泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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 少女はただ、荒野に立ち尽くしていた。

 果てしない地平線を見て、どこまでも広がる青空の下で、己が何者でもないことを理解していた。

 背を押していた楽しげな福音。かつて包み込んでくれていた祝福。その全ては今や色褪せ、遠ざかり、その形すらも朧気になってしまった。彼らはどことも知れない世界の果てで、何でもない談笑に花を咲かせている。

 何も気にしていない。何も気に病むことはない。誰も期待していないのだから。言外に訴えられた気分になって、少女は家を飛び出していた。

 だがどこまで行っても、荒野は荒野だった。どれだけ時間をかけても、景色は変わらなかった。音は聞こえず、気配などもなく、一心にそれを求めるかのように、傷だらけの身体を引きずって彷徨っているうちに、辺りは暗くなってしまっていた。

 もはや帰り道はわからなかった。行くべき場所さえも、曖昧だった。語り掛けてくれる声などない。導いてくれる案内人などいない。傍にいる存在など、いない。独りぼっちの世界の中で、少女は、自分を保つ術を探さなくてはならなかった。誰も教えてなどくれなかった。助けを呼ぶ声さえ、届くことはなかった。絶え間ない発狂と覚醒の繰り返し。その果てに彼女は見つけ出していた。

 仮面を見つけていた。

 嘘を見つけていた。

 仲間を見つけていた。

 他に何もない荒野に、少女の声だけが響き続けている。ひび割れた地面は、いつになれば、綺麗な緑色に染まってくれるのだろう。殺風景なこの世界は、いつになれば、生命の気色が現れてくれるのだろう。誰にも何もわからなかった。全ては小さな彼女の中での話だった。

 そして、それが理解されることはない。理解されるには、全てが手遅れだった。これが自分の運命だ。辿るべき宿命だ。果たすべき現在だ。少女は自分にそう言い聞かせた。最初は苦しかったが、それは徐々に安らかになった。板に着き、肌に着き、痛みを痛みとさえ感じなくなった。期待を、希望を、夢を、願いを、裏切られるのなら、最初から抱かないように。星々が痛々しく瞬いた。羨ましい。少女は、ボロボロになった心のまま、虚ろな瞳を綻ばせてそう思った。

 少女は生きている。少女は歌っている。世界から見捨てられた今でも、無様に、泥臭く走っている。ただ、荒野は終わらず、道は続き、景色は今でも、尚も、生き物のように成長を続けている。ここはどこだろう。呟く言葉さえ、いやに小さく、弱々しかった。無音が彼女の耳を叩く。当然、それに応じる声も、そこにはいつまでも響かなかった。

 

 

 

どうせみんないなくなるんだ

 

 

 

みんな、どこへ行っちゃったんだろう。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 東京都は府中市に所在するとあるファミリーレストランは、異様なざわめきに包まれていた。

 来客の全てが不思議そうに、あるいは意外そうに、一点をちらちらと見つめながら、ひそひそと話をしている。

 

 視線の先にはまず、スーツに黒髪、眼鏡を掛けた女性。

 そしてその隣には、腕を組み、目を閉じている雄々しい長髪。

 

 高橋とオルフェーヴルは、現状に気がついていないわけではない。

 これだけ分かりやすく注目の的になって、全く関心を向けないほど、鈍いわけがない。

 それでも浮かれず、どころかどこか重々しい空気を纏っているのは、それだけの理由があるからに他ならない。

 

 それだけの現状を、突き付けられているからに他ならない。

 

 高橋は、徐に携帯電話へと目を落とす。行きつけのSNSサイトへと接続し、人々の多様な生活の吐露を目にする。

 瑣末な現実逃避であったが、それは今の彼女には、むしろ腹立たしい自慢話のように映ってしまった。

 

 どうしてこの人たちは、こんなにも幸せそうなのだろう。理不尽な苛立ちで、叫んでしまいたくなる衝動に駆られる。

 

 こんなにも苦境に立たされているのに。こんなにも追い詰められているのに。

 こんなにも、今、苦しめられているのに。

 

 ため息を吐いたことで、高橋は衝動をなんとか抑え込んでいた。携帯電話の画面を落とし、浮かぶ結論はひとつ。……見なきゃ良かった。呑み込めない食物を無理矢理嚥下するように、行き場を失くした手は、目の前のコップへと伸びていた。

 

 注がれた中身──水を口の中へと運んだ矢先。

 

「――来たか」

 

 オルフェーヴルは、目を開け、ぼそりと言っていた。高橋が反応し、そちらへと目を向けようとした時、

 

「――!」

 

 高橋の視界に、『それ』が入る。

 既に至近距離にまで近付いていた『彼女』に立ち上がり、いそいそと対応を始める。

 

「お疲れ様! 来てくれてありがとね。さ、ほら。とりあえず座って」

 

 空席を示しながら、その名を呼んだ。

 

「――クレインちゃん」

 

 ソードクレインは。

 言葉を発さなかったが、既に何かを悟っているかのような、複雑な表情を浮かべていた。

 

 

-◆◇◆-

 

 

 推薦入学、という字面だけを考えると、日夜齷齪と試験勉強に励む学生からすれば、羨ましいことこの上ない事実のように思える。

 この責め苦のような勉強地獄を経験せずに済むなんて! などと安易に考える者もいそうだが、実態はそこまで浮かれたものでもない。

 

 推薦されて入学する――ということは、つまりは、する側からもされる側からも、それだけ期待されているということである。

 そして期待されたのならば、相応の成果を以て応えるのが筋というもの。

 応える義務などない、と気ままに過ごす者も少なくないものの――そのような自分勝手な振る舞いは、未来の学生たちに、負の影響を及ぼすことになる。

 

 曰く、その学校の学生は、そういった勝手な振る舞いをする生徒ばかりだ。

 そんな学校からの推薦入学は、今後は受けないようにしよう、と。

 

 いわば推薦入学とは、その学校の看板を背負って入学するようなもの。

 ソードクレインのように、精神的に摩耗してしまうのは――珍しくないどころか、合って当然ですらあるのである。

 

 浮かれられるほどいいものではない。

 推薦入学で入った生徒は――往々にして、普通の生徒よりも、多くの努力を積まなければならない。

 

「……」

 

 生徒会室にて。

 ウインバリアシオンが難しい顔をしているのは、そんな推薦入学に纏わる事柄が原因だった。

 とはいえ、彼女自身、推薦入学でこの学園に入ったわけではない。

 むしろ彼女もまた、泥臭い努力を直向きに積み重ね、学園への入学を果たした側のウマ娘だ。

 立場としては、そういった生徒を羨む側である。

 

 ならばなぜ、そのような顔をしているかと言えば――

 ほかならぬ自身が、『推薦した側』の存在であるからであった。

 

 そう――推薦入学とは、された側は、その学校の看板を背負って入学するようなもの。

 そして同じように――推薦した側もまた、自身の審美眼を引き換えに差し出しているようなものだ。

 推薦された生徒が、相応の能力を持っていない、となれば――疑われるのは、彼女らの審美眼もまた同じ。

 

 同じように――学園の名に泥を塗ることになり兼ねない。それも――中央校、という、華々しい栄華の歴史にだ。

 

 ――フェアリィルナが無断で欠席し始めてから、今日で三日目。

 

 異変は一日目、彼女が突然に『寮室の変更を願い出た』ことから始まった。

 電話を受けた栗東寮長――フジキセキは、その申請に面食らい、かといって突っ撥ねるのも何だと思い、ひとまず彼女と直接話をすることにしたという。

 

 とはいえフジキセキは、そのような申し出を簡単に受け入れるつもりはなかったとのこと。

 変更、と言うは簡単だが、空き部屋が無尽蔵にあるわけではない。出入りの激しい学園ではあるが、徒にそのような部屋を放置しているわけでもない。

 宛がうとなれば、それだけの理由を示してもらわねばならない。

 ……だがいざ当人と相対した時、そのような考えは鳴りを潜めていたそうだ。

 

 見るからに消沈している意志。

 光を失った瞳。

 覇気のない声──

 

 押し問答に近い話し合いの末、恒久的に部屋を変更することは保留とし、とりあえず一時的に空き部屋に入ってもらうことに。

 それからフェアリィルナは、学園を欠席する日々が続いている。

 

 食事を届けるついでに声を掛けるものの、生返事すら返ってこないのが現状だそうだ。

 届けた食事は食べてくれているようなので、体調の心配は不要そうなのだが――

 トレセン学園の生徒たるもの、このように引きこもりのような状態になるのはいただけない。

 

 かといって、コミュニケーションを取れないでは説得するのも――

 

 底抜けに明るく、暗さなどとはこれまで無縁だった彼女。

 落ち込むところなんて、想像すら難しかったくらいなのに。

 一体全体、どうしてしまったというのか──そう考えるシオンの視線の先。

 窓の外では、しとしとと雨が降り続いている。

 

 この雨もまた、降り出して三日目だ。季節外れの長雨に、シオンの脳裏には、異常気象という一連の語句が浮かび上がる。

 もちろん、このような気象も単なる偶然であろうが――心象と現状を嘲笑うかのような様子に、やり場のない息苦しさと苛立たしさを募らせる。

 

「止みませんわね」

 

 隣から不意に上がった声にシオンが驚かなかったのは、天候を見守る者が自分だけではないことを知っていたからだ。

 緩くそちらへと目を向けると、そこには群青色に近い黒髪の、一人のウマ娘が立っている。

 

 ヴィルシーナの目は、言葉を紡ぎながらもなお、窓の外へと向いた視線を逸らしてはいない。

 まるでそれは、シオンが反応したことにすら気付いていないかのようだった。

 だが、そこまで分かりやすい独り言もそう無い。

 

「ここまでの長雨も、珍しいですわね」

「……ホントっすね。こんなんじゃ、トレーニングだってろくに出来やしない」

「シオンさんは……次は日経賞でしたっけ」

「はい。去年も2着だったんで……今回こそ勝ってやるぞ! って思ってるんすけど。ままならないっすね。ま、それでも、出来ることはやるつもりっすけど」

「努力家ですわね」

「ただ負けず嫌いなだけっすよ」

 

 当たり障りのない会話。

 お互い、特に貶したわけでも、否定したわけでもない。それなのに、話はそこで途切れてしまう。

 居座る重苦しい空気に押さえつけられたように、二人はしばし黙り込んだ。

 

「……いつになったら、立ち直ってくれるのでしょうね」

 

 それを再び繋いでいたのは、ヴィルシーナだった。ただその色合いは、シオンに直接投げかけたというよりかは、とにかく口にするほかないと言わんばかりに困惑気味だった。

 救いや明確な答えを求めているようにも思われた。ただ――そんな風に縋られても、シオンも戸惑うしかない。

 

 ――わからない。薄情と自覚しながらも、それ以上の答えは返せなかった。

 ただ、きっぱりとそれを口にするのも違う、と思い、代替となる別の表現を探すうちに――なんとなしに悟ったヴィルシーナが、助け舟を出すように言った。

 

「あの子と、お話されたのですか?」

「……一応は。でも、何にもならなかったっすよ」

 

 シオンは思考を打ち切り、続けられた問いに応じる。

 そう。自分も彼女と、面会自体はしようとした。一応は。

 けれど、顔を確認するどころか、声を聞くことすらも叶わなかった。彼女が仮で住まう部屋は、一体どんな有様となっているのだろうか。

 

 苦悩を完全に共有することなど出来ない。さらに傷つくことを恐れて、相談することをそもそも拒絶する者もいる。

 あの子も――そういう考えで、会話を拒んでいるのだろうか。そう考えてしまうと、シオンの胸は、更に詰まっていた。

 

 お前は無力だ――と。

 言外に、無言で、唾棄されているような気がしてしまって。

 

「駄目元でも、話してくれればいいんすけどね」

 

 ともあれそうしてくれれば。何にせよ、話してくれさえすれば。

 状況はもっと、良くなるかもしれないのに。

 

「……」

「……」

 

 ただ、話していても、それもまた何にもならない。

 降り頻る雨に打たれるかのように、二人は、再び口を閉じてしまった。

 

「……見限るしかありませんわね」

 

 そんな彼女らを咎めるように――

 鋭い声が割って入る。

 シオンが振り向いた先、ソファに座りながら、足を組み腕を組み――目を閉じていた少女が、それを感じたかのようにゆっくりと瞼を開く。

 

 ジェンティルドンナの声には、深い失望が滲み出ていた。

 

「……ジェンティルさん」

「そうでしてよ? どんな事情にせよ、引き籠って先達からの助けを待つだけの方に時間を割けるほど、私たちも暇じゃありませんわ」

「そうかもしれないっすけど……」

 

 シオンにも、その理屈はわからないではなかった。

 こうしてフェアリィルナを何とか連れ出そうと尽力する自分ではあるものの、無限に付き合っていられるわけでは決してない。

 心に僅かばかりの焦燥――早く立ち直ってくれないだろうか、『でなければ自分たちにも支障が出る』という考えは、多少なりあった。

 

「……でも、目の前で落ち込んでいる子を、見て見ぬ振りも出来ないっすよ」

「それが甘いと言っているのですわ。競技は、究極的には孤独なもの――一人で歩けない者になど、元より資格はありませんわ」

 

 だがジェンティルドンナは、容赦なく口にする。

 勝負の世界の常、非情な現実を――

 

「早いところ見切りをつけた方が――当人のためではなくて?」

「……そ」

 

 ジェンティルの言い分は、正確ではあった。

 シオンにも、理解出来る節は合った。

 

「そんな言い方――」

 

 けれど、そんな言い方をしなくたっていいじゃないか。

 そう感じて、シオンは緩く反論しようとしたが。

 

「――聞き捨てなりませんわね」

 

 先行して噛み付いていたのは――彼女の隣。

 いかにも不快そうに眉を吊り上げた、ヴィルシーナだった。

 

「あの子に、助けるほどの価値もないと言いたいのですか?」

「……そう取って下さっても構いませんわ。意味合いは変わりませんもの」

 

 ジェンティルは何かを思ったようだったが、立ち上がりながらも、飽くまで冷静にヴィルシーナに対応する。ただ諭すような声色とは裏腹に、それは彼女の神経を逆撫でしただけだった。

 

「……ジェンティルさん」

 

スイッチを入れられたように、ヴィルシーナは言う。

 

「貴女が『強さ』にストイックなことは知っていますわ。ですが、私たちは生徒会、トレセン学園の生徒の声と意志を代弁する組織です。苦悩する生徒に寄り添うくらいの手心は、見せてあげてもいいのではありませんか?」

「ヴィルシーナさん、」

「しっかりと向き合って、応えてくれるのならばそう致しましょう。ですが現状、その見込みも無いのであれば、こんなのはお互いに時間が無駄になるだけですわ」

 

 ヒートアップする口論に、シオンが間に入るも。その熱が収まる気配はない。むしろ、更に激しくなったように感じられた。

 

「時間も情熱も有限ですわ。強制されていないのであればなおのこと。自身の将来に希望を持つのであれば、手遅れになる前に手を打たなくては。……尤も。本人にそのやる気があれば、のお話ですけれどね」

「あの子がそれだけのやる気もない……と言いたいのですか?」

「その通りでしてよ。それ以外に見えまして?」

「ちょっと、止めてくださいよ二人とも。止めて……」

「貴女の言い分もわからないではないですが」

 

 口論は止まらない。

 シオンの尽力も、意味を成さない。

 更に白熱し、ヴィルシーナの反駁は憎悪に近いものにまでなる。

 

「もう少し言い方というものを考えるべきですわ。本人の事情も慮らず、そのように主張するのは浅慮と言わざるを得ません」

「言い方を変えればどうにかなる問題で? それこそ本人のためになりませんの」

 

 ジェンティルも引かない。

 引かずに、ヴィルシーナに真っ向から対立する。

 

「ご存じでしょう。中央は誰もが本気で競技と向き合っている。一人でも、斯様に学校にまでろくに顔を出さない子がいるともなれば、学園全体の士気にも関わりますわ。……であれば」

 

 その眼光もまた――

 厳格に、鋭利に研ぎ澄まされたものとなっていた。

 

「いっそそのようなお方は……いない方がいいですわ」

「――ッ、このッ――!!」

 

 皆まで言わなくてもいいのに。

 ただ、寄り添ってあげればいいのに。

 どうして、そんな優しさを見せてあげられないのだ。ヴィルシーナの怒りは限度に達した。

 いや、もはや限度すら通り越していた。

 

 憤怒の炎に押され、ジェンティルに掴みかからんばかりに、力強く一歩を踏み出した。

 

 

 

 

「――止めろってッ、

 言ってんだろォッ!!」

 

 

 

 

 その時だった。

 シオンの、聞いたことのない怒号が、生徒会室を震わせた。

 

「っ……!?」

「――……」

 

 それには、さしもの二人も口論を中止する。

 驚きを以て視線を向けると、シオンは息を荒々しく整えているところだった。

 食い殺さんばかりの鋭利な瞳が、二人を捉える。

 

「……っ、」

 

 シオンは、爆発しそうになる感情を必死に抑え込みながら、言った。

 

「――ヴィルシーナさん、売り言葉に買い言葉じゃ何の解決にもならないっす! 実際貴女はジェンティルさんを角度を変えて突ついてるだけに過ぎません! 火に油を注ぐならじっとしていてください!」

「つ、突つく……!?」

「ジェンティルさんも!」

 

 が、実際には、感情はそれほど抑えられていなかった。がーん、とショックを受けるヴィルシーナを傍目に、その矛先はジェンティルドンナへと向けられる。

 落ち込むヴィルシーナとは対照的に、ジェンティルは、冷たい目でシオンを見ていた。

 

「……あたしも、あなたの言い分はわかるっす。でも世の中、理屈と理論ばかりが正しいわけじゃない。事情や状況、感情……切って捨てちゃいけないものがたくさんあります。もう少し、藻掻けるだけ藻掻いてからでも、決断するのは遅くないと思います」

「……それが、我々の未来に応じるとしても?」

「その時はその時っす。あたしを八つ裂きにしてもらっても構いません。文句があるなら……あたしを『越えて』からにしてください」

 

 ――戦績の上では、格上なのはジェンティルドンナだ。

 二人を見比べた時、名ウマ娘なのはどちらか。誰もの答えは同じであろうが――今は、そういう話をしているのではない。

 ジェンティルはよく理解していた。だから、それには何も言わなかった。

 

「……いいっすか。これは『命令』っす」

 

『強さ』を重視する彼女だからこそ――口出ししなかった。

 

「トレセン学園中央校、第6期生徒会副会長、ウインバリアシオンの御名において命じます。この件を――あたし、そしてオルフェさんの承認なしに、勝手に決断することは許しません!!」

 

 ――出来ますよね。

 あなたなら。

 

「貴女なら――従えますよね」

「……」

 

 ――知っていた。

 ジェンティルドンナは、よく知っていたのだ。

 強さとは、単純な競技の実力だけではない。精神的なもの、勉学、その他――

 立場、というものもあるということを。

 

「……、」

 

 ジェンティルは、やや目を伏せながら、深めに息を吐く。

 

「……また私が、『悪者』ですわね」

「……あ」

 

 シオンが、どこか悔やんだように漏らした声が、彼女に届いたかは定かではない。

 ジェンティルはそう言いながら、踵を返し、生徒会室から去っていた。

 その後ろ姿は――どこか、寂しげなもののようにシオンには映った。

 

「……」

「……」

 

 残された二人は、重い空気に沈黙してしまう。

 いくら激昂したとはいえ、自分もまた言葉を選ぶべきだった――と、シオンは反省していた。

 

 ジェンティルドンナ、『鬼婦人』とまで呼ばれる勝負の鬼も――

 ……元を糺せば、一人の少女なのだ。

 

「……え、」

 

 自身の言動を振り返り、急速に羞恥心が膨らんでくる。

 黙り続けていれば、羞恥は更に膨らみ、空気も気まずくなることだろう。それを嫌った彼女は、とにかく何か言葉を紡ごうとした。

 

「えと……」

「凄いですわね、シオンさんは」

 

 そこへ、ヴィルシーナが言葉を重ねる。

 目を向けた先、映った彼女の瞳には、憧憬の念が宿っているように感じられた。

 

「ジェンティルさん相手に、あそこまで噛み付けるなんて」

「い――いやいや。あたしもただ、ちょっと熱くなっただけで……」

「私では……あそこまで出来ませんもの」

 

 ヴィルシーナの口元が、自虐的な微笑みで緩む。

 

「……所詮は、重箱の隅を突くくらいしか出来ませんからね……」

「いや、あの……その……ホントにすみません……」

 

 気が立っていたとはいえ、言っていいことと悪いことというのはある。

 もっと配慮して、冷静に言葉を選べればいいのにな――それこそ、オルフェさんみたいに。

 一瞬はそう思うシオンだったが。これまでのオルフェーヴルの言動と、その結果を改めて振り返ってみると――

 

 ――あれ、言うほど良くないかもな? などと思ったりした。

 

「急がば回れ、というやつですわね」

 

 一転してしたり顔を浮かべたヴィルシーナもまた、身を翻す。

 先のジェンティルの様子が重なり、罪悪感から手を伸ばし掛けるシオンだったが、

 

「お気遣いなく」

 

 肩越しに向けられた彼女の目は、今や穏やかなものになっていた。

 

「ジェンティルさんに……謝ってきます」

「……」

 

 ――そうして、残されるのはシオンだけになる。

 

 激化した口論も、それがまるで嘘か夢だったかのように無くなり、室内は静寂が満たすばかりだ。

 一時の不和は鎮められたけれど。それが事態を打開してくれるわけでもない。

 

「……、……」

 

 それで、これからどうするべきか?

 声無き問いに答えは無い。結局具体的な方策も浮かばず、ソファに座り込んだ彼女は、縋るように中空を見つめるばかりだった。

 

 雨は降り続いている。

 

 雨は、降り続いている。

 

 

-◆◇◆-

 

 

 からん、と、グラスの中の氷が音を立てる。

 ざわざわと、変わらぬ喧騒が辺りを満たしている。

 当初こそその内容は、店内に突如として生じた『イレギュラー』が席巻していたが、しばらく時間が経っていることもあり、それも落ち着き始めていた。

 だがその――『イレギュラー』本人たちの様子はというと、落ち着きから程遠い。

 

「……」

「……」

「……」

 

 二人の元にソードクレインが訪れ、役者が揃った。

 本来なら話し合いが始まるべき頃合いにも関わらず、三人は一向に口を開かない。

 高橋は目を泳がせているし、ソードクレインは顔を俯かせているし、オルフェーヴルは目を閉じている。

 醸し出される雰囲気は異様、修羅場にも見える状況に、傍を通りがかる人々の動きも自然、ぎこちなくなる。

 周囲の話題が落ち着き始めたのは、それに気軽に触れることが、罪深いことだと感じたからだろうか。

 

「……えー……っと……」

 

 最初に空気に屈服したのは高橋だった。

 迷子の感情を辛うじて掴み取り、言葉として出力する。その結果を無粋に糾弾は出来ないだろう。

 

「き、今日は良くない天気だねー!」

 

 しかし、そこから更に続く話は、さすがにあんまりなものだった。

 やべ、悪手だった──何一つ変わらない現状に、高橋もそれを自覚するが、紡ぎ始めた手前、引っ込めるわけにもいかない。

 

「もー参っちゃうよね。3日も雨続きなんて。これじゃー洗濯物は干せないし、気分もアガらないし……」

「……」

「あっ、でも雨の方が好きって人もいたりするよね。気持ちはわからないでもないけどね!ほら、雨が屋根を打つ音とか、あたしも嫌いじゃないし……」

「……」

「く……クレインちゃんはどうかな?雨の日って好き?って、こんなに落ち込んでるのに、好きなわけがないかー!あははー!」

「……」

「……」

 

 ──あぁ。あたしって口下手なんだな。

 高橋はひっそりとそう考えた。

 これでも最大限気遣ったつもりなのだが、見事に裏目に出てしまっている。

 軽くしようとしたはずの雰囲気は更に重くなり、心持ちもどんよりと沈んでいく一方だ。

 

「……、」

 

 だからこそ、まだ本題には移れない。

 高橋は、自分ではそう感じる。

 修羅場はここからなのだ、準備は十全にしておきたい──何があってもいいように。何せ、何もかも初めてのことで、それでいて失敗なんて許されない。

 石橋を叩けるなら、徹底的に叩いておきたい──

 

「あー、えっと」

 

 だから高橋は、止まりかけた思考を再び巡らせ、新たな話題を引っ張り出す。

 

「そういえば見たよ!この間の試合!凄かったよね!」

 

 最大限の心配りをもって、提示したはずのその話題は──

 

「転向してそんなに日も経ってないのにあれでしょ?本当に凄いよ!フェアリィもすっごく興奮して──」

「──高橋」

 

 ──オルフェーヴルの、短くも威厳ある声によって咎められていた。

 続けて、向けられた横目で、その言動の意図するところを掴む。

 

 かつての彼女との会話が思い出された――シオンが言うには。

 余は主題を話し過ぎ。

 重要な時こそ、世間話をして場を和ませるべきだ――図らずも高橋は、そのウインバリアシオンと似たことをしようとしていたのだが。

 

 この場においては、逆効果だった。ソードクレインは、絞首台にてじりじりと首を絞められているかのようだ。

 今すぐにでも――逃げ出したいと、無言で訴えているようだ。

 

「……、」

 

 ――そうだね、と高橋も、同意の無言を返す。

 もはやこれ以上の世間話は、彼女に無用な心労を与えるだけだ。

 フェアリィルナの現状を知っている彼女なら、とうに覚悟を決めているはず。自分がなぜ呼ばれているのか。何を求められているのか、何を臨むことになるか――

 時間をやたらに使うことは、折角作り上げた頑強な覚悟を崩してしまうことになり兼ねる。

 

「……クレインちゃん」

 

 だから。

 高橋もまた、意を決する。

 同じように覚悟を決め、彼女に、言う。

 

「知ってるよね。フェアリィが今、どういう状況なのか」

 

 クレインの身体が、目に見えて強張ったのがわかった。だが引くわけにはいかない。

 良心が鞭打たれる感覚に悶えながらも、高橋は続ける。

 

「学園側でも、親御さんにお話をしようって話が出始めてる。でも……そこまで大ごとにしたくないっていうのも事実でね」

 

 軽率な判断が、どこに、どのように影響するかわからない。最終手段は――手を尽くした時のために、取っておきたい。

 

「だからあたしたちも、自分たちの出来る範囲で、あの子のことを調べてみたの。過去のこととか、家庭のこととか……でも、どれも表面的なものばっかりで、あの子があそこまでの状態になるようなものは、見つけることが出来なくて……」

 

 恐らく心理的なものなのだろう、と高橋は推測した。

 表面的には何でもない事でも、当人にとっては大事件であったりすることは多い。

 フェアリィもその類なのかもしれない――ただ悪いことに、その肝心の本人は心を閉ざしたまま。

 こちらが手を差し伸べる隙間すらも、開いてはくれない。

 

「……わかるよね」

 

 もはや、それを開くための『鍵』は――ひとつだけ。

 

「あなたしかいないの。あの子のことを、話すことが出来るのは」

 

 そう――彼女しかいない。

 転校前からの親友である、クレインしかいないのだ。

 

「……フェアリィには、まだまだ可能性が眠ってる。ここで腐らせるわけにはいかないの」

 

 立ち止まってしまえば、それだけ差を付けられる。

 況して落ちこぼれともなれば、手を拱いている暇などあろうはずもない。

 何が何でも、一刻も早く、彼女を連れ出さないといけないのだ。

 

「あたしだって、ようやく覚悟が出来たの。こんな中途半端なかたちで分かれるなんて、そんなの嫌」

 

 認められない。認めたくない。

 それがいかに自己満足な欲望であろうとも――途中で諦めたくなんてない。

 

「だから……だからお願い、クレインちゃん」

 

 だから、縋るように。

 説得するように、高橋は言った。

 

「私たちに、協力して」

「……」

 

 クレインは、依然俯いている。

 言葉を一言も発さない。

 肩も小刻みに震え、何かに怯えているのは明白だ。それとも、単に苦しんでいるのか。

 それだけの事情があるのか、と高橋は身構える。

 

「……」

「……」

「……」

 

 ただ、そのような状況に至ってなお、クレインは言葉を紡がない。

 視線を満足に上げすらせず、無言を貫くばかりだ。

 時間が過ぎる。場が動く。

 一秒一秒、すぐそこにあったはずの現実が過去となっていく。

 

「…………」

 

 ――クレインちゃん。

 話してくれないのか。それとも話せないのか。

 しかし時間は有限だ。こちらも受け身ばかりではいられない。

 急かしたくはないが――覚悟が足りないというのなら、適切に示してやらないといけない。

 

「――、」

 

 高橋はそう考え、息を吸う。

 なるだけ優しく、だがもう一歩踏み込むために、選んだ言葉を声に乗せて――

 

「――どうした」

 

 放とうとした時。

 威圧的な声が、それを堰き止めていた。

 

「なぜ黙っている。疾く答えよ」

 

 獰猛な獣の如き低音で――『暴君』が、口を開いていた。

 

「貴様も知っておろう。時間も情熱も有限だ。研がぬ刃が錆び付くのは早い。このような時間は無駄でしかない。……親友を想うならば、一刻も早く応じることが肝要だと、まだわからぬか」

「お、オルフェちゃん……?」

 

 高橋には、そのような発言は意外に映った。

 このような傲然とした言葉が、彼女には珍しくもなんともないことなど今更だ。

 だがその声色には、普段には見られないものが含まれていた。いや、それとも、いつもなら含まれているものが無い、と言うべきか――

 どこか前のめりに糾弾する、彼女のその姿勢は。

 

 ――焦ってる……?

 

「それでも答えぬというのであれば、致し方あるまい」

 

 そんな高橋の分析を傍目に、オルフェーヴルは続ける。

 

「然るべき行動を、即座に実行に移そう。実際その方が、双方のためであろう」

「ち――ちょっとオルフェちゃん!」

 

 オルフェーヴルは、暴走する蒸気機関車のようだった。高橋は慌てて割って入るが、彼女はぎろりと睥睨する。一瞬、それに怖気付く高橋だったが、

 

「……っ」

 

 いや、止まってられるか。

 と、僅かに湧き上がった恐怖心を振り払っていた。

 

「……確かに時間は有限だけど、それはちょっと焦り過ぎだよ。まだクレインちゃんは、ひと言も話してないんだよ。もう少しくらい、待ってあげてもいいでしょ?」

「……大きく出たな。貴様が、余に意見するか」

「今この場じゃ、立場の違いなんて些細なものでしかないよ。あたしはフェアリィが……みんなが幸せになれるなら、それでいい」

 

 かつての自分なら、震えあがっていたかもしれない。

 その重圧、威圧に、圧し潰されていたかもしれない。しかし今、不思議とそのような危機感は無かった。

 

「……あなたはそうやって、あたしを引かせようとしてるかもしんないけど」

 

 自分の成長かもしれない、と思う反面。

 それよりももっと、明瞭な違いがそこにあった。

 

「今のオルフェちゃん……全然、怖くない」

「……」

 

 オルフェーヴルは何かを思ったようだったが、それこそ時間の無駄と悟ったのか。

 眉を顰めたのを最後に、向けていた目を戻して閉じる。

 腕を組み、軽く顔を傾けたその様子は、徹底的な不干渉を振る舞いで示していた。

 ――勝手にしろ、と。

 

 言外に、告げているようだった。

 

「……、」

 

 それを許しと取った高橋は、クレインと向き直る。

 彼女は未だに、目を伏せている。

 さて啖呵を切ったはいいが、どう触れるべきだろうか、と彼女は再び考える。

 

 担当の親友。

 とはいえ、自分は彼女のことはほとんど知らない。

 いいとこ、例のゲン担ぎくらいだ――あぁ、でかいこと言えないのは自分も同じだな、と浮かべる笑みは自虐的。

 

 でもそれでも。

 そのために放ってしまう、なんて選択は……間違っても、してはいけない。

 

「……クレインちゃん」

 

 高橋は、優しく声を掛けた。

 

「……無理はしなくていい。でも、黙っていたら、良くない結末になるのは、オルフェちゃんの言う通りだよ。これは時間が解決出来るほど、単純なことじゃない」

 

 救うのなら。連れ出すのなら。

 そのための手掛かりが、必要なんだ。

 

「難しいことがあるってわかってる。話したくないこともあるってわかってる。でもどうか……お願い。あたしに、あたしたちに……力を貸して」

 

 宝石を扱うように。

 子供をあやすように。

 その声は――慈愛に満ちていた。

 

「あの子と……あなたを。幸せにするために。

 あたしたちに……協力して」

 

「……」

 

 ……クレインは何も言わない。

 再び、無言の時間が訪れる。

 刻一刻と時が過ぎる中、まだ足りないか、と高橋は再び思案する。

 

 自分としては最大限、歩み寄ったつもりだつたが。

 足りないのであれば。もう更に一歩、踏み込まないといけないか。

 記憶の辞書と己の勘とを、結集して、最適解を探り出す。

 これで駄目ならもはや――と、諦念交じりの意志を固めた時。

 

「――私が悪いんです」

 

 ソードクレインは。

 ぼそり、と言っていた。

 

「……え」

「私が……悪いんです……」

「……」

 

 高橋は、思わずオルフェーヴルへと視線を送る。彼女はちょうど、再び目を開けて、クレインへと視線を向けたところだった。

 解釈も理解も己次第、しかしであるからこそ、そんな内容をどう処理すればいいのか、高橋が困惑する中。

 

「あの子を……」

 

 クレインは、続けていた。

 

「あの子を……置いてきぼりに、したから……」

 

 ――理解はこれからでいい。

 高橋はそう結論して、ひとまず困惑を脇に置く。

 

 ――ゆっくりでいいから、話して。そう促されて。

 クレインのその話は、始まっていた。

 

 

-◆◇◆-

 

 

 ――思い出していた。

 思い浮かべていた。あの日のことを。

 

『――ね、ねぇ』

 

 蘇っていた。

 帰ってきていた。あの出来事が。

 

『――はい?』

『あ、いや……あ、あの、さ……』

 

 あぁ──そうだ。

 全ての始まりは、あの日。

 私が、あの子に話しかけた……あの日。

 

『――その』

 

 

『友達に、

 ならない? ……』

 

 

 私が、

 あの子のことを、初めて『個』として認識した。

 

 ……あの日。

 

 

 

 

 

Uma-musume

泥に塗れた私たちへ

run into the mudness

 

転章

 

-fin-

 

 

 






次回更新は8月頃を目標としています。
よろしくお願いします。


2025/04/27
観測者れいめい
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