泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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あたしの覚悟、あなたの覚悟

 書類仕事の手を止めたフジキセキは、マグカップを手に取って立ち上がっていた。

 

「……」

 

 窓の前まで歩み寄り、外の様子を窺うも、相も変わらず、そこは雨のカーテンの独壇場で、止む気配は一向にない。

 薄黒い雲が、空を果てまで覆っており、陽光が付け入る隙もあるようには見えない。こりゃ今日一日は降りっぱなしだな──と、口に含んだコーヒーは温めだった。

 

 彼女も、かつてはトレセン学園の生徒だったが、今では立派な社会人。

 大学進学を経て、理事長からの直々の頼みで、寮長として就職してからは、様々な生徒と交流を持ってきた。

 

 底抜けに明るい子もいれば。

 内気で、引っ込み思案な子もいた。

 つっけんどんな子も。

 ミステリアスな子も……

 

 時に心を閉ざし、人を突き放し、問題を起こす生徒もいたが、真摯に、誠実に向き合うことで、最後には分かり合うことが出来ていた。

 根気よく語らうことで、心を開いてはくれるものなのだ。この年代の少女たち、というのは……

 

 ──だからこそ、フジは苦心していた。『あの子』と向き合うことに。

 話せばわかることもあるだろうに、そもそもその『話す』というプロセスすらも拒否する子には……一体、どう向き合えばいいのだろうか。

 

 頭の中に巡る選択肢。建前や使命感、慈愛、冷酷さ。

 糸のように伸びるそれらが複雑に絡み合い、思考を雁字搦めにしていく。

 リフレッシュするためにコーヒーを再び口に運ぶも、出てくる結論は、『どうしようもないな』、という投げやりなものだけ。

 建設的な結論は――残念ながら、自分一人では、出てきそうにない。

 

 とはいえ、もうこうなってから3日。

 こうして、いつまでも放っておくわけにはいかない。

 いい加減、こっちも腹を括るべきか──と、考えが冷たい方向へと傾き始めた時。

 

「ん」

 

 管理室の扉を叩く音が聞こえた。

 それが来客を告げる報せだと認識したフジは、マグカップを机に置きつつ、どうぞ、と扉に向かって呼びかける。

 応じる言葉はなく、代わりに、慌ただしく扉を開ける、という行動が返ってきていた。

 

「……あぁ、どうも」

 

 フジは、それに驚きはしない。

 くすり、と可笑しそうに笑うと、柔らかな声で、息を整える『彼女』を迎えていた。

 

「そろそろ、来る頃だと思ってました」

 

 そして――

 その声色のまま、彼女の名を告げた。

 

「――高橋トレーナー」

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

『……なるほどなぁ』

 

 高橋からの電話を受けた『兄』の第一声は、心底面倒臭そうなものだった。

 

『最近はヘラってなかったから上手くいってんのかと思ってたけど……案外そうでもなかったんだな』

「ま、まぁ。別に、上手くいってなかったわけでもないんだけどね……」

 

 兄に反発し、我武者羅に突き進んでいた1年前。今がそうでない、とは思わないが、懐かしいと思うと同時に――

 あの気持ちを蘇らせたなら、もっと状況も変わるんだろうか、とも考える。

 

「……あたしはさ」

 

 ともあれ彼女は、彼に『相談』を続ける。

 

「トレーナー業を嘗めてたけど、改めたつもり。結果は着いてきてないけど……端くれくらいにはなれてる、って、ずっと思ってたの」

 

 偉大な成果を残せなくても。世間を驚かせることも出来なくとも。

 世間的なイメージに近いものにはなれている。それくらいの自負は持っていた。

 

「でもさ……トレーナーって、指導者だけど、その一方で、教育者でもあるんだなって」

 

 だからこそ――

 まさか今、こんな状況に陥るなんて、夢にも思っていなかったのだ。

 

「あの子に寄り添いたい気持ちはあるの。でも、こんなの、あたし、習ってない。あの子と話せたところで、どうすればいいのかも、わからない」

 

 カウンセラーではない。医者であろうはずもない。

 夢のために共に歩むべき、唯一無二の相方ではあるけれど。

 

「……あたしの軽率な行動で、あの子を、更に追い詰めちゃうかもしれない」

 

 そう考えると──一歩踏み出すことさえ、自然と躊躇われてしまった。

 

「そう思うと……何も出来なくなっちゃって」

 

 何もしないままでは、何も救われないことも、知っているけれど。

 

「でも、何かしなきゃ、何にもならなくって……」

 

 自分は。

 

「……あたしは」

 

 ――どうすれば、いいのだろう。

 結論として吐き出された言葉は、縋るように弱々しかった。

 

『……』

 

 兄は、しばし無言。

 こういうことが、正に1年前にあったな、と彼は想起する。

 妹はあの頃なら変わったのは事実で、随分と丸くなったと感じる一方で──

 特に何も変わっていない、とも思っていた。

 

 彼は全てを見抜いている。

 長い時間を過ごしてきたのだから、言葉の裏にある真意に気付いている。

 ならば自分が果たすべき使命、掛けるべき言葉、今すべきこと、驚くほど冷静に、彼は思い至っていた。

 

『……まゆ』

 

 思案の時間が終わる。

 高橋の名を、兄は呼ぶ。

 彼女は気を引き締め直し、後に続くであろう言葉に身構えた。

 

 

 

 

 

『──諦めろ』

 

 

 

 

 

 ……果たして、告げられたそれは。

 高橋には、非常に冷淡に聞こえた。

 

「……」

 

 彼女は、再び無言。

 一瞬、何を言われたかわからなくなって──

 我に返ると、慌ててそれに反応した。

 

「──え、」

『って言ったら、』

 

 何かの聞き間違いじゃ。高橋はそう思った。

 結果として、それは聞き間違いではなかったが──

 彼女が感じたような冷淡さは、間違いであった。

 というより、早とちりであった。

 

『お前は、諦めるのか?』

 

 兄は、言う。

 

『俺の言う通りに別れて……きっぱり、それで終われるのか?』

 

 違うだろう、と。

 彼女が、あの強情な妹が。

 そんな簡単に諦めるはずがない――と。

 

『……結局お前の肚ん中じゃ、とっくに結論は出てんだよ』

 

 言い返さない――言い返せない彼女に、彼の声色は、呆れているように聞こえた。

 

『お前が必要としてるのは、背中を押してくれる誰かだけ。……一緒に責任を負ってくれる、『共犯者』だけ』

 

 いずれにせよ。

 最後の一歩を踏み出せずに、ただビビってるだけ。

 

『確かに、勢いだけで突っ走ったら、何か間違っちまうかもしれねー』

 

 彼は続ける。自身の過去。

 決して褒められたものではないであろう、無茶苦茶な過去を思い出しながら。

 

『取り返しのつかないことになるかもしれねーし、一生モノの傷を負っちまうことになるかも』

 

 けれど。

 

『けど、それが何だ?』

 

 どうして、それがいけないことだと言うのか。

 どうして、そうなってはいけないと言うのか。

 

『人の生き死にが絡むんならやべーけど、お前が決心したとこで、核ミサイルのスイッチが押されるわけでもない。傷ついてもいいじゃねーか……みんなそうして、強くなってくんだよ』

 

 やった時の後悔には、反省が付き纏う。

 だが、やらなかった時の後悔には、何も残らない。

 

『……つべこべ言ってねーで行ってこい。現地にいねー俺には何も出来ねーが……まぁ、上手くいかなかった時の慰めくらいはしてやる』

 

 何もかもが。

 手遅れになる前に。

 

『その時、そうするくらいの余裕があったら、の話だけどな』

「……」

『……おーい。どうしたー』

 

 締めくくりに投げかけられた軽口に、しかし高橋は何も返さない。

 いつもなら、怒り狂った大型犬の如く噛み付いてくる彼女が、ここに来てこの無言。

 不審がった彼は問いかけるが、高橋はうぅん、と応じた。

 

「……ありがと」

 

 結局、全てを見透かされた挙句──いざと言う時の『保険』すら手に出来なかったが。

 それとは引き換えに出来ないほどのものを、彼女はもらっていた。

 

「行ってくる」

『おぉ、』

 

 だから──そう返事をする。

 

『行ってk――』

 

 ──続くはずだった彼の言葉を、途中でぶった切って。

 

「……」

 

 電話の向こう──

 電子音が無情に響く中、彼は呆れる。

 

 一分一秒も惜しいのはわかるが──

 こっちの激励くらい、最後までちゃんと聞いとけよ──と。

 

「……、」

 

 まぁ、いいか。

 と、彼は携帯電話を投げ出し、ふと窓の外を見つめる。

 彼の居住地もまた、それまで大雨に苛まれていたのだが、

 

「……お」

 

 雲の切れ間に見えた光で、意外そうな声を漏らしていた。

 

「止んでら……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そうして、決意を固められたことで、栗東寮の管理室を訪れた高橋。

 

「……」

「……」

 

 フジキセキと対峙しながらも、すぐには言葉を紡がない。

 このように訪れた手前、会話のボールを持っているのはフジの方だと思ったからだ。

 だが肝心の彼女もまた──口を結んで、高橋を見つめるばかり。

 

『用件があるのだろう?』──凛然とした佇まいが、無言で訊ねていた。

 

「……、」

 

 高橋は、それにしばし目を閉じる。

 胸に手を当て、呼吸を整えると、再び、フジと目を合わせた。

 

「……フジちゃん」

 

 一連の言葉は、名を呼ぶところから始まる。

 

「持ってるよね。寮のマスターキー……」

 

 全ての部屋へと通じる鍵。

 全ての『問題』を、強引に『解決』出来るであろう――唯一の『鍵』。

 

「これから……フェアリィを説得しに行く。でもあの子の部屋に入るには……『鍵』を開けなくちゃいけない」

 

 あの子は拒絶しているから。あの子は扉を開いてくれないから。

 

「今のままじゃ……まともに話すことも出来ない」

 

 無理矢理にでも、こじ開けないといけないのだ。

 

「だからお願い、フジちゃん」

 

 高橋は、フジに手を差し伸べる。

 

「マスターキー……あたしに、貸してほしい」

 

 彼女の姿は、一見は迷いがないように見える。

 教え子のために、全力を尽くしているように見える。

 

「……」

 

 対してフジは、何も言わずに踵を返し、壁に取り付けられたキーボックスと向かい合った。

 取り付けられた認証機に番号を入力すると、がちゃん、と音が鳴り、金属の軋みと共に、扉が開く。

 内部には複数の鍵が吊るしてあり、フジはその中の一つを手に取った。

 

 扉を閉める。

 高橋と向き直る。

 歩み寄った彼女は、鍵を、どこかこれ見よがしに指でつまんで吊るし――

 ……しかしそれだけだった。

 

「……?」

 

 自分で取れ、ということか。

 そのような意図と汲んだ高橋は、吊るされた鍵を握ろうとする。

 が――動いた手は、程なく虚空を掠めていた。

 

 フジキセキは――鍵を手中に素早く握り込み。

 簡単には受け取れないようにしたのだ。

 

「……」

 

 ――一体、どういうことか?

 高橋の頭に疑問符が浮かぶが、フジから向けられた瞳を見ると、それも瞬時に霧散していた。

 

 鋭く、研ぎ澄まされた眼光。

 静かに憤っている、と言われてもおかしくないような――

 威圧的な眼。

 

「……高橋トレーナー」

 

 フジは、そのまま腕を組むと、瞳の色を変えないまま、高橋に言う。

 

「現状を、ちゃんと理解出来ていますか?」

 

 現状。フェアリィルナの現状。

 

「あの子はこの3日間、生徒と教師双方からの、あらゆる呼び掛けを拒絶しています」

 

 状況。今自分たちが置かれている、状況を。

 

「マスターキーを使って押し入る。えぇ。それも可能でしょう。ですが強引な手段は、強引であるがゆえに、よく熟考された上で実行されるべきだ」

 

 それは、ただ部屋に押し入るのではない。

 締め出された心の中に、土足で上がり込むことと同義だ。

 押し入った者が──彼女の手を取らなくてはならないことになる。

 

 そうでなければ。

 今度こそ本当に――取り返しのつかないことになってしまう。

 

「わかりますか、」

 

 わかるだろうか。

 

「この鍵を、あなたに渡したが最後──

 あの子の運命は、あなたに託されるも同然になるんです」

 

 ――簡単なことではない。

 いかに年下の少女であろうが、人1人、ウマ娘1人の運命が、軽いはずがない。

 平等に重く、当然に深刻だ。

 

 故に、人選は慎重にならなくてはならない。

 向き合う人物は、相応の者でなくてはならない──

 

「……1人の少女の行く末を、背負う覚悟」

 

 もはや高橋の目の前にいるのは、かつて一世を風靡したウマ娘などではなかった。

 フジキセキという、確たるアイデンティティを持った──何人もの生徒の運命を託された、『家』の『長』だった。

 

「あなたに──その覚悟がありますか」

「……」

 

 ──高橋は。

 その時、かつての自分の姿を思い出していた。

 

 我武者羅にひたむきで、恥ずかしいほどに浅はかな考えを持った自分。

 オルフェーヴルと対峙し、大人気ない言動で抑え込もうとしたことが懐かしい。

 

 もし自分が、あの日のままだったなら、どんな返事をしたのだろう。

 やっぱり立場を利用して、無理矢理に言うことを聞かせたのかな。

 それとも、不貞腐れて他の方法を考えたのかな。

 

 はたまた──兄の言う通り。

 もはや相方を見限って――次の子を、探したりしてたのかな。

 

「……、」

 

 あぁ──本当にあの時の自分は。

 未熟で、浅はかで、浅慮で、愚かで――

 

 

 

 情けなかった。

 

 

 

「……、フジちゃん」

 

 くすり、と笑った。

 高橋は、フジのことを再び呼ぶ。

 

「あたし最初……フェアリィを、どういう理由でスカウトしたと思う?」

「……?」

 

 怪訝そうに首を傾げるフジ。

 こんな問答など、元より不要か。

 そう思い至った高橋は、自虐的な笑みを隠さないまま、続けた。

 

「──『箔』にしようと思ったの」

 

 ウマ娘と、一度も戦った事のないトレーナーと。

 実績は無いが、一度は戦った事のあるトレーナー。

 どちらがより優位に立てるかと言えば、辛うじて後者の方だ。

 

 フェアリィルナは『売れ残り』。

 次に行くための『繋ぎ』になればいい。

 そんな小狡い考え方で、軽薄にも彼女をスカウトして──

 

 ──そして、壁を思い知ったのだ。

 

「……でも、オルフェちゃん、シオンちゃん、タルマエちゃん……色んな子と会って、関わったことで、そんな薄っぺらい気持ちじゃ、何にもならないって思い知ったんだ」

 

 最初は諦めようと思った。

 あの子のためにも、手を引こうと思った。

 けれど、助けられるものは自分しかいない、と理解したことで、一緒に歩もうと思ったんだ。

 

 そして、何度も助けられた。

 何度も元気付けられた。何度も――導かれた。

 

「……あたしは半人前で、まだまだ一人前には程遠いと思う」

 

 誰かを助けたいけれど。導きたいけれど。

 それにはほとほと、遠いかもしれない――けれど。

 

「あの子を助けるには、力不足かもしれない」

 

 それでも。

 それでも――

 

「……向き合うって決めた。傍にいるって決めた。絶対に、見捨てないって、決めた」

 

 彼女のためなら、なんだってするって、決めた。

 

「だってあたしは……」

 

 だって自分は――……

 

 

 

 

 

「――あの子の、

 相棒(パートナー)だから……!!」

 

 

 

 

 

「――……」

 

 フジキセキは、目を見開く。

 彼女もまた、高橋の人となりをよく知っていた。

 伊達に長年、寮長をやっているわけではない。在籍する生徒と、その相方の概要くらい把握している。

 自分の記憶上の彼女は、トレーナーとしても新参者で、一流の名ウマ娘を生むのは難しいと思っていたのだ。

 そうなるには、まだまだ時間が必要だな、なんて、傲慢にも『見限って』いたのだ。

 

 ……思いもしなかった。まさか、そんな人が――

 こんな啖呵を、切って来るなんて。

 

「……、」

 

 トレーナーとの関わり合いで、ウマ娘たちは精神的にも成長していく。

 けれどその中で成長するのは――彼女らだけではないということだ。

 分かっていたつもりだったが――自分もまだまだだな、とフジは、自虐的に目を伏せていた。

 

「……?」

 

 そんな挙動を奇妙に思ったのだろう。不思議そうに目を丸くする高橋に、フジはいや、とひと言前置きする。

 

「……トレーナーさん」

 

 そして、彼女を呼ぶ。

 

「手を」

「え……?」

 

 再度、きょとんとする高橋だが、フジは軽く握った手を差し出していた。それの意図するところを汲み取った高橋は――言われるまま、しかしどこか恐々と、掌を上にした状態で、手を差し伸べる。

 フジの片手が、そんなおっかなびっくりな手を受け止め。

 そっと、掌の上に、握り拳を着地させた。

 

 それが開くと同時、走る硬い感触。

 フジの手は更にそこから動き、高橋の手を優しく包み込むようにして、『それ』を握らせた。

 

 ぎゅっと――

 そこに解き放ったものを、決して離さないように。

 

「……」

 

 手を引いた高橋は、自身の目下にて手を解いていた。

 そこには、鈍い銀色。

『マスターキー』というシールの張られた――ひとつの鍵があった。

 

「……試すようなことをして、ごめんなさい」

 

 弾かれたようにフジを見る。

 申し訳なさそうに、彼女は姿勢を正している。

 その頭が――間髪入れずに、深々と下げられていた。

 

「――あの子を、

 よろしくお願いします……!」

「……」

 

 ――そこまでしなくとも。

 ――そんなことしなくていいのに。

 

 などと、取り繕いの言葉を投げかけることは出来た。

 だが今――『目的』を達せられた今、『そんなこと』は些事だ。

 

「――、」

 

 鍵を再び、強く握り締めて――

 

「――うん!」

 

 力強く返事をして。

 管理室から飛び出していた。

 

 寮の廊下を駆けていく。

 それが、本当なら褒められたことではないと知っていながらも。

 逸る気持ちに押されるまま、走り続ける。

 

 階段を駆け上がり、二階、三階――

 乱れた息もろくに整えず、廊下を走り抜ける。

 生徒一人見当たらない廊下の突き当たり。

 ……そこが、今のフェアリィルナの居室だ。

 

「……」

 

 数秒に渡る深呼吸の末、目の前の扉を改めて見上げる。

 周囲のものと変わらぬデザインのはずのそれは、高橋には異界への扉に見えた。

 正規の手段では開かないのではないか――とすら感じる。

 

 ただそれが錯覚であることなど、彼女もよくわかっている。

 だから胸に手を当て、しばし心を落ち着かせた。

 動悸は収まり、鮮明に現実を認識出来るようになる。

 クリアになった思考で、慎重に言葉を選んだ――

 

「……フェアリィ」

 

 脆い水晶に触れるように、扉に向けて、彼女は声を紡ぐ。

 

「起きてる? あたしだよ……高橋」

 

 返事はない。

 

「ここのところその……仕事とか忙しくて。すぐに来れなくて、ごめんね」

 

 返事はない。

 

「みんなから事情は聞いてる。色々……あったみたいだね。お疲れ様」

 

 返事はない。

 

「ただその……あたしたち、最後にまともに『話』をしてから、随分経っちゃってるわけでさ」

 

 返事はない。

 

「さすがにこれ以上は……立ち止まってるわけにはいかないと思うんだ」

 

 返事は。

 

「もちろん、いきなり出てこい、なんて言わないよ。少しずつでいい。ゆっくりでいいから……」

 

 返事は――

 

「……お願い。返事をして」

 

 ……ない。

 

「……」

 

 応じるつもりがないのか、そもそも聞こえていないのか。どちらにせよ、懸命で直向きな高橋の言葉にも関わらず、何も動きは生じない。

 重苦しい沈黙が、ただただ周囲に広がるばかりだ――

 

 自身の右の手に目を落とす。

 開いた掌には、フジから託された鍵。

 数値にすれば、数グラム程度のはずのそれが、身体にはずっと重いもののように思われる。

 握り直してみれば、宿っていないはずの熱でさえも感じられる。

 

 それらを自覚した上で、扉を見つめ直してみると。それは先刻ほど、威圧的なものには見えなかった。

 相応に映る、空間を隔てる番人。

 空いた左手でそれに触れ、目を閉じ、動揺していた心が落ち着いたのを確かめた。

 

「……、」

 

 深呼吸を一つ。

 

「……入るよ」

 

 許可を取るというより、決意表明のように言って――

 マスターキーを、そっと鍵穴に差し込む。

 鍵が開かれたことを音で確認して――

 ドアノブを、ゆっくりと捻った。

 

 話によると、フェアリィの仮居室は、必要最低限の調度品が用意されているのみらしい。

 誰にも手を加えられていない、真っ新な状態。

 誰にでも、どうにでも変えられる状態――

 

 もし、見るに堪えないような内装だったらどうしよう。

 見ていられないような現状だったらどうしよう。

 自分はそれを受け入れられるだろうか。それを受け止められるんだろうか。

 覚悟に恐れが滲むのを感じたが――

 

「……」

 

 杞憂であった。

 薄暗い部屋の中は、特に荒らされているわけでもなければ、整理されているわけでもない。

 ほぼ空き室のまま――本当にただそのまま人が入っただけという様子。

 殺風景な空間の隅、どこか申し訳なさそうに鎮座するベッドの上――

 

 

 

 ……そこに、『彼女』の姿はあった。

 

 

 

 壁を背に、膝を抱きかかえ、顔を埋めている。

 いつもの明るく、落ち着きのない様子はどこへやら、高橋が入室したにも関わらず、置物のように微動だにしない。

 まさか息絶えているのではないか、とすら考えてしまうが、身体はちゃんと呼吸に合わせて上下している。

 数日ぶりの『相棒』は――確かに、そこにいる。

 

 ……彼女からは、何も感じない。

 塞ぎこむ人というのは、無意識にでも、周囲に拒絶の空気を醸し出しているものだ。『私に障るな』と。『私に関わるな』と――

 

 しかし今の彼女からは、そういった空気をも感じられない。かといって――受け入れられているように感じるかというと、そうでもない。

 

 ――『無』だ。何もない。

 彼女からは、拒絶も、受け入れも、何も――感じない。

 

 空っぽだ。何もない。

 あれだけ燦然と闊達だった少女は――すっかり、空っぽになっていた。

 

「……」

 

 室内を埋め尽くす『無』を掻き分けて、高橋はフェアリィの目の前に辿り着き、しゃがみ込む。

 それだけの行動にも関わらず、彼女はなお気付いた様子がない。

 気付かない振りをしているのか、本当に気付いていないのか。外部からの観察では、察することは難しいが。

 

 ――どちらでもよかった。どちらであろうが、高橋が取ろうと思う行動は決まっていた。

 

「……、」

 

 息を吸い、声と言葉を練る。

 

「……フェアリィ」

 

 静謐な部屋に、自分の声は異様に大きく聞こえた。

 ぴくり、と眼前の小さな影が震える。

 頭がゆっくり、もぞもぞと動き、薄闇の中に、数日ぶりの彼女の顔が見えた。

 

 

 

「……トレーナーさん?」

 

 

 

 死体が話しているのかと思った。

 声は掠れて小さく、目元は隈で薄っすらと変色しており、瞳には生気が見られない。

 胸を真正面から刺されたような感覚――眉が若干ながら歪むのを自覚して、高橋は固唾を呑んでいた。

 

 事前に決めたはずの覚悟さえ、既に塵芥のようだ。

 ……これが。

 これが、あの……フェアリィルナ。

 

「……お、」

 

 ――話しかけたからには、とにかく何か言葉を紡がなくては。

 その一心で、高橋は口を動かす。

 

「おはよ。久しぶりだね……元気してた?」

 

 すぐ傍で、オルフェーヴルの叱責する声が聞こえた気がする。この状況で世間話など正気か? ――などと。

 

「もう……びっくりしちゃったよ。急に学校もトレーニングも休んじゃうから」

「……なんでここに」

「……フジちゃんに頼んで、マスターキーを貸してもらったの。ごめんね」

 

 しかしこれまで、先生や生徒から、外から呼びかけられていたはずだ。にもかかわらず、彼女がそれに気づいた様子はない。

 意図的に触れないようにしているのか、本当に気付いていないのか。どちらにしても、正常と言える精神状態でないことは確からしかった。

 

「……なさい」

「え?」

「ごめんなさい……」

 

 フェアリィは再び顔を足に埋め、両手で両耳を塞ぐ。何事か、と訝しむ高橋を前に、肩が小刻みに震え始める。

 

「ごめんなさい……わかってます、わかってるんです。こんなことしてる場合じゃないってことくらい、でも、でも、どうしても、どうしても身体が動かなくって、気が付いたら一日が経ってて……ごめんなさい」

「い、いや……だ、大丈夫だよ。あたしも、みんなも、怒ってないから。そんな怖がらなくても――」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

「……」

 

 あまりの変貌ぶりに、高橋も絶句する。

 何か言動を間違えただろうかと反省するも、自覚出来るようなミスは思い当たらない。

 今の彼女には、自分の姿すら、魂をつけ狙う死神にでも見えているのだろうか。

 現状では、有り触れた世間話でさえ、彼女を傷つけてしまう不可視のナイフとなってしまうかもしれない。

 

 ――やはり世間話は不要か。

 そう結論した高橋は、とにかく、彼女を落ち着かせることに決める。

 

「フェアリィ、」

 

 出来るだけ優しく、彼女の両肩に触れる。

 それは、今にも折れてしまいそうに思えるほど、か細く感じられた。

 

「大丈夫。落ち着いて」

 

 過ちを犯さないよう、慎重に言葉を紡ぐ。

 

「あたしは……あたしだけは、あなたの味方。あたしだけは、怒らないし、責めもしないよ。だから、大丈夫……落ち着いて。深呼吸して」

「……、……」

「信じて」

「……」

 

 どうやら、そのような慎重さは、功を奏したようだ。

 フェアリィの身体の震えは少しずつ収まり、呼吸も安定してくる。

 部屋が静寂に包まれ、外を覆う雨音だけが聞こえるばかりになったところ、再び、彼女は顔を上げていた。

 

「……」

 

 今にも砕けそうな表情。

 痛ましい顔に、高橋の胸は再度、ずきりと痛む。

 同時に――『相棒』としての使命感が、それを上書きするように湧き上がってくる。

 

 ――あたしが、何とかするんだ。

 前のめりな気持ちが、高橋の背中を情熱的に押す。

 

「……ねぇ、フェアリィ」

 

 彼女は言う。

 

「何が……あったの?」

 

 この三日間――塞ぎ込むことになった原因は、何なのか?

 

「どうして今まで……その。……部屋に、閉じこもって、いたの?」

「……」

 

 フェアリィは、今度は顔を埋めることはしなかった。

 代わりに、いかにも気まずそうに俯く。

 そのような反応をする、ということは、やはり、相応の事情があるということだろう。

 ……少しずつ、事の真相に近付いている。その確信を、少しだが抱く。

 

「……、……」

 

 彼女は無言。目線を泳がせ、見るからにどうするべきか悩んでいる様子。

 急かしたくなる気持ちを、高橋はグッと堪える。

 ようやくこうして相まみえて、こうして話してくれているのだ。ふいにするわけにはいかない。

 

 自分の覚悟を。彼女の覚悟を。

 無駄にするわけには、いかない。

 

 高橋は待つ。信じて、少女の勇気を待ち続ける。

 過ぎた時間は数秒か、数分か――刹那とも永遠とも取れる、時の空隙の末。

 

「……だめ、です」

 

 しかし――彼女が口にしたひと言は、弱々しかった。

 

「言えません……トレーナーさんにも……」

 

 開きかけた心の扉が、再び、閉じた感覚がした。

 泳いでいた彼女の視線が、真下へと落ちる。

 

「こんなこと言ったら……あなたはきっと……私を、軽蔑します」

「……どういうこと? 犯罪に加担したとか……?」

「違う……違います……もっと単純で、もっと普通で……」

 

 もっと、

 もっと、

 

「幼稚なことです」

「幼稚……?」

「だから……言えません」

 

 一度は止まったはずのフェアリィの身体の震えが、戻る。

 

「言えません。トレーナーさんにまで……嫌われたくない」

 

 あなたにまで。

 拒絶されたくない――

 

「……」

 

 ……フェアリィルナの精神が、極限まで追い込まれていることはよくわかった。

 現状、彼女のことを嫌っている者などいない。たとえ外に出たところで、心配はされても、軽蔑されることなどないだろう。

 否――たとえ、実は軽蔑されることがあったとしても。

 

 自分は。自分だけは――

 軽蔑しない。拒絶しない。絶対、あなたの傍に――いる。

 

「……大丈夫」

 

 気持ちを込めて、想いを乗せて、言葉を紡ぐ。

 

「嫌わないよ。心配しないで」

「だめです……だめ。話せません」

「軽蔑も……しない」

「だめ、だめ……信じ、られない……」

「なら……試してみる?」

 

 ハッと、フェアリィは顔を上げた。恐怖一色の表情に、一滴の驚きが混じる。高橋は、にこり、と口元を綻ばせた。

 大丈夫。

 自分は向き合う。自分は拒まない。その覚悟を以て、ここまできたんだ。

 もう――逃げない。怖がらない。

 真正面から向き合って――戦ってやる。

 

「……()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あたしがどれだけ薄情な人間なのか――周りに言いふらしてくれたっていいよ」

 

 だから、言う。

 高橋は、言う。

 

「でも……絶対逃げないし、絶対、受け入れる」

 

 絶対に、絶対に――

 傍にいてあげる。

 

「あなたと一緒に――戦ってあげる」

 

 寄り添って――あげる。

 

「……だから」

 

 高橋は、目線を逸らさなかった。

 

「だから……お願い」

 

 あなたのことを――教えて。

 あなたのことを――話して。

 そう語り掛けた――対して、フェアリィは。

 

「……」

 

 信頼と不信の入り混じる、複雑な表情を俯かせていた。

 

 トレーナーのことを信じたい。全て話して、楽になってしまいたい。そう考えながらも。

 ――やっぱり信じられない。このまま、苦しんでいた方がいい。そう考えているようにも見える。

 

 見るからに相反する感情に板挟みになり、苦悩にしている彼女を――やはり高橋は、無暗に急かしたりはしない。

 無言で、根気強く、選択を待つ。

 

 それからまた、数分ほど経ったろうか。

 

「……」

 

 首を上げたフェアリィの瞳は、さっきまでとは違う色を帯びていた。

 相変わらず暗く陰ってはいるが――絶望や、悲嘆とは明らかに異なるもの。

 その奥に湛えた、直向きで不器用な誠実さに、高橋は軽く目を見開く。

 

「……私は」

 

 それに、彼女が気付いたかどうかは定かではない。

 

「私、は……」

 

 どちらにせよ――フェアリィルナは。

 一人の少女は。

 

「……特別、

 酷い『人生』を、

 送って来たわけじゃ、ないんです」

 

 ……ぽつぽつと。唯一の相棒へ向けて。

自分の想いを――全てを。話し始めた。……

 

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