最高峰の景色とは、果たしてどんなものなのだろう。
いくら想像しても、実感を得ることはなかった。
あれこれと考えたところで、答え合わせに観覧する試合の熱量には遠く及ばない。
確信を持つには自分で経験するしかないが――まぁ、そんな日は来ないだろうなと、長らく考えていた。
ここ最近、立て続けに起きた、全ての出来事が無ければ。
「――……」
予想はしていたが――
とんでもないレースだ。
自分も自分で、それなりに出走してきた自負はあるものの、そんなもの取るに足らない。勢いだとか、駆け引きだとか。あと熱、そして意志。
あらゆる感情が、願いが、激情が、祈りが、一塊となって猛進しているようだ。
自分たちという、それそのものが、巨大な生物のよう――
これまでの自分なら、その事実に怖気づいて、いつもの恐れの囁きに屈服して、早々に諦めを着けていたところだろう。
……こうして、集団に置いてきぼりを食っていないのは、それだけで大きな成果と言えた。
元々砂戦線で走っていたフェアリィルナ。
初めて踏んだ芝の感触に、予想していたほどの違和感は覚えなかった。
誰もが苦労するという走りの匙加減でさえ、驚くほどすんなりと乗り越える。
実は芝戦線でこれまで走っていたのではないか? と勘違いしてしまうほどだ――
自分は今まで、背後から集団を見るばかりだった。
先頭の景色など、夢に見るだけのもの。
実際に手に出来るなんて、それこそ夢にも思わなかったもの。
だが今や、それはどうだろうか。
勝ち取れる確信はなくとも、取り逃す恐れもまた、ない。
勝負に身を賭す仲間達を見送るのではなく――自身もまた、それを目指す一員となれている。
その事実が、心の底から嬉しい――
――そう。
今のフェアリィには、それが途轍もなく嬉しかった。
「――行こう」
ぼそり、と零した声は、響き渡る忙しない音に呑み込まれる。
足音だったり、歓声だったり、実況だったり――
フェアリィも、そんなのは重々承知だ。だから大きくは気にせず、自身のレースを進めていく。
マイルチャンピオンシップ。
最初、コースを見た時、なんだか変わった形をしているな、というのが率直な感想だった。
大概のレースのコースとは、連続したコーナーによって、一つの大きなコーナーを形作っているものなのだが――
京都競レース場、指定されたコースは、まず直線を走り、1コーナーを経て、短めの直線、2コーナー、そして最終直線へと至る、という形式だ。
つまり――勝負所は、一度では終わらないということである。
『1コーナーを抜けた後も、油断しちゃいけないし、諦めてもいけない。そこから先、巻き返せるタイミングはまだある』
事前のミーティング、高橋のアドバイスを胸に、堅実にレースを進めていく。焦らなくていい、怖がらなくていい、自分は自分の、今出来る全力を尽くすんだ。
集った選手たちは、選りすぐりの優等生ばかり。でも、それでも――
自分はここにいていいと。
多くの人々が、許してくれているのだから。
大丈夫。
大丈夫。
確信を胸に、フェアリィは行く。
続く道に、自分の足跡を確かに刻んでいく。
至った第1コーナー――
内寄りに進路を取り、追い抜きやすいポジションを確保する。
位置は集団の真ん中あたり、その気になれば前に出られそうだが、まだ焦らない。
機を窺え。
自分の中の『可能性』が、そう教えてくれている。
まだだ、まだ。
絶対に、確実に、勝ちをもぎ取れる瞬間を狙うんだ。
直線に入る。
――まだ。
長くはない距離、2コーナーはすぐに訪れた。
――まだ。
先団がコーナーに差し掛かった。
――まだ。
全体が、更に凝縮された、闘志の一塊と化した――
――その時だった。
「――」
その感覚は、いつもよりも異なるものだった。
周囲は白けていないが、全てがスローモーションになったような感覚。
地面をなぞるように、燦然と煌めくもの――
――黄金の道筋が。
『あの時』と同じように、現れていた。
「――ッ!!」
ここだ。
フェアリィの脚が動く。
そのコースは、一見するとかなり無茶なものだ。
かなり際どいインコースを攻める、事故に繋がりかねない走り。
全身の力を振り絞って、彼女は示された道を全力で疾走した。
驚くほど身軽な体捌きを以てして。
踊る。
少女が、芝生の上を踊る。
遂に訪れたその瞬間を目にした高橋は、そこで、頭の中にぼんやりと浮かんでいた疑問の答え合わせをしていた。
どこかで見たような気がしていた。
なんだか、初めて見るような気がしなかった。
遠い昔、あるいはどこか別の場所、こんな動きをする誰かが、選手でいなかったか。
抱きはすれど、積極的に解消しようともしなかったその疑問に、与えられた明確な答え。
あぁ――そうだ。見たことがあるはずだ。
ターフの上で、踊るようにステップを踏むあの姿。
――かの、『不屈の帝王』に。
酷似していた。
あぁ――思えばここまで、長い旅路だった。
どれだけの辛酸を舐めたろう。どれだけ辛い思いをしたろう。
どれだけ、どれだけ、悔しい気持ちを経験したろう。
全てが報われたとはまだ言えない。けれど、こうして、彼女が思いのままに走れているのを見られていることが、自分にとって、何よりの喜びだった。
あれだけ暗かった彼女が。あれだけ辛そうだった彼女が。
あれだけ、あれだけ、何かに縛られるみたいに、満足に走れていなかったあの子が。
今、こんなにも、楽しそうに――
「……っ」
――まだ早い。まだダメ。
そんな思いと共に、湧き上がる想いを呑み込む。
だが、呑み込み切れない想いは声となって込み上げ、そして彼女は、それまでは抑えられなかった。
――行け。
「――行けぇーッ!! フェアリィーッ!!」
その言葉が、レース中のフェアリィに届くはずもない。
だが、気持ちはしっかりと伝わったのだろう。
口元に笑みを灯し、前へと進んでいく。
勝負所は一瞬――2コーナーを抜けた時、フェアリィは前に頭一つ抜けた。
これ以上ない良い形で、最終直線へと突入する。
いける。
ここまで来れば、あとはシンプルな力比べ。
先頭を目指して、全力を尽くして走るだけ。
いける。
余力はまだある。『残してある』。
可能性は、十分にある。
いける。
このまま行けば。
最高の形で、レースを終えられる――!
フェアリィを応援するもの。
そのトレーナー。
そして彼女本人。
最終直線突入直前――
「――待てよ」
誰もが、そう考えた。
誰もが、そう思っていた。
集団の大外――
黒い影が、高速で回り込んでくるまでは。
――にやり、と男は口角を上げた。
舞台はGⅠ。簡単に越せられるものではないとわかってはいるが、何も対策を練らなかったわけがない。
入念に、念入りに情報を収集し、対策を講じてきた――
才能。
才覚。
生まれ持った何かに、凡人が及ぶのは難しい。
だが不可能ではないと、これまでの先人と、歴史が証明している。
諦めてなるものか。
屈するものか。
凡才は凡才の手段で――望みを叶えてやる。
『彼女ら』は、そう考えた。
――結果として。
その歯牙が、喉元に迫る。
ソードクレインが。
最終直線に来て、フェアリィルナの間近へと、迫っていた。
「――!!」
欄干を握り、息を呑む高橋――
その一方で、観客席、ゆったりと座る庄野は、もはや笑みを隠さずに、レースの行く末を見守る。
――お前らはすげーよ。彼は、心よりの賛辞を送った。
だが――負けられない。負けていいはずがない。
勝ちは譲らない。譲れるわけがない!
「……けどな、お前らの力を無抵抗で受け入れるほど、俺たちも愚かじゃねぇ」
運命に打ち勝つために。
「俺たちは俺たちのやり方で――夢を勝ち取ってやる」
夢を、叶えるために――
「さぁ、高橋――」
フェアリィもまた、肩越しにその姿を認める。
クレインは、視界に姿を捉え続ける。
予断を許さない状況の中――
「お前たちの磨いてきた『
どっちが上か、
勝負だ――!!」
勝負は大詰め。
運命は、最後の直線へと、委ねられた。