泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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何も起こらなかった世界

 特に何があったというわけじゃない。

 むしろ問題なんて、何一つ起きていなかったんだ。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 私の家は、特別裕福でもなければ、貧乏でもない。

 どこにでもある、有り触れた普通の家庭でした。

 不自由なく……もないけど、育児放棄もなく、よく愛された。

 そう感じていたと思う――少なくとも、初等部に上がるくらいの頃までは。

 

 いよいよ入学する、というタイミングになった時、両親が妙に期待した顔をしていたことを、よく覚えている。

 幼心に不審に感じた私は、適当なタイミングで、それとなく母に訊いてみたのだ――なんか最近元気じゃない? みたいな感じで。

 

 彼女は逡巡したみたいだった。少なくともそれで、悩む程度には深刻な事情があることには気付けた。日を改めるとか、聞き方を変えてみるとか、そんな頭もない私は、ただひたすらに、彼女からの答えを待っていたっけ。

 少し経ったくらいに、彼女は答えてくれていた。

 

 ――あなたにはきっと、特別な才能があるの。

 

 ……どうやら私は、かの『有名なウマ娘』に、容貌がよく似ているらしい。だから私には特別な才がある。だから私の活躍には期待している。

 

 一見すると、どうかしている文句のように思える。

 けれど母の目は真っ直ぐで、声色は真剣だった。

 人間の世界ならいざ知らず。ウマ娘の世界は、『血統勝負』とよく言われる。

 

 私の母は、別に有名なウマ娘じゃなかった。

 レースの世界で、さしたる結果も残せなかった。

 だからこそ縋る気持ちもあったんだろう――もしこの子が、奇妙な『縁』で、特別な『血統』を持っているのなら。

 ――あの『不屈の帝王』に、よく似た容姿をしているともなれば。

 見果てぬ夢を、代わりに叶えてくれるかもしれない。そう考えたのかもしれない。

 

 ……純粋な私は、それに何の疑問も抱かなかった。

 それが自分の果たすべき『責務』なのだと、幼いながらも自覚して、勉強も運動も、頑張ろうと思った。

 母がそう言うのなら、きっとその通りなのだろう、なんて、信じる気持ちもあった。

 

 ――実はそれが間違いだったのかもしれない、と気付いたのは、それからずっと後になってのことだった。

 

 ウマ娘の学生というのは、初等部からたくさんの行事をこなす。

 学力テストはもちろんのこと、レースに向けた体力テストも。

 地方でも中央でも同じだ。入学からほとんど容赦はない。

 苦しいが、実力の程を測る機会はだいぶんに恵まれている。

 そこから導き出された私の実力は――

 

『凡』。ひと言で表すなら、それだった。

 

 ……あの時の両親の顔は、今でも呪いのように脳裏にこびりついている。

 最初こそ何かの間違いだろう、と言いたげだった二人の表情は、回を重ねるごとに深刻になっていった。

 

 この子に才能なんてないんじゃないか。

 期待するだけ無駄なんじゃないか。

 言外に、そんな風に私に訴えかけてくるのだ。

 

 私には、それが途轍もなく辛くて、苦しくて、さらなる努力を積んだ。……積んだつもりだった。少なくとも、自分では。

 人一倍勉強したし、運動だって頑張った。けれど、それでも、どれだけやっても、結果が上手く着いて来ない。

 いつだってやる気ばかりが空回りで――上の世界へ行くのに、分厚く高い壁を感じてしまって――

 

 それで感じたのだ。『これ』が――才能の壁ってやつなんじゃないのかと。

 

 学校の仲間も、別にバカにしたりはしてこなかった。

 むしろ、お互い頑張ろう、って、励まし合うことすらあった。

 けれど――その反面、上向かない現実、下向いていく期待の火。その火勢は日に日に小さくなっていく。

 私はただ、ただ、我武者羅に頑張るしかなくて、直向きに努めるしかなくて、もはや何のためにそんなことをしているのかも、分からなくなりかけ始めた頃。

 

 ――二人は言ったのだ。もう無理しなくていいって。

 

 初等部三年くらいだったと思う――

 それを聞いて、私は、あれ、って思ったんだ。

 なんで? なんでそんなことを言うの、と。

 

 それからだ。二人の振る舞いが、妙に優しくなったのは。

 やたらめったら私を気に掛けるし、世話を焼こうとする。思い返してみれば、介護を受けている老人みたいな扱い。

 それを自覚するごとに、私は頑張らないわけにはいかないって気持ちになったんだ――自尊心を擂り潰されるような気がして。全てを否定されているような気がして。

 

 なんで。

 なんで、そんなことを、言うの、と。

 

 私はまだやれるのに。まだ頑張ってるのに。まだ、こうして、こんなにも、藻掻いているのに。

 どうして――どうして、そんな扱いをするの。どうして、そんな目で、見るの?

 

『大丈夫? フェアリィ』

 

 やめて。

 

『思い詰めなくていいのよ、あなたはあなたらしく』

 

 やめて。

 

『もういい、もういいの。もう頑張らなくていい――』

 

 やめて、やめて、やめて――!!

 

 そんなこと言わないで。そんな風に私を見ないで。

 私を、私を――

 

 

 

 諦めないで。

 諦めさせないで。

 

 

 

 ……多分その頃からだった。私が、闊達に周りに振舞うようになったのは。

 

 心配されたくない。不安にさせたくない。大丈夫。私は大丈夫だから。

 何も問題ないから。何も気に掛けることは無いから。だから――放っておいて。

 ほら、ほら。わかるでしょ。私は。こんなに。

 

「おはよーございまーす!」

 

 こんなにも、元気だよ?

 

 ……いつしか私は、そうやって心を守っていた。劣等感と無力感、虚無感を誤魔化すために、ピエロのように振る舞うことを覚えていた。そして、それと同時に。

 

 ――自分は最弱なんだと、言い聞かせ始めていた。

 

 だってそうでしょう。現実との乖離による痛みは、その差による軋轢は、期待や希望が大きいから産まれるんだ。

 それが苦しいのなら。それが悔しいのなら、最初から期待しなきゃいい、最初から、希望しなければいい……

 

 結果が出ないのは当たり前。

 凡才なのは当たり前。

 天才に勝てないのは……当たり前。

 だって、だって、私は……

 

 最弱なんだから……

 

「…………」

 

 ――なのに。

 なのに私は、努力や頑張りは、止められなかった。

 分からないけれど、なぜか、身体はそれでも、諦めることを知らなかった。

 

 打ちのめされても、敵わなくても、なぜだか、止められなかったんだ。

 独りぼっちの真っ暗な暗闇の中で、光が差し込む光景を夢見ていたのだ。

 

 最弱と自称しながら、それを否定する。

 本心と言動との矛盾は、私の心を新たに苛んだ。

 何か救いが、結果が齎されれば……もしかしたら、何か違っていたのかもしれない。けれど。現実は無情で。

 私の努力は――何一つ、実を結ばなくて。

 

 ……あぁ。どうしてだろう。

 どうして、何にもなれないんだろう。

 どうして、どこへも、行くことも、出来ないんだろう。

 

「……」

 

 最弱だとしても。

 

「…………」

 

 凡才だとしても。

 

「………………」

 

 それが、自分の、運命なのだとしても。

 

「――……っ」

 

 

 

 私は、

 こんなにも、

 頑張ってるのに――……

 

 

 

「――……、――…………」

 

 

 

 大雨の中、佇んで、慟哭のように泣いたけれど。

 雨は止まず、世界もまた――変わらなかった。

 不安定な心のままで。それでも気丈に振舞うのは板に着いてきて。

 それが自分のアイデンティティとして、確立され始めた頃。

 

「――ね、ねぇ」

 

 それは、起こっていた。

 

「と――友達に、ならない?」

 

 ……彼女は、自らをソードクレインと名乗った。

 絵に描いたような真面目な子、クラスのまとめ役ということで、私も、その存在をよく認知していた。

 

 自分とは違う世界の子。

 ずっとそう思いながら生きてきた。

 だから、そんな風に話しかけられることが、私には予想外だったし、驚きだった。

 最初は動揺したし、なぜ突然そんなことを言ってきたのかもわからなかった。

 拒絶することだって出来た。

 でも私は……結局それを、受け入れることにした。気付いたことがあったからだ――

 

 きっとこの子も。

『同類』なんだって。

 

 優等生だとは知ってる。才人だともわかっている。けれど、この地方に産まれ、生きている同じウマ娘の一人だ。大した差があるわけがない――

 だから近付いた。だから接した。だから……だから、友だちになったんだ。

 仲間(同類)がいるなら、苦しみも乗り越えられるかも、って――

 

『今日のレースも素晴らしいものでしたっ!! 誰もあなたに追いつけないモンベツの希望の星っ!! あまりの内容にこのフェアリィッ!! もはや感動通り越して戦慄すらしましたッ!!』

 

 ――どうせ同じだ。

 

『大丈夫です!! クレインさんならきっとトップをぶっちぎれます! そうすれば、中央移籍なんて一発ですよ!!』

 

 ――どうせ同じだ。

 

『うちのクレインさんを、どうぞよろしくお願いします! いい子ですので! 大事にしてやってください!』

 

 ――どうせ、どうせ。

 どうせ何も、変わらない――……

 

「フェアリィ?」

 

 ……でも本当は。

 それは、勘違いだったみたいだ。

 

「どうしたの? 急に黙って……」

「……ぇ」

 

 初めての芝の一戦で、目覚ましい活躍をおさめたことを知って。私は絶句していた。

 今までと同じように、『表面的にでも』祝福すればいいのに。何故だかそういう風に思えなくて、そんな風に振舞えなくて――

 ……あぁ、そっか。

 

 ソードクレインは。

 私とは、別のいきものなんだ。

 

「ぁ――あ、な、なんでもないですよ? 全然なんでもないです! い、いやはや、すごいなーって、クレインさんは、思ってたより……いや、前よりもずっと、ずっと、凄くて……あ、あれ……?」

 

 あぁ、でも、何か言わなきゃ。

 何か、何か、言わなくちゃ。いつも通りに。

 

 いつも通りに。

 いつも、どおり、に……

 

 ……え?

 ……いつも?

 

 

 

『いつも』って……?

 

 

 

「……ご、」

 

 あぁ、ダメだ……もう。

 

「ごめんなさい、ちょっと失礼しますね!」

 

 もう、どうすればいいか、わからない。

 

 私の精神を支えていた、三つの柱。

 明るさの『仮面』。最弱の『自称』。そして……ソードクレインという『同類』(仲間)

 そのうちの一つが崩れて、波及的に精神がこわれてしまった。

 他に何もない心象の荒野に。

 再び放り出されてしまったんだ。

 

 

少女はただ、荒野に立ち尽くしていた。

無音が彼女の耳を叩く。

当然、それに応じる声も、そこにはいつまでも響かなかった。

 

 

 必死に取り繕っていただけだった。夢中に言い聞かせていただけだった。私は……結局、何者でもない凡人のまんまだった。

 進んでいるようでいて……その実。一歩も進んでいなかった。

 ……私はもう。

 

 どこへも、行けなくなっちゃったんだ。……

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 高橋は、無言でその独白を聞き切っていた。

 

「……つまり、私は、友だちの厚意に、着け込もうとした、クソ野郎だったってことです」

 

 卑屈な声色で、フェアリィはその話を結んでいた。

 

「近付いてきてくれるあの子を利用して……現状を変えようとした、どうしようもないクソだった」

 

 その考え方は、高橋の『当初の』考え方に似ていた。

 フェアリィルナを箔にしようとした、自分によく似ていた。

 

「もしかしたら、これは、そんな卑しい私への、罰みたいなモノ、なのかもしれないですね……」

 

 彼女の口元が、ぐにゃりと歪む。

 

「あは、は、は、は……」

 

 乾いた笑いが、けたけたと、口から漏れていく。

 

「あはははははははははははははははははははははははははははははははは…………」

「……」

 

 高橋の中の時間が停止する。

 覚悟はちゃんと決めてきた。

 どんな現実でも受け入れるって、そう心に決めてきたのだ。

 だが――現実はいつでも、自分たちの想像を容易く越えてくる。

 

 ――ちくしょう。

 

 本当の彼女が見えたと思っていた。彼女の本心に触れられたはずだった。

 それなのに、この心の闇は――この、深淵は――……

 

 思ってた以上に――

 深い――……!!

 

「……」

 

 どうすればいい。

 どうすればいいんだ。

 

 目の前の少女は、きっと待っている。光明一つない暗闇の中に、自分が手を差し伸べてくれるのを待っている。

 だが、一体どう声を掛けろと言うのか。どう手を伸ばせばいいというのか。

 救いを求める小さな手すら、満足に見えない絶望の淵で――

 一体――どうやって助け出せばいいっていうんだ――!

 

「――っ、」

 

 高橋の手が動く。

 ジャケットの裏ポケットから取り出すのは、一冊の手帳だ。

 ここまで、彼女と歩んでいく中で、何度も自分を手助けしてくれた――父の形見。

 苦悩の袋小路から導いてくれた、その道しるべに、藁にも縋る思いで頼っていた。

 

 確か、それに該当する項目があったはず、と――

 

「……!」

 

『一、 パートナーが障害にぶち当たったなら、どうするべきか!』

 

 ――お父さん。本当に、不出来な娘でごめん。

 

『長く競争人生を過ごしていれば、自ずと壁にぶち当たるもの!』

 

 ――親不孝だよね。身勝手だよね。でも、でも、この子は、この子のことは、あたしの全てに替えても、助け出してあげたいんだ。

 

『それを乗り越えるためのアドバイスを、次のページに記す!』

 

 ――虫のいい話だけど、勝手な話だけど――お願い。

 

 もう一度、

 

 ――手帳の指が、紙端を捉える。

 

 私に、

 

 ――ページが捲られる。

 

 力を、

 貸して――!!

 

 高橋は、『彼』の言うアドバイスの書かれたページを、目の当たりにする。

 

「――……」

 

 刹那。

 彼女は、目を見開き、言葉を失っていた。

 何故なら、そこには。

 蜘蛛の糸に縋るように捲った、その、ページには――……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――何も、

書かれていなかったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 するり、と高橋の手から、手帳から滑り落ちる。

 音が立ててそれが落下するのにも気に掛けられないまま、高橋もまた、失意の底に沈んだ。

 今まで何度も世話になり、助けてくれた、唯一のしるべ。

 それすらも、もはや頼りにならないとわかってしまった。――もう。

 

 もう、

 何も、

 頼ることなど、出来ない……

 

「…………」

 

 ……どうすればいい?

 どうすれば、いいんだ?

 

 混濁に近い迷子の意識の中で、高橋は呆然と、目の前の少女のことを考える。

 血の滲む努力。度を越した頑張り。

 適切に実らず、評価もされない状態。

 

 誰にも気に掛けられず――

 褒められもせず――

 神にすらも、諦めを促される。そんな、極限の状態って――

 

「……」

 

 ……

 

「……?」

 

 ……あれ。

 

 なんだか、その状態って。

 その感じって……

 

 

 

 自分にも。

 覚えがあるような。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 喧しい蝉の合唱が辺りを満たした夏。

 畑仕事をしていたお父さんは、鳩が豆鉄砲を食ったような目で、あたしのことを見ていた。

 

「……どーしたまゆ。そんな顔して」

 

 対するあたしは、震える手で自分のシャツの裾を掴んで、俯くばかり。

 ……いかにも悔しいです、何とかしてください、と言わんばかり。

 

 テストの点が低くてバカにされたこと。実際はそんな程度のこと。

 相手は冗談のつもりだったんだろうけど、あたしにとっては酷い辱めで……相手の同級生と、ひと悶着起こしてしまったのだ。

 

「なるほどなぁ~」

 

 家の縁側にて。休憩がてら話を聞いてくれたお父さんは、わかってるのかわかってないのか、よくわからない声色で応じてくれた。

 彼の顎から滴る汗が、灼熱の陽光を反射する。彼は手拭いでそれを払うと、ぱん、と軽い破裂音がした。

 彼が、自身の曲げた膝のあたりを、手で叩いた音だった。

 

「ったく、しょうもねー連中もいたもんだな! 他人の点数なんか、気にしなきゃいいのにな!」

 

 父はこういう時、あたしが欲しい言葉を的確にくれる。……母とは大違い。

 だからあたしは、世間でも珍しがられることに――母よりも、父の方が好きだった。

 

「んー、そうだな」

 

 父は、一度家の中に戻ると、何やらごそごそとやり始める。ちりん、と風鈴が、微風と可愛らしいダンスを踊った。

 

「まゆ、こいつを見てみろ」

 

 しばらくして戻ってきた彼の手には、一枚の紙。そこには、一連の数字が書かれている。9かける1、9かける2……

 要は九九の九の段だった。その中で、ひとつ奇妙な解答があることに気付く。

 

『9×10=91』

 

 お父さん、最後のやつ、間違えてるよ?

 あたしがそう言うと、父は感心したように頷いて言った。

 

「……俺はこのうちの九つを解いたが、誰もそれを称賛しなかった。けど最後の一問だけ間違えたことを、みんなで揶揄って笑った。これが何を意味するか?

 それはつまり、社会の構造そのものだ。ある人が成功しても気付かないが、小さな間違いには気付き、みんなしてそれを非難する……」

 

 俺が好きな偉人の逸話だよ、と彼は言った。*1

 

「いいか、まゆ。長い人生の中で、失敗しない奴なんかいない。挑戦しない奴にはな、『そもそも失敗する権利もない』。

 だから、失敗すらしない腰抜けの言うことなんて気にするな。お前はこれだけの点数を取れた――それを誇りに思って、自分のすべきをしっかりとしていきなさい」

 

 それはそうと――

 28点が低すぎるのは事実だから、次はもっと頑張れよ! ……と言われちゃったのは、また別の話。

 

 この一言は、長いことあたしを勇気づけてくれた。失敗してもいい。負けたっていい。それを糧にして、前へ進めたものが、最後に勝者になるんだ――それを感覚として理解出来たから。

 だから努力出来た。だから頑張れた。だから、だから……今日まで、ここまで、無様でも、歩いて来られたんだ。

 

 ……でもこの子は?

 

 この子は、どうなんだろう。

 

 努力を重ねて、頑張りを続けて、それでも、それでも、何一つ報われない世界。

 誰かに優しい言葉を掛けられるどころか、諦めろとか、もう頑張らなくていいとか、求めていない『優しさ』を与えられる世界。失敗することに挑戦することさえ、許してもらえない世界。

 誰一人寄り添ってくれない。誰も彼も、傍にいてくれない。

 そんな世界で、生きること、過ごすこと……

 

「……」

 

 それは……

 それって……

 もう、想像する、だけで……

 

「…………」

「……?」

 

 ――フェアリィルナが顔を上げたのは、不審に感じたからだ。

 目の前の高橋が、動きを止めた上に、何やら鼻を啜るような音を出している。

 想定していたどの情動とも異なるその音に、見慣れたはずのパートナーの顔を見て――

 

「――っ?」

 

 彼女は――目を見開いていた。

 何故なら、彼女のパートナーは――高橋は――

 

 

 

 ――だばー……っと。

 大粒の涙を、流していたからだ。

 

 

 

「――え」

 

 それを認めて、今度はフェアリィが慌てふためく番だった。

 

「ち、ちょっと、トレーナーさん……!? なんで泣いて……!!」

「っ、ごめん、ごめんねっ……別に、変な意味はなくってっ……!」

 

 変な意味はない。奇妙な意図もない。

 ただ、ただ、彼女の境遇を改めて認識して、胸が締め付けられる感覚と同時に、涙腺が一気に緩んでいた。

 堰を切ったように涙が溢れ出る。

 自分のことではないはずなのに。少女の感じた痛みを考えると、共感の涙がこみあげて、止まらない……

 

「う、う~~……っ」

 

 大人げない声さえも漏れ出てくる始末。それでも、言葉を途切れさせてはいけない、という意識だけは捨てなかった。

 

「フェアリィ……」

 

 嗚咽交じりの声で、高橋は言った。

 

「あなたは……あなたは凄いよ」

 

 涙でぐちゃぐちゃの瞳を隠さず、臆せず真っ直ぐに向けて――

 

「普通ならやさぐれて、『普通』から外れても、おかしくないくらいなのにっ……」

 

 言った。

 

「……頑張ったね……」

 

 本当にここまで。

 よく、頑張ったね。

 

「……と」

 

 ――それは、フェアリィルナが、ずっと欲しかった言葉だった。

 高橋の過去と、フェアリィの過去。

 交わるはずのない二つが共鳴し、少女の目尻から、一粒の涙が滴る。

 

「トレーナーさん……」

「っ……」

 

 ようやく、高橋は涙を拭う。

 実際はほとんど拭われていないが、そんなことは気にしない。

 何かを心に決めた顔つきで、相棒を真っ直ぐに見つめる。

 

「……ねぇ、フェアリィ」

 

 紡がれた声は、驚くほど優しかった。

 

「あなたは……どうしたいの?」

「へ……?」

 

 フェアリィは、呆然と声を漏らす。

 どういう意味か分からない、如何にもそう言いたげだった。

 高橋は、彼女の手を、そっと握る。

 

「あなたは……いつでも逃げることが出来る。いつでも辞められる。ウマ娘の生き方は、ひとつだけじゃない……その力を利用して、別のたくさんの道を歩くことが出来る」

 

 今や、彼女らの生き方は、すっかり整備された。

 走ることが宿命づけられている彼女らではあるが、それを選ぶことまでもが、運命づけられているわけではない。

 選ぶことは出来るのだ――当人が、その気になってしまえば。

 

「でもあなたは……今でも辞めずに、諦めずに、ここで走って、藻掻き続けてる」

 

 これまでもそうだったように。

 今までがそうだったように。

 あなたは、逃げずに、困難に、立ち向かい続けている。

 

「なら……それは、どうして?」

 

 ならばそこには――

 相応の理由が、あるはずだった。

 

「あなたは、どうして……」

 

 どうして今も。

 走り続けているの? ――と。

 

「……そ」

 

 問いかけに、フェアリィは言葉に詰まった。

 

「それ……は……」

 

 これまでずっと、気に掛けていたことではあった。

 高橋の言う通りで――自分はいつでも、道を違えることが出来る。

 さっさと諦めて、別の世界へ踏み出すことが出来る。

 自分の別の可能性を、試すことが出来るはず――

 

 なのに、諦めていない。逃げ出していない。それって……認識はしていたけれど、真剣に考えたことってなかった。

 一体……どうして……なのだろう。

 

 

 

 ――両親に認められたいから?

でもその割に、ろくに連絡も取っていない。

 

 

 ――大金を手にしたいから?

いや、今までだって、多少なりお金はもらってるじゃないか。

 

 

 ――……みんなに、凄いって、言ってもらいたいから?

それは、たった今言われた。

それでも今、諦めたいと思ってるわけじゃない――

 

 

 

 今でもなお、しつこく、諦めたくないと思っている。

 

 きっとその本質は、もっと浅いところ。深いところじゃない。

 もっと、もっと、単純なところにあると思った。

 ねぇ、私って――今まで生きてきて、一番楽しかったのって、いつだったかな。

 

 物心つくかつかないか、ってくらいの、あの幼年期。

 そこから楽しさの空白が空いて。

 またしばらくして、何も考えずにいられるような時間を過ごせた。

 

 私にとって、精神の、心の安寧って、誰も疑わず、何も拒まず、ただ目の前の日々を、想いのままに過ごせていたことで――……

 

 ……――あぁ。そっか。

 私は――

 

 

 

 

 

 ただ、

 愛されたかった、

 だけだったんだ……

 

 

 

 

 

「……」

 

 あぁ、やっとわかった。

 

「…………」

 

 私はそれを、しっかり受け取っていたことを。

 

「………………」

 

 掛け値無しに、確かに、私を闇から救ってくれた人がいたことを。

 

「……………………っ」

 

 ――こんな願いは、自分勝手だけど。

 こんな想いは、我儘だけれど。

 それでも、まだ、きっと届くのなら。

 私は。

 私は――……

 

「……たい」

「……?」

 

 数分の無言の後、フェアリィはぼそりと言う。

 小首を傾げ、返した高橋に――顔を上げたフェアリィは。

 その目から、再びの涙の奔流を迸らせながら、

 

「――っ、」

 

 言った。

 

 

 

 

 

「……『あの子』と、

 同じ世界に、

 いたいよっ……!」

 

 

 

 

 

 ――そう。

 私も。

 あの子と、同じ場所で。

 

 ――ソードクレインという。

 唯一の親友と共に。

 同じように。

 笑っていたいんだ、って――

 

 

 

「……、」

 

 ――言えたじゃないか。

 と、高橋は満足げだった。

 一筋の光明が見える。

 底なしの深淵の、淵の淵――

 確かに――小さな手を、掴み取った。

 

「……だったら」

 

 高橋は言う。

 願いは確定した。

 だったら――だったら。

 

「だったら……やることは、ひとつだよ」

 

 フェアリィの手を握る手に、力が籠る。

 困惑の瞳と、真っ直ぐな瞳とがかち合う。

 それを安心させるように。包み込むように。自信に溢れた笑みを浮かべながら――

 

「――フェアリィ」

 

 言った。

 

 

 

「――芝を、

 走ろう!」

 

 

 

 

 

Uma-musume

泥に塗れた私たちへ

run into the mudness

 

結章

 

-move on-

 

 

 

*1
アルバート・アインシュタイン 『掛け算の逸話』

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