「――とゆーわけでっ!!」
トレセン学園、カフェテリアの隅の席。
キタサンブラックの快活な音頭が響いた。
「フェアリィルナちゃんのオープン戦勝利を祝しまして! かんぱーいっ!」
かちゃん、と音が続く。かちあったグラスは6つ分、そのうちのいくつかは乗り気だったが、もういくつかはおずおずと遠慮気味だった。
そのうちのひとつの持ち主――
この祝杯の対象であるはずのフェアリィルナは、瞬時に形成された騒がしい空気感に置いてきぼりにされたように、目を丸くしている。
大洋に迷い込んだ彼女を見て、キタサンブラックもまた不思議そうに小首をかしげる。何を迷う必要がある? いかにもそう言わんばかりだった。
「どうしたの? びっくりしちゃって」
「い、いえ……」
フェアリィルナといえば、その有無を言わさぬ騒がしさ。
転校生でも、付き合いが数ヶ月ともなれば、その根幹たる性質には誰もが合点がいくというものである。
それだけに、どこかしおらしい彼女のその振る舞いは、集った『友人たち』にはひどく特異に映った。
「……、これはアンタのための祝いの席よ」
スイープトウショウはそれを見かねて、ため息混じりに言った。
「ボーッとしてないで、感謝の一つでも言ったらどう?」
「ま、まぁまぁ! そのー、あれかな! 緊張してる、のかな! きっと!」
「ふふっ、ちょっと拍子抜けかもね。もっとこう、どかーん、って喜ぶかと思ってたから」
「そ、その言い方も、どうかと思うけどな……」
スイープの言い分をキタサンが咎め、ダイヤが緩く同意し、シュヴァルが引き気味に意見する。
フェアリィは不快感を抱いたわけではなさそうだったが、その微妙な雰囲気の輪が自分に起因していることを自覚したのか、恥ずかしそうに後頭部を掻いていた。
「……えと、ごめんなさい……」
こういうお祝いに、慣れてなくて。
フェアリィの言い分はそれだった。
4人の脳裏に過ぎるのは、彼女の話したあの驚愕の戦績だ――142戦6勝、もとい146戦7勝か。高塔のごとく積み重ねられた大記録は瞬く間に学園中に広まり、『三桁』という非常に不名誉な仇名まで付く始末。
勝利の祝杯など経験不足なのは明白であり――
まず困惑に晒されてしまうのは、当然のことと言えた。
「――堂々としてればいいのよ」
そこに蜘蛛の糸、そうでなければ女神の助言のように告げるのは、そんな彼女の姿を誰よりも長く、間近で見てきた『親友』だ。
「別に、一発芸をしろってんじゃないんだからさ」
「ど、堂々ですか? むんって感じで……?」
「いつも通りよ。ほら。転校初日みたいにさ」
「えっと……はじめまして?」
「自己紹介してどうすんのよ」
「お茶点てしますか?」
「水は足りてるわ」
「……じゃあ写真で」
「オッケイ、とりあえず深呼吸しなさい」
ソードクレインに誘導され、フェアリィルナは深呼吸を始める。勢いこそないものの、それこそ『いつも通り』――奇妙で独特なやり取りを、キタサンとダイヤが微笑ましく見守る。
「なんか、未だに信じ切れないわね……」
そこに呆然と、正しく信じられないように言うのはスイープだ。
「本当にアンタが、あのタルマエさんに勝ったなんて」
「あはは……能ある鷹はなんとやら……なのかなぁ……?」
「でも……実際何があったの? あの時」
キタサンが苦笑いする傍ら、ダイヤは真剣な表情でフェアリィを見つめる。照れ隠しのように緩んでいた彼女の表情も、きゅっと引き締まった。
「私たちも映像、 観てたけど……びっくりしたよ。終盤さ。カメラがずっとタルマエさんを追ってたのに。急にあなたがびゅんって入ってくるから」
当時の狂騒たるや、言葉では表現し尽くせないほどだ。結局『英傑』の一人勝ちか――と思った矢先に起きた、まさかの大番狂わせ。
飛び上がるほど喜んだのが半分、落ち着くほどに訝しんだのがもう半分。何夜か挟んで設けられた祝いの席は、そんな怪訝の答え合わせの場でもあった。
「……そのあとの競り合いも、まるで人が変わったみたいだったよ。あの時……あなたには、何が見えてたの?」
「いやぁー……それがですね……」
確定的な答えが齎されればよかったと思う。
もしそこに、再現可能な理論があるのならば、まるごと自分たちの能力に転用できるかもしれない。
しかしそんな瑞々しい下心は、フェアリィが視線を泳がせたことで、叶わないのだなとダイヤは感じた。
「……私も、よくわかってないんですよね……」
それを裏付けるように、彼女は続けた。
「事前にトレーナーさんに、考え過ぎてわからなくなるくらいなら、考えなくていいって言われてたんです。で、まぁ……試しに、何も考えないように。とにかく思うがままに走ってみたんですよね。そしたら、その……
急に目の前が、真っ白になって。こう……光の道? みたいなものが見えたんです。なんとなくそれに沿って走ったらいいんじゃないかって思って、無我夢中で走ったら……いつの間にか全部が元通りになってて。それで、勝ってたっていうか……」
参考にならなくてごめんなさい――フェアリィは浅く頭を下げるが、ダイヤは、これを聞いているのが自分たちで良かった、と人知れず胸をなでおろす。
彼女はいい感じに変換してくれたが、要はその発言は、『よくわかんないけど気が付いたら勝ってた』ということだ。こんなこと、他の出走者が聞いていたら、どんな顔をされるか。当人が嘘を吐いているようでも無さそうなのが、より質が悪かった。
「……それってあれかな、『領域』ってやつ?」
一方、キタサンは、知識の辞書から、該当しそうな単語を索引していた。
「確か、ちょっとだけ授業でも触れてたよね」
「うん……話を聞く限りだと、それに近いと思う。でも……」
「今まで負け続きだったのが急に? 冗談でしょ?」
キタサンもダイヤもスイープも。そしてシュヴァルも。しかと彼女のレースの模様を目撃していた。直近の、ではなく、あの選抜レースのだ。
散々な結果に、へらへらと振舞う当事者。堪忍袋の緒が切れたスイープが激怒した記憶は、まだ古びるには時間が足りないが。
それと重ね合わせると、どうにも頷き切ることは出来なかった。もちろん、覚醒の引き金など、誰がいつ、どのタイミングで引くかなんて、わからないが――
「……まぁ、いっか! ここで深く考えてもしょうがないよ!」
キタサンは、思考の霧に視界を覆われる前に切り替えることにした。このような結果の成因が何にしても、彼女が勝利した事実は変わらないのだ。
ならば今は、反省よりも、その喜びを祝うのがいい。
「難しい話は置いといて、今はお祝いだよお祝いっ! さぁさぁ、飲んで食べて騒ごっ!」
「いや、ここで変に騒いだら怒られるわよ?」
「……あはは。そうですね」
だから、とムードを切り替えてくれる彼女らに、フェアリィもようやく実感が湧いたようだった。先ほどまでとは性質の違う、落ち着いた笑み。
「ありがとうございます、皆さん!」
「よーやく言えたわね。それでいいのよ」
「そうそう、スイープちゃんなんて、ずっとそわそわしてたんだもんね! 喜んでもらえてよかったね!」
「だ、だからばらすなってのーっ!」
……とまぁそんな風に、少女たちの騒ぎは続く。あの神妙な空気はどこへやら、和気藹々あれよこれよと話しているうちに、時刻は夕方から、夜へと移行してしまっていた。
「――それでは宴もたけなわではございますが~」
キタサンブラックの音頭で、宴席はお開きとなる。カフェテリアから出ると、しぶとい冬の空気が彼女らを歓迎した。
「う~、まだ寒いね。いつになったらあったかくなるんだろ」
「月末にならないとね。大丈夫だよ、どうせまたぐーんって気温上がるんだから」
「今年も桜……咲くといいね」
「そこは心配いらないでしょ。毎年咲いてるんだから」
「……」
友人たちの会話に耳を傾けながらも、ソードクレインの意識は周囲にも向いている――3月。自分たちが転校してきてから、もう少しで半年が経つ。
テーマパークみたいだ、とか思っていたころが既に懐かしい。全く生物の適応力とは凄まじいものである。屹立する多くの豪勢な建物が、今やすっかり、馴染みあるものになりつつあるのだから。
「それじゃ、また明日ね!」
寮の中に入り、別れの挨拶もほどほどに、それぞれの部屋へと足を向ける。
「……じゃ、私たちも」
「はいっ!」
すっかり元気を取り戻したフェアリィルナと平常運転のソードクレインも、自分たちの部屋へと戻ろうとした。
「――あっ、ま、待って……!」
その時――
シュヴァルグランが、前のめりに彼女らを呼び止めていた。
二人は足を止め、振り返る。呼び止める、ということは、当然そのような反応を求めてのことのはずだが。当のシュヴァルグランは、それが予想外だったかのように、はっと口を軽く覆っていた。
「どうしたの?」
「あ、え、えっと……」
クレインは、一瞬、フェアリィと顔を合わせてから、シュヴァルに声を掛ける。彼女はしばし、もごもごと言葉を口の中に転がしていたが、
「~~……」
その味に耐えかねたように顔を上げると、一歩踏み込んで言った。
「あ――あのっ!!
お、オープン戦、その、ホントに、
ホントに、おめでとうっ!!」
シュヴァルの声が、静謐な廊下に遠く反響する。
「……ホントに、おめでとう……」
彼女は、噛み締めるように言葉を繰り返す。反響を自覚してか、言えたことの達成感からか。いつものように、帽子の鍔を摘まんで下げながら、顔を俯かせていた。
「その……実は僕、あなたのこと、応援してて……」
「そう……なんですか?」
意外な事実に、フェアリィは不思議そうに訊き返す。シュヴァルはそれにうん、と頷くと、だって、と続けた。
「……その。僕も……落ちこぼれ、だから……」
「……」
「――あっ! ご、ごめん! こんなこと言ったら、失礼だ、僕っ……」
自分に言い聞かせるように、か細い声で彼女は弁明する。少なくともソードクレインは、それに何か言うつもりはなかった。彼女の『身の上』を、よく知っているからである。
シュヴァルグラン――実のところ、決して落ちこぼれとは言えない少女。
ただ
優秀ではあるものの――比較するとどうしても見劣りしてしまう彼女が、劣等感に苛まれるのは、無理からぬことなのだ。
「え、えっと……えっと、ね……」
シュヴァルは、実際はそうではないものの、自分ではミスと信じて疑わないやり取りを取り払うように、改めて言う。
「あなたがタルマエさんに勝った時、すっごく、すっごく、嬉しかったんだ。『偉大なウマ娘』になるのは、誰でもいいんだって。ぼ、僕も。僕にも、資格はあるんじゃないかって、思えて……だ、だからその、えっと……」
おずおずと、フェアリィと視線を合わせる。そこに宿る感情が、少なくとも侮蔑ではないことを感じ取って、彼女は言葉をこう結ぶ。
「ぼ……僕も。これからも、もっと頑張るから。あなたも……頑張って」
――応援してる。
依然目を丸くしたままのフェアリィと、意外な『反響』に微笑するクレイン。ただ、音としては無言。それで再び羞恥を感じたシュヴァルは、慌てて踵を返しながら、
「そ、それじゃ、僕はこれでっ!」
「あ――うん。おやすみ」
そそくさと立ち去る彼女の背を、クレインは言葉と共に見送る。背中が見えなくなった後も、フェアリィは無言で立ち尽くしていたが、クレインはそんな彼女の肩を軽く小突き、現実へと引き戻してやった。
ゆっくりと、その視線がクレインを捉える。
「……ボーっとしてないで。帰るわよ」
「あ――は、はいっ」
そうしてようやく歩き出した二人の、寮室への道すがら。フェアリィは嬉しそうな、苦そうな、複雑な表情で頬を掻いていた。
「にしし……なんだかむず痒いですね。こういうの……」
「あんたが未勝利戦で勝って以来ね」
「へへ……懐かしいですね。確かカモちゃんが、手作りの料理を振舞ってくれましたよね……」
懐古の表情を浮かべるフェアリィ。見守るクレインの脳裏にも、その時の映像が再生される。我武者羅に挑戦した無茶苦茶なローテーションで、ようやく掴み取った初勝利。友人たちも、盛大に祝福してくれた。先ほどの光景が、それと重なる。
「……頑張らなくちゃですねっ、期待を裏切らないためにもっ」
「気負いすぎなくていいわよ。あんたのペースでやればいいんだから」
この勝利を偶然と言う者はいるだろう。
奇跡と考える者もいるだろう。
だがそれでも、勝利は勝利。中央で、それも『英傑』と呼ばれた名ウマ娘を相手に、それを成せた意味は大きい。
気負い過ぎず、しかし、驕り過ぎず。更に先へと走っていこう。
「大丈夫。私も続くわ」
「はいっ! 頑張りましょうねっ!」
決意を胸に頷き合う。そう――親友の快挙を祝いはするけれど。
自分だって――負けない。
「……」
……そう、きっと。
私もきっと、後に続くから――と。
剣の如き鋭利な眼光を、その瞳に滾らせていた。
――さて、少し時間は戻り。
夕刻、フェアリィたちが祝杯を上げていた頃。
「……」
高橋のトレーナー室では、一定間隔で音が響いていた。
「……」
カチッ、カチッ、カチッ。
時計の針の、時を刻む音。
あるいは、何かの装置の稼働している音か。
着席した高橋の、どこかボーっとしている視線の先には、一台のノートパソコン。
その画面上には、メディアプレイヤー。
そしてそこでは、担当――フェアリィルナが、まさかの大番狂わせを披露した、あの一戦の録画が再生されている。
ただ、それが最後まで再生されることはない。
先ほどから高橋は、しきりに同じような場面を繰り返し見直し続けている。
クリック音は、プレイヤー備え付けの『30秒戻る』コマンドを実行していることからだ――回数にすれば、もう十数回は越えたか。
それだけ映像を繰り返せば、何を目的にするにせよ、何某かの成果が上がりそうなものなのだが。
それとは相反して――高橋の表情は、およそ明るいと言えるものではなかった。
「――だぁーっ……」
クリックを止め、大袈裟な動作で、背もたれに背中を押し付ける。そのまま天井を意味もなく見つめるが、それ以上は何も言わないし何もしない。行き詰った、という思いがありありと滲む。
「やっぱり、全然わかんない……」
それが、高橋の忌憚ない感想だった。
科学の十分に発達した現代でも、いかようにも説明のつかない出来事は多い。
大抵の場合『不思議だね』で済まされるもので、あとは宴席の肴として出るくらいに留まるところだ。
が、競技シーンでそのようなことが起きてしまえば、そんな風に受け流すわけにもいかない。
それが、その者の『進退』に関わるようなことであれば、なおのこと。
偶然を偶然で終わらせるのではなく。
必然へと昇華し、
当然にまで磨き上げる――それがトレーナーの仕事だ。
『一、 勝利に驕らず、入念に研究せよ!』
父の信念の元、彼女もその偶然の分析に力を入れていたものの――どれだけ時間をかけても、理解の尻尾に触れることすら出来ない。
どれだけ見返しても、どれだけ注視しても――『奇跡』、と結論付けるしか出来なかった。
……再現性を高められれば。
向かうとこ敵なしだろうにな――と、悔しくなる。
「……
――光の道が見えた、とフェアリィルナは語っていた。
彼女も彼女で、何が起きたのか、正確には分かっていなさそうだった。
肩透かしを食らう一方で、西浦の推測もあながち間違っていないのでは、と考えたのもまた事実。
しかし、だとしたら嬉しい反面、厄介な問題だとも思った。
自分は今、もしかしたら脆い才能の原石を取り扱っている最中で。
一歩間違えたら、それを台無しにしてしまうかもしれない――という重責。
いやでも、自分の考え過ぎなのかも、という楽観。
誰かに委任するべきなんじゃないか、という葛藤。
でもここでまた逃げ出すわけには……という苦悩。
いや、やるんだ。やるって決めたじゃないか――という決心。
一連の思考の連鎖の末、高橋はもう一度気を取り直し、画面と向き直り、事象の分析に努めようとする。
「…………」
しかし、天啓も閃きも訪れなかった。
それから数度繰り返しても――状況は大きくは変わらない。
「……、」
再び同じ思考に陥りそうになった頭を自覚すると、おもむろにパソコンの電源を落としていた。
『蓋』を閉めて、浅めの息を吐く。
……根を詰め過ぎたと考えた。一旦、リフレッシュした方が良さそうだ。
もう時刻は夕方を過ぎつつある――帰ろう。空の向こう側、にじり寄る夜の気配を視認した彼女は、支度を整えて退室し、廊下を歩き始めた。
とうに学園は放課後。生徒ともすれ違うことはない。ひっそりと静まり返った校舎の中、寮室へ戻った後のことを緩く頭の中で考え始める。
「……ん?」
その時、止まっていた。
前方に、何かがあることを確認したからだ。
それは廊下の隅。遠めだと真っ黒に見える何か。一度はゴミでも不法投棄されてんのかと冗談めかして考えるが、近付くにつれてそんなことはなく、そしてゴミどころか生き物、そして生き物どころか『人間』であることに気が付く。
そして――それがただの人間どころか、よく見知った者であるということにも、気付いた。
「……」
すぐ傍に近付いた彼女は、しゃがみ込む。その人物は一定間隔で呼吸を繰り返しており、少なくともくたばってはいない。
寝てるのか気絶してるのか――どちらにせよ見つけた手前、放っておくわけにもいかないので、声を掛ける。
「……あのー」
声に反応して、それはもぞもぞと動く。しかしなおも起き上がる気配がないので、再度呼びかける。
「大丈夫ですかー、『庄野』さーん」
「……~~……」
低い声で唸った『彼』が、ゆっくりと顔を上げた。ぼさぼさの黒髪に、縒れたスーツ、無精ひげ。この世の『だらしない』という概念を凝縮したみたいな、みっともない格好。
「……んぉ」
暗い瞳に、ぼんやりと高橋の姿が映る。
「そのダセェ眼鏡……高橋か……」
「ご挨拶どうも。……お返しに連行してあげましょうか。理事長室まで」
「勘弁してくれ、もう今週一回説教されてんだ」
何してんだろうかこの人は。酒か煙草かパチンコか。高橋は呆れながらも、彼に手を差し伸べる。
男――庄野は、一瞬何をされているのかわかっていなさそうな顔をするが、すぐに理解したようで、その手を取る。よろよろと立ち上がった彼は、壁に手を突くことで体勢を保っていた。
「あぁー……クソ。頭痛ぇ。どっかぶつけたかな……」
「しっかりしてくださいよ……あたしが見つけたから良かったけど。生徒に見つかってたらどうするつもりだったんですか」
「んー……まぁその時はその時だな。別に死んでたわけじゃねーんだし」
見つけた側の心理状態など勘案しないのかこの人は。あんな状態で倒れられていたら、下手したら通報されると思うのだが。
「あれ……っつーかお前こそこんなとこで何やってんだよ。残業か?」
「……そんなとこです。ちょっと考えたいことがあって」
「あー……そういや担当出来たんだっけか。お前の努力もようやく報われたな。おめでとう!」
「それ昨日もやってますからね」
何なら先週、先々週も繰り返しているやり取りである。この人はここ数日で何回記憶を飛ばすのだろう。呆れながら、彼女は庄野の傍を通り過ぎた。
「お? どこ行くんだよ」
「どこって……帰るんですよ。今何時だと思ってんです?」
「え? 昼の12時くらいじゃねぇの?」
「18時ですよ。イギリスにでもいるんですか?」
「なんだ。まだそんな時間か……あ。ちょっと一杯ひっかけに行かねぇ? どうせ暇だろお前?」
「下戸ですよあたしは……」
少々下世話な話を聞き流しながら、高橋は庄野と共に歩き始める。二人分の足音が、暗色を帯び始めた空の色と溶け、どこか寂しげな音色を響かせる。
「……あ、そういえば」
程なく口を開いていたのは、庄野だった。
「観たぜ、総武ステークス。……とんでもねぇ勝ち筋だったな」
「……」
それは彼にとっての最大限の賛辞のつもりだったが、高橋の反応は微妙だった。不快よりも疑問が勝った庄野は、怪訝そうに問い直す。
「……嬉しくなさそうだな」
「……庄野さんには、どう見えました? あの子」
高橋は、思い切って庄野に質問をぶつける。彼は中空を見つめると、そうだな、と一息置いて、
「まぁ、人が変わったみたいだったな。何かに憑かれたみたいな」
「西浦さんは、『領域』に入ったんじゃないかって言うんです……あ、西浦って、タルマエさんの担当さんなんですけど」
「あぁ、あの強面のおっさんな。あぁ見えて可愛いもの好きなんだぜ、あの人」
極めてどうでもいい情報を挟みつつ、庄野は続けた。
「けど俺らなんかより何年も先輩だし、何人もウマ娘を見てきた。あのおっさんが言うなら、ある程度は真実なんじゃねぇか」
「でもあたし――」
「信じられないんだろ。わかるわかる。あのオルフェーヴルでも経験してねーのに、あの子が経験するなんて思えねーもんな」
「……え。そうなんですか?」
さらりと口にされた情報は、高橋には意外なものだった。庄野は一瞬、その反応がどの事実に掛かっているのか分かり兼ねたが、もう一瞬で理解すると、あぁ、と彼女の言葉を肯定した。
「なんかどっかの雑誌のインタビューで言ってたぜ。世間は勘違いしているが~……とかなんとかって」
「……まさか。あの『暴君』ですよ? それこそ口から出任せじゃ?」
「『領域』に至る奴は、どういう奴か知ってるか?」
庄野の発言は、このようにたまに脈絡から外れる。面食らって高橋は言葉に詰まるも、気を取り直して対応する。
「『時代を築く者』……でしたっけ」
「おう。『領域』に至った奴は、ウマ娘の新たな時代を切り拓いたか……さもなくば新たな時代を作ってきた。俺ら凡人からしてみれば、オルフェーヴルも時代を作ったように見えるけど……本人からしたらそうじゃないんだろうよ」
高橋はピンと来ていなかった。それを察して、庄野は続ける。
「赤絨毯を歩いて、自分で敷いたと考えるか? 凱歌を聴いて、自分で弾いたと考えるか? 王座に座して、自分で作ったと考えるか? ……知ってるだろ。レースは天賦、ターフは領土、三冠は我が物。金色の暴君が作り上げたように見える
作ったのではなく――
ただそれは、国内という話であった。
故郷の外には、未知なる世界は果てなく広がっている。
「例の一度目の凱旋門賞。あの子は『領域』の扉を叩いた気がしたって話してたな。全く不遜な話だぜ。あの子に取っちゃ、国内の栄光なんざ、『領域』に至るまでもないものだったっつーわけだな」
「……あの子らしいですね」
一見すれば、傲慢極まりない話である。しかしその一言で済んでしまうのが彼女というものだ。そして庄野の話も、妙に合点がいってしまった。収まるべき場所に収まっただけ――確証があるわけではないだろうが、なるほど確かに、そうかもしれないな、と高橋は思った。
「話が逸れたな」
校舎を出て、トレーナー寮へ近づく中。庄野は元の話題に立ち返る。
「ともかく、お前の担当ちゃんが『領域』に入ったってんなら、大事に育ててやらないとな。これから時代を作るかもってんだし」
「……でも正直、何をどうすればいいかわかんなくって」
「とりあえず基礎トレしときゃいいんじゃね? 変に磨いても崩れちまいそうだし」
テキトー言ってくれるな、と高橋は内心で毒づく。庄野はそれを読み取ったのか、不服そうに眉を顰めた。
「おいおい、いくら高尚な才能っても、それを発揮出来る基盤は必要だろ。俺がいつもテキトー言ってるって思ってるだろ?」
「思ってます」
「だろ? 俺だってたまにはそれらしいことを――って思ってんのかよ! そこは先輩をちゃんと立てろよ可愛くねぇな!」
「校舎の廊下で行き倒れてた人に言われてもですよ」
「それとこれとは関係ねーだろ! だいたいまだ今月十回くらいしか倒れてねーし!」
よくコイツは今まで無事でいられたな、と高橋はある意味庄野を尊敬する。トレセンの噂は一日で学園を三周はする――よく言われる話なのだが、彼が校舎内で倒れていたなんて話はめっきり聞かない。特殊なステルス迷彩でも着けてんだろうか。
しかしそれも、あったとしても万能じゃないのだろう。きっとその効果がちょうど切れた時に、自分が見つけたのだろうな、と……
――疲れているな。そこまで考えて、高橋は手を額に当てていた。
「ん? どうした? 風邪か?」
「いや。熱は無いんですけど。疲れてるかもなーって」
「俺との会話で推測すんのやめてくんね? 地味に傷つくんだけど?」
結局、フェアリィルナに関する話題はそれきりだった。
詳しく語るべくもない、中身があるようでない世間話の末、二人はトレーナー寮へ辿り着く。
正面カウンター、開けられたガラス窓の向こう側にて、まだ若そうな男性が、開いた新聞紙からちらりと目を向けていた。
「それじゃ、お先です……」
高橋は素通りし、自身の部屋へと直行する。庄野がおぉ、と気のない返事で見送る中、受付であるその男性が口を開いた。
「……女連れとは珍しいな」
「女じゃねーよ。高橋だよ高橋。アイツももったねーよなぁ。顔も美人で身体も[ピー]なのに、あのダセェ眼鏡で全部台無しにしちまってやがる。あー、もったねーもったねー」
「全部録音して本人に聞かせてやろうか?」
デリカシー無さすぎだ、と男は半目になりながら、嘆くように息を吐く。話に聞く彼の『相棒』のことが、自然、思いやられた。
「……お前の担当も大変そうだな。ほら、なんだっけ。結構カッコいい名前の」
しかし、その肝心の名前が思い出せない。何か武器の名を関した――イカした名前だったことはぼんやり覚えていたが。さて――なんだったか。
「サーベルタイガーだっけ」
「それ動物の名前な。いや、言いたくなる気持ちはわかるけど」
絶妙に掠った名前に、庄野は言う。
「あれは有望株だ。他人事みたいに相談乗ったけど、俺もちゃんと考えねーとなぁ。面倒くせぇけど、もう少し確認するか……」
「……で、言わないんだよな」
「――短距離を切り裂く『鶴の刃』、ってな」
男は皮肉るように言う。庄野は立ち去ろうとしたが、その反応を待ち侘びたように立ち止まると、にやりと口端を吊り上げて答えていた。
「――ソードクレインだよ」