ゴール後しばらく駆けて、やがて立ち止まる。
息を整えながら、ターフビジョンを見直した。
着順は確定、覆ることは無い。
1着は1番、2着は10番。
着差は――アタマ差。
一瞬でも油断していれば、一時でも諦めていれば、きっと手に出来ていなかった勝利。
大勝とは言い難い。辛勝、ぎりぎりの制覇――
人々はそう評するのだろう。だが結果は結果、勝敗は勝敗だった。
……やった。
「……、」
私。
私――
「……っ、」
勝ったんだ――!
「――!!」
空に向かって咆哮する。
それは、いつも冷静な彼女にしては、意外な行動だった。
それだけ抑え切れないほど、湧き上がる喜びは強烈なモノだった。
最後の最後に、勝負を棄てようとしていた――だけに。
「……」
そんな姿を、リッキーもまた遠目に見守る。
可笑しそうに笑いながら、自分の手のひらへと視線を移していた。
汗ばみ、小さく震えている手。
……手を抜かなかった、と言えばウソになる。
そもそも適正距離じゃなかったし、出遅れだってしたし――負けた理由、言い訳なんて、探そうと思えばいくらでも見つかる。
でもそんな言葉を並べたって――
勝ちが勝ち、ならば。
負けもまた負け、なのだ。
「……、」
リッキーは、クレインの元へ歩み寄る。
一頻り興奮を発散し、ようやく落ち着いたようだ。
「クレインちゃん」
声を掛けると、彼女は振り返っていた。
その表情は――本当に晴れやかで、大望を成し遂げたよう。
「……、やられたよ。まさか最後の最後で、あんな追い上げをしてくるなんてね」
予想外で――猛烈な追い上げだった。
可能性を完全に捨て去っていたわけではなかったが――まさか本当に、あんな無茶苦茶なコース取りをしてくるなんて。
勝つためとはいえ、普通はビビッて選べない選択肢――
――イカれてる。率直にリッキーは、そう思った。
そしてそういう面で――きっと『差』が出来たのだろうな、とも。
「……きっとターフでまみえるのは、これが最初で最後。トレーナーにワガママも言えないからね。もう戦えないのは……悔しいけど」
それでも、経験したことのない戦いだった。
初めてする体験だった。
とても、とても、価値のある競走だった。
「――ありがと」
だから。
だから――リッキーは、手を差し出し、言った。
「いい勝負だった」
「……、」
その感情を、想いを受け取り、クレインもまた微笑む。
こちらこそ――と、内心で讃えつつ。その手を取った。
『――!!』
それを見てか見ずか、再度盛大な歓声が上がった。
思わず観客席を見て――すっかり平成に戻ったことで、羞恥に委縮してしまうクレインだったが。
「……あ」
リッキーはと言うと、余裕そうに手を振り返していた。
敗北という苦渋を呑みながらも、こうしてファンサービスまでしてのける。
踏んだ場数の差なのかもしれないな――なんて、感心してばかりもいられない。だからクレインもまた、それに倣い、客席に手を振っていた。
JpnⅠ、その距離の頂点を争う一大競争。
ともなれば、その一番の栄光を掴み取ったものには、相応の見返りがあるものである。
賞金はもちろんことだが、それだけ強いという証明なのだから、周囲からの眼差しも大分に変わる。
実際、クレインを応援しようというファンは非常に増えた、言ってしまえば、適切な見返りは目に見える形で受け取った。
……だが取り巻く全てが、そのように何かを与える方向に向くとは限らない。
「ん~~……」
朝の教室。
いかにも不満げに声を漏らすのは、スイープトウショウ。
「えっと……スイープちゃん?」
それを見て、困ったように笑うのはキタサンブラックだ。
「気持ちはわかるけど……睨んでても『記事』は変わらないよ?」
諭す言葉に、しかしスイープの表情は変わらない。むしろ現実を突き付けられたことで、機嫌はさらに悪くなったように見える。
かの競争から一日。関連する記事が、早朝の新聞に掲載されたのだが――
一面を飾っていたのは――優勝したソードクレイン、ではなかったのだ。
記事にでかでかと印字された文字はこうだ――『新星、出遅れも何のその!』 『あわや大敗の危機に、執念の2番手!』 『将来に高まる期待』――
そう。大衆が注目したのは――むしろ2番手に終わってしまったもう『片方』。コパノリッキーの方だったのである。
元々、周囲から期待を寄せられている存在だ。多少なり人気を持ってかれる、とクレインも思ってはいたが。
まさかこうまでしっかり掻っ攫われるとは、思いもしなかった。
「……もう。確かにあの『追い上げ』は凄かったけどさ。にしたってもうちょっと扱いってもんがあるんじゃない?」
「まぁ、記事は注目を集めないと意味がないしね。しょうがないよ」
スイープを落ち着かせるのにダイヤも参戦するが、その感情は簡単に収まりはしない。
となれば、とばかりに、関心は当人――クレインの方へと向いていた。
「――ねぇ! アンタはどう思うのよ!」
当事者でありながら我関せず、といった様子の彼女に、ずい、と顔を寄せるスイープ。
クレインは、死角から差されたように、分かりやすく動じていた。
「記者にこんな扱いされて、悔しいとか思わないわけ?」
「ん、んー……」
ただ、その動揺も一瞬。
憤慨するスイープの気持ちを汲み取り、生じる結論はシンプルな物だ。
「……まぁ、いいんじゃないかしら別に……どうでも」
「どうでも……!?」
がびーん――と言わんばかりに硬直するスイープだが、それはクレインにとって強がりでも虚勢でもない。
自分でも驚くくらい、本当に――そんな現実は、どちらでもいいと思ったのだ。
だって、自分が勝った事実は変わらないし。ファンだって増えたし。喜びも……確かに噛み締めた。
むしろこれ以上は、高望みとすら感じている。第三者がどう思おうが、そんなことは些事だった。
――やり遂げた。
クレインには、その事実だけで十分だった。
「……ま、まぁ。アンタがいいって言うなら、それでいいけどさ」
「そうそう。ケアの気持ちを持つのはいいけど、ほどほどにしないとね」
「べ、別に心配したわけじゃないから!」
「あはは……」
茶化し気味に言うダイヤと、いつものように叫ぶスイープ。困ったように笑うキタサン――
それを微笑ましく見つめる傍ら――クレインの視界に、ある『者』が入った。
「――?」
それは教室の入り口。凛々しい顔つきの黒鹿毛は、きょろきょろと教室の中を覗き込んでいる。
「……クラウン?」
「あ――おはよ、クレインちゃん」
名を呼ぶと、彼女――サトノクラウンは、緩く手を振りながら教室に入ってくる。怪訝に思ったのは他のメンバーも同じで、目を丸くしたダイヤが問いかける。
「クラちゃん。どうしたの? 誰か探してる?」
「んー、まぁそんなとこ。もうすぐ始業なのに、見当たらないのよねぇ」
顎に指を添えたクラウンは、深刻そうな声色で言った。
「――リッキーちゃんが」
爽やかな青空の真下。
トレセン学園の、とあるベンチにて。
「リッキー」
それまで暗い表情で俯いていた少女――コパノリッキーは、呼び声に振り向くと、その勢いのままベンチから立ち上がっていた。
投げかけた視線の先。歩み寄ってくる人影は、ふたつ。
「……タルマエ。アキュートさんも……」
ホッコータルマエは、どこかほっとした表情を。
ワンダーアキュートは、優雅に手を振ることで、それに応じていた。
「探したよ。始業になるのに見当たらない、ってクラウンちゃんが言うから」
「あ……あぁ。あはは。ごめんごめん。ちょっと……気持ちが落ち着かなくて」
「昨日の試合のことかい?」
アキュートの言葉に、リッキーは押し黙る。図星、であった。
「……まぁ、長ぁく走っていれば、負けのひとつやふたつは経験するさ。落ち込むことはないよ」
「……全力で戦っても、欲しいものが手に入るわけじゃないんですね」
「そりゃあそうさ。むしろ全力を尽くすほど、手に入らなかった時の喪失感は大きくなる。それに恐れて、全力を躊躇う子も中にはいるだろうさ」
しかし――そうなってしまえば、本当にもう、何も手に入らなくなってしまう。
「立ち止まらないことさ。そうしていれば、いつか、望む夢も手に出来るよ」
「……出来るんでしょうか。私に」
「何言ってるの。私に真正面から言ったんだから。今更前言撤回なんて許さないよ?」
アキュートの助言、タルマエの発破。それが嫌味ではなく、彼女らなりの善意であることは、リッキーもよくわかった。
だが理解したうえでも、胸のうちに巣食う感情は、如何ともしがたい。
受け入れたいのに。認めたいのに。最後に残った意地という名の防波堤が、その決壊を許してはくれない――
……あの結果を。
否定したくなって、やまない。
だって、レースは『アタマ差』だった。ほんの少しの差――もしもう少し速ければ? コース取りが上手ければ?
勝っていたかもしれないのに――
「たらればを言ってても、現実は変えられないさ」
押し黙るリッキーに、アキュートは優しく語りかけた。
「あの時ああしていれば。こうしていれば。……戦っているからこその苦悩さね。なにせ勝負は、極限の選択の連続……選んだことで手にした結末を見て、選ばなかった未来を想ってしまう気持ちは……あたしもよくわかるよ」
「……わかるん、ですか?」
「うん。わかるよぉ……」
アキュートの瞳が、ほんの少し陰る。
想起するのは、いつかの歯痒い敗戦の記憶。
「痛いほど……わかる」
悲しみを知っている。
痛みは、もっと知っている。
だからこそアキュートは、その後どうすればいいかを、経験として知っているのだ。
「……敗北を、力にしなくちゃね。そうでないと……どこへもいけなくなってしまうよ」
「……」
タルマエはもはや何も言わない。自分の出る幕ではない、と言わんばかりに、リッキーに背を向けるばかりだ。
その優しげな言葉に――リッキーは、自虐的な笑みを零す。
「……そうですね」
果たして、彼女は言った。
「立ち止まってなんていられない。うじうじ言い訳する余裕があるなら……次のことを考えて、動かなくちゃ」
自分に言い聞かせるように。自分を平伏させるように。
言った――それでも、全ての悔恨は振り払えない。
「……あぁ、でも――でも、なぁ……」
勝者が憎らしいわけじゃない。
見事に勝負を下した本人を、尊敬すらしている。
「あとちょっと、だったのになぁ……」
一度負けたから何だというのか。違う戦場で勝てなかったから何だというのか。
気にしなくていい。引きずらなくていい。忘れて、次なる目標を目指すんだ。わかってる、わかってる、のに――……
「……っ、」
湧き上がる想いは、溢れてやまなかった。
「……悔しい……なぁっ……!!」
「……」
俯くリッキーから、嗚咽混じりの声が漏れる。
見かねたアキュートは、その隣に座り、背中を擦ることで落ち着かせることにした。
タルマエはなおも、背中を向けたままだったが。
何かをこぼさないように、その目は、頭上の青空を見つめていた。
……遠く、始業を告げるチャイムの音が聞こえる。
「――ホンット凄かったんですからねクレインさんっ!」
放課後。フェアリィルナは、ソードクレインに向けて、思いの丈をぶつけていた。
「スタートもさることながら、最後のあのズバーンッって追い上げ!! イノセントカップの時の興奮を思い出しましたよ!! 私、思わずその場に飛び上がっちゃったんですからね!!」
「そうね。ありがとう。でもそれもう三回目だからね」
授業合間の休み時間に一回、お昼休みに一回。そして今の一回。褒められることは悪い気はしないが、そこまで続けられると流石にしつこかった。
が、どうやらフェアリィは、そんなことはお構いなしのようだった。
「何言ってるんですかクレインさん! 楽しいことや嬉しいことは、何度も、何度でも、繰り返したくなるものでしょう!!」
「うん……まぁ、わからないでもないわ」
「これからも定期的にお祝いしますからね! 週一くらいで!!」
「それはちょっと」
えー、と不満の声を上げるフェアリィ。駄目に決まってんだろ、と吐いたため息は、クレインには久々のもののように感じられた。それだけ、このようなくだらない――日常会話からは、かけ離れた日々を送っていた。
雨の中、滾る激情に押されて、フェアリィを怒鳴りつけてしまったのは記憶に新しい。こうしてまだ、いつものように話せているのが不思議だ。あの時――なにか間違っていれば、きっと自分たちの仲は、修復不可能なほどに決裂してしまっていただろう。
底抜けの明るさと――真っ直ぐさ。彼女の性格に、クレインは救われたのだ。
「……、」
それを実感して、クレインは呆れつつも、フェアリィに言った。
「……あんがとね」
「……!」
あれ、なんかデジャヴュ。
そう思った時には、フェアリィは動いていた。
「クレインさんの感謝の言葉ッ……!! やってしまいましたっ!! こんなことなら録音機器を持ってくるべきでした!! クレインさん!! もう一度!! もう一度今のお願いしますっ!!」
「……騒いでると苦情言われるわよ」
「もう一度今のお願いします……!!」
「潜めればいいって問題でもないから」
懐かしさに微笑みながら、クレインは時間を確認する。ちょっとの立ち話のつもりが、思っていたより話し込んでしまった。そろそろ――行かなくては。
「じゃ、また寮でね」
「はい! 頑張ってください!」
ぶんぶんと手を振る彼女に見送られて、クレインはトレーナー室へと向かう。程なくたどり着き、扉を開けると、トレーナー――庄野は、珍しく起きた状態でクレインを出迎えていた。
「……どうも」
「おう。おつかれ」
「め……珍しいですね。起きてるなんて」
「いやいや。そりゃ今日みたいな重要な日にゃあな。おちおち眠ってもいられねーだろ?」
顔合わせ初日に寝てたくせに何言ってんだ、と思いつつ、クレインは入室する。
「まぁなんだ。まずはJBCスプリント――優勝おめでとう」
パイプ椅子に落ち着いた彼女に、庄野はまずそのような言葉を投げかけた。そこには何故か、間合いを測るかのような慎重さが感じられた。
「言わずと知れた短距離路線の最高峰だ。それを――あの『新星』をも抑えてぶん取れた意義は大きい。全く――大した奴だよ、お前は」
「……私だけの結果じゃないですよ」
褒め称える庄野に、クレインは言う。
照れ隠しではなく。本当に純粋な想いとして――
「私だけじゃ、こんなこと出来なかった。ひとりじゃ……ここまで、来られなかった。私だけじゃない。この勝利は……」
私を支えてくれた。
みんなのものです――と。
「……」
面食らうのは庄野だった。
彼も彼で、そんなことを言われるとは思っていなかったのだ。
「……、そうかい」
「それで、だ」
声色が変わる。
閑話休題――というより、ここから本題、だった。
「今日、ここに来てもらったのはほかでもねぇ。今後の方針を決めるためだ」
「まぁ……そうですよね」
それに、クレインは疑問を抱いていなかった。むしろその選択は、当然のものだとすら感じていた。
短距離戦線は――元より、マイル以上の戦線と比較すると、あまり盛り上がっているとは言えない。
そもそもの距離がマイルまでしか無い砂戦線ともなれば、なおのことである。
JBCスプリント。砂短距離戦線の最終目標にして、最高峰とも言われるレースではあるが――
実のところ、ここを制覇してしまうと、これ以上どこへ行けばいいか、というのは、覇者にとっての共通の悩みだった。
「一応お前にも、マイルの適性がないわけじゃない。ここらで距離を変えてみるのもいいと思うんだが……」
「言うは易し、ってやつですね。そのための調整も練習も、言うほど簡単じゃないですからね……」
スプリントとマイルは似て非なるもの。
挑むとなれば、それぞれ性質の異なる能力を要求される。
簡単な話ではないが――かといって、このまま短距離専門で突き進むのも、キャリアとしては面白みがないというか、もったいないところもある。
かのJBCスプリントの連覇――というのも憧れるが、もっと自分の可能性を試してみたい、という感情があるのも事実だった。
はてさて――どうするべきか。思い悩むクレインの傍ら、
「……」
庄野は、どこかバツの悪そうな顔をしていた。
クレインも、それにすぐに気づく。小首を傾げながらどうしたのか訊ねると、彼はいや、とわかりやすく言い淀んでいた。
「なんつーか……一応、この先のプランは、無くもないっつーか」
「え……そうなんですか? じゃあそれで――」
「けど、どっちかというとそれは、
軽薄で、斜に構えがちな男。
クレインの、庄野に対する印象はそれだった。彼が――そこまで躊躇いがちになるのもそうない。
一体何を考えているのか――クレインの胸にも、一抹の不安が灯り始める。
「だからまぁ……お前に無理強いする割には、見返りがないっつーか……」
「……でも、あなたが自分勝手なのは、今に始まったことじゃないでしょう」
ただ――そう思いながらも、そのような印象を持っていることも、また事実だった。
「大丈夫ですよ。軽蔑したりしないですし。遠慮なく話してください」
「……それ諦められてるって思うべきか? 信頼されてるって思うべきか?」
「…………後者に決まってるじゃないですか」
「その『間』はなんだ。その『間』はよ」
まぁいいや――としかし、庄野はとうとう、覚悟を決めたらしかった。
後頭部を掻きながら、クレインと目を合わせる。
気怠げながら、力を失っていない、確かな意志を宿した眼光。
見たことのない真剣な表情に、クレインの背筋も、自然、伸びる――
「――、」
時計が時を刻み。
陽の傾きが感情を追い立てる。
場の空気が、それごとに張り詰めていく中――
「クレイン、」
庄野は、言っていた。
「……『芝』に、
興味はねーか?」
……あぁ。
でも私は。
まだ、気付いていなかったんだ。
「……フェアリィ? どうしたの?」
「――あっ、大丈夫ですよ! 行きましょう、トレーナーさんっ!」
この時の私の。
軽率な選択が――
『あの子』の運命を。
大きく、狂わせることになるなんて。