その年の聖蹄祭も、例年通りの賑わいを見せていた。
例外的な一大イベントの催された去年と比較すると、その熱狂ぶりは鳴りを潜めているものの。訪れた客も、出し物を運営する生徒も、誰もが楽しそうに振舞っている。
多くの人々の犇めく学園内の状況を鑑みれば、大成功と言って間違いない盛況ぶりであろう。
となれば当然、そこに付き纏う問題――
『運営側の疲労』もまた、昨年までと同等、あるいはそれ以上のものになるということであって。
「…………」
――擬音で表現すれば、ぐでー、だろうか。
休憩室にて机に突っ伏した彼女は、如何にも疲れています、と言わんばかりだ。
話しかけるのも躊躇われる様子だが、それに困ったように笑いながら声を掛けるのは、サトノクラウンだ。
「……お疲れー。大丈夫そう?」
「うん……まぁ、一応は」
のそのそと身体を起こし、クラウンに対応する。特徴的なポニーテールも、この時ばかりは力なく垂れるばかりだ。
――フェアリィルナは。
久方ぶりの疲労感に、学園祭を楽しむ余裕がさてあるのか、と疑問に思ってしまった。
「今年は喫茶店だから……去年ほど大変じゃないってタカ括ってたんだけどね……」
「まぁ単純な疲労度で言ったら、間違いなく去年のがヤバかったと思うわよ。ただベクトルが違うだけで」
確かに、とも思う。去年のお化け屋敷は、言ってしまえば、ただ人を驚かせればいいもの。接客スタッフは最低限だったがために、ある意味では気兼ねなく出し物に専念することが出来た。
が、今年のテーマ――『メイド喫茶』は、あちらとはまた異なるスキルを要求される。
接客技術だけでなく、演技力、急場への対応力――
生憎と演技に自信はないが、聞くところによると、そのたどたどしさでさえ、客には好評であるという点は唯一の救いか。
「ま、今のうちに十分羽伸ばしといてね」
クラウンは、未だ疲労が抜けきっていないフェアリィに言う。
「お役目中に倒れられても……ってあれ、これ去年も言ったっけ?」
「あはは……かもしれないね。でも……」
笑うフェアリィだが、すぐにその表情を気まずそうに変える。小首を傾げたクラウンに、彼女は諦めたように小さく吐息。
「……それが許されればいいんだけどね」
「うん?」
どういう意味、とクラウンが思った瞬間だった。
「フェアリィーっ!!」
すぱーん、と痛快な音と共に、休憩室の扉が開き、艶やかな黒髪が楽しげに踊る。
ソードクレインは――
クラウンの言う『お役目』の直後であるはずにも関わらず、疲れなどほとんど感じていなさそうな調子で、そこに現れていた。
「あ、クラウン! お疲れ様!」
「お、おつかれー……すごいわね。疲れてないの?」
「いや疲れてるわよ、これでも! でもなんか疲れすぎてむしろヤマを越えたっていうか。なんだか今なら私、なんでも出来るような気がする! わっほほー!」
「それは無理にでも休まないといけないとこだと思うけどなー」
暴力的なまでに溌溂とした彼女に、クラウンは苦笑い。そして同時に思う、相方――彼女の親友の状態。
「……でも、きみのお友だちは、そうじゃなさそうだけど」
「ん?」
しばしクラウンと話すクレインだったが、ばっちりフェアリィと目が合う。あ、まずい──と目を逸らそうとしたフェアリィだったが、時すでに遅し。
「ちょっとフェアリィ!! どうしたのよ座り込んで!!」
目を見開いた彼女は、ドドドドドッ!! とフェアリィの元に駆け寄る。疲労に重ねられる元気いっぱいな声は、フェアリィが身を若干でも引かせるには、十分な理由だった。
「ぐでってる場合じゃないわよ! 休憩時間なんてすぐ終わるんだから! さっさと動き出さないと!」
「えっと……疲れてるんだけど……」
「私ね、いくつか回りたいとこあるのよ! でもどこも人気みたいだから! 効率的に動かなくちゃね……!」
まぁ無視だよね、とフェアリィは嘆息する。今のうちに周囲に『伏線』を張っておこうかなー、とぼんやり考える脳裏には、『119』の数字の並び。
そんなこんなで、訴え虚しく、クレインに引っ張られるまま、フェアリィは立たせられる。で、そのままぐいっと身体を動かされた。
「それじゃ、私たち行ってくるわね!」
「あ、あの、くーちゃん! 私走れるから! そんな引っ張らないで!」
「よし、じゃあまずは、リッキーの出店に行きましょ!」
「話聞いてー!!」
「……」
クラウンは、小さく手を振りつつ、その背を見守りつつ――考える。
いやはやホントに――綺麗に、立場が逆転したよな、と。
方々で心配されていたところはあった。
転校からこっち、片方を語るにはもう片方をも欠かせない珍コンビが、明らかに気まずい空気で、ろくに話していないというのだから。
かといって、詳細に踏み込もうというほどでもない。
何となくそれが禁忌である気がしてしまって、誰もが遠巻きに状況を見守るだけ。
大丈夫なのだろうか。平気なのだろうか。
……もう、元には戻らないのだろうか。
解きようのない、募るばかりの不安はというと、果たしてある日、突然に消し去られていた。
「敬語止めたの?」
「まぁ……色々、あって……」
真っ先に変化に気付き、訊ねてきたキタサンブラックに、フェアリィルナは苦笑いで答えていた。
そう、フェアリィルナ、底抜けの明るさと、暴力的なまでの前向きさが売りだったはずの少女は――それがまるで張りぼての嘘だったかのように、しおらしい人物に変わっていたのだ。
何を話そうにも、もじもじと控えめで大人しい。五月蝿いくらいのあの声が、懐かしく感じるほどだ。
しかも――それだけではない。
「……なんか、立場が逆になってない……?」
サトノダイヤモンドの指摘――
二人は程なく、以前のように話すようにはなったが。構図が丸っきり逆転したのである。
これまでは、フェアリィが引っ張り、クレインが振り回されていたのに。
今や専ら、クレインが振り回し、フェアリィが引っ張り回されるようになっている。
魂でも乗り移ったか? 本当に同一人物か? 想定外の変化に、周囲が困惑するのも無理のない話だった。
その中に合って――
「……ん? 良かった?」
シュヴァルグランだけは、そんな彼女らの様子を、そんな風に評していた。
ある日の食堂でのやり取りだ――スイープトウショウに訊き返された彼女は、緩く頷きながら答える。
「今まで二人は……無理してるように、見えてたから」
「……そう?」
「うん……いや、何となく、だけどね」
それは、内気であったシュヴァルだからこそ、感じ取ることの出来た変化だったのかもしれない。
凄まじい明るさの底に沈殿していた、ほんの僅かな、仄暗い後ろ暗さ。
それに縛られているように映っていた、フェアリィの振る舞いは――以前よりか、『内気』ではあっても。
清々しいもののように、シュヴァルには見えた。
「……良かったね」
答えを、見つけられたみたいで。
シュヴァルの、いつもと変わらない――しかし、明らかに嬉しそうなその感想に、スイープもまた、そうね、といつも通りに返した。
ともあれ、そういった困惑も最初のうちだけ。
徐々に他のクラスメイトも、変化に慣れ、すっかり溶け込んだ上での、この盛大な『お祭り』。
「あ、見てフェアリィ!」
フェアリィの手を引っ張りながら、クレインは容赦なく出店を見て回っていく。
無邪気に指差した先には、お洒落な立て看板。
「執事喫茶だって! 私たちと似たテーマのお店じゃない?」
「同じ発想で出店してるとこがあったんだね。……どこの人たちだろ」
二人が今いるのは上階。言うまでもなく、上級生が利用しているフロアだ。
自分たちの先輩が運営している、ということは、想像に難くなかったが――
「――あ!」
様子を見てみると、程なく現れた意外な人物に、クレインが声を上げていた。
「フジ寮長!」
「――あぁ。君たちか」
ネクタイまできっちりと締めた、黒い燕尾服。
まるで演者のような出で立ちの、フジキセキだった。
「ごきげんよう。お祭りは楽しんでるかい?」
「えぇ、そりゃもう! おちおち休んでもいられないくらい! フェアリィもこんなに楽しそうですよ! ほらほら!」
「……どうもです……」
「あははは。『いつも通り』みたいで何よりだよ」
いかにも可笑しそうに笑うフジ。然したる異常のない、有り触れた会話――しかし冷静に考えると、フジがここに立っている事実は、フェアリィには些か奇妙に感じられた。
「……えと、どうしてここに?」
そしてその奇妙を、問いかけという形でぶつける。
そう、フジは、とうに学園を卒業している社会人のはずだ。
寮長という形で、未だ学園に関わってはいるものの――在校生ではない。
職員が学園祭の運営に関わってはいけない、という規約はないものの、飽くまで生徒で形作るのが暗黙の了解となっていたはずだが――
執事喫茶にて、燕尾服まで着て、何も手伝っていません、ということは無いだろう。
これは一体どういうことなのか? 果たしてフジは、疑問に苦笑いを含みながら答えた。
「私も、手伝うつもりはなかったんだけれどね。『それらしい』振る舞いのいろはを知っていそうで、かつ頼んだら引き受けてくれそうなのが、私しかいなかったというものだから……仕方なくね」
「あー……」
フェアリィの脳裏に、フジの現役時代の勝負服が過ぎる。多くの男女が魅了されたという、あの麗人然とした容姿。
今の生徒や教職員に華が無い、などとは決して言うつもりはないが――なるほど確かに、彼女がいるのといないのとでは、雲泥の差だな、とフェアリィは納得した。
その上で――彼女を起用するのは、ちょっと『セコい』のでは、とも考えた。
「……ふむ」
そんな彼女を、フジは見つめる。突如として投げかけられた、品定めするかのような目線に、フェアリィは自然、姿勢を正した。
凛然とした瞳が、フェアリィの双眸をはっきりと映し出す。
「……な、何か……?」
「あぁ……いや。きみが引き籠っていた時のことを思い出してね。一時はどうなることかと思ったけれど、結果的に、落ち着くところに落ち着いて良かったよ」
フジは、優しく、そして悪戯っぽい声色で答えた。
「……いい目になった」
「……」
「フジさーん! ちょっといいですかー!」
「あぁ、今行く!」
店内から呼び出されたフジは、快活な声で答えてから、二人にお辞儀する。
手早い、しかし気品のある一礼。
「それではね、二人とも。良い祭りを」
過不足ない言葉を置き土産に、彼女は店内へと引っ込む。
しばし顔を見合わせた二人は、どちらともなく笑っていた。
「行こ!」
「うん」
そして再び、クレインが先導するかたちで、二人は駆け出す。
限られた休憩時間の中で、目一杯に楽しむために、忙しなく動き出す。
その一方――
「……んで、結局次はマイルチャンピオンシップか?」
別棟、人通りの多くない上階の窓際にて、窓枠に凭れ掛かりながら、庄野は隣の人物に問いかけた。
「まぁ……そんなとこです」
高橋は、一瞬だけ答えに迷うも、隠すことでもないと結論し、肯定する。
マイルチャンピオンシップ――年の暮れ近くに催行される、マイル距離の王者を決めるGⅠレース。
この年のキャリアの総仕上げとして、高橋とフェアリィが挑戦することにしたのがそれだった。
そうは言っても、転向以前も以降も、『ただの一度しか』勝てていない彼女が、そう簡単に出走出来るレースではないのもまた事実。
最初は、飽くまで最終目標であり――今年はダメでも、最終的に出走して、結果を出せればいい、と緩めに考えていたのだが。
なんと、出走が可能となったのである――その理由は。
「まさか……『ファンの数』って方向から出られるとは」
そう。
出走者を影から支える存在――ファンだった。
フェアリィルナの現在の戦績からすれば、GⅠは愚か、他の重賞レースでさえ、出走は叶わない。
が、専用アプリにてファンの数を確認したところ、直近のレースの終了時点で、規定を満たしていることが判明したのである。
予想外の事態――
ならば、と二人で話し合った末、出走しようという結論に至ったわけなのだが。
「なんか、ちょっと卑怯みたいですけどね」
「どこがだ? URAが規定してんだから、後ろめたく思うことねーだろ。ファンを金で買ってたらアレだけど」
「さ、さすがにそんなことはしてないですよ」
「だろ。なら胸を張れ。ファンの数だって、立派な努力の証なんだからな」
まぁ、それもそうか、と高橋は完全ではないながら、納得する。
実際、これまでの重賞レースで、そういった理由での出走者が全くいなかったわけじゃない。応援されるのも、実力のうち――もっと、自信を持っていい。
これも成果だと、誇りに思っていい。
「いやー、でも良かったな。こんなところまで来れてよ」
庄野は、手に持った駄菓子――ココアシガレットの一本を、煙草のように口に咥えながら言う。
「正直な話、さくっと辞めるんだろうなって思ってたんだよ。オメーのこと。長いこと燻ってたし、詰まらなそうだったし」
「あはは……そ、そんなこともありましたねー」
「いつでも相談に乗れるように、いい感じの転職先も見つけてたんだけどな」
兄貴かアンタは、というツッコミを、高橋は呑み込む。それも彼なりの優しさだったろうし、実際兄だったら、同じことをしてくれていただろうな、と。
「それが今や、パートナーを見つけるばかりか、GⅠにまで挑戦しようってんだからな。はは、『元』・先輩として鼻が高いぜ」
「……挑戦しても、結果が出なきゃ意味ないですけどね」
「おいおい、思ってもねーこと言うんじゃねーよ」
ぴっ、と彼は、ココアシガレットの先端で、高橋を指差した。
「お前が一番、『信じてる』くせに」
「……」
それはそうだった。
元より、『そう』でなくては――そもそも目指すことすら、するはずがなかった。
「……まぁ、そのために色々、相方に無茶苦茶やらせてるけどな」
「いやぁーあなたにだけは言われたくない。全力で言われたくない」
無茶苦茶――
手当たり次第に練習したり、大先輩と併走させたり。
引き籠りの状態から引きずり出したり、転向させたり。
普通かと言われたら、それとは程遠いのかな、とは思う。そして同時に、それはお互い様でしょうよ、とも思う。
転向させてるのもそうだし――トレーニングも、一風変わったことをやらせてるとか。
あなたもあなたで、全く人のことは言えないでしょう、と。
「……」
不思議な感覚だ、と高橋は思った。
実力も、年齢も、離れているはずの自分たち。大学時代も、何かとつるんでは、庄野の下世話さに常日頃呆れていたものだが。
「なんだよ?」
「――いえ」
突然黙り込んだ彼女に、怪訝そうに訊ねる庄野に――彼女は若干緩んでいた口元を直しながら、答える。
「あたしずっと……庄野さんとあたしって、天と地ほども隔たりがあるなーって思ってたんですよね」
性格という意味でも。
実力という意味でも。
「でも改めて考えてみたら……実際似たようなこと、お互いにしでかしてんだなーって思ったりして」
『教育』の方針が。
いざという時の胆力とか。
あとは――こういう、ちょっとした優しさとかも、そうかな。
「……なんだか、似てますね。あたしたち」
「…………」
「――っと! いけない!」
ふわり、と笑いつつ言った高橋。
慌てて窓枠から身を乗り出したのは、そこでふと、思い出したことがあったからだ。
「この後約束があるんでした! ごめんなさい! あたしはここで!」
「あ? お、おう」
手を振った彼女は、庄野の返事を受け取ることもほどほどに、そそくさとその場から走り出す。慌ただしいその後ろ姿を見送りながら、庄野はしばし呆然として――その末に、側頭部を掻いていた。
「……ったく。生意気言いやがって」
そして、誰にともなく言った。
「高橋のくせに……」
夕刻の橙の灯りが、学園全体を照らす。
今年二度目の学園祭、通算幾度目かの聖蹄祭は終幕を迎え、関係者による撤収作業も、大詰めを迎えていた。
三女神像前――
人影のまばらなその場所に、フェアリィルナとソードクレインの姿はあった。
「いやー、今年もとんでもない忙しさだったわね」
彼女らのクラスの撤収も、ひと段落。
束の間の休息に、今日何度目かの提案をしていたのは、クレインの方。
散々振り回されたフェアリィは、今更何をされても構わないという投げやりな寛容さがあり――
深く目的を聞くこともなく、ここまで二人、やって来ていた。
「下のクラスで、クラブみたいなことしてるなんて思わなかったわね。しかもヴィブロスさんがシャンパン*1コールするなんて」
「小籠包とかよくわからないこと言ってたけどね……なんか意外な一面見た感じだったね……」
今年も今年とて、各クラス個性的な企画ばかりだった。親友に振り回され、仕事に追い立てられ、息つく暇もなかったが――充実はしていた。
また来年も、同じように楽しめるといいと思うが――
出来れば、もう少し余暇があるといいな、などとも考える。
「……それで?」
ともあれ――
フェアリィは、クレインへと問いかける。
主語も目的語もない、簡素なものだったが――それだけで伝わるだろう、という彼女の思惑とは裏腹に、クレインはきょとんとした顔。
いかにも、何を言っているんだ、と言わんばかりのそれである。
「いや、あの……なんでここに来たのかなって話なんだけど」
「もー、空気読めないわねーフェアリィは。そこは雰囲気で感じ取ってよ、いい感じに」
「え、これ私が悪いの……?」
とんでもない責任転嫁に、フェアリィは愕然とする。しかしまぁ、言うまでもなくそこは冗談。クレインは返事を受けて、悪戯っぽく笑っていた。
「んー……」
そしてクレインは――意味深な唸り声を上げる。
何かに迷っているような、あるいは言葉を探しているような。邪魔をしたくないがために、フェアリィはそれをしばらく見守って、
「……マイルチャンピオンシップなのよね?」
その末、クレインはそう訊ねていた。
「最後の目標」
「えと……」
フェアリィは一瞬言い淀んだが、隠すことでもない。
どうせ調べればすぐにわかるし――親友に、もう隠し事はしたくない、とも思った。
「……そう、だよ。あはは。全然勝ててない私が、GⅠなんておこがましいけどね……」
「そう? ファンを増やすことだって、簡単じゃないのよ? 実際、レースでは勝ってるのに、思うようにファンを増やせない、みたいな子もいるみたいだし」
そうなんだ、とフェアリィは意外そうな顔。実力が全てのように思えるレースの世界――それ以外の生き方も、案外許されるのだな、と。
「だから、そんな卑屈にならなくていいのよ。もっと自信持ちなさい」
「えと……」
「あんたのそういうとこ、ずっと変わらないわよね」
「……うぅ」
自分の性格が前向きになったことは、フェアリィ自身も自覚を持っている。
しかしだからといって、考え方をも全てが前向きになるわけではない――心の奥底に凝り固まった『根暗さ』は、今なお、しつこくこびりついて残っている。
「ま、それだけ誠実で慎重、とも言えるけどね」
しゅんとするフェアリィをフォローするように、クレインは言い。
「それに、だからって辞めようってわけじゃないでしょ?」
「……」
確認に――
フェアリィは、一瞬だけ間をおいて、頷く。
そう、彼女自身も、申し訳なさ、のようなものを感じてはいるが――それとこれとは別問題。
周囲から、相応しくないと思われていようとも。
ここまできて、もはや逃げることは無い――彼女の決心は、固かった。
「そっか、」
クレインは返す。
「良かった」
「良かった……?」
「それだけ、確認しておきたくてね」
そうして、彼女は見上げる。自分たちの傍――三女神像を。釣られたフェアリィも、同じように視線を上げる。
今も昔も変わらない、荘厳な佇まい。
「……『誓い』を立てようとしたのに、目前で『逃げられた』なんてなったら、女神様も笑っちゃうもの」
「誓い……?」
うん、と振り向いたクレインの目は、それまでとは違う色を灯していた。自然、フェアリィの身体にも力が入る。射抜かれたように――
「あんたがGⅠに挑戦する、ってトレーナーから聞いた時から、決めてたの」
胸が不穏な高鳴りを見せる。クレインの声色が、不気味な翳りを宿す。
双方とも、それを取り払う間も挟まないまま――
「――私も」
言った。
「私も、
同じレースに出ることにした」
「――……」
――言葉を失った。
マイルチャンピオンシップ。
マイル距離のGⅠレース――重賞の最高峰ではあるものの、キャリアからすれば、自分たちが挑戦すること自体は、特段に不思議なことではない。
むしろ、ソードクレインの戦績を考えるなら、挑んで然るべきレースではある。
だがフェアリィは知っている。
親友であるからこそ、よく知っている。
彼女の、主たる戦場がどこなのかを。
「……え――へ? で、でも……」
たどたどしい言葉遣いで、フェアリィは応じた。
「くーちゃんは……短距離じゃ……?」
そう――
ソードクレインは、モンベツ時代からの、生粋の短距離走者(スプリンター)。
マイル以上の距離はほとんど走ったことがないし――勝利したのも、デビューしてすぐの一度きりだったはず。
決して得意とは言えないはずの距離を――それもGⅠという大舞台を選ぶなど、フェアリィには理解し難いことだった。
無論――短距離走者だからと言って、他の距離に適性が無いとは必ずしも言えない。
だが歴史上、距離を選ばずに、順当な戦績を収めてきた者が少ないことも事実だ。
彼女も、そんなことは百も承知のはずだ、一体――どうして?
「な……なんで? GⅠだったら、同じ時期の短距離のレースを選べば……」
クレインは答えない。
「確かにマイルは、1、200mくらいしか距離違わないかもしれないけど、それでも随分感覚が違うってトレーナーさんも言ってて……」
クレインは答えない。
「……どうして? どうしてわざわざそんな――」
「フェアリィ」
クレインは――答えなかったが。
動揺のまま、疑問を重ねる彼女の言葉を遮り。
真っ直ぐに瞳を逸らさぬまま――言った。
「……私は、
あんたと、
どくん、と胸が鳴る。
予想だにしない答えに、フェアリィは言葉を切り、目を見開く。
ただ、クレインにとっては十全なものだったのか、満足そうに笑っていた。
「だってそうでしょう? 一度も戦ったことが無い、なんて言わないけどさ。いつもあんたは後ろの方で燻ってて……競り合いなんて『一度も』なかった」
クレインが先頭を突っ切り、フェアリィが後方に甘んじるのが常だった。
「走り切った私が、何でもないように笑うあんたを、それとなくフォローするのが日常だった」
痛々しい笑顔へのせめてもの慰めを、精一杯に捧げるのが普通だったのだ。
「……でも今は?」
今はどうだろうか。
困難を乗り越え、ようやく辿り着いた今ならば、どうだろうか。
「ずっと、叶わない夢だと思ってた」
お互いに成長出来た今なら、どうだろうか。
「ずっと、無理なんだなって、思ってた」
支え合って、ぶつかり合って、ようやく本心に触れ合えた、今なら――どうだろうか?
「今なら……」
今ならきっと。
かつてより願ったように、戦えるのではないか。
そう、感じたのだ。
「……もちろん私も、このレースの過酷さは知ってるわ」
とはいえ、最高峰のひとつに君臨するレース。
生半可な実力で、勝てるものではない。
「場合によっちゃ、模擬レースの時と、立場が逆転しちゃうのかも」
『あの時』のフェアリィのように、耐え難い屈辱を受けてしまうのかも。
「……それでも」
でもそれでも。
それでも――
「私は、あんたと戦いたい」
同じ舞台でやり合ってみたい。
同じ世界で戦ってみたい。
「あんたと全力でやりあって、そして、そして……」
……そして。
「……そのふざけた『能力』ごと……食らってやる」
「――……」
フェアリィは、ごくり、と固唾を呑んだ。
目の前の少女は、もう、ただの親友なんかじゃない。
強力な敵。強大な好敵手。
夢に、目標に、その輝きに憑りつかれた、一人の戦士――ウマ娘。
……考えてみる。
戦場は、これ以上ない大舞台。
集った選りすぐりの出走者たち。
それらに肩を並べる自分。
熱視線を向ける観客。
湧き上がる歓声。
ゲートの開く音と共に。
勝負の火蓋が切って落とされる――
身震いした。
想像しただけで、ぞくり、とした。
そんな世界、そんな勝負――ちょっと怖いけど。少し、恐ろしいけれど――
――最高、じゃないか。
「……逃げたりなんてしないわよね?」
そんなフェアリィの気持ちを知ってか知らずか。クレインの言葉は、挑発的だった。
「あたしの『挑戦』。……受けてくれるわよね?」
「……」
何も言うまい。
ここまで来たら、言葉など無意味だ。
何より、自分の内に、既に答えは出ている。
「……、」
深呼吸する。
胸の高鳴りも、本心の答えも変わらない。
それを確認して、クレインの瞳を見つめ返した。
「……望むとこだよ」
続けた言葉に――クレインは、不敵な笑いを返した。
「じゃ――戻ろっか」
「うん」
そこまでを休息の区切りとして、二人は教室へと戻っていく。
西日の中、佇む三女神像は――そんな二人の背中を、暖かく見守っているように見えた。