泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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宿命と宿願と、ですっ!

 シルクロードステークス。

 京都競レース場にて、例年1月下旬頃に開催される短距離競走だ。

 グレードとしてはGⅢ。短距離重賞競走の最高峰――『高松宮記念』の前哨戦として知られている。

 

 戦場は芝。

 言うまでもなく、砂戦線で走るウマ娘には、縁遠いはずの競争である。

 だがソードクレインの姿はそこにあった――観客席ではなく。

 ――ターフ上に。

 

「……」

 

 適度、という言葉では収まらない緊張。

 そんな彼女を、庄野も深刻そうな面持ちで見守る。

 彼女がこうして選手として参加しているのは、決して間違いなどではない。

 二人が、互いに綿密に、話し合いをした結果であった。

 

 全ては――JBCスプリント直後にあたる、二ヶ月前に遡る。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

「――芝、ですか……?」

 

 庄野からの言葉を、クレインは驚愕を以て受け止める。だが、すぐには受け入れることは出来ない。何かの間違いではないかと、やや困惑しながら、探し出した言葉を庄野に投げかけてみる。

 

「……えと。それってその、芝を研究するのに興味ないかとか、そういう……」

「悪いがそういうんじゃねぇ。お前が……直感的に理解してる意味で正しい」

 

 庄野は、それを冷静に否定していた。軽薄ではない。斜に構えてもいない。いつもの彼からは想像もつかない、神妙な声色。

 思考の逃げ道を断たれたクレインは、改めて突き付けられた現実を吟味する。つまりはそれは――

 

 芝を走ることに、興味はないか。

 芝で戦うことに、興味はないか。

 

「……転向する、ってことですか……?」

 

 無言が、何よりの答えだった。時計の針の動く音が、いつもより大きく聞こえた気がした。

 

 ……それまで砂で走っていたウマ娘が、芝で走るということは、実はそこまで珍しいことではない。

 どういった分野(戦場)が最も適しているか、試してみないとわからないのは、ウマ娘も人間も同じであり。

 実際、砂で戦績の振るわなかったウマ娘が、芝に転向したところ、優れた戦績を収めたという話はよくある。

 

 ただそれは――飽くまで戦績が振るっていなかった、という話だ。クレインのように――

 砂で一定の成功を収めておきながら、芝に転向する、となると、また話は変わってくる。

 やり慣れた、適性の明らかな戦場を離れ、また別の世界へ行く。

 新たな可能性の開拓、と言えば聞こえはいいが――実行するに相応のリスクがあるのも確かな話で。

 

「……、」

 

 ――つまりは。

 まずは、クレインは問いかけたかった。

 

「……理由を、訊いてもいいですか」

「……」

 

 質問に、庄野はすぐには答えない。腕を組み、中空を見つめてから、目を閉じて――と、彼にしては珍しいことに、明らかに考えを整理するような素振りを見せる。

 あるいは、口にしようとしている言葉を、必死に吟味している風か――

 

 どちらにせよ、五秒、十秒、と、無言のままで、時間が過ぎる。都合二十秒ほどの時が経った時、彼は瞼を開きながら視線を戻し、口を開いた。

 

「……さっきも言ったが、お互いのキャリアのため、だな」

 

 その声質は、クレインには、覚悟を決めたもののそれに聞こえた。

 

「どっちの戦場にしろ、優れた戦績を収めていれば、そいつの今後に有利に働くことは言うまでもねぇ。一つの武器だけを扱える者より、複数の武器を扱える者の方が、世の中重宝されるもんだ――わかるだろ?

 お前が短距離戦に、無類の適性を持ってることはよくわかった。もしかしたらその走りは、芝でも通用するかもしれねぇ……試すのも悪くないんじゃねぇかって思ってな」

「わ……わからないでもないですけど。で、でも……」

 

 庄野の言い分は、クレインにもわかった。いい加減全幅の信頼を置いているとして過言ではない相棒だ、しかしだからこそ、彼女には、勘案して当然の疑問が湧いてくるのである。

 

「……ちょっと待ってください。どうしてこの時期なんです?」

 

 そう――時期、だった。

 何せソードクレインは、まだ二年目(クラシック級)。年を越せば三年目(シニア級)になるとはいえ、キャリア上は決して気を抜けない、非常に大事な時期だ。

 そんな時に――戦場の転向? 本気で言ってるのか? 包み隠さず言うならば、彼女の率直な感想はそれだった。

 

「いや……だからこそだ」

 

 対して、庄野はそう返すのである。

 

「お前は今、知識も身体能力も、一番吸収しやすい時期にいる。今なら……急な戦術の転換にも、柔軟に対応出来る。逆に今じゃなかったら、適応出来なくて、取り返しのつかないことになっちまう。危険な賭けだからこそ……今やるのがベストなんだ」

「……」

 

 ――危険な賭け。

 表現が大袈裟だとは、クレインも思わない。転向、と簡単に言うが、そう簡単に出来るものではないということを、彼女もよく知っている。

 ただ、彼の言うことに一理あるのも事実だった――ひとつの山場を越えた自分が、更なる高みを目指すなら? 内心に問いかければ、返ってくる答えは紐解くべくもない。

 単純で明快だった――躊躇うことも、隠すこともなかった。

 

「……、」

 

 だから、クレインはぐっと意を決して、庄野と目を合わせる。

 相も変わらず、どこか淀んだ、厭世的にも見える瞳。

 

「大丈夫です、」

 

 彼女は言った。

 

「やってみ「本当にいいのか?」……へ?」

 

 が――

 出鼻を挫かれたように言葉を遮られ、クレインはきょとんとする。

 コミカルな彼女の反応とは裏腹に、庄野の目は、更に深刻に鋭くなっていた。

 

「事態が……お前が思ってるほどシンプルじゃない、ってことはよくある。想像が及ばないんじゃない――()()()()()()()()()()、でな。だから……これがどれだけ危険な賭けか、しっかり説明しとく必要がある」

 

 そうじゃないとフェアじゃないしな――いつになく回りくどく感じる彼の発言に、クレインは、一度は振り払った不安が戻ってきたことを感じる。

 

 ――物を知らないだけ。確かにそうかもしれない。単純で明快、と自分は考えたものの。果たしてその理屈は――どういった自信からやってくるのか。

 どの立場から――そんなことを言っているのか?

 

「そもそもの話だ」

 

 視線を落とし掛けるも、庄野の声で我に返った。彼は続ける。

 

「クレイン。芝と砂の違いはなんだ?」

「え……違いですか?」

「誰もが転向は難しいという。誰もがそれを感覚的に理解してるだろうが、理屈として知らない奴は多い。じゃあそもそも――芝と砂。そこにある違いってのは、一体なんだ?」

「……」

 

 言われるがまま、クレインは考える。芝と砂の違い。と言われたら。思い当たるのは……

 

「……速度、ですか?」

「それは決定的じゃない」

「挑戦する子の絶対数の少なさ……とか」

「少し役不足だ。違いを語るのには、それだけに留まらない」

「バ場が、天気に左右されやすい?」

「それも確かに間違いじゃない。だが明瞭な違いか、と言われたらまた違う。……もっと、もっともっともっと単純なことだ」

「……」

 

 それだけ言われて、クレインは、もしかしたら認識が『進み過ぎ』なのかもしれない、と思い直す。

 もっと、もっと単純で、素人目にもわかること。

 

 そう、それはたとえば……自分が何も知らない観客なら。無関係な他人なら。

 何一つ知らない、初心者なら。

 芝と砂の違って……もしや。

 

「……、」

 

 思い至って、クレインは言った。

 

「……し、

 

 芝を走るか、砂を走るか……?」

 

「――そうだ」

 

 まさか――というそれを、果たして庄野は、肯定していた。

 

「芝と砂ってのはな。走る戦場が違うんだよ。選手からしたら当然で、客からしたら当たり前のことかもしれないが、転向を志すウマ娘にとっては、決して無視出来ないモノになってくる」

 

 何故かって?

 

「両者は……『厚み』が違うからだ」

 

 芝の厚み。砂の厚み。

 それが何だというのか? そんな考えこそ、『素人考え』だった。

 

「だいたい10cm前後――それが日本の競レースにおける砂の厚みだ。*1対して芝は、厚みなんて合って無いようなもの。直接地面を蹴ってるのとほぼ変わらなくなる――つまりはそれだけ、足に力が伝わりやすいってことだ。

 ……加えて、厚みがあるってことは、それだけ力を込めて走ってるってことになる。もし砂と同じ感覚で芝を走れば、どうなるか。……まぁ、最初のうちはいいだろうが。ソイツの脚は、早晩使い物にならなくなるだろうな」

「――……」

 

 ごくり、とクレインは喉を鳴らす。そこまで聞いて初めて、彼女は危機感を覚えていた。

 言われてみれば――確かに。それは、致命的な問題だった。

 ウマ娘そのものの生命が脅かされるほどではないだろうが。

『脚』が壊れることは――もう、競争が出来なくなることと同義だ。

 

 自分たちの存在意義を。

 早期に奪われてしまうことと――同義だ。

 

「だから転向を志す奴は、まず芝へ脚を『適応』させることから始める」

 

 庄野は続ける。

 

「長年染み付いた『クセ』を抜くようなもんだ。そう簡単なものじゃないし……例え出来たとて、結果を残せるとも限らない。しかも――結果が出なかったから、つって簡単に引き返せるほど、この『調教』も単純じゃない。

 芝から出戻りする、ってことは、もう一度砂に適応出来るよう脚を『再調整』しないといけないってことだ。だいたいの奴は、そんな器用に『脚』を使い分けられやしない。変に芝と砂を行き来してしまった結果として――芝も砂も満足に走れない、中途半端なウマ娘になってしまう可能性もある。……昔は、芝と砂の両刀使いで戦ったやつもいたらしいけどな。あんなのは例外中の例外だ。同列に扱っちゃいけねぇ」

 

 彼は、そこで一息入れる。つまりはそれらが、彼の言う『危険』だった。

 

「脚が壊れる危険。感覚が乱れる危険。どっちも簡単に受け入れられるもんじゃない。言っちまえば俺に取っちゃ、『次』があるが……お前にとっては、一度きりの競争生命だ。濫りに扱っていいもんじゃない。いくらトレーナーとウマ娘とが一心同体とはいえ、お前の行く末を決めるのは、ほかでもないお前自身だし、そうでないといけないんだ。

 

 だからよく考えろ。俺のためじゃなく、自分のために。本当にそれでいいのか。それだけの見返りがあるか……」

「……」

 

 既に、冗談や軽口で和むような段階ではない。明確に覚悟を問われ、何も知らなかったとはいえ、一度でも軽はずみに承諾しそうになった自分を、クレインは恥じる。

 

 熱として表出しそうになるそれを呑み込み、どちらでもいいこととして処理したうえで、改めて彼の突きつけた提案を考えた。……

 

 ……――自分にとっての競争とは、なんだろうか?

 北海道スプリントカップ、JBCスプリント――と、幾つかの大きな舞台を経験した自分だが、その大元の理由は、何だったろうか。

 目を閉じれば、今でも浮かんでくる。恩師たちの顔、友人たちの姿――そう、全ては、彼らの期待に応えたいがため。JBCスプリントを制覇したことで――その目標には、一応の区切りがついたと思う。

 

 けれど、区切りをつけたところで、まだ自分の命は続いている。競争は終わらない、戦いは終わっていない――果てのない道の上、しるべを失ってなお漠々と広がる暗闇を前に、竦む心でなお目を凝らすと、ぼんやりと何かを見たような気がした。

 

 夢と呼ぶには不確かすぎて。理想と呼ぶには現実的。敢えて名前をつけるなら、驚くほど落ち着きつつも、浮ついて佇むそれは――それの名は――

 

 期待、だろうか。

 

「……、」

 

 一分ほど、俯いたクレインの返答を待った庄野だったが、まぁ難しい話だ、というのはよく理解していた。

 結論は早い方が良いが、急かしてもいいことはない。ここは一旦時間を設けるべきだな――と考え、口を開く。

 

「まぁ、一朝一夕で答えられるようなもんじゃないからな」

 

 それは、飽くまで彼女の容態を思ってのことだった。

 

「三日やる。その間にじっくり――」

「いえ」

「――?」

 

 考えるといい――続きかけた言葉は、他ならぬクレインによって遮られていた。

 顔を上げた彼女は――真っ直ぐに、庄野の顔を見つめていた。

 

「……大丈夫です」

 

 そして――答えていた。

 

「やりましょう、トレーナー」

「……おいおい」

 

 答えをすぐに寄こしてくれることは、僥倖ではある。

 しかしそんな即答なぞ、元より予期していなかったもの。

 思わず返していたのは、苦笑いだった。

 

「俺の話、ちゃんと聞いてたか?」

「はい。聞いてました。理解も、しました。本当に……危ない賭けだなって思います」

 

 嘘ではない。彼の話をしっかり聞いていたし、咀嚼し、吟味し、理解したと、クレインは自覚している。

 その上で――

 ――そんな選択も悪くない。そう思ったのだ。

 

「でも私……まだ自分の限界に、試せてない。あのJBCスプリントを経て……ここから自分は、更にどこへ行けるんだろう、って、期待してるんです」

 

 恐れていないわけじゃない。戸惑っていないわけでもない。

 それでも、未来にまだ見ぬ自分を思い浮かべた時。胸は高鳴り、その先を求めていたのだ。

 ここからどこへ行くのだろう。

 これからどこへ行けるのだろう。

 自分で自分の未来に、望みが膨らんで止まない。

 

 無論、簡単な道じゃないだろう。

 残酷な結末が、待っているかもしれないだろう。

 けれど、そのような前のめりな情熱を、置いてきぼりにするのも嫌だった。

 自分は――

 

 ……どんな辛いものでも。

 進んでみたい。そう、考えた。

 

「……やります。やってみせます」

 

 だから。

 だから、彼女は言う。

 

「後悔なんてしませんよ。それで結果がどうなっても……構いません」

 

 だって。

 

「そんな……泥まみれのキャリアも。私は、悪くないと思うから」

「……」

 

 このような難しい選択――迷って当然だろう。

 庄野はそのつもりだった。だから、彼女がすぐに決断を下せなかったところで、それを非難しようという気はさらさらなかった。

 相棒として、飽くまで寄り添うつもりでいたのだ。

 

 だがどうやら、そんな心配は無用らしかった。

 彼女の覚悟を、庄野はいい意味で見誤っていた。

 まさか、移籍から一年かそこらで――ここまで、成熟するとは。

 ……ついこの間、精神的に不安定になっていたとは、到底思えないほどである。

 

「……、」

 

 ならば、もう迷うことなどない。

 むしろ、応えないのは、その情熱に対して不誠実だ。

 行こう。応えよう。

 お互いに、恐れなく同じ方向を向いているのなら。

 

「……オーケイ」

 

 立ち止まる理由など――なかった。

 

「そんじゃあひとつ……試してみるか!」

「……、」

 

 庄野の宣言――

 後戻りは、もはや出来ない。それを自覚しながら、クレインはにやりと笑い。

 

「――はい!」

 

 自分もまた、それに、力強く応えた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 そして――かのレースの当日。

 庄野は、見るからに緊張している様子のクレインを観客席から見守りつつ、自身が今日までにやってきたことに思いを馳せる。

 あれだけ薦めたとはいえ、自身も転向をさせるのは始めてのことだ。

 教材の活用に同業、OGにまで話を聞き、自分のやれることをやったつもりだ、いつかのように……

 しかし自信があるか、と言われれば、100%そうだとも言い切れない。

 トレーニングはつけられたものの。

 

 ――結局、模擬レースは組めなかったからな……

 

 併走で『もどき』は出来たものの、それ以上のことは、出来なかったに等しい。

 競争という意味では、ぶっつけ本番と言って過言ではない。

 本当なら合ってはならないことだが――手は尽くした結果なのだから、嘆いてばかりもいられない。

 健闘を祈る傍らで、ターフ上の彼女に、内心で警告を送る――気をつけろよ。

 

「芝は……お前が思うより、『速い』ぞ……!」

 

 一方――そんな彼の傍らには、人影がもうひとつ。

 いつもなら明るく、可愛らしく綻んでいるはずのその表情は、そんな面影が見られないほどに、神妙に強張っている。

 ……コパノリッキーは、つい数日前のやり取りを思い出していた。

 

『――え、転向するの?』

 

 カフェテリアにて。向かい合わせで座っていたクレインは、申し訳無さそうに頷いていた。

 

『うん……トレーナーと話し合ってね』

『そっか~……これからどうすんだろって思ってたけど、転向するとはね。すごいなぁ……』

『……』

『……?』

 

 リッキーの返事に、クレインは複雑な顔をする。どうしたの、とばかりに小首を傾げると、彼女は視線を下げながら答えるのだ。

 

『……ごめんね、なんか』

『ん? ごめん……?』

『再戦する間もないまま……転向なんて決めちゃって』

 

 当時のクレインの脳裏には、当人としては歯痒い結果であったろうJBCスプリントのことが過ぎっていた。

 本来なら雪辱を果たしたいだろうに、転向してしまったなら、それも簡単には叶わなくなる。

 

『……ごめんね。私も、もう一度やりたかったのに』

『……』

『あ、でもその代わり、私もリッキーの目標は……』

『ね、クレインちゃん』

『え?』

 

 懺悔するように言い、取り繕うように言った彼女に、リッキーは声をかける。

 反応して、クレインが顔を上げると――

 

『っ!?』

 

 ぱちん――と、クレインの額に、軽い衝撃。

 走る鋭い痛みに、額を擦ると同時、彼女の目に映るのは、乗り出していた身体を戻すリッキーの姿。

 何が起きたか――は、彼女は、直感的に理解していた。

 

『やめてよ、そういうの』

 

『デコピン』を見舞ったリッキーは、不機嫌そうな声色で答える。

 

『惨めになるから』

『……』

『クレインちゃんは、自分でそれがイイって思って決めたんでしょ。なら『他人』の顔色なんて、気にしなくていいんだよ。競技の道は究極的に……自分がどうしたいかが全てなんだからさ』

『……えと』

『それに! 私のレースも私のもの。クレインちゃんだけのものじゃないんだからね! あんま自惚れないでよー?』

 

 つんつん、つんつん。……額を小突きつつ、今や『親友』となった彼女に、飽くまで激励を送る。

 

『思いっきりやってきてよ』

 

 拳を差し出す――あの時の記憶が、そこで重なる。

 何はともあれ、そのことに対する考えは、ひとつだった。

 

『応援してる!』

『……、』

 

 そこまで来て、ようやくクレインも、歯痒さを振り払ったようだった。

 JBCスプリントの時と同じように、不敵に笑って。

 

『……そっちこそね』

 

 そして――その表面を、軽く打ち付けたのだ。

 

「……」

 

 リッキーは、庄野と違い、トレーニングの模様を徹頭徹尾見守っていたわけではない。

 それでも、直向きで正しい努力が、そうそう裏切らないものだということを知っている。

 だから、注ぐ視線に乗せる思いは、真っすぐで、淀みなかった。

 ――がんばれ、と。

 

「……がんばれ……!」

 

 ぼそり、と零した言葉は、間もなくファンファーレの音に呑まれる。

 選手がゲートインを済ませる、ここまではクレインも同じだ。

 浮つきかけた心も、徐々に平静を取り戻してくる。あれ、案外と――いけるかもしれない。彼女の内心に、そんな『油断』さえも浮かびかけた。

 ――その直後の話だった。

 

『――スタートしました!!』

 

 彼女が――

 芝の『過酷さ』を、身を以て知ることになったのは。

 

 

*1
中央競馬は統一されているようですが、地方競馬は競馬場によって異なるそうです。2025年現在、最厚は門別、船橋の12cm、最薄は大井の9cm。

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