アビドス砂漠の砂糖スレ自作概念置き場   作:砂糖堕ちハナエちゃんの人

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【本作を読む前にお読みください】
この物語は、原作公式ゲーム「ブルーアーカイブ」の公式シナリオである、


・2026年7月実装イベントシナリオ「出航!万魔船 マコト議長の華麗なる避暑」

・2026年8月実装メインストーリー第2部 Vol.1「炎と影」編(通称:ゲヘナ編)


の発表前に構想された作品です。

上記シナリオにて明かされた最新の公式設定や新事実は一切反映されておりません。

この設定の乖離はあくまで構想時期によるものであり、原作の未履修や知識不足によるものではございません。


公式設定との乖離や矛盾が多々あるかと存じますが、以上の点を十分にご留意の上、お楽しみいただけますと幸いです。

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※このお話は無能の司祭A氏(むのしさ氏)の砂漠の砂糖SSゲヘナ編をベースに作成しており、以下該当作品から設定や台詞や表現・情景描写を多く引用しております。

番外小話 荒天の霹靂


第14.5話 荒天の霹靂 (砂糖堕ちハナエちゃん世界.ver)

 

 

 

ゲヘナ編14.5話 "荒天の霹靂"

 

 

 気がつくと、黒舘ハルナは熱い風が吹き抜ける砂漠の真ん中に立っていた。

 

「はて、ここはどこなのでしょうか? どうして私は砂漠のど真ん中に居るのでしょうか」

 

 疑問が次々と湧いてくるハルナだったが、その疑問も、目の前に見慣れた美食研究会の仲間たちの後ろ姿を見つけた瞬間に吹き飛んでしまった。

 

「そうでしたわ! アビドス砂漠に眠る幻の美食を求めて来たのでしたわ!」

 

 心の隅に微かな違和感を抱きつつも、ハルナは迷うことなく仲間のもとへと駆け寄る。

 

「皆さんお待たせしました! 今日もさっそく美食を探しに参りましょう!」

 

 座右の銘に”EAT OR DIE”を掲げる美食研究会の面々に、意気揚々と告げる。これから美食を求める波乱万丈な旅路を楽しむのだから、高揚しないはずがない。食とはその文字の通り、人を良くするもの。なればこそ、より良いものを求めることは当然のことなのだ。美食無き生に何の意味があるのか心からそう思う。

 だが、そんなハルナの高揚は、一瞬にして凍りつくこととなってしまう。

 

「ハルナさん、何で貴女がここにいるんですか?」

 

 振り返ったアカリの視線は、信じられないほど冷ややかだった。彼女がそのような氷のような目をハルナに向けたことなど、今まで一度も無い。驚愕と困惑に胸を突かれながら、ハルナは何とか平静を装って答える。

 

「何故……? もちろん、皆さんと共に美食を探求するのが――」

 

「えぇ……もしかしてまだ会長気分なの……?」

 

 イズミが、哀れな汚物でも見るような目でハルナを見つめていた。普段明るく前向きで、美食研究会のムードメーカーである彼女が決して他人に――ましてやハルナに向けた事の無い、ひどく冷酷な目だった。

 

「す、すみません……私、何かお二人に失礼なことをしてしまったのでしょうか……?」

 

「本気で言っているんですか? ご自分が何をしでかしたのか、本当に綺麗さっぱり忘れてしまったとでも言うのですか?」

 

「あんなに酷い事をしておいて、まだ私達と一緒にご飯が食べられると思ってるの? 信じられない」

 

 アカリとイズミから、淡々と突き放すような非難の言葉が浴びせられる。

 何か彼女らの顰蹙を買うようなことをしてしまったのか。何か決定的に嫌われるような事があったのか。しかし、思い出そうとしても記憶には何故か濃い靄のようなものが掛かっていて、何も思い出せない。

 

 美食研究会の皆との食事や語らいもまた、美食を構成する重要な要素の一つ。それを失う様なことは絶対に避けたいという焦りが、ハルナから冷静さを奪っていく。彼女は必死に取り繕うように言葉を発した。

 

「私に非があれば謝ります。……ですから、そう邪険に扱わないでください。おねがいします……」

 

 縋るように振り絞った声は、自分でも分かるほど震え、悲しみに満ちたか細い響きになっていた。

 

「ふざけるのも大概にしなさいよハルナッッ!!!」

 

 そんなハルナの弱々しい声を全て撥ね退ける、びりびりとした大きな怒声が響き渡った。

 振り向けば、ここまでずっと無表情無言で見ていたジュンコが、殺意すら感じるほどの激しい怒りに満ちた顔でハルナを睨みつけていた。

 

「私の忠告を無視したアンタは、美食研究会失格――、いやアンタ風に言うなら、美食を穢す裏切者よ! 二度とその顔を見せないで!!!」

 

 ジュンコの決定的な拒絶の言葉に、ハルナは酷く狼狽した。まるでこれまで築いて来た世界が全て足元から崩れ去るかのような喪失感に襲われる。

 

「待ってください ジュンコさん!どうか、どうか見捨てないでください! 私は……皆さんとでなければ、真の美食を味わうことなどできないのですわ……っ!」

 

 砂の上に膝をつき、情けなくジュンコの足にすがりついて許しを請うハルナ。

 しかし、ジュンコは汚らわしいものを見る目でその脚を振り上げた。

 

「触らないでよ、気持ち悪いっ!」

 

 ドガッ!という鈍い音とともに、容赦ない蹴りがハルナの腹部に叩き込まれる。

 

「あぐっ……!」

 

 ハルナは砂の上を無様に転がった。痛みに顔を歪めて顔を上げると、そこには――冷酷な目をしたアカリとイズミが、愛銃の銃口を真っ直ぐにハルナへと向けていた。

 

「アカリ、撃っちゃおうか」

 

「ええ、ゴミは掃除しないと」

 

 ダダダダダッ!というアカリのアサルトライフルと、イズミの重機関銃が火を噴く。

 

「きゃあああっ!?」

 

 逃げ惑う間もなく、放たれた数発の銃弾がハルナの肩や太ももに直撃した。制服ごと皮膚が裂け、熱した鉄の棒を押し当てられたような焼けるような激痛が走る。

 

「あぁっ! 痛いっ、やめて、おねがいですから……っ!」

 

 砂の上に倒れ込み、血のにじむ腕を押さえながらハルナは必死に命乞いをする。しかし、アカリとイズミの銃口は下がるどころかハルナの急所を無慈悲に狙い定め撃ち続けてくる。

 

(なぜ私がこんな目に……! 私はただ、皆と一緒に美食を探求したかっただけなのに……!)

 

 仲間たちから浴びせられる明確な殺意。ここで本当に殺されるかもしれないという極限の恐怖。それがハルナの中で限界点を超えた時、彼女の胸の奥底で、悲しみが反転してドス黒い炎へと変貌した。

 

(私がいったい何をしたというのですか! 理由も教えずに、ただ一方的に私を排除しようだなんて!)

 

 恐怖はやがて、謂れのない暴言と暴力に対する理不尽な怒りへと変わっていく。

 

「……よくも……よくも私を……! 理由もなしにこんな仕打ち、絶対に、絶対に許しませんわっ!!」

 

 その怒りに染まったハルナは獣のように吠え、愛銃《アイディール》を構え返した。

 引き金に指を掛けた次の瞬間――目の前が、真っ白な閃光に包み込まれた。

 

 

 

『あーあ、やっちゃった』

 

 

 

 

---

 

 真っ白な強烈な光が止むと、そこは砂漠のど真ん中ではなく、ゲヘナの街の薄暗い裏路地だった。

 

「ここは………?」

 

 先程まで砂漠の真ん中に居たはずが、何故裏路地なのか混乱するハルナ。

 ふと視線を前に向けた時、そこにはボロボロの変わり果てた姿になった美食研究会の仲間達――アカリ、イズミ、ジュンコが倒れ伏せていた。

 

「きゃあああっ!?」

 

 あまりの惨状に、ハルナは悲鳴を上げた。

 ただ倒れているだけではない。3人とも制服はズタズタに引き裂かれ、元の色が分からないほど赤黒い血に染まっている。

 

 アカリの身体は異様に膨れ上がり、開いた口や鼻腔、耳の穴、さらにはめくれたスカートの下の股の間からも、緑色の粘液にまみれた異形の触手(パンちゃん)がうねうねと不気味に蠢きながら飛び出していた。

 

 イズミは利き腕が関節の逆方向へ完全にへし折られており、白目を剥いて痙攣している。

 

 そしてジュンコは、顔面を鈍器で何度も叩き潰されたかのように原型を留めず、自らから流れた大量の血の海に顔を沈めていた。

 

「アカリさん!? イズミさん! ジュンコさん! しっかりしてください、死なないでっ!」

 

 ハルナは倒れている3人のもとへ駆け寄り、血まみれの体を揺すりながら必死に声をかけた。

 その時、後ろから冷たい声が掛かった。

 

「ハルナ……アンタ、何してんの」

 

「"ハルナ、これはどういう事なのかな?"」

 

 振り返ると、そこには給食部のフウカと、シャーレの『先生』が立っていた。

 フウカと先生の姿を見て、ハルナは必死に言い訳を吐き出そうとする。

 

「ち、違いますの! これは私では……!」

 

「何言い逃れしてんのよ。自分の姿を見てみなさいよ」

 

 フウカが吐き捨てるように言い放った。

 

「"自分の手が何をしたのか、よく見てごらん"」

 

 先生の冷ややかな声に促され、ハルナは初めて自身の状態に気がついた。

 見下ろした自分の制服と顔には、自分のものではない他人の血がべったりとこびりついている。

 肩にかけた愛銃《アイディール》は激しい銃撃を行った直後らしく、銃身がうっすらと焼け焦げ、銃口からは硝煙がゆらゆらと上がっていた。

 さらに、力を込めていた利き手には、見覚えのない大型のマチェットナイフが固く握られている。その分厚い刃はべっとりと赤く染まり、刃先からはジュンコたちのものと思われる血が、ぽたぽたと地面へ滴り落ち続けていた。

 

「ひっ……!」

 

 思わず悲鳴を上げてマチェットナイフを落とすハルナ。そのままフウカと先生に救いを求めて近づこうとするが、二人は冷酷に一歩後退してハルナを拒絶した。

 

「近寄らないでよ、この人殺し。アンタの顔なんて見たくもないし、アンタのために料理なんて二度と作らないわ」

 

 愛銃のサブマシンガンを構えたフウカは、威嚇するようにハルナの足元へ銃撃を浴びせると、蔑むような視線を残して踵を返し、路地の奥へと立ち去り始めた。

 

「ま、待ってくださいフウカさん! 行かないでっ! 誤解です、私は何も……!」

 

 ハルナは去っていくフウカの背中へ向けて、涙ながらに必死に声をかけ続けた。しかし、フウカがその声に足を止めることも、振り向くことも二度となかった。

 

 フウカの背中が完全に見えなくなり、ハルナは愕然としてその場にへたり込んだ。しかし、すぐに残されたもう一人の存在――『先生』に気がつき、今度はそちらへ這いずるようにしてすがりついた。

 

「先生……先生は信じてくださいますよね……? 私がやったのではありませんわ!」

 

 必死に手を伸ばし、先生の服の裾を掴もうとするハルナ。しかし、先生はその手を汚物でも振り払うかのように冷酷に弾き飛ばした。

 

「"あんな残酷な事をするなんて、ハルナには心の底から失望したよ"」

 

 かつて向けられたことのない、氷のように冷たい、見下すような瞳。ハルナの心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

 

「"ハルナ――いや、お前はもう私の生徒でも何でもない。私の視界に入らないでくれ。さっさと消えて失せろ"」

 

「嫌です! お願いします、先生……っ! 私を見捨てないでくださいませ!」

 

 かつてない暴言を吐かれ、それでもハルナはポロポロと涙を流しながら、這いつくばって先生に縋ろうとした。

 

「"黙れ"」

 

 ハルナがすがりつこうとしたその時、――ターン、と小さく乾いた銃声が響いた。

 

「え……?」

 

 一瞬、何が起きたか分からなかった。

 

 

 先生が、生徒はもちろん他の住人達にすら向ける事の無い、そもそも本当に持っているのかすら疑わしいと言われていた『幻の先生専用シャーレ正式拳銃』をハルナに向けて撃ったのだ。

 

 キヴォトスの生徒は、拳銃で一発撃たれたくらいでは死ぬどころか大怪我すらしないはずだった。しかし、先生の撃ったその弾丸は、ハルナの胸の奥深くをあっさりと貫いた。

 

「あっ……?」

 

 ハルナの動きが止まる。唖然として自身の胸元に空いた穴を見下ろす。痛いというより、何かが身体からスッと抜け落ち、撃ち抜かれた部分から氷のように冷たい水が全身へ伝っていくような、恐ろしい感覚に襲われる。

 

「あ、ああ……先生、どうして……っ! 嘘です、こんなの嘘ですわぁっ! 先生が私を見捨てるはずがありませんっ! 嫌ぁあああああ!! 私を置いていかないでぇぇぇええっ!!!」

 

 自分を唯一導いてくれるはずだった存在に拒絶され、撃たれたという決定的な事実に発狂し、絶叫するハルナ。これこそが、まさしく真の"絶望"なのだと実感しながら、ハルナの意識は底知れぬ奈落へと吸い込まれていった。

 

 

 

---

 

 

 

「ハァーッ! ハァーッ! ハァーッ!!」

 

 荒い呼吸と凄まじい絶望の衝撃で、ハルナはカッと眼を開けた。

 目の前には見知らぬ真っ白な天井と、心配そうにこちらを覗き込む医師と看護師の姿があった。

 

 白衣を着た初老の医師が、荒い呼吸を繰り返すハルナの肩を優しく押さえながら声をかけた。

 

「黒舘さん、大丈夫です。さぁ、落ち着いて……落ち着いて……」

 

 看護師が腕に刺した注射器の針から鎮静の薬液が流れ込み、極度の興奮状態だったハルナは徐々に冷静さを取り戻していく。

 

「ここは、どこですか……?」

 

「ここはゲヘナ中央病院の高度救命急病センターです。黒舘さん、あなたはここに運ばれて来てから、ずっと昏睡状態だったのです」

 

「えっ……?」

 

 ハルナは驚きに目を見開く。自分がそれほど長く意識を失っていたというのか。状況が飲み込めず困惑するハルナの表情を見て、医師は彼女が次に何を訊きたいのかを察した。

 

「ええ、わかっています。どれくらいの長さか?ですよね」

 

 医師は慎重に言葉を選びながら、静かに告げた。

 

「いいですか、落ち着いて聞いてください。あなたが眠っていたのは…………9日間です」

 

「――っ!?」

 

 ハルナの顔が絶望に染まり、声にならない悲鳴を上げる。彼女の身体に繋がれた心電計モニターの電子音が『ピピピッ、ピピピッ』と急激に早くなり、異常を知らせ始めた。

 

「黒舘さん!? どうしましたっ!?しっかりしてくださいっっ!」

 

 ハルナの突然の異変に気がついた医師が、焦った様子で必死に呼びかける。

 

「嫌ぁあああ!!! どうして生かしたんですか!? どうして殺してくれなかったんですかぁああ!!」

 

 ハルナは、すべてを思い出してしまったのだ。

 

 

 ジュリのお店で『砂漠の砂糖』入りのパンケーキを食べ、その狂気的な魅力に取りつかれて毎日通うようになったこと。日に日に満たされるために必要な量が増え続けたこと。

 

 アカリが狂い始め、自分自身も狂い始めていることに気がつきながら止められなかったこと。

 

 店を爆破したものの、ジュリに逆襲され、パンケーキのバケモノに冒されて心身を支配されたこと。

 

 そして――自分を助けに来てくれたジュンコを砂糖の悪魔と誤認し、銃を向けて美食を決定的に冒涜してしまった事。

 

 

 すべてにけじめをつけるために自害したはずだった。それなのに、こうしてあさましく、みじめに生き残ってしまった。

 

「ゔあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙~~!!!」

 

「まずい! νοσοκόμα! νοσοκόμα! νοσοκόμα! (看護師! 看護師! 看護師!)」

 

 再び暴走状態になりかけているハルナに看護師が素早く飛びつき、鎮静剤が追加で投与される。

 

「大丈夫! 大丈夫! 落ち着いて、落ち着いて……大丈夫です、大丈夫です」

 

 全身に広がる冷たい鎮静剤の効果と、医師の必死の声に、ハルナは徐々に荒い呼吸を落ち着かせていった。

 

「私は……生きてはいけないんです。私は砂糖に溺れ……悪魔に魂を売りました。今生きていたら、また砂糖の悪魔に唆されて――」

 

 泣きながら言いかけたところで、ハルナはふと気がついた。

 あの脳を焼き尽くすような砂糖への渇望が、身体を包み込む耐え難い飢餓感が、今の自分には全くないのだ。

 

「あれ……私……?」

 

 それだけではない。頭の中に巣食い、自分を絶えず罵り、唆していた悪魔たちの幻聴が綺麗に消え去っているのだ。頭の中にぽっかりと『何かが居た形跡』があるだけで、あの重たい体の自由が奪われる感覚もなくなっている。

 

「私……砂糖中毒から抜け出せたのですか……?」

 

 あれほどまでに欲しいと狂おしく求めていた砂漠の砂糖が、今では全く欲しいと感じない。あの悍ましい衝動が蘇ることも無く、綺麗さっぱり消え去っている。

 

「うううっ……私は助かったのですね……赦されたのですね……生きてても、良いんですね……」

 

「当り前です。死んでいい人などどこにも居ません。貴女はこれからも生きていく権利があるのですから」

 

 死の淵から生還したハルナ。これでまた生きられる。また美食を堪能できる。フウカさんと先生の元へ、美食研究会の仲間達の元へ胸を張って帰れるのだ。

 

「嬉しいです。本当に、嬉しいです……っ」

 

 涙を流し、子どものように声を上げて泣きじゃくるハルナ。看護師は彼女の背中を優しくさすりながら、穏やかな声で宥めた。

 

「ええ、本当に良かったです。今はゆっくり休んでくださいね」

 

「では黒舘さん、今後の治療方針ですが――」

 

 ただただ生きていける事の嬉しさに泣きじゃくるハルナに、医師はカルテをめくりながら、これからの食事制限や点滴のスケジュールなど事務的な説明を続ける。

 しかし、地獄から解放されたという安堵に包まれたハルナには、その言葉はただのBGMのようにうわの空で、まったく頭に入ってこないのだった。

 

 

 

---

 

 

 

 数日後、精密検査の結果どこも異常なしとなったハルナは、一般病棟へと移る事となった。

 今までは点滴のみで命を繋いでいたが、今日からはようやく固形物である『病院食』が出されると言う。ベッドの上で、ハルナは配膳の到着を今か今かと楽しみに待っていた。

 

「私の、美食家としてのやり直しの最初の一歩ですわ」

 

 美食を穢し、美食研究会会長の座を自ら降りたが、美食家としての魂はまだ生きている。

 罪を償い、罪滅ぼしをするには、在野の一美食研究者として一からやり直すのが一番だ。その記念すべき最初の一歩が、この病院食なのだ。

 

「私の記念すべき最初の一歩に、なんて相応しいのでしょうか!」

 

 ベッドの背もたれをリモコンで起こし、姿勢を正して待つハルナの耳に、廊下から配膳車の車輪が転がる音が聞こえてきた。

 

――ガラガラ、ガラガラ……。

 

「来ましたわ……!」

 

 それは美食の時間を告げる合図の音。大きな病院の最新式配膳車が、病室に向かって近づいてくる。減塩、低カロリーという制限された病院食の中で、どのような味付けがなされているのか、ハルナの胸は、期待で張り裂けそうだった。

 

 

「黒舘さーん、お昼御飯ですよ。たべられますかー?」

 

「はい、もちろんですわ!」

 

「ではお持ちしますね」

 

 看護師が病室へ入り、オーバーベッドテーブルをセットする。

 

 トン、と目の前に置かれたのは、白色のシンプルなプラスチック製トレイだった。

 トレイの上には同じく白いプラスチック製の食器が並び、それぞれに半透明の軟質プラスチックの蓋が被せられている。

 脇には清潔な箸、スプーン、フォークのカトラリーセットが添えられていた。

 

 トレイの左隅には、小さな食札が載せられていた。ハルナはそこに記された文字列を見る。

 

ゲヘナ中央病院 医療センター給食管理部

病棟:3F-302号室

氏名:黒舘 ハルナ 様

食事:一般常食(昼)

指示:減塩

熱量:580 kcal

塩分:1.8 g

 

「熱量、580kcal。……塩分、わずか1.8gですか」

 

 ハルナの口元から、かすかな呟きが漏れた。普段の彼女なら「私をこの程度の数字で縛るつもりですか」と笑い飛ばしたかもしれない。

 だが、死の淵から奇跡的に生還した今の彼女にとって、それは自分の弱った身体を労わるための、限界まで優しさを突き詰めた調律の数値のように思えた。

 

(……ああ、私は本当に……戻ってきたのですね)

 

 ハルナはトレイを見つめ、主菜の皿の半透明なプラスチック蓋へと手をかけた。パカッ、と軽い音がして蓋を開ける。

 そこからふわりと湯気と共に姿を現したのは、主食の白ご飯。そして主菜である、薄い出汁の色に染まったジャガイモと、小さくカットされた豚肉の肉じゃが。脇を固めるのは、きゅうりとワカメの酢の物、白和えの小鉢。そしてデザートのリンゴが二切れ。

 決して華やかなフルコース料理ではない。だが、昆布や鰹の出汁を活かして塩分を抑えた、調理担当者たちの努力と丁寧な仕事ぶりがうかがえる献立だった。

 

 

「……いただきますわ」

 

 ハルナは白いプラスチックの箸を執り、覚悟を決めるようにジャガイモを一つ、ゆっくりと口へと運んだ。再び美食家としてこの世界を生き抜くために。

 

 しかし――。

 

 

「あの! すみません!!」

 

「はい? どうされましたか?」

 

 配膳が終わり、空いたワゴンを押して病室を出て行こうとした看護師を、ハルナは血相を変えて慌てて呼び止める。

 

「あの……ここの病院食は薄味だと聞きましたが、そうなのですか……?」

 

ハルナの切羽詰まった様子に、看護師は少し驚きながらも答えた。

 

「そうですよ。味の濃い物は基本的に身体に悪いですから。これも皆さんの健康のための食事ですので、味はあまり期待しないでくださいね」

 

「ですがこれは薄味すぎます! まるで何も味を感じないのですよ!」

 

 看護師はハルナの抗議を病み上がりゆえのわがままと受け取ったのか、苦笑しながら優しく宥めた。

 

「落ち着いてください。まだ黒舘さんは昏睡状態から目覚めて日が立っておらず、ずっと点滴のみ投与していたのです。なのでそう感じるだけです。薄味ですがちゃんと最低限の味付けはしてありますから、すぐに馴染めますよ」

 

「なるほど……。そう、言われれば……そうかもしれませんわね……」

 

 ハルナは眉をひそめ、全く納得などしていなかったが、身体がまだ本調子ではないという正論になんとか自分を無理やり納得させようと呟いた。

 

ハルナは再びジャガイモを咀嚼する。だが、味は全くと言っていいほど感じられない。

 

「なら、こちらはどうですの……?」

 

 慌てて、小鉢の酢の物を口に運ぶ。本来ならむせるほどの酸味やキュウリの青臭さがあるはずだ。しかし、無い。

 

 白和えを食べる。大豆の甘みも、出汁の香りも無い。

 

 最後にリンゴを齧る。シャキッという音はするが、果汁の甘みも酸味も、一切存在しない。

 

「なっ、何故……? どうして何も味がしないのですか!?」

 

 感じるのはひたすら無味無臭、無味無臭、無味無臭。口の中で物が歯で砕かれ、唾液を含みながらただぐちゃぐちゃのペーストになっていくだけ。いくら噛んでも一向に味も匂いも出てこない。

 

「嘘、です………こんなの絶対に嘘です……!!!」

 

 味のしない食事は、とても、とても虚しいものだった。

 腹に物が入り、物理的な満腹感は得る事ができた。

 しかしこれでは、ただ顎を動かすだけの徒労を感じる作業でしかない。美食の前提にあるはずの『食事』が、あろうことか、無駄な行為にしか思えなかった。

 

「違います…これは…味が薄いだけ…薄いだけです…! 私の身体がまだ本調子に戻ってないだけです! きっと夕方になれば――明日になれば――」

 

 ハルナは震える手で箸を握りしめ、その僅かな希望に縋るしかなかった。

 

 

 

---

 

 

 

 

「異常は、どこもありませんね。すべて正常値です」

 

「ま、待ってください……!!」

 

 数日後。病院の診察室で、液晶モニターに表示された様々なグラフや検査結果を見ながら、医師は事務的にハルナに診断結果を告げた。

 味覚と嗅覚、温度覚の異常を強く訴えるハルナは精密検査を希望したが、出てきたのはいずれも異常無しと言う結果。

 味が全くしないにも関わらず、機械の数値はハルナの体に異常はないと冷酷に語る。

 

「も、もう一度、もう一度検査をしてください! お願いしますっ!!」

 

 診察机から身を乗り出し、医師に縋るように願うハルナだったが、医師は冷たく一蹴した。

 

「黒舘さん、いい加減にしてください。何度検査しても結果は変わりませんよ!」

 

 苛立ったように医師はペンで机を叩く。

 

「味覚と嗅覚と温度覚に関連する項目は、この病院で出来る範囲で何度も全て検査しました。ですが、全て正常値の範囲内です」

 

「そんなはずはありませんわ! 現に私は何も味を感じないのですから!」

 

ハルナの必死の訴えにも、医師は気乗りしない様子で首を横に振る。

 

「あと考えられるのは心因性のストレスですが…入院する前までは普通だったのでしょう?」

 

「はい…」

 

「だとすれば、その線も無いでしょうね」

 

 医師は呆れたようにため息を付き、つい皮肉めいた愚痴を零した。

 

「黒舘さん、あなた、あの悪名高い『美食研究会』の会長だったんでしょう? 美食なんて綺麗な言葉で飾っても、実際はただの偏食と暴食だったんでしょう? 聞けば、お店の在庫を食べ尽くしたこともあると言う話じゃあないですか。そんな偏った暴飲暴食していれば、舌が馬鹿になるのも当然なのでは?」

 

「はい?……今、何と言いました?」

 

 ハルナの中で、突如として激しい憎悪の炎が生まれ、一気に膨れ上がった。そんなハルナの致命的な変化に気が付かず、PCモニターをずっと眺めながら医師は言葉を重ねる。

 

「それを美食と呼ぶのは、いささか可笑しいですね」

 

 その一言が、ハルナの逆鱗に火を付けた。

 

「私がどれほどの覚悟と情熱をもって美食を追求してきたか……それをただの暴飲暴食と宣うとは、万死に値しますわ! 貴方のような味覚の貧しい三流のヤブ医者に、私の、私たちの崇高なる美食を語る資格などありませんわぁっ!!」

 

 ハルナが獣のように吠え、顔を真っ赤にして勢いよく立ち上がる。

 

「ひっ……!? な、何を急に……」

 

そ のただならぬ殺気と狂気を帯びた眼差しに、医師は背筋を凍らせ、ガタガタと震えながらキャスター付きの椅子ごと後ずさった。

 

「許しません……私の美食を穢す者は、絶対に許しませんわ!!」

 

 理性が吹き飛び、ハルナの視界が怒りで完全に真っ赤に染まった。

 

 

 

----

 

 

 

「何をやっているんですか! ハルナさん!!」

 

「あ゙あ゙っ!?」

 

背後から何者かに腕を強く掴まれ、ハルナはハッと我に返って振り向いた。真っ赤に染まった視界が徐々に元に戻る。

 ハルナの後ろに立ち、振り上げたハルナの拳を力強く掴んで止めていたのは、救急医学部部長の氷室セナだった。

 彼女の顔が視界に入り存在を認識した瞬間、ハルナの中で暴れるように渦巻いていた憎悪の感情が、すっと潮が引くように消えていく。

 

「セナ……さん?どうして此方に……? 私は一体何を……?」

 

 ハルナはそのまま周囲を見渡し、次の瞬間、愕然とした。

 

「こ、これは一体なんですの!?」

 

 診察室の中は、まるで局地的な嵐に遭遇したかのように荒れ果てていた。

 診察用デスクは無残にひっくり返り、PCや高価なモニター、その他の精密機器はへしゃげて完全に破壊され書類が吹雪のように部屋中に散乱していた。

 

「ううっ…うううううっ」

 

 声のする方を見れば医師は床に倒れて呻き声をあげていた。顔は鈍器で殴られたように血まみれになり、白衣は引き裂かれてボロボロになっている。

 

「先生! どうなされたのですか!?」

 

 慌てて医師に駆け寄ろうとしたハルナ。しかし、動こうとしたハルナは後ろからセナに強い力で羽交い絞めにされ、その動きを封じられた。

 

「落ち着いてください! これ以上暴れるなら拘束しますよ!」

 

「セナさんっ!?」

 

 驚くハルナだが、その前に血まみれの医師がハルナを見て大きな悲鳴を上げた。

 

「ひぃぃぃいいいいい!!! 殺さないで!! 殺さないでくださいぃぃぃぃ!!!」

 

「やめてくださいハルナさん!先生を本当に殺すつもりですか!!」

 

「セナさん……? 私は何を……」

 

「ハルナさん、本当に覚えてないのですか? この診察室の惨状、そして先生の怪我……すべて作り出したのは、ハルナさんなんですよ?」

 

「私がですか……? 私はそんな事は――」

 

「病院から救急医学部に緊急連絡があったのです。貴女が突然暴れて、医師に危害を加えていると」

 

 そこでハルナは気づく。己の手が血で染まっていることを。手が酷く痛むことを。

 

「まさか……そんな、まさか……」

 

 自分のしでかした事に愕然とするハルナの足元で、血まみれの医師が這いつくばり、震え泣きながら叫んだ。

 

「わかりました! わかりました! もう一度検査しますっ!!」

 

 這いつくばったまま、医師が震え泣きながら叫んだ。

 

「ミレニアムサイエンススクール製の、最新の治療薬があるのでそれを試しましょうっっ!! とても優秀な薬です! 重度の味覚障害の方すら半日程で回復し、私も効かなかった事例は聞いたことがない超高級な治療薬です! それを特別に黒舘さんに無料で処方しますっっ! だから、どうかお命だけはお助けくださいっっ!!」

 

 震え、泣きながらハルナに土下座する医師。

 その無様な姿と懇願の声を呆然と聞きながら、応援に駆け付けた病院の警備職員や救急医学部の生徒達によって、ハルナは無理やり連行されていくのだった。

 

 

---

 

 

 

 一般病棟から隔離病棟へと移送され、厳重に鍵のかかった個室へ押し込められたハルナは、ベッドの隅で布団を被ってガタガタと震えていた。

 明日、医師が言っていたミレニアム製の治療薬を投与してもらえることになった。しかし、ハルナは本当に安心する事が出来ないで居た。

 

「誰か…誰か、助けてください…! 私は、怖いです…! 本当に明日、薬が飲めるのでしょうか? 本当にその薬は効くのでしょうか!? 薬を飲んで、それでも味がしなかった時が…! 私の夢が、美食家としての魂が完全に死ぬ、その時が…!」

 

 静かで無機質な部屋に、ハルナの情けない泣き言だけが木霊する。応えてくれる人など当然誰も居ない。

 

 だが、その時――何かが、僅かに匂った。

 

「甘い……匂い……?」

 

 味も匂いも全く感じられない今のハルナにとって、その匂いはあまりにも衝撃的だった。

 必死に縋り手繰り寄せるようにその匂いの発生源を目で追うと、キャビネットの足元に置かれた「救急医学部 押収品」と書かれた半透明のビニール袋が目に入る。

 

 思わずベッドから転げ落ちるようにしてビニール袋を乱暴に引き裂けば、濃厚な甘い香りと共に、焼け焦げボロボロになったハルナの愛用していたポーチが出て来た。

 

「これはっ!?」

 

 甘い匂いに誘われるままポーチを開くと、底の黒くなった部分に、とても細かい白い砂のようなものが僅かにきらきらと光って見えた。

 それを見たハルナは、一瞬で悟った。これはあの『砂漠の砂糖』の、飴玉が砕けた微小な欠片だと。

 

 一度食べれば永遠に己の脳と細胞を蝕み、理性を吹き飛ばすほどの激しい飢餓感を与えてくる、諸悪の根源であるそれを。

 

「あ……あ……ぁ……」

 

 ハルナは喉から言葉にならない渇いた音を漏らしながら、ガタガタと全身を震わせ、まるで磁石に吸い寄せられるようにその欠片へとゆっくり手を伸ばしていた。

 

「……ほんの少しの欠片です。一度だけ……もうこれで、本当に最後にしますから……」

 

 自分の中の奥深くにいるナニかが「ダメだ」と必死に叫び、警鐘を鳴らして訴えかけている。しかし、ハルナは壊れた頭で都合の良い言い訳をして、恐怖をごまかす。

 

「大丈夫です。ほんの小さな欠片ですから。一度限りです、これで強いショックを与えて、味覚と嗅覚の神経を強制的に取り戻すだけですから。少しだけ食べて感覚を取り戻せば、もう二度と食べませんから……大丈夫です」

 

 震える指をポーチの底に這わせ、白い結晶の粒を指の腹に集める。

 ゆっくりと指を持ち上げれば、視界が歪むほど素晴らしい匂いが脳を直接殴りつけてくる。

 

「大丈夫、ほんの数粒です。私は負けない……もう砂漠の砂糖なんかには絶対負けませんから……」

 

 いつの間にか、半開きの口からはぽたぽたと涎が溢れて止まらなくなっている。

 

 

「ぁー…」

 

 

なにか、とてもかなしい事があった様な気がします。

 

でも、いまがこんなにしあわせなのですから、もんだいないでしょう。

 

わたしはしたをめいっぱいにのばします。

 

そしてゆっくりとそれにちかづけます。

 

あとさんせんち、にせんち、いちせんち…

 

「…あ♡」

 

とうちゃく。

 

したさきからあたまに、ばちばちとしあわせがながれこんできました。

 

なぜわすれてたのでしょう、しあわせはこのかたちをしていることを。

 

たまらなくここちよいです。

 

そしてわたしはしっています、ここからなみのように、またおおきなしあわせがくることを。

 

それをまちわびて、ああ、もうすぐきます。はやく、はやく。

 

あ、いま、き───

 

 

 

直後、ハルナの目の前が真っ白に爆発した。

 

 

 

 

---

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 目の前には、見知らぬ無機質な天井が広がっていた。

 身体は頑丈な拘束具でベッドに完全に固定されていて指一本動かせず、頭部すら医療用の結束バンドで固定されていて、視線は目を動かせるわずかな範囲しか見る事が出来ない。

 

 隔離された何もない無機質な部屋で、ハルナは拘束されていた。

 気を失う前のことは何も覚えてない。しかし、取り返しのつかない何かを仕出かしてしまった。ハルナは本能でそう感じていた。

 

 不意に、ハルナの視界が暗くなる。誰かが上からこちらを覗き込んでいるのだ。視界のピントが合えば、そこには風紀委員長の空崎ヒナの顔があった。

 

「ふ、風紀委員長……」

 

「おはようハルナ。どう? 派手に暴れてすっきりしたかしら?」

 

 ハルナはそのとき気がついた。ヒナの顔に細かいすり傷や切り傷があり、白い頬が少し赤く腫れている事を。

 

「風紀委員長、その顔のお怪我は……?」

 

何か決定的な嫌な予感がして、ハルナは恐る恐る尋ねる。ヒナはあっけらかんとした表情で答えた。

 

「ああ、これ? ……ハルナ、あなた接近格闘の腕前、中々あるわね。なかなかいいパンチだったわ。徹夜明けの私の眠気が一気に吹っ飛ぶくらい、最高の一撃だったわよ」

 

 自分を制圧しに来たヒナに暴力を振るってしまい、怪我をさせた事にハルナは絶望する。目尻から後悔の涙が溢れ出して止まらない。

 

「申し訳ございません。風紀委員長……本当に、申し訳ございません……」

 

「別に気にしてないわ。しかたないでしょう? お砂糖が切れていたんだから――」

 

「えっ……?」

 

 ヒナの何気ない一言に、ハルナは驚愕する。今、この人は何と言った――?

 ハルナの疑問を気にする様子もなく、ヒナは淡々と話を続ける。

 

「それから、あなたの担当医だった医師から伝言を預かっているわ。ミレニアム製の味覚障害を治す薬、貴女が寝ているうちに点滴で投与したそうよ。今日の夕方には効くはずだから、楽しみにしていなさい」

 

 そう言うと、ヒナはハルナの顔にそっと手をかざした。

 

「だから、それまでゆっくりと寝ていなさい」

 

 ヒナの小さな手がハルナの額を優しく撫で、見開かれた両目の瞼にそっと触れる。

 その時だった。ヒナの小さな手から、ひどく甘い香りがしたのは――。

 

「えっ……?」

 

 その香りを、脳を狂わせる独特の甘い香りを、ハルナが忘れるはずはなかった。だってその甘い、邪悪なほどの甘さの正体は―――。

 

「風紀委員長……甘い、香りが……」

 

「甘い香り……? 何の事かしら?」

 

 ハルナは拘束されながらも、必死にヒナに問いただそうとする。何故、風紀委員長の身体からあの甘い『砂漠の砂糖』の匂いがするのか――?

 しかし、投与された薬の影響か、激しい眠気と睡魔が突如としてハルナを襲い始めた。泥のようなまどろみがハルナの足を掴んで、漆黒の深い闇に引きずり込もうとする。

 

「何……どうしたのアコ?………そう、まだ"ネタばらし"はしてはいけないのね。ごめんなさい、迂闊だったわ」

 

 ヒナが虚空に向かって呟く。天雨アコ行政官もこの部屋に居るのだろうか?人の気配は風紀委員長一人しか感じられなかった。ナニかがおかしい。ナニかが居る。

  しかし、ハルナは頭部も結束バンドで完全に固定されており、視界が極端に制限されているため、ヒナの隣を確認したくても全く見ることができなかった。

 

「ふ、風紀委員長………ヒ、ナ、さん……」

 

起き上がらねばならない。目を開けて確認しなければいけない。必死に抗おうとするハルナ。しかし、ハルナの瞼に添えられたヒナの手に凄まじい力が掛かり、ハルナの顔を力任せに押さえつけ、ベッドの奥深くへと沈み込ませる。

 

「良いから眠りなさい、眠りなさい……眠れ、眠れ、眠れ、眠れ、眠れ、眠れ――」

 

 冷たく呪うようなヒナの言葉と共に、意識が急速に遠のき、揺らいでいく。

 それでも、意識が完全に沈む瞬間。ハルナは最後の力を振り絞って薄く目を開き、ヒナの指の隙間から見てしまった。

 

 

 

 邪悪な笑みを浮かべて、こちらを愉しげに見下す風紀委員長の姿を。

 

 

 

「風紀委員長……? どう、して………」

 

 

 

 

 

 

---

 

 

 

 

「…………」

 

 絶望に染まった無表情の顔でベッドの上で動けないハルナは、ただ虚ろに天井を見つめていた。

 先ほど来た看護師に今何時かと聞けば、もう夕刻を示す時間だった。

 あのミレニアム製の薬が効き始める時間のはずだ。

 なのに……何も変化を感じられない。

 口の中の唾を飲み込んでも、何も感じない。

 

 看護師がテーブルをアルコール消毒をしているのが視界の隅にチラリと見えた。

 なのに、あのツンと鼻を突くアルコールの刺激臭が全くしないのだ。

 

「…………」

 

 ハルナは必死に耐えた。耐えていた。

 ただひたすら奇跡が起きるのを待っていた。

 頭に浮かぶ、最悪の答えが何度も何度も過ぎる。その度に必死に自分に言い聞かせて来た。

 それでも、残酷な現実が見えてきそうで心が砕け散りそうになる。

 

「うぅぅぅぅぅ………うぐあぁぁぁぁぁぁ………!」

 

 隣のベッドで寝かされているアカリが発狂し、暴れ出す前兆の声を上げ始めている。

 ハルナはもういっそのこと、狂いたかった。アカリの様に狂い壊れたかった。

 

 しかし、出来ないでいた。身体の奥に撃ち込まれた楔のようなものが、ハルナの壊れたい心を無理やり押さえつけているのを感じる。

 今はただ、耐えている。ゆっくりと死刑台が、死神が自分に近づいてくる気配が……。

 

「ぎガァあ゙あ゙あ゙あああッッ!!」

 

 アカリが完全な獣のような絶叫を上げて暴れ出した。ベッドがメキメキと軋む音、大勢の看護師や病院職員が病室内へなだれ込んでくる足音、叫び声や怒声が響き渡る。

 やがて激しい抵抗の末に鎮圧され、暴れるアカリがベッドごと病室の外へ運び出されていき、再び静寂が病室を包み込んだ。

 

 ゆっくりと瞳を閉じようとしたハルナ。その時、声が聞こえてきた。

 

 

「…ハ、ハルナ!? ハルナ!! これはいったい…!? どういうことなの!?」

 

 

 驚き、目を見開くハルナ。視界の隅に、一番会いたかった――そして、今の自分を一番見られたくなかった人、――愛清フウカがそこに居たのだった。

 

 

 

 

(おわり)

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