「……妖精の月?」
――小学生の頃の、暑い夏。
道を歩いていると、突然、クレインさんが呟いていた。
「……はい?」
私が聞き返すと、先導していた彼女が、立ち止まって振り返る。暮れていく夕陽に、黒髪が絵画のように美しく映えた。
「うぅん。あなたの名前、直訳で『妖精の月』になるんだなーって思って」
思えば、普通小学生で、そこまで思い至らないと思う。恐れ入ると同時に、ちょっと困った気持ちになった。
「どうしたの?」
「あー、いえ」
私は、不思議そうに問う彼女に、片頬を指で掻きながら答えた。
「なんか、お母さんの話だと、そういうわけじゃないそうです」
「え、そうなの?」
意外そうなクレインさんの顔。実は私も、覚えたての英語で自分の名前の意味を調べた時、どや顔でお母さんに知識を披露したものだ。
そしてそれが違うと知った時の、恥ずかしさとどや顔返し。そこから彼女に教わったことには、
「直訳するとどうも……大きな月だとか、すっごい月って意味になるらしくて」
「あぁ……『fairy』じゃなくて『fairly』の方ね」
「……みたいです! 似た者同士ってとこですね!」
「なんかわかってなさそうだけど……」
一連の説明を聞いたクレインさんは、楽しそうに笑って言った。
「いい名前ね!」
……微風が、それを待ち侘びたみたいに、穏やかに到来する。……
私は、フェアリィルナが大好きだ。
もうここに来て、包み隠すことなんてない。
手にした能力のために、敬遠されがちな私に、あそこまで真っ直ぐに関わって来てくれたことは、私にとっては、ある種の救いだったんだ。
こういう友達が欲しかった。
こういう関わり合いがしたかった。
隠し事もなく、気の置けない関係の、本当の意味での友人が――ずっと、欲しかったんだ。
……寂しかったよ、フェアリィ。
あんたが、勝手に部屋を出て行った時。
明らかに避けて、教室でも話してくれないものだから、もう昔みたいな関係には戻れないのかな、って思ってた。
……正直、ベッドで、何回か泣いちゃった。
でもあんたは、ちゃんと戻ってきてくれた。
戻ってきて、私に、自分のことを、全部話してくれた。
我武者羅な元気さは無くなっちゃったけど――
これまで感じてた壁みたいなものが無くなって、むしろ距離感は、前よりも近くなったような気がしたんだ。
大好き。
大好きだよ、フェアリィ。
大好きだけど――でも。
でもそれは、飽くまで日常のお話だ。
レースで目覚めた彼女の能力は、凡才の私たちじゃ、逆立ちしても手に入らないようなものだった。
集中すると、奇妙な『光る道』が見えて、それに沿って走れば勝ててしまう、だって?
なんだそりゃ。
冗談じゃない。
ズル。そんなの、ズルじゃないか。
私たちがどれだけ努力しても、手に入らない特別な力――
ここまで、ろくな戦績を残せてないあんたが、急にそんな力に目覚めるなんて。
……しかも、それだけじゃなくて。
その力を、惜しみなく使って。
こうして、一大勝負の先頭を走ってるなんて――
……大好きだ。
私は、あんたのことが大好きだよ、フェアリィ。
「……」
でも。でもね。
「……、」
今は。
今、この時は。
「……っ、」
今、この瞬間だけは――
あんたのことが、
大っ嫌いだ――!!
「――ッ!!」
怒号に似た絶叫を飛ばし。
悠然と走る彼女の背に追い縋る。
高まる興奮、実況にも熱が入る。見守る全てが、願うもの全てが、釘付けにされたように、その行方から目を離せない――
GⅠレース、マイルチャンピオンシップ――その最後の直線。
鬼気迫る表情の私を――ソードクレインを見て。
「――、」
フェアリィルナは、前に向き直り。
それでも、止まることなく走っていく。
これまでに経験のない、極限の集中状態――
残り僅かな、緑の絨毯の上で。
――私は。
ふと、考えていた――あぁ。
思えばここまで。
色んな人に、
助けてもらったなぁ。……
私をここまで育ててくれた、お父さん、お母さん。
モンベツの理事長さん。友人たち。
私たちを見初めてくれた、中央の生徒会。
私を受け入れてくれたクラスメイト。
寮長さん。
そして、スカウトしてくれた、トレーナーさん。
数えてみると、キリがない。
私の、掛け替えのない繫がり。
たった数人でさえ、欠かすことの出来ない、とても大事な人たち。
特別なんていない。
みんな特別。
区別するつもりなんて、ないけれど。
それでも。
私が、ここまで来られたのは?
ここまで、挫けずに、歩いて来られたのは?
きっと、もっと、もっと奥の方。
もっと、身近なところ――そう。
――探した。
闇の中で。
――探した。
暗闇の中で。
――探した――
泣くしか出来なかった私に――初めて、手を差し伸べてくれたのは。
連れ出してくれたのは。
引っ張り出して、くれたのは。
見つけ出して、くれたのは――……
「……」
流れるような黒髪。
「……フェアリィ?」
……小学生の頃の夏。
立ち止まった私に、クレインさんが、不思議そうに問いかける。
「どうしたの?」
呆然と立ち尽くしていた私は、その声を聞いて、我に返る。
「……いえ!」
そして、駆け寄りながら、元気いっぱいに、返事をするのだ。
「なんでもないです!」 ……
……にこり、と笑った。
背後に、世界で一番大事な親友の存在を、感じながら。
私は。
「……ありがとう」
言った。
「くーちゃん」
――瞬間。
フェアリィルナは――加速した。
「――……」
ソードクレインは、目を見開く。
――嘘。
その時、起きた出来事が、彼女には信じ難かった。
――嘘でしょ。
全てを見抜いたはずなのに。
万全を期して、勝負に出たはずなのに――
――まだ、
――上がるのかよ――!?
フェアリィルナが加速する。
『ここ』が彼女の力の底だと思ったのに、あろうことか、そこを見誤ってしまった。
みるみる、距離が開いていく。
クレインも必死に追い縋るが、なかなか思い通りにいかない。
双方の差が――徐々に、決定的なものになっていく。
くそ。
くそ、くそ、くそ――!!
冷静さが反転し、焦燥へ。
何にせよ、もはや小細工は利かない。ここまで来たら、ただ全力で走るしかない。
文字通りに、全てを投げ打って走るクレインだが――何故だか、思うように近付くことが出来ない。
不思議な感覚だった。
まるでそれは、壁に向かって走っているかのような。
見えない何かに、前進を阻まれているような――
――諦めない。
それでも、諦めない。
――諦めるわけには、いかないのよ――!!
ファンのために。友人のために――他の様々な、大切な人のために。
負けられないのは、クレインも同じだ。
走る。追う。全てを費やす。
ただ我武者羅に。ただ一心不乱に。前へと走って、走って、走って――……
「――……?」
その末に、見つめた先。
フェアリィルナの背中に――何かが、ぶれて重なっていた。
「……」
それは幻影か。それとも錯覚か。
それでも彼女は、確かに見ていた――フェアリィルナの背中に重なる、『誰か』の後ろ姿を。
――『帝王』の、後ろ姿を。
――あるいは、『皇帝』の後姿を。
――はたまたあるいは、あるいは――……
――『神なる者』の、後ろ姿を。
「――」
それを見て。
ソードクレインは、無意識に。
遠ざかる彼女の背中へと。
手を、
伸ばしていた――……
『――!!』
はち切れんばかりの歓声。
鹿毛のポニーテールが、ゴール板を突っ切る。
結果を認めて、誰もが様々に反応を見せていた。
シュヴァルグランは、ターフに向けて絶叫する。
ヴィブロスは、両手を上げて飛び跳ねる。
ヴィルシーナは、そんな二人に縋りつき。
スイープトウショウは、涙ぐみながらも、目を逸らさない。
ホッコータルマエは、口を手で覆い、目を見開く。
コパノリッキーは、悲喜交々とした表情で頭を抱え。
ワンダーアキュートは、満足そうに微笑み。
西浦は、サングラスを外し、意外とつぶらな瞳で、駆け抜けた少女の姿を焼き付ける。
キタサンブラックは、両の拳を握り。
サトノダイヤモンドと、サトノクラウンは、思わずお互いに抱き着き合う。
カモンシングは、テレビに飛び掛からんばかりの勢い。
ロミオライトは、安堵したように口元を緩め。
リバーマーヴェルは、眼鏡を指で押し上げており。
エクセレンスローは、拍手を捧げる。
モンベツトレセン学園の理事長側近は、思わず理事長の椅子を掴んでくるくる回る。
そこに座る理事長はというと、それに困ったように笑いながらも、特に拒絶せず、されるがままになっている。
オルフェーヴルは、既にベンチから立ち上がり、背を向けている。
ジェンティルドンナは、横目で競レース場を見つめ。
ウインバリアシオンもまた、微笑と共に見つめながら、オルフェーヴルの後に続く。
庄野は、悔しさと嬉しさの入り混じる複雑な表情をし。
高橋は、欄干に掛けた腕に瞼を押し付けながら泣く。
――そしてソードクレインは、少し遅れてゴール板を通り過ぎながら、柔らかな笑みをたたえた。
『――やりました。とうとう、やりました』
実況の声が響く。
『無能だと、自嘲したこともありました。最弱だと、自虐したこともありました。
苦節十数年、通算戦績――152戦、7勝。
苦難の道を歩いてきたウマ娘が――今日、とうとう、その栄光を、掴みました!』
しばらく走ったフェアリィルナは、立ち止まる。
『――今年度マイルチャンピオンシップ、1着は――フェアリィルナ!
フェアリィルナです――!!』
「……」
想像以上の深さと広さの、歓声の海。
今度は、誰かに向けられたものではない。そのほとんどが、自分に向けられたもの。
これまでにない経験だったが――彼女は、変に浮ついたりはしなかった。
ただその海の中で、浸るように。
薄く目を閉じ。
感じ入るだけだった。
――やった。
やったんだ。
自分は、とうとう。
やったんだ、と。
「……ナイスラン、フェアリィ」
そんな彼女に、声を掛ける影がひとつ。
「よくあそこまで、『我慢』出来たわね……」
フェアリィの目の前まで辿り着いたソードクレインは、不敵な笑みを口に含んで言った。
「やられたわ。最後のあれが、あんたの『底』だと思ったのに」
見るからに悔しげ。しかしそれと同時に、満足げ。
その複雑な感情を噛み締めるように、彼女は視線を逸らす。
「半年の差を、こうも簡単に埋めるなんてね……大したもんだわ」
「……」
クレインによる、惜しみない称賛に――
しかしフェアリィは、どこか気まずそうな顔をする。
不思議に思い、どうしたの、と問いかけ直すクレインに、フェアリィは。
「……あれは、練習だけで手にしたものじゃないよ」
答えた。
「あなたのお陰だよ。……くーちゃん」
「え……?」
目を見開いたクレインに、フェアリィは話す。
これまでにあった練習の日々を、思い返しながら。
「この一戦……くーちゃんが参戦するって話を聞いた時、必ず一番のライバルになるだろうなって思ってた。だから私たちは……基礎練習の他に、くーちゃんへの対策をずっと練ってたの。
戦術傾向、性格、弱点……そうしてるうちに、見えてきたんだ。あなたが私たちを意識しているなら――それを逆手に取った戦術を取ればいいんじゃないかって」
つまりは、意識を強く向けている点を利用する。
注意を向けられている事実は、時に不利益をもたらすが――この時ばかりは、自分にとって、都合のいい展開だと感じたのだ。
「……それで見つけたの。あなたのあの、追い込みに近い戦術が、もしかして、使えるんじゃないかって」
ソードクレインの、先見の明。賢明さ。判断の鋭さ――脅威に見えたそれらの要素が、今回裏目に出たのだ。
フェアリィルナという存在を、しっかりと分析していたからこそ。認めていたからこそ――『力を見誤る』。
「だから……使わせてもらった。ぎりぎりまで、『溜めさせて』もらったの。あはは……調整とか、色々大変だったけどね……」
「……はは」
種明かしに、クレインは、片手で顔を覆うようにする。
なるほど。長らく彼女は、その才能一点張りで戦っていると思っていたが――真実は違っていたのだ。
彼女は、土壇場で取り入れてきた。
才能だけに頼るのではなく、それ以外をも利用することを。
磨き抜かれた天性の力だけではなく――
積み上げてきた理論に頼ることを――
「あんたのことを分かった気になってたのに……見事に、一歩先を行かれたってわけね」
その事実を噛み締め、クレインは再び、フェアリィと目を合わせる。
もはやそこに、茶化すような笑みなどない。場数を踏んできた、確かな『戦士』の顔。
「……『理論』を手にしたか。最後に……!」
――やられたな。
改めてそう実感し、クレインは手を差し伸べる。
「おめでとう、フェアリィ」
完敗だ。
その想いを込めて、言った。
「あんたの勝ちよ!」
「……」
フェアリィは、それを受けて、意志に溢れた笑みを浮かべる。
いい勝負だった、心の底からそう思える、刹那の時間。
お互いにそれを、確かめるために。彼女の想いに、同調するために。
フェアリィもまた、右足を一歩、踏み出した。
――その時だった。
足に、鋭く、激しい痛みが、迸っていたのは。
「――ッ!?」
思わず顔を歪めたフェアリィは、バランスを崩す。
「――!!」
名を呼んだクレインが、すぐさま駆け寄り、支えたことで、転倒は免れた。
が、脚に走る激痛と、全身から噴き出る汗は止まらない。
嬉々とした歓声は、困惑のざわめきに変わり。
控えていたスタッフが、慌ただしく駆け寄ってくる。
絶え絶えな息を整える中――
青空を背に、クレインが、焦燥に満ちた顔でフェアリィに呼びかける。
「フェアリィ! 大丈夫!? フェアリィ!」
「だ……大丈夫。大丈夫、です、けど……あはは」
――当人は、既に気付いていた。
その痛みが、何によるものなのか。
そして同時に、思い出していた。
『昨日』見た。
『あの夢』の光景を。……
「……くーちゃん」
フェアリィは言う。
その声色は、彼女を心配させないがために、精一杯に配慮されたものだった。
――私。
「……やっちゃった、みたい……」