選手のあるべき姿とは何か。
そんな命題を、タルマエはよく自問する。
それは主に、勝つべき場面で負けてしまい、意気消沈した選手を目にした時。乱心し、普段からは想像もつかない振る舞いをしていた時。
目撃するたびにタルマエは反面教師とし、自分はこうならないようにしなくてはな、と肝に銘じていたものだった。
胸の内に広がる、苦い感覚。
疑問と名付けるにはあまりに後ろめたい、もやもやと行き場のない感情。
そうか、これが『その』感じか――と思ったタルマエは、自身が目にした光景を想起しながら、深呼吸を何度か繰り返した。
立ち込めていた霧が晴れるように、徐々に感情の整理がついていく。
余計な情報が消え、立ち去り、最後にただ変えようのない現実だけが残った。
――負けた。
自分は、負けたのだ。
絶対に勝てる、勝てたはずのレースで。
……負けてしまったのだ、と。
「……、」
それに色々と理由を着けることは出来る。
説明することも出来る。
だがそれらは、積極的に口にしなくともいいものだし――する必要のないものでもある。
適切でない場でそうすることは、つまりはそれは説明ではなく――
……言い訳。そう呼ぶのだ。
だから、彼女は一旦思考を切る。
この異様な空気に包まれた場の中で、自分がまずすべきこと。
目の当たりにした現実を分析し、反省することではなく――
それを成した者に、実感させること。
「……」
フェアリィルナは、未だ呆然と立ち尽くしている。
自分が何を成したのか、全く理解していなさそうだ。
それに苦笑いしながら、タルマエは歩み寄る。
「フェアリィちゃん」
声を掛けると、彼女はゆっくりと振り返っていた。
丸めた瞳に、はっきりと自分の姿が映り込んでいる。
「……やられたね。さすがの私も、この展開は予想外だったよ」
自虐的に言葉を紡ぐ。それは嘘偽りない本心。全く想定していなかった事態。
「でも予想外でも、あなたが『それ』を成したのは事実」
しかし結果は変わらない。事実は曲がらない――それが偶然であろうと。
たまたまであろうと。
起きたことが、今更覆ることはない。
……着順確定。ターフビジョンに刻まれた言葉が、全てだった。
「……いいレースだったよ」
だから、手を差し出していた。
「おめでとう」
自分の言葉が、いい目覚ましになったろうか。
それまで、ただ透き通るばかりだった彼女の瞳に、ようやく生気が戻ったような気がする。
ぱぁ、と明るく表情を緩めた彼女は――差し出された手を。
「――はいっ!!」
力強く、握っていた。
その力を確かに感じてから、タルマエは、颯爽とターフから去っていく。
未だざわざわと、目の前に突き付けられた結果を分析して止まない、観衆の声の波濤を掻き分けて。
地下バ道へ入り。
誰もいない、静謐な空間の中。
しばし歩いて、歩いて、歩いて……
「……」
立ち止まっていた。
前側で腕を垂れて。手を組んで。
俯いた頬が、急速に赤らんでいく。
下唇を軽く噛んだ彼女は――ぷるぷると小刻みに肩を震わせていた。
……だが別に、泣いているわけではない。
立ち止まり、直前のレースの模様と結果を改めて想起した彼女は――
人目がないのを確かめて。……
「……~~……」
――は。
――恥ずかしいっ……!!
……そう。恥ずかしがっていた。
顔を手で覆う。それは神にすら、無様な自分の姿を見てほしくないが故だ。自分は――この試合。なんだかんだで、余裕で1着を千切るつもりでいた。健闘した相手に、先達として奮闘を讃える腹積もりでいたのだ。
なのに……なのに結果は、この有様。
惜しかったとはいえ……
よもや、このような敗戦を喫してしまうだなんて。
こんな感覚は、まだ駆け出しの頃。今のトレーナーに、たまたま『ロコドル活動』の反省会を目撃された時以来だった。嗚呼――
本当に。
本当に、恥ずかしいっ……!!
「……ぁ」
そんな風に、一人、羞恥心に悶えていたところ。
のっそりと、ひとつの人影が現れる。
見上げるほどの巨躯。
「……トレーナーさん」
西浦は、強面をタルマエに注いでいた。
サングラスの奥の瞳が、どんな感情に染まっているのかは見て取れない。
ただタルマエは、それがどうであろうが、既にどんな対応をするかは決めており――
「……」
彼女は、帽子を取る。
いかにも申し訳なさそうに耳を垂れ、視線を下げ、しばし、間を開けると。
「――ごめんなさいっ!」
深々と、頭を下げていた。
「私……油断していました……」
すぐさま上げ直すも、視線は上がり切らないまま。
視界には、彼の首から下しか映っていない。
「勝てるって思いこんでました。負けるわけないって驕ってました……まさか……まさか、こんなことになるだなんて……」
抑え込んでいた『言い訳』が、つらつらと流れ出てくる。それでもなお、羞恥は発散し切れなかった。
「……こんなんじゃ、『地元』にも、顔向け出来ません……」
そして。
そして何より――トレーナーの経歴にも、泥を塗ってしまったのだ。
湧き上がり続ける恥ずかしさに、情けなさ。それらは全て――彼女が背負っているものの重みを物語っていた。
「……ごめんなさい」
本当に――ごめんなさい。
彼女は、ただただ、目の前の『相棒』へと、謝り倒すしかなかった。
「……」
西浦は何も言わない。相変わらず、難しそうに口を結んでいる。
バ道の外の喧騒が、ようやく『正常な』ざわめきに戻り始め、次のレースの案内がほんのりと聞こえる。
「……、」
刹那――西浦が動く。
彼は、タルマエの元へとゆっくりと歩み寄りつつ、そのがっしりとした片腕を上げる。
「!」
それを見たタルマエは、きゅっと身体を縮こまらせ、身構えていた。
――『罰』を受ける。
きっとこれから走るであろう、自分の頭部への『何か』を想像して。
硬く目を閉じ、到来する『結果』へと備えた。
西浦の手は、彼女の頭部へと位置し、そのまま掌を下に下降する――
――ぽんっ
「っ……?」
果たして。
彼女の頭頂部を襲っていたのは、予期していた衝撃ではなかった。
さらさらと整えられた彼女の髪が、西浦の手の動きに合わせて滑らかに動く。
彼は。
タルマエの頭を、優しく撫でていた。
「……と、」
トレーナーさん?
呆然と声を漏らす彼女に、西浦は上着のポケットを弄る。
そうして携帯電話を取り出すと、画面を素早く叩いていた。
『――気にしないで タルマエちゃん!』
響くのは、溌溂とした、少女の機械音声。
『今回はさすがに 『イレギュラー』過ぎたのだ!』
「……」
タルマエは、その『話し方』には動じない。
これでも、付き添って4年。今更それに、特別な関心を寄せる意味はない。
だから、彼女が考えたのは――その発言の内容だった。
「……やはり」
一転して、神妙な顔つきになって、彼女は言った。
「……あなたにも、『そう』映りましたか」
「……」
コミカルに浮つきかけた空気が、引き締まる。
周囲の喧騒が、遥か遠くへと追いやられる。
タルマエは再び、脳裏に『あの光景』を思い描き。
西浦のその感想と併せて、『それ』がいかに『異様な』ものだったかを、再認識していた。
「――タルマエさーん!!」
そこに、また元気のいい声が騒がしく入り込む。
広がっていたはずの真剣な雰囲気は、たちどころに押しのけられていた。
目まぐるしい空気の変化に苦笑いしつつも、タルマエは驚愕には晒されない。
それが誰によるものなのかを、よくわかっていたからである。
「よかった、まだいてくれましたっ……!」
フェアリィルナは、タルマエの元に辿り着くなり、膝に手を突き、息を整える。
本当に自分はこの子に負けたのか、と、改めて悔しがるタルマエの気持ちもいざ知らず、フェアリィは顔を上げた。
「あの、今日のレース、お疲れ様でしたっ! 色々フェアリィも、その、学びがあった試合だと思います!」
「……そう。だったら嬉しいよ」
「はい! そ、それはもう! えと。で、それで、ですね。その……」
「?」
フェアリィは、返事をすると、何やらもじもじと言い淀む。これまでの行動からは乖離しているようなその素振りに、タルマエは小首を傾げるが、
「――あ、あの! タルマエさん!」
顔を上げた彼女は、憧れの先輩にでも告白するかのように言っていた。
「そ、その、ですね……」
「?」
「し、」
「し?」
「……っ、」
し。
「写真……撮って、くれませんか……?」
「……」
――一体何を言われるのか。
正直軽く身構えていたタルマエだった。
宣戦布告か、何かの要求か――どっちにしても、聞いてから対応を決めようと考えていたのだが。
なされたのは……そんな、可愛らしいお願い。
……写真。
ロコドル――ローカルアイドルとしても活動している彼女が、その概念を知らないはずもない。
ただ、予想だにしない角度からのその申し出に、一時きょとんと眼を丸くする。
積み立てた身構えががらがらと崩れ落ちていた――なんだ。
そんなことか、と。
「フェアリィ!」
そこにもう一人、足音を響かせて現れる人物。
高橋は、三人が向かい合っているのを見て、何かただならぬ空気を覚えていた。
軽快なまでの足取りが、その空気に阻まれたように重くなる。
「……え。なになに。どうしたのこれ……」
「いえ。大丈夫ですよ」
にこり、とタルマエは笑う。それよりも、対応してほしいことが先にあった。
「……担当さん。電話を」
「え?」
「電話を貸してあげてください。……私と写真を撮りたいらしいので」
「……へ?」
しかし空気の乱高下に、高橋は惑わされる。向けられた視線の先、フェアリィは如何にも浮足立っている様子だ。それで全てを察することは出来なかったが――少なくとも、それがタルマエの当てずっぽうでないことは汲み取れていた。
「――う、うん。わかった」
そそくさとフェアリィの元に近寄り、自分の携帯電話を渡す。せかせかとお礼を述べたフェアリィは、手早くカメラを起動すると、タルマエの近くに、おずおず近付いた。
「じ、じゃあ、いきますよっ……」
その様子は、かつて『暴君』と無理矢理に写真を撮った人物と、同一には見えなかった。『本当の』憧れを目にしてしまうと、どうしても緊張してしまうのか。
ともあれ願い通り、偉大な先輩とのツーショットを決めようとするが。
「ん、ちょっと待って」
そこを押しとどめたのは、タルマエを支える意地の一柱。
そっとフェアリィの手に手を添えた彼女は、微妙に角度を調整し、ポージングも微細に変える。
「……この構図の方がいいと思うよ」
「おぉ――おぉ! 確かに! こっちのがいいですね!」
「ほら、二人も! 早く入ってください!」
「え、あ――えっ」
まさか呼ばれると思っていなかった高橋は、わたわたと視線を泳がせるが、西浦は手慣れた風にタルマエの背後に控える。
状況も意図も把握し切れていないが、彼女らを待たせるわけにもいかない――と、彼女も西浦の隣に移動し、
「――よし。じゃ、行きますよ――」
タルマエの合図で、携帯電話の『シャッター』が切られた。
――かしゃんっ
「――ふおぉぉぉぉっ!!」
確かに撮影出来た写真に、フェアリィはわかりやすく興奮する。高橋は混乱しつつも、ちらと見えた画像に、なるほど確かにこれはいい構図かもしれない、と感じた。
「た、タルマエさんとの、タルマエさんとのチェキッ……フェアリィ、感激ですっ!! ありがとうございますっ!! 家宝にさせていただきますっ!!」
「家宝はやり過ぎだと思うけど……」
苦笑いするタルマエを傍目に、フェアリィは騒がしく携帯電話を高橋へと返す。
「トレーナーさん! 後で! 後でちゃんと、データ送ってくださいね!!」
「う……うん。大丈夫。わかってるよ」
「約束ですよ! 独り占めなんてダメですからね! それではお先にーっ!!」
「あ、ちょっと!?」
そして――いつものように騒がしく言葉を並べ立てたかと思うと。嵐のごとく立ち去ってしまっていた。
「……」
取り残された高橋は、嘆息するしかない。
勝利の余韻も、その要因の分析も。こりゃ明日以降になりそうだな――と肩を落としながら、改めてタルマエたちの方へと向き直った。
既に彼女の振る舞いに慣れ切ったのか、いかにも落ち着いている風な見てくれ。
「……えと。今日はありがとうございました」
気を取り直して、高橋はお礼を述べる。
「その……色々ありますけど。担当が『あれ』ですんで」
ただ、それもほどほどに。放っておいたら、何をするかわからないのがフェアリィルナだ。
それじゃあ――と、自分もまた、そこから立ち去ろうとした。
「――ちょっと待ってください」
――が、タルマエは、それを止めていた。
既に翻る動きを始めていた高橋は、その引き留めに滑稽な体勢になる。こけそうになるのを踏み止まり、視線をタルマエへと飛ばした。
彼女は、小さく手招きする。
用件があるなら、言葉で言うべきでは? そんな当然の疑問も許さなそうな雰囲気だったため、高橋は仕方なく従い、近付く。
タルマエは、ずい、と顔を寄せると、言った。
「――あの子に何を?」
「……え?」
「先のレース。明らかに、以前の併走とは様子が違っていました」
思い浮かべた二つの映像が、まるで合致しない。その違和感の正体を、タルマエは貪欲に解き明かそうとしていた。
「練習の賜物……と結論することは出来ますが、それにしても、あれは異様に過ぎます」
その出所があるとすれば、彼女にとっては、ひとつしかない。
「……わかっていますか? あの子――最終直線。順位を捲った後、私のことを『見ていなかった』んですよ。一切……」
何かがある。確信を持ったように、言葉を矢継ぎ早に連ねる。
「あんなこと、『普通』では有り得ない」
何かを仕組んでいなければ有り得ない。
何かが起こっていなければ起こり得ない。
一体そこに何があるのか。
一体、どんな手を使ったのか。
「……あの子に」
――何をしたのですか?
真意を探りたくて、突き付けたその鋭利な言葉に。
「……」
晒された高橋は、息を呑む。
夢や目標のために、後輩にすら、その所為を探す姿勢。
解答を求める気勢。
なるほど、これが彼女が強者たるゆえんか――と、妙に納得する。
成長するためには、貪欲でなくてはならない。
上下関係だとか、屈辱だとか、そんな感情は雑音でしかない。
先へ進みたいなら、そのために必要なことを。そんななりふり構わなさこそが、強さを支えているのだろう。
裏付けの取れた感覚に、高橋は――そう。納得こそすれど。
「……、」
しかし、その先の答えには。
窮してしまっていた。
「……?」
それを不審に思ったタルマエは、小首を傾げて言う。
「どうしたのです?」
「あ――いや、えっと……その……」
穏やかに詰め寄る彼女に、高橋は申し訳なく感じてしまっていた。
天井知らずな向上心。前のめりな姿勢。
それを持つことはいいことだが、そこには相応の『対価』がなくてはならない。
そして高橋は直感していた――あぁ。きっと自分の持つ答えは。
その『対価』には。
なり得ないと。
「……」
それでも、無言で押し通せそうな空気ではない。
体のいい嘘を作れるような、頭の回転の速さもない。
実直なまでに誠実で、愚直なほどに直向きな彼女には――
もはや、取れる方法はひとつだけ。
……ただ本当のことを。
真実を、口にするしかなかった。
「……と、」
「と?」
「……」
先を急かすタルマエに、高橋は、観念して続けた。……
「と……
特別なことは、
何も……」
「……はぁ?」
タルマエの眉が、緩く顰められる。
当然だ――その答えが、自分の想定と、あまりに違っていたのだから。
フェアリィルナは、ホッコータルマエを打ち負かした。その事実に揺らぎはない。
ただそれだって、簡単な話ではない――それこそ、相応の対価がなくてはならない。
だというのに、その内実が、蓋を開けてみれば――何もしていない? そんなわけがない!
「……あの。ふざけないでくれません?」
隠し事をしようとしても無駄だ。
そういう気概で、タルマエは、いよいよ圧し潰すように詰め寄る。
さすがの高橋も、その勢いにはたじたじになり、後退ってしまう。
「確かに戦術を隠すことは重要です。ですがつく『嘘』は選ぶべきですよ。そんなもんで隠せるとでも――」
「い――いや! 嘘じゃない! 本当なの!」
ただ高橋とて、それに押されるままでいるつもりもなかった。なぜなら――
「本当に、何も、特別なことはしてないの!」
……それが『真実』だからである。
本当に彼女は――秘密兵器を隠していたわけでも、暗器を仕込んだつもりでもなかったのだ。
強いて、したことがあるとするならば……
「……ただあたしは、レースの開始前に、あの子に、言ってあげただけで」
「言ってあげた……?」
「うん……」
なおも不信感を募らせるタルマエに、高橋は落ち着きを取り戻して語る。
「……あなたは、レース中に色々考えると思う」
でももし、考えても、答えが出てこないようなら。
その時は――
「……その時は。
何も、考えるなって。
考えなくていい。本能の思うがまま、無心で走っちゃえって……そう、言ってあげたくらいで」
特別な指導をしたわけじゃない。
特殊な練習を積んだわけでもない。
彼女がしたことは――ただそれだけ。
「それ以外に……特別なんて。何も……」
「……」
高橋は嘘を吐いていないし、タルマエの目にも、嘘を吐いているようには映っていなかった。
しかしその事実と、納得出来るかどうかは別だ。
たとえ、彼女言う通りであったところで――
ただ、何も考えずに走って……あの結果を引き寄せる。
そんなことが、可能なのか?
「……にわかには信じ難いですね」
率直に感じたことを、タルマエは口にした。
「気合いや気力だけで……あんなことが可能なのですか?」
「そう言われても……正直あたしも、この結果にはびっくりしてて……」
だからこそ話そうと思ったのだ。だからこそ振り返ろうと思ったのだ。それなのに当人は、呑気に写真を撮ったことで喜び勇んではしゃぎ騒いで……
……どこまでも想像の範疇を外してくる子だった。まさかそんな常識すらも、置いてきぼりにしてしまうとは。
「……一体、何だったんだろ」
ともあれ、とてつもないモノを見たことだけは確かだった。
フェアリィルナという外套が、予想だにしない走りによって取り払われ、想像のつかない『何か』が剥き出しになろうとしている。
無言という概念を共有して、タルマエと高橋は、その観測に努めようとしていた。奇しくも、同じ方向を向いて――
しかし、これといった回答も出せないがために、不穏な静寂によって、顔を覗かせていた正体の片鱗が、再び覆い隠されようとしていた。
『――
その時だった。
状況に似つかわしくない、少女の闊達な機械音声が、それを阻止していたのは。
「――え。『領域』っすか……?」
沈黙に沈んでいた生徒会室にて。打つように紡がれたオルフェーヴルの言葉に、ウインバリアシオンが応じる。
首肯だけしたオルフェーヴルは、血迷ったようには見えない。しかしシオンは、相手がいくら優秀な生徒会長と言えど、それを簡単に信じることは出来なかった。それだけ彼女の口にした推測は、突拍子もない可能性だったということだ。
『領域』。
競レースに関わる者なら、誰もが一度は耳にする概念だ。
レース中、何らかの条件を満たすと経験すると言われている、極限の集中状態。
ひとたび『領域』に突入すると、目の前の『走ること』にのみ全精力を注ぐようになり――
結果として、普段からは考えられないような記録をまま叩き出すという。
ただ、科学的に存在を立証されているわけではない。
飽くまで体験談として、実しやかに語り継がれているだけの『伝説』。
それをこうまで動揺せず口にするだなんて――
……ガチかこの人? それがシオンの、率直な感想だった。
「本気で言ってますの?」
そしてその感想は、ジェンティルドンナも同じだった。早々にフェアリィルナを見限った彼女もまた、予測不能な現実ののたうちに口を結んでいたものの、オルフェーヴルの発言で我に返り、棘のある言葉で反駁する。
「『領域』などという眉唾に、このレースの結果の『理由付け』を求めるのですか? ……貴女ともあろう者が?」
何よりもレースで『最強』を求めてきた者。
『結果』という揺るがない『現実』で、自身の意志を成就させてきた者。
そんな者が、ここに来て『伝説』を臆面もなく口にすることに、ジェンティルは不信感を募らせざるを得なかった。
「……でなければ」
それをはっきりと肌で感じてなお、オルフェーヴルは冷静だった。
「他に、何だというのだ」
それこそ『現実的』に紡がれた言葉に、二人も押し黙るしかない。
それ以外に説明のつけようがないし――無暗に否定も出来なかった。なぜなら。
――ここに集った誰一人として。
……尤も、ジェンティルドンナに関しては、今よりほんの少し未来のドバイにて、その到達を経験することになるのだが。
それはまた、別の話である。
喋り方のクセ、強っ――という驚愕とツッコミを抑えながら、高橋はその言葉を吟味していた。
『領域』。もちろん彼女も、その概念の概要を知っていた。選手が知っていることを、彼女らを導くトレーナーが知らないはずもない。故にそこに居座る認識もまた共通だ――『眉唾物』。
トレーナーにとっても、それは推測の産物でしかない。『現実』では考えられない事象に対する、『理由付け』でしかない。
「……なるほど。まぁ、確かに」
しかしタルマエの思考は、それら一般的なものと比較すると、いくらか柔軟なものだった。誰よりも間近にいた目撃者だ、ということもあったが。
「あの変貌ぶりは、それ以外には説明が付けられないですよね……」
「で……でも、『領域』って、まだ科学的な立証はされてないんでしょ? まさかあの子が……そんな伝説に手を掛けるなんて」
そんなことがあるのか?
高橋は、信仰よりも猜疑の方が上回ってしまっていた。本来なら、一心に信じなければならないシーンであるところだが。
普段のトレーニングの様子を、『誰よりも』『間近で』見てきたのは、他ならぬ彼女なのだ。誰が、それを糾弾することが出来るだろうか。
「……あるのかな、そんなことが」
『――『伝説』になるのは誰でもいい ボクの持論なのだ!』
猜疑心に染まり始める高橋を、西浦の場違いな『声』が押し留める。
『これまでに到達したと言われる選手たちも、最初から『強者』だったわけじゃないのだ!』
生まれながらにして強者だったもの。
生を受けた時点で勝利を約束されたもの。
そんなものは、この世には存在しないように。
誰だって、それを発現する可能性はある――それが科学として解明されていないのなら、なおのこと。
『『特異点』、』
――近代競レースの結晶と呼ばれたもの。
『『恐怖の大王』、』
――誰も思いつきもしないローテーションをやり遂げたもの。
『『英雄』、』
――シニア級の一大タイトルを連覇したもの。
『『覇王』、』
――前人未到の大記録を打ち立てたもの。
『『帝王』、』
――不屈の精神で、最後まで走り切ったもの。
『『皇帝』、』
――後に連なる多くの選手の目標となったもの。
『『ターフの演出家』、』
――競レースに『楽しさ』を花開かせたもの。
『『神なる者』』
――神と呼ばれたもの。
『――共通項など存在しないのだ ただ後年の研究で、達成する者は『時代を築く力がある』とされているだけなのだ あの子がそれに該当するかはわからないけど』
そんなことは、神のみぞ知ることではあるけれど。
『もしかしたら、あの子は――』
全ての結果と、推測とを総合した『結果』として――
西浦は、こう結論していた。
『――とんでもない
持ってるかもしれないのだ!』