私に家庭教師はできない   作:335室の主

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 今回から花火大会編です。
 ただ事前に用意した文章のままだと流石に長いので、分割して投稿することにしました。時間稼ぎにもなるし

【一言プロフィール】
 二択で迷ったらコイントスで決めるが、三回に一回は地面に落として失敗する。


無意義な週末

 子供が勉強を嫌いになる原因とは、大人の言うまま椅子に座って、机にかじりついて、ノートや教科書を広げて、ただただ鉛筆と消しゴムを動かす単純作業だけを「勉強」と思い込むようになるからだろう。そういう年頃の子は多感だから、頭より体を動かす方が楽しいのに、潜在能力が引き出されるのに、合理性に欠ける。

 しかもほとんどの親は「勉強しなさい」と言う割に、実際に勉強している様を見ていないのだから、説得力に大いに欠けるのだ。子は親の背中を見て育つというが、まさに見ているから勉強しないのだ。

 他人に指示しておいて自分はしないというのは、もはや理不尽だと、幼心は感じている。だから誰かにものを教え、影響を与えたいなら、まず自分が手本にならなければならない。これもまた、この物語から学んだことだろう。

 

 ……でも、言われそうだ、それができたら苦労しない、と。

 さらば何かと誘惑が多い家を出て、外に繰り出してみてはどうかと提案してみる。できれば小さな非日常、例えば理科の実験のような。これにワクワクした経験は誰だってあるだろう。高校になると成績のことばっかり気にしてそんな余裕はなくなるのだが。

 

 理由は、生物の脳というのは、物事と場所をセットで関連付けて記憶することに長けているからだ。食料がここにあると覚えておけば、生存確率はグッと上がる。

 

 わかりにくいだろうから具体例を挙げよう。小学生の頃の夏休み、祖父母と共に水族館に行ったことがある。自分が育った土地とは大きく離れた場所にあったので、私にとっては新しい刺激で一杯だった。

 そうして色んなコーナーを回り、ある部屋へたどり着いた。確かクラゲが展示されているコーナーだったか、祖父は部屋の中央にあった地図を指して、領土問題について教えてくれたことがあった。私はその日見たどんな魚や鳥よりも、祖父の話が一番記憶に残っている。

 

 ……ああ、こうして勉強を誰かに教えるようになった今では、あの人は教育者として幾分優れているなと、心底実感したものだ。自分の息子(私の叔父)を日本の最高学府に入れたって聞くし。

 

 つまるところ勉強なんて、本人が知って楽しいと思えればそれでいいのであって、そのきっかけは案外どこにでも転がっているものである。

 

 勉強が嫌いだった頃の自分は、日常の至るところに学びの種があるということに気づいていなかったのだ。

 そして生き続ける限り、勉強はし続けなくてはならないことも。

 

 ○

 

 あの五つ子裁判の後、報告書を提出する際に二乃さんについての仮説を上杉くんに教えたが、どうやら事件の前、上杉くんを三玖さんと見間違えた彼女から、本心を偶然聞き出したらしく、そこから同じ結論に行き着いたことを聞いた。

 

(なんだ、つまんない)

 

 拍子抜けして無礼な感想を抱きながらも、月は沈む。

 

 ○

 

 そうして世間は9月30日、日曜を迎えた。

 

 この日はいつもの授業から解放され、普段できないことに着手できる時期だ。どこかへ日帰り旅行をしてもいいし、友達と遊ぶのもいいし、なんならぐうたらして一向に伸びる気配のない国内総生産に反逆するのも一興かもしれない。

 

 そんな私はというと、いつも通りの時間に起きて、朝食を食べて、歯や顔を洗って、勉強をするだけである。部屋の掃除と洗濯なら昨日父と済ませたし、部活動等にも所属していないので、やることは勉強と合間にする読書くらいしかなかった。

 

 ペンを走らせている間、何かの折にふと考えてしまう。こういう風に教えれば四葉さんでもわかってくれるかもだったり、五月さんにはこの教材と相性がいいかもだったり、普段の思考に彼女たちが出てくる頻度は少なくなかった。

 

 これでは私があの子たちのことを意識しているみたいで、何だか嫌な気分になってくるが、もしかしたら上杉くんも同じことを思っているかもと想像した。もう自分は立派な家庭教師かよとのたうちまわっているところまでがワンセット。

 

 そう考えれば、おのずと嫌な気は失せる。ここでも私を助けてくれたと、友人への感謝の意を持てた。

 

 ○

 

 ふと時計を見れば、正午をとっくに過ぎていた。そういえば、この日はまだ一度も外に出ていない。今日が今日だし、外の様子はどうなっているのか気になった私は、作業を中断し、最低限の荷物をまとめ上げ、家を出た。

 

 

 歩きながら、今日の夕食は何にするか、関心が強くなっていた。普段なら家に余っている材料から献立を決めるのだが、この日は違っていた。

 

 以前より町中の掲示板で確認していたのだが、今日この町では花火大会が行われるらしい。本来、花火大会は7、8月頃に行われるものというステレオタイプが私の中にあるが、あえて開催日時をずらすことで集客と地域の活性化を見込んでいるという、町内会の計略が考えられた。

 そして大会当日には屋台も出店する。定番のたこ焼きや焼きそば、デザートとしてのバナナやりんご、たんぱく質を摂りたいなら焼き鳥もある。

 家で食事する内食や中食が主流となっているこの国では、開放的な空の下でものを食べることは、ちょっとした非日常である。一生で数十回くらいしか体験できないチャンスなのだ。

 一瞬だけ父親と一緒に行く未来を考えたが、朝から友人と釣りに出かけたことを思い出して、一人で見にいくことにした。

 少し寂しいがそっちの方が自由は効くし、自分の人生を生きられているなら、それでよしとしよう。

 

 だから今からどんなものがあるか下見に行って、それからゆっくりじっくり花火の光と音を五感に焼き付けておこうと考えて……。

 

 まあそんなわけで、今日はケから脱却してハレを過ごす予定を立てていた。

 

 ○

 

 会場までの道を歩いていると、まばらながらも浴衣姿の人影をちょくちょく見かけた。カラコロと下駄を鳴らす音も耳に入る。少し気が早いのではないかと思うが、それだけ花火が待ち遠しいということだろう。

 そういえば、親に言わせれば幼少期の自分は浴衣を着るのが好きだったらしい。この時代では洋服で過ごすことの方が多いし、着るだけで特別感を味わえるし、洋服にはない清涼感も感じられることが気に入っていたのだろうか。

 

 そうして大型のゲームセンターへと通りかかる。この地域はあの姉妹の家の近所あたりだったか。ここでもあの子たちが出てくるのかと少し困りながらも歩く。

 

「今の衝撃で落ちないのは物理の法則に反してる! あと一回あれば……!」

 

「お兄ちゃん、もうやめとこ!」

 

 道中で聞き覚えのある声がした。普段の会話で物理の法則という語彙を使うのは、私の知っている中では一人しかいない。

 

 その方に近寄って、遠巻きながらに観察してみれば、やっぱり上杉くんとその妹のらいはちゃんだった。今は筐体で色々遊んでいるのか、遊興費に回せるお金は普段はなかったはずだが、妹の頼みかはたまた兄心か、彼女に楽しい思いをさせてあげたいという動機を考えた。

 以前彼が、妹の望みは全て叶えてやりたいと言っていたのを思い出した。それを聞いたこともまた、彼を尊敬している理由の一つだ。

 

 そんな彼らに付き添っている人物がいた。

 五月さんか、と直感が告げる。数分で声色と敬語口調からして間違いないとの確信を得た。あの二人は反りが合わない関係だが、今のところはらいはちゃんが潤滑油になっているから問題は起こりにくそうだと、そのまま通り過ぎることにした。

 

 ○

 

 書店でいくらか時間を潰した後、帰り道で再び彼らを見かけた。これからの動向が気になったので、離れて様子を見る。

 そこから数十秒して、今の自分がストーカーと遜色ないことをしていると気づき、このまま三人を見てもいいのかと悩み始めた頃、らいはちゃんの驚き声が聞こえた。

 

「お兄ちゃん、五月さんが四人いる」

 

「え?」

 

 彼女の視線の先には、他の姉妹たち四名がいた。全員が和の装束に身を包んでいる。この子たちも花火大会に行く気満々みたいだ。

 そのまま彼らと話を始めた。若干聞こえてくる会話内容からして、一緒に花火大会へ行こうと誘っているみたいだ。

 

 ここで、ようやく決心がついた。

 

 人間は社会的動物である。集団に所属することで安心を得、時には志となって大きな力を生み出せる。

 しかし集団の質は当然であるがそれを構成する人間による。ここで重要なのは、たった一つの悪しき素材が、全体を損なわせるという性質があることだ。

 

 どこかに所属しないというのは生物的にとりえない選択だ。でも、だからこそ、あの楽しく賑やかな雰囲気は、そのままにしているだけでいいと、十分だと思えた。そのためにも私は、すぐ別の場所に移らなければならないと歩を――

 

「あっ! そこにいるのは黒田さんじゃないですか!?」

 

 

 人間は歴史から何も学ばないことを歴史から学ぶというヘーゲルの言葉が頭に響いた。

 

 続いて西洋では歴史を矢と捉えるのに対し、東洋では歴史を輪と捉えている思想体系を思い出した。

 

「こんばんは! こんな所で会うなんて奇遇ですね!」

 

 動きにくい格好のはずなのに、四葉さんは腕を素早く振りながら、ものの数秒で私の元までたどり着き、挨拶をしていた。

 

「はい、こんばんは。まさかまた見つかっちゃうなんて」

 

 今の彼女は黄緑色の浴衣を着ていた。彼女の名前にふさわしく、植物のようにあふれる生命力を感じられた。

 

 消沈したまま話を聞いていると、遅れて上杉くんらもこっちにやってきた。

 

「黒田、お前も来てたのか」

 

「ああ上杉くん。ちょっと買い物して、その後花火見ようかと思っていたんだけど」

 

「意外だな。こういうのには興味なさそうだと思っていたが」

 

「あんたには言われたくないわ。私もこういうのは好きだよ?」

 

「侑弦さん! お久しぶりですね!」

 

「久しぶり。元気だった?」

 

「はい、私は元気ですよ!」

 

 らいはちゃんも話しかけてきたので、私は軽く膝を曲げる。

 この子とは一月ぶりか、様態が少し心配だったが、変わらないようで安心した。

 

「そっか、ああでも、ご飯、ちゃんと食べれてる? また食べたいなら作ってあげるから」

 

「ふふ、そのときはよろしくお願いしますね」

 

「学校は楽しい? どこか行き詰まっていることとかない?」

 

「大丈夫です、楽しいですよ!」

 

「お兄ちゃんの様子はどう? また無理とかしてたら止めるんだよ?」

 

「親戚かあんたは」

 

「あはは、フータロー君だけでなく妹ちゃんにもこうなんだね」

 

「うん、ユーゲンらしい」

 

 結局私も彼女らの輪に加わることになった。さっきまで自分がしていたことが流れたことに内心安堵する。

 

「ねえ黒田さん! 私たちと一緒に花火大会行きましょうよ!」

 

 四葉さんは例の笑顔とともにそう提案してきた。今の状況からしてそうなるのは自然な流れだが、受けるという選択をとるのは少し荷が重いように感じられた。

 

「いいよ私は、楽しそうなところを邪魔しちゃ悪いし」

 

 以前とは違い、私は自分の思いを率直に伝えることができた。二回目となって耐性ができたのかと思っていると、不意に肩を掴まれた。

 

「いや……お前も来い、つか、来てくれ」

 

 上杉くんは懇願するような声で言ってきた。ああそうか、多くの女子の中に男一人で放っておくのは計り知れない気苦労があるからか。少なくない視線を、今でも感じる。

 

 友人のことを考慮していない視野の狭さを反省し、大人しく引き受けることにした。

 

「やったー! 黒田さんも一緒なら楽しくなりそうです!」

 

「それはよかったな……。ただし! お前らは宿題を終わらせてからだ!」

 

「あれ? 宿題? 終わらせてなかったの?」

 

 五つ子たちを見ると、宿題というワードを聞いてからどこかぎこちない姿勢と明後日を見た目線をしている。

 

「そうだ、一旦帰すから手を貸してくれ」

 

 急に露呈した事実に呆れながら、上杉くんと私は彼女たちをマンションへと強制送還させることにした。

 

 その途中、折角帰るなら、ここで要件を済ませておこうと思い、二乃さんを呼んだ。この前のことが尾を引いているため、敵意の籠もった目で反応してくれた。

 私はバックに目をやることでダメージを抑え、厚めの封筒を取り出し、二乃さんに渡した。

 彼女は封筒を受け取ると不審そうに開け、中身を取り出した。さらに小難しそうな顔をして呟く。

 

「『ガボール・パッチ』……?」

 

「そう、それは見るだけで視力が回復するよ」

 

 ここだけ聞けば怪しい感じがしなくもないが、ガボール・パッチは当時、唯一科学的に効果が立証された模様である。是非二乃さんに読んでほしいと思い、さっき書店で買ってきた。

 

「なんでこれを、アタシに?」

 

「そりゃあ……」

 

 予想通り不思議そうに訪ねてきたので、事前に用意しておいた動機を出す。

 

「次からは上杉くんを三玖さんと間違えることのないようにと思って」

 

「余計なお世話よ!!」

 

 ○

 

 その後の私たちは宿題をもれなく完遂させた。

 

 なお、二乃さんは着いてすぐ、自室へ本をしまいに行った。投げ捨てるかと思ったらちゃんと受け取ってくれたあたり、やはり根は優しいのかもしれない。

 

 そうして私たちは今、屋台通りへと足を運んでいた。小麦粉が鉄板で焼かれる音が聞こえ、肉の香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。屋台に備え付けられた電球が道脇を暖色系の光で包み込み、普段静かなはずの夜道を賑やかとしていた。

 

 周りを見渡せば人ばっかりで少々うんざりしてくるが、負の感情を表に出すことはせっかく頑張ってくれた皆に悪いと、そっとしまっておくことにした。

 とりあえず主食のお好み焼き一つと所要のものをいくつか買ってきた私は、植木の周りにある手すりで座っている上杉くんの隣へ立つ。

 

「急に消えたと思ったら……相変わらずだな」

 

「そっちはまだお疲れ?」

 

「まあな、宿題教えたし……お前はよく平気でいられるな」

 

「こういう所は楽しいし。でもそれを言うならあの子たちでしょ。随分なはしゃぎ様だよ」

 

 割り箸で示した先には、いつにも増して騒がしい彼女たちの様子が見えた。

 

 私は、祭りが持つパワーが、ハレの日がどれだけ人に影響を与えるのかを知ることとなった。

 姉妹たちは勉強嫌いで、特に二乃さんとかはこちらの言うことを絶対に聞き届けてくれないと決めつけていたのだが、今日は真剣に宿題をやってくれたのだ。驚きしかなかった。

 

「こいつらにしては宿題も、すんなりやってたし、そこまでして花火が見たいかね……」

 

「何かあるんじゃない? 特別な思い出から生まれた、ルールみたいなものが」

 

 冠婚葬祭を始めとしたイベントは人の習慣を作りやすいのかと、私は考えた。

 

 スポーツの祭典にて、そこで見たプレーに感化され、自分もああなりたいとクラブに入り、練習に打ち込む少年や、交通事故で亡くした妻と子の葬儀を皮切りに、約束を果たす形でナンバーワンをとり続ける営業マンなどが、この世にいたりする。

 私だって毎年7月に行われる神社の縁日ではじゃがバターを食べると決めているし、新年を迎えた瞬間に決まった曲を流しているという決まりを持っている。

 

「なんですか。その、祭りにふさわしくない顔は」

 

 声がかかってきた方を振り返れば、赤を基調とした、不規則なストライプが刺繍されている浴衣を着た女子がアメリカンドッグを頬張っていた。

 

「あ、あんまり見ないで下さい……」

 

 その子は少し赤くして目を逸らした。

 ああ、この丁寧で落ち着いた言葉遣い、五月さんか。よく見ればトレードマークである星型のヘアピンを身につけているし。

 

「……誰だ?」

 

 隣からかかってきた声は、私を驚かせた。いくら他人に関心がないとはいえ、下には下がいるものなのか。

 

「え? わかんないの? 五月さんじゃない?」

 

「そうです! 五月です!」

 

「紛らわしい。ただでさえ顔が同じでややこしいんだから、髪型を変えるんじゃない」

 

「どんなヘアスタイルにしようと私の勝手でしょう!」

 

 彼女は怒りながら姉妹たちの方へ戻っていった。思わず「あーあ」とこぼす。この場合における望ましい行為はおそらく、変化に対して寛容な姿勢を見せてあげることなのだが、彼はそう考えるより早く先の言葉を口にしてしまったか。

 

「女の子が髪型変えたらとりあえず褒めなきゃ。もっと女子に興味持ちなよ~」

 

 次いで一花さんが入れ替わり的に注意に入った。この子なら自分の代わりにフォローできそうだと思ったので、ここは彼女に任せて私はまた別のところへ向かうことにした。

 

 ○

 

 少し歩いたら四葉さんに呼び止められた。彼女と同伴していたらいはちゃんも含め、しばらく三人で屋台を巡ることとなる。

 

 その途中、金魚すくいの屋台に立ち寄り、入店した彼女らの様子を見守った。やったらどうかと聞かれたが、あまり得意でないのを理由に断った。

 そうした私の胸の奥には、昔兄が金魚を一匹獲ってきた記憶がリリースされていた。

 多分、何かを喪って泣いた記憶は、多感なあの時が最初だったと思う。

 

「さあ、行きますよ!」

 

「頑張って下さい!」

 

「金魚すくいはポイの縁の方ですくえば、破れにくくなるよ」

 

 数分後。

 

 彼女が持つプラスチック製巾着の中には、ありったけの金魚たちが所狭しと詰められていた。色合いが黒々としていて、繁茂しきった藻のようである。

 

「うわーすごい! 四葉さん上手ですね!」

 

「いやー、らいはちゃんの応援や黒田さんのアドバイスがあったからこそですよ」

 

「いや、アドバイスは無くてもいけたんじゃないかな」

 

 むしろ、自分の余計な口添えのせいで屋台の人に損をさせてしまったことを詫びた。

 

 巾着は四葉さんかららいはちゃんの手へと渡る。朗らかな感謝の声が聞こえた。

 

「にしても、随分張り切っていたね」

 

「あはは、らいはちゃんを見てると、不思議とプレゼントしたくなっちゃいます」

 

「うん、わかる」

 

 その感想を抱くことは、私には否定できなかった。

 

 この子は人当たりがよい。衣食足りて礼節を知るという言葉があるが、彼女は足りずとも雅馴を失うことのない、鶴のように清らかな子だ。

 さらに私はこの子の経済的背景も知っている。感じが悪い上杉くんに対してあそこまで世話を焼けるのだから、感じの良く健気ならいはちゃんならなおさら面倒を見たくなる。

 

 そして四葉さんもまた、普段はあどけなさが目立つ分、誰かのために背伸びしている様を見ると、一種の温かみを感じられる。

 きっと彼女たちの様子を見れば、誰もが微笑ましい気持ちとなることだろう。

 

「……何か不安だ」

 

 だけれども、この時の私が出力したのは、そういうのとは真反対の感情だった。

 

「えっ?」

 

「あっ、いや、その」

 

 私は気恥ずかしさで口を手で押さえる。この子を前にすると、どうしてか本音が出てしまうようだ。それはいいことなのか、悪いことなのかはわからない。

 横目でちらと見ると、真っ直ぐな視線を向けてきていた。どういうことですかと口に言わずとも訴えている。こうなってしまえばもう手遅れだと、私は息を吐いてから、腹を括った。

 

「……いつしかあんたが、悪い奴に騙されないかと思っちゃって。今はらいはちゃんが相手だからいいけど」

 

「……黒田さん」

 

 ああ、言っても全然スッキリしない。羞恥心と恐れだけが言葉の副産物として残る。

 

「私のこと気にかけてくれてるんですか? お優しいんですね!」

 

 ……ああ、こうやってお礼を言ってくれることはわかっていたはずなのに、この前ちゃんと応えようと思ったのに、どうも気が休まらなかった。人はそう簡単に変わることはできないという現実を強く突きつけられる。

 

「ごめん、折角楽しくしてたのに、水を刺すような真似をしちゃって」

 

 こうやって彼女に暗い気持ちをさらけ出してしまうのは、これが最初ではないし、多分最後ではないだろう。あと何度これを繰り返すことになるのかと思うと辟易する。

 

「大丈夫です、それにわかっていますよ。そうならないために、黒田さんがこれから教えてくれるんですよね?」

 

「ええ? 私にそんなことできると思う?」

 

「できますよ! 黒田さんなんでも知ってますし!」

 

「何でもって、まあできなくはないか……でも、そういう私だってあんたを騙そうとしているかもよ?」

 

「えー? それはないと思いますよー。頭がいいだけでなく、優しいことも知っていますから。黒田さんが教えてくれるなら安心ですよ!」

 

「……そう」

 

 私はきまりが悪くなり、彼女の顔を見られなくなった。

 あの時友達だと言ってくれたとはいえ、どうして私のような人にもここまで信頼を寄せられるのか、甚だ疑問で仕方がない。

 

「あっ、あの」

 

 滅入っていると、下かららいはちゃんが呼びかけてきた。この子には楽しんでほしかったのに、疎外感を与えてしまい申し訳ない気持ちになった。

 

「あ、ごめんらいはちゃん。どうしたの?」

 

 彼女は少しためらいがちな声で話した。人混みを歩き回って疲れたからか、少し頬が紅潮している気がする。

 

「お二人って、仲良いんですね」

 

「あらそう? 仲良さそうに見えた?」

 

「はい! 侑弦さん、いっぱいしゃべっていましたし」

 

「あー、上杉くんにも言われたけど、やっぱり前の自分に比べたら、そうなるよね」

 

「へー、前の黒田さん、ってどんな人でしたか?」

 

「そうですね……」

 

 それから彼女は、今と昔の違いについて話してくれた。

 

 らいはちゃんが言うには、会ったばかりの頃の自分は、今とは比べものにならないほど近寄り難い雰囲気を醸し出しており、どことなく怖い印象を抱いていたらしい。

 この子の話を聞いていると、どうしてそんな私が上杉くんと友人関係を築くことができたのか不思議に思えてきた。

 

「でも何度か会っていくうちに、優しい人だということがわかりました。そして今は、温かくなったって印象を受けて、お兄ちゃんの頼れるお友達って実感が強くわいたんですよ」

 

 まあ、二年生になれば交流もある程度増えてきて、より開放的になれたと思っていたが。

 

「うん、それはまあ多分、この子の影響を受けたからだろうね」

 

「四葉さんの?」

 

「そ、実はうちら、クラスメイトなんだ」

 

「そうなんですよ。毎日勉強教えてもらってます」

 

「あー、なるほど! それなら納得ですね!」

 

 二人は学校での様子について話を弾ませていた。自分の生活を知り合いに聞かれるのは、身内に仕事を見られているようで少し複雑な気分となる。

 

 その話題が一段落ついた頃に、一瞬だけ私を見てから、四葉さんの方をじっと見て、口を開いた。

 

「何というか……お似合いですね!」

 

「そうだね。その浴衣似合ってて綺麗だってさ」

 

「ありがとうございます。らいはちゃんに褒めてもらえて嬉しいです!」

 

 周りを見れば人通りが一層多くなってきたので、私は皆と合流することを二人に勧めた。

 

 ○

 

 ようやく上杉くんと合流し、さっき起きた出来事を話し合っていた。さっき獲った金魚を見たときは、やはり引いていた。

 

「あと、これも買ってもらったんだ」

 

 そう言って彼女が見せたのは、家庭用の花火セットだった。手に持って点火するスタンダードなタイプの他に簡易的な打ち上げ式も入っている、ちょっと豪華な仕様だ。

 

「それ、今日一番いらないやつ!」

 

 予想通りのリアクションが返ってきた。流石にそれを買う際私も止めたのだが、「待ちきれない」という一声で強行に踏み切られた。

 

「それに侑弦さんからチョコバナナももらったよ、二本も!」

 

「お、そうか」

 

 小さめな返答をした後、どこか後ろめたそうな感じで私に話しかけた。

 

「なんか悪いな、食わせてもらって」

 

「この子は育ち盛りだから、ちゃんと栄養あるものを食べてもらわないとね」

 

 数ある食べ物の中でも、バナナは抜きん出ている。カロリーの割には栄養価が高く、ビタミンはもちろん、トリプトファンやポリフェノールなどの栄養素が豊富であり、果糖やショ糖、ブドウ糖など様々な糖質も含んでいるので、エネルギー補給にももってこいだ。

 

「あ、そうそう。ほれ、あんたにも」

 

「ん? それは?」

 

 私は包み紙を手に取り、串を一本取り出す。それは屋台の中では伝説とされる、祭りにおける究極の贅沢品、みんなの憧れ。

 

「牛ステーキ串」

 

「牛ステーキ串……!」

 

 その名前を聞いた彼は垂涎しそうになっていた。やはり彼にとって「ステーキ」は天上の食物であったのだろう。

 

「本当にいいのか……!?」

 

「いつも頑張っているから、これはその労い」

 

 自分用の一切れを包み紙に落とし、残りを上杉くんに譲る。

 

「何だか、お前からはいつももらってばかりだな」

 

「いいんだよ。上杉くんがらいはちゃんに幸せになってほしいように、私もあんたには幸せになってもらいたいから」

 

 この時の私の視線はステーキに集中しており、彼がどんな顔をしているのかは見ていなかった。もしかしたら可愛い一面を覗かせているかも、と密かに期待していたのはここだけの話である。

 

「そういやお前、そのお面は?」

 

「これ? 勉強のお礼としてもらった」

 

 私の側頭部にあるのは、白い、狐のお面である。所々赤い線で模様付けされている。

 

 なぜこれをチョイスしたのかは不明だが、親切を無下にしてはいけないと思い、身につけている。

 

「そろそろこれ、食べるか」

 

「ああ、いただく」

 

 私たちは会話を中断し、牛ステーキ串を賞味した。

 

「……これ冷めてるね」

 

「だが旨いぞ」

 

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