私に家庭教師はできない   作:335室の主

5 / 10
 今回も長いです。

 フラグ管理はしっかりしないといけませんね。

【一言プロフィール】
 愛用する自転車の色はライトグリーン。選んだ理由は「遠目でもすぐ自分のものだってわかるから」。


裁判と第二子とアルフレッド

 退屈というのは、人にとって苦痛でしかない。

 

 彼我の境目が消え入りそうな夜間の下で、私はそんなことを思った。

 

 このご時世、やるべきことがないというのはほぼあり得ないので、この場合の退屈は、やるべきことはあるが、それに着手できない状態にある、まあ生殺し状態に置かれることだ。

 あいにく今は本の一冊も持っておらず、スマホの充電もそろそろ切れるため使用をためらわせていた。あと電源入れるのが面倒。

 

 もう一つ、苦痛を感じている理由があった。これから自分の身に起きることは結構神経をすり減らす事態なのに、そこから逃げ出せないのが苦痛だということだ。未来のことを考えて考えるたびに、不安が一層大きくなるのがわかる。

 

(全ての悩みは、人間関係から生じる)

 

 ある心理学者の言葉をリフレインさせ、一旦心を落ち着かせた私は何かできること、打開策がないかを思案した結果、意識を約十時間前に帰した。

 仙人の修行の一つに、「今まで自分の身に起こったこと全てを思い返す」というものがある。理屈は不明だが、寿命を伸ばす効果があるらしい。手相の生命線が短い私にとってはピッタリの修行だった。

 

 自分がこの世に生を受けてから今この瞬間までの出来事を追体験するのはさすがに時間がないので、今日一日だけ起こった、主な出来事を振り返ってみることにした。

 

 ○

 

 

「そして誰もいなくなった、と」

 

「ええ、でも三玖だけは残ったようですが」

 

 午前のカフェにて、私は五月さんと共に勉強会を開いていた。

 

 今日は上杉くんが家庭教師をする日であり、私は野暮用があったため遅れて向かおうと予定していたが、その前に彼のことを快く思わない二乃さんが一花さんと四葉さん、そして五月さんをあの手この手で脱落させたらしい。

 私が五月さんに呼び出されたのは、その十数分後のこと、ちょうど支度を終えた矢先だった。人の手は借りたくないと意固地になっていた彼女に頼ってもらえるのは嬉しかったため、自転車を飛ばしてすぐに参上した次第である。

 呼び出した理由は勉強のことと、三玖さんを気遣ってのことだと話した。五月さんは上杉くんの連絡先を知らないので、二人と連絡できる私に中継ぎを依頼しに来たというわけだ。早速携帯で近況を聞くとすぐに返事がきた。マイクのあたりを手で覆って伝令する。

 

「……三玖さんと二乃さんが料理対決やってるって」

 

「はい? 何でそんなものを?」

 

「『俺が聞きたい』だってさ」

 

「二人に聞いてきて下さい」

 

 そんなに気になるなら戻って見てくればいいのに、と内心思いながら疑問を伝えた。

 

 ○

 

 

 ここで、私と五月さんとの関係性について説明させてほしい。

 教室である程度勉強の手伝いをした後、どのように教えればいいのかをはっきりさせた方がいいとのことで、二人で話し合った。

 

 結論としては、違うクラスの者がわざわざ他の教室まで勉強を教えに行くというのは、距離的にも時間的にも社会的にも手間がかかるという理由から、学校にいる間はメールまたはチャットでのやりとりにして、見かけても会釈をする程度に留めておいた。

 今日のように対面形式で教えるのは休日か放課後、場所は学校の外で行うことで合意を得た。

 また、上杉くんと違って無償で教えてもらうのは申し訳ないという彼女の意見から、報酬についても取り決めを行った。結果、勉強を教える代わりに情報やご飯を提供してもらうという、持ちつ持たれつ、ギブアンドテイクの対等な関係が築かれることになった。

 

 ○

 

 

 三玖さんに関する義務を済ませたあと、五月さんは口を開いた。

 

「しかし料理対決ですか、三玖が二乃に勝てるとは思いませんけどね」

 

「へえ、どれくらいなの?」

 

 私は好奇心のままに質問した。五月さんはどこか嬉々とした口調で答えた。

 

「二乃は姉妹の中で一番料理が得意で、私たちのご飯を作るのは二乃の役目なんです。ここに二乃が作った料理があるので、見てもらった方が早いかと」

 

 参考として五月さんがスマホで写真を見せてきたが、素人目からもわかる通り、二乃さんの料理はレストランのシェフが作ったのかと思うくらいクオリティが高かった。SNSにアップしたらバズり散らかしそうだなこりゃ。

 

「これはすごいわね。ちなみに三玖さんの料理の腕前は?」

 

「あまりわかりません……ああでも、この前肉じゃがを作るときにケチャップを入れようとしてました」

 

「……そっか」

 

 口元が微かに歪む。私は二乃さんの料理が食べられる上杉くんを羨ましく思った。

 

「ところで、料理の話をしたからお腹がすきました……何か頼みますか?」

 

「いいよ。私はコーヒーで」

 

 おっと……? この「いいよ」はどっちの意味になるんだろう?

 

 ○

 

 五月さんの食事が一区切りついた所、私は今の進捗を聞いていた。

 

 

「うん、もう中学三年レベルはクリアできてるね。上々上々」

 

「今さらなんですが、こんなスローペースでいいのですか?」

 

 

「うん。どこからわからなくなったのか知るのは大事だし、そうしないと高校の勉強はできないから。無理に近道せず、地道に積み上げていくのが一番ってやつだよ」

 高校で学習する内容は、実は中学で習ったことの延長線上にあることが多い。例えば数学。この教科で習うのは専ら「関数」であり、中学ではその基礎「一次関数」を学ぶ。社会の歴史だって、大まかな流れは変わらないから範囲が被る部分だってたくさんある。

 逆に言えば、中学で習う範囲が理解できずに高校の授業についていくことは、初期装備で魔王城へ乗り込むようなものだ。

 

「なるほど。急がば回れ、というわけですね」

 

「飲み込みが早くて助かるよ。ちなみに四葉さんには今、小学校の範囲から教え直している」

 

「えっ? そこから?」

 

「そう。そこから。びっくりした?」

 

 前にも説明した通り、四葉さんの学力は五つ子の中で一番低い。むしろどこならできるのか、独自に面談と試験を実施し測ってみたところ、割合の計算が怪しく、作文は「てにをは」などの基本的な技能が欠けていることが発覚したのだ。これはいけないと思い至った私は、すぐさま書店に急いで小学生向けの参考書を読みあさった。

 学習指導要領を読んでもらえればわかるが、小中高の教育のレベルはロールプレイングゲームのように、将来身につくであろう実力が適切に伸びるよう、しっかり段階を踏まえて設計されているのだ。つまり小学校での知識は絶対覚えておくべき内容と言って差し支えない。そうでないと、自ら考えて、様々なことを学習するための土台は築けない。

 

 今でこそ明るく振る舞っているが、勉強に対する自己肯定感は低いと私は睨んでいる。ならばまず簡単な問題を解かせて、小さな成功体験を積み重ねるのがベターではないかと考えたわけだ。

 そうすることで、「自分はできる」といった思いが生まれ、徐々に明確になるはずだ。彼女たちが、笑顔で卒業しているというイメージが。

 

「まあ、確かに、そうなるのも仕方ないのかもしれません」

 

 五月さんは何やら思うところがあるような声色で呟いた。おそらく四葉さんが無事に卒業できるかどうかを気にしているのだろう。もうこの話は終わりにした方がいいと、話題を変える。

 

「大丈夫。私たちが卒業までアシストすればいいだけだから。さて、こちらはやっと高校範囲に入れるかな。とりあえずは、おめでとうと言いたい」

 

「ありがとうございます。それで、さっきも言ったのですが、授業の件でわからないところが……」

 

「どこ?」

 

 こうして、私たちの勉強は滞りなく進んでいった。

 

 また、料理対決の詳細についてメールで送られてきたが、その内容は二乃さんが勝ったら今日の家庭教師の仕事はなしという条件になっており、審査員の上杉くん曰く「どっちも旨かった」だそうだ。

 

 家庭教師の件は結局お流れになった。

 

 ○

 

 その日の夕方。

 

 私は女子バスケットボール高校選手権の会場から帰ろうと席を立った。 

 

 私が一体そこで何をしていたかについては、説明する必要があるだろう。

 

 端的に言うとスコアシートを書くためだった。スコアシートというのはバスケットボールの試合において、誰が何点入れたのか、誰が違反行為をしたのかなどを記録する紙のことである。

 

 我が高校の女子バスケットボール部は部員が少なく、試合中にスコアシートを書ける人材がないため、外部の人間がその役目を担うのは自然なことだ。

 それがなぜ男子かつ未所属の私なのか、原因は一人の男子バスケットボール部員がこの話を持ちかけてきたからである。

 なぜその子が私に頼んできたのか、現時点では「そういう人物だから」としか答えようがない。二文字で言うと変人である。

 勝手に予想すれば、経験値を上げさせたいという意図で依頼したのだと考えられる。私も「何か頼み事をするときに、頼みやすくなるから」という甘言に従ったせいで、この場に足を運んだのだ。

 

 そして彼女らと現地で会って三秒後、この仕事を受けたことによる後悔の嵐が瞬間最大風速を記録することになった。

 理由は追々説明するが、部員たちは皆人ができているため、別に差別的境遇を受けたわけではないことを予め言っておく。

 

 

 試合終了後の総得点を思い出すと、めったにお目にかかれない結末が現れていた。得点数三桁である。私ですら現役だった二年半で一度しか見ていない。全国でも有数のチームが公表することを許される、まさに強者の証。

 

 お相手方の実力はわからないが、うちの高校の受賞歴からして、弱くはないと思うがあんな得点を出せる程度だとは言いがたい。とすると、臨時メンバーがもたらした結果か。

 私は彼女がいかにスポーツに優れているかを、どれだけフィジカルに努力値を振ったのかを、この目で持って学習した。

 

 ○

 

 逃げるようにして会場を出て、エントランスに差し掛かった時、急に胸の内ポケットから振動を感じ、携帯を取り出した。ディスプレイを見ると「上杉風太郎」と表示されていた。彼からの着信は珍しいなと思いながら、通話ボタンを押す。

 

「はい」

 

『黒田頼む! 助けてくれっ!!』

 

「うわっ」

 

 開口一番、上杉くんは切羽詰まる様子で話し始めた。私は思わず耳を離したが、すぐに所定の位置に戻して「どうしたの?」と返事をする。何か事件にでも巻き込まれたのかな? だとしたら警察や救急に連絡する準備が必要か?

 

『俺は今、家庭教師生活の進退に関わる状況に陥った……!』

 

 次に彼の言葉を聞いた時には、どうやらそうではないことを理解する。しかしそこで出てきた単語はすぐには理解できなかった。

 

『五つ子裁判だ!』

 

「……はあ?」

 

 聞き慣れない言葉に、私は気の抜けた返事をするしかなかった。

 

 ○

 

「えっとさ……『単語帳取りに戻ったら風呂上りの二乃さんがいて、欲望のまま押し倒した』ってことでいいのかな?」

 

『まあ、そんな感じでしょう』

 

『ほんっと最低ね』

 

『いや全然違うだろ!』

 

 中野家にいた四人の姉妹からそれぞれ証言をもらい、話を整理した。被告は上杉くん、原告は二乃さん、検察は五月さん、弁護人は三玖さんである。えっと、とすると私のポジションは何だ? 現場を見ていないから証言者とは違うし、傍聴席から真犯人をあぶり出す探偵漫画の主人公……?

 

 何それ……めっちゃ似合わないな、主役になれない私にとっては。

 

 おっと、話を裁判に戻そう。現在、被告は無罪を主張しているが、劣勢に置かれている。その理由として、五月さんが決定的瞬間を捉えた写真を持っているとのこと……物的証拠押さえられているじゃん。いくらえん罪でも勝ち目ないのでは? だから日本の有罪率が99パーセントを記録しているのか。

 

「今ならお上にも慈悲はあると思うよ」

 

『おい!? だから俺はやっていねぇって!』

 

『もうこいつ黒でいいでしょ!』

 

 二乃さんは有罪にする気満々だ。

 

「交代! 白!」

 

 ああ、運営が証言者の交代と無罪を主張している。上杉くんを弁護してくれるのか。一瞬諦めかけたけど、もう少し賭けてみるか。

 

『てかさユーゲン君、今どこにいるの? ちょっと聞こえづらいんだけど』

 

「ああ、ごめん。少し移動するわ」

 

 このままでは周りがうるさく聞こえづらいと言われたため、少し離れた場所へ移動した。ついでに上杉くんの携帯は機能的に心許ないので、一花さんの携帯から掛け直してもらうことになった。

 私の頭の片隅は、あのリボンが見えてくることを心配していた。

 

 ○

 

「ごめん。ここなら聞こえやすいかな……」

 

『……やっぱ有罪、切腹』

 

『三玖さん!?』

 

 通話に戻ると、何か話が変な方向に進んでいた。弁護人寝返っているし、無罪を獲得するのはもっと絶望的になっていた。

 

「なら介錯は誰がやるの?」

 

『黒田!? 真面目にやれよ!』

 

「ハイハイ」

 

 さて、気持ちを切り替えて悪ふざけなしで思考に入る。まず前提として、上杉くんが絶対、確実に煩悩に負けたわけではないと仮定してシミュレーションしていこう。

 

 ……今から俺は上杉風太郎だ。家庭教師の仕事が終わり、夕飯を食うために早く家に帰りたかったところだが、あいにく、単語帳をあいつらの家に忘れてきてしまった。仕方なく三玖にロックを開けてもらい、部屋まで上がったのはいいが、そこには風呂上りの二乃がいた。

 年頃の女の裸を見るのは男としてはしたない。俺はできるだけそいつを見ないよう探したが、いつまでたっても見つからない。どこにあるんだと隅々まで見てみたら、なんと単語帳があいつのすぐそばにあったのだ。だから俺は近寄らざるを得なかったが、それがあんな事故につながるとはこの時思いもしなかった。

 

 ……うん。大筋はこんな風か。それで、事故って何のことだ? 一体、どうして彼女に覆い被さった? 漫画には不慮の事故によって偶然男女が覆い被さる形になり、たまたま通りかかった第三者に見られてしまい、色々誤解されるのはラブコメによくあることだが、それを元にしてみて考えてみると、思い浮かぶ可能性としては……何かにつまずいた?

 

「裁判長。現場の状態は、事件直後から変化ありませんか?」

 

 私は裁判長こと長女に質問をする。

 

『うーん。あまり手は加えてないかなー。すぐに裁判始めたって感じだし』

 

「でしたら、部屋に散らかっているものとかないですか?」

 

『待ってて、えーと……、あっ。本が散らかっているよー』

 

 本か。私にとってはなじみ深いものだ。だからこそある程度の質量や体積は脳内で再現できる。でも図書館においてある特大サイズの辞典でない限り、人を転ばすことは難しいだろう。

 

「他に変わったところは?」

 

『いや、ないねー』

 

 だとすると、何かにつまずいて転んだって線はなしか。次の可能性を考慮しなくては。

 

 誤解を解くという点では、むしろ恋愛漫画から事例を引っ張ってくる以外にも、もっと多角的に考える必要があるか。日常系とか。バトルものとか。

 

 そもそも誤解に至る経緯には、何がある? 言葉の綾とか、目に入ったまつげを取るために顔を近づけたところを後ろから見られて、接吻だと勘違いするパターンとかがあるが、あまり関係なさそうかな。

 

 せめて一石投じるだけでも効果的かと、煮え切らない思いを抱えながら、苦言を呈した。

 

「せめて写真をこっちに送ってくれればわかりそうな気もするけど……」

 

『はあ!? なんであんたなんかに見せなければならないの!?』

 

 二乃さんの怒りが聞こえた。そりゃそんな反応するかと申し訳なく思う。チャットアプリ等でやりとりした写真は、情報として完全に消去するのは難しいと聞くし、得策ではなかったか。しかも映っているのは自分の風呂上り。私でも得体のしれない誰かに見られるのは嫌だ。

 すれ違った観客の一人はある選手のプレーに感服したと連れに話していた。

 

「じゃあさ、その写真をよく見て。二人の他に、何か変わったものが映っているとかある?」

 

『どれどれ……』

 

 返答を待っている間、うちのバスケ部員は今何しているのかが気になった。もう彼女たちの試合は終わっており、クールダウンから反省のためのミーティングあたりだろうか。その後は着替えや、今後の予定報告が来るだろう。でも今日助っ人にきた彼女のことを考えれば、どこかの過程をすっ飛ばして私とばったり出くわすかもしれない。

 

 そうはなってほしくないので、早めにこの会話を終わらせたいと、焦りが生まれてきた。

 

 そうして裁判と全く関係のないことに気を取られていると、五女の声が聞こえてきた。

 

『おや? ここにも本が散らばっているみたいです』

 

「どんな風に?」

 

『ちょうど二人の周りに散らばっているように』

 

 そこで勝機を見いだした……なるほど、読めた。私の脳裏には、バトル漫画の一コマが浮かんでいた。

 

 試合はこれから後半戦に入る。

 

「裁判長。もう少しで真実を公表できそうです。念のため、五分だけ自分の考えを整理する時間を下さい」

 

『うむ。許可しましょう』

 

 一花さんにお礼を言ってから、上杉くんに代わるよう頼む。

 

「上杉君。やっぱりあんたは無実だ。しかも男気もある。あらためて尊敬するよ」

 

『黒田……お前』

 

『黒田君? わかったのですか?』

 

「ああ、今抜けがないか確認しているところだから……もう少しの辛抱だよ。それと……あんたにはやってもらいたいことがある」

 

 建前を述べて、一旦スマホを耳から外した。私は早歩きで外に出て、電波が届く程度まで距離を取った。

 

 ○

 

 

「お待たせしました。では、私の証言を聞いて下さい」

 

 約束の五分が過ぎて、私は推理を展開する。

 

「おそらく被告は『崩れ落ちていく本から被害者を守るために身を挺した』と思われます。あたりに散らばっている本は、二人の周りにあり、体の下には確認できないとの証言もいただきました。このことから、本は被告を避け

て下へ落ちたと考えられます」

 

『ほーう。なるほど』

 

「後先考えずに人を守るなんてこと、普通はできないですからね」

 

『いや! あいつが私を襲ってから本が崩れ落ちただけじゃない!?』

 

『それなんだけど二乃。フータローの表情をよく見て。襲おうと思っていたら、こんな顔する?』

 

『これはー。とても欲情してる顔には見えないねー』

 

 おっと。弁護人が自分の役目に復帰したようだ。気のせいか試合の熱狂がこっちにも聞こえてきた。

 

『それでも証拠がないじゃない!? こいつが私を守ったという証拠が!?』

 

 出てくる客の数が多くなってきた。

 

「いいえ、証拠ならあります。とっさに守らなければと判断した点を見ると、本はある程度高い位置から落ちてきたと推測されます。それに、本の位置関係から、被告に何冊かぶつかったと考えるのが妥当でしょう」

 

 

 一度深呼吸して、空気を入れ直した。

 

「それならばあるはずです。上杉くんの体に、本がぶつかってできた痣が」

 

 ミステリーもので探偵が犯人を追い詰める、渾身の決め台詞を吐いた。

 

『確かに……。ちょーっと服脱がせてもらうよ』

 

『えっ!? うわっ!? おい一花!?』

 

 電話の向こうでわちゃわちゃしている雰囲気が感じ取れる。楽しそうだ。

 

 程なくしてから、五月さんが報告してきた。

 

『……ありました。確かに彼の背中に、黒い点々が』

 

 この時、大会の全試合が終わったことを知った。

 

 ○

 

『やっぱり、フータロー君にそんな度胸はないよねー』

 

『今回はマジで助かった。本当に何て礼を言ったらいいか……』

 

「いいって、こちらこそ、お役に立てて何よりだよ。上杉くんの無実を証明できてよかったよかった」

 

『ちょっと! 何解決した感じ出してんの!?』

 

『二乃、しつこい』

 

『あんたねえ……!』

 

 二乃さんはまだ納得してない様子だが、三玖さんに一蹴された。

 ……さて、言ってしまおう。怖いけど。私にとってはここからが本番だ。

 

「あっ、少し二乃さんに代わってもらえる? できればスピーカー切ってもらえると嬉しいんだけど」

 

『おっ? 何々? 告白でもするの?』

 

「そんなんじゃないって。私もそんな度胸ないから」

 

 私がもし愛の告白をするなら(そんな機会があるかどうかはおいといて)、もっとムードがある場所で直接言うのがポリシーだ。複数人が聞いている前で、しかも電話越しで告白をするなんて、ロマンの欠片もなさすぎる。

 軽い静寂の後、二乃さんの声が聞こえてきた。

 

『何なの? 言いたいことがあるなら、さっさと言ってよね!』

 

 自身の企みを砕かれたためか、刺々しく、投げやりになったような声を出していた。だったら、今から言うことはもっと不愉快にさせるだろうな。きっと。

 

 一つ、深呼吸してから、私は自分の内をさらけ出した。

 

「なんで上杉くんに薬を盛ったの?」

 

『私たちに家庭教師なんかいらないからに決まってるでしょ』

 

 なるほど、私「たち」か。彼女はそう考えている。

 

「なぜいらないと考えたの?」

 

『それは……!』

 

 声に気概がなくなった。ここが触れてほしくないところだろうか。ならばそこを突いてみよう。

 

「当ててみせようか? 姉妹との時間を邪魔してほしくないからでしょ?」

 

『……っ!』

 

 彼女は驚いたような声をあげた。後私も驚いた。やっぱりあの人はすごい。

 

「あの子たちから上杉くんを遠ざけようとしているのはわかるつもりだよ。それに対して私はやめろとは言わない。いや、むしろ……」

 

 私は最後の言葉を紡いだ。

 

「……二乃さん。私は、あなたを尊敬している」

 

 スピーカーの向こうが静かになった。一瞬充電が切れたかと焦ったが、返事が聞こえた。

 

『……はあっ!? ど、どういうことよ!? 説明しなさいっ!!』

 

「言いたいことは言ったから。じゃあね」

 

 私は彼女の抗議に耳を貸さず、端末の電源を切った。

 

 ○

 

 私があの発言、二乃さんへの敬意に至ったのは、私が「嫌い」という感情を、好きと同じくらい強い関心の現れだと再定義したことから始まった。

 最初は「何だこいつ」と嫌みな物言いや態度が不快となっていたが、新たに小説を書くことが楽しすぎて気が付いたら五時間経っていたように、四六時中彼女の行動について考えていた自分を見つけた。過去をいつまでも引きずる悪い癖だ。

 それほど、彼女の動機が知りたい気持ちが強いことを知った。なぜ上杉くんを嫌うのか? なぜ家庭教師がいらないと言い張るのか? 知りたい。わかりたい。

 

 そこから本格的な考察をスタートさせた。しかし人の気持ちを考えるのは難しい。絶対的に正しい解がある学業と違い、その道筋に最適解はなく、すぐに思索は難航した。

 どうしたものかと悩んだ末に、私は母親の知恵を借りることにした。同じ女性だから、何かヒントを提供してくれるだろうと期待したからだ。

 私は思い切って電話をかけた。正直こんな私に耳を貸してくれるかと不安に思っていたが、ありがたいことに私の体を気遣ってくれる言葉をかけてくれ、この難問についても真剣に聴いてくれた。そうしてくれた答えは「その子は姉妹を守るために、嫌われ役を引き受けた」とのことだった。

 

 それを聴いて、不思議なほど、腑に落ちた。びっくりするほど、一致した。

 お礼という社交辞令を交わして電話を切った私は、ライブラリから一冊の本を取り出した。

 あの思想の体現者が現れたことで、彼女への印象は大きく変化することとなった。

 目の前の障壁から逃げず、ただ前を向いて進み続ける強い志。

 現世に顕現する一世紀前の心理学者が提唱した、自由を手に入れる究極の手段。

 

 それすなわち「嫌われる勇気」である。

 

 彼女が上杉くんを嫌っているなら、確固たる意志と信念に基づいて拒絶しているなら、無理矢理印象を好転させるよう働く必要はない。そうではなく、発想をコペルニクス的に転換すればいいのであって、それならもっと嫌いなやつを作り出せばいいわけであって、今さっき、電話で尊敬の念を伝えたことがその始まりなのであって。

 

 ……と、こんな感じかな。もちろん二乃さんがこんな考えで動いていると決まったわけじゃない。ただ純粋に、生理的に私たちを嫌っているだけかもしれない。それでも自分達と真っ向から対立する彼女は、私達に色々と、価値観が変わるレベルで大切なことを教えてくれる。そういう点では、非常に有益な存在だと言えた。

 

 だから私も感謝を表して嫌われる勇気を持とう。「あなたの考えはお見通し」というニュアンスを見せて警戒心を高めておけば、こっちにヘイトが集まることになる。上杉君には裸を見たことに対する謝罪とメンタルケアをするよう頼んでおいたから、彼の方が相対的にマシだと思ってくれるだろう。

 あっそうだ。この仮説、上杉くんに教えておこう。こう考えれば気が楽になるだろうし、もっと前向きになってくれるはずだ。

 

 ○

 

 大会が終わりを迎え、そろそろ秋を告げるような風が熱気を冷ます。周りには大会に出場していた選手たちの姿がちらほらと見える。

 時の移ろいに合わせて、太陽がいなくなることに気づく時期も早くなりつつある。ひゅうっと靡く冷気に揺られるたび、黄や赤の葉が過ぎ去る季節に手を振っていた。

 

 さて、もう暗くなってきたし、思ったより長居してしまったから、あの子に見つからないうちに早いとこ退散しないと――

 

「黒田さーーん!! おーい!!」

 

 自分の名前が聞き覚えのある声で呼ばれ、瞬間的に体が震えた。冷や汗も少しかいているのがわかる。

 私は夜道にはびこる妖怪に遭遇したかのごとく、小さく震えながらやおら振り向いた。

 もちろん振り返った先にいたのは妖怪ではなかった……いや、この場合妖怪ならどれほどよかっただろうか。目の前に現れた相手は、そう思わせるに値したのだから。

 

「探しましたよ黒田さん! 今日は来てくれてありがとうございます!」

 

 会場からユニフォーム姿の四葉さんが体中の突起物を揺らしながら駆け寄ってきた。目のやり場に困った私は、全力で目線を外した。

 

「いや……、ホント偶然だから、お疲れさま」

 

 私はこの案件を持ち込んだ男子部員のことを考えた。もしかして、こうなることがわかっていたのか。

 

「ミーティングとかあったでしょう? 抜けてきてよかったの?」

 

「チームの皆さんには『友達を見かけたから会いに行ってきます!』とだけ言って、一旦抜けてきました!」

 

 その友達って私のこと? 四葉さんは私を友達と認識しているのか? いやそれはいい。

 

(非常にまずい事態になった……)

 

 この瞬間から、ここに出向いたことに対する後悔が再び押し寄せてきた。

 

 この時、私が彼女に会いたくない理由はただ一つ、暗い未来を引き寄せたくなかったからだ。通常は女子の部の試合に非部員の男子が見に来ることはまずない。あったとしてもそれは骨折とかで試合に出られなくなった選手で、その場合はフィードバックを与える程度だろう。それか意中の人の活躍を見守るくらいだ。

もちろん私は彼女に対してそんな感情は抱いていない。しかしこの子はどうだ? 私とこの場所で会ってどんな感情を持った? 本来ならいないはずの人物とここで遭遇するということから、ストーカー行為を疑われるという想定もしていた。

 そうなれば先刻の上杉くんみたく、私も尋問されるに違いない。信頼が崩れることが人間にとって一番の痛手であり、交友のタスクも達成できない。

 それに早く帰りたかったのも、二乃さん相手に慣れないことをしたために、精神が疲労しているからだった。一度夜を明かして回復すれば、納得のいく説明を用意できていただろう。

 でもそれはできなくなった。こんな心持ちじゃ共同体感覚は得られないことはわかっているが……とにかく何て弁明すればいい? さっき推理で頭を回しすぎたから、前頭葉が軋むような感覚に襲われる。周りの目線もめちゃくちゃ痛く感じるし、HLA遺伝子のせいか鼻も反応しているから、考えがまとまらない。一体、一体どうすれば――

 

「黒田さん?」

 

 急に現実に引き戻されて、一瞬呼吸するのを忘れてしまった。

 

「どうしたんですか? そんなに考え込んで。悩みがあるなら聞きますよ?」

 

 言えるかっ。実際時間では約二秒しか経っていないのに、何で私が考えすぎていることに勘付いているのだ。前に一花さんを諫めたことといい、もしかしてそのリボンは人の心を読むアンテナの役割も兼ねているのか?

 考えるのが馬鹿馬鹿しくなって脳をクールダウンさせようと、私は藍色の空を見上げた。そして書き起こした思考の一切を恥じるようになった。これ以上何か考えて煮詰まったことを口に出して変に意識させるわけにはいかない。けど何か言うまで離れなさそうだし、どうしたものか。

 

「……上杉くん、家庭教師はうまくいってるかなって」

 

 結局思いを吐露することはできず、当たり障りのない発言に逃げた。「迷ったら危険な道を選べ」という画家の言葉を守れなかったと悔やまれる。

 

 すると彼女ははっとして、申し訳なさそうな顔つきを見せた。

 

「……実は今日、上杉さんが勉強を教えてくれる予定だったのですが、二乃から大会の臨時メンバーを募集していると聞いて、私放っておけなくて、こっちに来ちゃいました」

 

 四葉さんの感情に連動するかのように頭のリボンがしおれた。心なしか皺も増えた気がする。疑似生命体なのか? それ。

 でもそれを聞いて、陰謀論は霧散した。とりあえず彼のことは許そう。

 

「なるほど、放っておけなかったの?」

 

「はい。五人しかいないメンバーの一人が骨折したらしく、折角大会に向けて頑張ってきたのに、このまま出れないのは可哀想だと思って」

 

「可哀想、か。うん」

 

「はい。努力を無駄にはして欲しくないからです」

 

「努力か、それは……仕方ないかも」

 

 私は言った言葉を淡々と繰り返し、共感することに努めた。

 

 男女の違いの一つに、悩み事への対処法がある。男性は相談に対して具体的なアドバイスをするが、女性は相手の心に寄り添い、共感する。これは相談を求める側でも同じだ。男性は次の行動を求め、女性は共感を求める。

 なので男女のすれ違いというのが起こる。妻から相談を受けた夫は、こうすればいいだろうと思って助言し、さっさと趣味や仕事に移ってしまう。妻はただそばに居て欲しいだけなのに、わかってくれないと嘆く。

 

 だから下手な助言はしない。夫婦や恋人といった関係を、どう長続きさせるのか、それも関心の対象となっている私にとって、異性との衝突は何よりも避けたい事態だった。(もちろん例外はいる。それを教えてくれたのも含めて尊敬している)それに上杉くんに対する罪悪感もあるみたいだし、これ以上何かをコメントするのは野暮というものだ。

 

 にしても二乃さん、そんな手で上杉くんの妨害に出たのか。これはますます気合いを入れる必要がありそうか。その点、上杉くんに最初から協力してくれるこの子は……本当に「いい子」と思える。

 

 ……だからこそ、男女の問題なしに、これを聴かなくてはならない。

 

「でさ、聞きたいんだけど、どうだった? 助っ人やってみて」

 

「はい! みんなのお役に立てて嬉しかったです!」

 

「ああ違う。それを聞きたいわけじゃないんだ」

 

「えっ? 違うんですか?」

 

 自分の聞き方が悪かったなと反省し、少し間を置いて整理してから、口を開いた。

 

「私が聞きたいのは『今回あなたがやったことは、上杉くんとの勉強を放り出してまでやる価値があったのか?』ってこと。

 さっきあんたは努力を無駄にして欲しくはないって言ったよね? そりゃあ部活のみんなも一生懸命努力していることは理解できてるつもりだよ。でもさ、上杉くんはお金をもらって家庭教師をやっている以上、みんなを教えるためにそれ相応の努力をしているはずだ。そのことは忘れないでほしい。別に給料のあるなしで優劣を語りたいわけじゃないけど。

 さて、もう一度聞くけど、今日やったことは、本当に自分のためになった?」

 

「えっと……それは……」

 

 やはり難しい質問だったか。今のは自分に対する嫌みだと受け取られかねないかな?

 戸惑っている不安を拭いたいがために、精一杯の愛想笑いをした。

 

「まあ、すぐに答えを出さなくていいよ。どっちが自分にとって大切か、ゆっくり考えてね」

 

「は、はい!」

 

 私の言葉を受けて、なぜか彼女は敬礼をした。

 

「うん、良い返事。それじゃまた」

 

 そう言ってここから去るため、素早く踵を返した。やっと解放されると安堵したのもつかの間、四葉さんがすぐ……歩いて約三秒後に呼び止めてきた。今日はもうこれ以上関わりたくないのに、一体何事かと思って振り向いたら、さらにストレスのかかる一言が飛び込んできた。

 

 ○

 

「なんでこんなことに……」

 

 かくして今、私は四葉さんが帰り支度を済ませるまで門で待っている。その間、どうしようもない不安に駆られていた。

 アンニュイな気持ちの理由はわかる。彼女の一言で、二人で帰路につくことになったのだ。

 普通女子というのはそのまま集団で楽しくキャッキャッしながら帰るものだろ。あの子は顔が広いから、そういう傾向が強いはずだ。それなのに今は私と二人で帰ろうとしている。その動機がわからない。なんで私を道連れに選んだし。勉強で聞きたいことでもあったのか? 別にそれは今じゃなくてもいいよね?

 

 ……このテーマだけでも、あと二時間は考えられそうだった。

 

 断ればよかったじゃんと言われそうだが、君なら想像できるだろう。あんなにかわいい笑顔を向けられて「せっかくですし一緒に帰りましょう!」だなんて提案されてしまったら、それを断れる男子はいるか? いないだろう。いないはずだ。いないと言ってくれ。

 

 そうして待ち時間は、非常に退屈であった。

 

 ○

  

「すみませーん! お待たせしましたー!」

 

 仙人の修行体験が終わりを迎えるタイミングで、こっちに走って来た。僅かに制汗剤の匂いがした。

 

「いや大丈夫……じゃあ行こっか」

 

 もう考える気力もないまま、私たちは歩き出した。こんなに人の目を気にしたのは中学生以来だった。

 

 ○

 

「しっかし今日の試合、大活躍だったね」

 

 胃に重いものが溜まるのを感じながら、礼儀として労いの言葉をかけた。

 

「えへへっ。黒田さんに試合を見てもらったのが嬉しくて、今日はいつもより張り切っちゃいました!」

 

 いけない。自分の中にある何かがもがき苦しみながら消えようとしている。疑った私を許してほしいという罪悪感と、これも彼女の策略の一つなのではないかという懐疑論がせめぎあっていた。

 

 この紛争を終わらせるためにも、もう観念して、真実を手に入れるしかないか。

 

「……あのさ、ひとつ聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

 

「おおっ!? なんですか!? ぜひどうぞ!」

 

 いざ口にするのは怖い。でもこれこそが私の進むべき「危険な道」なのだ。

 

「その……なんで今日私と帰ろうと思ったの?」

 

「うーん……わかりません!」

 

 あっけからんに、全くと言っていいほど迷いがなく、拍子の消滅した答えを返した。

 

「わかんない?」

 

「はい。今も不思議なんです。どうして私は黒田さんと帰ろうとしたのかが。ただ、あの時一人で帰ろうとした黒田さんの背中を見て、なぜか名前を呼ばずにはいられませんでした。

 そのあと、振り返ってこっちを見てくれたとき、思ったんですよ。『あっ、一緒に帰りたいなー』って。なんか変ですよね」

 

 その言葉、特に最後の質問に、私は驚いた。「変ですよね」っていうのは、少々弱音のように聞こえる。いつも元気な彼女だからこそ、意外性がいつにも増して感じられたのだった。

 

「……なるほど。言葉で表せないってことか。まあ私にもそういうのがあるし、友達ともう少しだけ過ごしていたいってのは、珍しくはないし……あっ、私は、友達だよね?」

 

 言い終わった瞬間、自分はなんとも間抜けなことを口走ったのかと後悔した。友達かどうかなどの確認なんて、まるで今まで友達として見ていなかったのかと不安にさせるだけだろう。

 

 少々の沈黙の後、彼女は声を出して笑った。もしかしてからかわれていた? 「やっと騙されていることに気づいたかこの間抜けが!」とでも言うの?

 そんななけなしの思考を展開した私に気づくことなく、彼女は。

 

「当たり前じゃないですか! 私たち、初めて会ったあの日から友達ですよ!」

 

 周りが暗くて、どんな顔をしているのかわからない。

 でも今は、その声、その言葉を信じてみようと思った。変な疑念も持ち合わせてしまったし、このままでは友達に示しがつかないな。

 

 そう考えて、彼女の方へ手を差し出した。

 

「鞄持つよ。今日は疲れたでしょ?」

 

「えっ? いいんですか?」

 

「てか、持たせてくれない? 私の気がすまないから」

 

「じゃあ……お願いします」

 

 私は四葉さんから鞄を受け取り、肩にかけた。へえ、こんなに優しくしたい自分がいるのだなと驚いた。

 

 なぜこの行動をとったのだろうか、以前五月さんに話した、彼女の優しさに触れて、その恩返しと言ってもどこか似つかわしくないし、ただ単純に彼女の気を惹き、好意を持ってもらいたいからという下心とも、ちょっと違っている。

 私が持ちうるどんな言葉も理屈も論理も、畢竟今の動機とは照合しそうになかった。

 

 ……そう思ってしまえば、残された真実は一つしかない。

 

(自分が優しくしたいと思っただけ、だ)

 

 それは非常に面白みのなく、独り善がりな事由だった。

 でも……それでいい、主観的であっても。どうせ理由なんて明日になれば十も百も思いつくし、どこまで行っても他人の全てを理解することはできない。己のことを一番理解できるのは、己自身だけなのだから。

 

 そして、未来に目を向けることも大事だ。

 

「明日は勉強できそう?」

 

「はい! 上杉さんの努力を無駄にはしません!」

 

「うん。頑張って」

 

「あっあと! 黒田さんの努力も無駄にはしません!」

 

「……そっか」

 

 口元が不意に緩む。嗚呼、そう言われたら私も応えないとな。

 

 草むらから届く、虫の音色に包まれた夜道を二人で進んだ。いつのまにか、街灯のほんのりとした光の影響か、はたまたもう一つの光源のせいか、胃の滞留物はすっかりなくなっていた。

 

 

 その後、どうやらこのやりとりをバスケ部の部員に目撃されていたらしく、翌日体育館に立ち寄ったとき質問攻めに遭うこととなった。これだけならまだよかったのだが、やがてその噂は尾ひれがくっついた形で中野姉妹の耳にも入り、私は危うく五つ子裁判の被告人第2号として出頭する羽目になりかけるのだった。




 二乃との絡み、当初はこうなるとは思いませんでした。好きの反対は無関心なんだなって。 

 そして今回、不本意ながらも主人公と四葉が一緒に帰宅するというシーンを作り上げた「男子バスケットボール部員」。

 彼は主人公の一年生からのクラスメイトで、浅からぬ関係にある人物です。

 今後登場しますので、乞うご期待。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。