私に家庭教師はできない   作:335室の主

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 今回の話は長いです。
 目に疲れを感じたら休みましょう。

【一言プロフィール】
 勉強とコミュニケーションのために、小分けのダークチョコレート(カカオ72%)を4個ぐらいポケットに忍ばせている。


二人の屁理屈

 君は「構造主義」を知っているだろうか?

 構造主義とは20世紀後半に登場した現代思想のひとつであり、人の意思や主体が社会構造を形成するのではなく、予め社会構造が存在しており、人間の行動はそこに組み込まれていくという哲学的方法論だ。つまり人間には自由意志で将来を切り開いているのではなく、回りの 環境や与えられた職業によって、自分のあり方を変えていると説明される。

 

 例えば制服やスーツがそれにあたるだろう。制服を着ることによって学生という職業を与えられた彼らは学校で学び、遊んだりしている。会社ではスーツを着ることで社会人としての自覚が芽生え、行動するようになる。

 

 もう一つ例を挙げよう。一人の哲学者がある実験をした。普通の人を数名集め、それぞれに看守と囚人の役割を与え、どう行動するのかを観察するというものだ。

 結果、看守役の人は看守らしいふるまいをするようになり、囚人役の人も同様に囚人らしいふるまいをするようになった。これは構造ありきで人間の行動が決まる最もな例ではないだろうか。

 

 少し未来の話になるが、上杉くんも私も家庭教師の仕事をするようになってから、教師としての側面が性格に影響しているのではと感じるようになった。

 

 私の場合、四葉さん以外のクラスメイトにもちょっとしたアドバイスをするようになったり、周囲の人間が今どういう感情なのか察することができるようになったりと、自分でも驚く変化を見せた。クラスメイトからは「最近話しかけやすくなった」と言われる始末だった。

 

 そういえば最近、クラスのとある女子に「頑張ってね」と言われた。教えている風景は普通に見られているので、周りが何て思っているか気にはしていたが、応援されているとなれば嬉しいことだ。

 

 上杉くんも上杉くんで、明らかに精神的変化を見せている。例えば――

 

「全部貸し出しだ!」

 

「……何それ?」

 

「歴史の本だ」

 

「それはわかってるけど」

 

 放課後、図書委員の当番代理としてカウンターに座っている私の目の前には、歴史系の本が何冊も積まれていた。貸出処理をしながら、一体どうしてそんな行動をとったのか上杉くんに聞いてみると「あいつに勉強で負けるわけにはいかない」とのことだった。声に悔しさがにじみ出ている。

 

「あいつって……?」

 

「三玖だ。一昨日のこと、覚えているだろ?」

 

 ああ、この前のアレはちゃんと耳に届いていたか。正直もう思い出したくないのだが。

 二日遅れで何かを質問してくれたはいいが、それを答えられなかったというわけか?彼が全知でないことは承知だが、それでも知らないことを突きつけてくるとは、想定していたより曲者だな、三玖さん。

 

「あっ、ここまでね」

 

「おい? これも頼むんだが」

 

「貸出上限」

 

 続きは読み終わったら、という言葉も付け加えた後、彼は急いで図書室を出て行った。

 

「ごめんね、代わってくれて。にしてもさっきの人、凄い貸し出し量だったよね?」

 

「そうだね」

 

 手洗いから戻ってきた図書委員と軽くやりとりをし、私は読み終わった本の返却処理を自分でした後、新しく入荷した本の貸出処理を自分でしてその場を後にした。

 

 ○

 

(えーと、ああ、あったあった)

 

 廊下を歩いている途中、私は手帳を取り出し、三玖さんの特徴が綴られているページを開いた。以下は既に記載されている特徴である。

 

 髪型はセミロングで、首にかけているヘッドホンがトレードマーク。

 テストは32点。(1位)

 声が小さめで、大人しい印象。

 姉妹の中では一番頭がいいが、体力はない。(by4)

 

 私はそのページに、「歴史の知識量は上杉以上」と書き加えておいた。歴史か、小学校で教わったとき、教科書の本文より先生が独自で教えてくれたコラムの方がより記憶に残っている。織田信長があそこまで勢力を拡大できた理由を地理的観点から説明したり、江戸時代の身分制度は実は緩かったりとか。

 

 おっと、昔を懐かしんでいる場合じゃない。彼女のもとへ向かわないと。

 

 ……でも大方、今のあいつは意地でも勉強教えてやるとか思っているんだろうな。今までの彼には見られなかった一面を見ると、上杉くんは人のためにそこまで行動できるようになったと、なんか自分のことのように嬉しく思えた。

 

 そして既視感も覚える。やはりあの二人は似た者同士だなと改めて思ったからだ。

 

 上杉くんは教師として天性の才能があったかも知れないが、これらの変化は私たちが元から秘めていた資質の現れ、ではないのだと思う。

 教師という職が作る構造、枠組みは、誰もかれもが人と向き合わせる魔法を持っているのだ。たぶんだけど。

 

 ○

 

 話は前後する。昼休み、上杉くんが図書室で本を借りてくる前にあたる。

 移動時間を合わせて10分にも満たない昼食を終えた後、廊下を歩いている最中、一組の教室を覗いてみると、気になる人物を目撃した。

 

 好奇心を満たそうと廊下と教室の境界を跨ごうとしたところで、なぜか足が止まる。臆病な本性が顔を出したからだ。あの子とのやりとりでとげが入り、自分が否定されることを恐れているのだろう。間違えるのは怖いのだと。

 

 でも間違えるよりももっとひどいことがあることを今日読んだ本に書いてあった。それは、間違えるかもしれないという恐怖から何もしないということだ。

何がしたいのか確認するために目を閉じ、心の声を聴く。

 

(――行け)

 

 ……非常にシンプルだ。

 

 目を開けた私は声に従うまま教室に入り、近くに行って様子をうかがった。

 

(今何をやっているんだ?)

 

 その答えは、机を見てわかった。先日のテストを広げて勉強していたのだ。

 

 中野家の姉妹は全員勉強嫌いだと聞いていたが、真面目な視線をテストに向けている所を見ると、その情報に食い違いを感じざるを得なかった。あの時自分の問題は自分で解決すると言っていたが、その言葉通り実行しているのか。

 

 それがわかっただけでもよしとして何も言わず去っても良かったのだが、ここまで来て引き返すのは味気がなさすぎる。賽は投げられたのだ。

 

「ここ、公式使えば楽にできるよ」

 

「わああっ!?」

 

 私が声をかけたら、五月さんは驚きの声をあげて体を震わせた。自分の存在感が薄いことはわかっているが、こんなに驚いてもらったのは初めてだった。

 

「あ、あなたは……黒田君……?」

 

「こんにちは。たまたま見かけたから、気になってきてみた」

 

 狐につままれた顔をしている彼女をよそに、前の席に座った。

 

「この前のテストやっているの?」

 

「はい。正直な話、彼が作ったものなんてもう見たくありませんでしたが」

 

 それなのに勉強をしているとは、一体どういうことなのかと思ったが、仮説はすぐに導きだせた。

 

 ああそうか、彼女は恥を嫌う人間なのか。

 

 ルース・ベネティクトの、外国人から見た日本の性質と特徴が綴られた著書『菊と刀』によれば、日本人には「恥」という概念が存在していると述べられている。

 

 恥とは「人に迷惑をかけてはいけない」と大雑把に言い換えられる。そう、日本に生まれた子供なら誰しもが教わることだ。

 というか人に迷惑をかけるななんて、究極的に言えば無理な話だ。私だって息をしているだけで国を海へ沈めることの片棒を担いでいるし、今着ている服だって誰かの貴重な自由時間を奪って製造されたに違いない。

 

 それならば迷惑をかけまいと相手の顔色をうかがうよりも、自分から動いて迷惑以上の喜びを振りまいてやればいいと、今の私はそう思っている。若い内ならそうした方が結果的に最大多数の最大幸福を得られるのだから。

 

 話が逸れた。恥の概念は日本人に根強い自己責任論の根幹をなすものであり、自助努力の精神を育んでいるものだという。日本人は生活保護を受ける条件を満たしている割には、受給率が他の国と比べて非常に低いのがその証拠だろうか。

 

 そこへ行くと、彼女は喧嘩したとはいえ上杉くんの助けを必要とせず、まあ面識が薄いので当然だが私にも教えを求めようとしない。やはり誰かに助けてもらうことを恥と思ってのことなのだろう。

 かつての上杉くんにもそんな風潮があったから、やはりそのまま見るには忍びない。

 

(痛いなお前。知識マウンティングか?)

 

 突然来た内省に心を痛めながら、私は五月さんに向き直った。

 

「私でよければ教えるよ。ちょっと見せて」

 

「いえっ、このくらい自分で――」

 

「頼みます。教えさせて下さい」

 

「……!」

 

 恥を感じさせないために私が採ったのは単純にお願いする、有り体に言えば下手に出ることだった。敵意を見せずにこっちからお願いするという意思を示せば、敗北感を与えることはない。変に傲慢ちきなあいつには絶対にできない手法だ。

 

「そ、そこまで言うのなら仕方ないですね。わかりました」

 

「ありがと」

 

 私は椅子を動かして五月さんの机に近づけ、順番に解説をしていった。四葉さんの件でどのように教えればいいのかはわかっている。

 

 ○

 

「ここは、このように解けばよかったのですね」

 

「そうそう」

 

 数分と経たないうちに意外にも、教えていることに楽しさを感じている自分を発見した。彼女は頭が固い分真面目な性格であり、こちらの言ったことをちゃんと受け止めてくれる、教え甲斐のある人物だと思えた。

 真面目であるということは、あらゆる知識を吸収する上での土台になる。何をするにしても意欲というのがなければ身につくことができないので、真面目さは人間にとって当たり前の、けれども大切な美徳なのだろう。

 

 そう考えていると、自分の消化器官が活発になっていた。時計を見ると、そろそろ昼休みが終わろうとしている。そういえば、この子は私が来る前から勉強していた様子だったし、ちゃんと昼食は摂ったのだろうか。

 解説混じりにそのことを質問してみると、彼女はこの世のおしまいみたいな表情をした。食べていないことは確定か。彼女の代謝能力は非凡なものだし、外部からエネルギーを補給しないと、この後の授業を十分に受けることはできなくなるだろう。加えて授業中に腹が鳴りっぱなしになってしまえば公開処刑ものだ。

 そうなってしまうのは気の毒だと感じたので、後で食べようと予定していた購買部の新作サンドイッチとチョコレートを机に置いた。

 

「放課後、また来ていい?」

 

 彼女は申し訳なさそうに小さくうなずいた。了承をもらった後、私は一人の生徒と入れ違いに教室のドアをくぐった。

 

 

 数分後に午後の授業が始まって、放課後を迎えて、図書委員の代理を数分間だけやって、その間に上杉くんが襲来したのはさっき話した通りである。

 

 ○

 

「ごめん、少し遅くなった……ってどうしたの?」

 

 約束通り訪ねると、五月さんは何やら怪訝な顔をしていた。

 

「ああいや、彼のことが気になったんです」

 

「上杉くんのこと?」

 

「はい。最初は三玖に呼び出されたのを見て不安になりました。食い物にされないかと……はっ! まさかあなたも私を狙っているのでは……!」

 

「違う。こっちに飛び火させないで」

 

 急に疑いの目を向け、後退してきたので、すぐに弁明した。あいつはともかくこっちまで警戒されたらたまったものではない。というか、昼休みに入れ違いになった生徒は三玖さんだったか。

 

「まあ三玖は無事だからよかったのですが……ああ、話を戻しますね、その後は急に大量の本を持ってきたもので、びっくりしました」

 

「ああ、あれね――」

 

 彼女が不思議に思っていたので私は動機を説明した。三玖さんに知識勝負で負けたこと、今はリベンジしようと躍起になっていること、誰かのために動いている彼を見て驚いたことを。最後の話は喋っている途中で上杉くんの株を上げられないものかと思いついたので急遽追加した次第だ。

 口下手で途切れとぎれになっていたが、それに突っ込んでくれなかったのは救いだった。説明を最後まで聞いた五月さんは安堵の声を出す。

 

「何だか、少し見直しました……」

 

「言ったでしょ? あいつは悪いやつじゃないって」

 

 そう言いながら、私は昼休みと同じ場所に腰を下ろした。

 

「じゃ、続きやろっか」

 

「思ったのですが、あなた上杉君に言われてここに来たのですか?」

 

「いーや独断でやってる。安心して」

 

 すると彼女は安心するどころか、さらに不安さを醸し出した。

 

「え? だったら……」

 

 五月さんは一瞬言葉を詰まらせて、疑問を投げる。

 

「だったらなぜ、まだ会ったばかりの人にそこまで構うのですか……?」

 

 私は気づかされた。そうか、私たちはまだ出会って一週間と経っていない仲だった。ここまで他人に構うなんて、普段の自分ならこんなことはしないだろう。さらに彼女は誰かを頼った経験が少ないから、こうやって助けられることに慣れていないはずである。そう思うのも無理はない。

 

「あー……うーん……ちょっと待って」

 

 そこで私は自分の行動原理を考えた。人を助けるのに理由なんていらないと言えばいいだけなのだが、ねじれ者の美学が許さなかった。回答としてつまらなさすぎると。

 

 まず私はなぜ、この教室に入って彼女の側まで来たのか? それは気になって放っておけなかったからだ。

 ではなぜ放っておけなかった? 上杉くんと似ていたからだ。

 どこが似ていた? 意地を張っているところが。

 それを口に出すか? ノー。答えとして美しくない。

 別の言葉はあるか? あまり。

 では他に似ていたところはあるか? 近寄りがたい雰囲気かな?

 それを見て何を思った? 哀れみ、ある種の保護欲。

 どうして芽生えた? 何でだろうな……。

 

 さらに省察を敷衍して、何か変ったことがないか探してみる。思考の海原を潜って、潜って、底を目指す。

 ここ最近の変化は……大きすぎる。転校生が五人も来て、上杉くんが家庭教師を始めて、共同作業して、四葉さんに教えることを決めて、上杉くんが真剣に歴史を勉強して――

 

 トン、と、地面に触れる音がした。視線を彼女の方に戻して、私なりの解を提示した。

 

「うん、きっかけはあの二人、上杉くんと四葉さんだね」

 

「四葉が?」

 

 私は頷いた。

 

「一昨日のことなんだけどさ、あんたたちが部屋に閉じこもったとき、私と上杉くんはそのままあの子に勉強を教えた。あの子は他と違ってこっちを温かく迎えてくれたからね。そうやって優しくされた時、自分の心が変わった気がした。上手く言えないんだけど、私も頑張ってみよう……てとこかな」

 

「ああ……確かに。四葉はあなたたちに協力的でしたからね」

 

「そう、それに、あの子自分の隣にいるの。その勢いで色々話しかけられてさ、そうなると否が応でもほっとけなくなるのよね」

 

 一気に喋ってしまったので、少し伸びをした。

 

「あの子の力にはなりたい、これが一つ目の理由。そしてもう一つは上杉くんの努力に少しでも報いたいから。あいつは今この瞬間、三玖さんを説得しようと奔走している。

 

 あいつは不器用だから、こっちから助けてやらないといつか自滅しそうで恐いのよね」

 

「なるほど……」

 

 この前のテストだって徹夜して作ったそうだし、五人分のカリキュラムを組むことの大変さは想像に難くない。何より彼の家は借金問題を抱えている、やっと掴むことのできた蜘蛛の糸を切らせてたまるものか。

 

「どう? 納得してくれた?」

 

「はい、何となくですが、腑に落ちた気がします……」

 

「そう、よかった」

 

「では、続きをお願いします」

 

「了解」

 

 彼女が出した声はどこか煮え切らないようだったが、彼女が受けてくれるだけでよしとしよう。この件について余計なことは考えないようにした。

 

 

「ああ、もう一つ言っておくけど、誰かに頼るのは全く悪いことじゃないよ。みんなそうやって生きてきたんだし」

 

「はい、今回のことで痛いほど身に染みました……」

 

 私は彼女に今日一番言いたかったことを伝えた。

 そもそも人間という生き物は高度な協力関係によって社会を築き上げてきた。組織を作り、村を作り、国を作り、法律を作ってきた。協力し合うことによって、地球上で最も権力のある生物の座を手にしたのだ。

 現代の企業だって外注や時短サービスを上手く利用して利益を上げているところもある。

 

 五月さんにわかりやすく説明するため、婉曲してみると……、例えば弁当。

 基本、色んな具材が沢山つまっているが、ここは……唐揚げ弁当を例にしよう。唐揚げ弁当には、メインとなる唐揚げの他に、いくつもの具材がある。それはなぜか。

 一つの目標のために力を合わせているから、だと私は答える。いくら唐揚げが好きだからといっても、そればかり食べ続けていると、いつか飽きがくるからだ。経済学ではこれを限界効用逓減の法則という。だからご飯や野菜、漬物などが飽きさせないためにいるのだ。

 事実五月さんだって食堂で違うメニューをいくつも頼んでいる。そうやって、食べ物は人を喜ばせるという目的のために協力し合っていると言えるだろう。

 

 これは人間だって同じ。違う個性、違う性格を持つ人たちが集まるからこそ、大きな目標を達成することができる。私と上杉くん、そして五つ子にとって「姉妹全員が笑顔で卒業する」というのは一つの大きな目標ではないかな。

 

「で、ここは普通に暗記しかないかな」

 

「んんん……」

 

 でも結局、下手な美辞麗句を並べ立てるより、行動で示した方がずっと効果的だし早い。

 変なことに気をとられながらも、昼休みで残った部分の解説を終わらせた。

 

 ○

 

 翌日。

 

 午後の最初の授業が終わったとき、私は四葉さんが体を起こすのを見守った。

 

「いい夢は見れましたか?」

 

「あ、あはは……、恥ずかしいところを見せちゃいました」

 

「まずは寝ないようにする必要があるかな」

 

 成績がいい人物は口を揃えて言う、「授業をしっかり聞けば大抵のことはわかる」と。彼らは並外れた集中力と傾聴力があるから簡単にできるのではないかと批判したくなるが、間違っていないのも事実。

 彼女には授業をちゃんと受けてもらわないと、上杉くんの負担が増えてしまう。寝落ちしなかったとしても理解できるかどうかはわからないが、まずは授業に向き合うという姿勢を作らなければ。

 

 家に帰ったら眠くならない方法を調べてみようと思ったとき、隣の席の人はこんなことを言ってきた。

 

「じゃあ次私が眠くなったら、黒田さんが起こして下さいね!」

 

(……はい?)

 

 私は耳を疑った。何を考えているのだこの子は。

 私が起こす、それってつまり……私が四葉さんの体に触れていいってことか? もしくは声をかけてもいいってことか? そんなことしたら絶対クラスの目に触れるし、何の罰ゲームだ。

 

「それはできない」

 

 彼女に触れるメリットデメリットを天秤にかけた結果、きっぱり断ることにした。

 

「えぇ!? なんでですかー!?」

 

「あんたねえ……」

 

 不満を述べる彼女の前に手を開いて見せた。恥ずかしくてやる勇気がなくとも、代案を示すことはできる。

 

「眠くなったら人差し指と親指の間にあるここ、押してみて」

 

「ここですか? あっ、ちょっと痛いですね」

 

「そ、眠気覚ましのツボなの、ここ」

 私もこれを実践したから、効果は立証済みである。もしかしたら眠くならないのはツボのおかげではなく、自分は絶対眠くならないというプラシーボ効果が働いているだけかもと密かに思った(個人の感想です)。

 ツボの存在を教えると、彼女は新しいおもちゃを買ってもらった子供のように目を煌めかせて。

 

「はぇー……黒田さん物知りなんですね! 教えてくれてありがとうございます!」

 

「……どうも」

 

 にっこりとSEが付きそうな笑顔をしてお礼を言った。直視できない。その代わりさっき私が言及したツボを押しているクラスメイトの姿が映った。私の話を聞いていたのか、別にいいけど。

 

 ○

 

 そして放課後。

 

 突然だが、私は高校に入って二度目の挫折を迎えようとしている。一度目は焼肉定食焼肉抜きを食べたとき、二度目は――

 

「……ちょっと休憩するか」

 

「わかりました!」

 

 天井を見上げてから、左腕に顔をうずめ右手を頭に乗せて机に突っ伏した。疲労性の頭痛がする。

 

「疲れた?」

 

「そういう黒田さんが疲れてそうですけど?」

 

 自分の実力が、彼女相手には通用しなかったことである。思い通りにいかないことは予想していたが、その頻度が想定以上、正直見くびっていた。この前あった英語の宿題を全部間違えたというのを聞いた時は、違う世界を見せられた気分だった。

 

 黒板を見ている時間よりも船を漕いでいる時間の方が長かったのは前述したとおり、授業後に理解できたか聞いてみたところ、案の定何もわからなかったとぬかしてきたのでこのように補修をすることになった。

 

 彼女の理解度にかかわらず授業は新たな部分へどんどん進んでいく。なのでわからないところ、補強しなければいけないところも比例して増加する。この前の約束もある通り、上杉くんの負担をできるだけ減らすためにも私が教えるしかなかった。

 やっと切りがいいところまでたどり着いたのはいいが、私は改めて自分の無知、至らなさを自覚するのだった。易々と手伝うなんて言い出した自分が恨めしいとさえ思う。

 

 でも自分が成長できる余地があると思えばまだ何とかなる。次からはどのように改良していけばいいのか――

 

「ごめんなさい」

 

(え?)

 

 模索している途中で、突然謝ってきた。彼女は何も悪いことをしていないはずなのに、行き詰まっている原因は自分にあるはずなのに。

 

「なんで謝るの?」

 

 そして目の奥が熱くなる気がした。何故自分を悪者に仕立て上げるのかと勝手ながら考えてしまったため、どことなく悲しい気分になる。そして後に続く言葉が容易に想像できた。

 

「だって私――」

 

「言うな」

 

 彼女にその単語を言わせたくないがために、強い口調がつい出てしまう。

 

「あいつに頼まれたとはいえ、これは私がやりたくてやっていることだから、気に病む必要は全くない。どう教えればいいか考えるのも、ある意味楽しいしさ」

 

 後で伝説の教師と言われた人の本を読んでわかったことだが、教師というのは責任を一手に引き受けなければいけないそうだ。私は厳密に言えば違うのだけど、「教える」という行為をする人間は、他人に厳しくし、自分にはもっと厳しくするという心構えを持たなくてはならない。

 

 前言撤回、挫折がどうかなんて言っている場合ではなかった、が。

 

(――じゃあ辞める?)

 

 そう問いかける声が聞こえてきた。

 

 これは誰かから強制されたわけではない。ただ自分の意志で立候補しただけ。私の人生だから、続けるにしても辞めるにしても、私の自由だ。

 

 しかし、もし辞めた場合は――上杉くんが五人の育成に忙殺され、心身共に削りきったにも関わらず、債務が残り、さらに底に沈む。

 彼女たちの卒業が見送りになり、雇い主である父親も、娘たちの悲しむ顔を見てしまう、誰一人として幸福になることがない――。そのようなことが想像できた。

 

 そして、やっぱり辞めるわけにはいかないと思い直し、自分はこの仕事をしたいのだと決意を新たにする。

 

「それと、私たちはしっかり勝機を掴んでいる」

 

「えっ?」

 

 私はこの前行われた小テストの写しを机に置いた。

 

「テストの結果を見た限りだと、どうやら国語が得意科目みたいだね」

 

「あはは……ほんとに得意かどうか怪しいんですけどね」

 

「いいんだよ、それで。他の科目よりもできるということが得意の証拠だから」

 

 それから私は国語という教科の有用性を説明した。

 

 それは読解力の重要性だ。まずテストの問題文は日本語で書かれており、それを読み解くためには、読解力は欠かすことのできない技能である。

 数学も社会も理科も、問題の意図をちゃんと理解していないと正解することはできない。私自身、問題文を読んでいなかったせいで間違えたことが何度あったことか。

 そしてそれは英語も同じ、大体は文章を読んで答えるから、国語と解き方はそんなに変わらない。

 

 このように、国語ができるということは全ての教科ができるということを伝えた。

 

「なるほどー! 何だか希望が持てそうです!」

 

「そーれーに、点数のことなんだけど」

 

 点数という言葉を聞いて、彼女はばつが悪そうな顔をした。姉妹の中では一番成績が低かったし、引け目を感じるのも仕方ないだろう。

 

「うう……テストの件は不甲斐ないです……」

 

「それなんだけどさ、今からこう思いなさい。『自分は成長中』だと」

 

「自分は成長中?」 

 

 私はうなずき、一昨日上杉くんが話してくれた可能性の話をした。そこに自分なりの解釈を付け加えて説明する。

 

「確かに結果は8点だったけどさ、それってこう考えることもできるんじゃない?『あと92点も伸ばせる』って」

 

「えっ!?」

 

 彼女は目から鱗を落としたような表情をした。

 

「私はどんなに頑張ってもあと10点しか伸ばせない。それしか成長できないというのは、それはそれでつまらないものなんだよね。その点あんたはまだ伸びしろというものがある。これから20点、30点、50点とどんどん伸びていくことを考えると、ワクワクしない?」

 

 驚いたままうなずく彼女を前にして、私は続けた。

 

「だから自分はダメだなんて思わないで、四葉さんはまだ成長の途中なんだから、そして誰よりも成長できる素質があると、私……いや、私と上杉くんは信じている、それだけは忘れないで」

 

 数秒後、私は俯き、座っている椅子を見つめた。

 

 ……言ってしまった。今更になって、顔から火が出そうになる。冷静に考えれば口説き文句だと思われたりしないだろうか? 今彼女を励ましている私は自分の言葉に酔っているだけだと思われてしまわないか? 

 

 それにすぐに失敗することを考慮して強気になれない私が人に対して「信じる」なんて気障な言葉を使うとは、これは本当に私なのだろうかと疑いたくなる。ついでに責任逃れのために、上杉くんを勝手に巻き込んでしまったことによる罪悪感までもが押し寄せてきたのだが――

 

「……すごいです」

 

「え?」

 

 目の前のクラスメイトは、今まで見たこともないものを目にしたような驚き顔をしていた。

 

「すごいですよ黒田さん! こんな丁寧に教えていただいて! 私感動しました!」

 

 バン、と机を叩きながら身を乗り出し、キラキラした笑顔を目前へと近づけてきたために、私の心臓が大きく跳ねた。

 そのまま動揺を感取られたくなくて、顔を下げて、腕で覆い隠した。

 

 ……感動したって、何が? こんな励ましの言葉くらい、少し学習に対する知識があれば、誰だって行き着く思考のはずだ。

 それに、何だ? どうしてドキッとした? 何がとは言わないが勘違いしそうな勢いだ。自分にはそれすら許されないのに。

 

「それくらい、人としては普通だよ。何も特別じゃない」

 

 目線を下げたまま、私はひねくれた返答をした。

 

「いえいえ、十分すごいところがありますよ。他には――」

 

 そこまで言ったところで、彼女の口が止まった。顔をあげてみると、次第に表情が朗らかなものから、困ったような色へと移っていく。

 

「……どうしたの?」

 

「……すみません。他にもいいところはあるのはわかっているんですけど、それをうまく言葉にできないみたいです」

 

「ああそう。当然かもね」

 

 この私に、そんな言葉をかけられるほど人はできていないし。

 数十分前の状態なら学力の無さに、失望に近いような落胆を覚えていただろうが、自分を焼き焦がすようなオーラが収まったことにより、むしろホッとした。

 

「ちゃんと言えないと、どこかもどかしい気分です」

 

「じゃあ勉強するしかないね」

 

「やっぱり勉強ですか……」

 

 こんな教師と教え子がしてそうな話を、私たちはこれからもすることになる。しかしこのような会話は、友人のため、ひいてはその先にいる顧客の利益のためといったビジネス的な範疇を出ることはなかったのである。

 

 これから進むことになる道は、この会話がきっかけだったのだろう。

 私は言った。

 

「まあ勉強すれば色んな視点が持てて、結果的に語彙力や表現力も必然的に増すよ。例えば向こうにペットボトルが置かれてるけど、国語が得意なら『透明なペットボトルに入った透き通る茶色のお茶』、算数なら『500mLのペットボトルに半分以下残っているお茶』、理科なら『ポリエチレンテレフタレートに囲まれたカフェインとカテキン、あと窒素』みたいにさ。多様な価値観を持つのは、使える絵の具の色が増えるのと一緒で、人生を色鮮やかなものにできるでしょうね」

 

「なるほど……――」

 

 最初、彼女は小さな共感をしていたが、途端に彼女は呼吸を忘れたように固まった。そしてすぐに、「あっ!」と大きな声をあげた。

 

「私いいこと思いつきました! 聞いてください!」

 

 本人にとっては中々上質なアイデアだったらしく、一人上機嫌になっている。

 

「これから沢山勉強して、黒田さんのいいところをしっかり言葉で言えるようにします!」

 嫌な予感は、即刻的中した。

 

「だから、これからも勉強教えてくださいね」

 

「……ちょっと待って? え? 何? 何で私を褒めることを目標にするの? 別にそれじゃなくてもいいじゃん? もっとこう、上杉くんの負担を減らすとか」

 

 私は彼女が立てた目標に納得がいかず、抗議の意を唱えた。私のような面倒くさい人間より、彼女の姉妹を初めとした、異なる人に献身的な態度を示した方がより皆のためになるのではないのか。

 

「それもいいですけど、黒田さん、いつも自信無さそうにしてるじゃないですか?」

 

 見事に痛い所を突かれ、私は返す言葉を無くした。

 

「確かに黒田さんは色んなことを知っていて、それは本当にすごいことだと思います。でも、自分自身のいいところは、全く知っていないじゃないですか?」

 

 興奮冷めやらぬまま、彼女は自分の志をそらんじる。

 

「なので、私が代わりに、いっぱいいいところを見つけて、ちゃんと言葉にすることで、自信をつけてもらおうと思いまして!」

 

「ええ……」

 

 彼女の溢れんばかりの善意に、私は消沈した。サラサラと私の中の何かが崩れていく音が聞こえる。

 

 教室で初めて出会ってから薄々思っていたのだが、今や明らかになった。

 中野四葉という人間は、私にとって非常に相性が悪い、と。

 

 人は自分と同じようなタイプの人間と群れる性質があるから、このような性格の人と果敢に交流を持ったことがなく、ただ免疫を持っていないとも言えるが、それを差し引いても相性の悪さは拭えないのだろう。

 でも、そんな事実は何の意味もなさない。

 無二の友人からの期待と、未知を求める探究心が、舞台に立ち続ける理由となっていたからだった。

 

 ○

 

 結局、四葉さん渾身のアイデアは、留保する形に押し切った。

 理由は伝達の手段や語彙力を求めるがあまり、卒業という本来の目的を見失いかねないということと、今のレベルではまだその目標を設定するには早すぎるからである。

 しかし、私に自信を持たせることを完全に諦めてはいない様子だった。それに対して批判し、自身が称賛を受けるに値しない人物であることを自らの口から語るのは、情けないことこの上なかった。

 

 それから数分後、何とか立て直せた私は彼女とともに廊下を歩いていた。両手には段ボールを抱えている。

 どうしてこんなことをしているのかというと、彼女の知人から荷物の運搬を頼まれ、なぜかついでに私もナチュラルに手伝わされていたみたいだ。どういういきさつで巻き込まれたんだっけと悶々としつつ昇降口から外へ出ると。

 

「わお、上杉さん!」

 

 声がした方を見れば、汗まみれの上杉くんが走ってきた。彼は体力がないはずだが、なぜ走っているのだろうか。

 

「何してたの? あんたが走るなんて珍しいね」

 

「ちゃんと前向かなきゃダメですよー」

 

 彼は困惑した表情を浮かべると、後ろを振り向いた。視線を追うと、四葉さんそっくりの女性が立っていた。でも髪が少し長い?

 

「すまん……四葉……、落ち着いて聞いてくれ……」

 

 上杉くんはこちらを振り向くと、脅すような口調で話した。

 

「お前のドッペルゲンガーがそこにいる、お前、死ぬぞ」

 

「えええええ、死にたくないです~!!」

 

「何適当なこと言ってんの」

 

 この世に超自然的な現象があるはずがない。あったとしても遭遇する確率は限りなく低いと思っている。それこそ五つ子と出会うよりずっと。

 だから向こうにいる四葉さん(?)はれっきとしたただの人間であるはずだ。あの場に居るのも、何か説明のつく事情があるはずに違いない。

 

「本当だ、あそこにいる。最期に食べるご飯は何にしよう……」

 

「落ち着いて、あれを見たって死ぬとは限らないから」

 

 因果関係と前後関係を混同してはいけない。日本では年間約10万人が突然死していると言われているため、ドッペルゲンガーが死因を引き起こしたかどうかの証明は難しいのだ。

 なんとかこれを噛み砕いて説明しようと頭を回している間、外にいた女性はリボンをとり、ヘッドホンを装着して――

 

「お前三玖だろ! トリッキーな技使いやがって……!」

 

 どうやら上杉くんは三玖さんと鬼ごっこの真っ最中だったらしく、追跡を再開していった。

 

 そうか、一卵性の五つ子だから装飾や髪型を変えて他の姉妹に成りすます手を使うこともあるのか。私もいつか仕掛けられるかもしれないから、覚えておいて損はない。

 

 ホッと息をつく四葉さんの横で、私は新たな知見を得られたことを喜ぶのだった。

 

 ○

 

「それにしても、上杉さん張り切っていましたね!」

 

「そうだね、あいつが自分のわからないところを知って、もっと成長できるようになると思ったかな」

 

 荷物を所定の場所まで運んだ私たちは、上杉くんという共通の話題で会話をしていた。今までの彼は教科書や参考書に書かれていることを全て覚えてしまい、成長性が頭打ちになっていたと感じていたが、あの五つ子が良い起爆剤になったと考えれば、ちょっとポジティブな気持ちになれる。

 心身共に疲弊を感じたので、私はポケットから小分けのチョコを取り出して口に入れた。 偶然一つ余っていたので、それを彼女へと差し出した。

 

「成長ですか……ふふっ」

 

「私もまだわからないことだらけだし、一緒に勉強していかないとね」

 

「はい! お互い頑張りましょう!」

 

 彼女は満天の笑顔を見せてきた。ああ……疲れる。

 

「あっ、食べていいですか?」

 

「どうぞ」

 

(まあでも、こんなかわいい子と勉強できるならお釣りが来るよな)

 

 うるさい、変なアテレコしないで。

 

「いただきまーす……苦っ!? なんですかこれ!?」

 

「お口に合わなかった? 美容と健康に良いんだけど」

 

 私はまた一つ、四葉さんを知った。イメージ通りお子様舌だということを。

 

「びっくりしたじゃないですか! もーうっ!」

 

「……ごめん」

 

 次からはビターじゃないやつも持っていこうと決めた。

 

 そして、私を褒める計画についても、このまま忘れてしまえとかすかに願った。

 

 ○

 

 そして日は移る。

 

「これから図書室に行くけど、どう?」

 

「いえ、彼の力を借りる訳にはいきません」

 

 今日の進捗は宿題の監督ということで四葉さんを上杉くんが、授業の復習という目的で五月さんを私が担当しており、他の姉妹はまだ参加していない。このままでは卒業は見込めないと焦燥感に駆られていたが、五月さんは最後にこう言ってきた。

 

「三玖が少し変わったような気がします。以前より前向きになったって感じで」

 

 ○

 

 廊下を歩きながら、彼女の言葉を反芻し、噛み砕いてみる。

 

 これはつまり、上杉くんは三玖さんの説得に成功したってことか。学内で見かけた彼はやり遂げたというような雰囲気だったし。

 一歩前進したという感覚を期待して、図書室へと入る。

 

「ライスはLじゃなくてR! お前シラミ食うのか!」

 

「あわわわ」

 

(おお、やってるやってる)

 

 割と大きめのボリュームなのに、見渡しても周りが気にしている様子はない。慣れたって感じだろうか。それとも注意した結果彼からいちゃもんをつけられるのを恐れているだけなのかもしれない。

 

「お疲れ二人とも。図書室では静かにしてよ」

 

「黒田さん」

 

「黒田、お前も大変だな……こいつと同じクラスなのは」

 

「まあね。でもその分やりがいはあるし、上杉くんの為になると思えば」

 

「……そうか」

 

 なんとか黒歴史を消化するために昨日を振り返っていると、上杉くんが何かに気付いたように。

 

「そういえば四葉、なんで怒られてんのにニコニコしてんだ?」

 

 と、不思議そうに訪ねた。どう答えるのか今の様子から推察してみる。

 

「家庭教師の日でもないのに、上杉さんが宿題を見てくれるのが嬉しくって」

 

 やはりこう答えるのか、ここまでいい子だと逆に心配になってくるのだけど……って何故彼はこっちとあの子の顔を交互に見ているのだ?

 

「……お前ら、案外似た者同士かもな」

 

「は?」

 

「え?」

 

 彼が言ったことは、あまりにも理解に窮するものだった。

 

 確かに上杉くんに対しては協力的、その一点においては共通しているが、私と彼女は性格をはじめとして、色々対照的な間柄だし、彼は独り合点することもあるから、やっぱり的外れすぎると軽めに返そうとする。

 

「私と黒田さんが……ふふ」

 

 おいちょっとそこ、なんで笑っているのさ、私なんかと同じになったら不快なことこの上ないだろうが、普通。

 

「はぁ……。残りの四人も、お前らくらい物分かりがいいと助かるんだが」

 

「声はかけたんですけどね」

 

 ああそうだ、こんなことはどうでもいい、伝え忘れていたから言わないと。

 

「五月さんは今私が教えている、お願いしたら素直に受けてくれた」

 

「えっ? いつの間に?」

 

 上杉くんは驚きの声をあげた。彼とは約一年半の付き合いになるし、人となりや義理堅さについてはある程度理解しているつもりだ。

 

 それでも、不安になる。

 万が一にでも今の状況、私の厚意にあぐらをかいて、軋轢を直そうとしない事態に陥る未来を考えずにはいられなかったからだ。

 その結末を振り払うように、甘やかしてはいけないと自戒する意味も込めて、念押しをする。

 

「今は救済措置ってところだけど、早めに確執直しときなさいよ。私よりあんたが教えた方があの子のためになるんだし」

 

「ああ……わかっている」

 

 給料を貰っている以上、彼には五月さんを指導する義務がある。私もできる限りは協力するが、最後は自分自身の力でぶつかってもらわなくてはならない。

 それに私は、上杉くんの代わりにはなれないとわかっているから。

 

「となると、目標を達成するにはあと三人ってことになるかな?」

 

「いえ、三人じゃなくて二人ですよ」

 

「え?」

 

「ね?」

 

 すると彼女は顔を入り口の方へ向けた。それに促されるまま、視線を向けると。

 

「……三玖! 来てくれたのか」

 

 三玖さんは嬉しさで近づいてきた上杉くんを素通りすると、本棚の一角にかがみ込んだ。そこは彼が根こそぎ借りていった歴史書が並んでいるコーナーだった。

 彼女はそこから本を数冊取り出し、ページをめくった。そして納得したような声を出す。

 

「フータローのせいで考えちゃった。ほんのちょっとだけ、私にも……できるんじゃないかって、だから……」

 

 こちらを振り返って、柔和な笑みを浮かべながら。

 

「責任、取ってよね」

 

 その言葉に、彼は自分の胸を拳で叩いて。

 

「任せろ」

 

 自信満々で、ちょっと悪役っぽい笑みで返した。

 

 四葉さんが三玖さんに近づいて何やら話しかけているのをよそに、私はやりとげた友人の肩に触れて名前を呼び。 

 

「おめでと」

 

 素直な祝福を送った。

 

「おお、ありがとな。けど厄介だったぞ、残りもこんなことをしなければならないと思うと、気が滅入る」

 

 まあ昨日はずっと学校内を走り回っていたらしいし、体力的にもきつかったのだろう。

 

「途中何があったかまではわからないけど……新しいことを知れてよかったでしょ?」

 

「ああ、この感覚は久しぶりだ。俺が何も知らないことを痛感させたやつは、三玖がお前に続いて二人目だった……あ、これが『無知の知』ってやつか?」

 

「そ、ソクラテスのね」

 

 彼の成長を実感し合いながら、私たちは新たな生徒を迎えるのだった。

 

 

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