アビドス砂漠の砂糖スレ自作概念置き場 作:砂糖堕ちハナエちゃんの人
この物語は、原作公式ゲーム「ブルーアーカイブ」の公式シナリオである、
・2026年7月実装イベントシナリオ「出航!万魔船 マコト議長の華麗なる避暑」
・2026年8月実装メインストーリー第2部 Vol.1「炎と影」編(通称:ゲヘナ編)
の発表前に構想・一部執筆された作品です。
上記シナリオにて明かされた最新の公式設定や新事実は、ほぼ反映されておりません。
公式設定との乖離や矛盾が多々あるかと存じますが、以上の点を十分にご留意の上、お楽しみいただけますと幸いです。
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※このお話は無能の司祭A氏(むのしさ氏)の砂漠の砂糖SSゲヘナ編をベースに作成しており、以下該当作品から設定や台詞や表現・情景描写を多く引用しております。
第5話 フウカ回
「なら、丁度良かったわ。今日は二人にね、とっても素晴らしいニュースを持ってきたの」
そう言うと、ヒナはふんふん♪とご機嫌な鼻歌でも歌い出しそうな足取りで、スキップをしながら厨房の出入り口へと向かっていった。
(す、素晴らしいニュース……?)
フウカが怪訝な顔で首を傾げた、数秒後。
――ズズズンッ!!
本来なら厨房に響くはずのない、地響きのような重低音が床を揺らした。
ドアの向こうから戻ってきたヒナが、その華奢な肩に『巨大なコンクリートの板のような塊』を軽々と担ぎ上げていたのだ。
「えっ……? ひ、ヒナ委員長、それ……っ!?」
フウカは自分の目を疑った。
ヒナが担いでいるそれは、どう見ても『建物の壁そのもの』だった。
まるで重機か何かで分厚いコンクリートの壁を力任せに引き剥がしてきたかのように、周囲はボロボロに崩れ、引き千切れた太い鉄筋がむき出しになって飛び出している。
ゲヘナの最高戦力であるヒナにとっては造作もない重さなのだろうが、あまりにも常軌を逸した光景だ。
そんなフウカの戸惑いなど気にも留めず、ヒナはその巨大なコンクリートの塊を、くるりとコマのように回転させた。
すると、無残に引き千切られた裏側とは対照的に、綺麗なままの表側の壁面――そこには、見慣れた学園の『掲示板』がそのまま張り付いていた。
ヒナはコンクリートの塊を床にドンッ!と下ろすと、掲示板に貼られた数枚のプリントを指さし、満面の笑みで効果音を口にした。
「じゃじゃあ~ん! 見て見て~! 貴方達――給食部に災いを齎していた愚か者どもに、天罰がくだったわっ!」
「て、天罰……?」
あまりの出来事に呆然としながらも、フウカは恐る恐るそのコンクリート(掲示板)に近づき、そこに掲示されている真新しいプリントに視線を落とした。
そして――そこに書かれていた内容に、フウカは雷に打たれたように目を見開き、文字通り『驚愕』の声を漏らした。
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【通達:『美食研究会』の組織指定解除について】
ゲヘナ学園万魔殿、学園理事会、懲罰委員会の連名において、以下の決定を告知する。
【処分内容:公認取り消し】
当該団体は、民間商業施設に対する爆破テロ行為、および当該施設の従業員に対する不法な武力襲撃・致傷に及んだことが確認された。
これに伴い、部活動に支給されていた予算、物資、および部室の占有権は本日を以てすべて凍結される。本措置の撤回に関する審議の予定は現在存在しない。
ゲヘナ学園 万魔殿 / 学園理事会 / 懲罰委員会
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【通達:特定生徒に対する『登校禁止および学籍隔離措置』について】
下記の対象生徒に対し、万魔殿、学園理事会、懲罰委員会の連名による特別処分を下す。
【対象生徒名:黒舘ハルナ、鰐渕アカリ、獅子堂イズミ、赤司ジュンコ】
【処分内容:無期限停学処分】
対象生徒らは、民間施設爆破・銃撃致傷事件に加え、不慮の事故による重傷および長期療養を要し、今後の正常な学業継続が著しく困難であると判断された。
本措置は「事実上の学籍剥奪に準ずる扱い」とし、本学園は今後、対象生徒らの安全および身分の保証を一切行わないものとする。
ゲヘナ学園 万魔殿 / 学園理事会 / 懲罰委員会
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「な……っ!? これ、嘘でしょ……!?」
フウカの震える手から、持っていたお玉がカランッと音を立てて床に転がり落ちた。
いつもいつも給食部を理不尽に爆破し、自分を拉致し、散々振り回し続けてきたあの悪夢のような集団、美食研究会。
それが『廃部』になっただけでなく、メンバー全員が事実上の『退学(無期限停学)』に処されたというのだ。
しかも、告示文の後半に書かれている一文が、フウカの背筋に冷たいものを走らせた。
(『不慮の事故による重傷および長期療養を要し』……!? あの、無敵みたいに強くてタフなハルナたちが、重傷……!? 一体、何があったっていうの……っ!?)
フウカは信じられない思いで、プリントの文字を何度も、何度も目でなぞる。
そんなフウカの隣で、壁ごと掲示板を引き剥がしてきた張本人であるヒナは、「ね? 素晴らしいニュースでしょ!」と、まるで自分のお手柄を褒めてもらうのを待つ無邪気な子供のように、えへへ、とご機嫌な笑顔を浮かべていた。
「わぁあっ! 本当ですね! やったぁっ!」
フウカの横からひょっこりと顔を出して告示文を覗き込んだジュリが、パチンッと嬉しそうに両手を打ち鳴らした。
そして、ヒナと全く同じような無邪気な満面の笑みを浮かべたまま、その口から恐ろしくドロドロとした怨念の籠もった言葉を吐き出し始めた。
「あの人達、私が一生懸命、心を込めて準備した大切なお店を理不尽に爆破したんですから! 神様からの天罰が下ったんですよっ! えへへっ、ざまぁみろって感じですね! ぐちゃぐちゃに潰れて、一生ベッドの上で痛い痛いって泣き叫んで苦しめばいいんですよ!」
キャッキャッと、まるで欲しかったおもちゃを買ってもらった幼子のように無邪気に喜ぶジュリ。
そのあまりにも残酷で怨念にまみれた呪詛の言葉に、フウカはゾクッと背筋を凍らせた。
(た、確かにあのお店を爆破されたのは可哀想だったし、ジュリが怒るのも当然だけど……。あんなにニコニコしながら、人の不幸を喜んで呪うような子だったかしら……!?)
だが、フウカの戸惑いをよそに、ヒナもまたジュリの言葉に楽しそうに頷き、本来の彼女なら絶対に口にしないような、酷く歪んだ侮辱の言葉を紡ぎ出した。
「ええ、その通りねジュリ。あんな生ゴミ以下の連中、最初からゲヘナに巣食うダニ以下の存在でしかなかったもの。美食がどうとか偉そうにほざいていたけど、ただの薄汚い味覚障害の雌豚の群れよ。これからは一生、泥水でも啜って惨めに這いつくばって生きていくのがお似合いだわ。アハハッ!」
鈴を転がすような、可愛らしい笑い声。
しかし、その口から飛び出しているのは、相手の人格も存在もすべてを踏みにじるような、あまりにも邪悪な暴言だった。
普段のヒナであれば、どれだけ美食研究会が問題を起こそうとも「本当に頭が痛いわ……」「仕方のない子達ね」とため息をつきながら、あくまで風紀委員長としての事務的な処理や武力鎮圧を行うだけだ。
決して、相手を「生ゴミ」や「雌豚」などと汚い言葉で罵ったり、重傷を負って退学になったことを腹の底から楽しそうに笑ったりはしない。
(ヒ、ヒナ委員長まで……どうしちゃったの!? まるで、別人の悪魔が乗り移ったみたい……っ)
フウカにとって、目の前で繰り広げられる光景はただただ異様だった。
「ふふっ、今日は本当にいい日ね、ジュリ」
「はいっ! ヒナさんのおかげで、すっごくスカッとしました!」
血も凍るような恐ろしい暴言と呪詛を吐き出しながら、花畑にいるようにキャッキャと笑い合い、楽しそうに手を取り合う二人。
そのあまりにも不気味で狂気に満ちた空間に取り残されたフウカは、床に落ちたお玉を拾うことも忘れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。
そんなフウカの異変に、ふとヒナが気づいて小首を傾げた。
「……あら? どうしたのフウカ、嬉しくないの?」
「え……?」
「あんなに毎日毎日、貴方の料理を邪魔して、拉致して、給食部を滅茶苦茶にしていた美食研究会が消滅したのよ? ずっと目障りだった連中がいなくなって、清々したでしょう?」
心底不思議そうに、そして純粋な善意から『お祝い』を強要してくるようなヒナの言葉。
それに同調するように、ジュリもまた不思議そうにパチパチと瞬きをしてフウカの顔を覗き込んできた。
「そうですよ、フウカ先輩どうしたんですか? 嬉しくないんですか? 私たちの平和な給食部を守るための、最高のお報せですよ?」
二人の濁りのない(しかし完全に狂っている)瞳で見つめられ、フウカはついに耐えきれず、震える声で叫んでいた。
「ど、どうして……二人ともどうしてそんな酷いことが言えるのよッ!」
その声には、悲痛な響きが混じっていた。
確かにハルナたち美食研究会には散々迷惑をかけられてきたし、何度もひどい目に遭わされてきた。
それでも、彼女たちは同じゲヘナの生徒であり、フウカの料理を「美味しい」と食べてくれていた客でもあったのだ。
その彼女たちが重傷を負い、学園を追放されたというのに、それを『生ゴミ』や『天罰』と呼んで笑い飛ばすなんて、いくらなんでも異常すぎる。
「いくら腹が立っていたからって、重傷を負った人たちに向かって……そんな、笑いながら呪うようなこと言うなんて……っ。ヒナ委員長も、ジュリも、絶対におかしいわ……!」
勇気を振り絞って放たれた、フウカの切実な訴え。
しかし――その言葉が厨房に響いた瞬間、ヒナとジュリの顔から、スッと『無邪気な笑顔』が消え失せた。
「……どうして嬉しくないの?」
ヒナの声が、先ほどの甘く弾んだものから、ぞっとするほど冷たく、底知れぬ暗さを帯びたものへと急降下した。
「貴方、あいつらに散々苦しめられたじゃないの。私たち、フウカのために喜んであげているのに……どうして、そんな庇うようなことを言うの?」
「そうですよ……フウカ先輩、あんな奴らの味方をするんですか? 私たちの、敵なんですか……?」
ヒナとジュリが、ゆっくりと、まるで獲物を追い詰めるように一歩ずつフウカへと歩み寄ってくる。
トロンと潤んでいたはずの二人の瞳孔が、今は爬虫類のように細く収縮し、フウカを射貫いていた。
「そんなにハルナ達が心配なら……もういいわ。今後フウカがどんなに酷い目に遭っても、私、もう絶対に助けてあげない」
「私もです。フウカ先輩が私たちよりもあんなゴミみたいな連中を心配するなら……もう先輩のことなんて知りません。明日の仕込みも、配膳のお仕事も、全部一人でやればいいんですよ」
ヒナとジュリのその言葉は、突き放すような冷酷さと、「私たちだけを選べ」というねっとりとした束縛の欲求が入り混じった、極めて歪んだ『罰』の宣告だった。
「ひっ……!?」
フウカは息を呑み、思わず後ずさった。
背中に冷や汗がどっと吹き出す。
目の前にいるのは、いつも頼りにしていた小柄な風紀委員長と、ドジだけど一生懸命で可愛い後輩のはずだ。
だというのに、今のフウカには、二人の姿が『鎌首をもたげた二匹の巨大で邪悪な毒蛇』にしか見えなかった。
暗く淀んだ狂気の目で、逃げ道を塞ぐようにじっとこちらを睨み下ろしてくる大蛇。
フウカ自身は、その巨大な蛇のトグロの真ん中に放り込まれ、今にも丸呑みにされようとしている『ちっぽけで無力な捕食対象の小動物』でしかない。
本能が「これ以上何か言えば、本当に取り返しのつかない(喰われる)ことになる」と警鐘を鳴らし、全身の震えが止まらなくなった。
「あ……ぅ……」
喉がヒュッと鳴り、声が出ない。
圧倒的で異常な『狂気』の圧に完全に心を折られてしまったフウカは、それ以上何も言い返すことができず、怯えたようにギュッと身を縮こまらせ、ただガタガタと震えながら深く俯くことしかできなかった。
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トトトトトッ、という小気味良い包丁の音が、静まり返った厨房の片隅に響き渡っていた。
出汁の張られた鍋からは、ふわりと優しい湯気が立ち昇り、食欲をそそる温かな香りが漂っている。
今回、フウカが特にこだわったのは、しっかりと濃い味付けに仕上げた出汁巻き卵だ。ハルナが好むような、一口食べた瞬間にじゅわっと旨味が溢れ出す、パンチの効いた極上の仕上がりになっている。
それに加えて丁寧に飾り切りされた野菜の煮物、そして消化に良く栄養満点の白身魚のふっくらとした幽庵焼き。
フウカは今、持てる技術のすべてを注ぎ込み、一つのお弁当箱を美しく、完璧な栄養バランスで埋めていく作業に没頭していた。
(ハルナ、きっと今頃お腹を空かせているはずだわ……!)
――時計の針は数時間前に遡る。
ヒナとジュリから、まるで蛇のような冷酷な言葉で責め立てられ、完全に孤立してしまったフウカ。
しかし、ヒナが上機嫌で厨房を去った後も、彼女の心の中から「重傷を負って退学になった」という美食研究会の面々への心配が消えることはなかった。
あんな理不尽な告示文一枚で、あの子たちがゲヘナからいなくなってしまうなんて、絶対に信じられない。
いてもたってもいられなくなったフウカは、かつて給食部で生み出してしまった巨大化生物『パンちゃん』が風紀委員会を巻き込んで大暴れした際、事後処理を一緒に手伝ってくれた縁で親しくなった救急医学部の少女――氷室セナに連絡を取った。
『……患者のプライバシーに関わることですので、お答えしかねます』
電話の向こうのセナは、相変わらず感情の読めない淡々とした声で最初は口を閉ざしていた。しかし、フウカが「どうしても心配なの! お願い!」と必死に何度も説得を重ねると、やがて小さくため息をつき、ポツリポツリと現状を教えてくれたのだ。
セナの口から語られた事実は、フウカを心底安堵させた。
ハルナたち四人は現在『ゲヘナ中央病院』に入院していること。全員が命の危機を脱しており、容態はすでに安定していること。
そして、フウカが「すぐにでも面会したい!」と頼み込むと、セナは少しだけ黙った後、「……フウカさんがそういうなら。四人の中で一番容態が安定している黒舘ハルナさんになら、すぐにでも面会が可能です。許可を出しておきましょう」と、特別に手配をしてくれたのだった。
(よかった……生きてる。ハルナたち、生きてるんだわ……!)
あの忌まわしい告示文を見た時は絶望しかけたが、久しぶりにハルナに会えるという事実が、フウカの胸に確かな嬉しさと希望の光を灯していた。
面会に行くと決まれば、当然『お見舞いの品』が必要だ。
そこでフウカの脳裏をよぎったのは、彼女たちが入院しているゲヘナ中央病院の『食事』の噂だった。
数年前、あの病院は院長をはじめとする経営上層部がガラリと入れ替わった。それ以来、病院食は「身体の滋養強壮と回復」のみを最優先とした、極端なまでに味気ない、ひたすら薄味のメニューへと変更されてしまったのだ。健康には良いのだろうが、患者たちの間では「中央病院の飯は不味すぎる」と悪評が絶えない。
究極の美食を追い求めてキヴォトス中を駆け回る、あのハルナたちが。
ただでさえ重傷を負って身動きが取れないベッドの上で、そんな味気ない病院食を出されて、大人しく我慢できるはずがない。間違いなく、食事に対して多大なる不満とストレスを抱えているはずだ。
(なら、私がハルナに、とびっきり美味しいお弁当を作ってあげよう!)
――そう思い立った瞬間、フウカの身体はすでに動いていた。
病み上がりの身体に負担をかけず、それでいて舌の肥えたハルナが心から満足できるような、極上の味わい。
丁寧に、一切の妥協なくおかずを詰めていくうちに、ふとフウカの手がピタリと止まる。
(……私、こんなに愛情を込めて、誰かのためにお弁当を作ったのって、いつぶりだろう……?)
普段の給食部では、何千人もの生徒のために、ひたすら機械のように大量の料理を作り続けている。
しかし今、フウカの目の前にあるのは、たった一人の相手――ハルナのためだけに味付けを考え、見栄えを整え、心を込めて作っている特別なお弁当だ。
おかずの配置を微調整し、彩りを気にして、相手の喜ぶ顔を想像しながら愛情をたっぷりと詰め込むこの時間は、まるで――。
(まるで……大切な旦那様のために作る、『愛妻弁当』みたい……)
無意識の内にそんな甘い考えが脳裏をよぎり、フウカの顔がボフッと音を立てるように赤く染まった。
「わ、私ったら何を……っ!」
フウカは慌ててブンブンと首を横に振り、自分自身の無自覚な感情を誤魔化すように、両手で火照った頬をパシパシと叩いた。
まさか自分が、いつも給食部を爆破してくるあの傍若無人なトラブルメーカーに対して、そんな淡い恋愛感情のようなものを抱いているだなんて、フウカ自身まったく自覚していないのだ。
「よし……っ、できた!」
最後の一つ、丁寧に形を整えた梅干しをご飯の真ん中に乗せ、フウカはお弁当箱の蓋をパチンと閉めた。
彩り、栄養、そして何より『安全で美味しい』最高のお弁当。これをハルナが食べたら、きっといつものように「さすがはフウカさん、素晴らしい味わいですわ!」と優雅に笑ってくれるに違いない。
いつも拉致されて、爆破されて、散々振り回されてきたというのに。
フウカは、あの騒がしくも楽しかった『日常』がひどく恋しくなっていた。
「待っててね、ハルナ。今、最高のお弁当を持っていくから……!」
愛妻弁当のような熱量と想いが詰まった包みを胸にしっかりと抱きかかえ、フウカは厨房の奥で明日の下拵えをしているジュリに声をかけた。
「ジュリ、ごめんなさい。これから少し用事で出かけてくるわ」
「あれっ、フウカ先輩、お出かけですか?」
振り返ったジュリの無邪気な顔を見た瞬間、フウカの脳裏に、先ほどハルナたちに向けて吐き出された『ぐちゃぐちゃに潰れて苦しめばいいんです!』という邪悪で怨念に満ちた笑顔がフラッシュバックした。
(……どこへ行くか、誰に会いに行くか、なんて……絶対に言えない)
背筋に冷たいものが走るのを悟られないよう、フウカはできるだけ自然な、普段通りの声色を取り繕う。
「ええ。ちょっと急用が入ってね。用事が片付くの遅くなりそうだから、今日はもうここには戻らずにそのまま直帰するわね。悪いけれど、食堂の戸締まりと残りの作業は任せてもいいかしら?」
「はいっ! わかりました、お気をつけて~!」
のんきに手を振るジュリに背を向け、フウカは逃げるように足早に厨房を後にする。
そして外へ出ると、愛用のスクーターにまたがり、大切な『お弁当』を荷台にしっかりと積み込んだ。
エンジンを吹かせば、フウカはただひたすらにハルナの無事を祈りながら、ゲヘナ中央病院へと向けてアクセルを回したのだった。
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愛用のスクーターを走らせ、ゲヘナ中央病院に到着したフウカは、大切なお弁当の包みを抱き直して総合案内の窓口へと向かった。
「すみません、面会に来たのですが。黒舘ハルナさんの病室を教えていただけますか?私、ゲヘナ学園の愛清フウカと申します。救急医学部、氷室セナさんから許可と連絡を貰っているはずなのですが」
「えっ……く、黒舘ハルナ、さん……ですか?」
その名前を口にした瞬間、にこやかだった病院職員の顔色がサッと青ざめ、頬が引きつったように強張った。
カタカタとキーボードを叩く手すら微かに震えているのを見て、フウカは内心で小さく苦笑した。
(あはは……やっぱり、ハルナたちの悪名ってこの病院の職員さんにまで知れ渡ってるのね。美食研究会が来ているなんて聞いたら、そりゃあ警戒もするか)
フウカは、その職員の明らかな動揺と恐怖の反応を「美食研究会が過去にやらかした数々のトラブル(悪名)のせいだろう」と解釈し、深く気には留めなかった。
職員はどこかへ慌ただしく内線を掛け、ヒソヒソと確認を取っていた。そして暫く待たされた後、フウカは「……敷地の奥の隔離病棟に居ます」と告げられた。
聞かされた病棟名と部屋番号を元に、フウカは広大な病院の敷地内を歩いていく。
明るく清潔な本館の廊下を抜け、中庭を通って外の通路へと足を踏み入れたあたりから、周囲の空気が露骨に変わり始めた。
本館からやけに離れた位置に存在するためか、歩を進めるにつれて、すれ違う医師や看護師、見舞い客の気配が完全に無くなっていく。
風に揺れる木々の音だけがやけに大きく響き、通路を照らす照明も極端に少なく薄暗い。本当にこの先に病室などあるのかと不安になるような道のりだったが、受付の指示内容と一致するルートを歩いているのだから、間違ってはいないのだろう。
やがて、指定されたエリアの最奥部。
目の前に現れたその『病棟』を見上げた瞬間――フウカは、全身の血液がサッと冷え、身体がカチンと凍り付いたような感覚に陥った。
「C4棟……本当にこの病棟で合ってるのかしら……」
フウカの目の前にそびえ立っていたのは、病院の表通りからは他の建物に隠れて絶対に見えないように配置された、ひどく不気味な建物だった。
白く清潔な本館とは似ても似つかない、薄汚れて小汚くなった外壁。日光を取り入れる気など最初からないような、必要最低限のサイズしかない小さな窓。
そしてそのすべての窓には、大げさなくらい太くて頑丈な『鉄格子』が隙間なくはめ込まれているのだ。
入り口には重々しい電子ロックの分厚い扉が鎮座し、周囲には冷たい有刺鉄線が張り巡らされている。
それは『病院の療養施設』などという生易しいものではなかった。どこからどう見ても、凶悪犯を閉じ込めておくための『監獄』そのものの有様だった。
胸に抱え込んだ温かい愛妻弁当(お見舞い)が、急にひどく場違いなものに思えてくる。
フウカは震える声で、ただ一人、無機質な鉄格子の窓を見上げて呟いた。
「ハルナ……なんでこんな場所に入れられているの?」
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入り口にある物々しい守衛室。フウカは小窓から恐る恐る声を掛け、病院職員から手配してもらっていた面会証を提示した。
無言でロックが解除され、分厚い鉄扉の向こう側へと足を踏み入れる。
「……ここ、本当に病院の中なの?」
建物の中は、およそ病院とは思えないほど陰気臭く、冷たい空気に満ちていた。
チカチカと明滅する薄暗い照明。色褪せ、黒ずんだ汚れがこびりついたコンクリートの壁。不自然なほど低い天井には無数の太い配管が這うように走っており、息が詰まるような狭さと圧迫感をフウカに与える。
案内板に従って乗り込んだエレベーターも最悪だった。
ブゥゥン……と不調気味のモーター音が響き、昇っていく最中もギシギシ、ガコンッ! と今にもワイヤーが切れて落下しそうな恐ろしい軋み音を立てている。フウカはお弁当を抱きしめたまま、早く着いてくれと祈るように目を閉じた。
やがて目的の階に到着し、薄暗い廊下を歩きながら部屋番号を探す。
「621……621……あった!」
ようやく目当ての病室の番号を見つけ、フウカはホッと胸を撫で下ろした。
慣れない異様な場所での不安感から解放され、ようやくフウカの思考に少しの余裕が生まれる。
(思えば、不思議なものよね……。私がこうして、自分から美食研究会に会いに行くだなんて)
いつもなら逃げ回るか、拉致されて無理やり連れ回されるかのどちらかだ。自分から彼女たちのためにお弁当を作り、お見舞いに来る日が来るなんて想像もしていなかった。
(私がこうして顔を見せたら、ハルナはどんな顔をしてくれるのかしら。『フウカさん、待っていましたわ!』なんて言って、喜んでくれるといいけど……)
そんな期待に胸を膨らませながら、フウカは深呼吸をして、重いスライド扉に手を掛けた。
ガララッ、と鈍い音を立てて扉を開ける。
だが、そこには───。
「アァァアアアアアッ!! グァアアアアアアアアアッ!!!」
「えっ……?」
扉の向こうからフウカの鼓膜を打ったのは、人間のものとは思えない、獣のような凄惨な咆哮だった。
病室の中央に置かれた、太いパイプで床に固定された頑丈な医療用ベッド。
そこに縛り付けられていたのは、ハルナではなかった。同じ美食研究会のメンバーである、鰐渕アカリだったのだ。
しかし、その姿はフウカの知る『いつもニコニコと微笑みながら底なしの食欲を見せる、大食いの少女』とは完全にかけ離れていた。
アカリは、全身を分厚いキャンバス地の『拘束衣』で雁字搦めにされ、さらに何重もの太い革ベルトでベッドに直接固定されていた。
だというのに、彼女は凄まじい力でベッドの上で暴れ狂っている。
ギリィッ! ギギギギギッ! と、鉄のベッドフレームが悲鳴を上げ、彼女が暴れるたびに病室全体が激しく揺れている錯覚に陥るほどだ。
「ギィイイイイイイッ! ギャアアアアアアアアアアッ!!」
血走り、完全に焦点の定まっていない両目。口の端からは泡を吹き、振り乱した髪の毛を汗と涙でぐちゃぐちゃに濡らしながら、アカリは喉が裂けんばかりの絶叫を上げ続けている。
そこに言葉による意思疎通の余地は一切なかった。理性が完全に崩壊し、ただただ本能と禁断症状の苦痛のままにわめき散らしているのだ。
「グルルルゥウウウッ! アァアアアアアアアアアアアッ!!!」
ガチャンッ! ガチャァアンッ!! と拘束具を引きちぎらんばかりの勢いで暴れ、獣のように咆哮するアカリ。
その異常すぎる狂乱ぶりは、不慮の事故による重傷などという生易しいものではない。極度の禁断症状によって人間の尊厳すらも失い、完全に狂い果てた廃人の末路そのものだった。
「あ……あ……」
フウカは、目の前で繰り広げられる地獄のような光景に完全に言葉を失い、入り口で立ち尽くすことしかできなかった。
すると――。
「どいてください!」
「ひっ……!?」
背後からドンッ、とフウカの肩を乱暴に押しのけるようにして、白衣を着た看護師たちが一斉に病室の中へとなだれ込んできた。
「っ……! クソっ、またか! 鎮静剤を早く!」
廊下にけたたましいエマージェンシーコールが鳴り響く中、先頭に立った看護師が、狂乱して暴れ狂うアカリの姿を視界に捉えるなり、ひどく忌々しげに叫んだ。
その声を合図に、周囲は一気に慌ただしい戦場のような空気に包まれる。
「ギィイイイイイイッ! ギャアアアアアアアアアアッ!!」
獣のような絶叫を上げるアカリを取り囲むように、病室内にぞろぞろと無数の医療用ドローンと複数の看護師たちが押し寄せる。
「押さえろ! ベッドのロック解除! このまま運び出します!」
ドローンがアームを伸ばして暴れるアカリの身体を上から押さえつけ、看護師たちが手際よく床の固定パイプを外していく。ドンッ! ガンッ! とベッドフレームを歪ませるほどの凄まじい力で抗うアカリだったが、やがて太いベルトで拘束されたまま、彼女はベッドごと病室から慌ただしく運び出されていった。
「ギャアアアアアッ! グルルルルルルッ!!」
遠ざかっていく車輪の音と、廊下の奥へと消えていくアカリの恐ろしい咆哮。
嵐のような喧騒があっという間に過ぎ去り、後には、もぬけの殻となった薄暗い病室と、胸にお弁当を抱えたまま呆然と立ち尽くすフウカだけが取り残されていた。
どうしようかと入り口で呆然と立ち尽くしていたフウカだったが、ふと、運び出されたアカリのベッドがあった向こう側に、もう一つベッドが置かれていることに気がつき、そちらへ視線を向けた。
「え……?」
そこには。
先ほどのアカリと全く同じように分厚い拘束衣を纏い、両手両足を太い鎖でベッドの柱と頑丈に繋がれている、黒舘ハルナが居たのだ。
「…ハ、ハルナ!? ハルナ!! これはいったい…!? どういうことなの!?」
フウカの悲痛な叫び声に、ハルナはようやくフウカの存在に気づいたのか、ゆっくりと、ひどく緩慢な動作で瞳をフウカの方へ向けた。
「ぁ…フウカ、さん…ごきげん、よう…」
「まともな時に…お会いできて…嬉しいです…」
「な、何を言って…?」
ハルナの声はかすれ、かつての気高く優雅な生気と呼べるようなものが一切感じられない。
さながら、操り糸が全て断裂し、ただそこに転がされているだけのマリオネットのような、虚ろで痛々しい有様だった。
「…フウカさん、それは…お弁当…ですか…?」
焦点の定まらない瞳が、フウカの胸に抱えられた風呂敷包みを捉える。
ハルナがフウカの持参した弁当について尋ねてきた。フウカが頷くとハルナは、絶句して困惑しているフウカをよそに、すがるような言葉を紡ぎ出した。
「お願いです……今すぐにここで、お弁当を食べさせていただけないでしょうか……」
「えっ、でも一応先生か看護師さんに聞かないと……」
いくら病院食が不味くてお腹を空かせているからといって、勝手に持ち込みの食事を与えるのは危険かもしれない。
戸惑い、躊躇するフウカに対し、ハルナは突然、人が変わったように必死に縋りつくような声を上げた。
「お願いです、食べさせてください! 食べたいんです!!」
普段の余裕に満ちたハルナからは想像もつかないような、なりふり構わぬ必死の懇願。
廊下の外からは、未だにアカリの獣のような咆哮とベッドが暴れる音、そしてそれを取り押さえようとしている職員たちの阿鼻叫喚が微かに聞こえ続けている。
(……この大混乱の中で、看護師さんを呼んで正式な手続きをとろうとしても、まともに取り合ってもらえるわけがないわよね)
何より、こんなボロボロの姿で「食べたい」と涙ながらに訴えるハルナを、これ以上放っておくことなどフウカにはできなかった。
フウカは小さく頷くと、ハルナに弁当を食べさせることにした。
ベッドの脇に丸椅子を引き座ると、ハルナの眼前で大切に持ってきたお弁当箱の包みを広げた。
「ほら見て、彩りも良いし良い匂いがするでしょう? アンタの好きなもの、詰め込めるだけ詰め込んできたのよ」
自信作のお弁当。いつもなら「素晴らしいですわ」と目を輝かせてくれるはずのハルナだったが、しかし――ハルナの顔に喜びの色は浮かばない。
それどころか、彼女はひどく顔を強張らせていた。
「ハルナ? どうしたの?」
怪訝に思って尋ねるフウカに、ハルナは鎖に繋がれた身体をガタガタと震わせながら答える。
「一口、頂けないでしょうか…? 一番、味の濃いものを…」
「いいけど…」
相手が入院患者であることを慮って作られた弁当には、油気は少ない。
フウカはその中でも、ハルナの舌を満足させるために意図して多少濃い目に味付けをした『だし巻き卵』を箸で摘まみ、そっとハルナの口元へ運んだ。
ハルナは、まるで断頭台に立っている罪人かの様に青褪めた顔色で、震える唇を開き、そのだし巻き卵を咀嚼した。
「ん…」
元々柔らかいはずのだし巻き卵をゆっくりと、それでいて、神経のすべてを舌に集中させて味を確かめるかのように食するハルナ。
やがて、その喉がゴクリとだし巻き卵を胃の中に運び、一呼吸置いた時だった。
「ハルナ…どうして、泣いてるの…?」
ハルナの青白い頬を伝って、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
その虚ろな瞳は、深い失意と絶望に染まりきっている。
理由を尋ねられたハルナは、涙で濡れた顔をフウカにゆっくりと向けると、ひどく沈痛な声で告げた。
「味を…一切の味も匂いも…感じません…」
「ぇ…?」
フウカは慌てて新しい箸を手に取り、残っていただし巻き卵を自らの口へと運んだ。
じゅわっ、と出汁の旨味が広がる。口の中はすぐにお米が欲しくなる程度には、しっかりとした美味しい味に満たされていた。
自分の味覚はおかしくない。調理の腕も狂っていない。料理には間違いなく、完璧な味がついている。
それなのに、ハルナは「味と匂いを感じない」と泣いている。
究極の美食を追い求める『美食研究会』の会長である彼女が、一番大切にしていたはずの『味覚』『嗅覚』を完全に失っているのだ。
そして――フウカは、理解してしまった。
(自分の舌には、間違いなく美味しい出汁の味が感じられる。料理の腕は狂っていない。それなのに、ハルナは何も感じないのだと絶望して泣いている)
「…本当に、何も、感じないの…?」
目の前にいる少女に降りかかっている、筆舌に尽くしがたい苦痛。
究極の美食を求め、そのために青春のすべてを懸けてきた彼女から『味覚』『嗅覚』が完全に奪われるということが、どれほどの地獄を意味するのか。
フウカの震える問いに応える声は無かった。だが、深く伏せられたハルナの顔から、ぼとぼととシーツに落ち続ける大粒の雫が、何よりも残酷に『是』を唱えていた。
「申し訳、ありませんが…今日は、お帰りください…」
「少し、一人にしてください…お願い、します…!」
鎖に繋がれたまま、顔を覆って泣くことすら許されず、ただ声を震わせるだけの哀願。
しかし、かつてないほどに痛々しく惨めな彼女の姿を見て、フウカが「はい、そうですか」と見捨てて帰れるはずがなかった。
「帰るなんて、できないわよ……! ハルナ、一体アンタの身体に何があったの!? なんでこんな所に縛られて、味覚まで……っ!」
「お願いです、聞かないで……! 今の私には、貴女のその優しさが痛いんです……っ!」
フウカの問いを遮るように響いたのは、耳を劈くような、ひどく悲痛な叫びだった。
それは普段の優雅なハルナからは絶対に発せられることのない、血を吐くような強烈な拒絶の声だった。
「味も匂いも感じない私なんて、ただの空っぽのガラクタです……! 貴女が私のために作ってくれた、あんなに美味しそうなお弁当の味すら、今の私には何一つ分からない……! これ以上、貴女の前で惨めな思いをさせないでください……! こんな無様な姿、他の誰でもない、フウカさんにだけは見られたくなかった……っ! だからお願いです、もう私に構わないで……帰ってください!! 帰ってっっ!!」
「ひっ……!」
あまりの剣幕と、彼女から放たれる圧倒的な絶望のオーラに気圧され、フウカは弾かれたように立ち上がった。
「あ……ごめんなさい、私……」
パニックに陥ったフウカは、せっかく作ってきた愛妻弁当を丸椅子の上に残したことすら完全に忘れ、逃げるように病室の扉へと駆け寄った。
ガララッ! と重い扉を開け、廊下へと転がり出るようにして、すぐにピシャリと扉を閉じる。
フウカが荒い息を吐きながら、冷たい扉に背中を預けた、その直後だった。
――ドアの向こう側から、この世の終わりのような絶叫が響き渡った。
「あああああああああああああああああっ!!!!」
それは、ハルナにとって最後の砦であったはずの『ミレニアム製の特効薬』を投与され、既に効果が出ているはずの時間になっても、匂いも味覚も一切戻ってこないという残酷な現実を、ついに完全に悟ってしまった者の慟哭だった。
「返して……! 返してよぉおおおっ!! 私の命を! 私の生きがいを!! 私のすべてを返してえぇええええええええっ!!!」
もう二度と、美味しいものを「美味しい」と感じることはできない。己の人生のすべてであった『美食の道』が完全に断たれたことを理解し、精神が完全に崩壊していくハルナの叫び。
ガチャンッ!! ガチャァアンッ!!!
拘束の鎖を力任せに引きちぎらんばかりに暴れ狂い、喉が裂けるほどに泣き叫ぶ声が扉越しに響く。
その音を聞いた瞬間――フウカの足は、無意識の内に再び扉へと向かっていた。
(こんなの……こんなの、放っておけるわけないじゃないっ!)
恐怖も、拒絶されたショックも、フウカの頭からは吹き飛んでいた。
フウカは弾かれたように扉の取っ手を掴み、勢いよく病室の中へと飛び込んだ。
「ハルナッ!!」
そこには、先ほどまでの静かな絶望から一転、発狂してベッドの上で狂乱し、手首や足首から血が滲むほどに鎖を引きちぎろうと暴れ狂うハルナの姿があった。
「いやぁあああっ! 嫌ぁ、嫌ぁぁっ!! 私の舌を! 料理の味を返してえぇえええっ!!」
「ハルナ、やめて! お願い、落ち着いて!!」
フウカは迷わずベッドに飛び乗り、暴れるハルナの身体に力いっぱいしがみついた。
狂気に呑まれたハルナの力は凄まじく、フウカの小さな身体など何度も振り払われそうになる。それでも、フウカは絶対にその手を離さなかった。
彼女の華奢な背中に腕を回し、自分の身体ごと押さえつけるようにして、必死に声を張り上げる。
「ハルナ! ハルナぁあっ!! 私よ、フウカよ!! もうやめて、お願いだから自分を傷つけないでっ!!」
どれだけ喚いても、激しく暴れても、フウカは涙をぼろぼろと流しながら、己の胸にハルナの顔を押し当てるようにして強く抱きしめ続けた。
彼女の体温を感じさせ、自分がここにいるのだと伝えるために。
しかし――。
己の胸に顔を押し当てていたハルナの様子が、急激におかしくなっていることにフウカは気がついた。
(……え?)
激しく暴れていた身体が、ピタリと不自然に静止した。
嫌な予感がして、フウカがそっと顔を離した瞬間。
ハルナの喉の奥から、「ぅぅぅぅぅぅぅ……」という、まるで飢えた獣のような地を這う呻き声が漏れ出し始めた。
「ハルナ……?」
フウカが戸惑いの声を上げた、次の瞬間だった。
ハルナはついに、完全に発狂し、激しい発作を起こした。
「ギィイイイイイイイイイイイイッッ!!!」
見開かれた両目は極限まで血走り、眼球がこぼれ落ちそうなほどに見開かれている。歯を剥き出しにしてギリギリと食いしばりながら、先ほどアカリが上げていたのと同じ、人間性を完全に喪失した獣のような咆哮を上げて暴れ始めたのだ。
ガァァンッ!! パツンッ!!
フウカの目の前で、あり得ないことが起きた。絶対に外れないはずの極太の拘束具が、ハルナの異常な膂力によって悲鳴のような金属音を立てて弾け飛んだのだ。
さらに、何重にも彼女を縛り付けていた頑丈なはずの拘束衣が、まるで雷が落ちたかのような轟音を立てて、縦に真っ二つに引き裂かれた。
「嘘……っ!?」
拘束から解き放たれ、ゆっくりと上半身を起こしたハルナ。彼女は、すぐそばに居たフウカへと、獣が獲物に飛びかかるような勢いで襲い掛かった。
突然の異常事態に身体が硬直して動かせなかったフウカは、回避する間もなく、ハルナの両手に肩を強く掴まれた。
ギリィッ……ミシミシ、ミシミシッ!!
華奢なフウカの両肩の骨が、ハルナの異常な力によって悲鳴を上げる。
「痛っ……! い、痛いよ……っ、やめてよ、ハルナぁ……っ」
骨が砕けそうな激痛に、フウカは涙を浮かべて呻くように呟いた。しかし、今のハルナの耳にはフウカの痛みを訴える声など届いていなかった。
ギリギリと肩に指を食い込ませたまま、フウカの眼前にハルナの顔がピタリと近づく。
そして、剥き出しにされた歯の隙間から、壊れたレコードのような声で言葉を紡ぎ始めた。
「フウカさん……どうして私が、こんな目に遭わなければならないのですか? どうして私が、こんな仕打ちを受けないといけないのですか……?」
「ハルナ……っ」
「私が何をしたって言うのですか? これは罪ですか? これは罰ですか? どうすれば赦されるのですか……っ!? フウカさん、助けてください……っ!」
ハルナの口から次々と飛び出すのは、これまで一度も聞いたことのないような、惨めで、痛切な哀願だった。
「もう2度と、フウカさんを拉致ったりしません。もう2度と、フウカさんの邪魔はしません。学食も爆破しません。料理の出来にも文句は言いません……っ。給食部の車を壊してしまった事は、謝ります。フウカさんが望むなら、今からでも壊した台数分だけ弁償します……っ! だから、お願いです、助けてください……フウカさん……っ!」
その言葉の響きだけを聞けば、過去の過ちを悔い改める少女の痛切な反省に聞こえるかもしれない。
だが、フウカの視界いっぱいに広がったハルナの瞳は――光の一切が消え失せた、ドス黒い、底なしの闇そのものだった。
そこには知性も理性もなく、ただただ底知れぬ狂気と、飢えだけが渦巻いている。
それだけではない。
ハルナの身体から、突如として『強烈な甘い香り』がブワッと放たれた。それはただの匂いではなく、まるでフウカという存在そのものを捕まえ、檻の中に閉じ込めようとするかのような、物理的な質量すら感じる暴力的な香りだった。
(逃げなきゃ……っ!)
フウカは必死になって身体をよじり、逃げようとする。
フウカの身体の奥底にある何か――自分の命と同じか、それ以上に大切な何かが、全身の細胞を総動員して必死に警鐘を鳴らしていた。
『その女に近づくな!』
『その女の瞳を見るな!』
『その甘い香りを吸うな!』
『今すぐ逃げろ!!』
本能が絶叫している。これ以上ここにいれば、私という存在が完全に壊されてしまうと。
しかし、フウカは既にハルナに完全に囚われており、指一本動かすことが出来なかった。
両肩にはハルナの十指が肉に食い込むほどの力で食い込んでおり、骨が軋む痛みがフウカを拘束している。
そして何より、目の前にあるハルナのドス黒く染まった深淵のような瞳から、どうやっても目を離すことが出来ないのだ。蛇に睨まれた蛙のように、魂を引力で吸い寄せられている。
「あ……ぁ……っ」
フウカの鼻から、口から、空気を吸い込むたびに強烈なまでに暴力的で邪悪な『甘い香り』が侵入してくる。
それは粘り気を持った毒のように肺を満たし、フウカの精神を、脳髄を、極彩色の甘みでドロドロに染め上げ、焼き切ろうとしてくる。
逃れられないフウカの顔に自らの顔を擦り付けながら、ハルナの口が呪文のように壊れた言葉を紡ぎ続ける。
「フウカさん助けて、フウカさん赦して、フウカさん逃げて、フウカさん殺して、フウカさん一緒に堕ちて、フウカさん一緒に溺れて、フウカさん一緒に消えて」
「フウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさんフウカさん――」
「やめ……て……」
ゲシュタルト崩壊を起こすほどの狂気のリフレイン。
フウカはもう、自分が起きているのか、立っているのか、それすらもわからなくなり始めていた。
視界がドス黒い甘さに塗り潰され、自分の体内へと無遠慮に侵入し、暴れ狂う『甘味の暴力』の前に、いよいよ自我の防壁が崩れ去り、完全に意識を手放そうとした。
――その時だった。
「救護ォォォォォォォ!!!」
鼓膜を突き破るような、凄まじい大音声が薄暗い病室に響き渡った。
同時に、廊下側の扉を蹴り破るほどの勢いで、何者かが病室の中へと飛び込んでくる。
ドンッッ!!!
「きゃあっ!?」
ソレは弾丸のようなスピードでフウカに体当たりをかました。
肺から空気が押し出されるほどの衝撃。しかしそのおかげで、フウカの両肩に食い込んでいたハルナの異常な拘束が強引に引き剥がされた。
フウカはそのまま後方へと吹っ飛び、床にドスンと尻もちを搗く。
(え……っ!?)
痛む肩を押さえながら、咳き込みつつ顔を上げる。
ハルナのドス黒い瞳と、脳を焼き切るような甘い香りの呪縛から解放されたフウカの視界に映ったのは――ナースキャップを被り、青い制服と真っ白なエプロンを翻しながら、普段の無表情からは想像もつかないほどの闘志(救護の意志)を漲らせた、救急医学部の氷室セナの背中だった。
(……せ、セナさん……?)
フウカが呆然と名を呼ぶ間もなく、セナの動きは止まらなかった。
フウカを弾き飛ばした勢いそのままに、今度は狂乱して立ち上がろうとしていたハルナの腹部へと、容赦のないフルスピードのタックルをぶちかましたのだ。
「グェッ!?」
カエルが潰れたような声を上げ、ハルナはベッドの上へと乱暴に押し倒される。
すかさずセナはその身体の上に馬乗りになり、ハルナの動きを完全に封じ込めた。そして、肩から下げた四角い緑色の医療用バッグから、およそ医療器具とは思えない『あるモノ』を取り出し、高く振り上げた。
それは、表面に達筆な墨文字で『救護魂』『ヨハネ流蒼森式救護精神注入棒』とデカデカと刻まれた、極太の樫の木で作られた物騒すぎる鈍器(こん棒)だった。
「救護ッ!!」
ドゴォンッ!!
「メニィッ!?」
振り下ろされた精神注入棒が、ハルナの顔面にクリーンヒットする。
狂気の発作を起こしていたはずのハルナが、あまりの物理的衝撃に目を白黒させた。しかしセナの『救護』は止まらない。
「救護ッ!! 救護ッ!! 救護ッ!! 救護ッ!! 救護ッ!!」
「ピチィッ! ピギュィッ! ピチャッ! プチィッ!! ピギャァアアッ!?」
ドゴッ! バキィッ! メキョッ!
無表情のまま、機械のような正確さと凄まじい腕力で、セナは樫の木の棒を何度も何度もハルナの頭、顔、胸へと容赦なく振り下ろしていく。
「救護ッ!! 救護ッ!! 救護ッ!! 救護ッ!! 救護ッ!! 救護ぉぉおおおおおおおお!!」
「アベェッ!? アヒィッ! ホゲェッ!! ――~~~ッ!!」
もはや言葉にならない、カエルが潰れるような情けない悲鳴を上げ続けるハルナ。
ゲヘナの二大テロリスト集団の首領の美少女の面影はどこへやら、度重なる無慈悲な『救護(物理)』を受けた彼女の身体は、まるでプレス機にかけられた空き缶のようにボコボコにひしゃげていく。
そして――パリンッ、と。
ついにダメージが限界(気絶ライン)を突破し、ハルナの頭上に浮かんでいたヘイローが砕け散るようにしてフッと消滅した。
ピクピクと痙攣したのち、ハルナは完全に沈黙し、ベッドの上で動かなくなった。
その様子をジッと確認したセナは、棍棒(救護精神注入棒)を静かに下ろし、ゆっくりとベッドから降りた。
乱れた青い制服の襟を整え、何事もなかったかのように無表情のまま、彼女は静かに宣言した。
「ふう。黒舘ハルナさんの、死体化に成功しました」
------
「……………」
目の前で起きた、あまりにもダイナミックで過激な物理的救護の光景。
フウカは完全に言葉を失い、床に尻もちを搗いたまま呆然と座り込んでいた。
そんなフウカに、手に持っていた樫の木の棍棒を医療バックへ収納したセナが静かに近づいてきて、問いかける。
「フウカさん、いったい何をしたんですか?」
「何って……」
「ハルナさんはここへ移送されてから一度も発狂せず、容態もとても安定していたのです。それが突然こんな事になるなんて……フウカさん、あなた何をしたんですか?」
「それは……」
言い淀むフウカ。
その時、セナの視線が床に転がるある物に釘付けになった。
それは、先ほどの乱闘の余波で無残に床に叩き落とされ、箱がひしゃげて中身が散乱してしまった、一つのお弁当箱だった。
色鮮やかなおかずが散らばる中、ひとつだけ、人間が一口齧ったような歯形のついた『出汁巻き卵』が転がっているのを、セナは見逃さなかった。
セナはスッとベッドの上に視線を戻す。プレス機で潰された空き缶のようにひしゃげ、気絶しているハルナ。その口元に、何か黄色い小さな破片のようなものが付着していた。
セナは指でそっとその破片を掬い取り、鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。
――床に散らばっている出汁巻き卵と、全く同じ出汁の香りがした。
「フウカさん……まさか、ハルナさんにお弁当を食べさせたのですか?」
「え……? あ、はい、そうですけど……」
フウカが素直に認めた瞬間。
普段はどんな凄惨な重傷者(死体)を見ても表情一つ変えないセナの手が、信じられないものを見たかのようにワナワナと小刻みに震え始めた。
「な、なんて残虐で悍ましい行為を……。フウカさん、あなた自分が何をしたのか分かっているのですか!?」
「え……?」
味覚を完全に喪失し、絶望の淵にいる者に対して、かつて大好物だった極上の料理を口に運ぶ。それがどれほど残酷な精神的拷問であり、狂気の引き金になるか。
医療従事者としてその悍ましさを理解しているセナの、心底震え上がったように責め立てる言葉に、フウカは戸惑うしかなかった。
しかし、セナはすぐに首を振って己の動揺を抑え込むと、感情を完全に消し去った冷徹な態度に切り替え、フウカに向かって冷酷に通達した。
「愛清フウカさん。現時刻をもって、黒舘ハルナさんおよび『砂漠の砂糖』中毒者への接触、ならびに『砂漠の砂糖』中毒者収容施設への接近を禁じます。今すぐ出て行ってください」
「えっ……!?」
突然の宣言に、フウカは目を丸くして戸惑う。
「ど、どうしてですか! 確かに、患者さんに許可なく持ち込んだ食料を食べさせたのは謝ります。でも、ハルナたちに会う事も近づくことも禁止だなんて、あんまりです! それに……『砂漠の砂糖』って何ですか!?」
会うことすら禁じられたのもショックだったが、それ以上にフウカの心には、セナの口にした『砂漠の砂糖』『砂糖中毒』という聞き慣れない、しかし酷く不吉な単語が、呪いのように強く引っかかっていた。
「問答無用です。今すぐ出て行きなさい!」
「嫌です! 教えてくださいセナさん! ハルナたちに何が起きてるんですか!? ゲヘナはどうなるんですか!?」
床に這いつくばるようにして必死に食い下がるフウカ。しかしセナはそれに答えず、青い制服のポケットからナースコールの発信器によく似たリモコンを取り出すと、迷いなくボタンを押し込んだ。
数十秒後、バタバタと慌ただしい足音を立てて、救急医学部の生徒たちが数名、病室へと駆け込んでくる。
「セナ部長、お呼びでしょうか!?」
「愛清フウカさんに、『砂漠の砂糖』中毒者への接触と、収容施設への接近禁止命令を出しました。今すぐ彼女をここから連れ出してください」
「了解しました」
セナの冷酷な指示を受け、救急医学部の生徒たちが即座に動く。数人がかりでフウカを取り囲むと、その両腕を左右からガッチリと掴み上げた。
「ちょっ……! 放して! 放してください!!」
「フウカさん、大人しく指示に従ってください。これ以上抵抗されると、我々も実力行使に出ざるを得ません」
「暴れないで! 貴女のためでもあるんです、さあ、早く外へ!」
両腕を引かれ、外へと連れ出されそうになるフウカ。
しかし、ここで追い出されれば、もう二度とハルナたちに会うことはできない。そして『砂漠の砂糖』という不吉な言葉の正体も分からないままだ。
その強い焦燥感が、普段は大人しいフウカに信じられないような火事場の馬鹿力を引き出させた。
「嫌ぁっ! 行かないっ!! 私はまだ、ハルナに聞きたいことが……っ!!」
フウカは自身の身体を強引に捻ると、救急医学部の生徒の腕から片手をすり抜けさせ、すぐ横にあった分厚い鋼鉄製の扉の枠(ドアフレーム)にガシッと力いっぱいしがみついた。
「っ……!? この人、すごい力です!」
「無理に引き剥がしたら、肩の関節が外れちゃいます! セナ部長、どうしますか!?」
思いがけないフウカの決死の抵抗に、生徒たちがたじろぐ。彼女たちはあくまで救急医学部であり、無抵抗な一般生徒を傷つけるような乱暴な真似は躊躇われたのだ。
扉の枠にしがみついたまま、フウカは病室の奥に立つセナに向かって涙ながらに叫ぶ。
「セナさん、お願い、教えてください! 砂糖中毒って何ですか!? 確かに、許可なくお弁当を食べさせたのは私が悪かったです、謝ります! でも、ハルナを……友達を、こんな鉄格子の中に縛り付けておくなんて絶対に間違ってます!!」
その必死の訴えに対し、セナはゆっくりと歩み寄り、フウカの目の前で立ち止まった。
そして、見下ろすセナの瞳には、かつてないほどの厳しい『怒り』と『冷徹さ』が宿っていた。
「間違っているのは、貴女の『無知』です、フウカさん」
「え……?」
凍りつくような低い声。セナは、フウカの甘い認識を粉々に打ち砕くように、無慈悲な事実を突きつける。
「貴女に『砂漠の砂糖』について教える義務は、私には一切ありません。部外者である貴女が知る必要のないことです」
「そんな……っ!」
「ですが、これだけは言っておきます。貴女の無知な善意が、安定していたハルナさんの精神を完全に崩壊させ、狂乱の発作を引き起こしたんです。もし私が駆けつけるのがあと一分遅ければ、貴女は取り返しのつかない死体になっていたでしょう」
「あ……私の、せいで……?」
「ええ、そうです。貴女の無知で無自覚な優しさは、ここでは人を殺す『凶器』にしかならない」
セナの冷酷な、しかし一切の反論を許さない鋭い言葉に、フウカは言葉を失った。
詳しい理由は教えてもらえない。だが、自分が愛情を込めて作ったお弁当が、結果的にハルナを一番苦しめ、狂わせてしまったのだという事実だけが、重くのしかかってくる。
その凄まじい罪悪感にフウカの顔から血の気が引き、しがみついていた扉の枠を握る手に力が入らなくなる。
「これ以上、我々の『救護』の邪魔をするというのなら……貴女を『敵性障害物』と見なして、実力で排除します」
「…………っ」
セナからの最後通告。
救急医学部の生徒たちが再びフウカの腕を掴み直し、今度こそ強引に病室の外へ引きずり出そうと力を込める。
フウカは絶望で視界を滲ませながらも、まだギリギリと扉の枠にしがみつき、病室の中から引き剥がされまいと必死に耐え続けていた。
――そんな、フウカが病室の出入り口で救急医学部と揉み合いになっている、まさにその時だった。
「構わん、教えてやれセナ」
突然響いたその声に、病室の出入り口で揉み合っていたフウカと救急医学部の生徒たちはピタリと動きを止め、声がした廊下の方へと一斉に視線を向けた。
「マコト議長!?」
病室前の薄暗い廊下に立っていたのは、ゲヘナ学園万魔殿(パンデモニウム・ソサエティー)のトップである議長、羽沼マコトであった。
(あれ? マコト議長……様子が……?)
しかし、フウカはすぐにマコトの姿に強烈な違和感を覚えた。
いつもなら自信満々に胸を張り、尊大に笑っているはずの彼女の顔。しかし、今のマコトのまばたきを拒むように見開かれた双眸は、痛々しいほどに赤く充血していたのだ。
引ききっていない涙の膜が瞳を潤ませ、部屋の蛍光灯を反射してギラギラと頼りなく光っている。目元は薄化粧でも隠しきれないほどにぼってりと腫れ上がっており、吐き出された声は微かに掠れ、喉の奥が引き攣るような震えを孕んでいた。言葉の端々が小さく上ずり、小刻みに震えている。
(マコト議長……もしかして、泣いていたの?)
そう、今の彼女はゲヘナの頂点に立つ権力者などではない。それはまるで、とても悲しい事があって散々泣きじゃくった後、必死にそれを隠して気丈に振る舞おうとしている、幼げな少女のような痛ましい姿だった。
「し、かし……議長……彼女は部外者です。これ以上は……」
「愛清フウカ、お前に一つ聞きたい事がある」
何か言いたげに制止しようとするセナに構わず、マコトはゆっくりとフウカに近づき、尋ねた。
その重苦しい態度と、悲痛に震える声に、フウカは思わずゴクリと息を呑んで身構える。
学園の存亡に関わるような、重大な尋問が来る。そう覚悟したフウカの耳に届いたのは――。
「愛清フウカ――『甘い物は好きか――?』」
「……えっ?」
どんな尋問が来るのか身構えていたフウカであったが、マコトの口から飛び出たそのあまりにも場違いな質問が、一瞬まったく理解できずに固まってしまった。
「答えろフウカ。――『甘い物は好きか――?』」
「……確かに好きですけど……それが、今聞く事なんですか!?」
漸く頭がその言葉の意味を理解した時、フウカは驚きと戸惑い、そして微かな怒りを交えて声を荒らげた。
親友であるハルナが味覚を失い、あんなにも苦しんで狂いかけているというのに。こんな時に、お菓子が好きかどうかなどというくだらない質問を何故するのか、と。
しかし、フウカの当然の反応を見たマコトとセナの態度は、フウカの予想とは全く違っていた。
「セナ……」
「はい、議長。まさか彼女が『無事』だったとは……」
驚きと、信じられない物を見るような目で、二人はフウカの全身を穴の開くように見つめてくる。
「"アイツ"のすぐそばに居て、"砂糖を取る"……いや、"不可抗力で摂取してしまう"環境にいるというのに……」
「はい。むしろ、今まで"砂糖"を摂取していなかったのが不思議です。ありえません」
「いや、砂糖を摂取しているが発症しなかったのか? 抗体があるのか……フウカには……」
フウカを置き去りにして、二人でコソコソと深刻そうに話し合い始めるマコトとセナ。
そのあまりにも不気味なやり取りに、フウカはたまらず声を上げた。
「ちょ、ちょっと、二人で何をコソコソ話してるんですか!? 砂糖がどうとか、抗体がどうとか……さっきから全然意味が分かりません! お願いですから、はぐらかさずにちゃんと説明してください!」
フウカの必死の叫びに、マコトは深く息を吐き出し、ゆっくりと頷いた。
「良いだろう、付いてこいフウカ。セナ、お前も来るんだ」
「はい、議長」
マコトとセナに連れられて、フウカは病院内のさらに奥へと歩き出した。
やがて、万魔殿の生徒が厳重に哨戒に立っているエレベーターの扉の前に到着する。先ほどフウカが乗って来た、今にも落ちそうなボロボロのエレベーターとは違う、特別製の大きくて綺麗なエレベーターが現れ、フウカは目を丸くした。
そのままマコト達とエレベーターに乗り込み、隔離病棟の最上階へと向かう。
チンッ、と静かな音を立ててエレベーターのドアが開かれると、目の前に広がった光景にフウカは再び息を呑んで驚いた。
先程までの陰気臭い監獄のような場所とは、完全に別の世界だったのだ。
広く高い天井の通路には、不気味な露出配管は一本も無い。内装も真新しく綺麗で、暖色系の柔らかな間接照明で照らされた通路には、ゴミ一つ落ちていないふかふかの高級カーペットが敷き詰められている。
驚いて立ち止まるフウカに、横を歩くセナが淡々と説明する。
「ここはマコト議長の指示で、特別に作らせたVIPルーム仕様の個室の病室です」
そのまま促されるように歩くフウカ。
広いフロアの最奥に一つだけある扉――下階の冷たい鉄扉とは全く違う、高級感あふれる分厚い木製のドアをマコトがノックして開ける。
中へ入ると、そこには五つ星ホテルのスイートルームと見紛うような、豪奢で広々とした病室があった。
しかし、その中央に置かれたベッドの『異様さ』に、フウカは絶句した。
豪華な内装の部屋に置かれた、天蓋付きの高級なベッド。そこに、"ソレ"は寝かされていた。
「イブキちゃん!?」
そこに居たのは、万魔殿の愛すべきマスコットであり、マコトが誰よりも溺愛している少女――丹花イブキだった。
彼女もまた、ハルナやアカリと同じように分厚い拘束衣を厳重に纏わされ、いくつもの太い拘束バンドによってベッドに固く縛り付けられていたのだ。
小さな首には太い点滴の針が痛々しく刺さっており、ベッドの脇の点滴スタンドから吊るされたバッグには、赤い文字で『鎮静剤』と書かれている。
「こ、これは一体………まさか……イブキちゃんも……?」
「そうだ………」
震える声で、絞り出すように答えるマコト。
そしてマコトは、充血した赤い瞳で、真っ直ぐにフウカと向き合った。
「フウカ。お前は、ハルナが何故こうなったか知りたいと言ったな」
「はい……」
「ならば教えてやろう。――私もお前に聞きたい事が山ほどある」
そこで一息付いて言葉を区切ると、マコトはひどく真剣な、血を吐くような覚悟の滲む声で告げた。
「そのかわり、知ればもう2度と平和な場所には戻れない。例えそれが、白い悪魔の砂に塗れた『偽りの平和』であったとしてもだ。それでも知りたいか――愛清フウカ」
マコトの重い宣告。
一歩踏み出せば、これまでの日常は完全に崩壊する。それでも、親友たちを救うためには知らなければならない。
フウカはギュッと両手を握りしめ、静かに、しかし力強く頷いた。
「良いだろう――」
マコトは伝える。
今、ゲヘナ学園という場所を根底から覆い尽くそうとしている、悍ましい存在について。
そして――それに、フウカの大切な『給食部』が、あの無邪気で可愛い後輩(ジュリ)が、どれほど深く恐ろしい形で関与してしまっているのかを。
(つづく)