泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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左胸の鼓動を感じてる
右の脳で明日を夢見てる
小さな掌の中で
私は夢を握ってる

―― Dear / Mrs. GREEN APPLE






結章
あの日


 

 ――別に、特別なことじゃなかった。

 ただその日は、たまたま、帰りが遅くなっただけだったのだ。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

「――すっごい、また90点台!?」

 

 学力テストの結果が返ってきて、自分の周囲に人だかりが出来る。

 誰もが爛々と目を輝かせながら、私の答案用紙に刻まれた点数に驚愕している。

 でも私はそれを変に誇ることは無いし、鼻に掛けることも無い。これが私のやるべきこと、見せるべき姿だとよくわかっているからだ。

 

「え、もう次のこと考えてるの? ストイックすぎるでしょ~!」

 

 友人たちは、冗談めかしたように笑う。

 私は、至って真剣なのだけれど。

 特別、不機嫌になることでもない。だから、その場はそれだけで収まる。

 

 家路に着く。

 校舎の外に出ると、すぐに目に付くグラウンドの様子。

 それとなく。本当にそれとなく、目を向けただけだった。ただそこではちょうど――一人の少女が、一人のウマ娘が、走っているみたいだった。

 

「どうしたの?」

 

 クラスメイトの一人が話してくる。

 私は、あれが誰なのか、問いかけてみる。

 彼女は、あー、と、ちょっと困ったような顔をして答えた。

 

「クレインちゃん知らないんだね。あれだよ、ほら。いつもレースでドベの落ちこぼれ」

「今日も居残りで練習なのかな。かわいそ~」

 

 バカにしている、というわけじゃない。心の底から同情しているような言葉に、私はと言うと、そうなのだな、という納得するに留まっていた。

 

 ……それが、初めてあの子の姿を見た時のこと。

 印象は……それこそ、特別なものなんてなかった。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 フェアリィは、クラスメイトの間では、それなりの有名人らしかった。

 レースで全然勝てないウマ娘――落ちこぼれだって。

 本人は結構な努力家で、練習も特にサボったりもしていないのに、能力が思うように伸びないのだそうだ。

 こうして記すと、彼女が殊更に凡人なのだなと思いがちだけれど、実際はそうでもなかったりする。

 

 天才なんて、そうぽんぽん生まれるわけじゃない。

 にっちもさっちもいかないのが当たり前なのだ。この学園だって、圧倒的に凡人の比率が高い。

 普通――普通なのだ、彼女のような子は。

 クラスメイトたちが、嘲笑ではなく、同情を寄せているのは、そういう理由だった。

 

 あの頃のフェアリィは、まだごく普通の子だったっけ。

 今みたいに、暴れ回る大型犬みたいじゃなくて、年相応の女の子の振る舞いをしていた。

 練習で上手くいかなくたって、模擬レースで勝てなくたって、目に見えて落ち込むようなことも無く――

 直向きに、真面目に、努力を重ねているように私には見えた。

 

 ……その認識が変わったのは、忘れもしない、あの日だった。

 

「……」

 

 たまたま先生の手伝いをしていたことで、帰りが遅くなった日のこと。

 土砂降りの雨の中、こりゃ傘なんて意味無さそうだな――なんて、傘を差して歩き出した時。

 断続的な雨音の中に、私の耳は、何かを捉えていた。

 

「……?」

 

 それは、人の声に聞こえた。

 もっと言えば、少女の声に聞こえた。

 更に言えば――泣き声に聞こえた。

 

 それを気のせいにして、家路を急ぐことも出来た。

 何なら気味が悪くて、率先して立ち去ろうとさえ思った。

 でも私は、なんだかその声の元に向かわなくてはいけないような気がして、引き寄せられるように足を向けたのだ。

 

 校舎の横を抜けて。

 裏の方へ。

 声量は大きくなっていって、それが気のせいではないことに、確信を持ち始めたあたりだったか。

 

 私の目は、捉えていたのだ。

 

「――……」

 

 誰もいないその場所で。

 雨に打たれながら。

 泣いている、『あの子』の姿を。

 

 ……降り注ぐ雨、薄暗い校舎裏――佇む一人の少女。

 

 なぜここに、とか。何をしているのか、とか。そんな当たり前の疑問なんてどうでもよかった。

 

 私は立ち去ることも出来なかった――空に向かって号哭するその姿が、私の記憶上のフェアリィルナという概念から、あまりにもかけ離れてしまっていたから。

 フラッシュバックのように、あの子に関わる様々な記憶が呼び起こされて――

 

 ……あぁ、そうなのか、と、妙に納得していた。

 

 それが、その姿が。

 あなたの、本当の姿なんだね――と。

 

 思えばその通りだ。彼女が努力していること、頑張っていることを、周囲は良く知っている。

 それなのに、いくら努力しても、どれだけ頑張っても、それがろくな成果にも繋がらないのだ。

 

 どんな、苦しみだろう。

 どんな、悲しみだろう。

 どんな……悔しさだろう。

 

 それを想うと、胸が張り裂けそうになる。

 気付けば、緩く握りしめた拳を、自分の胸に軽く当てていた。

 

 ――フェアリィは、その日以降徐々に変わっていった。

 なんというか、何があっても気丈に振舞うようになったというか。どんなに挫けても、喧しく騒ぐようになったというか。

 みんなはおかしくなっただとか、いや元からあんな感じだったとか。色々言うけれど。『核心』に触れる子はいない。

 あの日、あの時――一人、号泣していたあの子を、誰一人として知らない。

 私にはそれが、あまりにも残酷で、あまりにも冷酷な仕打ちのように思えてしまって。

 

 耐えられなくて。

 我慢、出来なくって――

 

「……」

 

 ……適当なタイミングで、あの子の席へと近付く。

 次の授業の準備を、せかせかと進めている彼女は、私に気付いたようではない。

 

 あぁ――これを、誰かに指示されたわけじゃない。求められたわけでもない。

 ただあの頃から、私はその――正義感というか。

 瑞々しい優しさというのを、愚かしいほどに持っていたのだ。

 

「――ね、ねぇ」

 

 私は話しかける。

 彼女は、びくりと反応する。

 誰かに声を掛けられるなんて、まるで予想していなかったという感じだった。

 

「あー……えっと、さ……」

 

 私は面食らいつつ、ちょっとだけ視線を逸らして、もう一度向け直す。

 彼女は、依然ぽかーんとした顔をしていた。当たり前なんだけれど、それが妙におかしく見えてしまって、緊張が弛緩すると同時、微笑みを零してしまっていた。

 

「……あのさ」

 

 そんな和やかな空気に、そっと押されて――

 私は、彼女に言ったのだ。

 

「と――友達に、ならない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……それから私たちは、珍しいコンビだって、よくみんなの話題になりました」

 

 ソードクレインは、どこか淡々と、過去の話を連ねていく。

 

「最初こそ、ちょっと話すくらいだったんですけど……気が付けば、傍にいるのが当たり前になってました。本当の姉妹みたいだ、とか。付き合ってんの? とか……冗談めかして聞いてきた子もいたっけ。でも私にとって、それは使命というか、慈悲……みたいなもので」

 

 あの日。フェアリィルナを放っておくことは出来た。

 だがクレインは忘れなかったし、無かったことにもしなかった。

 そうするには――クレインという少女は、あまりにも、慈悲深かったのだ。

 

「私はその頃から、既に自分が優秀だってことに気付いてました。みんなを引っ張る存在として――苦しんでる子を、放っておくわけには、いかなかったんです」

 

 使命感ゆえ。

 期待されているが、ゆえ。

 どんな形であれ、みんなの希望であろうとした。

 

「だからここまで、一緒に歩んできた。一緒に生きて、一緒に成長していこう、って思ってた。私はずっと、そのつもりで、やってきたんです」

 

 だが――その決意が、揺らぐ出来事があった。

 そんな当たり前の根幹を、揺るがす事態が起きたのだ。

 

「……私が、変わってしまったから」

 

 ソードクレインが、自分の可能性を知ってしまったから。

 

「一人で、勝手に、変わってしまったから」

 

 まだ見ぬ明日を、見てみたいと願ってしまったから。

 

「あの子を、連れて行かなくちゃいけなかったのに。おいてきぼりに、してしまったから……」

 

 フェアリィルナは。

 独りぼっちになり、どこへも行けなくなってしまった。

 

「私が、一番……わかってた、はずなのにっ……」

 

 クレインの声は、やがて嗚咽交じりになる。

 俯かせた顔から、ぽつぽつと涙の粒が滴り落ちる。

 それを見て、高橋も、居たたまれない気持ちになった。

 悪人を倒せば済むみたいな。そんな単純な話では――なかった。

 

「ごめん……」

 

 許しを請うように。懺悔するように。

 クレインは、とうとう両手で顔を覆っていた。

 

「ごめん……フェアリィ……」

 

 そのような状態になってなお、ならばこれからどうするべきか、だなんて訊けない。

 周囲の喧騒から取り残された感覚の中で、ただ高橋は、オルフェーヴルは、目前で涙する少女を、見守ることしか出来なかった。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 結局、話はそれ以上進展しなかった。

 クレインは徒歩で来てくれたものの、この状態でそのまま帰れ、と言うのも酷だ。

 高橋の車にて、三人、帰路に着くものの――車内の空気は、控えめに言っても最悪。

 こんな状態で運転したのは、仮免試験以来だな――などと現実逃避気味に考えながら、間違いなく生涯最長に感じる運転の時間を終える。

 

「じゃ……クレインちゃんのこと、お願いね」

 

 意外なことであった。

 オルフェーヴルが自ら申し出て、クレインを送り届けると言うのだから。

 高橋は思考が停止してしまったものの、そう言ってくれることがありがたいことに変わりはない。

 栗東寮エントランスにて、感謝の気持ちを込めてそう述べるも、オルフェーヴルは、複雑な表情を浮かべるばかりだった。

 

「……オルフェちゃん?」

 

 彼女も彼女で、思うことがあるのか。

 高橋の声は、母のように柔らかかった。

 対するオルフェーヴルはと言うと、やっとその声が届いたのか、いや、と短く口にする。

 

「案ずるな。……送迎、大儀であった。また動きがあったら連絡せよ」

「……ん。そのつもり」

 

 いつもの覇気は感じられないが、言葉面だけはいつも通り。ここはさすがと称賛すべきだな――と高橋は、それ以上の追及はやめて、同意を返すに留まっていた。

 

 立ち去るオルフェーヴルを見送り、自分もトレーナー寮へと向かう。

 弱まる気配すらない雨の中、スーツの袖が濡れていることに気付いたのは、部屋に戻ってからだった。

 ただ、特に取り繕いはしない。着替えることすら放棄して、ベッドの上に背中から倒れ込む。

 天井も、周囲からの喧騒もいつも通りで、今のこの状況は、自分が見ている夢なのではないかとすら考えてしまった。

 

 ……

 

 ソードクレインは、純粋な優しさでフェアリィルナを支えていた。

 優等生として、模範生として。不幸になる子なんて、一人も作りたくなかったのだ。

 そして、二人の関係性を見る限り、その献身に、フェアリィが全く気付いていないという風でもなかった。

 

 ……それならどうして、あの子は『部屋替え』なんて希望したのだろうか。

 

 後ろめたさを感じたクレインの方から離れるのであれば、まだわかる。でも献身されていた側のフェアリィの方から逃げ出してしまうのは、道理が通らない。

 彼女は、寄り添ってくれたクレインに感謝すべき方で……突き放す方ではないはずなのに。

 何か特別な考えがあったのか、はたまた、自分たちには未知の事情があるのか。

 

 しかし未知の事情、と言われても、それこそ、特別思い当たらない。恥ずかしさや背伸びしたい気持ちから、誰かの差し伸べる手を振り払ってしまうことはままあろう。でもこれは、そういう前のめりな若々しさからくる拒絶のように思えない。もっと後ろ向きで、もっと薄暗い――

 

 ……言ってしまえば。

 陰湿な性質を持っているように、感じられてしまう。

 クレインの話が――光を伴ったものに聞こえたから、なおのこと。

 

 ……やっぱり、フェアリィと話さないことには、何も始まらない。

 全ての鍵を握っているのはクレインちゃんじゃない……当人なんだ。

 このままじゃ、あの子だって立ち直れなくなってしまうだろう――と、思うものの。

 

 上半身を起こした高橋の脳裏に、クレインの様子が過ぎる。

 あれだけ苦しそうながらも、最後には自分たちに話してくれたのだ。その想いのバトンをしっかり受け取って、今度は自分が繋がなければならないことはわかっている。

 でも事態は思っていたより複雑で、繊細で――ただ指先で触れるだけで、脆くも崩れ去りそうな錯覚がしてしまった。

 

 本当に、自分でいいのだろうか?

 自分で、やれるのだろうか。

 

 疑問は不安へと形を変え、じわじわと心を蝕み始める。

 成功するならいい、でも失敗してしまったら?

 ただ失敗するだけならいい、でも、もっと悪い事態にしてしまったら?

 

 でもフェアリィと話がしたいのは本当で、どうにかして力になってあげたいというのも事実で。

 でも不安は、思い悩む自分を嘲笑うように、執拗に纏わりついて離れなくて――

 

「……」

 

 行き場を求めるように動いた手は、携帯電話を掴んでいた。

 これまで何度も繰り返されてきたように、指が滑らかに動く。

 

 一度止まり。

 薄目を閉じ、深めに呼吸。

 それでもなお、決心するには程遠い心を確認し直して――

 

「……、」

 

 ――画面をタップした。

 耳に当てると、数度のコール音が響く。聞こえてくるのは、すっかり聞き慣れた、どこか気だるげな声。

 

「――あ。もしもし……うん。あたし。うん……いきなり電話しちゃって、ごめん」

 

 彼女は言った。

 

「――お兄ちゃん」

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 同刻。

 栗東寮の自室にて、オルフェーヴルもまた、携帯電話と向き合っていた。

 

「……あぁ。突然連絡して、すまない」

 

 そこから聞こえる声に。

 彼女は、珍しく恭しく、弱々しく、答えていた。

 

「――姉上」

 

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