2秒。
あなたはこの秒数を、長いと取るだろうか。短いと取るだろうか。
実際問題、2秒でこなせる事象はそうない。カップラーメンは出来上がらないし、外に出ることすらままならない。いいとこ、デスクにあるペンを手に取るくらいであろう。
だがこと競争という話になると、このほんの一瞬の差が、越え難い壁となることがままある。
極限まで切り詰めた競技の世界において、更にもう1秒前へと進むことは、己の限界をもう一段階超えることに等しい。
なればこそ、コンマ数秒記録を塗り替えただけでも、その事実は、万雷の拍手を以て祝福されるのだ。
それが2秒ともなれば――限界を超えてなお、先へと走ることを強いられているようなもの。
「――それを適切に見極められず、軽率に転向を志すものも少なくない」
生徒会室にて――
執務机に座したオルフェーヴルは、(いつかウインバリアシオンが用意してくれた)テレビ画面を見つめながら言う。
「そしてそういった者は……自身が越えるべき壁の大きさに絶望し、逃げるように踵を返す。そして元の戦線へと舞い戻り、己が決断の拙さを知るのだ」
「……走る時の感覚も、丸っきり違いますからね」
ウインバリアシオンも、深刻そうに同調する。もちろん、ウマ娘全てが、そんな軽率な者ばかりということはないであろう。それがどれだけ困難な道なのかを、よく理解している者もいる――
ただそれを加味したところで、難易度の高さはさほど変わりはしない。現実とは無情で、無常なものなのだ。
2秒。
それは――砂と芝の短距離競争における、コースレコードの平均的な秒差を差していた。
「……ってなると、先人の『変態ぶり』が際立つっすよね。
芝と砂。双方で目覚ましい成果を残した『先人たち』。
茨の道と知ってなお、追随する者が後を絶たないのは、そんな彼女らへの憧れもあるか。
「……やれると思います? あの子……」
「……」
オルフェーヴルは答えない。そのような問答に、意味はないと知っているからだ。
ただ、ちらと逸らした視線は、机上に置かれた円形を捉える。
何ともなしに放っておいた一枚の外貨が、存在を主張するように電灯の光を反射させた。
『――スタートしました!!』
ちょうどその時だった――その競争が、幕を開けたのは。
出走直後、ソードクレインは大きく出遅れたわけではない。
むしろ、転向直後のレースにしては、その立ち上がりは鮮やかと評価出来るものだった。
一塊となって飛び出した先団に着いていこうとする。
が――間もなく、彼女は、驚愕と共に『違い』を感じ取る。
「……!?」
――速い。
芝に感覚を慣らしはしたはずだというのに、それにも関わらず、周囲のウマ娘はぐんぐんと前へと出ていく。
――速い――……!!
それは庄野との話でも、そして映像を通してでも、十二分に確認出来ていた事実のはずだった。
覚悟も、散々に決めてきたはずだった。
だが――実際に突きつけられた現実は、容赦を知らない獣となって、彼女の心に襲いかかる。
こんなにも。
まさかこんなにも――違うだなんて。
「――っ、」
あっという間に、中団後方にまで下がってしまった。
距離が短いことを考えれば、絶望的に悪い位置取り。
それだけに留まらない、周囲の速度は、そこまで来てなお上がっていく一方だ。
立ち上がり数十秒と経たず、レースは3コーナーの入口へ。
クレインの位置は――悪いことに、後団前半付近。
『3コーナーカーブ、内から6番、セカンドテーブル、接近して1バ身中団外め、13番カラクレナイ――』
全体がコーナーを曲がり始めた時には、ほとんどにっちもさっちもいかなくなっていた。
順位は17位、後ろから2番目。前に出ようにも、進路を複数の選手に塞がれている上、追い抜くだけの力も発揮出来そうにない。
とても――とても。順位を上げようだなんて、考える余裕はない。置いていかれないよう、着いていくのがやっとだ――
「……、っ……!」
――冷静さを失ってはいけない。
これまで散々に言われ、矯正されてきたことだ。
前のめりになってしまい、掛かり気味になってしまうのが自分の悪いところ。頭ではわかっている、理屈では理解している。
でも、でも。こんな現実を、こんな現状を、目の当たりにしては、焦らずにいろというのが無理な話だ。
――こんなの。
焦るに、
決まってんじゃん……!!
「――っはぁ、はぁ……!!」
どうすればいい。
どうすればいいんだ!? 答えが出ないまま、レースは4コーナー。
そこを抜ければ、あっという間に最終直線。勝負はおしまいになる。
頼みの綱の末脚も、適当に機能してくれるように思えない。
こんなところで爆発させたところで、体力が尽きたら、何の意味も……!!
『11番ユキノアイオロス固まっています、間フミノムーンがいて最後方ソードクレイン……!』
「っ……!!」
400を切って4コーナー、直線へ――
先頭との差は、いよいよ決定的なものになる。
こうなっては覆すことは困難だろう。あの『暴君』ほどの実力があれば話は別だが、言うまでもなく、自分にそこまでの力はない――
実力の差。
才能の差。
場数の差。
……天運の差。
むざむざとそれを突き付けられ、JBCスプリントの時と同じように、諦念に思考を支配されそうになる。
「――っ、」
だがそれを、当時と同じように、不屈の意志で振り払う。
どうにもならないじゃない、どうにかするんだと、一心不乱で『ボタン』を押す。
奇跡を。あの時のような、閃きを。
混迷の状況に、一筋の光を、ただただ求め続けて――それでも。
何も起きないまま、何一つ覆せないまま。
最終直線の、入り口にまで到達した。
「――!?」
――その時だった。
クレインの視界に、唐突な変化が生じたのは。
視界の奥から、漆黒の帳が広がっていく。
目の前が。
真っ暗になっていた。
「――え」
見たことも聞いたこともないその現象に、彼女は動揺する。
一寸先も視界不良の中、しっかりと走れているかどうかすらもわからなくなる。
みんなはどこへ。試合はどこへ。私は、私は――どこへ?
疑問に思う傍らで、さらなる変化が訪れる。
「……?」
――なにこれ。
闇の中から浮かび上がってきたそれらは、大小さまざまなガラスの破片のようだった。
それらが燦然と煌めきながら、何かの映像を映し出している。
時に走り、時に挫け、時に喜んでいるそれは、その姿は――
――私?
そう。
ソードクレイン、本人だった。
ただ、そのどれもが、自分の過去のどの記憶とも合致しないもの。見たことがあるようで、微妙に違う。端々に映る新聞紙やら雑誌やらに記された日付は――今より未来のもの。
クレインはそこまで来て、この現象が現実には起きていない、自分の想像上のものであると理解すると同時に――
……それが、ある種の未来予知。
もしくは――『運命』とでも呼ぶべきものであることに気付いた。
ウマ娘。
その者たちは、走るために生まれてきた。
ときに数奇で、ときに輝かしい歴史を持つ、別世界の名前と共に生まれ、
その魂を受け継いで走る――
それが、自分たちの運命。
……映像の中、結局自分はこのレースで惨敗。
それを受けて、砂戦線に出戻ることにしたが、庄野の危惧した通り、一度芝に適応してしまった身体を再適応させることは、困難を極め。
試行錯誤したものの、上手くはいかず――都合二度目となるJBCスプリントにて、8着を取ったのを最後に。
現役を引退することになった。
引いて見れば、あんまりな戦績だ。
やはり自分の、自分たちの判断が、あまりにも軽率だった。
普通ならば、心の底から悔しがるところだろうに。
クレインがそこから覚えた感情は、悔しさ、ばかりではなかった。
……それらの映像からは。
――達成感。
何もかもを、やり切った。
やりたいこと、やれること、全てをやった。
そんな、達成感に満ち溢れていた。
あぁ、そうだよね。
そのとおりだよ、とクレインは考える。
傍から見たら、残酷で残忍なまでの運命だとしても、そういう評価は相対的でしかない。
結局は、本人がどう感じるかなのだ――傍から見て、救いようのないものであったとしても。
本人たちが、満足しているのなら。
納得しているのなら。
そこに文句をつける権利が、一体誰にあるだろうか。
運命は避けられない。
これから自分には、こういう結末が訪れるのだろう。
でも――それを拒もうとは思わなかった。まぁ、いいか――と、受け入れるつもりでいた。
確かに悲しいけれど。確かに悔しいけれど。
……いいじゃないか。それで。みんなが、手を尽くしたのなら。
やりたいことをやったのなら。
やれることをやったのなら。
幸せに、なれたのなら。
それでいい。
これでいい。
これで。
これで。
……そう。
これで――……
……
…………
………………
………………でも。
でも、さ。私。
今の状況だって、そんなもしもの運命と、同じだと思わないか。
確かにみんなは頑張った。これでいい、って納得してた。こういう結末でもいい、って、受け入れているように感じた……
でもさ。
それって、今も同じじゃないか。
今だって、私は、未確定の明日へと向かって、直向きに、愚直に、泥臭く――頑張ってるじゃないか。
もちろん、そういう未来も悪くないよ。
そんな、穏当な結末も、いいんじゃないかなって思うよ。
でもさ。
でもさ。
未来を決めるのは、私なんだ。
まだ終われない、終わりたくないって、まだ、必死に、決死に、足掻いてるんだ。
運命も、宿命も知らない世界で。
まだ見ぬ明日へ向けて、走り続けているんだ。
努力していることは。
頑張っていることは。
今だって――同じなんだ!
――だったら。
だったら。
だったら――……!!
あってもいいじゃないか――!!
「――っ、ぁぁぁぁぁぁぁあああああああああッ!!!!」
視界が晴れた。
暗闇は消え去った。
レース最終盤、勝負の直線――
ソードクレインは、
覚醒した。
「――!?」
庄野は、既にレースを見限っていたに近かった。
突貫工事だったからな、GⅢなんて、適応出来なくて当然だ――奇しくもクレインと似た考え方をし。
やはり砂に出戻るべきだな、と。思考を現実的な方向へと切り替え始めていたのだ。
――その矢先に、それは起きた。
落とし掛けた視線を、勢いよく振り上げる。
最終直線――最後尾にて、明らかに垂れているように見えたソードクレインが、突然、速度を上げ始めたのだ。
『さぁ大外から切り込んでくるのは10番ソードクレイン! 凄まじい末脚で猛然と追い縋るがここから追い付くのは厳しいか……!』
「クレインちゃん……!?」
その変貌ぶりを、リッキーもまた目撃していた。クレインの持ち味――冷静に冷静を重ねた、冷徹なまでの切れ味の末脚。錆び付いていたように見えた刃が、急速にその白刃を取り戻す。
冗談のように加速した彼女は、嘘のように選手を追い抜いていく。一人、また一人――
――クレイン、お前……!
――何があったの……!?
気持ちの整理がつかない二人を置いてきぼりにし、状況は進んでいく。
ただ実況の言葉通り、ここから先頭へと至るのはさすがに無理だろう。だがそれでも、それでも。息を吹き返した彼女のその走りは、十分に刮目に値した。
最後の直線、数百メートルは、あっという間に過ぎ去っていく。
「……」
目を見開いていたのは、当人も同じだった。
変化を肌で感じつつも、驚きを隠せない。
自分を縛っていた枷が、丸ごと取り払われたかのようだ。
身体が軽い。
脚が軽い。
果てに見るものを求めるように、進んで止まらない。
未だかつて、ここまで爽快に走れたことがあったろうか。
未だかつて、こうまで軽快に駆けられたことがあったろうか。
ああ──競技の絶望の中で忘れかけていた。走ることは運命、進むことは宿命──
だがそれを平伏させてなお──
走ることとは──楽しい事だったのだ。
「──、」
クレインは走る。
ともあれ、一直線に駆け抜けていく。
湧き上がる歓声は自分のものでは無いが、それでさえ猛進するための燃料となった。
ただ、ただ──『本能の赴くままに』。
走って、
走って、
走って──
『――先頭1番のファインニードル! ファインニードルゴールイン!』
果たして、勝負は決した。
『2番手は横に広がった! 7番のセイウンコウセイ残したか……!』
実況の声が、克明に結果を告げる。
『外から13番のカラクレナイ、更には15番ナックビーナス、大外は――』
……ソードクレインは。
『――10番の
ソードクレイン――……』
「……クレイン」
唖然とする庄野の視線の先。本人――クレインは、ターフ上で佇んでいる。
結果に絶望しているわけではないだろう。
結末に絶句しているわけでもないだろう。
むしろ、掌を見つめているらしいその後ろ姿は、確かな手応えを感じているように見えた。
確かめているように見えた。
噛み締めているように、見えた。
「……、」
ゆっくりと、彼女は庄野たちに振り返る。
遠目に見ても、その表情は疲弊しているのがわかる。
駆け寄るではなく、小走りでもなく。徒歩で目の前までやって来た彼女は、
辿り着くなり、柵に凭れ掛かった。
口元に、微笑みが灯る。
「……トレーナー……」
息も絶え絶えに。
しかし、嬉しげに。彼女は言った。
「どうでした……私の走り」
「……いや、なんつーか」
庄野は、未だ動揺から抜け出せない。
果たして目の前の少女が、自分のよく知る相棒なのかどうかさえも疑いかける。
だがそんな猜疑を押し戻し、気を取り直して、彼女の問いかけに応じる。
「……人が変わったみたいだったぞ。何かよくないもんにでも取り付かれたか……?」
「はは……冗談上手いんですから」
「いや……そう言いたくなる気持ちもわかるよ」
続いたのはコパノリッキー、そんな発言が無礼なものだとはわかっていても、同調せずにはいられなかった。
「私もびっくりしたよ。終盤に……このまま終わるって思っちゃってたのに、急にびゅんって走り出すから……」
一体貴女に、何があったの?
続けられた質問に、クレインはほんの少し考える。何があったか。何が起きたか。二人が明確な答えを求めていることは自明だったが――
生憎とクレインには、それに100%で応じることは出来なさそうだった。
「……ごめん」
だから――最初に出てきた言葉は、謝罪だった。
「私にも……正直、何があったのか、わからないの。
あの時……視界が急に真っ黒になったと思ったら、ガラスの破片みたいなのが周りに見えて……そのひとつひとつに、映像が映ってた。私は……未来の自分たちっていう風に解釈したけど、実際何だったのかはわからない。
ただそれを見て、思ったの。そうだ……諦めてる場合じゃないって。試合はまだ続いてるんだって。最後まで……戦うことを、放棄しちゃダメだって。気を持ち直して。もう一度走り直したの。そしたら、そしたら……
……そしたら。越えた気がするの。目の前の壁を。自分の中の……一線を」
クレインは、柵から身を離すと、自身の両手を見つめる。見飽きるほどに見慣れたはずのそれが、自分のものではないかのように思われた。
「……思うんです。トレーナー。あの瞬間……私は確かに、今までの私から別離した」
何かを打ち破った。
何かを越えた。
何なのかはわからないけれど。その感覚は確かだった。
「越えるべき壁を越えた。超えるべき一線を超えた。行先を阻む障害を……ぶっ飛ばした」
確信は無いけれど。
確証も、無いけれど――
「……もしかしたら、あの壁が。あの、一線が……
私たちが
運命だとか
障害だとか
言うものの、正体なのかもしれない……」
「……はは」
彼女が妄言を言っているようには見えなかった。
大真面目であろうその推論に、庄野は苦笑いしながら応じる。
じゃあ――何か、と。
「つまりはお前は……運命か限界を越えた、ってことか」
「……確証は、ないですけどね……」
「もしかして……『領域』? フェアリィちゃんの時と似てた気がするけど……」
「ん……どうなんだろ。私も思ったけど……」
リッキーの推測に、クレインは当時のことを再び想起する。フェアリィのそれが、真っ白な世界に光の道が見えたのに対して、自分は真っ黒な世界で、ガラスの破片を見ていた。
同じもののように思えて、細部で異なる。たぶんあれは――そういう『奇跡』とは、また違うものだと思う。
「……まぁ、どっちでもいいわよ。正味」
しかし、彼女にとっての結論はそれだった。
実際あれが何だったのかに関しては、さほど重大な問題じゃない。
気に掛けるべきは――
「……トレーナー」
過去ではなく――今の方だ。
「この結果は……もしかしたら、都合のいい偶然かもしれません」
『ボタン』を押し続けたことによる、『奇跡』なのかもしれない。
「あの感覚も、この感触も、間違いで……戦うには、未熟すぎるかもしれません」
未熟であるが故の、思い上がりかもしれない。
「でもそれでも……この試合は、私が、私の中の可能性を『信用』するには、十分な内容でした」
まだ戦うことが出来ると。
前に進むことが出来るのだと。
信じられるだけの、事実が詰まっていた。
「……だから」
だから。
「……行きませんか。ここだけじゃなくて。
私も、あなたも、誰もが見たことない景色のために。
もっと、
もっと、
先の世界へ」
「……」
勝利者インタビューなぞ、とうに終わっている。
本来なら、さっさと退場しなければならないタイミングだ。
それを承知しておきながらも、庄野は彼女の提案を吟味する。
元々――この道を示したのは、自分の為という側面が大きかったというのに。
気付けば、主導権を握られていた。
もはやそこに恐れはない。怯えてもいない。目の前に立っているのは、可能性を追い求める『獣』そのものだ。
最初、そのようにしろと炊きつけたのは自分だが――
まさか、こんなことになるとは。彼にも予想外だった。
「……、」
しかし――
怖気付いているかと言えば、それは違う。
彼女が言うように、この結果は奇跡かもしれない。偶然かもしれない。
ならば、どちらなのか。本当にそうなのか。確認するためのフェーズは必要だ。
挑戦することは――重要だ。
「……全く」
だから、彼も言った。
「こっちが覚悟を問う側だったのに……いつの間にか、逆になっちまったな」
悔しそうに。それでいて、嬉しそうに。
「元より、俺には覚悟が出来てる。問題は、お前がどれだけやれるかだったんだ。そのお前が……ここまでやる気を示してくれるんだったら、もう躊躇う理由はねぇ」
……笑いながら。言った。
「――だったら。
目指してみるか――『高松宮』!」
「――!!」
どくん、とクレインの胸が高鳴る。
高松宮――『高松宮記念』。芝の短距離走、最高峰。
テレビ越しに観るだけだったあのレースに、自分が……挑戦する。
元々、このシルクロードステークスは、その前哨戦の側面があったのだ。きっと庄野としては、そこまで織り込み済みだったのだろう。
過程は、別として――
目的が明白になる。
目標が明瞭になる。
実体を持った自分の未来を見て、なお――
ソードクレインは、
不敵に笑っていた。
「――はい!」
威勢のいいその返事に。
庄野もまた、満足げに笑う。
「……あのー……」
……そんな、浮かれ切った空気の二人に。
申し訳なさそうに声を掛ける影が、ひとつ。
「すみません、そろそろ退場を……」
「――あ。ご、ごめんなさい……!!」
声を掛けられたクレインは、一瞬何のことかわからなかったが。すぐに理解する。相手はURA係員。次のレースが始められないから、話してないでとっとと退場しろということだ。
慌てて返事をしてから、彼女は踵を返しつつ、庄野に振り返る。
「トレーナー、さっきの話はあとで詰めましょうね! それじゃっ!」
「おー、転ぶんじゃねーぞー」
彼女にしては珍しく、そそくさと去る様子を見送って、彼は一息つく。
コパノリッキーは、蚊帳の外でやり取りを見守っていたが――不満そうな顔つきはしていなかった。
どこか翳りのあるその瞳は――どちらかと言えば、羨んでいるようにも見えるそれ。
「……凄いですね。お二人は」
彼女は言った。
「あんな難しい挑戦をしたのに……怖気付かないどころか、新しい挑戦まで始めようなんて」
「まぁ……最後のは、ほとんどクレインが決めたようなもんだけどな」
「それでも、あれだけちゃんと自分の道を決めるなんて、簡単じゃないですよ。すごいな……まるで本当に、人が変わったみたい」
レースを通じて。
別の誰かに、丸ごと生まれ変わったみたいだった――
「――よーしっ!」
気合いを入れ直すように、リッキーは顔を上げる。
その瞳に、さっきまでの翳りはない。いつもの彼女の、明朗で、快活な色。
「私もやるぞっ! タルマエに詰められた時は、ちょっと怖かったけど……怖がってる場合じゃないね!」
「……GⅠを11勝だったか。俺からしたら、そっちのがすげーと思うけどな」
「でも、クレインちゃんがあんなに頑張るんだもの。負けてらんない!」
グッと両の拳を握り直す。光に満ちた視線が、天に誓うように、そうでなければ仇名すように、真っ直ぐに伸びていた。
「私も――頑張るぞっ!!」
――そうして、銘々の想いが交錯しながら、時が過ぎる。
スケジュールが進み、人が往来し、クレインたちが学園に戻ってきたのは、夕刻を過ぎようかという頃。
「じゃ、向こうで話した通りでな。……もう後戻りは利かねぇぞ?」
「臨むところです!」
お互い、自信満々に言葉を交わし合い、それぞれの帰るべき場所へと足を向ける。庄野はトレーナー寮へ、クレインは学生寮へ――
寮へと近付くごとに、クレインの胸には、期待とも、緊張とも取れる感情が湧き上がっていた。まだ夜とは言えない時間帯とはいえ、それに値する出来事が待ち受けてることは、普通は無いはずだ。
だが彼女が思うのは、あれだけのレースを繰り広げたのだ、という考えだ。あれだけのレースを繰り広げておいて、彼女が――『あの子』が。じっとしているわけがない……
「……」
それらの感情は、寮の入り口を通った瞬間、最高潮に達していた。
「――クレインさぁーんっ!!」
……そして、それが弾けたのを体現するが如く、『彼女』は飛び込んできていた。
クレインは、咄嗟に両手を前に伸ばし、姿勢を低くする。正しく何かを受け止める体勢。判断は功を奏し、彼女の掌は、『彼女』の両肩を受け止めていた。
「そう来ると思ってたわ!」
「うおぉっ、ここまで予想して受け止めて見せるとはっ! さすがクレインさん! 素晴らしい限りですっ!」
フェアリィルナは、受け止められた体勢のまま、コミカルに両手を上下させている。投げ網にかかった魚か何かか、と冷静にツッコみながら、クレインはその勢いを押し返した。
「……全く。あんたは本当に変わらないわね。JBCスプリントでもやりかけてたでしょ」
「そりゃもうっ! 今回も見逃せない一戦でしたからね!」
ちなみに現在位置、エントランスのド真ん前。これ、入寮の邪魔だろうなーと考えたクレインは、さりげなく隅の方に寄りつつ、彼女の言葉に耳を傾ける。
「偉業ですよ偉業! とんでもない話です、クレインさん!! 芝の転向初試合で、掲示板にもちゃっかり入っちゃうなんて! そうそう出来ることじゃないです!」
器用にもその動きに着いて歩きながら、フェアリィはなおも嬉々として話し。
「やっぱりあなたはとんでもない……って、あれ?」
「?」
が、再び立ち止まった時。フェアリィは、きょとんと言葉を切り、首を傾げていた。
いつも通りの、無邪気なまでに透き通った瞳に、クレインの姿が映る。
そんな風に見られる心当たりがなく、彼女もまた、不思議そうな瞳を返していた。
「どうしたの?」
「あ……いえ。えと、なんだか……あれ?」
困惑、当惑――フェアリィは見るからに動揺した様子で、じろじろとクレインを見つめながら、続ける。
「クレインさん……何か、変わりました?」
「……うーん」
あまりに掴みどころのない質問。
クレインは一瞬、言葉を詰まらせるが、自身の掌を見つめて、否定するものでもないことに気付く。
変わった。確かにその感覚は、間違っていないかもしれなかった。
「……そうかもしれないわね」
クレインは答えた。
「あの試合……言うまでもなく、私にとって、特別なものだった。私と、トレーナーにとっての……新しい挑戦の足掛かりになった」
行く末はわからない。
未来はわからない。
ただ、前を向いた心は、わくわくと浮ついた楽しさの方が大きかった。
「最初はどうなることかと思ったけど……試してみて、良かったわ」
グッと、掌を握る。そこに、自分のものにした力の暖かみを感じながら――
「……私、」
言った。
「今なら――どこへでも行けそう」
無論の事だが。
そこに、クレインの悪気など微塵もない。
見せびらかす気も、ひけらかすつもりもなかった。
ある種残酷なまでに――前向きで、明るいその言葉に。
フェアリィルナは――
大きく目を見開いて。
言葉を失っていた。
「……?」
無言を不審に思い、視線を戻したクレインにもそれは映った。
フェアリィは、呆然と立ち尽くし、何も言わないでいる――あるいは、言えないでいる。
いつもと異なる、いや、これまでに見たことのないその反応を、クレインは訝しむ。
「フェアリィ?」
掛けた言葉は、どこか暗い重みを帯びていた。
「どうしたの? 急に黙って……」
「……ぇ」
応じた言葉は、消え入りそうに、小さかった。
「ぁ――あ、な、なんでもないですよ? 全然なんでもないです! い、いやはや、すごいなーって、クレインさんは、思ってたより……いや、前よりもずっと、ずっと、凄くて……あ、あれ……?」
「……」
……え?
なんだこれ。
湧き上がっていた緊張と期待は、重苦しい不安と疑問へ。
いつも通りに、いつもの通りに。自分は話したはずだ。何も落ち度もなかったはずだ。なのに、それなのに――
なんだこれ。
何だこの反応。
フェアリィ、どうしてあなたは――
それがまるで、全く予想していなかったみたいに――
「……ご、」
一歩後ずさったフェアリィは、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい、ちょっと失礼しますね!」
「あ、フェアリィ!?」
そして――逃げるように、寮から出て行ってしまった。
追おうにも、なんだかそれも罪深いことのように思えてしまって、クレインは寮の入り口にて、走り去っていくその後ろ姿を見送るに留まる。
同時――いつの間にか立ち込めていた曇天から、粒が滴ってくる。
「……あ」
――雨。
雨が、振り始めていた。
「……シオンさん?」
寮室から窓の外を見つめるウインバリアシオンに、同室のシュヴァルグランが、心配そうに声を掛ける。
「――ぇ」
ハッと気を取り直したシオンは、勢いよくシュヴァルの方へと振り向いていた。
「な……なんすか?」
「あ……いえ。大したことじゃ、ないんですけど……」
シュヴァルは、心なしか、いつもよりもおずおずと言う。
「なんだか……悩んでるように見えて……」
「あ……あぁ。ははは」
――顔に出てたっすかねぇ。
そんなことを考えつつ、シオンは、強張っていた表情をくしゃりと笑顔で緩ませた。
「それこそ、大したことじゃないっすよ。気にしないでくださいっす」
「そ、そうですか……」
シュヴァルは、それ以上踏み込まない。踏み込むのが怖かったのか、彼女なりの心遣いか。どちらにせよ、その事実がシオンにはありがたかった。
――ふと、シオンの視線が、窓際に置かれた一枚の円形へ。意味もなく放置されたコインへと落ちる。
『――シオン。覚えているか』
脳裏に思い出されるのは――今日、オルフェーヴルが、『例のレース』の直後に話したことだ。……
『視察に行った時。余が彼奴らへの印象を語った時のことを』
『……コインの表裏……のことっすか』
オルフェーヴルは、シオンの返事に頷きつつ、机上に置かれていたコインを、指で挟んで眺める。
『余のあれは……比喩ではない』
当時は、陽の光を、コインは鈍く反射させていた。
『危ういと感じたのだ。あの者らの関係性は。二律背反、表裏一体――それは生きていくには心強いものかもしれぬが、切っても切れぬ宿命に晒されることでもある。……なぜなら』
何故なら。
『コインの表も裏も。光も闇も。太陽も月も――同じ尺度では、存在出来ぬからだ』
オルフェーヴルは、手を縦に握ると、人差し指で包むようにした親指の上に、コインを配置する。
『……表が出るなら、裏は隠れねばならぬ』
親指に力が籠る。
『光が照るならば、陰は潜まねばならぬ』
解かれた力により、コインが弾かれ、宙を舞う。
『……月が昇るなら。
太陽は、
沈まねばならぬ――』
程なく自由落下し、手元に戻ってきたコインを。
オルフェーヴルは、手で握ろうとした。
――が。それは叶わず。コインは硬い音を立てつつ、机上に着地する。
それは数回、縦向きに回転すると――やがて静止した。
裏面を、
彼女らに晒した状態で。
「……」
……雨が降り始めている。
空には、分厚い雲が、鎮座する。
トレセン学園中央校には、太陽がいくつか存在する。
「……ん」
それは無邪気に笑う太陽であったり、底抜けに元気な太陽であったりする。
「……はいもしもし。こちら栗東寮長フジキセキ……」
トレセン学園中央校には、太陽が、いくつか存在する。
「……」
その日。
「……え?」
中央校の、ある太陽が――
沈んだ。