実のところ、レースの『格付け』によって、集客が大きく左右されることはあまりない。
地方競レースであれば元より、今や安定した人気を誇る『中央』であれば、新バ戦にしろ、オープン戦にしろ、会場には多くの人が訪れることとなる。
中山競レース場、第10レース。オープン戦、総武ステークス――
出走を間近に控える会場が混雑していること自体に、特段の不思議はない。具合だけを見るならば、むしろ例年通りと言っていいものだろう。
だが往来する人々の顔は、奇異や驚嘆、期待や興奮の入り混じる混沌を呈している。
大抵はもっと、純粋で前向きな感情で溢れるであろう彼らの様相が、そのように異様に染まっているのは――
ひとえに、今回のレースの、出走者の内訳にあった。
「大騒ぎっす」
生徒会室にて、ウインバリアシオンは、携帯電話を見つめながら呟いていた。
「いつもの
「……」
言葉の向けられた先には、鬣のように雄々しい長髪、凛とした後ろ姿。
オルフェーヴルは、何も言わない。腕を組んで、窓から外の景色を見つめるばかりだ。穏やかな天気が、どこか不気味な静けさにも感じられる。
「……どう見ます? これ……」
「……」
オルフェーヴルは、名実ともに疑いようのない名ウマ娘ではあるものの、超能力者というわけではない。
人の心を推察することは出来ても、完全に読み取ることなど出来ようはずがない。
況して、それがあまり関わりのない生徒となれば――なおのこと。
「……、」
ただ彼女も、頭の回転は速い。
伊達に生徒会長の看板を背負ってはいない。
頭の中に閃いては消えていく考えを、一つ一つ吟味した結果として――ある一つの可能性に思い至った。
振り返り、その鋭い目がシオンを捉える。
「……一覧は」
「へ」
「出走者の一覧は」
「あ……はい! 今……!」
シオンは慌てて携帯電話を操作する。ものの数秒で目的のものを見つけ出した彼女は、携帯電話をオルフェーヴルに渡した。
画面を見つめ、数度スワイプした彼女は――
その切れ長の眉を緩く顰めた。
「……やはりな」
「は……? やはり……?」
「フェアリィルナだ」
「え……あ、ホントだ……」
シオンはその事実を認識するも、話の繫がりに困惑する。
フェアリィルナ。直近に話題に上がらない日などないほど、自分たちの間ではすっかり有名人と化した彼女が、しかしこの事態にどんな関連があるのか。すぐにはわからなかった。
「彼奴は……つい先月に、『英傑』と併走をしたらしいな」
「あ……まぁ……それはあたしも、風の噂には聞きましたけど……」
人伝に聞いた話だった。あのホッコータルマエが、フェアリィルナの練習に付き合っていたと。不思議な取り合わせだよね――とその時は、同級生と呑気に話していたものだが。
だからといって、それがどういう――と、彼女はそこまで考え、
「――……」
ようやく、オルフェーヴルと同じ結論に至っていた。
「……え。ち、ちょっと待ってくださいよ……?」
ただそれが信じ難く、抱いていた困惑が更に深まる。
競争はオープン戦だ。だがそれが嘗めてかかっていい理由にはならない。過去には試合をトレーニングとして利用したウマ娘もいたという話だが、そんなものは例外中の例外だ。
お遊びでかかっていいものではないし、散歩に行く気持ちで臨むものでもない。
「まさか――」
だというのに。
まさか彼女は――
「『ただ一緒に走りたいだけ』とか、言わないっすよね……?」
「……シオン」
オルフェーヴルは、身体をシオンの方へと向ける。窓から差し込む光が、雄大に彼女の姿を照らす。
「――モニターを用意せよ」
「……え?」
「テレビ、と言った方がいいか?」
「あ、いや。別に、伝わってますけど……」
モニターもテレビもよく知っている。自分はタイムスリップした古代人ではない――そうではなく。
元々備え付けられていないテレビを用意しろ、というのは――それは、つまり。
「い……今からっすか……?」
未使用のテレビを借り。
それを運搬、設置し。
問題なく映るか確認し。
……問題があった場合、更なる代替品を取り寄せる。
その全ての工程を――今すぐこなせと下知しているのだ。彼女は。
それも、件のレースが開始されるまでの、おおよそ一時間前後しかない時間で。
「許可から配線から何まで……1からやらなきゃいけないんすけど……?」
「……」
「それに確か、ここのコンセントって、本棚の裏とかに隠れてましたよね。まず本棚動かさなきゃいけないわけで……」
「……」
「……え。冗談っすよね?」
「シオン」
とにかくそれが困難で――途轍もなく面倒である理由を列挙するシオン、それによってオルフェーヴルの気が変わることを望んだが。
あの『暴君』とまで呼ばれた人物が、そんなものに動じるはずもない。
「――王の勅命である。疾く従え」
「あぁぁぁ――もぉっ! わかりましたよっ!!」
――こうなったオルフェーヴルは、梃子でも動かない。*1
観念したシオンは、絶叫を置き土産に、生徒会室から飛び出す。
それら騒がしい音を背景に、オルフェーヴルは再び外を見つめた。
相も変わらず、天候は穏やかで、静謐であった。
……憂鬱であった。
高橋は、とてつもなく憂鬱であった。
「ふおぉぉぉ……まさかタルマエさんと走れるだなんて……!! フェアリィ、感激至極ですよっ!!」
オーケイわかったから黙れよと高橋が目頭を押さえているのは、控室の中。
浅くジャンプを繰り返すフェアリィルナは、宛ら遊園地にでも遊びに来た子供だが、なぜそのような気持ちになれるのか、ほとほと理解に苦しむ。
緊張していない、という意味ではいいかもしれないが、これは試合であり、正式な競技。勝ちに行かなくてはならない勝負であり、記念受験的に流すなんて、あってはならない……
……そう。
あっては、ならなかったのだ。本来なら、こんなことは。
総武ステークス。二月の暮れ、もしくは三月頭の中山競レース場にて施行されるオープン戦。
フェアリィの
練習の成果を確認するための、いい舞台になると思っていた。たとえ勝てずとも、今後に役立てられるはずだと考えていた――だからあまり気張りすぎなくていい。そんな風にフェアリィと話し合っていたのだ。
だというのに――蓋を開けてみれば、この有様。
当人からすれば、格下となるはずの競争に――まさか、あのホッコータルマエが参戦して来るだなんて。
……競争ウマ娘がどのグレードの競争に出走するかは、そこまで厳密に決められているわけではない。
条件さえ満たせれば、格上のグレードに挑戦出来るように*2、格上の選手が、格下のグレードに挑戦すること自体は禁止されているわけではない。
ただ――ファンの不興を買いやすいし、協会からもいい顔はされない。
実際過去には、そのような
……選手の出走の是非を管理しているのは、協会側。
タルマエの出走を認めたのも、協会ということになる。
そこに潜む真意は推測するしかないが――
それにあたる様々なメリットを天秤にかけた結果だったのだろう。おそらく、二度はない。
格上の相手とやり合える、またとない機会と取るか。
せっかくのチャンスを潰された、運のない日と取るか。
その内実を伺い知ることは出来ないが。少なくとも、高橋の心情は後者に近かった。
「どうしましょうか……!! 先にジュルスケ抑えとくべきですよね!! いや、もはやゲートイン前に無理矢理お願いしましょうか……!! レース後じゃタイミングを逃しちゃうかも……!」
「……」
――自分もそのように浮かれられたらどれだけ良かったか。
高橋は、浮足立つフェアリィが羨ましくなる。
ともかく、何でもいい。出走は間近に迫っているのだ。いつも通り、最後のミーティングに臨もうとして――
止まっていた。
「……フェアリィ?」
目の前の彼女が、何かを言った気がする。
そう、レース前という状況とは、あまりに乖離しているように感じられる発言をした気がしたからだ。
「はい?」
「いや、はい? じゃなくて……」
きょとんと首を傾げるフェアリィルナに、高橋は続けていた。
「……タイミングって何?」
無理矢理お願いって――何?
その言い方じゃ、まるで。
ホッコータルマエに、何かを頼もうとしているようなのだが――
「あ――はい! 実はですね!」
一連の問いかけに、フェアリィはそれまでの調子を崩さずに答えた。
「――写真撮ってもらおうかなって思ってて!」
「……は?」
忙しない口から飛び出した答えに、高橋は呆然とする。
悪戯が成功したみたいにフェアリィは笑うが、そんな情動に着いて行けるはずもない。
「ずぅっと夢だったんです! タルマエさんと写真撮るの!」
ただそんなことには構わず、フェアリィは続ける。
「『暴君』様とは撮れたので、『英傑』様と撮れたら、次はリッキーさんに……! そしたら行く行くは、フェアリィのアルバムは有名人でいっぱいになって――!」
「……」
「……あれ? トレーナーさん? どうしたんです?」
「いや……」
はぁ、と特大のため息を吐いてしまった。
再度確認しておくと、今はレースの出走前。それも『強敵』を目前に控えた大一番だ。
誰もが憂鬱になってもおかしくない状況でコイツは……この子は……
なんで、そんな
――もしかしたら、それも彼女の『仮面』なのかも。高橋は一瞬そう思ったが、いくら見てもフェアリィの表情に邪気はない。
裏がありそうにも見えない――うむ。これは素だ。すると自然、再び、ため息が口を衝いて出てきていた。
「……、」
しかしまぁ。
と、思い直しもする。
大一番ではあるが、そう――意識し過ぎて、憂鬱になってしまうこともない。
そうだ。相手を考えれば、どうせまず勝つことの出来ない試合。ならいっそ負ける前提で考えて……
――『兼ねてより考えていたこと』を実行に移すのも、悪くはないか……
……しかしその前に。
「……フェアリィ」
高橋は、ひとつやっておきたいことがあった。名を呼ぶと、フェアリィルナは元気よく返事をする。
「はい! なんでしょう!」
「一発殴って」
「はい! わかり――はぇッ!?」
――おぉ、この子もそういう反応するんだな。
高橋は、冷静にそんな感想を抱いていた。てっきり、何に対しても、二つ返事でオーケーするものとばかり思っていた。
「お――お気は確かですかトレーナーさん!? なしていきなりそんなことを……!?」
「いや、うん。変な意味じゃなくてね……」
どこからどう見ても変な意味だろ、と自答しつつ、高橋は続けた。
「気合いを入れ直そうと思って」
「気合い? ですか?」
うん、と高橋は頷く。
「あたし……ちょっと弱気になってた。タルマエさんが相手だって思うと、尻込みしちゃって……本当はあたしが先導しなくちゃいけないのに」
生徒に先導されるところだった。
教え子に導かれるところだった。
これは、いいこととは言えない。ただでさえレースで忙しい彼女らに――そこまでの負担は、強いられない。
「ちょっとそれはよくないかなって。ここまで来たら……もう行くしかないから。これからの戒めも兼ねて、一度だけ痛い目を、ね」
「痛い目、ですか……」
「あ、でも強くやり過ぎると後遺症残るかな……下手したらそのまま気絶したり……」
「うーん……」
変なところが細かく気になり、言ってから不安になり始める高橋。一方でフェアリィは指を顎に添えて何事かを考える素振り。
時間は刻一刻と迫る。こんなことで時間を獲るべきじゃなかったか、と高橋の内心には反省。いつかみたいに、また自分で叩いた方が建設的か――と彼女は結論しようとした。
「――そうだ!」
その時だった。フェアリィが、声を上げていたのは。
「トレーナーさん! ゲン担ぎしましょう!」
「え? ゲン担ぎ……?」
予想だにしない角度からの提案に、高橋はしばし呆然とする。グッと、フェアリィは自信満々に拳を握っていた。
「クレインさんと、大事な試合の前とかにやってたやつです! それをすれば、不安なんてすぐ吹っ飛びますよ!」
「……いいの? そういうの共有して」
「大丈夫ですよ! 秘密にしてるわけでもないですし!」
クレイン――ソードクレインか、話には聞いている。彼女と共に転校してきた『同級生』。
無二の親友との『おまじない』みたいなものを、おいそれと自分と共有することに、高橋は若干の罪悪感を覚えたが――フェアリィには、どうやらお構いなしのようだった。
「それじゃ、行きますよー! まず上から下にタッチですっ!」
「えっ、あ……!」
なし崩し的に始まったそれに、高橋はなんとか着いて行く。まず、自分の手のひらを、下から迫るフェアリィの手のひらに打ち付ける。
「次は逆ですっ!」
言われるがまま、手を裏返し、今度は自身が下から上へ、フェアリィが上から下へ。
「最後に、ハイタッチですっ!」
「っ!」
――締めに、頭と同じくらいの高さで、軽快なハイタッチの音が鳴った。
「にししっ」
太陽のように笑うフェアリィを見て、高橋は――不思議と、胸の内の重苦しさが、霧散したのを感じた。
急速に視界が開けたような感覚。
降り続いていた雨が止んだような感覚。
暗闇が、光によって切り裂かれたような感覚――
「おっけーですっ! これで、トレーナーさんの中の最弱は吸い取りましたっ! もうあなたの中には、あなたの持つ『最強』しかありませんっ!」
「……フェアリィ」
「ご安心くださいっ! 鮮やかに負けてまいりますのでっ!」
「いや、それじゃ困るんだけど……」
――結局、元気付けられちゃったか。
高橋は、もはや不甲斐なさを通り越し、諦観のごとく息を吐く。ともあれまぁ――立ち直れたのだ。これ以上は、もう、何も言うまい。
ならば自分がすべきは……あと、やれることは。彼女のために、手を尽くすことだけだ。
「……ね、フェアリィ」
だから、高橋は彼女の前にしゃがみ込む。無邪気なまでに透き通った瞳が、高橋の姿を映す。それを見つめながら、頭の中を今一度整理して――
「……、」
言った。
「よく聞いて。……」
擬音に起こすならば、ぐでー、だろうか。
「……、……」
果たして、ウインバリアシオンはやり遂げていた。豪勢とは言えないが、ものの数十分足らずでテレビ一台を立派に設えたのだから称賛に値するであろう。
雑然と書類を退けた執務机が設置場所なのはご愛嬌だ。さしものオルフェーヴルも、それには何も言わなかった。ただ、当のウインバリアシオンは……本来なら来客が使用するはずのソファと机のセットに突っ伏している。あたしは疲労しています、と言わんばかりの様子に、響くのは嘆くような吐息の音。
「――呆れた。副会長ともあろうお方が、こんなことも出来ずにどうします?」
ジェンティルドンナは、シオンの様子を、テレビ画面が見える角度から見つめている。それに反応したシオンは、ゆらりと上体を起こしながら応じた。
「いやいやいや……これに関しちゃ貴女がおかしいでしょどう考えても……!」
納得いかなげなその声の矛先は、乱雑に動かされた本棚。例の、コンセントの存在を隠していた本棚だ。
テレビ使用の許可も、運搬も、奇跡的にすんなりとはいったものの。最後に立ちはだかったのは無情な力仕事。
力自慢の多いウマ娘でも、自身の肩幅以上の本棚を一人で動かす、というのはなかなか骨の折れる作業であり……
当然のごとく静観していたオルフェーヴルのこともあり、ジェンティルドンナがたまたま生徒会室を訪れなかったなら、今頃シオンはどうなっていたろうか。『退きなさい』。それが当時のジェンティルドンナが言い放った華麗な一言。
その次の瞬間には、彼女は、たった一人で、かつ片手で、本棚を動かしてみせていた。……身体の中に異生物を飼っている、とかいうあの頓珍漢な都市伝説も、あながち嘘じゃないのかもな、などとシオンは内心感じた。
「……まぁ、助かったっすよ。貴女がいなかったら、こんなにすんなりいかなかったでしょうし」
「あら。私への褒美がそんな言葉だけですか? もっと献上してもよろしくてよ?」
「いやいやいや。横柄が過ぎません? さすがに……」
「本当なら、そもそも手を貸さないところでしてよ」
「それもそれで当たりが強過ぎやしませんかねぇ!?」
「――寂滅せよ」
ヒートアップしかけたやり取りを、オルフェーヴルが尊大に止める。二人が弾かれたように向けた視線の先。彼女は一心にテレビ画面を見つめていた。
「始まるぞ」
関係者席に落ち着いた高橋は、広大なターフを眼下に見つめる。
客席を包むざわめきはいつも通りに感じられるが、耳を欹てれば、違う感情を孕んでいることに気が付けるだろう。
――どういう試合になるのかな。
――周りの子からしたら、ある意味チャンスだろ。
――大金星あげちゃったりしてね。
――どうせ『英傑』が勝つに決まってる。
噂話の中心地、ホッコータルマエは、当然だが勝負服ではない。
必然的に本気ではないことになるが、それでも他のウマ娘が追い縋るには、実力に開きがあり過ぎるだろう。
勝てないに決まっている。その通りだろうし、その通りでなければいけないとも思う。
「――トレーナーさーん!」
「!」
……でも。
でもそれでも。
万に一つでも、その予想を覆せる可能性があるのなら。きっとそれは。
誰もが張る意識の網の、ごく僅かな隙を縫ってくる。
――フェアリィルナは。
いつもと何ら変わらない様子で、高橋へと大きく手を振っていた。
「……」
根拠も出所も不明ながら、それでも相変わらず恐怖とは無縁なその姿に、高橋は優しげな微笑みを湛えていた。
選手のゲートインが終わる。
嵐の接近を告げる静寂が、一時会場全体を包み込み――
「――!」
それまでと同じように、戦いは始まった。
選手を最も殺してきたものは何か?
もちろん生命という意味ではない。
『勝負時』のために、選手たちは時間を金床に、練習を砥石に、能力という名の爪を研ぐ。
極限まで研ぎ澄まされた武器は、正しく振るわれれば、あらゆる障害を切り伏せられるだろう――だが時に、それが振るわれたにも関わらず、それまで斬って捨てていたはずのモノでさえ、満足に打ち倒せない『なまくら』に変わってしまうこともある。
彼らが死力を尽くして用意した武具ですら安易に殺してしまうもの。一体それは何か?
答えは単純。
緊張だ。
「……」
ダート右回り、1,800m――
分類はマイル。2分前後で決着がつく距離。
策謀を巡らすには短すぎるし、
力でねじ伏せるには長すぎる。
他の距離よりも、臨機応変な対応力、そして総合力を求められる分野――それだけに、軽率な行動は厳禁だ。
にも関わらず、スタート直後。鮮やかに飛び出したタルマエを追う形で、他の出走者が二人、追い縋っていく。
この状況に怖気づかず、果敢にも立ち向かうことを選んだ勇士たち。
その勇気は褒めて称えられるべきものだが、
――あー、あー、あー……
ちらと状況を認識したタルマエは、冷静に分析していた。
いくらなんでも、飛び出し過ぎだと。
先行する出走者を逃さずに着いて行く。その戦術自体は有り触れたものだ。
着いて行く相手へプレッシャーを与えるため。チャンスを確実に掴むため――ただその手を打つためには、相応の実力を持っていることが必須となる。
セオリーは想定内の事態に対してのみ有効であるのだ。
格上への『軽率な』常套手段は、自分の首を絞めることになり兼ねる。
追走する二人の行動が、頭からおかしいと否定も出来ない。
ただ見るからにその様子は前のめりだ。いわゆる『掛かり』と呼ばれるような状態。
況して総武ステークスのコースは、高低差の激しさゆえにスタミナがモノを言いやすい。これでは早晩『垂れて』しまうことだろう。
強敵への敵愾心から、無用な緊張を呼び起こしてしまったか。
しかし、挑戦して限界を知ることは、成長には必要なことだ。
敗戦を喫したとしても、それは彼女らにとっての掛け替えのない糧になるはず。
熱気はそこだけに留まらない。
全ての注目が、自分に集まっていることを感じる。
後続の選手たちも、一人残らず自分をつけ狙っている――
――はは。気を抜いたら『死ぬ』なこりゃ。
タルマエは、予想とは違った感触に、高揚が鳥肌として湧き立つのを感じた。
その一方で――
「……」
……『彼女』の気配は、バ群に埋もれて感じられない。
やはり最後方付近を走っているのだろうか。
担当も彼女自身も、ここまでやれることをやってきた、などと語っていたものの、実戦に転用出来るほどモノに出来たわけではなかったということか。
あの日彼女に出会い、面白い子だと思ったのは事実だ。何か――言葉や理屈では説明出来ないが、『何か』を感じたことも。
だからこそこうして、公式の場になったらどうなるか、という好奇心のために、わざわざ無理のあるローテーションを組んでまで、彼女と同じレースに顔を出したのだ。
――……しかし結局、それらは気のせいだったということか。
あの子が悪いわけじゃない。
何にしろ、選んだのは自分なのだ。責任転嫁をする気なんてない。
でも――もしも『そこ』があなたの限界だというのならば。
同じように、ここまで追いつくのを待つ気なんてない。
「――……来いよここまで」
ぼそり、と呟く声が、果たしてそこまで届くかどうか。
ともかく彼女は、走り続ける。
次世代に繋がり得る同胞と共に、前へと、進み続ける。
ウインバリアシオンは、レースの経過を深刻そうに見守っている。
脳裏に思い描くのは、今や去年のものとなった選抜レースの模様だ。
目の前の競争が始まって、もうじき30秒ほどが経つ。
それを見て、抱いた感想はひとつだった。
――同じだ。
そう。
あの時と――同じ。
出だしも序盤も普通、特段悪いわけではない。
ただ普通は普通、やがては周囲に抜かされてしまう。
本来ならそこから、前へと繰り上がるために知恵や手段を振り絞るものだが――
なぜか彼女は、そこからなかなか前へと抜け出せないのである。
バ群に阻まれ、思うように前へと出られず、そのままレースを終えてしまうことはよくある。
実力者ほどマークが厳しくなり、そういった展開を強いられやすい。
しかしフェアリィルナは、特別マークされているわけではない。
むしろ経歴故か否か――マークの対象に選定されてすらいなさそうである。
だというのに彼女は――何故か前へと出られず、そのままレースが終わってしまうのである。
それだけ能力がない、と切り捨てることは出来るが。
シオンには、そう簡単に結論することが出来なかった。
彼女のその様子は、レースの模様は、何か――そうとは片付けがたいというか。
その走りは――それとは違う気がするのだ。
……言葉に起こそうとしても、如何にも表現し難い。
出さないようにしているようにも見えるし。
出し切れていないようにも見える。
やもすれば、出し方が分からないようにも。
出そうという気にそもそもなっていないようにも思える。
奇妙な状態だった。
それらは全て、シオンの感覚の話でしかないが――
それは、浮足立ちながらも、地に足付いているみたいな。
情熱的ながら、覚めているみたいな。
……勝とうとしながらも。
負けようともしているみたいな。
「……」
――何なんすか、これ。
シオンは、ぐるぐると気持ちの悪い感覚に侵されていた。
今まで何人ものウマ娘と出会ってきたが、こんな子を見るのは初めてだ。
同居する相反した感覚が、人型の実体を伴ってそこを駆けているかのよう。
――不気味。
そんな単語が、最もしっくりきた。
「……話になりませんわね」
さなかで――
ジェンティルドンナは、吐き捨てるように言った。
「果敢に頑張っているようではありますけれど。こんな状態では、巻き返すことも……況してや1着を千切るなど、到底無理でしょう」
彼女は非情ではない。
限りなく現実的なだけだ。
厳然たる結果だけが、彼女にとっての事実足り得る。
「……会長さん」
やがてその冷え切った言葉の矛先は、雄大な鬣へと向けられた。
「正しいのですか? ……あなたの眼は」
「……」
オルフェーヴルは、何も言わない。
ただ腕を組み、ほとんど不動のまま、テレビ画面を見つめ続ける。
「――やっぱり、タルマエの一人勝ちか……」
高橋の近くで、誰かがそう呟いた。
「少しでも食らいつければって思ってたけど、やっぱり無理があったか……」
「仕方ないだろ。実力の開きはどうにもならねーんだから」
それにまた別の誰かが呼応し。
「結局何がしたかったんだろうね。あの子。オープンで一人でぶっちぎっても、自分が気持ちいだけでしょ」
「今度ドバイに飛ぶっていうから、気合い入れるための一戦だったのかもね。まぁ、本人のみぞ知るだろうけど」
また別の場所で、別の声が上がっていた。
周囲はすっかり諦観のムード。誰もが次の競争や、今後のプランについて考え始める。
もはや、目の前で繰り広げられる戦いからは、興味の水を向ける気もない。
期待の風船が急速に萎んでいく中で――
「……」
それでも高橋は、俯いて、現実を諦めてはいなかった。
視線の落ちた先、足元を見つめながら、レース開始前の会話を思い出す。……
『……いい? フェアリィ。よく聞いて』
『あなたはたぶん、レース中、色んな事をたくさん考えると思う』
『でももし、考えても、答えが出てこないようなら……』
『――その時は――……』
「……」
膝の上に握った拳に。
籠めた力が、自然と強くなっていた。
その。
刹那だった。
『――!!』
「!」
ざわ、と周囲がざわめきだす。
それに弾かれて、高橋は勢いよく顔を上げ、ターフ上を見つめて――
そして。
「……、」
そこに広がった光景に。
思わず、口角を、緩く上げていた。
レースの展開は、ほぼホッコータルマエの想定するような形になっていた。
出走者たちは自分を標的に見据え、一心に走り続けていたものの――
終盤に差し掛かった今や、見るからに、いかに現在の順位を保つかに思考をシフトしているのが分かる。
勇猛にも追走していた二人も、いつの間にかすっかり後方に下がってしまっていた。
現時点で、レースはもはや自分の独走状態。
目の前を阻む壁も、前進を拒む障害も、もはやない。最後の急峻を越えた今でさえ、スタミナにも、気持ちにも、脚にも、まだ余裕がある。ギアは上がり切っていないものの――それも計算のうちだ。
――負ける要素がない。油断を極力排することを標榜していても、そのように考えてしまうのは当然の流れだった。
「……、」
もはやタルマエは振り返らない。
自分がこうして、『格下』の競争に顔を出すことは、今後無いことだろう。
……理由はかなり自分勝手なものだったが。
『こうなって』しまっては、それももうそれほど重視することじゃない。……きっと自分の『審美眼』が『衰えてしまった』のだろう。
自分は先に行く。
更に上を目指していく。――私はそこで待っている。
だから、4コーナーの入り際――彼女は。
じゃあね、瑞々しい新星たち――
また『縁』があったら、会いましょう――と。
勝負を決めるための、スパートに入った。
「――ッ!?」
その時だった。
背筋を、何かに指でなぞられたような気がしたのは。
その感覚に、タルマエは覚えがあった。それは例えば、残されている時間がない状況で、やるべきことが残っていることを思い出した時。
あるいは、決してやってはならないことを、勢いに任せてやってしまった時。
あるいは、不測の言動で、怒らせてはならない相手を怒らせてしまった時。
あるいは、あるいは――……
自分の身に、何らかの危機が迫った時。
「――、」
スローモーションになった世界の中。
感覚に導かれ、本能のままに、タルマエは視線を背後にやっていた。
そして、そこに目の当たりにした光景に、目を見開く。
忙しそうに揺れる、黒っぽい鹿毛のポニーテール。
フェアリィルナが。
そこにいた。
「……」
――は?
タルマエは、刹那の思考停止に陥る。
――は……?
理解し難い現実を前に、頭の中が真っ白になる。
それでも、否定出来ない事実を、瞬間的に認識し――
――は――!?
空っぽになった頭の中を、疑問と驚愕が満たしていた。
否――彼女とて、それ自体を認められないわけではない。
『格下』の選手を相手に、『格上』が追いついたなんて話はよくあることだ。
それ自体を否定したいわけじゃない――彼女が信じ難かったのは。
それを果たしていたのが――あの、自分を追走していた選手ではなく。
彼女らに次ぐ順位を走っていた選手でも――なく。
早々にバ群に呑まれ、気配すらも消えていたはずの――『彼女』であったことだ。
――なんで。
なんでオマエが、
そこにいる――!?
なぜ、いつから、どうやって――疑問は尽きないが、それを解消している暇などない。
どういうわけか追い縋ってきた彼女の勢いは、衰えているようには見えない。その様子は、今にも自分を抜き去らんばかりのそれだ。
――やばい。それを本能で認識し、タルマエは慌ててギアを上げ始める。
しかしギアというのは、そう簡単に上げられるものではない。急激に引き上げることは、思わぬ故障を招くことだってある。
優秀な彼女であるがために――この一瞬のうちに作られた状況に対してでさえ、順当な道をなぞろうとしていた――それが故に。
追い付いたフェアリィルナとの距離はどんどん縮まる、縮まる――
――嘘。
4コーナーに入り、その姿は目と鼻の先へ。
――嘘、嘘、嘘――……
終端に近付いて、やがては並び――
――嘘――!!
――……そして。
――追い、
抜かれる――!?
コーナーが終わった時には。
ほんの僅かではあるが、フェアリィルナが先行していた。
最終直線、
その上で、先行した選手に置いてきぼりを食っていないのは、ひとえに彼女の積み重ねてきた努力の賜物だ。
だがそれでも、追い抜くには速度が足りない。パワーが足りない。胸の内をじわりと侵す薄ら寒い感覚に、彼女の眼はフェアリィルナの表情へと向けられる。
――一体どんな顔をしているの。
これが彼女の計算通りだったのか、偶然の産物だったのか。
それはわからないが。きっと相応の表情をしているはずだと。
笑っているのか、驚いているのか。それとも――嘲笑っているのか。そこにある感情を、せめてもの疑問の答えへの足掛かりに、知ろうとして――
「――……」
彼女は。
再びの驚愕に晒されていた。
自分を見ている、とばかり思っていた、フェアリィルナの眼は――その瞳は――顔は――
――嘘。
――コイツ、
見てない――……!?
そう。
彼女を。
見ていなかった。
『――!?』
レースが終了すると、普通は歓声が上がる。
熱い勝負を繰り広げた少女たちに対する、称賛と激励、そして感謝に満たされるものだ。
しかしことその時においては、その性質は違っていた。
ざわざわと、喜びとも、盛り上がりとも異なる異質な反応――
どよめきが、
会場を、満たしていた。
『こ――こ、これは……!』
目の前にした『結果』に、実況者すらも困惑の海に突き落とされる。
『これは――大変なことが! 大変なことが起きました!!』
ただ、役目を負うものの意地と矜持で、その海を泳ぎながら、辛うじてそれを伝えた。
『第██回総武ステークス――前代未聞の激戦を制したのは、3番――!』
『フェアリィルナ!』
『3番、
フェアリィルナです――……!!』