泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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太陽の落ちた日

 2秒。

 あなたはこの秒数を、長いと取るだろうか。短いと取るだろうか。

 

 実際問題、2秒でこなせる事象はそうない。カップラーメンは出来上がらないし、外に出ることすらままならない。いいとこ、デスクにあるペンを手に取るくらいであろう。

 だがこと競争という話になると、このほんの一瞬の差が、越え難い壁となることがままある。

 

 極限まで切り詰めた競技の世界において、更にもう1秒前へと進むことは、己の限界をもう一段階超えることに等しい。

 なればこそ、コンマ数秒記録を塗り替えただけでも、その事実は、万雷の拍手を以て祝福されるのだ。

 それが2秒ともなれば――限界を超えてなお、先へと走ることを強いられているようなもの。

 

「――それを適切に見極められず、軽率に転向を志すものも少なくない」

 

 生徒会室にて――

 執務机に座したオルフェーヴルは、(いつかウインバリアシオンが用意してくれた)テレビ画面を見つめながら言う。

 

「そしてそういった者は……自身が越えるべき壁の大きさに絶望し、逃げるように踵を返す。そして元の戦線へと舞い戻り、己が決断の拙さを知るのだ」

「……走る時の感覚も、丸っきり違いますからね」

 

 ウインバリアシオンも、深刻そうに同調する。もちろん、ウマ娘全てが、そんな軽率な者ばかりということはないであろう。それがどれだけ困難な道なのかを、よく理解している者もいる――

 ただそれを加味したところで、難易度の高さはさほど変わりはしない。現実とは無情で、無常なものなのだ。

 

 2秒。

 それは――砂と芝の短距離競争における、コースレコードの平均的な秒差を差していた。

 

「……ってなると、先人の『変態ぶり』が際立つっすよね。『開国の使者』(ペリースチーム)に、『異能の勇者』(アグネスデジタル)に……」

 

 芝と砂。双方で目覚ましい成果を残した『先人たち』。

 茨の道と知ってなお、追随する者が後を絶たないのは、そんな彼女らへの憧れもあるか。

 

「……やれると思います? あの子……」

「……」

 

 オルフェーヴルは答えない。そのような問答に、意味はないと知っているからだ。

 ただ、ちらと逸らした視線は、机上に置かれた円形を捉える。

 何ともなしに放っておいた一枚の外貨が、存在を主張するように電灯の光を反射させた。

 

『――スタートしました!!』

 

 ちょうどその時だった――その競争が、幕を開けたのは。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 出走直後、ソードクレインは大きく出遅れたわけではない。

 むしろ、転向直後のレースにしては、その立ち上がりは鮮やかと評価出来るものだった。

 一塊となって飛び出した先団に着いていこうとする。

 が――間もなく、彼女は、驚愕と共に『違い』を感じ取る。

 

「……!?」

 

 ――速い。

 芝に感覚を慣らしはしたはずだというのに、それにも関わらず、周囲のウマ娘はぐんぐんと前へと出ていく。

 

 ――速い――……!!

 

 それは庄野との話でも、そして映像を通してでも、十二分に確認出来ていた事実のはずだった。

 覚悟も、散々に決めてきたはずだった。

 だが――実際に突きつけられた現実は、容赦を知らない獣となって、彼女の心に襲いかかる。

 こんなにも。

 まさかこんなにも――違うだなんて。

 

「――っ、」

 

 あっという間に、中団後方にまで下がってしまった。

 距離が短いことを考えれば、絶望的に悪い位置取り。

 それだけに留まらない、周囲の速度は、そこまで来てなお上がっていく一方だ。

 立ち上がり数十秒と経たず、レースは3コーナーの入口へ。

 クレインの位置は――悪いことに、後団前半付近。

 

『3コーナーカーブ、内から6番、セカンドテーブル、接近して1バ身中団外め、13番カラクレナイ――』

 

 全体がコーナーを曲がり始めた時には、ほとんどにっちもさっちもいかなくなっていた。

 順位は17位、後ろから2番目。前に出ようにも、進路を複数の選手に塞がれている上、追い抜くだけの力も発揮出来そうにない。

 とても――とても。順位を上げようだなんて、考える余裕はない。置いていかれないよう、着いていくのがやっとだ――

 

「……、っ……!」

 

 ――冷静さを失ってはいけない。

 これまで散々に言われ、矯正されてきたことだ。

 前のめりになってしまい、掛かり気味になってしまうのが自分の悪いところ。頭ではわかっている、理屈では理解している。

 でも、でも。こんな現実を、こんな現状を、目の当たりにしては、焦らずにいろというのが無理な話だ。

 ――こんなの。

 

 焦るに、

 決まってんじゃん……!!

 

「――っはぁ、はぁ……!!」

 

 どうすればいい。

 どうすればいいんだ!? 答えが出ないまま、レースは4コーナー。

 そこを抜ければ、あっという間に最終直線。勝負はおしまいになる。

 頼みの綱の末脚も、適当に機能してくれるように思えない。

 こんなところで爆発させたところで、体力が尽きたら、何の意味も……!!

 

『11番ユキノアイオロス固まっています、間フミノムーンがいて最後方ソードクレイン……!』

「っ……!!」

 

 400を切って4コーナー、直線へ――

 先頭との差は、いよいよ決定的なものになる。

 こうなっては覆すことは困難だろう。あの『暴君』ほどの実力があれば話は別だが、言うまでもなく、自分にそこまでの力はない――

 

 実力の差。

 才能の差。

 場数の差。

 ……天運の差。

 

 むざむざとそれを突き付けられ、JBCスプリントの時と同じように、諦念に思考を支配されそうになる。

 

「――っ、」

 

 だがそれを、当時と同じように、不屈の意志で振り払う。

 どうにもならないじゃない、どうにかするんだと、一心不乱で『ボタン』を押す。

 

 奇跡を。あの時のような、閃きを。

 混迷の状況に、一筋の光を、ただただ求め続けて――それでも。

 

 何も起きないまま、何一つ覆せないまま。

 最終直線の、入り口にまで到達した。

 

「――!?」

 

 ――その時だった。

 クレインの視界に、唐突な変化が生じたのは。

 視界の奥から、漆黒の帳が広がっていく。

 

 目の前が。

 真っ暗になっていた。

 

「――え」

 

 見たことも聞いたこともないその現象に、彼女は動揺する。

 一寸先も視界不良の中、しっかりと走れているかどうかすらもわからなくなる。

 みんなはどこへ。試合はどこへ。私は、私は――どこへ?

 疑問に思う傍らで、さらなる変化が訪れる。

 

「……?」

 

 ――なにこれ。

 

 闇の中から浮かび上がってきたそれらは、大小さまざまなガラスの破片のようだった。

 それらが燦然と煌めきながら、何かの映像を映し出している。

 時に走り、時に挫け、時に喜んでいるそれは、その姿は――

 

 ――私?

 

 そう。

 ソードクレイン、本人だった。

 

 ただ、そのどれもが、自分の過去のどの記憶とも合致しないもの。見たことがあるようで、微妙に違う。端々に映る新聞紙やら雑誌やらに記された日付は――今より未来のもの。

 クレインはそこまで来て、この現象が現実には起きていない、自分の想像上のものであると理解すると同時に――

 ……それが、ある種の未来予知。

 もしくは――『運命』とでも呼ぶべきものであることに気付いた。

 

 

 

 ウマ娘。

 その者たちは、走るために生まれてきた。

 ときに数奇で、ときに輝かしい歴史を持つ、別世界の名前と共に生まれ、

 その魂を受け継いで走る――

 

 

 

 それが、自分たちの運命。

 

 

 

 ……映像の中、結局自分はこのレースで惨敗。

 それを受けて、砂戦線に出戻ることにしたが、庄野の危惧した通り、一度芝に適応してしまった身体を再適応させることは、困難を極め。

 試行錯誤したものの、上手くはいかず――都合二度目となるJBCスプリントにて、8着を取ったのを最後に。

 現役を引退することになった。

 

 引いて見れば、あんまりな戦績だ。

 やはり自分の、自分たちの判断が、あまりにも軽率だった。

 普通ならば、心の底から悔しがるところだろうに。

 クレインがそこから覚えた感情は、悔しさ、ばかりではなかった。

 ……それらの映像からは。

 

 ――達成感。

 

 何もかもを、やり切った。

 やりたいこと、やれること、全てをやった。

 そんな、達成感に満ち溢れていた。

 

 あぁ、そうだよね。

 そのとおりだよ、とクレインは考える。

 

 傍から見たら、残酷で残忍なまでの運命だとしても、そういう評価は相対的でしかない。

 結局は、本人がどう感じるかなのだ――傍から見て、救いようのないものであったとしても。

 本人たちが、満足しているのなら。

 納得しているのなら。

 そこに文句をつける権利が、一体誰にあるだろうか。

 

 運命は避けられない。

 これから自分には、こういう結末が訪れるのだろう。

 でも――それを拒もうとは思わなかった。まぁ、いいか――と、受け入れるつもりでいた。

 

 確かに悲しいけれど。確かに悔しいけれど。

……いいじゃないか。それで。みんなが、手を尽くしたのなら。

 

 やりたいことをやったのなら。

 やれることをやったのなら。

 幸せに、なれたのなら。

 

 それでいい。

 これでいい。

 

 これで。

 

 これで。

 

 ……そう。

 

 これで――……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………

 

 

 

 

 

 ………………

 

 

 

 

 

 ………………でも。

 

 

 

 でも、さ。私。

 今の状況だって、そんなもしもの運命と、同じだと思わないか。

 

 確かにみんなは頑張った。これでいい、って納得してた。こういう結末でもいい、って、受け入れているように感じた……

 

 でもさ。

 それって、今も同じじゃないか。

 今だって、私は、未確定の明日へと向かって、直向きに、愚直に、泥臭く――頑張ってるじゃないか。

 

 

 

ピシッ

 

 

 

 もちろん、そういう未来も悪くないよ。

 そんな、穏当な結末も、いいんじゃないかなって思うよ。

 

 

 

ピシッ

 

 

 

 でもさ。

 でもさ。

 未来を決めるのは、私なんだ。

 まだ終われない、終わりたくないって、まだ、必死に、決死に、足掻いてるんだ。

 

 運命も、宿命も知らない世界で。

 まだ見ぬ明日へ向けて、走り続けているんだ。

 

 努力していることは。

 頑張っていることは。

 今だって――同じなんだ!

 

 

 

ピシッ

 

 

 

ピシッ――

 

 

 

 ――だったら。

 

 

 

 だったら。

 

 

 

 だったら――……!!

 

 

 

 

 

こういう未来が、

あってもいいじゃないか――!!

 

 

 

 

 

「――っ、ぁぁぁぁぁぁぁあああああああああッ!!!!」

 

 視界が晴れた。

 暗闇は消え去った。

 レース最終盤、勝負の直線――

 

 

 

 ソードクレインは、

 覚醒した。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

「――!?」

 

 庄野は、既にレースを見限っていたに近かった。

 突貫工事だったからな、GⅢなんて、適応出来なくて当然だ――奇しくもクレインと似た考え方をし。

 やはり砂に出戻るべきだな、と。思考を現実的な方向へと切り替え始めていたのだ。

 

 ――その矢先に、それは起きた。

 

 落とし掛けた視線を、勢いよく振り上げる。

 最終直線――最後尾にて、明らかに垂れているように見えたソードクレインが、突然、速度を上げ始めたのだ。

 

『さぁ大外から切り込んでくるのは10番ソードクレイン! 凄まじい末脚で猛然と追い縋るがここから追い付くのは厳しいか……!』

「クレインちゃん……!?」

 

 その変貌ぶりを、リッキーもまた目撃していた。クレインの持ち味――冷静に冷静を重ねた、冷徹なまでの切れ味の末脚。錆び付いていたように見えた刃が、急速にその白刃を取り戻す。

 冗談のように加速した彼女は、嘘のように選手を追い抜いていく。一人、また一人――

 

 ――クレイン、お前……!

 

 ――何があったの……!?

 

 気持ちの整理がつかない二人を置いてきぼりにし、状況は進んでいく。

 ただ実況の言葉通り、ここから先頭へと至るのはさすがに無理だろう。だがそれでも、それでも。息を吹き返した彼女のその走りは、十分に刮目に値した。

 最後の直線、数百メートルは、あっという間に過ぎ去っていく。

 

「……」

 

目を見開いていたのは、当人も同じだった。

変化を肌で感じつつも、驚きを隠せない。

自分を縛っていた枷が、丸ごと取り払われたかのようだ。

 

身体が軽い。

脚が軽い。

果てに見るものを求めるように、進んで止まらない。

未だかつて、ここまで爽快に走れたことがあったろうか。

未だかつて、こうまで軽快に駆けられたことがあったろうか。

ああ──競技の絶望の中で忘れかけていた。走ることは運命、進むことは宿命──

 

だがそれを平伏させてなお──

走ることとは──楽しい事だったのだ。

 

「──、」

 

クレインは走る。

ともあれ、一直線に駆け抜けていく。

湧き上がる歓声は自分のものでは無いが、それでさえ猛進するための燃料となった。

 

ただ、ただ──『本能の赴くままに』。

 

走って、

走って、

走って──

 

『――先頭1番のファインニードル! ファインニードルゴールイン!』

 

 果たして、勝負は決した。

 

『2番手は横に広がった! 7番のセイウンコウセイ残したか……!』

 

 実況の声が、克明に結果を告げる。

 

『外から13番のカラクレナイ、更には15番ナックビーナス、大外は――』

 

 ……ソードクレインは。

 

『――10番の

 

ソードクレイン――……』

 

「……クレイン」

 

 唖然とする庄野の視線の先。本人――クレインは、ターフ上で佇んでいる。

 結果に絶望しているわけではないだろう。

 結末に絶句しているわけでもないだろう。

 むしろ、掌を見つめているらしいその後ろ姿は、確かな手応えを感じているように見えた。

 

 確かめているように見えた。

 噛み締めているように、見えた。

 

「……、」

 

 ゆっくりと、彼女は庄野たちに振り返る。

 遠目に見ても、その表情は疲弊しているのがわかる。

 駆け寄るではなく、小走りでもなく。徒歩で目の前までやって来た彼女は、

 辿り着くなり、柵に凭れ掛かった。

 口元に、微笑みが灯る。

 

「……トレーナー……」

 

 息も絶え絶えに。

 しかし、嬉しげに。彼女は言った。

 

「どうでした……私の走り」

「……いや、なんつーか」

 

 庄野は、未だ動揺から抜け出せない。

 果たして目の前の少女が、自分のよく知る相棒なのかどうかさえも疑いかける。

 だがそんな猜疑を押し戻し、気を取り直して、彼女の問いかけに応じる。

 

「……人が変わったみたいだったぞ。何かよくないもんにでも取り付かれたか……?」

「はは……冗談上手いんですから」

「いや……そう言いたくなる気持ちもわかるよ」

 

 続いたのはコパノリッキー、そんな発言が無礼なものだとはわかっていても、同調せずにはいられなかった。

 

「私もびっくりしたよ。終盤に……このまま終わるって思っちゃってたのに、急にびゅんって走り出すから……」

 

 一体貴女に、何があったの?

 

 続けられた質問に、クレインはほんの少し考える。何があったか。何が起きたか。二人が明確な答えを求めていることは自明だったが――

 生憎とクレインには、それに100%で応じることは出来なさそうだった。

 

「……ごめん」

 

 だから――最初に出てきた言葉は、謝罪だった。

 

「私にも……正直、何があったのか、わからないの。

 

 あの時……視界が急に真っ黒になったと思ったら、ガラスの破片みたいなのが周りに見えて……そのひとつひとつに、映像が映ってた。私は……未来の自分たちっていう風に解釈したけど、実際何だったのかはわからない。

 ただそれを見て、思ったの。そうだ……諦めてる場合じゃないって。試合はまだ続いてるんだって。最後まで……戦うことを、放棄しちゃダメだって。気を持ち直して。もう一度走り直したの。そしたら、そしたら……

 

 ……そしたら。越えた気がするの。目の前の壁を。自分の中の……一線を」

 

 クレインは、柵から身を離すと、自身の両手を見つめる。見飽きるほどに見慣れたはずのそれが、自分のものではないかのように思われた。

 

「……思うんです。トレーナー。あの瞬間……私は確かに、今までの私から別離した」

 

 何かを打ち破った。

 何かを越えた。

 何なのかはわからないけれど。その感覚は確かだった。

 

「越えるべき壁を越えた。超えるべき一線を超えた。行先を阻む障害を……ぶっ飛ばした」

 

 確信は無いけれど。

 確証も、無いけれど――

 

「……もしかしたら、あの壁が。あの、一線が……

 

 私たちが

 運命だとか

 障害だとか

 言うものの、正体なのかもしれない……」

 

「……はは」

 

 彼女が妄言を言っているようには見えなかった。

 大真面目であろうその推論に、庄野は苦笑いしながら応じる。

 じゃあ――何か、と。

 

「つまりはお前は……運命か限界を越えた、ってことか」

「……確証は、ないですけどね……」

「もしかして……『領域』? フェアリィちゃんの時と似てた気がするけど……」

「ん……どうなんだろ。私も思ったけど……」

 

 リッキーの推測に、クレインは当時のことを再び想起する。フェアリィのそれが、真っ白な世界に光の道が見えたのに対して、自分は真っ黒な世界で、ガラスの破片を見ていた。

 同じもののように思えて、細部で異なる。たぶんあれは――そういう『奇跡』とは、また違うものだと思う。

 

「……まぁ、どっちでもいいわよ。正味」

 

 しかし、彼女にとっての結論はそれだった。

 実際あれが何だったのかに関しては、さほど重大な問題じゃない。

 気に掛けるべきは――

 

「……トレーナー」

 

 過去ではなく――今の方だ。

 

「この結果は……もしかしたら、都合のいい偶然かもしれません」

 

『ボタン』を押し続けたことによる、『奇跡』なのかもしれない。

 

「あの感覚も、この感触も、間違いで……戦うには、未熟すぎるかもしれません」

 

 未熟であるが故の、思い上がりかもしれない。

 

「でもそれでも……この試合は、私が、私の中の可能性を『信用』するには、十分な内容でした」

 

 まだ戦うことが出来ると。

 前に進むことが出来るのだと。

 信じられるだけの、事実が詰まっていた。

 

「……だから」

 

 だから。

 

「……行きませんか。ここだけじゃなくて。

 私も、あなたも、誰もが見たことない景色のために。

 

 もっと、

 もっと、

 先の世界へ」

 

「……」

 

 勝利者インタビューなぞ、とうに終わっている。

 本来なら、さっさと退場しなければならないタイミングだ。

 それを承知しておきながらも、庄野は彼女の提案を吟味する。

 

 元々――この道を示したのは、自分の為という側面が大きかったというのに。

 気付けば、主導権を握られていた。

 もはやそこに恐れはない。怯えてもいない。目の前に立っているのは、可能性を追い求める『獣』そのものだ。

 最初、そのようにしろと炊きつけたのは自分だが――

 まさか、こんなことになるとは。彼にも予想外だった。

 

「……、」

 

 しかし――

 怖気付いているかと言えば、それは違う。

 彼女が言うように、この結果は奇跡かもしれない。偶然かもしれない。

 ならば、どちらなのか。本当にそうなのか。確認するためのフェーズは必要だ。

 

 挑戦することは――重要だ。

 

「……全く」

 

 だから、彼も言った。

 

「こっちが覚悟を問う側だったのに……いつの間にか、逆になっちまったな」

 

 悔しそうに。それでいて、嬉しそうに。

 

「元より、俺には覚悟が出来てる。問題は、お前がどれだけやれるかだったんだ。そのお前が……ここまでやる気を示してくれるんだったら、もう躊躇う理由はねぇ」

 

 ……笑いながら。言った。

 

「――だったら。

 

 目指してみるか――『高松宮』!」

 

「――!!」

 

 どくん、とクレインの胸が高鳴る。

 高松宮――『高松宮記念』。芝の短距離走、最高峰。

 テレビ越しに観るだけだったあのレースに、自分が……挑戦する。

 元々、このシルクロードステークスは、その前哨戦の側面があったのだ。きっと庄野としては、そこまで織り込み済みだったのだろう。

 過程は、別として――

 

 目的が明白になる。

 目標が明瞭になる。

 実体を持った自分の未来を見て、なお――

 

 ソードクレインは、

 不敵に笑っていた。

 

「――はい!」

 

 威勢のいいその返事に。

 庄野もまた、満足げに笑う。

 

「……あのー……」

 

 ……そんな、浮かれ切った空気の二人に。

 申し訳なさそうに声を掛ける影が、ひとつ。

 

「すみません、そろそろ退場を……」

「――あ。ご、ごめんなさい……!!」

 

 声を掛けられたクレインは、一瞬何のことかわからなかったが。すぐに理解する。相手はURA係員。次のレースが始められないから、話してないでとっとと退場しろということだ。

 慌てて返事をしてから、彼女は踵を返しつつ、庄野に振り返る。

 

「トレーナー、さっきの話はあとで詰めましょうね! それじゃっ!」

「おー、転ぶんじゃねーぞー」

 

 彼女にしては珍しく、そそくさと去る様子を見送って、彼は一息つく。

 コパノリッキーは、蚊帳の外でやり取りを見守っていたが――不満そうな顔つきはしていなかった。

 どこか翳りのあるその瞳は――どちらかと言えば、羨んでいるようにも見えるそれ。

 

「……凄いですね。お二人は」

 

 彼女は言った。

 

「あんな難しい挑戦をしたのに……怖気付かないどころか、新しい挑戦まで始めようなんて」

「まぁ……最後のは、ほとんどクレインが決めたようなもんだけどな」

「それでも、あれだけちゃんと自分の道を決めるなんて、簡単じゃないですよ。すごいな……まるで本当に、人が変わったみたい」

 

 レースを通じて。

 別の誰かに、丸ごと生まれ変わったみたいだった――

 

「――よーしっ!」

 

 気合いを入れ直すように、リッキーは顔を上げる。

 その瞳に、さっきまでの翳りはない。いつもの彼女の、明朗で、快活な色。

 

「私もやるぞっ! タルマエに詰められた時は、ちょっと怖かったけど……怖がってる場合じゃないね!」

「……GⅠを11勝だったか。俺からしたら、そっちのがすげーと思うけどな」

「でも、クレインちゃんがあんなに頑張るんだもの。負けてらんない!」

 

 グッと両の拳を握り直す。光に満ちた視線が、天に誓うように、そうでなければ仇名すように、真っ直ぐに伸びていた。

 

「私も――頑張るぞっ!!」

 

 ――そうして、銘々の想いが交錯しながら、時が過ぎる。

 

 スケジュールが進み、人が往来し、クレインたちが学園に戻ってきたのは、夕刻を過ぎようかという頃。

 

「じゃ、向こうで話した通りでな。……もう後戻りは利かねぇぞ?」

「臨むところです!」

 

 お互い、自信満々に言葉を交わし合い、それぞれの帰るべき場所へと足を向ける。庄野はトレーナー寮へ、クレインは学生寮へ――

 寮へと近付くごとに、クレインの胸には、期待とも、緊張とも取れる感情が湧き上がっていた。まだ夜とは言えない時間帯とはいえ、それに値する出来事が待ち受けてることは、普通は無いはずだ。

 だが彼女が思うのは、あれだけのレースを繰り広げたのだ、という考えだ。あれだけのレースを繰り広げておいて、彼女が――『あの子』が。じっとしているわけがない……

 

「……」

 

 それらの感情は、寮の入り口を通った瞬間、最高潮に達していた。

 

「――クレインさぁーんっ!!」

 

 ……そして、それが弾けたのを体現するが如く、『彼女』は飛び込んできていた。

 クレインは、咄嗟に両手を前に伸ばし、姿勢を低くする。正しく何かを受け止める体勢。判断は功を奏し、彼女の掌は、『彼女』の両肩を受け止めていた。

 

「そう来ると思ってたわ!」

「うおぉっ、ここまで予想して受け止めて見せるとはっ! さすがクレインさん! 素晴らしい限りですっ!」

 

 フェアリィルナは、受け止められた体勢のまま、コミカルに両手を上下させている。投げ網にかかった魚か何かか、と冷静にツッコみながら、クレインはその勢いを押し返した。

 

「……全く。あんたは本当に変わらないわね。JBCスプリントでもやりかけてたでしょ」

「そりゃもうっ! 今回も見逃せない一戦でしたからね!」

 

 ちなみに現在位置、エントランスのド真ん前。これ、入寮の邪魔だろうなーと考えたクレインは、さりげなく隅の方に寄りつつ、彼女の言葉に耳を傾ける。

 

「偉業ですよ偉業! とんでもない話です、クレインさん!! 芝の転向初試合で、掲示板にもちゃっかり入っちゃうなんて! そうそう出来ることじゃないです!」

 

 器用にもその動きに着いて歩きながら、フェアリィはなおも嬉々として話し。

 

「やっぱりあなたはとんでもない……って、あれ?」

「?」

 

 が、再び立ち止まった時。フェアリィは、きょとんと言葉を切り、首を傾げていた。

 いつも通りの、無邪気なまでに透き通った瞳に、クレインの姿が映る。

そんな風に見られる心当たりがなく、彼女もまた、不思議そうな瞳を返していた。

 

「どうしたの?」

「あ……いえ。えと、なんだか……あれ?」

 

 困惑、当惑――フェアリィは見るからに動揺した様子で、じろじろとクレインを見つめながら、続ける。

 

「クレインさん……何か、変わりました?」

「……うーん」

 

 あまりに掴みどころのない質問。

 クレインは一瞬、言葉を詰まらせるが、自身の掌を見つめて、否定するものでもないことに気付く。

 変わった。確かにその感覚は、間違っていないかもしれなかった。

 

「……そうかもしれないわね」

 

 クレインは答えた。

 

「あの試合……言うまでもなく、私にとって、特別なものだった。私と、トレーナーにとっての……新しい挑戦の足掛かりになった」

 

 行く末はわからない。

 未来はわからない。

 ただ、前を向いた心は、わくわくと浮ついた楽しさの方が大きかった。

 

「最初はどうなることかと思ったけど……試してみて、良かったわ」

 

 グッと、掌を握る。そこに、自分のものにした力の暖かみを感じながら――

 

「……私、」

 

 言った。

 

「今なら――どこへでも行けそう」

 

 無論の事だが。

 そこに、クレインの悪気など微塵もない。

 見せびらかす気も、ひけらかすつもりもなかった。

 ある種残酷なまでに――前向きで、明るいその言葉に。

 フェアリィルナは――

 

 

 

 大きく目を見開いて。

 言葉を失っていた。

 

 

 

「……?」

 

 無言を不審に思い、視線を戻したクレインにもそれは映った。

 フェアリィは、呆然と立ち尽くし、何も言わないでいる――あるいは、言えないでいる。

 いつもと異なる、いや、これまでに見たことのないその反応を、クレインは訝しむ。

 

「フェアリィ?」

 

 掛けた言葉は、どこか暗い重みを帯びていた。

 

「どうしたの? 急に黙って……」

「……ぇ」

 

 応じた言葉は、消え入りそうに、小さかった。

 

「ぁ――あ、な、なんでもないですよ? 全然なんでもないです! い、いやはや、すごいなーって、クレインさんは、思ってたより……いや、前よりもずっと、ずっと、凄くて……あ、あれ……?」

「……」

 

 ……え?

 なんだこれ。

 

 湧き上がっていた緊張と期待は、重苦しい不安と疑問へ。

 いつも通りに、いつもの通りに。自分は話したはずだ。何も落ち度もなかったはずだ。なのに、それなのに――

 

 なんだこれ。

 何だこの反応。

 フェアリィ、どうしてあなたは――

 それがまるで、全く予想していなかったみたいに――

 

「……ご、」

 

 一歩後ずさったフェアリィは、絞り出すように言葉を紡ぐ。

 

「ごめんなさい、ちょっと失礼しますね!」

「あ、フェアリィ!?」

 

 そして――逃げるように、寮から出て行ってしまった。

 追おうにも、なんだかそれも罪深いことのように思えてしまって、クレインは寮の入り口にて、走り去っていくその後ろ姿を見送るに留まる。

 同時――いつの間にか立ち込めていた曇天から、粒が滴ってくる。

 

「……あ」

 

 ――雨。

 

 雨が、振り始めていた。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

「……シオンさん?」

 

 寮室から窓の外を見つめるウインバリアシオンに、同室のシュヴァルグランが、心配そうに声を掛ける。

 

「――ぇ」

 

 ハッと気を取り直したシオンは、勢いよくシュヴァルの方へと振り向いていた。

 

「な……なんすか?」

「あ……いえ。大したことじゃ、ないんですけど……」

 

 シュヴァルは、心なしか、いつもよりもおずおずと言う。

 

「なんだか……悩んでるように見えて……」

「あ……あぁ。ははは」

 

 ――顔に出てたっすかねぇ。

 そんなことを考えつつ、シオンは、強張っていた表情をくしゃりと笑顔で緩ませた。

 

「それこそ、大したことじゃないっすよ。気にしないでくださいっす」

「そ、そうですか……」

 

 シュヴァルは、それ以上踏み込まない。踏み込むのが怖かったのか、彼女なりの心遣いか。どちらにせよ、その事実がシオンにはありがたかった。

 ――ふと、シオンの視線が、窓際に置かれた一枚の円形へ。意味もなく放置されたコインへと落ちる。

 

『――シオン。覚えているか』

 

 脳裏に思い出されるのは――今日、オルフェーヴルが、『例のレース』の直後に話したことだ。……

 

『視察に行った時。余が彼奴らへの印象を語った時のことを』

『……コインの表裏……のことっすか』

 

 オルフェーヴルは、シオンの返事に頷きつつ、机上に置かれていたコインを、指で挟んで眺める。

 

『余のあれは……比喩ではない』

 

 当時は、陽の光を、コインは鈍く反射させていた。

 

『危ういと感じたのだ。あの者らの関係性は。二律背反、表裏一体――それは生きていくには心強いものかもしれぬが、切っても切れぬ宿命に晒されることでもある。……なぜなら』

 

 何故なら。

 

『コインの表も裏も。光も闇も。太陽も月も――同じ尺度では、存在出来ぬからだ』

 

 オルフェーヴルは、手を縦に握ると、人差し指で包むようにした親指の上に、コインを配置する。

 

『……表が出るなら、裏は隠れねばならぬ』

 

 親指に力が籠る。

 

『光が照るならば、陰は潜まねばならぬ』

 

 解かれた力により、コインが弾かれ、宙を舞う。

 

『……月が昇るなら。

 

 太陽は、

 沈まねばならぬ――』

 

 程なく自由落下し、手元に戻ってきたコインを。

 オルフェーヴルは、手で握ろうとした。

 

 ――が。それは叶わず。コインは硬い音を立てつつ、机上に着地する。

 それは数回、縦向きに回転すると――やがて静止した。

 

 裏面を、

 彼女らに晒した状態で。

 

「……」

 

 ……雨が降り始めている。

 空には、分厚い雲が、鎮座する。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 トレセン学園中央校には、太陽がいくつか存在する。

 

「……ん」

 

 それは無邪気に笑う太陽であったり、底抜けに元気な太陽であったりする。

 

「……はいもしもし。こちら栗東寮長フジキセキ……」

 

 トレセン学園中央校には、太陽が、いくつか存在する。

 

「……」

 

 その日。

 

「……え?」

 

 中央校の、ある太陽が――

 

 

 

 沈んだ。

 

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