泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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最弱の導き、ですっ!

「――今日はここまでにしとくか」

 

 深刻そうな声で唸った庄野は、手元のタイマーとにらめっこした末、目の前の少女に告げていた。

 流れるような黒髪に、目を引く桜の髪飾り。

 ただその色合いは、いつもよりくすんで見える。

 

「……」

 

 そんなことを言われるとは思ってもみなかったソードクレインは、目を丸くする。数秒の間を置いて――それは受け入れられない、と辛うじて思い当たっていた。

 

「ま――待ってください!」

 

 ずい、と身を乗り出し、彼女は庄野に訴える。

 

「私、まだやれますよ!? もう時間もないのに、そんな――」

「やる気があるのは悪いことじゃねーけど、空回りしたら意味がねー」

 

 それは一見すれば、やる気の満ち溢れる評価すべき行動に見える。

 が、庄野は靡かず、ぴしゃりと言っていた。

 

「我武者羅にやることだけがトレーニングじゃない。休むことも大事だ」

「……」

「何、別にそんな焦らなくたっていい。一日くらい休んでも、問題ねーよ」

「……、」

 

 理解したのか、諦めたのか。

 反論をやめたクレインは、消沈した声で言う。

 

「……お疲れ様でした」

 

 そして、踵を返し、とぼとぼと歩き去っていた。

 

 殊更に小さく、弱々しい後ろ姿を見ながら、庄野は複雑な心境になる。情熱を受け止めてやりたい気持ちもあったが、これは現状、仕方のない判断だった。

 それほどまでに、クレインのメンタルには、良くない変化が現れていた。

 

 ――まぁ、無理もねーか。

 

 ただ庄野は、飽くまで冷静に、それに理解を示す。

 

 JBCスプリント。

 主に十月暮れに開催される、砂の短距離競走。

 戦線における最終目標は、その出走者の一覧が、つい先日に開示されたところ。

 対策を練るなら早い方がいい――我先に彼はそれを確認したのだが、そこに記されていた内容は、自身が予想だにしていなかったものだった。

 

 まさかな。

 何なら、未だに信じ難い気持ちだった。

 

「……」

 

 携帯電話を取り出し、とあるニュース記事を見返す。

 一面は、大々的にその事実を伝えていた。

 

 

 

 ――『砂の新星、コパノリッキー』、

 ――『JBCスプリント出走へ!』……

 

 

 

 本当に、厄介なことになりやがった。

 庄野の顔は、それを体現するように、硬く顰められていた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 夕食を済ませようという生徒たちの集うカフェテリアにて、コパノリッキーは、フォークに巻き付けたパスタを口に運ぶ。

 咀嚼の後に嚥下すると、正面に座る見慣れた顔へと目を向けた。

 

「……そっか。そっちもそっちで大変そうだね」

「うん。去年の『ドバイ』はやらかしちゃったからね……今度こそ結果残さないと」

 

 ホッコータルマエもまた、パスタを口に運びながら応じる。去年の年始近く。海外に遠征しながらも、経験したのは苦い敗戦。

 今度こそ、ファンの期待に応えなければ。タルマエの中で、早くも情熱が滾る。

 やや前のめりに過ぎるようにも見えるその様子に、リッキーはしかし、感心を抱いた。

 

「……やっぱり凄いね、タルマエは。国内だけじゃなくて、海外にまで射程伸ばしてるなんて」

「挑戦するだけならただなんだから、そこまでじゃないよ。リッキーも、やろうと思えば出来るよ?」

「いやいや……私にも……あるからさ。色々」

 

 色々? 小首を傾げるタルマエに、リッキーは曖昧な笑みで応じた。

 

「まぁでも、今回は大丈夫なんじゃない?」

 

 そしてそれを上書きするように、続ける。

 

「タルマエの実力はまだ伸び続けてるし、その時の『心残り』もないでしょ?」

「うん……? 心残り?」

「あはは。好奇心で『下級生』に絡んでたこと、もう忘れちゃったの?」

 

 彼女の軽口に、タルマエは苦笑いを結んだ。あぁ――そういえば、そんなこともあったねと。

 実際問題、去年の手痛い結果は、単純な要因だけで生じたものではなかった。不慣れな海外の戦場、いつもと違う面子、そしてファン層――

 しかし、『それ』が一端を担っていたことも、また事実だった。軽い気持ちで臨んだ戯れが、少なからぬ影響を及ぼしたことは、事実であった。

 

「……、」

 

 反省する傍らで――

 タルマエは、『あなたこそ』と思わずにはいられなかった。

 

「その点でだけ言えば、リッキーも似たようなものだと思うけどね」

「ん~?」

 

 呑気に声を返しながらも、リッキーは動じない。その様子は、タルマエが何を言おうとしているか、自分が何を言われようとしているのか、既にわかっているかのようだ。

 

「あなたの場合は、『同級生』だけど」

 

 タルマエは、皿を空にしながら言った。

 

「『好奇心』で、『遊ぼう』としてるって点ではね」

「――、」

 

 リッキーは、フォークに巻いたパスタを口に運ぶ。その刹那、朗らかな口元が妖しく緩んだことを、タルマエは見逃さなかった。

 いつも邪気なく振舞う彼女ではあるが――

 本質は、自分たちと同じ『ウマ娘』なのだな、と実感する。

 

「……いつになったら、もっと堅実に戦えるようになるんだろうね。『私たち』は」

「神の子息の一筆でもあればいいけどね~。ないものねだりだよ」

 

 勝負となれば、何一つ譲れない。本能には決して抗えない。それでいてそれでも構わない、などと考えすらするのだから、厄介なものであった。

 

「ごちそうさま」

 

 ともあれ、タルマエは食器を置く。トレーを持ちつつ立ち上がり、にこり、とほほ笑んだ。

 

「それじゃ、まぁ……お互い大変だけど、頑張ろうね」

 

 そろそろ帰るべきタイミングだ。激励を置き土産に、そこから立ち去ろうとする。

 

「応援してる――」

「――あのねタルマエ」

 

 が。

 ほかならぬリッキーが、それを引き留めていた。

 

「確かにあなたの言うことも一理あるけど。私には……んー。ひとつじゃないっていうかね」

「……? どういう意味?」

 

 ふわりとした表現に、タルマエの頭上にハテナマークが浮かぶ。小首を傾げた彼女に、リッキーは変わらぬ様子で、言った。

 

「――私ね、

 

 

 

 GⅠ、11勝目指してるんだ」

 

 

 

「…………」

 

 ――ぴり、と空気が張りつめた。

 

 それは、一見は素晴らしい所信表明のように見える。

 だがタルマエには、それを瑞々しい向上心だと評することは出来なかった。

 ……なぜならその宣言は――彼女にとって、特別な意味を持っているからである。

 

 ――現在、タルマエのG1勝利数は9。

 史上最多となる勝利記録に、王手を掛けている状態だ。

 そんな彼女に、11勝の獲得を宣言するということは――

 

「……はは。何それ。

 

 

 

宣戦布告(喧嘩売ってるの)?」

 

 

 

「……いやいや。夢はでっかく持たないとね?」

 

 明らかに空気の変わったタルマエを前にしても、リッキーは揺らがない。

 相変わらず何ら変わらず、パスタをフォークに巻きつけながら話す。

 

「『あのレース』は、そのいい試金石になるかなって思ってさ。マイルだけじゃなく、スプリントも勝てれば、最速で達成出来るでしょ?」

「……でも躓いたら、単なる時間の浪費になる」

「リターンにリスクはつきものだよ、タルマエ。私たちの『黄金期』は短い。そうでしょ? 確実に、絶対に叶えるために――やれることはやってみなくちゃ」

 

 一切引く気はない。

『譲らずに』、彼女は宣言する。

 

「……やるよ。私は必ず、やってみせる」

「……ふぅん。そう」

 

 対して、タルマエは淡白に言う。その声色は、一見すればもはや興味を無くしたように見える。だが――佇まいからは、何ら優しい感情は感じられない。

 

 赦しも。

 受け入れも。

 

「まぁ別に。目指すだけならタダだしね。好きにすればいいと思うけど」

 

 思うけれど。

 けれど、リッキー――

 

「冗談を言う相手は、選んだ方がいいよ」

「……はは。ジョーダンでこんなこと言えないよ~」

「……」

「……」

 

 ――二人の周囲だけが、異界であるかのように思われた。

 気付いていないが、無関係の生徒たちは、自然とその領域を避けて通っている。

 一触即発の空気に、誰もが固唾を呑んで様子を見守る。

 爆弾解除の現場でも見るかのようで――しかし、そのような大方の心配とは裏腹に、状況は穏やかに収まってくれた。

 

「……、」

 

 やがてタルマエが、踵を返すと――とうとう、そこから立ち去っていた。

 空気が元に戻り、いつもの光景が戻ってくる。見守っていた生徒たちが、ほっと胸を撫で下ろす中――

 

「――っはぁ~……」

 

 潜行から戻ったかのように、リッキーもまた、大きく息を吐いていた。

 フォークに巻き付けたままだったパスタを口に運ぶものの、浮かぶ顔はしかめっ面。

 

「パスタ冷めちゃった……」

 

 まぁいいや、と頭上を見上げる。

 遠いカフェテリアの天井に、近い未来の想像図を描くと、再び口元が綻む。

 まるで、楽しいイベントを心待ちにする子供のように――ぽつりと、呟いていた。

 

「……楽しみだなぁ」

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 凡人が天才に打ち勝つためには、弛まぬ努力を積まなくてはならない。

 才覚というアドバンテージは、生半可な時間と内容だけで覆せるものではない。

 スタートの時点で既に後れを取ってしまっているのであれば、当然のことであり。

 自覚しているのならば、尚更のことである。

 

 ただ、ウマ娘とトレーナーとは二人三脚。

 パートナーが故障しないよう管理するのも、トレーナーの大事な仕事だ。

 担当ウマ娘は、休めと言われたら素直に休まなくてはならない。いくら状況が待ったなしだとしても──無用なリスクを負いたくないのなら。

 本来ならご法度なのである。……そう。

 

 トレーナーに無許可で。

 勝手に自主トレーニングに励むことなどは。

 

「──っ、はぁっ、はぁ……」

 

 どんよりと立ち込める曇り空の下。

 下校時間を過ぎ、誰もいなくなったグラウンドにて、クレインは立ち止まる。

 膝に手を突き、呼吸を整えながら、前方を見つめる。

 

 そこには誰もいないはずだが、瞳は確かに目に不可視の影を捉えていた。

 可愛らしく揺れる長い鹿毛――コパノリッキーの後ろ姿を。

 

 かの一大競争にて、彼女と走ることは、避けられない事態となった。

 庄野もその事実を深刻に捉え、過去のリッキーのレース映像を参考に、有効になりそうな戦術の考案に共に努めた。

 飽くまで冷静さを失わない彼が、実際のところ該当のレースに、何を思っているかはわからない。

 ただ、そのようなパートナーの努力とは裏腹に、クレインの思考は暗く沈んでいた。

 

 ――無理だ、と。

 この子には、勝てないと。

 

 もちろん、挑戦する前からそんな弱気ではいけないことなど、彼女もよくわかっている。

 だが目に焼き付いたその走りが、姿が、戦果が――格が。何よりも厳然たる事実となって、眼の前に立ちはだかるのだ。

 

 駄目だ、と。

 いくら観察しても。

 いくら研究しても。

 いくら、分析しても……

 

 ……あの子に勝てるビジョンが、

 浮かばない、と。

 

「……、」

 

 だからこそ、クレインは立ち止まらなかった。

 そのような深刻な現状だからこそ、一時も時間を無駄には出来ない。

 凄まじい才能の開きがあるからこそ――ほんの少しでも、トレーニングしなくては。

 たとえトレーナーに。

 休むことを、指示されていても。

 

 ……そうだ。これまでと同じだ。

 自分は、ただ泥臭く努力を積み重ねてきただけの凡人。

 立ち向かう相手が変わっただけ、やることは何も変わらない。

 

 いつも通りに。これまで通りに。頑張ればいいだけ――そうすれば。

 きっと出来る、きっとやれる。きっと、勝てる。

 

 勝てる。

 勝てる、

 勝てる……

 

 ……勝てる。

 はず……

 

「……っ」

 

 とにかく、前を向く。

 とにかく、息を入れる。

 眼の前に広がる、長大な直線を見据えて――足に力を入れる。

 

「クレインさぁーんっ!!」

「……」

 

 ――闇に喘ぐものにとって。

 光は、何にも代えがたい希望だ。

 だが、その時ばかりは、クレインは眉を顰めてしまっていた。

 

 旧知の親友――

 フェアリィルナが、慌てた様子で、彼女の元に走り寄ってきていた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 デタラメに明るい彼女の性格に、これまでどれだけ助けられてきたかわからない。

 テストで点数が振るわなかった時。先生に怒られた時。なんとは無しに虫の居所が悪かった時。

 太陽が夜明けを照らすように、彼女がそれを取り払ってくれていた。

 

 彼女は何も変わらない。転校したって、何一つ変化はない。

 どのような状態であれ、状況であれ、それが使命であると言わんばかりに、振る舞いが大きく変わることはない。

 ……そしてそれは、今この状況でも同じだった。

 

「何をしてるんですかこんなところで!! 駄目ですよ!! もうすぐ雨降るらしいですし!!」

 

 何ならもうすぐというレベルではない。今、既にぽつぽつと降り始めている。

 一体いつから気がついていたのか、自分が気づいていなかっただけで、実はずっと前から存在を認知していたのか。

 話しかけられるタイミングを伺っていたのか。

 

 だが、クレインにとっては大きな問題ではなかった。

 彼女が今、ここにいる現状でさえ、自分の行動に、大きな影響を及ぼすことはない。

 

「――あっ」

 

 フェアリィの存在を振り切って、クレインは走り出そうとする。

 瞬間――ぐらりと視界が揺れ、よろめく。

 たまらず再び立ち止まった彼女に、フェアリィが慌てて駆け寄った。

 

「クレインさん!」

 

 肩を支えられ、クレインはなんとか体勢を保つ。

 朦朧とする意識を繋ぎ止めようと、額に手を当て、呼吸を整えた。

 宛らその様子は、体調崩したての患者だ。

 

「だ、大丈夫ですかっ!? 駄目ですよ無理しちゃ! ちょっと熱もあるみたいですし……! ちゃんと休まないと!」

「……いいの。休んでる暇なんかないんだから」

「いやいや! もうトレーニングは終わったんじゃないんですか!? 勝手に自主練なんてしたら怒られちゃいますよ!?」

「……構わない。無理しないと、超えられない壁はあるの」

 

 クレインは、やや乱暴にフェアリィの手を振り払う。

 眼光は失われていないが、明らかに先程よりも淀んでいる。

 疲弊していることは明白だが、鞭打つように足を踏み出そうとし――

 ぐらり、と視界が揺れた。

 

「――っ」

「あ……!」

 

 足がもつれ、危うく倒れそうになったところを、フェアリィが寸でのところで受け止めていた。

 本来なら感謝すべきその行動でさえ、クレインは舌打ちを以て受け止める。

 それがこの上ない屈辱だ、とでも言わんばかりに――

 

「駄目ですってば!」

 

 そうとは知らず、フェアリィは、懇願するように訴えかける。

 

「そんなんじゃ、今に怪我しますよ! 今日はやめにしましょう! ね!」

「……」

「あ、ほら! 私が部屋でおもてなししてあげます! なにか欲しいものがあったら言ってください! すぐご用意しますので!」

「……さい」

「あ! それとも外にお出かけをご所望ですか? おまかせを! 要望に合う場所を、すぐに見つけてきますよっ!」

「……うるさい……」

「大丈夫です! 今日一日は召使になりますよっ! クレインさんのお好きなように私を――」

「――うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい、うるさいッ!!」

 

 ――ソードクレインは。

 これまで幾度となく、フェアリィルナの明るさに助けられてきた。

 それを彼女もよく自覚しているし、そのたびごと、言葉であろうと内心であろうと感謝してきたのだ。

 

 ……だが、こと現状においては。

 彼女のその明るさは、裏目に出ていた。

 

 クレインは、勢いよくフェアリィの胸ぐらをつかむ。

 引き寄せた彼女の瞳を、鬼気迫る表情で睨みつける。

 今にも食わんばかりの様相で――

 

「わかんないわよ!! あんたになんか!!」

 

 怒鳴りつけていた。

 

「『下』の方でのうのうとやってるだけのあんたに、わかるわけないッ!! 私はあんたとは違う!! みんなの期待に応えなくちゃいけないのッ!!」

 

 一度始まった感情の奔流は、そう簡単には止まらない。

 

「時間を無駄にしてる暇なんて無い、怪我に怯えてる余裕なんて無いッ!! ほんの少しでも前に進まないと、私じゃあの子に敵わないのよ!!」

 

 ただその奔流も、時と共に冷水のような冷静さに取って代わり始め――

 

「お願いだから邪魔しないで!! あんたの自分勝手のために、時間を浪費するわけに……は……」

 

 ひとしきり怒鳴り切って、頭が平静を取り戻した時。

 彼女は、自分が何をしたのかを自覚していた。

 

「……ぁ」

 

 フラッシュバックのように、先の行動が蘇る。

 身体が急速な悪寒に襲われ、冷や汗が吹き出てくる。

 慌ててフェアリィの両肩を掴み直し、クレインは訴えかけた。

 

「ご――ごめん!! 違う、違うの!! そういうつもりじゃなくて……!!」

 

 何が違うというのか?

 自分の中の冷静な部分が、冷酷に自分に語りかける。

 撤回しようと足掻くごとに、変えようのない事実がより確固たるものとなっていく。

 

 ――自分は、無二の親友に、心無い言葉を吐きつけたのだ、と。

 

「あ、あなたを否定したかったわけじゃなくて……!! で、でも私……みんなの期待に応えたくて、でもだから、私……わた……し……」

 

 自分自身に追い詰められ、感情の袋小路に迷い込む。

 どこにも逃げ場がないことを感じると、もはやクレインは――それいじょうの言い訳すら、満足に連想できなかった。

 

「……ごめん」

 

 崩れ落ちたクレインは、そう言葉を零すしかなかった。

 

「本当に……ごめん……」

 

 ――限界だった。

 彼女の精神は、もう、限界だった。

 

 ウマ娘は、幼少期からアスリートの世界に触れていることもあってか、早期から精神的に成熟していることが多い。

 だがそれでも、一歩引いて見れば、彼女らはうら若き少女でしかない。

 にも関わらず、多くのファンのみならず、トレーナー、地元の友人に、恩師の期待まで背負い、応えようと尽力し続けていれば――いつか、限界が来ることは想像に難くない。

 

 一介の少女が。そのような重圧を前にして。

 いつまでも、平気でいられる、はずがないのだ――

 

「……」

 

 雨脚が強まり始める。

 グラウンドの染みが広がる。

 しゃがみ込むクレインは、もはやこれ以上どうすればいいかもわからず、俯くしかない。

 

 フェアリィは今、どんな顔をしているのだろう。

 侮蔑しているのか、失望しているのか。

 どちらにせよ、それをまともに受け止める気力のないクレインは、ただただ、無言で、行動の続きを待つことしか出来ず――

 

「…………」

 

 ――どれだけの時間が経ったのか。

 雨は本降りの入口に立ち、質感で身体が濡れているのがわかる。

 静々と、その足音も大きくなり始めた。

 

「……、」

 

 フェアリィが、息を吸う。

 クレインは、身体を強張らせ、次なる言葉に覚悟を決める。

 どんな心無い言葉を、どんな手ひどい仕打ちを受けても、受け入れられるように。

 

「……クレインさん」

 

 強く、瞼を閉じる。

 

「……、」

 

 判決を待つかのような、天罰を望むかのような。

 無言で待ち続けるクレインに――しかし。

 

「クレインさん!」

「――っ!?」

 

 瞬間――

 クレインは、驚愕に息を呑む。

 グイっと勢いよく引き上げられる感覚を覚えて――思考停止に追い込まれていた。

 

 何が、何を、どうなって。いくつかの思考の段階を踏んだ末、ようやく、自分が『引き上げられた』という事実に辿り着いた。

 気付けば自分は、フェアリィの肩に顎を置いた状態になっている。

 このような状態になる体勢など――クレインはひとつしか知らない。

 

「――ちょ、」

 

 事実を認識し、クレインは慌てて藻掻き始める。

 恥ずかしさから、意味不明さから、困惑から――

 

「っ……!?」

 

 が、そんな彼女の動きを封じるように、フェアリィは強くクレインを抱き締める。

 身体を襲い始める息苦しさに、藻掻く動きは更に激しくなる。

 だが込められた力は想定以上に強く、解ける気配はない。

 

「は、離して……!」

 

 訴えかけるも、フェアリィの力は強まる一方だ。このままいったら骨まで折れるんじゃないか――などという危機感を抱くと同時。

 強まり始めていたはずの雨が、止み始めているのを感じた。

 

「――っ!」

 

 ようやく、フェアリィはクレインを解放する。

 長い潜水を終えたように、まともな呼吸を取り戻す。

 落ち着いた意識が真っ先に宿すのは、鋭く尖った攻撃的な感情だ。

 

「な、」

 

 それに押されるまま、彼女は声を吐きつけた。

 

「何すんのよ! いきなり「はいっ! クレインさん!」……は?」

 

 が――すぐさま放たれたフェアリィの声が、それを乱雑に上書きする。

 その顔はこれまでと同じように、底抜けに明るいものだった。

 

 薄闇を取り払う太陽。

 

「これで、あなたの中の『最弱』は、吸い取りましたっ!」

 

 雨量が僅かなものにまで減る。

 雲間から光条が差し込む。

 フェアリィの顔が、薄明るさに照らされる。

 

「クレインさんの中には、もう、あなたの持つ『最強』しかありません!」

 

 根拠も証拠もない。

 論拠も証明もない。

 それなのに、力強く演説する少女の姿は、神々しくすらあった。

 

「……その通りです。所詮私に、クレインさんの気持ちはわかりません」

 

 彼女は、申し訳なさそうに言う。

 

「下の方で這いつくばってばっかの私に、上の方で頑張るクレインさんの気持ちなんて、わかるわけないんです」

「い――いや。そういうつもりじゃ」

「でも!!」

 

 クレインの否定の言葉すら、溌剌と遮られる。

 どんよりと立ち込めていた雲が、晴れていく。

 

「でも、クレインさんが、今までどんな逆境も乗り越えてきた、とってもとっても強い人だということを、私はよく知っています!

 だってその証拠に! 今までクレインさんは、いっぱいいっぱい、大きな大会にも、難しい勝負にも、勝ってきたじゃないですか!」

 

 だから、大丈夫。

 きっと――大丈夫。

 

「恐怖なんてへっちゃらです! 怖がらずにいきましょう! あなたならきっと……きっとやれます! 今までの自分を信じて、これまでの成果を思い出して、思うがままに、全力で……やってやりましょう!」

 

 きっとやれる。

 絶対に、やれる――

 

「――大丈夫です!」

 

 フェアリィが、自分の胸に手を当てる。

 淀みない瞳が、クレインを捉える。

 根拠のない――それでも、自身に満ち溢れた笑みを、確かに浮かべながら――

 

 言った。

 

 

 

「――最弱()が着いてます!」

 

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