。

 

「ぇ…あ、あ…あああぁっ!?」

 

言いかけて、ハルナの全身が凍り付く。

思い、出せない。

彼女の信条を支える美食の理想形。何時でも色鮮やかに思い出せたはずのその美味が、思い浮かばなかった。

いや違う。思い出そうとしたその瞬間、あの忌々しい砂漠の砂糖の甘味が脳髄を侵食し、大切な思い出を上からどろどろと塗り潰し始めたのだ。

 

 

 

――忘れるはずがない、先生と一緒の帰り道、偶然見かけた□□□□屋さんで見つけた□□□□の味を。

 

 

――忘れるはずがない、羽飾りの違いを気づいてもらえ、先生の応援の中、1位を獲った□喰い競争で食べたあの□の味を。

 

 

――忘れるはずがない、D.Uの高級デパートで新作晴れ着試着会と□□□料理の試食会へ行き、先生と食べさせあいっこしたあの□□□料理の味を。

 

 

 

ハルナにとって心の柱であり最後の砦だった、先生との□食の思い出が、その味が、思い出せない。

 

ただ、ただ真っ白に、暴力的な甘ったるさに押しつぶされ、消されていく――!!

 

『ほらっ! 何してんのよ。早く教えなさいよ』

 

『ねぇまだー? 早く美味しいお話聞きたいよ~』

 

『まだですか? これよりも素晴らしい物でしたら、すぐに浮かぶでしょう?』

 

砂糖の悪魔たちが焦らすように煽り立てる。

しかし焦れば焦るほど、まるで指の隙間からこぼれ落ちる砂のように、砂糖の粒のように、ハルナの脳から大切な記憶が零れ落ちて消えていく。

 

 

先生との□□の思い出(メモリアルロビー)が――。

 

 

「やめてっ!! やめてっ!! やめてくださいっ!! 私の希望をっ!! 私の生きがいをっっ!! 思い出を奪わないでぇ!!!」

 

零れた思い出を必死にかき集めようと足掻くハルナ。

脳内に纏わりつく粘着質な甘味を物理的に振り払おうと、彼女は狂乱してコンクリートの壁に自らの顔を何度も何度も叩きつけた。

ゴッ、ガッ!と鈍い音が響き、美しい額が裂け、真っ赤な血が溢れ出しても、その自傷行為は止まるどころか酷くなる一方だった。

 

『痛いだけじゃん! 無駄なことしてウケる!』

 

『ほらほら、血が出てますよ? 惨めですねぇ☆』

 

『もう諦めなよ! お砂糖食べたほうがずっと幸せになれるよ!』

 

耳元で、悪魔たちがハルナの絶望を囲むように嘲笑の言葉を浴びせかける。

今出てくるものは、手の中のものに蹂躙された暴力的な快楽の記憶だけ。頭から冷水を被せられたかの様に、ハルナの思考は完全に停止してしまった。

 

「あぁ、こんなの…嘘…嘘です…」

 

あまりの喪失感に、自分という存在そのものが足元からボロボロと崩れ落ちる様だった。

見開かれた虚ろな目からは止めどなく涙の雫が流れ落ちるが、頭の中の声は遠慮なく言の葉を継ぐ。

 

『いい加減諦めなさいよ』

 

『自分の身体すらままならないのにさー』

 

『さあ、手の中の真の美食を堪能なさい☆』

 

「いやぁ……いやぁああああ」

 

ついに膝の力が抜け、その場にへたり込んでしまうハルナ。

絶望の深い闇がせまり、掌の飴玉から噴き出した濃密な甘い香りに、ついにすべての抗いを諦め、意識を委ねようとした――その時だった。

 

 

「ハルナッッッ!!!!!」

 

 

俯き、そのまま泥の地面へと倒れそうになったハルナの耳に、突然大きな叫び声が響いた。

同時に力強い手が両肩を乱暴に掴み、沈みかけていた身体をそのまま強引に引き起こす。

眩暈と涙でぼやける視界の先に、炎のように揺れる『赤毛』が見えた。

 

「……っうっ、えっ……??」

 

「ハルナッッ!! しっかりしなさいよっっ!! ハルナッッ!!」

 

声の主が大声を出し、その不快な怒声が、ハルナのボロボロに疲弊した聴覚神経を激しく刺激する。

 

「なんでアンタ一人だけこんなところに居るのよっ! ジュリの店、爆破しに行ったんじゃないの!? ねぇ、他の二人はどこに居るの? イズミはどこ? アカリはどこ?」

 

思いっきり掴んだ両肩を、容赦なく前後に激しく揺さぶる赤毛の少女。

首の骨が軋み、揺さぶられる頭部の脳髄が、嘔吐感を伴う悲鳴を上げる。

 

「痛い……苦しい……おねがいです……やめてください……」

 

掠れた小さい声で抗議するハルナの言葉などお構いなしに、赤毛の少女は揺さぶり叫び続ける。

その声のトーンに、ハルナは聞き覚えがあった。

 

 

 

――コイツは私を追い詰め、嘲笑い、思い出を奪った『砂糖の悪魔』の声だ。

 

 

 

バシィィッ!!

 

 

「ぎゃあ゙あ゙っ!?!?」

 

突然、赤毛の少女の側頭部へ、ハルナの全力フルスイングの平手打ちが炸裂する。

思わず身体が横にブレ、ハルナの肩を掴んでいた腕の力が緩む。

そこへハルナは両腕を思いっきり前へ突き出し、目の前の赤毛の少女を乱暴に突き飛ばした。

少女は受け身も取れず、2度、3度と跳ねるように薄汚れた地面を転がった。

 

「痛ったーいっっ!!! ちょっといきなり何すんのよ、ハルナ―――」

 

文句を言おうと顔を上げた赤毛の少女の鼻先。

そこに、ハルナがいつの間にか手元へと引き寄せていた愛銃《アイディール》の長く黒い銃口が、冷たく突きつけられていた。

 

「ふふっ……ふふふふっ………いけませんわ。私としたことが、また騙される所でしたわ」

 

ハルナの焦点の合わない瞳が、濁った殺意を帯びて三日月のように細められる。

ゆっくりと、愛銃のトリガーに指を掛けた。

 

「その手は2度と喰いませんわ。……愚かにも、のこのこと現実(ここ)へ姿を現しましたね、―――砂糖の悪魔め」

 

赤毛の少女の視界を、強烈なマズルフラッシュの閃光が灼き尽くした。

ハルナの全力の神秘の力が込められた破壊の銃弾が、ほぼゼロ距離から放たれたのだった。

 

 

――ズガァァァァァァァァンッ!!

 

 

「きゃあああああっ!?」

 

至近距離から放たれた神秘の銃弾の直撃を、赤毛の少女は持ち前の並外れた身のこなしで頭部への直撃こそ避けたものの、彼女の軽装備ではその莫大な運動エネルギーを完全に防ぐことなどできなかった。

着弾の衝撃で肩口の制服が激しく裂け、激痛に顔を歪めながら後方へと吹き飛ばされる。

 

「痛いっ!! 痛いっ!! 止めてよ、私だよっ!! □□□□だよぉっ!!」

 

少女は吹き飛ばされた先で痛みに顔を歪めながら、自身の愛銃である二丁のアサルトライフルを盾のように交差させ、必死にハルナへ呼びかけ続ける。

だが、彼女の口にする『名前』の部分だけがまるで古いラジオのひどいノイズに掻き消されるように潰れてしまい、ハルナの耳には不快な悪魔の雑音にしか聞こえない。

 

「黙りなさいっ! 砂糖の悪魔の分際で、気安く私を呼ばないでっ!!」

 

ハルナは血走った眼で怒鳴り散らし、再び愛銃を構える。

通常であれば黒舘ハルナの狙撃は精密機械のように一切の無駄がなく、一撃で確実に標的の急所を穿ち抜く。

だが今の彼女は、激しい頭痛と砂糖の毒による強烈な視界不良でピンボケの世界を揺蕩っており、狙いなど全く定まっていなかった。

 

その焦燥感と狂暴性がハルナの戦闘スタイルをかつてない乱戦仕様へと暴走させる。

彼女は、本来は精密射撃を行うための狙撃銃であるはずの愛銃の引き金を、「次々と弾が出る」という連射特性に任せて滅茶苦茶なペースで乱射し始めたのだ。

 

パン、パン、パン、パンッ!!

 

「ひぃっ!? ぐあっ……!!」

 

直線上に放たれた連撃の弾丸が、赤毛の少女の逃げ惑う足や腕を次々と正確に穿っていく。

さらにハルナの無意識から放たれる広範囲の爆撃が、裏路地全体を覆い尽くすようにして降り注ぐ。

逃げ場を完全に塞がれた赤毛の少女は必死の回避で致命傷こそ免れているものの、全身に無数の傷を負い、ついに力尽きて冷たいアスファルトの上に崩れ落ちていった。

 

しかし、その圧倒的な暴力の嵐は、唐突な終わりを迎える。

 

――カチッ。

 

「え……?」

 

空気を叩くような、虚しく軽い金属音。

連射が効くとはいえ、ハルナの愛銃の標準マガジンには『5発』しか弾が入っていない。

激しい頭痛とパニックの中で引き金を乱射した結果、一瞬にして弾を撃ち尽くし銃はホールドオープン(弾切れでボルトが下がった状態)のまま沈黙したのだ。

 

「あああっ、もうっっ!!」

 

ハルナは苛立ちに声を荒らげ、空になったマガジンを引き抜こうとする。

だが、感覚が完全に鈍りきった指先はマガジンを抜くための小さなキャッチレバーをうまく捉えることができない。

ガタガタと銃身を揺らし、ようやく空のマガジンを落としたものの、ハルナの手持ちの予備マガジンはこれまでの道中や今の狂ったような乱射ですべて完全に撃ち尽くしてしまっていた。

 

もはやマガジンのストックは一つもない。ハルナは震える手でポーチを探り、実弾(7.62mm弾)をバラの状態で直接掴み出した。

だが、視界が揺れ指先の痺れが限界に達している彼女に、銃から引き抜いたマガジンの狭いリップ(給弾口)へ、硬いバネの抵抗に抗いながら小さな弾丸を正確に押し込む繊細な作業などできるはずがなかった。

 

カランッ、バラバラバラッ……!

 

さっきまでの激しい銃声から一転、静まり返った路地に、ハルナの手から滑り落ちた真鍮の銃弾が、無残にアスファルトへ散らばって転がる音だけが響き渡る。

 

「ああっ、もうっ! なんで、どうして……っ!」

 

焦りと苛立ちに声を震わせ、ハルナは拾い直そうと地面に手を伸ばすが、指先は酷く痙攣して思うように動かない。

普段は誰よりも完璧でエレガントな振る舞いを崩さない彼女が、手元を狂わせ、泥臭く弾をぶちまけ、パニックに陥って喘いでいる。

その姿は、あまりにもショッキングで悲惨なものだった。

 

その時、地面に散らばる銃弾に苛立っていたハルナの視界の端で、倒れ伏せていた赤毛の悪魔が這いつくばるようにして路地の奥へ逃げようとしているのが見えた。

 

「誰…か……助け…て……ハルナ……を……とめ……て……」

 

息も絶え絶えに、這いずりながら外部へ救いを求めるような言葉。

その惨めで自分を被害者のように偽る姿が、ハルナの胸の奥底で燻っていた底なしの憎悪に火をつけた。

 

「逃がし……ませんわっ!!」

 

ハルナは弾の入っていない愛銃の持ち方を、瞬時に反転させた。

銃身(バレル)側を両手で固く握りしめ、重量約8kgにも及ぶ巨大な鉄と樹脂の塊である『銃床(ストック)』側を、完全な鈍器(クラブ)として高く振りかぶる。

 

そして、洗脳と毒の苦痛で正気を完全に失ったハルナは、地べたを這いつくばる悪魔の後頭部から背中を目掛けて、その重い鉄塊を勢い良く振り下ろし、全力で叩きつけた。

 

ドゴォォォッッ!!

 

「ぎゃあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ッ!!!」

 

路地に響き渡る、少女の絶叫。

赤毛の少女の身体には、窮地に陥るほどに不死身に近い生命力と不屈の闘志が湧き上がる特異な体質が備わっていた。

しかし、理性を失い純粋な殺意のままに何度も何度も振り下ろされる約8kgの鉄塊による容赦のない質量攻撃は、そのしぶとい防壁すらも紙屑のように叩き潰していく。

 

愛銃の固いボディ越しに伝わってくる、皮膚が裂け、肉が潰れ、骨が砕け散る音と鈍い感触。

それが、狂気に沈んだハルナの嗜虐心をかつてないほどに擽り、甘く煽り立てた。

ハルナはより高く、より早く、息を荒らげながら銃床を振り上げ、悪魔へと延々と振り落とし続ける。

 

「よくも! よくも! よくも! 私を愚弄し、弄びましたわね! 絶対に許しませんわ!死んでください!死ね!死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇぇぇええええええええええ!!!!!」

 

グッシャアアアアアアアアアア!!!

 

ついに、勢いよく振り下ろされた銃床が悪魔の身体へと深々と突き刺さり、おびただしい鮮血が吹き出し、ハルナの美しい銀髪を、顔を、制服を真っ赤に染め上げていく。

顔に浴びたその血の感触が、狂ったハルナの脳には、とても生暖かくて気持ちの良いものに感じられた。

 

そして、悪魔の頭上に弱々しく輝いていたヘイローが、パリンッ……とガラス細工が砕けるような音を立てて砕け散る。

ビクビクと痙攣していた悪魔の身体は、ついに完全に動くのをやめ、沈黙したのだ。

 

「ふふっ……うふふふふっ……あははははははははは!!」

 

ハルナの喉から、狂喜の哄笑が弾けた。

 

「やった! やった! やった! やった! やりましたわっ! あははははっ、見なさい! これが私の勝利ですわ! どんなに恐ろしい甘味の誘惑だって、この私の気高き精神を汚すことなど出来はしないのです!!」

 

鮮血で染まった顔を狂気に歪め、空に向かってハルナは狂い嗤う。

 

「どうですかっっ!! 見ましたか、この結果を!! あははははっ、私は正気ですわ! ええ、これでも私が砂糖に溺れているなんて言えるかしら!? 私の愛する美食の誇りは、あんな邪悪な毒ごときに決して穢されたりなどしないのですから! あははははははははははははははははは~~~!!!」

 

路地に反響する狂った笑い声。暫く腹を抱えて笑い続けた後、ハルナはゴホッ、ゴホッ!と盛大に咽せた。

 

「ああっ、気持ちが良いです。今日はなんて素晴らしい日なのでしょうか!!」

 

口元の血を拭い、さてと、とハルナは考える。憎き悪魔は倒した。これからどうするか。

 

「……そうです。牛牧ジュリを殺しに行きましょう」

 

ハルナの濁った瞳に、確信めいた凶悪な光が宿る。

 

「あれは存在してはいけない生き物なんです。あの女が砂漠の砂糖を生み出し、私たちのゲヘナを壊したすべての元凶なんですから!!」

 

そうだ、あの爆破した店に戻ろう。戻って、生き残っているであろう牛牧ジュリを始末しよう。

ハルナの脳内で、ウキウキとした足取りのまま恐ろしい計画が練り上げられていく。

 

「そうですわ!どうせ殺るなら、フウカさんの目の前で、あの女の罪をすべてさらけ出して処刑しましょう。フウカさんも、きっと喜んでくださるはずですわ」

 

大切な仲間である愛清フウカのそばに、あんな毒を撒き散らす女が居てはフウカが汚されてしまう。

フウカの身は、自分達『美食研究会』が保護すればよいのだ。

 

ただ、心優しいフウカはきっとジュリの処刑に反対するだろう。

だからこそ、フウカの目の前であの女のすべての罪悪を断罪し、逃げ場のない状態で処刑を見せつける必要がある。

 

「そうすればフウカさんは、きっと給食部なんて捨てて、私達と永遠に共にしてくださるはずですわ。ああっ、フウカさんと究極の美食の道を究める事が出来るなんて、最高に幸せですわぁ!!」

 

ウキウキと、まるでピクニックにでも行くかのようにスキップしながら、ハルナがその血塗られた路地を離れようとした――その時だった。

 

 

 

『お待ちなさい。まだ終わってはいませんわ』

 

 

 

突然、ハルナの脳内に凛とした声が響いた。

その声に、ハルナははっきりと聞き覚えがあった。

 

(これは……私の心の声。決して砂糖の悪魔の幻聴などではありませんわ)

 

脳内に響く『もう一人の自分(幻覚のハルナ)』の言葉に、ハルナは足を止め素直に耳と心を傾ける。その従順な様子に満足げに心の声が語り掛ける。

 

『良いですか? 砂糖の悪魔は完全に死んではいませんわ。あのままではすぐに復活してしまいます。2度と復活できないように"頭部を完全に粉砕し、四肢(手足)を引き千切り、胴体を八つ裂きにして心臓と臓物(はらわた)を抉り出す"のです。……あれほどまでに貴女の愛する美食を汚し、崇高な誇りを踏みにじった悪魔を……貴女は決して許してはおけないはず――、その抑えきれない憤怒を、今こそ完全に晴らすのです! さあ、早くおやりなさい』

 

ふと気がつけばハルナの右手には、いつの間にか愛銃ではなく、どこで拾ったのかも定かではない大型の山刀――錆びついたマチェットナイフが固く握りしめられていた。

 

『その獲物で、悪魔にはやく止めを刺すのです!』

 

頭に響くもう一人の自分の声に言われるがままハルナはゆっくりと、地に倒れ伏している悪魔の元へと引き返していく。

そして、その首を刎ねようとマチェットナイフを高く振り上げた時だった。もう一人の自分が『あっ!』と声を上げる。

 

『そうです、一つ忘れてましたわ。……頭を叩き潰す前に、最後に悪魔のご尊顔(マヌケ面)を拝んでおきましょう♪』

 

「ふふっ、それは名案ですわねっ♪」

 

これだけハルナのことを見透かした様に好き勝手に煽り立て、嘲笑ってくれたのだ。

最期にその絶望に染まったご尊顔を拝ませてもらっても、バチは当たるまい。

ハルナは蛇のような残酷な笑みを浮かべながら、倒れ伏す悪魔へと興奮冷めやらぬままふらふらと歩み寄る。

 

屈みこみ、血まみれになった赤毛を乱暴に掴んで、その顔を自分の方へと持ち上げる。

視界は砂糖の毒で激しく揺れ動いたままで、手の届く距離にあるはずの顔面すら、ロクに見えていなかった。

 

 

 

だから、ハルナは気づかなかったのだ。

 

 

 

『あーあ』

 

ふと、聞き慣れた幻聴の声が、呆れたように響いた。

途端に――頭をカチ割るようだった激痛と視界を歪めていた酷い眩暈が、嘘のようにピタリと止んだ。

 

「………えっ?」

 

ぐらぐらと揺れていた視界の焦点が、急激に合い始める。

ハルナの目の前にある、自らが無残に叩き潰した『顔の輪郭』が、すこしずつ、しかし残酷なほどに鮮明に見えていく。

 

『やっちゃった☆』

 

幻聴の甘い声が、脳髄で反響する。

 

「嘘……そんな……」

 

マチェットを取り落とし、ハルナの全身が激しい震えに襲われた。

自分が倒した、散々自分を苦しめて来た『砂糖の悪魔』だと思っていたそれ。

 

 

 

乱暴に掴み上げたその赤毛の頭部は――。

 

 

 

『ハルナ……アンタ、幻覚と本物の私の見分けも付かないの? こんな残虐な事が出来るなんて知らなかったわ。この――』

 

 

 

――人殺し

 

 

 

最期の幻聴の恨み言が空耳のように薄れて消えていく。

 

 

「嫌あぁああああああああああああ!!! ジュンコさぁああああああああああんんんん!!!!!」

 

 

恐怖と絶望に染まり、大きく歪み、血と泥でグシャグシャになった顔。

 

 

ハルナがこの手で完膚なきまでに叩き潰した存在は――他でもない、大切な美食研究会の仲間、赤司ジュンコだったのだから――。

 

 

 

-------

 

 

 

「ヨッ! セイッ!」

 

 

 魅惑的な生足のマーメイドが夏を刺激しそうな、どこかズレた気合の掛け声。

 それに合わせてミレニアムサイエンススクール製の次世代最新特殊強化繊維で編まれた分厚い拘束着と拘束バンドによって、まるでミノムシのように簀巻きにされたアカリの身体が宙を舞い救急医学部の緊急車両11号の広い荷台へとドサリと吸い込まれた。

 

 その後ろでは、狂暴化したアカリとの死闘の末に精魂燃え尽きて意識を失ったイズミがストレッチャーに乗せられ、手際よく別の救急車へと運び込まれていく。

 

「痛い……っ、いててて……」

 

「動かないでください、イオリ。肋骨にヒビが入っていますよ」

 

 瓦礫に腰を下ろしたイオリが、火宮チナツからテーピングと応急処置の手当てを受けながら顔をしかめる。

 チナツは手際よく処置を進めながら、鋭い視線で風紀委員会の斬り込み隊長を窘めた。

 

「相手がいくら異常な状態だったとはいえ、あそこまで正面から突っ張るなんて無茶が過ぎます。ヒナ委員長が不在の今、あなたが倒れれば、風紀委員会の前線は崩壊するんですよ?」

「わかってるって……。でも、あの状況で私が引いたら、後ろのチナツたちが巻き込まれてただろ。結果オーライだ」

「結果オーライではありません。もう少し自分の命を大切にしてください」

 

 呆れたようにため息をつくチナツの横で、氷室セナがクリップボードを小脇に抱えて静かに一礼した。

 

「風紀委員会の皆様ご協力感謝します。無事、鰐淵アカリの死体を回収できました。……では私達は引き続き、残りの美食研究会のメンバーの死体を捜索してきます」

 

 そう淡々と告げると、セナは青い制服と純白のエプロンを翻して緊急車両11号の運転席へと乗り込み、サイレンを鳴らしながら慌ただしく路地の向こうへと走り去って行く。

 その後ろを、イズミを乗せた通常の救急車もピタリと並んで続くように走り去っていった。

 

 嵐のように現れて去っていった救急医学部を唖然と見送っていたイオリだったが、やがて我に返ったようにポツリと呟いた。

 

「……死体って。相変わらず不吉なことしか言わない奴だな。それにしてもいったい何だったんだ……」

 

 その時、イオリの制服のポケットから、突如としてけたたましい着信メロディが鳴り響いた。

 

「何だぁ!? これはっ!?」

 

 慌ててポケットを探ると、出てきたのはイオリの私物のスマートフォンだった。それを見たチナツの眉が、ピクリと険しく吊り上がる。

 

「イオリ……何をしているんですか? 作戦任務行動中は、情報漏洩防止のために私物の通信機器類は持ち歩くなと、厳格な規則で定められているでしょう?」

 

「そ、それは知ってる! 私だって出動の時に本部の更衣室のロッカーに置いてきたはずだ! 何で私のスマホがここにあるんだ!?」

 

 まったく身に覚えがない。だが、手の中で私用スマホは激しく震え、着信を知らせ続けている。

 

「それよりも……電話に出なくて良いんですか?」

 

「おい、良いのかよ。規則違反で没収じゃないのか」

 

「任務はいったん終了でこれから帰投すると、アコ行政官も仰っています。それに……ここまで鳴り続けているんです。何か、重要な電話かもしれません」

 

「わ、わかった……」

 

 チナツに促され、スマホの画面を覗き込むイオリ。

 そこには、電話帳には登録されていない『見知らぬ番号』が表示されていた。

 嫌な予感を抱きながら、恐る恐る通話ボタンをタップして耳に当てる。

 

「……もしもし」

 

『……たすけて………たすけて……』

 

「はぁ!? おい、誰だ……?」

 

 電話の向こうからは、酷い砂嵐のような、あるいは強い風と共に大量の砂が囂々と舞い狂っているような異様な雑音が聞こえてくる。

 

『……たすけて……たすけて……』

 

 その不気味な砂嵐の音に交じって、か細く、今にも消え入りそうな声が助けを求めていた。

 

「だからどこの誰だと聞いているんだ! 何で私の番号を知ってるんだっ!!」

 

 声を荒らげて誰何を問うイオリ。

 しかし相手は名乗る余裕すらないのか、ただひたすらに哀願を繰り返すだけだ。

 電話越しの砂嵐の音が、徐々に大きくなっていく。

 

『たすけて……誰か……たすけて……おねがい……たすけて……ください』

 

 

 

 ――その時。イオリの脳裏に、直感という名の雷のような衝撃が走った。

 イオリは、その微かな声のトーンに聞き覚えがあったからだ。

 

「……まさか、美食研究会の黒舘ハルナか……? おい、どうしたっ! 何があった!?」

 

 なぜだかは分からない。

 だが、砂嵐の雑音に埋もれつつあるその悲痛な声が、あの誇り高く気まぐれなテロリスト、黒舘ハルナのものだと直感で理解してしまった。

 そして、この電話がイオリたち風紀委員会を騙したりおちょくったりするための罠などではなく、本気で死の淵から助けを求めている声なのだということも――。

 

『たすけて……たす……けて……た……す……け……て……』

 

「ハルナっ! ハルナッ! 何があった! 何処にいるっ!! 答えろ、ハルナぁっ!!!」

 

 イオリの必死の呼びかけに、電話の向こうの主はもう答えない。

 やがて、ザァァァァッ!!という砂嵐の音が一段と大きくなり、彼女のか細い声を完全に掻き消し、飲み込んでいった。

 

「くそっ! アコちゃんっっ!!」

 

 イオリは即座に肩の通信機を立ち上げ、後方で指揮を執っている天雨アコへと回線を繋いだ。

 

『……何ですかイオリ? こちらは事後処理で忙しいのですが』

 

「アコちゃん、今すぐ私のスマホの通話相手を逆探知して、場所を調べてくれっっ!!」

 

 もう砂嵐の音しか聞こえなくなったものの、未だに通話が繋がったままの私用スマホを天高く掲げ、イオリは叫んだ。

 

『……スマホ? イオリ……貴女まさか、私用スマホを現場に持ち込んでいるのですか? 私的な通信機器は作戦任務行動中は使用も持ち込みも規則で固く禁止――』

 

「今はそんなこと言ってる場合じゃ無いんだっ!!! 早くしないとアイツが……黒舘ハルナが死んじまうっっ!!」

 

 アコの小言を遮り、喉を枯らして必死に叫ぶイオリ。

 普段なら絶対に見せないその異様なまでの焦燥と気迫に不審感を覚えつつも、アコは即座に手元の端末を操作し逆探知のプログラムを走らせた。

 

『……逆探知、成功しました。イオリ、今あなたのスマホと繋がっている通話相手の場所は―――』

 

 アコから告げられた座標を聞いた瞬間。

 イオリは砕けた肋骨の激痛など忘れたかのように立ち上がり、風のように駆け出していた。

 

 

 

---

 

 

 

 

「あっ………」

 

 ゲヘナの暗い裏路地。震える指先から、スマートフォンが力なく零れ落ちた。

 ハルナは慌てて拾い上げようとしたものの、砂糖の毒に蝕まれた身体は言う事を聞かず、上手く動けない。

 ハルナの目の前で地面に落ちたスマホは2度、3度とコンクリートの上で跳ねた後、錆びついたグレーチングの隙間から暗い排水口の底へと無情に消えていった。

 

「あぁ……っ」

 

 よろよろと立ち上がり、スマホが吸い込まれた排水桝の蓋へと歩み寄る。

 覗き込めば、泥と汚水が溜まる深い底の方で、微かに自分のスマホの画面が明滅しているのが見えた。

 

 両手でグレーチングに手を掛ける。しかし、もはや重い鉄格子を持ち上げる気力も、腕力も残されていなかった。

 グレーチングを掴んだまましばらく蹲っていたハルナだったが、やがてすべてを諦めたようにゆっくりと立ち上がり、ふらふらと踵を返した。

 

「もう……良いんです……。これで……良かったのです……」

 

 奇跡的に手元に残っていたスマホを取り出し、最後の希望を託して電話を掛けた。

 自分の中に巣食う『砂糖の悪魔たち』の執拗な嫌がらせによって激しい眩暈や悪寒、吐き気に襲われながらも、涙で滲み揺れる視界の中、必死にキーパッドを叩いて誰かに繋げたのだ。

 喋ろうとしても、悪魔たちに神経を操られて上手く声が出ない。

 それでも必死に息を絞り出し、助けを求めた。

 繋がった相手が誰だったのか、激しい頭痛と耳鳴りで声は聞き取れなかったが、あれは確かに自分を知る『誰か』だったはずだ。

 

 これでいい。誰かが気付いてくれる。

 ハルナは、よろける足取りでゆっくりと歩き続ける。

 その視線の先には痛々しいボロボロの姿となって横たわる一人の少女がいた。

 

「ジュンコさん……」

 

 赤司ジュンコは、自分の背負っていたカバンを地面との間に挟み、枕代わりにして横たわっていた。

 ハルナが這いずってその鞄の中を漁ると、中からは未開封の『4人分の救急簡易キット』が転がり出てきた。

 

 ジュンコは今回の爆破事件には一切関わっていなかったはずだ。

 それなのに彼女は危険を顧みず、わざわざこの救護キットをかき集めて自分たちを止めに――そして救うために駆けつけてきてくれていたのだ。

 

 ハルナは泣き咽びながら、必死にジュンコの手当てと応急処置を開始した。

 どう見ても助からない、致命的なレベルの怪我だった。自分が銃床で叩き潰し、肉を裂き、骨を砕いたのだから。

 だが、ハルナの必死の祈りと贖罪の想いが奇跡を起こしたのか――彼女の魂の奥底から限界を超えた神秘の癒しの光が溢れ出した。

 

 その温かく眩い光が瀕死のジュンコの身体を優しく包み込み、安全な路地の壁際へと引き寄せる。

 さらに光のオーラが救急キットの効力を何十倍にも増幅させ、ハルナ自身の生命力を分け与えるかのようにしてジュンコの破壊された細胞を急速に繋ぎ合わせ、傷を塞いでいった。

 

「はぁっ……はぁっ……ジュンコさん……っ」

 

 奇跡的な治癒の光によってジュンコの呼吸が微かに安定し、命の危機を脱したのを確認すると、ハルナはその横に力なく座り込み、アスファルトに額をこすりつけるようにして深く、深く土下座をした。

 

「本当に、申し訳ありません……。私が……私がすべて間違っていました……。ジュンコさん、あなたが……あなたがすべて正しかったんです……っ」

 

 脳裏に、かつての光景が蘇る。

 

 

『……その店に行くの、もうやめなさい!』

 

『行くなって言ってんのよ!!』

 

 あの日、自分たちの前に立ち塞がり、必死に止めようとしたジュンコ。今なら痛いほどにわかる。彼女のあの必死の思いが。

 それに対して、己は何をしたというのか。

 

『ハルナッッ!! しっかりしなさいよっっ!! ハルナッッ!!』

『なんでアンタ一人だけこんなところに居るのよっ! ジュリの店、爆破しに行ったんじゃないの!? ねぇ、他の二人はどこに居るの? イズミはどこ? アカリはどこ?』

 

 見捨てられて当然の酷い仕打ちをしたというのに、ジュンコは決して自分たちを見捨てなかった。

 口では突き放すような事を言いながらも、こうして自分達の分の救急キットを抱え、危険を顧みずに救いに来てくれたのだ。

 それに対して、己は彼女の思い出を嘲笑い、その体を無残に打ち砕いた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……ジュンコさん……っ。本当にごめんなさい……」

 

 震える肩を抱き、ひたすら謝罪の言葉を嘆くハルナ。

 やがて顔を上げると、己の制服の外套の袖に縫い付けられたワッペン――『美食研究会 会長職』を示す特別製の刺繍を引き千切り、意識のないジュンコの血まみれの手へとそっと握らせた。

 

「これを……ジュンコさんに差し上げます。今日から、美食研究会の会長は貴女です、ジュンコさん。貴女なら――、あの砂漠の砂糖の悪魔の誘惑にただ一人打ち勝つことができた貴女なら、きっと素晴らしい美食家に成れるはずですわ」

 

 そうだ。思えばあの日からだった。

 ジュリの店で自分やアカリが一切の抵抗すら出来ぬまま悪魔の砂糖に脳を絡めとられた横で、同じくパンケーキを食べたはずのジュンコだけは己の強い意志で砂糖の誘惑を跳ね除けた。

 さらには、砂糖の悪魔に沈められかけていたイズミを命懸けで救い出して見せたのだ。

 

「どうか、私やアカリさんがたどり着けなかった究極の美食道のその果てに……たどり着いてください。私はもう、不可能ですから――。あとは……頼みますね」

 

 そう言い残し、ハルナは立ち上がった。

 ゆっくりとジュンコのそばから離れ、路地の奥へと歩を進める。

 そして自分の鞄からジュリの店を爆破する時に使ったのと同じ、高濃度の炸薬が詰められた高性能爆薬のベルトを取り出すと、自身の華奢な胴体へと何重にもきつく巻き付けた。

 

 

 美食を汚した、もっとも愚かな裏切り者へ、自らの手で裁きを下すために。

 

「…………」

 

 ケジメをつけるために爆薬を巻き付け、手元の起爆装置とコードを繋ぐ。あとは親指で起爆ボタンを押し込むだけだ。

 

 

――だというのに、その指が動かない。

 

 

 この期に及んで、決意が鈍り始めたのだ。

 死にたくない。まだ生きたい。もっとこの世界にある未知の美食を堪能したかった。

 

「うううっ……嫌です……死にたくないです……。こんなの、あんまりです……っ」

 

 溢れ出して止まらない後悔と懺悔の思いが、胸の中で黒く渦巻く。

 砂糖の悪魔たちが、脳の奥底でそんな醜い自分をゲラゲラと囃し立てているのがわかる。

 

【あははっ! 今更怖くなったの? ほんと見苦しいねぇ!】

 

【せっかくの最高のご馳走なんだから、大人しく死んで食べられちゃえばいいのに☆】

 

【ほーんと、土壇場で逃げ出そうとするなんて、救いようのない馬鹿だよねー!】

 

【さっきまで美食研究会会長として立派にケジメをつけるとか息巻いてたくせに!】

 

【口ばかりで、結局はただの臆病者じゃないですか☆】

 

【あんなに偉そうに美食の誇りがどうとか語っていたのに、いざ死ぬ段になったら泣いて命乞いですか? 傑作ですね!】

 

「くっ………ううううっ」

 

 今すぐにでも起爆装置を引きちぎり、高性能爆薬を投げ捨てて逃げ出したくなる衝動に駆られ、ハルナは思わず振り返った。

 視界に映る、自分のせいでボロボロになったジュンコの痛々しい姿を、しっかりと目に焼き付ける。

 

(私が犯した罪を見なさい……! 逃げ出してはダメですわ! ケジメをつけるのです! 真の美食家なら、するべき事はもう決まっているはずですわ!!)

 

 己の魂にそう言い聞かせ、ハルナはついに覚悟を決めた。

 爆弾の凄まじい衝撃と爆風がジュンコに当たらないよう、頑丈そうなコンクリートビルの陰へと身体を隠す。

 その暗がりに入る前にもう一度、最後にジュンコの姿をしっかりと瞳に焼き付けて。

 

「ごめんなさい、ジュンコさん。……さよなら、フウカさん、先生……」

 

 ぎゅっと固く瞑った目尻から、大粒の涙が溢れて冷たい頬を伝う。

 やがて顎下まで到達した涙の雫は、フルフルと震えた後、ゆっくりと起爆ボタンを持つハルナの手の甲へと堕ちた。

 

 

 ピチャッ、と涙の雫が親指を叩いたのを合図に。

 ハルナは、手元の起爆スイッチを深く深く押し込む。

 

――ドッッッッガァァァァァァァンッッ!!!!

 

 轟音と共に強烈な閃光と爆風がハルナの身体を飲み込み、裏路地の空気を吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あれれ……つらい現実から目を背けて、すべてを投げ出して逃げ出すつもりなのかな?』

 

『死んで楽になろうだなんて、そんな虫のいい話、絶対に許すわけないよね?』

 

『アナタはね、私の最高に美味しい贄になる定めなの。だから、もっともっと、もォ~~っと! 臓物が腐り落ちるほどの地獄を見て、極上の絶望に染まってもらわなきゃダメなんだよ』

 

『だから絶対に死なせてなんてあげないよ。泥水を啜らせてでも、何度でも生かしてあげる』

 

『さぁ、最高に楽しいショウタイムはまだまだこれからだからねっ!』

 

『私が用意したこの美しくも凄惨な舞台で、血のスポットライトを浴びて、滑稽に、哀れに、無様に踊り狂ってほしいな!』

 

『その誇り高いお顔がグシャグシャに歪む、最高の笑顔(絶望顔)を私に見せて』

 

『喉が千切れるくらい、美しい歌声(断末魔の悲鳴)を聴かせてよ』

 

『もっと、もっと私を愉しませてねっ!』

 

 

 

 

『ねぇ、ハルナちゃん♪』

 

 

 

 

 

 

---

 

 

 

 

「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!!」

 

 ゲヘナの入り組んだ路地裏を、イオリたち風紀委員が猛烈なスピードで駆け抜けている。

 

『イオリ、70m先、左の路地に入ってください。その先が電話の発信元座標です!』

「あれかっ! 分かったよアコちゃん!」

 

 通信を切ると同時にイオリはさらに地を蹴った。前方で建物と建物の影が割れ、左へと折れる狭い分岐が迫る。

 その奥から、もくもくと溢れ出した灰色の爆煙が、薄暗い直進路の視界をも侵食し始めていた。

 ツンと鼻を突く焦げ臭い硝煙と、奇妙に甘ったるい匂いが混ざり合う中、イオリは速度を落とすことなく、煙のカーテンを割るようにその隙間へと一直線に突っ込んだ。

 

「なっ…………!!」

 

 路地に飛び込んできた光景に、イオリは息を呑んで硬直した。

 凄まじい至近距離の爆発物の衝撃で、左右のコンクリート壁がめちゃくちゃに吹き飛んだ路地裏。

 その中央のクレーターの中で、ボロボロの状態で横たわる黒舘ハルナと――。

 

「ううっ、死なないでよハルナ……ねぇ、起きてよハルナぁ……っ」

 

 己も瀕死の重傷を負い、全身血まみれの痛々しい状態でありながら、ハルナの焦げた身体に縋りつき、必死に起こそうとしている赤司ジュンコの姿があった。

 ジュンコは心臓マッサージを試みようとしているのか、骨が折れて全く力の入らなくなった両腕をハルナの焦げた胸に添え、泣きながら摩ろうと必死に足掻いている。

 

「おいっ!! ジュンコっっ!! これは一体どういう状況なんだっっ!!」

 

 イオリの張り上げた大声に、ジュンコがびくりと肩を震わせた。

 恐る恐る振り返り、イオリの姿を認めるとジュンコはせき止めていた大粒の涙を溢れさせながら、泥だらけの顔で必死に縋り付いてきた。

 

「ふ、風紀委員……!? ねぇ……助けてよ……何でもいいから早く助けてよ……っ! このままじゃハルナが……ハルナが死んじゃうっっ!!」

 

 半狂乱で叫ぶジュンコの足元で、ハルナはまるで死体の様に横たわり、ピクリとも動かない。

 頭上のヘイローは完全に消失しており、かすかな胸の起伏すら確認できなかった。

 

「ジュンコ落ち着けっ!! チナツ、すぐに手当てを! …………チナツ?」

 

 背後を振り返る。

 

「…………」

 

 そこにいた火宮チナツは、ハルナの惨状を見た瞬間、真っ青な表情のまま呆けて固まってしまっていた。

 

「おいっ!! 何ボサっとしてるんだっ!! しっかりしろチナツっっっ!!!」

 

「ッッ!! す、すみません! これは……とても現場の携行医療キットでは処置できるレベルではありません……! すぐに救急医学部へ連絡してドクターヘリを要請します! ゲヘナ中央病院の高度救命急病センターへ直行させてください!」

 

「分かった! アコちゃんっ!!」

 

『すでに救急医学部には緊急回線で連絡しています。今そちらへセナ救急医学部長が救急ヘリで向かっていますが、現着まで10分かかるそうです!』

 

 通信機越しのアコの切羽詰まった報告に、チナツが叫んだ。

 

「わかりました! 私はジュンコさんのバイタル維持と止血の手当てをします。イオリはセナ部長到着まで、ハルナさんの胸骨圧迫をお願いしますっ!!」

 

「きょ、胸骨……!? 何だそれ、具体的に何をすればいいんだっ!?」

 

「心臓マッサージです! 胸の真ん中に両手を重ねて、骨が軋むくらいの強さで思いきり押し込んでください! 一刻を争います、早く!! 手を止めたら、ハルナさんは本当に死にます!!」

 

「死なせるもんか……!」

 

 歯が折れそうなほど奥歯を噛み締め、イオリはハルナの焼け焦げた胸元へ飛びついた。

 チナツの指示通り、まずは胸元の邪魔なネクタイの残骸とひしゃげた金属ピンを力任せにむしり取る。

 そして、焼け焦げて肌に張り付いた白いシャツと、ハイウエストの硬いスカートの境目に、迷わず両手を重ねた。

 すでに生気を失って冷たくなり始めている皮膚の痛々しい感触が伝わり、イオリの背中にべっとりと冷や汗が吹き出る。

 

「くっ、……おおぉっ!」

 

 全体重を乗せ、全力でハルナの胸を押し込む。

 自分の手のひらを通じて、頑丈な制服の生地越しにハルナの肋骨がメキリと軋む鈍い感触が伝わってきた。

 ハルナの身体を完全に壊してしまうのではないかという恐怖に血の気が引きかけるが、イオリは叫び声を上げてその迷いを振り払う。

 

 1秒に2回というハイテンポな過酷さに、またたく間にイオリの息が上がっていく。

 衣服と皮膚が擦れる嫌な音を耳にしながら、がむしゃらにその心臓(ポンプ)を急かして動かし続ける中――ふと、イオリの脳裏に奇妙な思考がよぎった。

 

(私は、何をやっているんだ……?)

 

 ぐったりと冷たくなっていくハルナの顔を見下ろしながら、自分自身の行動が信じられなくなる。

 相手は、あの美食研究会の黒舘ハルナだ。普段なら顔を合わせるたびに睨み合い、ゲヘナの治安を乱す極悪テロリストとして追いまわしている不俱戴天の宿敵。

 そんな相手を、どうして自分が汗と涙を浮かべながら、必死になって助けようとしているのか。

 

 しかし、そんな迷いは一瞬で消し飛んだ。

 

(いや、違う。今はそんなことどうでもいい……! この女を、ここで死なせるわけにはいかない……!)

 

 イオリの魂の奥底にある何かが、警鐘を鳴らすように激しく訴えかけていた。

 あの誇り高いハルナが、プライドを捨てて自分に「助けて」と電話をかけてきたのだ。

 それは単なる泣き言や感傷ではない。ハルナは今、ゲヘナを、いやキヴォトス全体を覆い尽くそうとしている『巨大な何か』の正体と深淵に触れたに違いない。

 その全貌を知る彼女を、絶対にここで途絶えさせてはならないのだと、確信に似た予感がイオリを突き動かす。

 

「目を、開けろよハルナ……っ! 私に捕まる前に勝手に死ぬなんて、絶対に許さないんだからな……!」

 

 イオリの背後では、混沌とした地獄絵図が繰り広げられていた。

 

「いやぁ! 離して、触らないでよ! 私なんてどうなっても良いのよっ!! それよりも早くハルナを助けてよっっ!!」

 

 完全に錯乱状態に陥ったジュンコが、血まみれで折れた腕を無茶苦茶に振り回して暴れ狂っている。

 それを、チナツや風紀委員会の救護班の委員たちが、顔や体に痣を作りながら必死に体重をかけて冷たいアスファルトの地面に押さえつけようとしていた。

 

「くっ……! なんて力ですか! これ本当に重傷を負っている人間の力なんですかっ!?」

 

「押さえきれません! 誰か応援を! 脚を、脚をしっかり押さえてください!!」

 

「ダメです! 麻酔が、鎮静剤が全然効きませんっっ!! このままでは出血性ショックで……っ!」

 

「あああっ、腕が、私の腕が折られ――っ!」「気を付けて! 噛みつかれますよ!」

 

 モブ風紀委員たちの悲鳴や怒号が飛び交う中、チナツが顔を歪めて叫ぶ。

 

「お願いですから大人しくしてくださいジュンコさん! イオリ、ハルナさんの心拍はどうですか!? 早く……早く蘇生させないと、こちらが持たないっ!!」

 

 そんな阿鼻叫喚の最中、恐怖も戸惑いもすべて覚悟に変えて、イオリはさらに強く、絶え間なくハルナの胸を押し続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 普段であれば、些細な気配や殺気にも敏感に反応し、周囲の警戒を絶対に怠らない歴戦の風紀委員であるイオリやチナツたち。しかし今の彼女たちは、目の前の命を繋ぎとめることと、半狂乱の暴徒を抑えることに全神経を注ぐあまり、完全に極限状態へと陥っていた。

 

 だからこそ、誰も気がついていなかった。

 路地の入り口から少し離れたビルの陰から、そんな凄惨な現場をまるで何か楽しい極上のバラエティショウでも見ているかのように邪悪な笑みを浮かべて楽しんでいる『二人の少女』の姿に……。

 

「ふふふっ……あはははっ! 最高の演目ね、ジュリ! 誇り高きテロリストが、自らの手で仲間を砕き、醜く命乞いをして這いつくばるだなんて。絶望の甘い味が、ここまで漂ってくるわ」

 

「ええ、本当にそうですね、ヒナさん。風紀委員の犬共まで必死になって泥まみれで蘇生しようとしているなんて……滑稽すぎて、可笑しくて涙が出そうです」

 

 暗がりの中で、毒々しい光を瞳に宿して嗤い合うのは、空崎ヒナと牛牧ジュリの二人。

 

 厳格で責任感の強い風紀委員長であるヒナが、いくら敵対するテロリストとはいえ、他者の不幸をあそこまで喜ぶような悍ましい言葉を口にするはずがない。

 心優しく、常に誰かのために料理を作るジュリが、必死に命を救おうとする風紀委員たちを「犬共」と蔑み「滑稽」と嘲笑うはずがない。

 

 しかし、二人の口からは普段なら絶対に口にしないような、底知れぬ悪意に満ちた言葉が次々と紡ぎ出されていた。

 それもそのはずだ。彼女たちの身体には今、『幻覚アコ』と『幻覚フウカ』が一時的に憑依し、その身体と人格を完全に乗っ取っていたのだから。

 

【ふふっ……素晴らしいわね。この宿主(ジュリ)の心、憎悪と絶望でとても美味しく染め上がってきているわ。私の可愛い操り人形として、もうすぐ完全に出来上がるかしら?】

 

【ええ、ええ。こちらの宿主(ヒナ)も完璧ですわ。あの誇り高い風紀委員長が、私が甘く囁くだけでこうして簡単に意識を明け渡して、言う事を聞いてくれるんですから。本当に、扱いやすいお人形ですわ】

 

【うふふっ、お互い順調ね。これならこの愚かな子たちに気付かれることなく、最後には完全に心と身体を乗っ取れそうね】

 

【はい♪ このままゲヘナを、いえ、すべてを私たちの甘い箱庭にして差し上げましょう】

 

 操り人形と化した少女たちの口からは、自分たちの洗脳の成果を褒め称え合う、底知れぬ邪悪な笑い声が静かに響き続けていた。

 

 

(つづく)

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