泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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英傑の手ほどき、ですっ!

 ――どういう状況なのだろうか、これは?

 

 高橋は、目の前に広がる現実を深く訝しんでいた。

 

「ふおぉぉぉ……!!」

 

 グラウンドから呼び戻されたフェアリィルナは、きらきらと目を輝かせている――無理もない。現行の『砂』戦線で、知らない人はいないほどの有名人を前にして、平静を保っていられる方が少数派だろう。

 高橋が今なお思い悩んでいることなど、露ほども察していなさそうだ。

 

「あ、あの、あのタルマエさんと、へ、併走……!? フェアリィ、もしかして夢でも見てるんですか……!?」

「ふふっ、夢じゃないよ~、ちゃんと現実だよ~」

 

 そんな風に燥ぐフェアリィに、にこにこと手を振るタルマエ。コミカルな絵面ではあるものの、高橋は微笑む余裕もない。苦悩と不可思議とに板挟みになって、浮ついた楽しみにすら手を伸ばせずにいるのだ。

 

 ――ホッコータルマエ。北海道は苫小牧の送り出した、名ウマ娘。

 現役三年目――今は年を跨いで四年目だが――にして、既に8つもの重賞での勝利を挙げている、『北の英傑』。

『砂浴び仙人』ワンダーアキュート、『昇竜八卦』コパノリッキーと共に、『砂の三大王』……と呼ばれてるとか呼ばれてないとか、とにかく誰の目にも疑いようのない傑物。

 自分たちとはまるで正反対の名選手が――自分の担当と、今から併走する。

 事前の準備よりも、何故? という疑問の方が勝ってしまっていた。

 

「――『時間は有限ですよ』、担当さん」

 

 が、タルマエの咎めるような声で我に返る。彼女は怒っているようには見えないが、彼女を丁寧に先導しようというほどの手心を見せているようにも見えなかった。

 

「この『黄金の時間』をモノにしてください。私は一向に構いません」

 

 やや大げさにも聞こえるその表現で、高橋は思い至る。

 そうだ――どれだけ不可解でも、不可思議でも、目の前の状況は待ってはくれない。

 どんな理由であれ、どんな真意があれ、彼女がこうして、練習に付き合ってくれるというのだ。こんな幸運、乗らない謂れはない。

 そうだ。父の手帳にも、書いてあったじゃないか。

 

 ――『一、掴めるチャンスは、何でも掴め!』

 

 ――なんでもいい。

 その朗らかな笑顔の裏に、どんなどす黒い考えがあったっていい。

 この絶好の機会、無駄にして、なるものか――!

 

「――おし、フェアリィ!」

「はいっ!」

 

 気を入れ直した高橋は、声高にフェアリィに呼びかける。彼女もまた同じくらいの熱量で返事をしたものなので、それがやや前のめりであったことに気付くのには少し遅れた。

 咳払いをして恥ずかしさを追いやり、フェアリィと向かい合う。

 

「ひとまずね……あなたは今、一線の子たちと比べて硬いフォームになってるの。そしてその一線級の子本人が、併走してくれるって言ってくれてる。こんな機会二度とない」

 

 だから、

 

「……可能な限りでいい。この子のフォームを、真似してみて」

「……ほぉ?」

 

 ――面白いことを言うじゃないか。

 と言わんばかりに、タルマエは不敵に笑っていた。高橋はその顔を認めると、冷汗を垂らしながらも、口元を緩めることで対抗する。

 

 もちろんそんなことは、言うは易しというやつだ。見様見真似で走りを再現出来たとしても、その力を発揮し切れるとも限らない。

 下手に真似したことで、望まぬ『クセ』がついてしまう可能性すらある。

 だがそんなリスクは承知の上――現状、何をするべきなのかも満足に掴み切れていないのだから――

 形振り構っていられない。とにかく、打てる手を打たなくては。

 

「どんな優れたモノも、最初は模倣から始まる」

 

 自分に言い聞かせるように、高橋は言う。

 

「トップクラスの人の真似なんて、簡単なことじゃないと思う。それでも、真似しようとすることで、色々気付きもあるはず」

 

 それが答えでなくともいい。

 そこに、確実に勝てる見込みがなくともいい。

 道筋だ。自分たちに今必要なのは、この暗い道を抜けるための、道しるべ――!

 

「なので――その。タルマエさんも、頼んでおいて申し訳ないけど、フェアリィに合わせた走りをお願い出来るかな。……最初から飛ばし過ぎるのは、ちょっと、アレだから」

「ふふっ、大丈夫ですよ。ちゃんと加減します」

 

 タルマエもまた、その考えに同意らしかった。心なしか、先ほどよりも楽しそうに見える。

 

「じゃ、始めましょう」

「はいっ! お願いしますっ!」

 

 二人がスタートラインに並ぶ。フェアリィはそわそわと落ち着きがないが、タルマエは事前の準備体操に余念がない。既に『差』が出来ちゃってるな、と高橋は複雑な気持ちになった。

 走りうんぬんよりもまず――この子には、レースにおける心構えから教え直さないといけないかもな、と彼女は考える。

 

「担当さん」

「あ、うん」

 

 ともあれ――タルマエの呼びかけを機に、高橋はストップウォッチを握る。

 

「それじゃ、行きます! よーい――」

 

 そして計測開始のボタンを押下するとともに。

 

「――はじめっ!」

 

 併走の開始を、高らかに宣言した。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 ――一目瞭然であった。

 高橋は、併走が始まって、ようやく彼女の感覚を理解出来ていた。

 

 ホッコータルマエとフェアリィルナとは、キャリア上の年数には、実はそこまでの開きはない。

 むしろ、お互いに隣近所である。

 しかし、年数に能力は必ずしも比例しない――その事実を、走りとして目の前に突き付けられていた。

 

 タルマエの走り方は、洗練されている。

 踏み込みの軽やかさ。体幹の強さ。踏み出しの力強さ――

 速度が緩めなことも相まって、その様子は、まるで砂の上で舞っているかのよう。

 

 一方でフェアリィのそれは、まるで正反対。

 踏み込み、身体運び、踏み出し――全てが、よく言えば荒々しい、悪く言えば雑。

 というか、その動きのぎこちなさが、先ほどよりもひどくなっているようにも見える――

 

「――っ、」

 

 その原因が自分にあることを、高橋は瞬時に理解していた。

 併走の直前、彼女に言った――出来る限りフォームを真似しろと。

 フェアリィはその言葉通り、律儀に、真面目に、タルマエのフォームを真似ようと試行錯誤しているのが分かる。

 でも――でも、と、高橋はもどかしい気持ちになった。

 

 そうじゃない。

 そうなんだけど――そうじゃない、と。

 

 ただ、意図を伝えようとしても、大声じゃ届かないような距離。かといって今から、メガホンなんぞを持ってくるような余裕もない。一周回るまで待つことも、もはや手遅れなタイミングだ。でもあの子たちは――今は、そこまでの速度で走っていない。

 

 ならば――それならば――!

 

「――っ!」

 

 高橋は、走り出す。

 全力疾走することで、なんとかその二人に追いつくことが出来た。

 タルマエがそれに気付き、関心を向けたのを感じる。

 

「――フェアリィ!」

 

 高橋は、その上で大声を張り上げていた。

 喘鳴じみた音を混ぜながら、

 

「そうじゃない、そうじゃなくって!!」

 

 必死に、フェアリィへと思いを伝える。

 

「ただ見様見真似でするんじゃなくて! 力の入り具合、筋肉の動き、手足の先や、身体の運び方! そういうのを、よく見て、『同期』して!」

「……同期……」

「難しいと思うけどっ! やってみてっ! 盗める技術をっ、盗んでっ――!!」

 

 ウマ娘にとってのジョギングは、一般人にとっての疾走だ。

 トレーナーとして働く者たちも、これでウマ娘と付き合っていけるよう、最低限度の身体能力は備えているものだ。……それでも、一流のアスリートではない彼女らが、それにいつまでも追い縋れるわけもない。

 

「――はぁっ、ひぃっ……」

 

 息切れした担当は、やがて膝をつき、立ち止まる。それを視界から外して、タルマエは微笑んでいた。

 ――悪くないですね、と。

 

 見たままで動くのと、模倣するのとは違う。

『再現』することには、相応の能力を必要とされる。

 

 目標を取りこぼしなく観測する観察力に始まり。

 得た情報を処理する分析力。

 それらを適切に出力する身体能力。

 結果を振り返り、再現に近付ける修正能力――

 どれかひとつでも未熟であれば、満足な結果は得られないだろう。

 

「……」

 

 ちらとタルマエは、フェアリィの方を見る。

 トレーナーの言葉を理解出来たかどうかは定かではないが、少なくとも先ほどよりかは、その動きは軽くなっているように見える。

 普通、言われてすぐに修正出来るわけでもないはずだが、こうして不格好でも対応出来ているというのは――なるほど。

 素養はあるかもしれない、と多少なりの感嘆を覚える。

 ――だがそれは、現在の速度における話だ。

 

 彼女らの走りは、まだジョギング程度。本腰からは程遠い強度だ。

 もしここから、さらに速度を引き上げたなら――

 あなたは、着いてこられる? ――それを試すかのように。

 

 タルマエは、少し走る速度を上げた。

 

「!」

 

 フェアリィもまた、それに驚いたような様子を見せながらも、彼女に追い縋っていく。真似たフォームもまだそこまで崩れていない。――大したものだね、と胸のうちの称賛は厚くなる。

 

「――、」

 

 ただそれもまだ、タルマエにとってはウォームアップ程度だ。

 速度は更に、もう一段階上がる。

 

 更に。

 更に。

 更に――

 

 気付けば二人の速度は、普通のレースに近しいものにまで達していた。

 

 勢いに乗ったタルマエは、なおも背中にへばりつくフェアリィの存在に、段々と楽しくなってくる。

 最初――コパノリッキーに連れられて、選抜レースを観た時。所詮はこんなものか、と失望混じりに思っていた。

 面白そうな子ではあるけれど、きっと他の数多のウマ娘と同様に、埋もれて消えてしまうのだろう、と考えてすらいた。

 

 偶然。ほんの偶然だった。

 グラウンドの使用スケジュールを見た時、目に入った彼女らの名前。

 興味本位で見に来て、併走を申し出て――今やこんな事態に。

 想定外も想定外だった。まさかここまで、食らいついてくるなんて。

 

 まさかここまで。

 楽しませて、くれるだなんて――!!

 

「――はは」

 

 彼女の中のギアが――さらにもう一段階上がる。

 

「あははははっ!!」

 

 哄笑が上がり、瞳は闘争の炎を宿している。彼女のその様子は、もはや本番のレースと遜色ないほどにまでなっていた。

 そして――そんな、本腰を入れ始めた彼女の走りに。フェアリィもまた、必死の思いで着いて行こうとしているように見えたが――

 

「――ッ」

 

 仮にも、OP戦で散々な結果に終わってしまった彼女が。

 それに、いつまでも着いて行けるはずもなく。

 

 ガッ

 

 ……という、嫌な擬音が、誰もの耳に飛び込んでいた。

 

「あ」

「あっ……」

「あ……!!」

 

 三人分の、唖然とした声が響く。

 フェアリィルナは――気持ちこそ着いていけていたが――

 身体は、限界を迎えていた。

 

 彼女は。

 脚を、縺れさせてしまっていた。

 

「あ、」

 

 体勢を立て直そうともするも、速度が速度だ。

 そんな器用な真似を、安易に出来るはずもなく――

 

「あ、あ、あ――」

 

 身体は倒れ――

 

「あぁぁぁぁ~~っ!!」

 

 コミカルなまでの叫びと共に。

 ごろごろと、コース上を転がっていた。

 ごんっ、どかっ、ぐしゃっ……などという、物騒な擬音が聞こえるかのよう。

 現場を目撃した――してしまったタルマエも、思わずその場に急停止する。

 

 しまった!! ――と血の気が引き、倒れ伏したフェアリィの元に、慌てて駆け寄った。

 

「ふぇ――フェアリィちゃん!! 大丈夫!?」

「ぶへ……だ、だいじょうぶれすぅ……」

 

 ……身体を起こして話すフェアリィだが、その鼻からは痛々しい赤色が筋を引いている。やっちまったやっちまったやっちまった――と、タルマエはせめてハンカチを取り出そうとするも、そういう時に限ってポケットは空っぽ。

 かといって服で拭うわけにもいかず、タルマエはあわあわと右往左往するしかない。

 

「フェアリィ!」

 

 高橋の見守る場所の近くで転倒したのは、不幸中の幸いだった。

 駆け寄ってきた彼女がティッシュを渡すと、フェアリィはずびずびと鼻血を拭い始める。相当な速度で転倒したにも関わらず、顕著な怪我はそれだけのように見えた――が。単に運が良かったからにすぎない。

 

「――っ、」

 

 タルマエは、勢いよく、深々と頭を下げていた。

 

「ごめんなさいっ!! つい速度を上げ過ぎちゃって……!!」

「あ、い、いやいやいや! 見たとこ、そこまで大きなけがじゃなさそうだし……!!」

 

 一方の高橋は、謝罪こそ正当ではあるものの、糾弾するのも違うと考えていた。両手をわたわたと振りながら、そう言うに留まる――

 ……現状は、それよりも。

 

「だ、大丈夫? 頭とか打ってない……?」

「ふぁい、大丈夫れす……これくらいはよくやるので。ご心配には及びません! にししっ」

「……」

 

 ダートコースのほぼ一周。

 距離にすれば1,000mほど。

 最初から全力というわけではなく、速度は緩やかに上がっていった感じだった。

 

 それでも最終的には、速度は普通のレースといって差し支えないほどになり、それどころか、更に上がる兆しさえ見られていた。

 ……にも関わらず、彼女は――タルマエは、全く息が上がっていないように見える。疲労するどころか、事故に遭ったフェアリィを気遣う余裕すら見せている。

 まだまだ序の口。それが、見てくれが何よりも強く主張していた。

 

 話には聞いていたものの、実際目の当たりにすると想像以上だった――これが。

 これが、『北の英傑』――ホッコータルマエか……

 

「それで……どうでしたか、担当さん」

 

 フェアリィが平気であることに、気が落ち着いたのだろう。タルマエの関心は、高橋へと向けられる。

 

「何か、お役に立ちそうな『きっかけ』は見つかりましたか?」

「んと……まぁ、とりあえずは、かな」

 

 自信を持って肯定すると嘘になる。

 しかし、目を見張る結果を出していたのは、フェアリィも同じだった。転倒はしてしまったものの――あのホッコータルマエに、あそこまで追随出来た事実は収穫だろう。

 彼女の持つ潜在能力の一端を見られたような気がした。状況はそう悲観するほどでもないかもしれない――そんな風にすら思っていた。

 

 ……尤も、それを建設的に利用する方法を編み出すのは、まだこれからの話だが。

 

「一回だけだと、収穫も限られたものになっちゃうね……あ、いや! これからも付き合ってねとか、そういうわけじゃなくてね!?」

「あはは……まぁ、そんな慌てなくていいですよ」

 

 がめついことを言ってしまった、と後悔する高橋だが、タルマエはそこまで深刻には思っていない。むしろ彼女としては、なかなかいい時間を過ごさせてもらった、というのが本心だった。

 

「都合が着けばお付き合いできると思いますよ。フェアリィちゃんが着いていければ、ですけれど」

「お――おぉっ!? いいんですかっ!? 一回のみならず、二度も三度も!?」

「もちろん。都合が着けば、だけどね。こっちにもこっちの試合があるから……」

「……」

「……? なんですか?」

「あ――うん」

 

 高橋は、その意見にしばし呆然とする。彼女からそう言ってもらえるなら、願ったり叶ったりだが、ただの幸運と処理するには違和感が強かった。

 併走の直前、圧し鎮めたはずの疑問が再び顔を出す。

 

「……どうして」

 

 そこまでしてくれるの?

 それは無垢なまでに純粋な疑問だった。受けたタルマエは、きょとんと眼を丸くしつつ、首を傾げる。

 

「……同輩を助けることが、そんなに変ですか?」

「いや……変じゃないけど」

「まぁ、昨日の敵が今日の友となるように、今日の友が明日の敵となることもあります」

 

 タルマエは語りつつ踵を返し、グラウンドの方へと数歩歩く。背中を向けたまま、彼女は続ける。

 

「でもだからって……見るからに苦しんでいる『仲間』を見て、これ幸いと差し伸べられる手を引っ込めるほど、私も人間終わってないですよ」

 

 人間じゃないですけどね、とタルマエは振り返り直し、笑った。

 

「……実力不足は天運とは違います。埋められる隙間を埋めていって――最後に純粋に運だけが残った時。勝負は最高のモノになるんですよ」

 

 言うなればそれは――

 彼女にとっての、『最高』のためだった。

 

「えぇ。そのためのお手伝いなら、喜んでいたしますよ」

 

 それでたとえ――

 自分が負けることになったとしても。

 

「……って。この言い方は、ちょっと傲慢すぎますかね……」

 

 締めとばかりに、困ったように笑うタルマエ。高橋は、その一連の主張に、舌を巻き、背筋の伸びる思いだった。

 要は実力を見ただけで、彼女の全てを分かった気になっていた。まだまだ底知れない『所以』が、そこにはあった。

 

 ――そうか。強者というのは、実力だけじゃない。

 思考の土俵(ステージ)が、そもそも違うんだ。

 

 片や、目の前の勝負に躍起になっている駆け出し。

 片や、競技を生業と見て、より良いモノへと昇華しようとする者。

 なるほど――そりゃ、見えている景色にも、実力にも、開きが出来て当然だ。

 

「……よく理解出来たよ」

 

 やれやれ、自分がこのレベルに到達するのは、果たしていつになるか。

 嘆くように息を吐きながら、ふと高橋は、またひとつ別の疑問に思い至る。

 

「でも大丈夫なの?」

「はい?」

「タルマエさんの一存で決めて。トレーナーさんに相談とかは……」

「あぁ。たぶんあの人なら――」

 

 ――と。

 投げかけた疑問に、タルマエが答えようとした時だった。

 

「――?」

 

 途端、高橋を、大きな影が覆う。

 太陽が雲に隠れたんだろうか、と呑気に考えながら、振り返った先――

 

「――え」

 

 高橋は。

 呆然と声を零していた。

 何故ならそこには――何かが。

 何者かが、太陽を背負い、立っていたからである。

 

「……」

 

 高橋は、言葉を失っていた。……無理もない。

 その存在は、2mはあろうかというずんぐりとした巨体。逆光で薄暗いその影は、パッと見ただけだとクマか何かと勘違いしてしまいそうである。

 それでもそれが、辛うじて人間だと担当が判ぜられたのは、それが黒いスーツを着用していたからに他ならない。

 

 どんな人物であれ、ただスーツを着ただけの巨体であれば、怖気付く理由にはならないであろう。しかしその人物の顔は……その容貌は。

 サングラスに、痛々しい傷の刻まれたスキンヘッドというもので、およそいわゆるカタギには見えないそれだった。

 

「……ぁぇ……」

 

 高橋の口端から、首を絞められたアヒルのような、不可思議な声が漏れる。

 

「あ」

 

 それを上書きするように、声を上げたのはホッコータルマエ。

 

「トレーナーさん」

 

 何のこともないように――

 そう言った彼女に、高橋は、ぎょっと目をひん剥いていた。

 

 トレーナーさん。

 ……トレーナーさん……!?

 

 こ、これが――!? と、口には出さずとも、顔にはそれがしっかりと浮き出ていた。

 ただ、彼――恐らくは女性ではない、そう信じたい――の表情に変化はなく、ただいかついサングラスがこちらに向けられているだけだ。怒っているようには見えないが、気にしていないようにも見えない。

 ……要は反応が分からない。それが高橋の心を、更なる混迷の渦の中へと叩き込んでいく。

 

「そうですか、もうそんな時間なんですね」

「……」

 

 にも関わらず、彼の傍へと走り寄ったタルマエはやり取りする。

 

「もう~、弱いものいじめだなんて。人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。ちょっとウォームアップしてただけです」

「……」

「大丈夫です、トレーニングに支障はありませんから」

「…………」

 

 目の前で繰り広げられる事態に、高橋は絶句から抜け出せない。彼は……タルマエのトレーナーは、見ての通り、一言も発していない。

 だというのに、タルマエは何でもない事のように、ごく普通に話をしている。……テレパシーでも使ってんのか? そんな吹っ飛んだ考えが、高橋の脳裏を、ガタガタと音を立てながら通り過ぎていく。

 

「――あ、ごめんなさい。話し込んでしまって」

 

 とそこで、タルマエは改めて高橋に目を向けた。すっと手が彼女のトレーナーへと、紹介するように差し向けられる。

 

「こちら、私の担当さんです。怖いのは見た目だけなので、気にしないでくださいね」

「え。こ、怖いだなんて、そんな……!!」

「わぁー、まるで刑事ドラマに出てくるヤ○ザさんですね! 古傷もいいアジ出してます! もしかしてそういう役者をしてらっしゃったんですか!? フェアリィにも是非ご教示願いたいですねっ!」

 

 ちょっとは黙っててくれねーかなコイツと思いながら、高橋は恐々とする。何せ初対面にして表情も満足に汲み取れない男性、下手を踏んだら何をされるか、わかったものでは――

 

「――!」

 

 その時。スーツの上着の懐に、彼の右手が隠れる。

 正しく刑事ドラマの一シーンが高橋の脳裏に過ぎり、その先の展開を、勝手に目の前に作りだしてしまっていた。

 

 ……まさか。

 まさか拳銃(チャカ)でも取り出すつもりか――!?

 

 いや、現代の日本で、それはあまりに非現実的であろう。

 

 じゃあ、もしかして短刀(ドス)――!?

 ――担当なだけに!? ……彼女の頭の中は混乱状態であり、つまらないギャグすら、所かまわず飛び交い始めた。

 

「!」

 

 そのような不穏な推測とは裏腹に――

 再び取り出された彼の手には、一枚のカードと思しきもの。

 図体に比して、見てくれ以上に小さく見えるそれを、彼は両手で摘まみ直すと。

 ……恭しく礼をしながら、高橋に差し出していた。

 

「……あ、え……?」

 

 え。なんだこれ――という疑問は、カードの表面を見た瞬間に消えていた。そこには、パソコンで入力したと思しき文字列――

『トレセン学園中央校 公認トレーナー』という文言に、彼の名前、そして連絡先が並んでいた。

 そう、社交の一歩、自己紹介として、大人であれば必携であろう品。

 ――名刺であった。

 

「……あ! わ、わざわざどうも……!!」

 

 それを理解した高橋も、慌てて名刺を取り出して渡す。混乱していたために見落としていたが、デザインもまた秀逸なものであった。白い下地に、散りばめられた猫と思しき愛らしいキャラクター。

 

 ……デザインかわいいな。高橋は、見た目とのあまりのギャップに、風邪を引く錯覚すら覚えていた。

 名前は――『西浦』さん、でいいのかな。

 

「トレーナーさんも、どうぞよろしくとのことです」

「え?」

 

 とそこで、タルマエの声。呆けた声を出した高橋に、彼女は一息置いて言葉を附した。

 

「併走ですよ。『お友だち』のためなら是非に、と」

「え……え!? い、いいんですか!?」

「……」

 

 そんなこと言ってたか? ってかいつの間に話してたんだ!? ――疑問は尽きないが、思いもよらぬ展開に、自覚無しに目を輝かせる高橋。

 対する彼――西浦はというと、ふいっと視線を逸らしていた。突然、かつ予想外の反応に、高橋はやや困惑する。

 

「あぁ、ごめんなさい」

 

 それを見たタルマエが、再び補足した。

 

「トレーナーさん、こう見えて恥ずかしがりで……異性の前だと、特に奥手になっちゃうんですよ」

「……」

 

 ……かわいい。高橋の印象は、刑事ドラマのヤ○ザから、童謡に登場する優しいクマさんへと早くもシフトチェンジしていた。

 

「ともかく、希望する場合は早めに連絡をくださいね。すり合わせもしないといけないので」

「う……うん! そのつもり! あの、あ、ありがとうございますっ! ご迷惑をおかけしましてっ!」

「――よくわかんないですけど、ありがとうございますですっ!」

 

 やり取りをボーっと見つめているだけだったフェアリィルナも、ようやく事態のすさまじさを理解したのか、高橋に倣って頭を下げていた。この子たちもこの子たちで、楽しい子たちだな――と、タルマエは愉快に思う。

 

「それじゃ、そろそろ」

「あ、うん!」

 

 さて、そろそろ時間も時間。何なら利用時間は少し超過してしまっている。高橋はフェアリィに目を向けると、大きくガッツポーズしていた。

 

「よし、フェアリィ、早速今の練習のフィードバック、するよ!」

「はいですっ! お手柔らかにお願いしますっ!」

「頑張ってくださいね~」

 

 タルマエに見送られながら、二人はドドドドド……とその場から走り去る。その背中が見えなくなると、機を掴んだかのように、一陣の風が到来した。

 

『ざあ』――と、タルマエの三つ編みが、優雅に踊る。

 

「……」

「……」

「……」

「……」

「……戯れなんかじゃないです。私はいつだって、真剣ですよ?」

 

 タルマエは笑う。そこに、先ほどまでのにこやかな雰囲気はない。そこに宿っているのは――艶やかな妖しさ。

 

「……」

「えぇ。確かに、私に返ってくるかもしれませんね。でもトレーナーさん……」

 

 ――越えるべき壁は。

 高い方が、燃えるでしょう?

 

「あぁ――そういえば。2月にOP戦がありましたね」

 

 総武ステークスでしたか。彼女は言う。吹き付ける風に、周囲のありとあらゆるが、不気味なざわめきを立てる。

 

「あの子が挑戦するとしたら、次もOP戦ですよね。フェブラリーステークスの次……時期的にも、『ドバイ』への、良いたたき台になるんじゃないですか」

 

 ねぇ、トレーナーさん。

 そんなざわめきを司るように。彼女は隣に立つ担当へ言った。

 

 

 

「――少し、

 遊びません?」

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