泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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繋げるバトン、ですっ!

「――とゆーわけでっ!!」

 

 トレセン学園、カフェテリアの隅の席。

 キタサンブラックの快活な音頭が響いた。

 

「フェアリィルナちゃんのオープン戦勝利を祝しまして! かんぱーいっ!」

 

 かちゃん、と音が続く。かちあったグラスは6つ分、そのうちのいくつかは乗り気だったが、もういくつかはおずおずと遠慮気味だった。

 

 そのうちのひとつの持ち主――

 この祝杯の対象であるはずのフェアリィルナは、瞬時に形成された騒がしい空気感に置いてきぼりにされたように、目を丸くしている。

 

 大洋に迷い込んだ彼女を見て、キタサンブラックもまた不思議そうに小首をかしげる。何を迷う必要がある? いかにもそう言わんばかりだった。

 

「どうしたの? びっくりしちゃって」

「い、いえ……」

 

 フェアリィルナといえば、その有無を言わさぬ騒がしさ。

 転校生でも、付き合いが数ヶ月ともなれば、その根幹たる性質には誰もが合点がいくというものである。

 それだけに、どこかしおらしい彼女のその振る舞いは、集った『友人たち』にはひどく特異に映った。

 

「……、これはアンタのための祝いの席よ」

 

 スイープトウショウはそれを見かねて、ため息混じりに言った。

 

「ボーッとしてないで、感謝の一つでも言ったらどう?」

「ま、まぁまぁ! そのー、あれかな! 緊張してる、のかな! きっと!」

「ふふっ、ちょっと拍子抜けかもね。もっとこう、どかーん、って喜ぶかと思ってたから」

「そ、その言い方も、どうかと思うけどな……」

 

 スイープの言い分をキタサンが咎め、ダイヤが緩く同意し、シュヴァルが引き気味に意見する。

 フェアリィは不快感を抱いたわけではなさそうだったが、その微妙な雰囲気の輪が自分に起因していることを自覚したのか、恥ずかしそうに後頭部を掻いていた。

 

「……えと、ごめんなさい……」

 

 こういうお祝いに、慣れてなくて。

 フェアリィの言い分はそれだった。

 

 4人の脳裏に過ぎるのは、彼女の話したあの驚愕の戦績だ――142戦6勝、もとい146戦7勝か。高塔のごとく積み重ねられた大記録は瞬く間に学園中に広まり、『三桁』という非常に不名誉な仇名まで付く始末。

 勝利の祝杯など経験不足なのは明白であり――

 まず困惑に晒されてしまうのは、当然のことと言えた。

 

「――堂々としてればいいのよ」

 

 そこに蜘蛛の糸、そうでなければ女神の助言のように告げるのは、そんな彼女の姿を誰よりも長く、間近で見てきた『親友』だ。

 

「別に、一発芸をしろってんじゃないんだからさ」

「ど、堂々ですか? むんって感じで……?」

「いつも通りよ。ほら。転校初日みたいにさ」

「えっと……はじめまして?」

「自己紹介してどうすんのよ」

「お茶点てしますか?」

「水は足りてるわ」

「……じゃあ写真で」

「オッケイ、とりあえず深呼吸しなさい」

 

 ソードクレインに誘導され、フェアリィルナは深呼吸を始める。勢いこそないものの、それこそ『いつも通り』――奇妙で独特なやり取りを、キタサンとダイヤが微笑ましく見守る。

 

「なんか、未だに信じ切れないわね……」

 

 そこに呆然と、正しく信じられないように言うのはスイープだ。

 

「本当にアンタが、あのタルマエさんに勝ったなんて」

「あはは……能ある鷹はなんとやら……なのかなぁ……?」

「でも……実際何があったの? あの時」

 

 キタサンが苦笑いする傍ら、ダイヤは真剣な表情でフェアリィを見つめる。照れ隠しのように緩んでいた彼女の表情も、きゅっと引き締まった。

 

「私たちも映像、 観てたけど……びっくりしたよ。終盤さ。カメラがずっとタルマエさんを追ってたのに。急にあなたがびゅんって入ってくるから」

 

 当時の狂騒たるや、言葉では表現し尽くせないほどだ。結局『英傑』の一人勝ちか――と思った矢先に起きた、まさかの大番狂わせ。

 飛び上がるほど喜んだのが半分、落ち着くほどに訝しんだのがもう半分。何夜か挟んで設けられた祝いの席は、そんな怪訝の答え合わせの場でもあった。

 

「……そのあとの競り合いも、まるで人が変わったみたいだったよ。あの時……あなたには、何が見えてたの?」

「いやぁー……それがですね……」

 

 確定的な答えが齎されればよかったと思う。

 もしそこに、再現可能な理論があるのならば、まるごと自分たちの能力に転用できるかもしれない。

 しかしそんな瑞々しい下心は、フェアリィが視線を泳がせたことで、叶わないのだなとダイヤは感じた。

 

「……私も、よくわかってないんですよね……」

 

 それを裏付けるように、彼女は続けた。

 

「事前にトレーナーさんに、考え過ぎてわからなくなるくらいなら、考えなくていいって言われてたんです。で、まぁ……試しに、何も考えないように。とにかく思うがままに走ってみたんですよね。そしたら、その……

 急に目の前が、真っ白になって。こう……光の道? みたいなものが見えたんです。なんとなくそれに沿って走ったらいいんじゃないかって思って、無我夢中で走ったら……いつの間にか全部が元通りになってて。それで、勝ってたっていうか……」

 

 参考にならなくてごめんなさい――フェアリィは浅く頭を下げるが、ダイヤは、これを聞いているのが自分たちで良かった、と人知れず胸をなでおろす。

 

 彼女はいい感じに変換してくれたが、要はその発言は、『よくわかんないけど気が付いたら勝ってた』ということだ。こんなこと、他の出走者が聞いていたら、どんな顔をされるか。当人が嘘を吐いているようでも無さそうなのが、より質が悪かった。

 

「……それってあれかな、『領域』ってやつ?」

 

 一方、キタサンは、知識の辞書から、該当しそうな単語を索引していた。

 

「確か、ちょっとだけ授業でも触れてたよね」

「うん……話を聞く限りだと、それに近いと思う。でも……」

「今まで負け続きだったのが急に? 冗談でしょ?」

 

 キタサンもダイヤもスイープも。そしてシュヴァルも。しかと彼女のレースの模様を目撃していた。直近の、ではなく、あの選抜レースのだ。

 散々な結果に、へらへらと振舞う当事者。堪忍袋の緒が切れたスイープが激怒した記憶は、まだ古びるには時間が足りないが。

 それと重ね合わせると、どうにも頷き切ることは出来なかった。もちろん、覚醒の引き金など、誰がいつ、どのタイミングで引くかなんて、わからないが――

 

「……まぁ、いっか! ここで深く考えてもしょうがないよ!」

 

 キタサンは、思考の霧に視界を覆われる前に切り替えることにした。このような結果の成因が何にしても、彼女が勝利した事実は変わらないのだ。

 ならば今は、反省よりも、その喜びを祝うのがいい。

 

「難しい話は置いといて、今はお祝いだよお祝いっ! さぁさぁ、飲んで食べて騒ごっ!」

「いや、ここで変に騒いだら怒られるわよ?」

「……あはは。そうですね」

 

 だから、とムードを切り替えてくれる彼女らに、フェアリィもようやく実感が湧いたようだった。先ほどまでとは性質の違う、落ち着いた笑み。

 

「ありがとうございます、皆さん!」

「よーやく言えたわね。それでいいのよ」

「そうそう、スイープちゃんなんて、ずっとそわそわしてたんだもんね! 喜んでもらえてよかったね!」

「だ、だからばらすなってのーっ!」

 

 ……とまぁそんな風に、少女たちの騒ぎは続く。あの神妙な空気はどこへやら、和気藹々あれよこれよと話しているうちに、時刻は夕方から、夜へと移行してしまっていた。

 

「――それでは宴もたけなわではございますが~」

 

 キタサンブラックの音頭で、宴席はお開きとなる。カフェテリアから出ると、しぶとい冬の空気が彼女らを歓迎した。

 

「う~、まだ寒いね。いつになったらあったかくなるんだろ」

「月末にならないとね。大丈夫だよ、どうせまたぐーんって気温上がるんだから」

「今年も桜……咲くといいね」

「そこは心配いらないでしょ。毎年咲いてるんだから」

「……」

 

 友人たちの会話に耳を傾けながらも、ソードクレインの意識は周囲にも向いている――3月。自分たちが転校してきてから、もう少しで半年が経つ。

 テーマパークみたいだ、とか思っていたころが既に懐かしい。全く生物の適応力とは凄まじいものである。屹立する多くの豪勢な建物が、今やすっかり、馴染みあるものになりつつあるのだから。

 

「それじゃ、また明日ね!」

 

 寮の中に入り、別れの挨拶もほどほどに、それぞれの部屋へと足を向ける。

 

「……じゃ、私たちも」

「はいっ!」

 

 すっかり元気を取り戻したフェアリィルナと平常運転のソードクレインも、自分たちの部屋へと戻ろうとした。

 

「――あっ、ま、待って……!」

 

 その時――

 シュヴァルグランが、前のめりに彼女らを呼び止めていた。

 二人は足を止め、振り返る。呼び止める、ということは、当然そのような反応を求めてのことのはずだが。当のシュヴァルグランは、それが予想外だったかのように、はっと口を軽く覆っていた。

 

「どうしたの?」

「あ、え、えっと……」

 

 クレインは、一瞬、フェアリィと顔を合わせてから、シュヴァルに声を掛ける。彼女はしばし、もごもごと言葉を口の中に転がしていたが、

 

「~~……」

 

 その味に耐えかねたように顔を上げると、一歩踏み込んで言った。

 

「あ――あのっ!!

 

 お、オープン戦、その、ホントに、

 

 ホントに、おめでとうっ!!」

 

 シュヴァルの声が、静謐な廊下に遠く反響する。

 

「……ホントに、おめでとう……」

 

 彼女は、噛み締めるように言葉を繰り返す。反響を自覚してか、言えたことの達成感からか。いつものように、帽子の鍔を摘まんで下げながら、顔を俯かせていた。

 

「その……実は僕、あなたのこと、応援してて……」

「そう……なんですか?」

 

 意外な事実に、フェアリィは不思議そうに訊き返す。シュヴァルはそれにうん、と頷くと、だって、と続けた。

 

「……その。僕も……落ちこぼれ、だから……」

「……」

「――あっ! ご、ごめん! こんなこと言ったら、失礼だ、僕っ……」

 

 自分に言い聞かせるように、か細い声で彼女は弁明する。少なくともソードクレインは、それに何か言うつもりはなかった。彼女の『身の上』を、よく知っているからである。

 

 シュヴァルグラン――実のところ、決して落ちこぼれとは言えない少女。

 ただヴィルシーナ(彼女の姉)は、あの『鬼婦人』と毎度熾烈な競り合いを演じる実力者であり。

 ヴィブロス(彼女の妹)も、飛び級で同学年に編入してきた秀才。

 

 優秀ではあるものの――比較するとどうしても見劣りしてしまう彼女が、劣等感に苛まれるのは、無理からぬことなのだ。

 

「え、えっと……えっと、ね……」

 

 シュヴァルは、実際はそうではないものの、自分ではミスと信じて疑わないやり取りを取り払うように、改めて言う。

 

「あなたがタルマエさんに勝った時、すっごく、すっごく、嬉しかったんだ。『偉大なウマ娘』になるのは、誰でもいいんだって。ぼ、僕も。僕にも、資格はあるんじゃないかって、思えて……だ、だからその、えっと……」

 

 おずおずと、フェアリィと視線を合わせる。そこに宿る感情が、少なくとも侮蔑ではないことを感じ取って、彼女は言葉をこう結ぶ。

 

「ぼ……僕も。これからも、もっと頑張るから。あなたも……頑張って」

 

 ――応援してる。

 依然目を丸くしたままのフェアリィと、意外な『反響』に微笑するクレイン。ただ、音としては無言。それで再び羞恥を感じたシュヴァルは、慌てて踵を返しながら、

 

「そ、それじゃ、僕はこれでっ!」

「あ――うん。おやすみ」

 

 そそくさと立ち去る彼女の背を、クレインは言葉と共に見送る。背中が見えなくなった後も、フェアリィは無言で立ち尽くしていたが、クレインはそんな彼女の肩を軽く小突き、現実へと引き戻してやった。

 ゆっくりと、その視線がクレインを捉える。

 

「……ボーっとしてないで。帰るわよ」

「あ――は、はいっ」

 

 そうしてようやく歩き出した二人の、寮室への道すがら。フェアリィは嬉しそうな、苦そうな、複雑な表情で頬を掻いていた。

 

「にしし……なんだかむず痒いですね。こういうの……」

「あんたが未勝利戦で勝って以来ね」

「へへ……懐かしいですね。確かカモちゃんが、手作りの料理を振舞ってくれましたよね……」

 

 懐古の表情を浮かべるフェアリィ。見守るクレインの脳裏にも、その時の映像が再生される。我武者羅に挑戦した無茶苦茶なローテーションで、ようやく掴み取った初勝利。友人たちも、盛大に祝福してくれた。先ほどの光景が、それと重なる。

 

「……頑張らなくちゃですねっ、期待を裏切らないためにもっ」

「気負いすぎなくていいわよ。あんたのペースでやればいいんだから」

 

 この勝利を偶然と言う者はいるだろう。

 奇跡と考える者もいるだろう。

 だがそれでも、勝利は勝利。中央で、それも『英傑』と呼ばれた名ウマ娘を相手に、それを成せた意味は大きい。

 気負い過ぎず、しかし、驕り過ぎず。更に先へと走っていこう。

 

「大丈夫。私も続くわ」

「はいっ! 頑張りましょうねっ!」

 

 決意を胸に頷き合う。そう――親友の快挙を祝いはするけれど。

 自分だって――負けない。

 

「……」

 

 ……そう、きっと。

 私もきっと、後に続くから――と。

 剣の如き鋭利な眼光を、その瞳に滾らせていた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 ――さて、少し時間は戻り。

 夕刻、フェアリィたちが祝杯を上げていた頃。

 

「……」

 

 高橋のトレーナー室では、一定間隔で音が響いていた。

 

「……」

 

 カチッ、カチッ、カチッ。

 

 時計の針の、時を刻む音。

 あるいは、何かの装置の稼働している音か。

 

 着席した高橋の、どこかボーっとしている視線の先には、一台のノートパソコン。

 その画面上には、メディアプレイヤー。

 そしてそこでは、担当――フェアリィルナが、まさかの大番狂わせを披露した、あの一戦の録画が再生されている。

 

 ただ、それが最後まで再生されることはない。

 先ほどから高橋は、しきりに同じような場面を繰り返し見直し続けている。

 クリック音は、プレイヤー備え付けの『30秒戻る』コマンドを実行していることからだ――回数にすれば、もう十数回は越えたか。

 それだけ映像を繰り返せば、何を目的にするにせよ、何某かの成果が上がりそうなものなのだが。

 それとは相反して――高橋の表情は、およそ明るいと言えるものではなかった。

 

「――だぁーっ……」

 

 クリックを止め、大袈裟な動作で、背もたれに背中を押し付ける。そのまま天井を意味もなく見つめるが、それ以上は何も言わないし何もしない。行き詰った、という思いがありありと滲む。

 

「やっぱり、全然わかんない……」

 

 それが、高橋の忌憚ない感想だった。

 科学の十分に発達した現代でも、いかようにも説明のつかない出来事は多い。

 大抵の場合『不思議だね』で済まされるもので、あとは宴席の肴として出るくらいに留まるところだ。

 が、競技シーンでそのようなことが起きてしまえば、そんな風に受け流すわけにもいかない。

 それが、その者の『進退』に関わるようなことであれば、なおのこと。

 

 偶然を偶然で終わらせるのではなく。

 必然へと昇華し、

 当然にまで磨き上げる――それがトレーナーの仕事だ。

 

『一、 勝利に驕らず、入念に研究せよ!』

 

 父の信念の元、彼女もその偶然の分析に力を入れていたものの――どれだけ時間をかけても、理解の尻尾に触れることすら出来ない。

 どれだけ見返しても、どれだけ注視しても――『奇跡』、と結論付けるしか出来なかった。

 ……再現性を高められれば。

 向かうとこ敵なしだろうにな――と、悔しくなる。

 

「……『血統』(才能)、かぁ……」

 

 ――光の道が見えた、とフェアリィルナは語っていた。

 彼女も彼女で、何が起きたのか、正確には分かっていなさそうだった。

 肩透かしを食らう一方で、西浦の推測もあながち間違っていないのでは、と考えたのもまた事実。

 しかし、だとしたら嬉しい反面、厄介な問題だとも思った。

 

 自分は今、もしかしたら脆い才能の原石を取り扱っている最中で。

 一歩間違えたら、それを台無しにしてしまうかもしれない――という重責。

 

 いやでも、自分の考え過ぎなのかも、という楽観。

 誰かに委任するべきなんじゃないか、という葛藤。

 でもここでまた逃げ出すわけには……という苦悩。

 

 いや、やるんだ。やるって決めたじゃないか――という決心。

 

 一連の思考の連鎖の末、高橋はもう一度気を取り直し、画面と向き直り、事象の分析に努めようとする。

 

「…………」

 

 しかし、天啓も閃きも訪れなかった。

 それから数度繰り返しても――状況は大きくは変わらない。

 

「……、」

 

 再び同じ思考に陥りそうになった頭を自覚すると、おもむろにパソコンの電源を落としていた。

『蓋』を閉めて、浅めの息を吐く。

 

 ……根を詰め過ぎたと考えた。一旦、リフレッシュした方が良さそうだ。

 もう時刻は夕方を過ぎつつある――帰ろう。空の向こう側、にじり寄る夜の気配を視認した彼女は、支度を整えて退室し、廊下を歩き始めた。

 

 とうに学園は放課後。生徒ともすれ違うことはない。ひっそりと静まり返った校舎の中、寮室へ戻った後のことを緩く頭の中で考え始める。

 

「……ん?」

 

 その時、止まっていた。

 前方に、何かがあることを確認したからだ。

 

 それは廊下の隅。遠めだと真っ黒に見える何か。一度はゴミでも不法投棄されてんのかと冗談めかして考えるが、近付くにつれてそんなことはなく、そしてゴミどころか生き物、そして生き物どころか『人間』であることに気が付く。

 そして――それがただの人間どころか、よく見知った者であるということにも、気付いた。

 

「……」

 

 すぐ傍に近付いた彼女は、しゃがみ込む。その人物は一定間隔で呼吸を繰り返しており、少なくともくたばってはいない。

 寝てるのか気絶してるのか――どちらにせよ見つけた手前、放っておくわけにもいかないので、声を掛ける。

 

「……あのー」

 

 声に反応して、それはもぞもぞと動く。しかしなおも起き上がる気配がないので、再度呼びかける。

 

「大丈夫ですかー、『庄野』さーん」

「……~~……」

 

 低い声で唸った『彼』が、ゆっくりと顔を上げた。ぼさぼさの黒髪に、縒れたスーツ、無精ひげ。この世の『だらしない』という概念を凝縮したみたいな、みっともない格好。

 

「……んぉ」

 

 暗い瞳に、ぼんやりと高橋の姿が映る。

 

「そのダセェ眼鏡……高橋か……」

「ご挨拶どうも。……お返しに連行してあげましょうか。理事長室まで」

「勘弁してくれ、もう今週一回説教されてんだ」

 

 何してんだろうかこの人は。酒か煙草かパチンコか。高橋は呆れながらも、彼に手を差し伸べる。

 男――庄野は、一瞬何をされているのかわかっていなさそうな顔をするが、すぐに理解したようで、その手を取る。よろよろと立ち上がった彼は、壁に手を突くことで体勢を保っていた。

 

「あぁー……クソ。頭痛ぇ。どっかぶつけたかな……」

「しっかりしてくださいよ……あたしが見つけたから良かったけど。生徒に見つかってたらどうするつもりだったんですか」

「んー……まぁその時はその時だな。別に死んでたわけじゃねーんだし」

 

 見つけた側の心理状態など勘案しないのかこの人は。あんな状態で倒れられていたら、下手したら通報されると思うのだが。

 

「あれ……っつーかお前こそこんなとこで何やってんだよ。残業か?」

「……そんなとこです。ちょっと考えたいことがあって」

「あー……そういや担当出来たんだっけか。お前の努力もようやく報われたな。おめでとう!」

「それ昨日もやってますからね」

 

 何なら先週、先々週も繰り返しているやり取りである。この人はここ数日で何回記憶を飛ばすのだろう。呆れながら、彼女は庄野の傍を通り過ぎた。

 

「お? どこ行くんだよ」

「どこって……帰るんですよ。今何時だと思ってんです?」

「え? 昼の12時くらいじゃねぇの?」

「18時ですよ。イギリスにでもいるんですか?」

「なんだ。まだそんな時間か……あ。ちょっと一杯ひっかけに行かねぇ? どうせ暇だろお前?」

「下戸ですよあたしは……」

 

 少々下世話な話を聞き流しながら、高橋は庄野と共に歩き始める。二人分の足音が、暗色を帯び始めた空の色と溶け、どこか寂しげな音色を響かせる。

 

「……あ、そういえば」

 

 程なく口を開いていたのは、庄野だった。

 

「観たぜ、総武ステークス。……とんでもねぇ勝ち筋だったな」

「……」

 

 それは彼にとっての最大限の賛辞のつもりだったが、高橋の反応は微妙だった。不快よりも疑問が勝った庄野は、怪訝そうに問い直す。

 

「……嬉しくなさそうだな」

「……庄野さんには、どう見えました? あの子」

 

 高橋は、思い切って庄野に質問をぶつける。彼は中空を見つめると、そうだな、と一息置いて、

 

「まぁ、人が変わったみたいだったな。何かに憑かれたみたいな」

「西浦さんは、『領域』に入ったんじゃないかって言うんです……あ、西浦って、タルマエさんの担当さんなんですけど」

「あぁ、あの強面のおっさんな。あぁ見えて可愛いもの好きなんだぜ、あの人」

 

 極めてどうでもいい情報を挟みつつ、庄野は続けた。

 

「けど俺らなんかより何年も先輩だし、何人もウマ娘を見てきた。あのおっさんが言うなら、ある程度は真実なんじゃねぇか」

「でもあたし――」

「信じられないんだろ。わかるわかる。あのオルフェーヴルでも経験してねーのに、あの子が経験するなんて思えねーもんな」

「……え。そうなんですか?」

 

 さらりと口にされた情報は、高橋には意外なものだった。庄野は一瞬、その反応がどの事実に掛かっているのか分かり兼ねたが、もう一瞬で理解すると、あぁ、と彼女の言葉を肯定した。

 

「なんかどっかの雑誌のインタビューで言ってたぜ。世間は勘違いしているが~……とかなんとかって」

「……まさか。あの『暴君』ですよ? それこそ口から出任せじゃ?」

「『領域』に至る奴は、どういう奴か知ってるか?」

 

 庄野の発言は、このようにたまに脈絡から外れる。面食らって高橋は言葉に詰まるも、気を取り直して対応する。

 

「『時代を築く者』……でしたっけ」

「おう。『領域』に至った奴は、ウマ娘の新たな時代を切り拓いたか……さもなくば新たな時代を作ってきた。俺ら凡人からしてみれば、オルフェーヴルも時代を作ったように見えるけど……本人からしたらそうじゃないんだろうよ」

 

 高橋はピンと来ていなかった。それを察して、庄野は続ける。

 

「赤絨毯を歩いて、自分で敷いたと考えるか? 凱歌を聴いて、自分で弾いたと考えるか? 王座に座して、自分で作ったと考えるか? ……知ってるだろ。レースは天賦、ターフは領土、三冠は我が物。金色の暴君が作り上げたように見える『黄金郷』(エルドラド)は――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 作ったのではなく――()()()()()。座すべき玉座に()()()()。三冠もGⅠ6勝も――あの子にとっては予定調和だった。全て最初から決まっていた。だから『領域』に入れなかった」

 

 ただそれは、国内という話であった。

 故郷の外には、未知なる世界は果てなく広がっている。

 

「例の一度目の凱旋門賞。あの子は『領域』の扉を叩いた気がしたって話してたな。全く不遜な話だぜ。あの子に取っちゃ、国内の栄光なんざ、『領域』に至るまでもないものだったっつーわけだな」

「……あの子らしいですね」

 

 一見すれば、傲慢極まりない話である。しかしその一言で済んでしまうのが彼女というものだ。そして庄野の話も、妙に合点がいってしまった。収まるべき場所に収まっただけ――確証があるわけではないだろうが、なるほど確かに、そうかもしれないな、と高橋は思った。

 

「話が逸れたな」

 

 校舎を出て、トレーナー寮へ近づく中。庄野は元の話題に立ち返る。

 

「ともかく、お前の担当ちゃんが『領域』に入ったってんなら、大事に育ててやらないとな。これから時代を作るかもってんだし」

「……でも正直、何をどうすればいいかわかんなくって」

「とりあえず基礎トレしときゃいいんじゃね? 変に磨いても崩れちまいそうだし」

 

 テキトー言ってくれるな、と高橋は内心で毒づく。庄野はそれを読み取ったのか、不服そうに眉を顰めた。

 

「おいおい、いくら高尚な才能っても、それを発揮出来る基盤は必要だろ。俺がいつもテキトー言ってるって思ってるだろ?」

「思ってます」

「だろ? 俺だってたまにはそれらしいことを――って思ってんのかよ! そこは先輩をちゃんと立てろよ可愛くねぇな!」

「校舎の廊下で行き倒れてた人に言われてもですよ」

「それとこれとは関係ねーだろ! だいたいまだ今月十回くらいしか倒れてねーし!」

 

 よくコイツは今まで無事でいられたな、と高橋はある意味庄野を尊敬する。トレセンの噂は一日で学園を三周はする――よく言われる話なのだが、彼が校舎内で倒れていたなんて話はめっきり聞かない。特殊なステルス迷彩でも着けてんだろうか。

 しかしそれも、あったとしても万能じゃないのだろう。きっとその効果がちょうど切れた時に、自分が見つけたのだろうな、と……

 

 ――疲れているな。そこまで考えて、高橋は手を額に当てていた。

 

「ん? どうした? 風邪か?」

「いや。熱は無いんですけど。疲れてるかもなーって」

「俺との会話で推測すんのやめてくんね? 地味に傷つくんだけど?」

 

 結局、フェアリィルナに関する話題はそれきりだった。

 詳しく語るべくもない、中身があるようでない世間話の末、二人はトレーナー寮へ辿り着く。

 正面カウンター、開けられたガラス窓の向こう側にて、まだ若そうな男性が、開いた新聞紙からちらりと目を向けていた。

 

「それじゃ、お先です……」

 

 高橋は素通りし、自身の部屋へと直行する。庄野がおぉ、と気のない返事で見送る中、受付であるその男性が口を開いた。

 

「……女連れとは珍しいな」

「女じゃねーよ。高橋だよ高橋。アイツももったねーよなぁ。顔も美人で身体も[ピー]なのに、あのダセェ眼鏡で全部台無しにしちまってやがる。あー、もったねーもったねー」

「全部録音して本人に聞かせてやろうか?」

 

 デリカシー無さすぎだ、と男は半目になりながら、嘆くように息を吐く。話に聞く彼の『相棒』のことが、自然、思いやられた。

 

「……お前の担当も大変そうだな。ほら、なんだっけ。結構カッコいい名前の」

 

 しかし、その肝心の名前が思い出せない。何か武器の名を関した――イカした名前だったことはぼんやり覚えていたが。さて――なんだったか。

 

「サーベルタイガーだっけ」

「それ動物の名前な。いや、言いたくなる気持ちはわかるけど」

 

 絶妙に掠った名前に、庄野は言う。

 

「あれは有望株だ。他人事みたいに相談乗ったけど、俺もちゃんと考えねーとなぁ。面倒くせぇけど、もう少し確認するか……」

「……で、言わないんだよな」

「――短距離を切り裂く『鶴の刃』、ってな」

 

 男は皮肉るように言う。庄野は立ち去ろうとしたが、その反応を待ち侘びたように立ち止まると、にやりと口端を吊り上げて答えていた。

 

「――ソードクレインだよ」

 

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