泥に塗れた私たちへ   作:Ray May

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永い眠りからの目覚め(後編)

 ――蚊に刺されたら、その上に爪で十字の痕をつけるといいんですよ! ……

 

 昔、親に教えてもらった迷信みたいな知識を、よく友だちにも流布していた。

 長らくあれは、身体がなんか特殊な作用で痒みを鎮めてくれてるんだ、とか思ってたけれど、後になって、痒みを上回る痛みで誤魔化しているだけだということを知った。

 

 耐え難い苦痛とか不快感とか、やり過ごす最も簡便な方法――それ以上の痛みで上書きすること。私がそこから見出した処世術は、もう一歩踏み込んでいるというか、更に陰湿なものだった。

 

 それが――最初から傷ついておいて、それ以上の傷に備える、というものだった。

 

 叶わない期待や希望は、相応の痛みと絶望に変わるだけだ。

 一方で、痛みと絶望は、希望と癒しに変わったとしても、自分にとってプラスでしかない。

 だから……何があってもいいように。どんなに傷ついても、いいように。最初から、自分で自分を貶めていたんだ――

 ……そしてそれは、レースにおいても同じだった。

 

 戦おうとする。

 立ち向かおうとする。

 けれど、それで失敗したらどうする? 望む結果にならなかったら、どうする?

 そんな恐れが、怯えが、いつだって、自分の脚を鈍らせてきたんだ。

 

 あの時も。

 あの時も。

 あの時も――

 

 そしてその想いは、今回も変わらずやって来た。

 

『……諦めよう』

 

 聞こえてくる。

 耳元で、他でもない自分の声が聞こえてくる。

 

『どうせまた同じになる 私なんかに勝てるわけがない……』

 

 囁いている。悪魔のように。

 紛れもない自分が……囁いている。

 

『思い通りにならなかったらどうする? また失敗したらどうする?』

 

『全力を出して 届かなかったら 今度こそどうにもならなくなる』

 

『そうだ わからないように そう見えるように 勝つ振りをして 負けてしまおう』

 

『どうせ何も変わらない――……』

 

「……」

 

 最初は、それに抵抗しようと思った。

 受け入れまいと、意志を強く持とうとした。

 けれど囁かれるごとに、聞くごとに。その意志さえも、無情に削ぎ落とされていく。

 

 あぁ……そうだ。

 何をこんなに必死になってるんだろう、私は。

 勝てなかったらどうする。負けたらどうする。その苦しみ、痛みに、私は耐えられるのか?

 

 ずっとそうしてきたじゃないか。ずっとそうやってきたじゃないか。今更敗北の辛酸に直面して、正気を保っていられるか?

 況してや――自分にとっての、全てを投げ打って。

 

 同じように、立っていられるのか?

 ……いや。立てるわけがない。

 

「…………」

 

 足から力が抜けていく。

 全身から、意志が漏れ出していく。

 恐怖に塗り潰された頭じゃ、もう、進むことは叶わなかった。

 

『  』

 

 そうだ……

 負けるのは怖い。失敗も怖い。そんな痛み、苦しみ……考えただけで、恐ろしい。

 

『 ――リィ―― 』

 

 そうだ。

 どうせ負けたって、死にはしないんだ。ほんのわずかな希望に縋るより、後ろ暗い絶望に寄り添ってもらった方がいい。

 

『――アリィ――……』

 

 諦めよう。

 辞めよう。

 ……終わろう。

 だって私は。

 だって、私は……弱いんだから。

 凡人なんだから。

 無能、なんだから。

 

『――フェアリィ――……』

 

 最弱、

 なんだから――……

 

『――!』

 

 

 

『フェアリィ!!』

 

 

 

「――……」

 

 その時。

 暗闇に包まれた視界に、一筋の光が見えた。

 優しい温もりの滲む感覚。

 凝り固まった心が、氷解していく。

 

「……」

 

 これまでに過ごした時間が、蘇ってくる。

『あの人』に教わった全てが、思い出される。

 まるでそれが、つい昨日聞いたことのように、鮮明に耳に聞こえた。

 

『無理じゃないッ!!』

 

『確かにあなたは最弱かもしれない、天才には敵わないかもしれない!』

 

『でもあなたは、それでも今まで諦めずに、こうして頑張ってきたでしょ!!』

 

『もし戦績が、結果が、世界が、あなたを弱いってバカにしても』

 

『あなたのその精神は、』

 

『間違いなく……『最強』だよ!!』……

 

 ……そうだ。

 信じてくれた人がいた。

 向き合ってくれた人がいた。

 自分なら出来る、きっとやり遂げられる、そう、一心に呼びかけてくれた人が……いた。

 

 根拠なんてなくても、確証なんてなくても。それは救いのように私を、深淵の底から引っ張り出してくれて……

 こうしてまた、戦場と向き合わせてくれたんだ。

 

「……」

 

 ……声は聞こえている。

 未だに、私に囁いている。

 

『無理だ』

 

『出来ない』

 

『辞めよう』

 

『傷つきたくない』

 

 靄のように私に纏わりついて、しつこく語り掛けてくる。

 

『終わろう』

 

『それがいい』

 

『一番いいんだ』

 

『安全な道を』

 

 さっきまでは、じわじわと私を蝕んでいたそれらの呼びかけは。

 打って変わって、私に滾る熱情を呼び起こし始めた。

 

『そうだ』

 

『どうせ私には』

 

『出来っこない――……』

 

 やがて私は。

 その感情に押されるまま――

 噛み潰すように歯軋りをして。

 

「――っ、」

 

 心の中で。

 囁く悪魔の胸ぐらを――掴んでいた。

 

「――だったら、」

 

 そして。

 自分の中の、積もり積もっていた感情を、熱情を。

 爆発させるように、言った。

 

 

 

「どうしていつまでも、

 私から離れないの?」

 

 

 

『――……』

 

 ……囁きが止まる。

 呼び声が途絶える。

 真っ暗な世界が、一瞬にして、静寂に包まれる。

 

 そうだった。

 その通りだった。

『彼女ら』は、私に執拗に話しかけてくる。

 いつまでも纏わりついて、しつこく追い縋ってくる。

 私には出来ない、だの。

 これ以上は無理だ、だの。

 諦めよう、だのと。

 

 ……でも、どうして着いてくるのだろう?

 どうして、いつまでも付き纏うんだろう。

 私には無理、出来ない、不可能だと確信を持っているのなら。

 さっさと私を見捨てて、どこへなりと消えてしまえばいいのに。

 

『……ぁ』

 

 そういう矛盾した行為は、無自覚の恐怖に煽られてるもんだ。

 確信を持っているはずなのに、わざわざ当人に呼びかけているのは――他ならない。

 私が。

 自分が。

 

「……成功するかもしれないって、恐れているからでしょう?」

 

 成功して、成し遂げて。

 今までとは違う誰かになることを――恐れているからだろう?

 

『ぁ、ぁ、……』

 

 だから囁くのだ。

 だから嘯くのだ。

 お前には出来ない、絶対に無理だ。ここで諦めた方がいい、辞めた方がいい……って。

 私が、最弱の落ちこぼれのままでいないと、否定されてしまうから。

 今までの自分が。自分のやって来たことが。

 積み重ねてきた、全ての日々が――

 意味のないものだったと、思い知らされてしまうから。

 

「……、」

 

 ……私だって、それを自覚している。

 今までの全てが否定されることが、どれだけ恐ろしいことかを知っている。

 

 わかっている。よくわかっている。

 でも――それでも、前に進むことの大事さを、あの人から、教わったんだ。

 

「……いいじゃん。失敗したって」

 

 私は言う。

 

「いいじゃん。傷ついたって、間違えたって!」

 

 私は言う。

 

「そうやって、転んで、失敗して、傷ついて――泥塗れになって、

 私たちは、前に、進んでいくんだ!」

 

 私は。

 私は。

 言う――……

 

「……行くよ。私は、この先に」

 

 立ち止まった過去の影の脇を通って、私は、未だ開けない闇の中に踏み出す。

 

「今度こそ、怖がったせいで……掴めるはずの未来を、逃すわけにはいかない」

 

 信じてくれる人のために。支えてくれる人のために。

 未だ見ぬ明日を――掴み取るために。

 

「……さようなら。大好きだったよ」

 

 前へと――進んだ。

 

「……私の……小さな悪魔さん」

『――ぁ』

 

 改めて、力を籠める。

 時の止まった精神の世界から、脱却を図る。

 だが――後ろ髪を引くように、『それ』は声を絞り出していた。

 

『――……』

 

 ……行かないで。

 

『――、――……』

 

 置いて行かないで、と。

 

「……」

 

 それを確かに聞いて……

 私は、思わず微笑む。

 

 ……大丈夫。

 行かないよ。どこにも。

 だって結局――あなたは私で、私もあなた。

 どれだけ走っても、どこまで行っても、自分からは逃れられない。

 

 月と太陽も。

 酸いも甘いも。

 裏も表も。

 

 光も。

 陰も。

 全部等しく抱えて、走ってやる――生きてやる。

 

 蟠りや突っかかりが解けて、何もかもが腑に落ちた気分だ。あぁ――

 ようやく私は、一つとしての『私』になれたような気がした。

 

 もう遠慮はいらない。

 躊躇もない。

 簡単なことだ――あとは、あとは走るだけ。

 望む結果を手にするために、一心に前へと進むだけだ。

 難しいことはない、深く考えることもない――だから。

 

 だから。

 だから――……

 

「――っ、」

 

 

 

 ――だから、応えろ、

『才能』――!!

 

 

 

 自分の中の眠れる能力、天性の才――そんなものの存在なんて、今まで信じたことなんてなかった。

 けれど、それだけじゃ説明できない事態も、現象も、今まで経験してきた――あれらだって全部、浮かれないように。裏切られないように。単なる偶然として片付けていたけれど。

 今なら、語り掛けることが出来る。

 

 ……オマエがそこにいることは知っている。

 遠いあの日、見た景色。感じた感覚。その全て。今でも私は忘れてはいない。

 いないならいないでいい。そこにないならないで、いい。でももしもそこにいるのなら。本当に私の中に潜んでいるのなら。その覚醒の時は今だ。

 

 勝利のために。

 未来のために。

 ――お願い。いるのなら、どうか。

 

 私に、

 力を貸して

 

 ……否。

 なんで、そんなに謙る必要がある。

 才能だろうが血統だろうが、私が今ここに立つ以上、そのあるじは他でもない私だ。

 持ち主が、能力に跪くことなんかない――冗談じゃない!

 

 優れた力だからって、傲慢に私を見下ろしてんじゃねぇ。

 そこにいるのなら。

 確かに潜んでいるのなら。

 私に。

 私に――!!

 

 

 

 

 

 力を、

 寄越せ――!!

 

 

 

 

 

「――ぉ、」

 

 闇の中へ駆け出す。

 

「ぉ、ぉ、ぉ、ぉ――!!」

 

 全速で、無我夢中で、走り出す。

 

「おぉぉぉぉぁぁぁぁぁッ!!」

 

 立ちはだかるそれを切り裂くように、心の底から咆哮した――……

 

 ――……その時だった。

 

「――……!!」

 

 漆黒に塗れていた視界が、突然に開ける。

 一転して、真っ白に染まった世界で――見覚えのある光景が広がる。

 

 光の筋が。

 向かう先へと、続いていた。

 

「――!!」

 

 それを見据えて、加速する。

 止まっていた時が動き出し、勝負の世界へ、少女は舞い戻っていた。

 

 

 

 ――フェアリィルナは。

 覚醒した。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

「――!!」

 

 レースの経過を見守っていたウインバリアシオンは、驚きに息を呑んでいた。

 レースは既に終盤に差し掛かり、最初で最後のコーナー。

 誰もが一歩でも前に出るための行動に出る中、フェアリィルナは、何かに思い悩むように、前へと進出しかねているようだった。

 判断を鈍らせているのは、躊躇か恐怖か。どちらにせよ、攻めあぐねる彼女を、勝負の舞台は待ってなどくれない。

 やはり、練習期間ひと月ほどの突貫工事では、無理があったか――と、シオンが複雑な心境に落胆した矢先。

 

 彼女が、突然に走り出したのだ。鎧を脱ぎ捨てたかのように。

 拘束を、振り払ったかのように。

 

「え、うそ……!!」

 

 その変貌ぶりに、キタサンブラックも声を上げる。

 彼女も今や、先のテーブル席ではなく、二人の背中越しにテレビ画面を見守っているが――脳裏をよぎるのは、あの大金星をあげた総武ステークスの様相だ。

 あの時もフェアリィルナは、失速から唐突な加速を経て、前へと繰り出し、あのホッコータルマエを破っていた。

 

 現状はそれと酷似していた――敢えて異なる点を挙げるとするならば。彼女の挙動だろうか。

 

 以前のそれは、それまでごく普通に走っていた彼女が、何かに取り憑かれたようなそれ――言ってしまえば、彼女自身も理屈を理解できていない、奇跡に近い現象のように見えたし――実際彼女も、何が起きたのかよくわかっていないみたいだった。だが今度は違う――

 

 彼女は今、明確な意思をもってそうしているように見える――それは夜明け。もしくは孵化。閉ざされた世界から、今ようやく這い出てきた――あの日不明瞭だった、『本当の彼女』の輪郭が、明瞭になる。隠されていた姿が露わになる。

 

 あぁ、これが――眠れる一人の少女の、覚醒した姿だった。

 

 ――フェアリィルナは走る、走る。

 観客らの熱狂をよそに、一心不乱に走っていく。

 このまま行けば、1着も夢ではないのではないか――そんな思いで、ウインバリアシオンはオルフェーヴルを見る。

 

 ――オルフェさん……!

 

 シオンの表情は、歓喜のそれだったが――

 しかし、当の暴君の目は据わっていた。

 

「……」

 

 超然とした佇まい。

 このような凄まじい現実を前にしてなお、彼女は冷静さを崩していない。

 それは狼狽とか、動揺とかではなく――

 言うなれば、確信に基づいているように見えた。

 

 あぁ、とシオンは納得し――

 同時に、わかりやすく浮かれた自分を、思わず恥じた。

 そうか――オルフェーヴルにとって、このような見物でさえ、予定調和に過ぎない。

 

 きっと、わかっていたのだ。

 全て、うまくいくということが。

 

 そもそも、彼女が手ずから指導したのだ。そんな事実を前置いておいて、上手くいかないなんて思わないはずがない。

 自分が寄り添ったのだから当然だ――この人なら、きっとそう言うだろう。

 ……いや、どうだろうか。本当は、もっと前からわかっていたのかも。

 シオンは、改めてテレビ画面を見て、そう考えた。

 

 ――あぁ。

 今ならわかる。オルフェーヴルが、あの日言った、あの言葉の意味が。

 オルフェさん――あなたには、『これ』が見えていたんですね、と。

 そう、今やシオンの目にも、画面越しながら、はっきりと見えていた。

 フェアリィルナの纏う、煌びやかな空気――

 

 黄金色の風が。

 

 

 

-◆◇◆-

 

 

 

 才能は目に見えないものだ。

 誰だって、一目対象を見たところで、持ちうる能力の全てを見抜くことなどできない。

 天才と称賛されるものでさえ、凡才と貶しめられるものでさえ、まずその判断から疑ってかからなければならないものだ――それと長い関わりを持っていないのであれば、なおさら。

 

 ホッコータルマエは、フェアリィルナを侮っていたわけではない。

 それは例のレースにて、敗北の辛酸を舐めたからということもあるが――

 そもそも、相手が誰であれ、そんな風に早計な判断を安直に下すような性格ではない。

 誰であろうが、どんな下バ評だろうが、全力で相手をする――彼女はそういう人物だ。

 ……尤も、それでも捨てきれなかった油断に足元を掬われ、あのような敗北を喫してしまったわけだが。

 

 ごくり、と固唾が喉を鳴らす。

 フェアリィルナが、これまで目立った活躍を出来ていなかったのは、彼女も知っていた。

 それでも、あの活躍を実体験として知っていた彼女は、きっといつしか盛り返すと信じて、陰ながらその努力を応援してきた。

 

『引き篭もり事件』の末――転向する、という話を聞いた時には、思わずギョッとしてしまったものだが――

 オルフェーヴルとの併走から、たまの空き時間に見た練習の様子は、何か、これまでと違うものを感じていた。

 

 雰囲気というか。

 空気感というか。

 

 今回のレースも、まさか何も出来ずに惨敗することはない、と信頼していた。

 だから、中盤までの振るわないレース展開にも、特に心配することはなかった。

 

 きっとやれるはず――そんな確信めいた思いと共に、冷静に勝負の行方を見守っていた。

 

 ……思いもしなかった。

 それだけ信じていたとはいえ――

 まさか、こんなものを見せつけられることになるなんて。

 

「『あの時』とまるっきり同じだねぇ」

 

 ワンダーアキュートは、変わらぬ声色で言う。

 

「長い夢から覚めたみたいだし、縛る何かを取り払ったみたいだ。それも今回のものは……()()()()とは、また少し違う」

「……違う?」

「以前のそれは、急にやってきた誰かに、無理やり引っ張られて、動揺しながらも、何とか走っているように、あたしには見えた。……けれど、今回のは、明らかに違うのさ」

 

 そうなのか? とタルマエは思わず疑問。アキュートの印象には概ね同意だったが、生憎と、そこまで鮮明な違和感は覚えてはいなかった。

 

「……共に走っている」

 

 彼女は続ける。

 

「あの子は今、とても軽やかに、楽しそうに、何者かと走っている。うぅん。複雑だねぇ。負けるかもしれない、失敗するかもしれない……でも勝てるかもしれない。上手くやれるかもしれない。正と負、善と悪、強さと弱さ――そういうものを、みんな引っくるめて走っている。中途半端だとか、どっちつかずだとか、人によっては、評価しそうだけれど……

 勝利の確信は、大胆な戦術をもたらし……敗北の予感は、冷静な判断力を与える。どちらにも与さない中道の……理想の戦い方さね。あとは地力がもっと着けば、はてさてどれだけ化けるか」

 

 レースは終盤だ。

 そこに来てのフェアリィの順位を見て、タルマエは言葉の意味を理解する。

 ……確かに、この状態に、盤石な地盤が備わったとなれば――

 とんでもない化け方をするかもしれない。同じように至った推測に、思わず身震いした。

 

「悔しいねぇ……」

 

 刹那――アキュートの声が、翳る。

 

「あたしも一度……()ってみたかったねぇ……」

 

 伏せぎみの瞼から覗く眼光は、少女然としながらも、老練とした鋭さを灯す。

 普段はおっとりのんびりとしていて、流行にも疎い『おばあちゃん』として親しまれる彼女だが――

 この気質は、全く衰えを知らないな、と、改めてタルマエは戦慄した。

 

 ――フェアリィルナは走る。ともあれ、眼前に伸びる、青々としたコースを。

 もはや周囲の状況も喧騒も、見えていないし聞こえてもいない。導きの光に従って、思いのままに走っていく。

 

 往く。

 アキュートの推測の通り、そこにあるのは、勝利への自信だけではなかった。

 

 また失敗するんじゃないだろうか。

 大敗するんじゃないだろうか。

 そんな恐怖も、同様につき纏う。

 

 だが拒絶などしない。

 見て見ぬ振りもしない。

 受け入れて、抱き抱えて、共に前へと進む。

 今まで自分は、長い長い悪夢を見ていたみたいだった。

 暗い、暗いトンネルを歩いているようだった。

 ……他に何もない荒野で、一人、立ち尽くしているようだった。

 

 だが今や、自分は一人ではない。

 これまでに得た暖かい繋がり、力強い応援。

 冷たい自嘲、後ろ暗い自虐――

 それら全部が、切っても切り離せない自分の一部だと考えると、孤独な勝負でさえ、なお温もりに輝いた。

 

 ――自分は一人ではない。一人になどなれない。

 何よりも強いその確信が、自分を恐怖から解き放っていた。

 

 ……行く。

 最後の直線、結果を左右する、最後の勝負を。

 全力で、全速で、全霊で、一心不乱に走って、走って、走って――

 

 そして至った。

 

「――っ!!」

 

 音が復帰する。

 それまで、遥か彼方に置き去りにされていた歓声が、舞い戻ってくる。

 限界まで走り抜けたフェアリィは、やがて立ち止まると、膝に手を突いて息を整え始めた。

 恐怖に似た緊張を感じながら、ゆっくりと、ターフビジョンへと目をやる。

 

 ……出来るだけのことはやった。

 打てるだけの手は打った。

 転向初の、重要な一戦──

 

「……」

 

 その、

 

「…………」

 

 結果は──

 

「………………」

 

 とうとう、順位を認識する。

 自分の背負う番号、それの表示されている位置は──

 

「……え」

 

 ……声を漏らしていた。

 それは……上から数えて、4番目の位置。

 彼女の順位は──

 

 4着、だった。

 

「……」

 

 思わず、言葉を失う。

 今回のレース、特別、目指す順位を示し合わせたわけではなかった。

 高橋の言を借りるなら、とにかく悔いのないようにやろう、ということだった。

 

 ある程度は彼女の言った通りに出来たとは思う。

 完全に悔いなくやれた、と言ったら嘘になるが、それでも、現状の自分に出せる全ては出したつもりだったのだ。

 ……だが、結果はこの順位。

 先頭どころか、二番手でさえない。

 示し合わせてはいなかったけれど。頼まれもしなかったけれど。

 

 ……勝たなければいけないところだった。

 一位を獲らなくちゃいけないところだったんだ――本当なら。

 

「……っ」

 

 込み上げてきた感情に、思わず奥歯を噛み締める。

 それは、彼女がこれまで、まともに感じたことのなかった感情だった。

 苛立ちにも似た、怒りにも近い、如何ともし難い激情。

 

 悔しさ、だった。

 

 やりきれなかった悔しさはなくとも。

 届かなかったことへの悔しさだ。

 畜生――普段は思いつきもしない、攻撃的な言葉が、口をついて飛び出してきそうになる――

 

「……!」

 

 瞬間、ハッと顔を上げる。

 落ち着いた感情に紛れて、聞き馴染んだ声が耳に入っていた。

 その出所を探して――そしてすぐに見つけた。

 ……観覧席の先頭。

 そこに、高橋の姿があった。

 

「……」

 

 名を呼ばれたことを理解した彼女は、とぼとぼ、という印象を与えないよう、努めて冷静に高橋の元へと歩み寄る。

 目の前までたどり着くも、自分を見る彼女の顔を、なんだかそうすることが罪深いことのような気がしてしまって、まともに見ることが出来ない。

 ただ息苦しくて、ただ気まずくて――顔を俯かせたまま。

 

「……トレーナーさん」

 

 心底申し訳なさそうな声色で、フェアリィは言った。

 

「――ごめんなさいっ」

 

 あれだけやってくれたのに。

 あれだけ努力したのに。

 結局――結果は振るわなかった。

 

「勝たなきゃいけないところだったのに。勝てるはずだったのに。私……勝てなかった」

 

 お互いの努力は、水疱に帰してしまった。

 

「4着なんかで……終わっちゃった」

 

 だから。

 だから……

 

「……ごめんなさい」

 

 フェアリィは、顔を上げることが出来なかった。

 

「ごめんなさい……」

「……フェアリィ」

 

 親に怒られている子。もしくは、教師に叱られている生徒。

 そうでなければ、裁判官に問い詰められている被告だろうか。

 何にしても、彼女の状態は芳しくなかった。ありふれた声かけでさえ、崩れ落ちさせてしまうに値する気がする。

 見れば誰もが気を使い、同情し、かといって気の利いた言葉も思いつかず、同じようにどんよりと、言葉に詰まってしまいそうだが――

 

「……」

 

 高橋は――しかし、違っていた。

 

「……な、」

 

 呆然と、言葉を紡ぐ。

 

「……何、言ってるの……?」

 

 まるで、フェアリィが全く現実と異なることを言っている、と言わんばかりの――それだった。

 だが、言うまでもなく、フェアリィの言っていることが、全く的外れなわけではない。

 見間違いでも、錯覚でもない。彼女は1着ではなく、4着でレースを終えたのだ――そして高橋も、その事実はしっかりと認識している。

 

 ならばなぜ、そのような言葉を口にするのかといえば――

 簡単だ。それが――高橋にとっては、悲観するほどのものではなかったからである。

 

「へ……?」

「い、いやいや! へ、じゃなくて!」

 

 どこか頓狂なフェアリィの声に、高橋は慌てながら、重ねて言った。

 

「た、確かにフェアリィは、1着じゃなかったけど! よく考えてよ、あたしたち、これ、転向して一戦目なんだよ? しかも、ろくに準備期間もなかったやつの! ぶっつけ本番みたいなレースで、中堅どころか、掲示板を外さずに走り切れるなんて――これ、すっごくすっごいことなんだよ!?」

「そ……そう、なんです、か……?」

 

 そうだよ、と高橋は熱弁するが、フェアリィがなんともわかりかねて呆然とするのは、まぁ、仕方のない話ではあった。

 

 彼女はこれまで、幾度となく、惨めな敗北を味わってきた。

 掲示板に入ることもあったが――それだって、これまでの膨大な勝負の母数に比べたら、ほんの一握りといったところ。

 いつまで経っても、『強い戦線』を経験出来ていなかった彼女からすれば――1着以外に価値などない、と悲観してしまうのは、当然なのだ。

 これまで、期待しないことで精神を守ってきたのなら、なおのこと。

 

「そうだよ、」

 

 だからこそ、高橋は同意をやめなかった。

 困惑の中、現実を受け入れきれていない彼女に、なんとか実感を持たせるために――言う。

 

「まだまだ時間はある。これはあたしたちにとっての、前哨戦。悲観することなんてない――むしろいい滑り出し!」

 

 自分の中に、想いと、『決意』を固めて――

 

「……あなたは」

 

 言った。

 

「あなたは……立派だよ」

「――……」

 

 それを聞いたフェアリィが目を丸くしたのは、その称賛が信じられなかったからではない。

 それが、ただの賞賛ではなく――それ以上の意味を持っていることを知っているからだ。

 自分はよくやった。焦ることも、悲観することもない。

 これからもっと、もっともっと頑張ればいい。

 自分は――

 立派。

 

「……なら」

 

 込み上げてくるものを飲み込んで、フェアリィは改めて高橋を見る。もうそこに、先ほどまでの、崩れ落ちそうな脆い瞳はない。

 声を受けて、言葉を受け取って――何かを、心に決めた瞳。

 表情。

 

「……なら……私、は……」

 

 彼女は、皆まで言わない。

 ただ、高橋もわかっていた。

 これから立ち向かうべき『壁』、向き合うべき『現実』――

 つけなければいけない、けじめ。

 

 判断を。覚悟を。しかと受け止めた高橋は、それを許すように――

 ひとつ、力強く、頷いた。

 

 さて、他方――

 

「……、すごい、レースだったね」

 

 シュヴァルグランは、結果を噛み締めるように言った。

 

「最初は、また上手くいかないんじゃないかって心配だったけど……杞憂だったみたい。良かった。これでやっと……あの子も、前に進めるね」

「……そうね」

「……」

 

 母のように優しいシュヴァルの声に、しかし、スイープはぼそりと返すだけ。素っ気ない、ともいえるその反応の所以を、彼女は良く知っていた。

 

「……、」

 

 くすり、と優しく微笑む。

 

「いいんだよ、泣きたいなら泣いて」

「はっ――はぁ!? な、泣いてないってのっ!」

「うん。そうだよね……ずっとあの子のこと、見てきたんだもの。感動するのも、当然だよね」

「だ、だから、違うってのーっ!」

 

 シュヴァルはもはや、彼女の激情に揺らがない。むしろそれを楽しむかのように、うんうん、と頷くばかりだった。

 

 そして――

 

「……」

 

 観客席、後方。

 同じように、レースの結果を見届けたその少女もまた。

 流れるような黒髪を翻して、会場を後にしていた。

 

 熱狂冷めやらぬまま――

 フェアリィたちの初陣は、そうして、上々の滑り出しにて、幕を閉じていた。

 

 

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