――蚊に刺されたら、その上に爪で十字の痕をつけるといいんですよ! ……
昔、親に教えてもらった迷信みたいな知識を、よく友だちにも流布していた。
長らくあれは、身体がなんか特殊な作用で痒みを鎮めてくれてるんだ、とか思ってたけれど、後になって、痒みを上回る痛みで誤魔化しているだけだということを知った。
耐え難い苦痛とか不快感とか、やり過ごす最も簡便な方法――それ以上の痛みで上書きすること。私がそこから見出した処世術は、もう一歩踏み込んでいるというか、更に陰湿なものだった。
それが――最初から傷ついておいて、それ以上の傷に備える、というものだった。
叶わない期待や希望は、相応の痛みと絶望に変わるだけだ。
一方で、痛みと絶望は、希望と癒しに変わったとしても、自分にとってプラスでしかない。
だから……何があってもいいように。どんなに傷ついても、いいように。最初から、自分で自分を貶めていたんだ――
……そしてそれは、レースにおいても同じだった。
戦おうとする。
立ち向かおうとする。
けれど、それで失敗したらどうする? 望む結果にならなかったら、どうする?
そんな恐れが、怯えが、いつだって、自分の脚を鈍らせてきたんだ。
あの時も。
あの時も。
あの時も――
そしてその想いは、今回も変わらずやって来た。
『……諦めよう』
聞こえてくる。
耳元で、他でもない自分の声が聞こえてくる。
『どうせまた同じになる 私なんかに勝てるわけがない……』
囁いている。悪魔のように。
紛れもない自分が……囁いている。
『思い通りにならなかったらどうする? また失敗したらどうする?』
『全力を出して 届かなかったら 今度こそどうにもならなくなる』
『そうだ わからないように そう見えるように 勝つ振りをして 負けてしまおう』
「……」
最初は、それに抵抗しようと思った。
受け入れまいと、意志を強く持とうとした。
けれど囁かれるごとに、聞くごとに。その意志さえも、無情に削ぎ落とされていく。
あぁ……そうだ。
何をこんなに必死になってるんだろう、私は。
勝てなかったらどうする。負けたらどうする。その苦しみ、痛みに、私は耐えられるのか?
ずっとそうしてきたじゃないか。ずっとそうやってきたじゃないか。今更敗北の辛酸に直面して、正気を保っていられるか?
況してや――自分にとっての、全てを投げ打って。
同じように、立っていられるのか?
……いや。立てるわけがない。
「…………」
足から力が抜けていく。
全身から、意志が漏れ出していく。
恐怖に塗り潰された頭じゃ、もう、進むことは叶わなかった。
『 』
そうだ……
負けるのは怖い。失敗も怖い。そんな痛み、苦しみ……考えただけで、恐ろしい。
『 ――リィ―― 』
そうだ。
どうせ負けたって、死にはしないんだ。ほんのわずかな希望に縋るより、後ろ暗い絶望に寄り添ってもらった方がいい。
『――アリィ――……』
諦めよう。
辞めよう。
……終わろう。
だって私は。
だって、私は……弱いんだから。
凡人なんだから。
無能、なんだから。
『――フェアリィ――……』
最弱、
なんだから――……
『――!』
『フェアリィ!!』
「――……」
その時。
暗闇に包まれた視界に、一筋の光が見えた。
優しい温もりの滲む感覚。
凝り固まった心が、氷解していく。
「……」
これまでに過ごした時間が、蘇ってくる。
『あの人』に教わった全てが、思い出される。
まるでそれが、つい昨日聞いたことのように、鮮明に耳に聞こえた。
『無理じゃないッ!!』
『確かにあなたは最弱かもしれない、天才には敵わないかもしれない!』
『でもあなたは、それでも今まで諦めずに、こうして頑張ってきたでしょ!!』
『もし戦績が、結果が、世界が、あなたを弱いってバカにしても』
『あなたのその精神は、』
『間違いなく……『最強』だよ!!』……
……そうだ。
信じてくれた人がいた。
向き合ってくれた人がいた。
自分なら出来る、きっとやり遂げられる、そう、一心に呼びかけてくれた人が……いた。
根拠なんてなくても、確証なんてなくても。それは救いのように私を、深淵の底から引っ張り出してくれて……
こうしてまた、戦場と向き合わせてくれたんだ。
「……」
……声は聞こえている。
未だに、私に囁いている。
『無理だ』
『出来ない』
『辞めよう』
『傷つきたくない』
靄のように私に纏わりついて、しつこく語り掛けてくる。
『終わろう』
『それがいい』
『一番いいんだ』
『安全な道を』
さっきまでは、じわじわと私を蝕んでいたそれらの呼びかけは。
打って変わって、私に滾る熱情を呼び起こし始めた。
『そうだ』
『どうせ私には』
『出来っこない――……』
やがて私は。
その感情に押されるまま――
噛み潰すように歯軋りをして。
「――っ、」
心の中で。
囁く悪魔の胸ぐらを――掴んでいた。
「――だったら、」
そして。
自分の中の、積もり積もっていた感情を、熱情を。
爆発させるように、言った。
「どうしていつまでも、
私から離れないの?」
『――……』
……囁きが止まる。
呼び声が途絶える。
真っ暗な世界が、一瞬にして、静寂に包まれる。
そうだった。
その通りだった。
『彼女ら』は、私に執拗に話しかけてくる。
いつまでも纏わりついて、しつこく追い縋ってくる。
私には出来ない、だの。
これ以上は無理だ、だの。
諦めよう、だのと。
……でも、どうして着いてくるのだろう?
どうして、いつまでも付き纏うんだろう。
私には無理、出来ない、不可能だと確信を持っているのなら。
さっさと私を見捨てて、どこへなりと消えてしまえばいいのに。
『……ぁ』
そういう矛盾した行為は、無自覚の恐怖に煽られてるもんだ。
確信を持っているはずなのに、わざわざ当人に呼びかけているのは――他ならない。
私が。
自分が。
「……成功するかもしれないって、恐れているからでしょう?」
成功して、成し遂げて。
今までとは違う誰かになることを――恐れているからだろう?
『ぁ、ぁ、……』
だから囁くのだ。
だから嘯くのだ。
お前には出来ない、絶対に無理だ。ここで諦めた方がいい、辞めた方がいい……って。
私が、最弱の落ちこぼれのままでいないと、否定されてしまうから。
今までの自分が。自分のやって来たことが。
積み重ねてきた、全ての日々が――
意味のないものだったと、思い知らされてしまうから。
「……、」
……私だって、それを自覚している。
今までの全てが否定されることが、どれだけ恐ろしいことかを知っている。
わかっている。よくわかっている。
でも――それでも、前に進むことの大事さを、あの人から、教わったんだ。
「……いいじゃん。失敗したって」
私は言う。
「いいじゃん。傷ついたって、間違えたって!」
私は言う。
「そうやって、転んで、失敗して、傷ついて――泥塗れになって、
私たちは、前に、進んでいくんだ!」
私は。
私は。
言う――……
「……行くよ。私は、この先に」
立ち止まった過去の影の脇を通って、私は、未だ開けない闇の中に踏み出す。
「今度こそ、怖がったせいで……掴めるはずの未来を、逃すわけにはいかない」
信じてくれる人のために。支えてくれる人のために。
未だ見ぬ明日を――掴み取るために。
「……さようなら。大好きだったよ」
前へと――進んだ。
「……私の……小さな悪魔さん」
『――ぁ』
改めて、力を籠める。
時の止まった精神の世界から、脱却を図る。
だが――後ろ髪を引くように、『それ』は声を絞り出していた。
『――……』
……行かないで。
『――、――……』
置いて行かないで、と。
「……」
それを確かに聞いて……
私は、思わず微笑む。
……大丈夫。
行かないよ。どこにも。
だって結局――あなたは私で、私もあなた。
どれだけ走っても、どこまで行っても、自分からは逃れられない。
月と太陽も。
酸いも甘いも。
裏も表も。
光も。
陰も。
全部等しく抱えて、走ってやる――生きてやる。
蟠りや突っかかりが解けて、何もかもが腑に落ちた気分だ。あぁ――
ようやく私は、一つとしての『私』になれたような気がした。
もう遠慮はいらない。
躊躇もない。
簡単なことだ――あとは、あとは走るだけ。
望む結果を手にするために、一心に前へと進むだけだ。
難しいことはない、深く考えることもない――だから。
だから。
だから――……
「――っ、」
――だから、応えろ、
『才能』――!!
自分の中の眠れる能力、天性の才――そんなものの存在なんて、今まで信じたことなんてなかった。
けれど、それだけじゃ説明できない事態も、現象も、今まで経験してきた――あれらだって全部、浮かれないように。裏切られないように。単なる偶然として片付けていたけれど。
今なら、語り掛けることが出来る。
……オマエがそこにいることは知っている。
遠いあの日、見た景色。感じた感覚。その全て。今でも私は忘れてはいない。
いないならいないでいい。そこにないならないで、いい。でももしもそこにいるのなら。本当に私の中に潜んでいるのなら。その覚醒の時は今だ。
勝利のために。
未来のために。
――お願い。いるのなら、どうか。
私に、
力を貸して
……否。
なんで、そんなに謙る必要がある。
才能だろうが血統だろうが、私が今ここに立つ以上、そのあるじは他でもない私だ。
持ち主が、能力に跪くことなんかない――冗談じゃない!
優れた力だからって、傲慢に私を見下ろしてんじゃねぇ。
そこにいるのなら。
確かに潜んでいるのなら。
私に。
私に――!!
力を、
寄越せ――!!
「――ぉ、」
闇の中へ駆け出す。
「ぉ、ぉ、ぉ、ぉ――!!」
全速で、無我夢中で、走り出す。
「おぉぉぉぉぁぁぁぁぁッ!!」
立ちはだかるそれを切り裂くように、心の底から咆哮した――……
――……その時だった。
「――……!!」
漆黒に塗れていた視界が、突然に開ける。
一転して、真っ白に染まった世界で――見覚えのある光景が広がる。
光の筋が。
向かう先へと、続いていた。
「――!!」
それを見据えて、加速する。
止まっていた時が動き出し、勝負の世界へ、少女は舞い戻っていた。
――フェアリィルナは。
覚醒した。
「――!!」
レースの経過を見守っていたウインバリアシオンは、驚きに息を呑んでいた。
レースは既に終盤に差し掛かり、最初で最後のコーナー。
誰もが一歩でも前に出るための行動に出る中、フェアリィルナは、何かに思い悩むように、前へと進出しかねているようだった。
判断を鈍らせているのは、躊躇か恐怖か。どちらにせよ、攻めあぐねる彼女を、勝負の舞台は待ってなどくれない。
やはり、練習期間ひと月ほどの突貫工事では、無理があったか――と、シオンが複雑な心境に落胆した矢先。
彼女が、突然に走り出したのだ。鎧を脱ぎ捨てたかのように。
拘束を、振り払ったかのように。
「え、うそ……!!」
その変貌ぶりに、キタサンブラックも声を上げる。
彼女も今や、先のテーブル席ではなく、二人の背中越しにテレビ画面を見守っているが――脳裏をよぎるのは、あの大金星をあげた総武ステークスの様相だ。
あの時もフェアリィルナは、失速から唐突な加速を経て、前へと繰り出し、あのホッコータルマエを破っていた。
現状はそれと酷似していた――敢えて異なる点を挙げるとするならば。彼女の挙動だろうか。
以前のそれは、それまでごく普通に走っていた彼女が、何かに取り憑かれたようなそれ――言ってしまえば、彼女自身も理屈を理解できていない、奇跡に近い現象のように見えたし――実際彼女も、何が起きたのかよくわかっていないみたいだった。だが今度は違う――
彼女は今、明確な意思をもってそうしているように見える――それは夜明け。もしくは孵化。閉ざされた世界から、今ようやく這い出てきた――あの日不明瞭だった、『本当の彼女』の輪郭が、明瞭になる。隠されていた姿が露わになる。
あぁ、これが――眠れる一人の少女の、覚醒した姿だった。
――フェアリィルナは走る、走る。
観客らの熱狂をよそに、一心不乱に走っていく。
このまま行けば、1着も夢ではないのではないか――そんな思いで、ウインバリアシオンはオルフェーヴルを見る。
――オルフェさん……!
シオンの表情は、歓喜のそれだったが――
しかし、当の暴君の目は据わっていた。
「……」
超然とした佇まい。
このような凄まじい現実を前にしてなお、彼女は冷静さを崩していない。
それは狼狽とか、動揺とかではなく――
言うなれば、確信に基づいているように見えた。
あぁ、とシオンは納得し――
同時に、わかりやすく浮かれた自分を、思わず恥じた。
そうか――オルフェーヴルにとって、このような見物でさえ、予定調和に過ぎない。
きっと、わかっていたのだ。
全て、うまくいくということが。
そもそも、彼女が手ずから指導したのだ。そんな事実を前置いておいて、上手くいかないなんて思わないはずがない。
自分が寄り添ったのだから当然だ――この人なら、きっとそう言うだろう。
……いや、どうだろうか。本当は、もっと前からわかっていたのかも。
シオンは、改めてテレビ画面を見て、そう考えた。
――あぁ。
今ならわかる。オルフェーヴルが、あの日言った、あの言葉の意味が。
オルフェさん――あなたには、『これ』が見えていたんですね、と。
そう、今やシオンの目にも、画面越しながら、はっきりと見えていた。
フェアリィルナの纏う、煌びやかな空気――
黄金色の風が。
才能は目に見えないものだ。
誰だって、一目対象を見たところで、持ちうる能力の全てを見抜くことなどできない。
天才と称賛されるものでさえ、凡才と貶しめられるものでさえ、まずその判断から疑ってかからなければならないものだ――それと長い関わりを持っていないのであれば、なおさら。
ホッコータルマエは、フェアリィルナを侮っていたわけではない。
それは例のレースにて、敗北の辛酸を舐めたからということもあるが――
そもそも、相手が誰であれ、そんな風に早計な判断を安直に下すような性格ではない。
誰であろうが、どんな下バ評だろうが、全力で相手をする――彼女はそういう人物だ。
……尤も、それでも捨てきれなかった油断に足元を掬われ、あのような敗北を喫してしまったわけだが。
ごくり、と固唾が喉を鳴らす。
フェアリィルナが、これまで目立った活躍を出来ていなかったのは、彼女も知っていた。
それでも、あの活躍を実体験として知っていた彼女は、きっといつしか盛り返すと信じて、陰ながらその努力を応援してきた。
『引き篭もり事件』の末――転向する、という話を聞いた時には、思わずギョッとしてしまったものだが――
オルフェーヴルとの併走から、たまの空き時間に見た練習の様子は、何か、これまでと違うものを感じていた。
雰囲気というか。
空気感というか。
今回のレースも、まさか何も出来ずに惨敗することはない、と信頼していた。
だから、中盤までの振るわないレース展開にも、特に心配することはなかった。
きっとやれるはず――そんな確信めいた思いと共に、冷静に勝負の行方を見守っていた。
……思いもしなかった。
それだけ信じていたとはいえ――
まさか、こんなものを見せつけられることになるなんて。
「『あの時』とまるっきり同じだねぇ」
ワンダーアキュートは、変わらぬ声色で言う。
「長い夢から覚めたみたいだし、縛る何かを取り払ったみたいだ。それも今回のものは……
「……違う?」
「以前のそれは、急にやってきた誰かに、無理やり引っ張られて、動揺しながらも、何とか走っているように、あたしには見えた。……けれど、今回のは、明らかに違うのさ」
そうなのか? とタルマエは思わず疑問。アキュートの印象には概ね同意だったが、生憎と、そこまで鮮明な違和感は覚えてはいなかった。
「……共に走っている」
彼女は続ける。
「あの子は今、とても軽やかに、楽しそうに、何者かと走っている。うぅん。複雑だねぇ。負けるかもしれない、失敗するかもしれない……でも勝てるかもしれない。上手くやれるかもしれない。正と負、善と悪、強さと弱さ――そういうものを、みんな引っくるめて走っている。中途半端だとか、どっちつかずだとか、人によっては、評価しそうだけれど……
勝利の確信は、大胆な戦術をもたらし……敗北の予感は、冷静な判断力を与える。どちらにも与さない中道の……理想の戦い方さね。あとは地力がもっと着けば、はてさてどれだけ化けるか」
レースは終盤だ。
そこに来てのフェアリィの順位を見て、タルマエは言葉の意味を理解する。
……確かに、この状態に、盤石な地盤が備わったとなれば――
とんでもない化け方をするかもしれない。同じように至った推測に、思わず身震いした。
「悔しいねぇ……」
刹那――アキュートの声が、翳る。
「あたしも一度……
伏せぎみの瞼から覗く眼光は、少女然としながらも、老練とした鋭さを灯す。
普段はおっとりのんびりとしていて、流行にも疎い『おばあちゃん』として親しまれる彼女だが――
この気質は、全く衰えを知らないな、と、改めてタルマエは戦慄した。
――フェアリィルナは走る。ともあれ、眼前に伸びる、青々としたコースを。
もはや周囲の状況も喧騒も、見えていないし聞こえてもいない。導きの光に従って、思いのままに走っていく。
往く。
アキュートの推測の通り、そこにあるのは、勝利への自信だけではなかった。
また失敗するんじゃないだろうか。
大敗するんじゃないだろうか。
そんな恐怖も、同様につき纏う。
だが拒絶などしない。
見て見ぬ振りもしない。
受け入れて、抱き抱えて、共に前へと進む。
今まで自分は、長い長い悪夢を見ていたみたいだった。
暗い、暗いトンネルを歩いているようだった。
……他に何もない荒野で、一人、立ち尽くしているようだった。
だが今や、自分は一人ではない。
これまでに得た暖かい繋がり、力強い応援。
冷たい自嘲、後ろ暗い自虐――
それら全部が、切っても切り離せない自分の一部だと考えると、孤独な勝負でさえ、なお温もりに輝いた。
――自分は一人ではない。一人になどなれない。
何よりも強いその確信が、自分を恐怖から解き放っていた。
……行く。
最後の直線、結果を左右する、最後の勝負を。
全力で、全速で、全霊で、一心不乱に走って、走って、走って――
そして至った。
「――っ!!」
音が復帰する。
それまで、遥か彼方に置き去りにされていた歓声が、舞い戻ってくる。
限界まで走り抜けたフェアリィは、やがて立ち止まると、膝に手を突いて息を整え始めた。
恐怖に似た緊張を感じながら、ゆっくりと、ターフビジョンへと目をやる。
……出来るだけのことはやった。
打てるだけの手は打った。
転向初の、重要な一戦──
「……」
その、
「…………」
結果は──
「………………」
とうとう、順位を認識する。
自分の背負う番号、それの表示されている位置は──
「……え」
……声を漏らしていた。
それは……上から数えて、4番目の位置。
彼女の順位は──
4着、だった。
「……」
思わず、言葉を失う。
今回のレース、特別、目指す順位を示し合わせたわけではなかった。
高橋の言を借りるなら、とにかく悔いのないようにやろう、ということだった。
ある程度は彼女の言った通りに出来たとは思う。
完全に悔いなくやれた、と言ったら嘘になるが、それでも、現状の自分に出せる全ては出したつもりだったのだ。
……だが、結果はこの順位。
先頭どころか、二番手でさえない。
示し合わせてはいなかったけれど。頼まれもしなかったけれど。
……勝たなければいけないところだった。
一位を獲らなくちゃいけないところだったんだ――本当なら。
「……っ」
込み上げてきた感情に、思わず奥歯を噛み締める。
それは、彼女がこれまで、まともに感じたことのなかった感情だった。
苛立ちにも似た、怒りにも近い、如何ともし難い激情。
悔しさ、だった。
やりきれなかった悔しさはなくとも。
届かなかったことへの悔しさだ。
畜生――普段は思いつきもしない、攻撃的な言葉が、口をついて飛び出してきそうになる――
「……!」
瞬間、ハッと顔を上げる。
落ち着いた感情に紛れて、聞き馴染んだ声が耳に入っていた。
その出所を探して――そしてすぐに見つけた。
……観覧席の先頭。
そこに、高橋の姿があった。
「……」
名を呼ばれたことを理解した彼女は、とぼとぼ、という印象を与えないよう、努めて冷静に高橋の元へと歩み寄る。
目の前までたどり着くも、自分を見る彼女の顔を、なんだかそうすることが罪深いことのような気がしてしまって、まともに見ることが出来ない。
ただ息苦しくて、ただ気まずくて――顔を俯かせたまま。
「……トレーナーさん」
心底申し訳なさそうな声色で、フェアリィは言った。
「――ごめんなさいっ」
あれだけやってくれたのに。
あれだけ努力したのに。
結局――結果は振るわなかった。
「勝たなきゃいけないところだったのに。勝てるはずだったのに。私……勝てなかった」
お互いの努力は、水疱に帰してしまった。
「4着なんかで……終わっちゃった」
だから。
だから……
「……ごめんなさい」
フェアリィは、顔を上げることが出来なかった。
「ごめんなさい……」
「……フェアリィ」
親に怒られている子。もしくは、教師に叱られている生徒。
そうでなければ、裁判官に問い詰められている被告だろうか。
何にしても、彼女の状態は芳しくなかった。ありふれた声かけでさえ、崩れ落ちさせてしまうに値する気がする。
見れば誰もが気を使い、同情し、かといって気の利いた言葉も思いつかず、同じようにどんよりと、言葉に詰まってしまいそうだが――
「……」
高橋は――しかし、違っていた。
「……な、」
呆然と、言葉を紡ぐ。
「……何、言ってるの……?」
まるで、フェアリィが全く現実と異なることを言っている、と言わんばかりの――それだった。
だが、言うまでもなく、フェアリィの言っていることが、全く的外れなわけではない。
見間違いでも、錯覚でもない。彼女は1着ではなく、4着でレースを終えたのだ――そして高橋も、その事実はしっかりと認識している。
ならばなぜ、そのような言葉を口にするのかといえば――
簡単だ。それが――高橋にとっては、悲観するほどのものではなかったからである。
「へ……?」
「い、いやいや! へ、じゃなくて!」
どこか頓狂なフェアリィの声に、高橋は慌てながら、重ねて言った。
「た、確かにフェアリィは、1着じゃなかったけど! よく考えてよ、あたしたち、これ、転向して一戦目なんだよ? しかも、ろくに準備期間もなかったやつの! ぶっつけ本番みたいなレースで、中堅どころか、掲示板を外さずに走り切れるなんて――これ、すっごくすっごいことなんだよ!?」
「そ……そう、なんです、か……?」
そうだよ、と高橋は熱弁するが、フェアリィがなんともわかりかねて呆然とするのは、まぁ、仕方のない話ではあった。
彼女はこれまで、幾度となく、惨めな敗北を味わってきた。
掲示板に入ることもあったが――それだって、これまでの膨大な勝負の母数に比べたら、ほんの一握りといったところ。
いつまで経っても、『強い戦線』を経験出来ていなかった彼女からすれば――1着以外に価値などない、と悲観してしまうのは、当然なのだ。
これまで、期待しないことで精神を守ってきたのなら、なおのこと。
「そうだよ、」
だからこそ、高橋は同意をやめなかった。
困惑の中、現実を受け入れきれていない彼女に、なんとか実感を持たせるために――言う。
「まだまだ時間はある。これはあたしたちにとっての、前哨戦。悲観することなんてない――むしろいい滑り出し!」
自分の中に、想いと、『決意』を固めて――
「……あなたは」
言った。
「あなたは……立派だよ」
「――……」
それを聞いたフェアリィが目を丸くしたのは、その称賛が信じられなかったからではない。
それが、ただの賞賛ではなく――それ以上の意味を持っていることを知っているからだ。
自分はよくやった。焦ることも、悲観することもない。
これからもっと、もっともっと頑張ればいい。
自分は――
立派。
「……なら」
込み上げてくるものを飲み込んで、フェアリィは改めて高橋を見る。もうそこに、先ほどまでの、崩れ落ちそうな脆い瞳はない。
声を受けて、言葉を受け取って――何かを、心に決めた瞳。
表情。
「……なら……私、は……」
彼女は、皆まで言わない。
ただ、高橋もわかっていた。
これから立ち向かうべき『壁』、向き合うべき『現実』――
つけなければいけない、けじめ。
判断を。覚悟を。しかと受け止めた高橋は、それを許すように――
ひとつ、力強く、頷いた。
さて、他方――
「……、すごい、レースだったね」
シュヴァルグランは、結果を噛み締めるように言った。
「最初は、また上手くいかないんじゃないかって心配だったけど……杞憂だったみたい。良かった。これでやっと……あの子も、前に進めるね」
「……そうね」
「……」
母のように優しいシュヴァルの声に、しかし、スイープはぼそりと返すだけ。素っ気ない、ともいえるその反応の所以を、彼女は良く知っていた。
「……、」
くすり、と優しく微笑む。
「いいんだよ、泣きたいなら泣いて」
「はっ――はぁ!? な、泣いてないってのっ!」
「うん。そうだよね……ずっとあの子のこと、見てきたんだもの。感動するのも、当然だよね」
「だ、だから、違うってのーっ!」
シュヴァルはもはや、彼女の激情に揺らがない。むしろそれを楽しむかのように、うんうん、と頷くばかりだった。
そして――
「……」
観客席、後方。
同じように、レースの結果を見届けたその少女もまた。
流れるような黒髪を翻して、会場を後にしていた。
熱狂冷めやらぬまま――
フェアリィたちの初陣は、そうして、上々の滑り出しにて、幕を閉じていた。