すっかり見慣れたはずのその扉に、まさかここまでの威圧を感じる日が来るとは、思っていなかった。
身体は依然として硬く、指先一本動かすのにも、大な労力を要する。
況してや腕を上げ、扉を開けるなんて動作が、出来るようには思えない。
けれど、こうして今日、ようやくここまで来たのだ。今更、尻尾を巻いて逃げ出すわけにもいかない。
だから、目を閉じて思い描くのは、ここに至るまでにあった出来事だ。
焦燥に似た恐怖に駆られた心が、落ち着いていく。
記憶が蘇って、私の背を、そっと押してくれる。……
両親への報告は、思っていたよりも滞りなく済んでいた。
「え……一度も……?」
絶句するトレーナーさんに、私は躊躇いがちに頷く。
進学してからこっち……二年にも及ぶ間、ろくすっぽ連絡しないばかりか、一度たりとも帰省しなかったっていうんだから当然だ。
いや、話したくなかったわけじゃない。実際何度も、今日こそは! と決心したんだ! でもそのたびに、喜ばれないんじゃないか、褒められもしないんじゃないか、というちっぽけな自尊心じみた恐怖心に追い立てられてしまって……
……ずるずると、今日まで引きずってしまったわけだ。
「……あはは。まぁ、そんなこともあるよね」
トレーナーさんは肯定してくれるけれど、その笑顔はわかりやすく引き攣っている。申し訳なくなる気持ちと、不器用な優しさへの感謝の気持ちとが、綯交ぜになった。
「大丈夫大丈夫、そんなにビビることないよ」
気まずそうな表情を顔から追い払って、トレーナーさんは言う。
「親御さんなら、きっと娘の成功を、祝福してくれるから」
本当だろうか、とまず真っ先に感じてしまったことは、私の現状の性格を如実に表していたことと思う。
もやもやと曇天のような不安を抱えながら、迎えた報告の日の当日。
トレーナーさん自前のパソコン画面に映った両親は――いかにも嬉しそうに反応してくれていた。
凄いじゃない、と。
頑張ったのね、と――
拍子抜け――というと誤解を招くけれど、準備と覚悟の割に行き当たった現実は、とてもあっさりとしていた。
トレーナーさんは言う。
「ね、大丈夫だったでしょ?」
……私はそれに、また後ろめたさと安心感とが混ざり合った、複雑な感情を抱きながら、頷きを返した。
そうして、私の中の、大きな山のひとつは越えられた。
一時は、肩の荷を下ろした解放感を覚える。
でももう一息置いて、覚悟を新たにしたのだ。私がすべきことは――まだあったから。
そう――私の唯一無二の親友。
……クレインさんにも、謝らないといけなかったから。
結局、寮室が別れてから――それこそ一度たりとも、彼女とは話せていない。
教室が同じではあるんだけど、気まずいというか、なんというか……触れようとしても、話しかけるな、と言外に拒絶されているような気がしてしまって、
あるいは、話しかけた先で、痛ましい現実を目の当たりにしてしまうんじゃないか、と思ってしまって。
まともに声を掛けられず――今日まで至ってしまったのである。
このままじゃいけない、と思い直したのだ。クレインさんは、私を受け入れてくれるかもしれないけれど。
今のままで許してもらえても、きっと私は、似たような過ちを繰り返してしまうかもしれない、と。
……だから決めたんだ。私がもし……東風ステークスで結果を出して、胸を張れるような――『立派なウマ娘』になれたのなら。
その時は……
クレインさんと、改めて話をするんだって。
そしてその確証は、トレーナーさんによって齎された。
あなたは立派だよ、と、あの人は……評価してくれた。
「……」
だから……今日。
今この瞬間、いよいよ、クレインさんと話をしようと。
寮室、私の――私たちの、元・寮室を、訪ねようとしている。
「…………」
訊ねようと。
しているん、だけど……
「……っ……」
――あぁ、もう。
怖いなぁ──すっごく怖い!!
こうして、元気になれるはずの記憶を思い返してみても、恐怖心はなかなか消え去ってくれない。それどころか、前向きな記憶のために、その輪郭が更に明瞭になったように感じられるくらいだ。
今日はやめた方がいいんじゃないか、逃げた方がいいんじゃないか──とすら、考え始めてしまう。
……でもきっと、ここで逃げ出しても、また理由を付けて逃げてしまうだけだろう。帰省の件が、そうだったように……
そしてまた訪れては逃げて、訪れては逃げて、を繰り返して……
何も解決しないまま、別れの日を迎えるだけだろう。
私は、クレインさんと仲直りがしたい。
ちゃんと話し合って、本当の意味での友だちになりたい。
こんな、何もかも中途半端なままで、関係が終わってしまうのなんて嫌だ。
だから──だから。怖くても、恐ろしくても、前に進むんだ、私──!!
「……、」
逡巡の中で、どれくらい時間が経ったんだろう。
大きく息を吸い、深く吐いた。恐怖は消えてないけれど。悪魔は立ち去ってないけれど。その執拗な囁きと拘束とを、精一杯に振り払って。
私は。
とうとう。
ドアノブに手をかけ。右に捻り。
ゆっくりと。
開け放った──
クレインさんと、鉢合わせていた。
「……」
「……」
……まぁそうは言っても、扉を開けた瞬間に会ったわけじゃない。
扉を開け、少し中に入った時、ちょうどこちら側に歩いてきていたのだろう彼女と、ばったり行き会ったのだ。
私の訪問など予期していなかったのだろう彼女は、目を丸くしている。
いつもと変わらない、凛とした佇まいの。
どこか懐かしい、親友の姿。
「……ぁ、」
扉を開けたはいいけれど、心の準備は整っていなかった。
私は、潰れたカエルみたいな声を出しながら硬直してしまって――でも。
固まってばかりもいられない。締まる喉を開けて、委縮する心に鞭打って、声を絞り出した。
「――ぁ、」
引き攣っているのを自覚している笑顔を、精一杯浮かべて。
「たっ、」
出した声は。
「ただいm「邪魔なんだけど」……へ」
……抑揚のないクレインさんの声で、上書きされていた。
「邪魔なんだけど」
呆然とした声に、同じ言葉が繰り返される。
よくよく考えたら、ここは寮室における廊下に当たる。
廊下を通って利用する場所――例えばお手洗いとかに行くとなれば、そこに立ちはだかられたら、確かに邪魔だった。
「――あっ、ご、ごめんなさいっ……」
慌てて謝り、その場から飛び引くけれど、彼女は特に何も言わず、私の脇を通り過ぎる。
お手洗いに入ったのを見届けて、前へと向き直り、自分のベッドに腰を下ろした。
ベッドメイク……というか状態は、私が『家出』した時のままなのだけれど……
……うわぁ。
うわぁ……!!
しょ、初っ端からやらかした……!!
これから仲直りしようって時に、あのやり取りはあまりにも最悪だ。
クレインさんの声色、無色透明って感じだったけど、明らかに怒ってたでしょ、あれ……!!
ど、どうしよう。どうしよう……!
元々関係値はリセット気味だったけど、今のでマイナスに振り切っちゃったんじゃ……これじゃ元に戻すのも、部屋に入る以上の労力がいるんじゃないのか。
どうしよう……
どうしよう。お手洗いから出てきたら、一体私、なんてあの子に声を掛ければ……!
「――!」
とかなんとか、ぐるぐる考えてるうちに、お手洗いから音が聞こえてくる。
見ると、彼女が――クレインさんが、こちらへと歩いてきているところだった。
……私へは視線を向けないままに。勉強机へと向かうと、そのまま座ってしまう。
で、ノートを開くと、そこに何事か書き記し始めた。
「……」
「……」
……交わされる言葉はない。
まるでそれがあるべき姿みたいに、淡々と、冷徹なまでに、ただただ無言。
秒針の時を刻む音でさえ、ひどく大きく聞こえる。
鳴りを潜めていた恐怖心が蘇ってきて、これ以上ないほどの気まずさが室内を満たす。
胸と喉を締め付けられて、呼吸さえ困難になる錯覚――
逃げ出していいんじゃないか、投げ出していいんじゃないかと、例の甘えに似た願望が湧き出てくるけれど。そんな甘さが、簡単に許されていいはずもない。
怖いけれど。恐ろしい、けれど……!
ここまで来て、逃げ出してたまるか……!!
「……、」
だから私は。
改めて、息を深く吸って――
「――く、」
その割に、未だちっぽけな声を、必死に紡いで。
「く……」
言葉として――吐き出した。
「クレイン、さん……」
クレインさんは、答えない。
「……あの」
圧し潰されそうな威圧感。
ただ、立ち止まるなんて選べない。ここまで来たら――ヤケだ!
「ご、」
私は立ち上がり。
「――ごめんなさいっ」
勢いよく、頭を下げていた。
「いきなり、何も言わずに出てって……本当に、ごめんなさい」
クレインさんは答えない。
それでも私は続ける。
「べ、別に私も、誰が悪いだとか、何がいけないだとか、言いたいわけじゃなくて……ただこれは、私がバカな勘違いをしただけっていうか」
クレインさんは、答えない。
それでも、私は、続ける。
「気持ちの整理を着けたくて、あんなことしたっていうか……えと、その割には、大胆過ぎましたけど……でもそれでも、お陰様で整理はついて、その……」
それでも、それでも。
私は……続ける。
「……私、クレインさんとは一緒にいられないなって、思ったんです」
私にとって、あなたは光だった。
「私みたいな、卑しい考えの落ちこぼれが、傍になんていられない。もしいたら……あなたの輝きを、きっと汚してしまうことになるって」
眩い太陽だった。
「私なんて、いない方がいいって……そう、思ってたんです」
輝かしい――希望だった。
「……でも、それってただ、逃げてただけだった」
だから、怖かった。だから、見たくなかった。
自分が、本当にどうしようもない存在だということを、知るのが、怖かったんだ。
「ただ……向き合うことを、拒んでいた、だけだった」
だから、どこへも行けなかった。
どこへも行けなくなった。
何にも――なれなくなってしまった。
「私……この間のレースをやり切って、トレーナーさんとも話して、思ったんです」
でも、導いてくれた人がいた。
「現状は、そこまで悲観するほどのものじゃないんじゃないかって。私って、私が思ってるより……実は、凄いんじゃないかって」
でも、教えてくれた人がいた。
「まだ……自分の力を、信じてみてもいいんじゃないか、って……」
助けてくれた人が――いたのだ。
「……」
だから。
だから……
「……だから、帰ってきたんです」
向き合ってみることに、決めたのだ。
「もう一度――あなたという凄い人と、『出会う』ために」
ここに。
戻ってきたんだ。
胸を張れる。
誇ることの出来る。
『立派な自分』になって――
「……だから」
だから……もう、逃げない。
逃げずに――言うんだ……!
「ごめんなさい、」
クレインさんに。
私の――
大好きな、親友に。
「本当に……ごめんなさい……!」
「……」
一度は上げた頭を、再び下げる。
クレインさんは、尚も答えない。
何も進展がないまま、ただただ時が過ぎていく。
恐る恐る顔を上げるけれど、状態にも、さしたる変化はない。
相変わらず、クレインさんは机に向かい、ペンを動かし続けている。
それに私は、思わず自分の眉を歪ませてしまっていた。
……あぁ。
ダメなのかな。
これでも、精一杯にやったつもりなんだけど。力いっぱい、想いを込めたつもりなんだけど。
結局この子には――私の気持ちなんて、何一つ、届かないのかな。
「……クレインさん……」
どうしたらいいかわからなくて、漏れ出た声は、どこか救いを求めているかのよう。
ただ、それでも彼女は、頑なに返答を拒絶する。
……別に私も、完全に許してもらえるとは思っていない。
それだけのことをやってしまったと思っている。口汚く罵られてもしょうがない、とさえ思っている。
でも、怒っているなら、怒っていると言ってほしい。
嫌いなら、嫌いと言ってほしい。
こんな、どちらなのかもわからないまま、飼い殺しみたいな扱いをされるなんて嫌だ。
どうか、あなたの口から。
あなたの答えを、教えてほしい――
「……っ、」
涙ぐみながら。
それでも涙が零れるのを、必死に抑えながら。
「く、」
私は、もう一度、声を絞り出した。
「クレインさ「ぷっ……」……?」
……けれど。
突如そこに割り込む、吹き出すような音。
彼女は、伏せるように顔を深く俯かせると。
小さく、肩を震わせていて。
「……クレイン、さん?」
「――っ、」
私が問い直すと。
「――ぷっ、あはははははっ……!!」
……弾けたように。
クレインさんは、大きな笑い声を上げていた。
静謐な部屋に、彼女のいかにも愉快そうな声は良く響く。
ただ私は、あまりに予想外のその反応に、呆然と口を開けるしか出来ない。
その行動の意味するところが分からなくて。
その行動の意図するところが、汲み取れなくて。
「あぁ、もー、ダメ……」
一頻り笑ったクレインさんは、回転椅子を回してこちらに振り向く。
目尻を指で拭う仕草は、それだけ彼女が大笑いしていたことを示している。
「ちょっと揶揄っただけなのに、そこまで深刻に言うことないじゃない」
「か、揶揄い……?」
「うん。私も、あんたが今日帰って来るって聞いてたからね。絶対こうしてやるって決めてたの。……まぁ、そこでばったり会っちゃったのは、予想外だったけど」
廊下の方を指差すクレインさん。釣られて視線をやり、戻した先には、いつもと変わらぬ表情。
見慣れた……けれど、長らく目にしていなかった、親友の顔。
嬉しさと、疑問と……あと、困惑。色んな感情がぐちゃぐちゃになりながらも、私はなんとか再度彼女に問う。
「……お、怒って、ないんですか……?」
「怒る? なんで?」
「いや、だって……」
「怒るわけないじゃない、こんなので」
立ち上がったクレインさんは、私の目の前を通って、背を向けるような位置にまで歩く。その後ろ姿に、先ほどまでの威圧感はなかった。
「そりゃ確かに、あんたのやったことは、自分勝手で身勝手だけど。そんなのでぷりぷり怒るほど、私も心狭くないわよ」
「で、でも……」
「でもも何も無いわ、何にも思ってないわよ、あんたが勝手に出て行ったこと自体はね」
振り返る。
黒髪が翻って――見えるのは、可愛らしい、満面の笑み。
「だから、気にしないで。私も、全然気にしてないからさ」
「……クレインさん」
「ね?」
「……」
……私は、思わず口元を綻ばせていた。
あぁ――そっか。
トレーナーさんも、ここに来る前、何度も勇気づけてくれていた。
そこまで深刻に考えなくても大丈夫だよ、って。
最初私は、それを、勇気づけるための方便だと思っていた。
私の背を押すため、無理にそれらしい言葉を掛けてくれているんだと、ばかり思っていた。
心配事の9割は当たらないもんだよ、と言ってくれたもんだけど……
……なるほど確かに。
どうやら、その通りだったらしい。
私は心配で仕方なかったけど。不安でどうしようもなかったけど。
そのどれもは、私の考え過ぎだったのか。
それとも、それだけクレインさんを狭量だと思っていたということか?
思えば彼女は、私の突飛な言動に、これまで何度も付き合ってくれたのだ。
あれだけ心の広い彼女が――こんなことで、私を拒絶する訳がないじゃないか……
って、そう断じてしまうのもまた、失礼に当たると思うけれど。
とにかく、私の抱いていた多くの不安は、心配性の私の創り出した虚像。
単なる、考え過ぎに過ぎなかったってわけだ……
……良かった。
本当に、良かった。
ちゃんと、仲直り出来て……
本当に……良かった……
「……」
クレインさんは、再び無言。
私が胸を撫で下ろしていることに、彼女もまた、安心感を抱いているんだろうか。
とはいえ、こうして立ち続けていることもない。
ひとまず別の話題を出そうか、と改めて顔を上げた時。
「でもね、フェアリィ」
クレインさんは、言った。
「その代わり、って言ったら何だけど……ひとつ、お願いがあってね?」
「……? お願い、ですか?」
「うん。……」
私が小首を傾げると――
彼女の笑みが――刹那、ふっと消える。
捻じれる耳。
瞳が暗く翳って、疑問と背筋の凍る感覚が、私を同時に襲った。
「――一発殴らせろ」
パンッ
……甲高い破裂音と、瞬間的、かつ強制的に視界を動かされる。
遅延して頬に走る、ひりひりとした痛みに、浮かれ始めていた心が、急速に着地した。
……あぁ。
どうやら私は、油断し過ぎたらしい。
まだ、話は完全には終わっていなかったのに。あまりに軽率だった。
怒っていないと言った。
確かにそう言った。
でも彼女は、言ったじゃないか。
――私が出て行ったこと
「……けんな」
「……え」
「ふざけんなッ!!」
震えた彼女の声は、私の呆然とした声を擂り潰して、怒声に変わる。
ぐい、と胸ぐらを掴まれ、目と鼻の先とで、その顔と突き合わされた。吊り上がった眉――
さっきまであったはずの、優しげな色は……もう、そこにはない。
激情。
親の仇を目にするかのような、何よりも強烈な『怒り』。
それを種とする焔が、激しく燃え盛っている。
「わかってたわよ!! あんたが今まで、私になんか後ろめたい感情持ってるってことくらい、とっくの昔に!!」
声は止まらない。
普段の彼女では考えられない感情の奔流を、私は、受け止めるしかない。
「でもなんで!? だったらなんで!? なんで私に相談してくれなかったの!?」
出来るわけない。
卑しい気持ちを抱いている対象に、そんな相談を出来るはずがない――けれど。
それも言ってしまえば、私が恐れを抱いていたからでもあって。
「それとも何!? あんたの目には、私がそこまで軽薄な奴に見えてたってこと!?」
もし、相談していたなら?
本当に、何か、訊ねていたならば?
もしかしたら――もっと何か、変わっていたのだろうか?
こんなにもこじれたことになる前に。
もっとどうにか、出来たかもしれなかったのだろうか?
「ちゃんと言ってよ!」
彼女は言う。
「相談してよ!」
彼女は言う。
「私に、全部、話して、よっ……!」
彼女は――言う。
「私たちっ……
友だちじゃ……
なかったのかよっ……」
「……」
……崩れ落ちる、クレインさん。
私は、膨れ上がる感情を抑えることが出来なかった。
瞼から涙が溢れて、再度、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
そして同時に――やるせない気持ちで。
罪深い気持ちで。
情けない気持ちで――いっぱいになる。
どうして相談しなかったんだろう。
どうして信用しなかったんだろう。
どうして――疑って、しまったのだろう。
そうだ、私たちは……
唯一無二の、
親友だった、はずなのに……
「……、」
ただ、過ぎたことは、変えられない。
起こってしまった現実に、出来ることと言えば――
私の、精一杯の誠意を、示すだけ。
私は座り込んで。
俯いて、泣く彼女の両肩に手を置く。
そのまま額を近づけて。
彼女の額に、そっと触れた。
小さく、泣き声が響く。
ただただ、控えめな嗚咽が聞こえる。
数分ほど続いて――ようやく落ち着いたのだろうか。
「……じょうぶ」
掠れた声で、クレインさんは、やがて言った。
「え」
「もう……大丈夫」
「……、」
そう言われて、額を離した。
立ち上がった彼女は、ひとつ伸びをする。
見上げた先の瞳は、まだ赤く腫れあがっているけれど。
そこに、苦悶の表情は無く――どこか、晴れ晴れとしているように見えた。
「――すっきりした」
ベッドに座るクレインさん。
それを見て、私も慌てて立ち上がって、自分のベッドに座る。
向かい合うと、一転彼女は、にこり、とほほ笑んだ。
「……もう面倒起こすんじゃないわよ、じゃじゃウマさん」
「……もう、怒ってない、ですか……?」
「大丈夫よ。もう、本当に大丈夫。そんな小動物みたいな顔しないでよ。らしくないわね」
「……うぅ」
……正直、ちょっとトラウマになりかけた。
これまで、色んな表情のクレインさんを見てきたけど――あんな激しい感情をぶつけられたのは、初めてだったから。
また何かの拍子に、その引き金を引くんじゃないかって思うと……ちょっと怖く……
「大丈夫だって言ってるじゃない」
そんな内心を見透かしたように、彼女は言う。
「親しいからこそここまで言ったんだから。大切じゃなかったら、むしろ口利いてないわ」
「それは……そうですけど……」
「っていうかそもそも中にさえ入れてないわ。私、嫌いな奴はとことん拒絶するタイプだし」
「た……確かに昔、先生にあからさまにツンツンしてましたね……」
懐かしい。一度そんなことがあったようななかったような。それを考えてみれば、確かに私は、十分彼女に受け入れられてるんだろうけれど……
「……」
……あぁ、ダメだ。
やっぱり、自分のしでかしたことを思い返すと……
どうしても、彼女と相対することが、とんでもなく罪深く……
「……よし、わかったわ」
するとクレインさんは、言うのだ。
「そしたら、私のお願い、もうひとつ聞いてよ」
「え。も、もうひとつ、ですか……?」
「そう。そうすれば、あんたの心も、少しは晴れるんじゃない?」
「ま、まぁ、そうかも、しれないですけど……」
……なんだろうか。
確かにそうすれば、私のこの心のもやもやも、ちょっとは納得いって離れてくれるとは思うけれど。肝心なのはその内容だ。
お願いだって?
それこそ、先のあの状況を思い返すと、ただのお願いではないように思えてしまう。
一体今度は……私に、何をお願いしようっていうんだろう。
「大丈夫大丈夫、そんな難しいことじゃないわ……」
怯える私を宥めるように、彼女は言う。
ぴっ、とこちらを指差すと。
にやり、と嫌らしい笑みを口に含んで、その『お願い』を、言った。
「――敬語禁止」
「……へ」
「いや、実は前から思ってたのよね……親友って言う割に敬語って。なんか距離感じるわよねーって」
「え、あの……」
「親友って言うなら、やっぱりやり取りはため口じゃなきゃ! 実際同級生なんだから、敬語使われる筋合いもないし」
「あ、あの……!?」
「そういうわけで、今日この瞬間から、敬語じゃなくてため口で話すことね! そうしなかったら、私返事しないから」
「は、はぇ!?」
へ、返事しない――!?
それはいくらなんでも突然すぎないか。思わず飛び出た頓狂な声にも、なぜだか彼女はしたり顔。
「ん~? 悪いって思ってるんでしょ~? だったら言葉遣いくらい、ワケないわよね~?」
「い、いやいや。確かに、そう言ったかもしれませんけど……!」
「あ。今敬語使ったわね。はいダメー! はいアウトー! 私もう、返事しないからねー!」
「え!? あ、あの、クレインさん……!?」
「……」
「く、クレインさん……」
「……」
……どうしてしまったんだろうか、なんて思ってしまった。
私の知っている彼女は、ここまで意地悪ではなかったはずなのだけれど。
ぷい、とそっぽを向いたまま、腕組みをして、私に目を寄越そうともしない。
そこに先ほどの気まずさの片鱗を見て、きっとこのまま待っていても、状況は改善されないであろうことを感じ取っていた。
「……、」
だから私は、観念して。
「……わ、」
渦巻く恥ずかしさを抑え込みながら、必死に言葉を紡いだ。
「わかった……よ……」
「……」
ぴくり、と反応し、こちらを向いたクレインさんは、依然としてしたり顔。
小学生にでも戻ったかのような、なんだか愉快な感覚に、私も自然、口に微笑み。
予想外の辱めを受けてしまったけれど、関係性はちゃんと戻ってくれたのだ――ということを実感して。
ふと思う。
「……? フェアリィ?」
「あ、えっと」
小首を傾げるクレインさんに、慌てて手を振る。
湧き上がってきた考えは、気恥ずかしいものだったけれど。同時に実現出来ないとも考えた。今、この勢いでなければ――
兼ねてより、私が密かに抱いてた『願望』は。
「……じ、実は」
だから私は、先ほどとはまた別の緊張に襲われつつ、言う。
「その……私も前から、クレインさんにお願いしたいことが、ひとつ、あって……」
「お願い?」
「えっと……」
……彼女は待っている。
不思議そうに、私の結論を待っている。
恥ずかしいけれど。ここまで言って、やっぱり何でもない、なんて言うわけにもいかなくて……
「……っ、」
私は、意を決して。
「呼び方、なんだけど……」
……言った。
「く、
くーちゃん……って、呼びたくて……」
「……」
……ぽかん、と目を丸くするクレインさん。
その反応を見て、顔が熱くなる。
さすがに、ちょっと攻め過ぎただろうか。
「……っ、ご、ごめん! やっぱり忘れて……!」
慌てて顔を手で覆って、前言撤回、しようとするけれど。
「いや……うん」
含み笑いの彼女の声は、不愉快そうではなかった。
「いいんじゃないかしら。悪くないと思うわ」
「ほ……本当に……?」
「うん……いや、ごめん。ちょっと面食らっちゃって」
恐る恐る見てみると、彼女もまた、頬を指で掻いているところだった。
目を逸らして、いかにも予想外だった、という反応。
「私……仇名とか、付けられたこと、なかったから」
「……」
『あっち』で、優等生としてよく知られていたクレインさん。
親しい友人は何人もいたはずだけれど、確かに見たことはなかった気がする。
この子が、誰かに仇名で呼ばれているところ。
馴れ馴れしいまでに、誰かと関わっているところは。
「……ね、フェアリィ」
彼女は言う。
「私……あんたとは、他にないくらい親しいと思ってたし、それが間違ってるものでもなかったと思ってる。でも正直……今まで、そうとも言い切れないんじゃないかって思うこともあったりしてさ。
なんか、壁を感じるっていうか。
距離を取られてる、っていうか……」
……実際、そうだったと思う。
偉大過ぎる彼女に、私という存在は余りにもノイズで。自分から、一定の距離を取ろうとしていたところは、あったと思う。
「……でも今日、ようやく、その壁がなくなった感じがした」
それでも私が。
意志を固めて、一歩踏み出そうとしたことが、確かに彼女に伝わったであろうことは――私にとって、これまでにない進歩だった。
「本当のあなたに……触れられた、気がした」
「……」
「……だから、改めて」
立ち上がるクレインさん。
手を差し伸べられて、それの意味するところを汲み取った私も、また立ち上がる。
今度は、恥ずかしくも、恐ろしくもない。
『対等の友達』として――
今、こうして、同じ目線に立った。
「……これからよろしくね。フェアリィ」
「……」
……もう逃げない。
もう逸らさない。
もう、隠し事は、しない。
「……うん」
そんな、静かな決心と共に。
「よろしくね――『くーちゃん』」
私は握った。彼女の手を。
くーちゃんの、小さいけれど暖かい、その手を。
確かに――強く。