突き抜けるような青空の真下。
静々と降り注ぐ春の陽光を受け止めるその一室で。
壮年の女性は、皺の目立つ顔を綻ばせていた。
「……それでは改めて。昨日の北海道スプリントカップ……見事でした」
「恐縮です」
目線の先。ソードクレインは、恭しく一礼してそれに応える。転校してからも、寸分も変わっていないその礼儀正しさに、モンベツトレセン学園理事長は安堵と共に満足そうだ。
ただ、目尻には悔しさも滲む。彼女が鮮烈な勝利でかの大会を彩ったのは嬉しい限りだが――その一方で、『地元』の勇士が敵わなかった現実は、苦くも受け止めなくてはならなかった。
「私の判断は間違っていなかったようですね。……他の選手も尽力しましたが、力及ばなかったのが悔しいところですが」
「いえ! みんな、凄まじい気迫でした。油断していたら――」
「喰われていたのは私、でしょう? ふふっ、そういうところも、変わっていませんね」
先回りした理事長は、咎める先人というより弄ぶ母親だ。クレインは引っ掛けられたことを認識し、恥ずかしそうに目を伏せていた。
「……あなたには素質があります。『暴君』に引き抜かれた時点で、疑うべくもありませんが」
そんなクレインに、理事長は続ける。
「モンベツの命運はあなたに掛かっている……とまでは言いませんが、その活躍は少なからぬ影響を与えることでしょう。どうかこれからも、その鮮烈な走りを、遺憾なく発揮していって下さい」
「はい! そのつもりですっ」
「……時に」
と、そこで閑話休題。クレインが軍隊の兵士のように保っていた緊張の糸が、いくらか緩む。
「『あの子』の調子はどうですか」
「……『あの子』」
「……」
理事長は敢えてその先を紡がない。わかっているでしょう、と言わんばかりだ。そして実際、クレインにはよく理解出来ていた。
自分と共に戦地へ赴いた、無二の親友。
「……かの総武ステークスの話は、私も耳にしました。そして正直……耳を疑いました」
無理もない、というのがクレインの率直な感想だった。あの『英傑』の存在を、まさか理事長が知らないはずがない。ほとんど厄介者として認識していた生徒が、よもやそれを打ち破るなど。
前代未聞もいいところだ――だからこそ気になるのだ。ところでその先はあるのか。
彼女が起こした奇跡に――二度目はあったのか、と。
「……、」
果たしてクレインは、それに上手く答えることが出来ない。どうとでも取り繕うことは出来た――だが体のいい言葉回しで切り抜けられるほど、彼女は器用ではないし、精神的にも未熟だった。
「……そうですか」
そして理事長は、それだけで全てを察した。納得しているようであったし――残念そうでもあった。
「で――でも! 理事長!」
空気から嫌な予感を感じ取ったのだろう。クレインは顔を上げ、一歩踏み出しながら言う。
「あの子はよく頑張ってます! めげずに挫けずに、トレーナーの指導の下で……その証拠に、少しずつですけど、タイムも良くなってきていて……!」
「落ち着いてください、クレインさん。……何も連れ戻そうなんて考えていません」
理事長は、飽くまで冷静にクレインを宥めた。ハッと気を取り直した彼女は、深呼吸して元の落ち着きを取り戻す。
「……スイッチを押さないものに、出来事は起こらない。同じように、足掻かない者に奇跡は訪れません」
諭すように、理事長は言う。
「頑張っていないなどと思ってはいませんよ。結果が少しでも出ているのであれば僥倖です。……であれば、引き続き努力するよう伝えてください」
きっとその頑張りは。
将来、あなたたちの財産になるから。
「健闘を祈っています」
「……、はい!」
クレインが改めて元気よく返事をしたことで、一連の話は終わりとなる。
失礼します、と再度仰々しい一礼をし、理事長室の外へと出た。
一仕事終えたように一息吐くと、少し離れた場所にて、そわそわ見守っている集団に気付く。
「……待ってなくてもよかったのに」
「いやいや! 何言われるかわかんねーのに、置いていけねーだろ!」
返事の先陣を切ったのは、短めの鹿毛。カモンシングに、クレインは嬉しさと大袈裟に思う気持ちとの同居する複雑な心境になった。
「落ち込んでたら全力で慰めなきゃだろ!? 杞憂だったみたいだけどさ!」
「あんたたちは理事長を何だと思ってるのよ……」
「何考えてるかわかんねー鉄仮面かな!」
「実は腹黒いとはよく言われてますよね」
「まぁ気持ちはわからねぇでもねぇよ」
「怒ると怖そうだもんねぇ~」
呆れを孕んだクレインの問いかけに、カモンシング、リバーマーヴェル、ロミオライト、エクセレンスローが続く。もし本人に聞かれたらどうするんだ――と考えた矢先、理事長室の扉が内側からノックされる音。びくり、と身体を震わせた一同は、B級ホラー映画のビックリポイントのごとく顔を強張らせる。
「……、とにかく、ここで立ち話することもないでしょ」
どうしよう!? と言わんばかりの五人に、飽くまで落ち着いて言うのは鹿毛のお団子ヘア。
「移動しよ。どのみちこれから、帰り支度しないといけないんだし」
「……うん。そうね」
コパノリッキーの提案に、クレインも同意する。それに一転、カモはきょとんとする。
「え? 今日帰るのか? 昨日試合だったのに?」
「そうよ。時間を無駄には出来ないし……」
「まだ疲れが残っているのではないですか? 一日くらいゆっくりした方が……」
「大丈夫よ。向こうじゃもっと重いトレーニングしてるんだから」
まぁ若干は嘘だが、と続いたリバーの発言に答えるクレイン。ただ――未来的には嘘ではないだろう、とも思う。
これからシニア級に向かうにつれ、トレーニングの負荷は確実に増えていくはず。
これくらいの無理で、弱音を吐くわけにはいかないのだ。
「さっさと準備――」
しなくちゃね、と言いながら、彼女は率先して歩き出そうとした。
――が。その刹那。
「――っ?」
「!」
ぐらり
と、意識に靄がかかったような感覚がした。
その感覚に足を取られ、危うく転倒しそうになるのを、咄嗟に動いたリッキーが受け止める。
まさかそんなことが起きるとは思ってもみなかった他の四人。真っ先に怪訝そうな声を出したのは、ロミオライトだった。
「おい、大丈夫か?」
「う、うん。平気……ごめんリッキー」
「うぅん。気にしないで」
リッキーへの感謝もほどほどに、体勢を立て直しながら、クレインは自己分析に務める。想定外だったのは彼女も同じだった。あれ――おかしいな、と。
立ち込めたはずの靄はすでに消えているし、身体も目に見えて不調というわけではない。無理をしている自覚はないのに――どうして倒れそうになったのだろうか。
知らず知らずのうちに、疲労が溜まっていたのだろうか――いけないな。これから大事な時期になるっていうのに。
こんなことで――音を上げてちゃ、いけないのに。
「……」
リッキーの透き通った瞳が、彼女をしばし捉える。気付いたクレインは、どうしたの、と声を掛けた。リッキーはえっと、と思案するように答えた。
「……ちょっとさ。トレーナーさんに電話掛けられる?」
「へ……? 私の? なんで?」
「いいから」
「……?」
柔らかながらも、有無を言わさぬ迫力があった。クレインは言われるがまま、携帯電話を取り出し、トレーナー――庄野へと電話を掛ける。
『――あい、もしもし~……』
「……あの。まさか寝てました?」
『いやいや、んなわけねぇだろぉ……元気に朝3時から起きてたってぇ……』
「寝てないじゃないですかむしろ! ちょっと何やって――」
さらっと告げられた事実に、クレインはいつものように噛み付こうとしたが、
「――っ!?」
叶わなかった。
その時、ひょい、と携帯電話が、手からすり抜けていたからである。
驚愕に一瞬、動くのに更に一瞬。視線を這わせてみれば、その行方はすぐに明らかになった――可愛らしいお団子ヘアが、その果てで揺れている。
「あ、どうもー、お電話替わりました、コパノリッキーでーす」
予想だにしない展開に、クレインはすぐには動けなかった。ただリッキーもリッキーで、彼女が現実を認識する暇を与えてはくれない。ぶんどったその勢いのまま、電話を続ける。
「えっとですねー、実は折り入ってお願いがありまして……はい。そのですねー」
本当に、何でもない事のように――
「――あっちに帰るの、一日延ばしてもらえないかなーって」
「――はっ!?」
「はい……はい。あ、そうですか? じゃ、大丈夫そうですねー」
「ち、ちょっとリッキー!」
クレインは慌てて携帯電話を取り返そうとする。だがリッキーはひらりひらりと追跡を躱しながら、器用にも話を途切れさせない。
「はい。うん……はい。わかりました。じゃ、担当ちゃんにもお伝えしますねー。はい。それではー」
リッキーが一通りの通話を終えたのは目に見えて明らかだった。ようやく電話を返してくれたリッキーだったものの、縋るようにクレインが見つめた画面は、見慣れたデスクトップ画面。
通話の痕跡すらなく、そうした事実が最初からなかったかのようだった。
「よし! それじゃートレーナーからの許可も下りたし、今日はゆっくりしよっか!」
そんな彼女の傍らで、リッキーはそう宣言する。最初に声を上げるは、やはりカモンシングだ。
「お……おぉ!? いいのか!? ゆっくりして!」
「うん、大丈夫だよー。むしろ向こうもそのつもりだったみたいだし。いや、寝ぼけてテキトーこいた可能性も……?」
「既成事実というやつですよ。……いいではないですか。ちょうどリッキーさんにも、地元をご案内したいところでしたし」
そこにリバーも続く。ライトとエクセは特に反応しなかったが、リッキーの行動力に驚きつつも、吝かではなさそうだった。
「リッキー……」
さなかで一人、クレインはわなわなと声を震わせる。リッキーはというと、それに小首を傾げる。
「なぁに?」
「なぁにじゃないわよ!」
その挙動に煽られたように、クレインは声を荒げていた。
「何、勝手なことしてるのよ! たまたまトレーナーさんが許可してくれたから良かったけど、もし許してくれなかったらどうする気だったの!?」
そういった行動が、決定的な軋轢を生むとは必ずしも言えない。
だが人間関係の亀裂とは、往々にして何がきっかけになるのかわからないものである。結果的にいい方向には向かったが――確かにリッキーの行動は、やや軽率と評することも出来た。
ただその考え方は――些か極端だ、というのもまた事実で。
「あんたその責任を――!」
「クレインちゃん」
それを指摘するように、リッキーはその時、ヒートアップする彼女の額を指で小突いていた。
強く優しげな抑圧に、クレインは思わず口を噤み、目を丸くする。
「根詰め過ぎ」
リッキーは、静かに続けた。
「……なんだか昔のタルマエ見てる気分だよ。気持ちはわかるけどさ、あんまり前のめりになってもいいことないよ」
「で……でも」
「でももししゃもも無いよ! いくらいい運勢が出てても、体壊しちゃ元も子もないんだから。ここまであなたも頑張って来たんだし、一日くらい羽根伸ばしても罰当たらないよ」
「……」
ちらとクレインは、友人たちの顔を一瞥する。リッキーの傍ら、彼女らは同意するでも否定するでもなく無言でいたが、それでもその目は言外に彼女を労っていた。
リッキーの言う通りだと思うよ、と。
「……、」
それに晒されたことで、上気していた頭がようやく冷えてきた。深めの呼吸をひとつ、ふたつと繰り返し、三つ目を数えた時、彼女は自分が、いかにいつもと違う振る舞いをしていたかを自覚した。
「……ごめん、怒鳴っちゃって」
「んーん。大丈夫! 怒られるのは慣れてるから!」
「それもそれでどうなのよ……」
「……はは。ま、話がまとまったみたいで良かったぜ!」
やり取りを見届けたカモは、男前に笑うと、よし、とひとつ拍手。
「そうと決まれば、早速準備だな! ライト! 行くとこ先に決めといてくれ!」
「なんでオレが……いや別にいいけどよ……」
「ほら、行きますよクレインさん」
「うん……ありがと」
カモを先頭に、ライト、クレインの手を引くリバーという形で先行していく。
残されたエクセとリッキーは、のんびりとその後方に着いて行く。
「……あはは。ホントにいい友だちに恵まれてるね。羨ましい限りだよ」
「リッキーちゃん」
「ん?」
リッキーは保護者のように感想を述べるが、エクセの反応はというとやや唐突だ。リッキーが丸くした目を向けると、彼女もまた、慈愛の滲む表情で彼女らを見つめていた。
「……ありがとね」
「……どしたの、突然」
「あなたにもわかってるだろうけど……あの子、無理しちゃう『クセ』があるから」
視線を下げたエクセが思い描くのは、件のイノセントカップの少し前にあった出来事だ。文字通りに根を詰め過ぎた彼女は……過労と思しき症状で、一度倒れてしまったのである。幸い、大事には至らなかったが――
「あの子は自分が優秀だって自覚してる。みんなに期待されてることもわかってる。だからこそ……それに応えなくちゃって、色々無理したがるんだ」
彼女は優秀だと自覚している。
期待されていることも知っている。
だが――自分が無理をしていることには無自覚なのだから、タチが悪い。
「今回もそのパターンかなって思ってた。でも……リッキーちゃんが間に入ってくれたから、そうならなかった。だから……だから、ありがとね、って」
「んー……なんかそう言われると、むず痒いなぁ」
恥ずかしそうに片頬を指で掻くリッキーは、年頃の少女にしか見えない。それを見てエクセもまた、柔らかく微笑むが――脳裏に、昨日の映像が蘇る。
……リッキーがいい子であることは疑いようがない。だがそれは、警戒の一切を解ける理由にはならなかった。
あれだけの恐ろしい表情を見せながらも、このような友達思いの表情も見せる。――中央はみんなそうなのか? あらぬ想像にまで手を伸ばし掛け、エクセは思考の海から脱することにした。
「どうしたの?」
「ん~? なんでもないよぉ~?」
そしてリッキーの問い返しに、いつものようにのんびりと答える。目の前の、恩人とも言うべき存在への、得体の知れない恐怖を、必死に圧し鎮めながら。
さて、最寄りのバス停からバスに揺られること、90分ほど。一同は苫小牧市までやって来ていた。
「お~! すごいね! 本当にタルマエの等身大パネルがあるんだ!」
「この辺にはそこら中にありますよ。スタンプラリーみたいなことやってみますか?」
苫小牧市の観光案内所を起点に、市内を散策していく。レストランに美術館に史跡――市内で回れる場所、見られる場所を片っ端から見て回っているうちに、あっという間に夕刻となってしまっていた。
「やぁー、楽しかったね~」
ふるさと海岸と呼ばれる海岸、その眺望部。水平線を見つめるリッキーは、いかにも楽しげだ。
「どう、クレインちゃんは。ちょっとは息抜き出来た?」
「……うん。だいぶね」
気晴らしになったし、視界が開けたような感覚もした。前方――友人たちは何事かを語らっている。その姿を見て、霧散しかけていた想いが、再び結集したのを感じる。
「すごいね、クレインちゃんは」
それを知ってか知らずか、リッキーは言った。
「あれだけ期待されても、逃げずに向き合っててさ」
「……そう? 中央だったら、あれくらい普通でしょ?」
「いやまぁ、ファンの多さって意味では似てるとこはあるかもだけど」
ファンはじめとする周囲からの期待に、精神的に追い詰められてしまうことはよくあることだ。それが原因で、現役を退いてしまうことでさえ。中央のウマ娘なら耐えられるだろう、と考えているのなら、とんだ勘違いである。
だからリッキーは驚き、尊敬すらするのである。……目の前の少女が、逃げようと思わないことに対して。
「……地方からの引き抜きなんて、そうぽんぽんあるわけでもないからね」
クレインは答える。夕焼けを背負う友人たちに、優しい眼差しを投げかけながら。
「ホッカイドウ競レースが、原則ナイター開催になってるのは知ってるでしょ。あれはレースを存続させるための、苦肉の策……お陰で今は安定してるけど、それもいつ崩れるかわからない」
だから、頑張れる者が頑張らなくてはならない。
だから、選ばれた者が、戦わなくてはならない。
期待に、希望に、理想に夢に、応えなくてはならない――後世へと、繋がなくてはならない。
「……誰にでもある権利じゃないもの。なら私も、全力でやらなくちゃ」
「……全力」
リッキーは、ぽつりと復唱する。クレインは満足に視線を寄こさないまま、首肯だけした。
「どんな障害にぶち当たっても?」
「うん」
「どんなレースをすることになっても?」
「うん」
「……どんな、」
どんなライバルと、
戦うことになっても? ――矢継ぎ早のリッキーからの問いかけに、
「……、」
クレインの答えは、淀まなかった。
「うん」
「……」
最後までリッキーの顔をまともに見なかったクレインには、彼女がどんな顔でそれらの問いを投げかけたのかまではわからない。
「――おしっ! それじゃ、そろそろ帰るかー!」
ただ――一通りの話が終わったのか、カモンシングが声を上げながら振り返ると同時、四人は一斉に二人の元へと駆け寄ってくる。そしてそのまま、がやがやと歓談しながら、家路を歩み始める。
――リッキーは、それを一歩引いた位置から追随しつつ、見守る。
爛々と輝く少女たちの笑顔。
それに紛れて、困ったようでありながらも、満足げなクレインの表情。
明るい未来を信じて疑わない、同じウマ娘の――
――選手の姿。
「……」
徐に。
リッキーは、携帯電話を取り出す。
手早く電話を掛けた先、聞き慣れた声が応じると、言う。
「……あ、トレーナー? うん。大丈夫。予定通り、明日には戻れると思うよ。それでね……うん。例の『相談』なんだけど……」
深紅の瞳の中に。クレインの姿を捉えながら。
「決めたよ。私やっぱり……」
妖しげな笑みを口端に灯して――
告げた。
「――『あの子』と。