シルクロードステークス。
京都競レース場にて、例年1月下旬頃に開催される短距離競走だ。
グレードとしてはGⅢ。短距離重賞競走の最高峰――『高松宮記念』の前哨戦として知られている。
戦場は芝。
言うまでもなく、砂戦線で走るウマ娘には、縁遠いはずの競争である。
だがソードクレインの姿はそこにあった――観客席ではなく。
――ターフ上に。
「……」
適度、という言葉では収まらない緊張。
そんな彼女を、庄野も深刻そうな面持ちで見守る。
彼女がこうして選手として参加しているのは、決して間違いなどではない。
二人が、互いに綿密に、話し合いをした結果であった。
全ては――JBCスプリント直後にあたる、二ヶ月前に遡る。
「――芝、ですか……?」
庄野からの言葉を、クレインは驚愕を以て受け止める。だが、すぐには受け入れることは出来ない。何かの間違いではないかと、やや困惑しながら、探し出した言葉を庄野に投げかけてみる。
「……えと。それってその、芝を研究するのに興味ないかとか、そういう……」
「悪いがそういうんじゃねぇ。お前が……直感的に理解してる意味で正しい」
庄野は、それを冷静に否定していた。軽薄ではない。斜に構えてもいない。いつもの彼からは想像もつかない、神妙な声色。
思考の逃げ道を断たれたクレインは、改めて突き付けられた現実を吟味する。つまりはそれは――
芝を走ることに、興味はないか。
芝で戦うことに、興味はないか。
「……転向する、ってことですか……?」
無言が、何よりの答えだった。時計の針の動く音が、いつもより大きく聞こえた気がした。
……それまで砂で走っていたウマ娘が、芝で走るということは、実はそこまで珍しいことではない。
どういった
実際、砂で戦績の振るわなかったウマ娘が、芝に転向したところ、優れた戦績を収めたという話はよくある。
ただそれは――飽くまで戦績が振るっていなかった、という話だ。クレインのように――
砂で一定の成功を収めておきながら、芝に転向する、となると、また話は変わってくる。
やり慣れた、適性の明らかな戦場を離れ、また別の世界へ行く。
新たな可能性の開拓、と言えば聞こえはいいが――実行するに相応のリスクがあるのも確かな話で。
「……、」
――つまりは。
まずは、クレインは問いかけたかった。
「……理由を、訊いてもいいですか」
「……」
質問に、庄野はすぐには答えない。腕を組み、中空を見つめてから、目を閉じて――と、彼にしては珍しいことに、明らかに考えを整理するような素振りを見せる。
あるいは、口にしようとしている言葉を、必死に吟味している風か――
どちらにせよ、五秒、十秒、と、無言のままで、時間が過ぎる。都合二十秒ほどの時が経った時、彼は瞼を開きながら視線を戻し、口を開いた。
「……さっきも言ったが、お互いのキャリアのため、だな」
その声質は、クレインには、覚悟を決めたもののそれに聞こえた。
「どっちの戦場にしろ、優れた戦績を収めていれば、そいつの今後に有利に働くことは言うまでもねぇ。一つの武器だけを扱える者より、複数の武器を扱える者の方が、世の中重宝されるもんだ――わかるだろ?
お前が短距離戦に、無類の適性を持ってることはよくわかった。もしかしたらその走りは、芝でも通用するかもしれねぇ……試すのも悪くないんじゃねぇかって思ってな」
「わ……わからないでもないですけど。で、でも……」
庄野の言い分は、クレインにもわかった。いい加減全幅の信頼を置いているとして過言ではない相棒だ、しかしだからこそ、彼女には、勘案して当然の疑問が湧いてくるのである。
「……ちょっと待ってください。どうしてこの時期なんです?」
そう――時期、だった。
何せソードクレインは、まだ
そんな時に――戦場の転向? 本気で言ってるのか? 包み隠さず言うならば、彼女の率直な感想はそれだった。
「いや……だからこそだ」
対して、庄野はそう返すのである。
「お前は今、知識も身体能力も、一番吸収しやすい時期にいる。今なら……急な戦術の転換にも、柔軟に対応出来る。逆に今じゃなかったら、適応出来なくて、取り返しのつかないことになっちまう。危険な賭けだからこそ……今やるのがベストなんだ」
「……」
――危険な賭け。
表現が大袈裟だとは、クレインも思わない。転向、と簡単に言うが、そう簡単に出来るものではないということを、彼女もよく知っている。
ただ、彼の言うことに一理あるのも事実だった――ひとつの山場を越えた自分が、更なる高みを目指すなら? 内心に問いかければ、返ってくる答えは紐解くべくもない。
単純で明快だった――躊躇うことも、隠すこともなかった。
「……、」
だから、クレインはぐっと意を決して、庄野と目を合わせる。
相も変わらず、どこか淀んだ、厭世的にも見える瞳。
「大丈夫です、」
彼女は言った。
「やってみ「本当にいいのか?」……へ?」
が――
出鼻を挫かれたように言葉を遮られ、クレインはきょとんとする。
コミカルな彼女の反応とは裏腹に、庄野の目は、更に深刻に鋭くなっていた。
「事態が……お前が思ってるほどシンプルじゃない、ってことはよくある。想像が及ばないんじゃない――
そうじゃないとフェアじゃないしな――いつになく回りくどく感じる彼の発言に、クレインは、一度は振り払った不安が戻ってきたことを感じる。
――物を知らないだけ。確かにそうかもしれない。単純で明快、と自分は考えたものの。果たしてその理屈は――どういった自信からやってくるのか。
どの立場から――そんなことを言っているのか?
「そもそもの話だ」
視線を落とし掛けるも、庄野の声で我に返った。彼は続ける。
「クレイン。芝と砂の違いはなんだ?」
「え……違いですか?」
「誰もが転向は難しいという。誰もがそれを感覚的に理解してるだろうが、理屈として知らない奴は多い。じゃあそもそも――芝と砂。そこにある違いってのは、一体なんだ?」
「……」
言われるがまま、クレインは考える。芝と砂の違い。と言われたら。思い当たるのは……
「……速度、ですか?」
「それは決定的じゃない」
「挑戦する子の絶対数の少なさ……とか」
「少し役不足だ。違いを語るのには、それだけに留まらない」
「バ場が、天気に左右されやすい?」
「それも確かに間違いじゃない。だが明瞭な違いか、と言われたらまた違う。……もっと、もっともっともっと単純なことだ」
「……」
それだけ言われて、クレインは、もしかしたら認識が『進み過ぎ』なのかもしれない、と思い直す。
もっと、もっと単純で、素人目にもわかること。
そう、それはたとえば……自分が何も知らない観客なら。無関係な他人なら。
何一つ知らない、初心者なら。
芝と砂の違って……もしや。
「……、」
思い至って、クレインは言った。
「……し、
芝を走るか、砂を走るか……?」
「――そうだ」
まさか――というそれを、果たして庄野は、肯定していた。
「芝と砂ってのはな。走る戦場が違うんだよ。選手からしたら当然で、客からしたら当たり前のことかもしれないが、転向を志すウマ娘にとっては、決して無視出来ないモノになってくる」
何故かって?
「両者は……『厚み』が違うからだ」
芝の厚み。砂の厚み。
それが何だというのか? そんな考えこそ、『素人考え』だった。
「だいたい10cm前後――それが日本の競レースにおける砂の厚みだ。*1対して芝は、厚みなんて合って無いようなもの。直接地面を蹴ってるのとほぼ変わらなくなる――つまりはそれだけ、足に力が伝わりやすいってことだ。
……加えて、厚みがあるってことは、それだけ力を込めて走ってるってことになる。もし砂と同じ感覚で芝を走れば、どうなるか。……まぁ、最初のうちはいいだろうが。ソイツの脚は、早晩使い物にならなくなるだろうな」
「――……」
ごくり、とクレインは喉を鳴らす。そこまで聞いて初めて、彼女は危機感を覚えていた。
言われてみれば――確かに。それは、致命的な問題だった。
ウマ娘そのものの生命が脅かされるほどではないだろうが。
『脚』が壊れることは――もう、競争が出来なくなることと同義だ。
自分たちの存在意義を。
早期に奪われてしまうことと――同義だ。
「だから転向を志す奴は、まず芝へ脚を『適応』させることから始める」
庄野は続ける。
「長年染み付いた『クセ』を抜くようなもんだ。そう簡単なものじゃないし……例え出来たとて、結果を残せるとも限らない。しかも――結果が出なかったから、つって簡単に引き返せるほど、この『調教』も単純じゃない。
芝から出戻りする、ってことは、もう一度砂に適応出来るよう脚を『再調整』しないといけないってことだ。だいたいの奴は、そんな器用に『脚』を使い分けられやしない。変に芝と砂を行き来してしまった結果として――芝も砂も満足に走れない、中途半端なウマ娘になってしまう可能性もある。……昔は、芝と砂の両刀使いで戦ったやつもいたらしいけどな。あんなのは例外中の例外だ。同列に扱っちゃいけねぇ」
彼は、そこで一息入れる。つまりはそれらが、彼の言う『危険』だった。
「脚が壊れる危険。感覚が乱れる危険。どっちも簡単に受け入れられるもんじゃない。言っちまえば俺に取っちゃ、『次』があるが……お前にとっては、一度きりの競争生命だ。濫りに扱っていいもんじゃない。いくらトレーナーとウマ娘とが一心同体とはいえ、お前の行く末を決めるのは、ほかでもないお前自身だし、そうでないといけないんだ。
だからよく考えろ。俺のためじゃなく、自分のために。本当にそれでいいのか。それだけの見返りがあるか……」
「……」
既に、冗談や軽口で和むような段階ではない。明確に覚悟を問われ、何も知らなかったとはいえ、一度でも軽はずみに承諾しそうになった自分を、クレインは恥じる。
熱として表出しそうになるそれを呑み込み、どちらでもいいこととして処理したうえで、改めて彼の突きつけた提案を考えた。……
……――自分にとっての競争とは、なんだろうか?
北海道スプリントカップ、JBCスプリント――と、幾つかの大きな舞台を経験した自分だが、その大元の理由は、何だったろうか。
目を閉じれば、今でも浮かんでくる。恩師たちの顔、友人たちの姿――そう、全ては、彼らの期待に応えたいがため。JBCスプリントを制覇したことで――その目標には、一応の区切りがついたと思う。
けれど、区切りをつけたところで、まだ自分の命は続いている。競争は終わらない、戦いは終わっていない――果てのない道の上、しるべを失ってなお漠々と広がる暗闇を前に、竦む心でなお目を凝らすと、ぼんやりと何かを見たような気がした。
夢と呼ぶには不確かすぎて。理想と呼ぶには現実的。敢えて名前をつけるなら、驚くほど落ち着きつつも、浮ついて佇むそれは――それの名は――
期待、だろうか。
「……、」
一分ほど、俯いたクレインの返答を待った庄野だったが、まぁ難しい話だ、というのはよく理解していた。
結論は早い方が良いが、急かしてもいいことはない。ここは一旦時間を設けるべきだな――と考え、口を開く。
「まぁ、一朝一夕で答えられるようなもんじゃないからな」
それは、飽くまで彼女の容態を思ってのことだった。
「三日やる。その間にじっくり――」
「いえ」
「――?」
考えるといい――続きかけた言葉は、他ならぬクレインによって遮られていた。
顔を上げた彼女は――真っ直ぐに、庄野の顔を見つめていた。
「……大丈夫です」
そして――答えていた。
「やりましょう、トレーナー」
「……おいおい」
答えをすぐに寄こしてくれることは、僥倖ではある。
しかしそんな即答なぞ、元より予期していなかったもの。
思わず返していたのは、苦笑いだった。
「俺の話、ちゃんと聞いてたか?」
「はい。聞いてました。理解も、しました。本当に……危ない賭けだなって思います」
嘘ではない。彼の話をしっかり聞いていたし、咀嚼し、吟味し、理解したと、クレインは自覚している。
その上で――
――そんな選択も悪くない。そう思ったのだ。
「でも私……まだ自分の限界に、試せてない。あのJBCスプリントを経て……ここから自分は、更にどこへ行けるんだろう、って、期待してるんです」
恐れていないわけじゃない。戸惑っていないわけでもない。
それでも、未来にまだ見ぬ自分を思い浮かべた時。胸は高鳴り、その先を求めていたのだ。
ここからどこへ行くのだろう。
これからどこへ行けるのだろう。
自分で自分の未来に、望みが膨らんで止まない。
無論、簡単な道じゃないだろう。
残酷な結末が、待っているかもしれないだろう。
けれど、そのような前のめりな情熱を、置いてきぼりにするのも嫌だった。
自分は――
……どんな辛いものでも。
進んでみたい。そう、考えた。
「……やります。やってみせます」
だから。
だから、彼女は言う。
「後悔なんてしませんよ。それで結果がどうなっても……構いません」
だって。
「そんな……泥まみれのキャリアも。私は、悪くないと思うから」
「……」
このような難しい選択――迷って当然だろう。
庄野はそのつもりだった。だから、彼女がすぐに決断を下せなかったところで、それを非難しようという気はさらさらなかった。
相棒として、飽くまで寄り添うつもりでいたのだ。
だがどうやら、そんな心配は無用らしかった。
彼女の覚悟を、庄野はいい意味で見誤っていた。
まさか、移籍から一年かそこらで――ここまで、成熟するとは。
……ついこの間、精神的に不安定になっていたとは、到底思えないほどである。
「……、」
ならば、もう迷うことなどない。
むしろ、応えないのは、その情熱に対して不誠実だ。
行こう。応えよう。
お互いに、恐れなく同じ方向を向いているのなら。
「……オーケイ」
立ち止まる理由など――なかった。
「そんじゃあひとつ……試してみるか!」
「……、」
庄野の宣言――
後戻りは、もはや出来ない。それを自覚しながら、クレインはにやりと笑い。
「――はい!」
自分もまた、それに、力強く応えた。
そして――かのレースの当日。
庄野は、見るからに緊張している様子のクレインを観客席から見守りつつ、自身が今日までにやってきたことに思いを馳せる。
あれだけ薦めたとはいえ、自身も転向をさせるのは始めてのことだ。
教材の活用に同業、OGにまで話を聞き、自分のやれることをやったつもりだ、いつかのように……
しかし自信があるか、と言われれば、100%そうだとも言い切れない。
トレーニングはつけられたものの。
――結局、模擬レースは組めなかったからな……
併走で『もどき』は出来たものの、それ以上のことは、出来なかったに等しい。
競争という意味では、ぶっつけ本番と言って過言ではない。
本当なら合ってはならないことだが――手は尽くした結果なのだから、嘆いてばかりもいられない。
健闘を祈る傍らで、ターフ上の彼女に、内心で警告を送る――気をつけろよ。
「芝は……お前が思うより、『速い』ぞ……!」
一方――そんな彼の傍らには、人影がもうひとつ。
いつもなら明るく、可愛らしく綻んでいるはずのその表情は、そんな面影が見られないほどに、神妙に強張っている。
……コパノリッキーは、つい数日前のやり取りを思い出していた。
『――え、転向するの?』
カフェテリアにて。向かい合わせで座っていたクレインは、申し訳無さそうに頷いていた。
『うん……トレーナーと話し合ってね』
『そっか~……これからどうすんだろって思ってたけど、転向するとはね。すごいなぁ……』
『……』
『……?』
リッキーの返事に、クレインは複雑な顔をする。どうしたの、とばかりに小首を傾げると、彼女は視線を下げながら答えるのだ。
『……ごめんね、なんか』
『ん? ごめん……?』
『再戦する間もないまま……転向なんて決めちゃって』
当時のクレインの脳裏には、当人としては歯痒い結果であったろうJBCスプリントのことが過ぎっていた。
本来なら雪辱を果たしたいだろうに、転向してしまったなら、それも簡単には叶わなくなる。
『……ごめんね。私も、もう一度やりたかったのに』
『……』
『あ、でもその代わり、私もリッキーの目標は……』
『ね、クレインちゃん』
『え?』
懺悔するように言い、取り繕うように言った彼女に、リッキーは声をかける。
反応して、クレインが顔を上げると――
『っ!?』
ぱちん――と、クレインの額に、軽い衝撃。
走る鋭い痛みに、額を擦ると同時、彼女の目に映るのは、乗り出していた身体を戻すリッキーの姿。
何が起きたか――は、彼女は、直感的に理解していた。
『やめてよ、そういうの』
『デコピン』を見舞ったリッキーは、不機嫌そうな声色で答える。
『惨めになるから』
『……』
『クレインちゃんは、自分でそれがイイって思って決めたんでしょ。なら『他人』の顔色なんて、気にしなくていいんだよ。競技の道は究極的に……自分がどうしたいかが全てなんだからさ』
『……えと』
『それに! 私のレースも私のもの。クレインちゃんだけのものじゃないんだからね! あんま自惚れないでよー?』
つんつん、つんつん。……額を小突きつつ、今や『親友』となった彼女に、飽くまで激励を送る。
『思いっきりやってきてよ』
拳を差し出す――あの時の記憶が、そこで重なる。
何はともあれ、そのことに対する考えは、ひとつだった。
『応援してる!』
『……、』
そこまで来て、ようやくクレインも、歯痒さを振り払ったようだった。
JBCスプリントの時と同じように、不敵に笑って。
『……そっちこそね』
そして――その表面を、軽く打ち付けたのだ。
「……」
リッキーは、庄野と違い、トレーニングの模様を徹頭徹尾見守っていたわけではない。
それでも、直向きで正しい努力が、そうそう裏切らないものだということを知っている。
だから、注ぐ視線に乗せる思いは、真っすぐで、淀みなかった。
――がんばれ、と。
「……がんばれ……!」
ぼそり、と零した言葉は、間もなくファンファーレの音に呑まれる。
選手がゲートインを済ませる、ここまではクレインも同じだ。
浮つきかけた心も、徐々に平静を取り戻してくる。あれ、案外と――いけるかもしれない。彼女の内心に、そんな『油断』さえも浮かびかけた。
――その直後の話だった。
『――スタートしました!!』
彼女が――
芝の『過酷さ』を、身を以て知ることになったのは。