命に別状はない、とのことだった。
「いやー、びっくりしましたよー。握手しよう、って思って、ちょっと一歩踏み込んだら、急にビキッってきたもんですから」
最寄りの病院、その病室――
ベッドにて、上半身を起こした状態のフェアリィは、丸椅子に座る高橋に、明るく笑いながら話す。
「痛いって聞いてたので、嫌だなー、怖いなー、って思ってたんですけど。想像以上でしたね。死ぬんじゃないかって思っちゃいましたよ、普通に。面目ないなぁ」
反面、高橋は俯き、揃えた両膝の上に、寮の拳を握り締めている。
一見ではわからないその表情は、その実これ以上ないほどに、暗い。
「くーちゃんも驚かせちゃって、申し訳ないですね! あとで謝りにいかないと……これ以上心配かけるわけにもいかないですから。あははー」
「……」
「……」
一連の話を終えて、訪れる静寂。
高橋はそれに耐え兼ね、顔を上げる。
自分は今、どんな表情をしているのだろうか。
確かめるまでもなかった――フェアリィが、困った笑みを浮かべたからだ。
「……なんて顔してんですか」
「――っ、だって……!」
高橋が意気消沈するのも、無理はなかった。
そう、フェアリィの命に別状はない。
だが――選手生命となると、話は違ってくる。
剥離骨折。
ゆっくり休養することで治りはするが――現キャリアを考えると、完治した後の戦線復帰はかなり困難。
本人の将来のためにも――
――引退するのが賢明だと、やんわりと伝えられた。
医者の言い分はわかる。
ウマ娘とは言え、彼女の将来は、レースだけに背負わせるには役不足だ。
多くの可能性があるし、多くの希望がある。
無理をさせて、歩行すら困難になったらどうする? それで、どれだけの希望が潰えると思う?
身を引くことが得策だ――でも。
でも、それでも――
「こんなのって……無いよっ……!!」
理解はすれど。
納得とは――別だった。
「あなたはまだっ……これからなのにっ……!!」
せっかく、勝てたのに。
せっかく、重賞バになれたのに。
まだまだ、これから、挑戦したいレース、叶えたい夢。
たくさん、たくさん、あったのに――……
「どうしてだよ……」
どうして。
どうして運命は、こうも、残酷なのか。
「どうしてだよっ……」
「……」
――あぁ、ダメだ。
想いがこみ上げ、止まらなくなる。
高橋は再び俯き、握った拳に涙を滴らせる。
彼女の目からは、もはやフェアリィの顔は確認出来なかったが――
「……トレーナーさん」
彼女の肩に手を添えると、これまでにないほどの優しい声色で、話しかけた。
「顔……上げてください」
高橋は、ゆっくり顔を上げる。
既に赤く染まり始めている瞳を見て、フェアリィは、母のような柔らかな笑みを浮かべた。
「……その。誤解を恐れず言いますけど。私……私は」
これで、良かったんだって。
そう、思ってるんです。
「へ……?」
「あ、えっと! これで良かったとかじゃなくて……私も! 私も悔しいです! こんな終わり方、したくなかったです。でも、でも……」
自分の中で。
越えられなかったものを越えられたと――思っているんです。
「……昨日のことなんですけど」
彼女は話す。
昨日――見たものを。
「私……夢を見たんです」
それは――不思議な夢だった。
「その夢の中で……私は、四足歩行の変な動物になってて、
こっちの世界みたいに、色んなレースを走ってたんです。
いくつも、いくつもレースを走って……
それでも、全然勝てなくて。惜しいところまでいくことはあっても、全然、1着になれなくて……
結局、燻ったまま、怪我しちゃって……引退するんです。
悲しかったけど、悔しかったけど……でも私の中には、ある程度の充実感はあって……
それで私……気が付いたんです。
あぁ、きっとこれが、
私の、『別世界の記憶』なんだなって。
トレーナーさんも知ってますよね。ウマ娘は、走ることが宿命。別世界の魂を受け継いで生まれてくる、不思議ないきもの。
だから私も、この一戦……惨敗して終わっちゃうのかもな、なんて、ちょっと考えてたんです」
でも、そうはならなかった。
そうは、ならなかったのだ。
「私は勝てた。1着になれた。自分の脚が、とうにイカれてたのに――それに気が付かないくらい、夢中になれたんです」
「……」
高橋は、涙を止められそうにない。
ただ、フェアリィの瞼からもまた、感情が粒となって零れ落ち始めていた。
彼女の願い、彼女の祈り。その全ての結晶。
「……トレーナーさん」
彼女は、言う。
「私……何もかもが、ずっと、ずっと、嫌いだったんです」
私のことを、ちゃんと見てくれない周りも。
勝手に期待して、勝手に失望する家族も。
それでも全然、助けてくれない、この世界も。
みんな、
みんな、
嫌いだった。
「でも……それより、何より」
本心なんて、知りっこないのに。
勝手に決めつけて、勝手に幻滅して、勝手に、周りを嫌いになってる。
自分が一番、嫌いだった。
「でも……でも、ね」
でもね。
「トレーナーさんが、みんなが、
親身に接して、支えてくれたから、
私は、ここまで、来ることが出来ました。
私、最初、本当に、不安で、いっぱいだった。
上手く出来ないかもしれない、って思ったし、そのために、色々、無茶苦茶な振る舞いもしました。
自分の勝手さのために、周りにたくさん、迷惑を掛けました。
でも……私は、救ってもらえた。
色んな人に、助けてもらえた。
今日、こうして、最高峰のレースで、優勝させてもらえて……
……一番嫌いだった、自分のことさえ、受け入れることが、出来た。
こんなに……こんなに嬉しいこと、他にない」
だから。
だからね。
「……だから、私、
この場所に来られて、
本当に、良かったって……
そう……思うんです」
それを通じて受け取った感情に――
高橋は、ふと、かつてのことを思い出していた。
『――いいか、よく聞け『まゆ』』
「……ありがとうございます。トレーナーさん」
フェアリィは言う。
『トレーナーってのはな、ウマ娘を『幸せ』にするのが務めだ』
「私……私、は……」
震える声を、
嗚咽を、抑えないまま――
『――『あんな顔はな』、
させちゃいけねぇんだ――』
――言った。
「――私は、
とっても、
幸せです……!」
「……」
……感情が溢れ出る。
辛うじて抑えていたものが、何もかも、迸る。
止まらない。
涙が、止まらない。
あぁ、そうだ。
結果ばかりを追っていた。未来ばかりを見つめていた。
手にした、確かに実感のあるものばかりを求めていた――でも。
そればかりじゃなかった。
手にしたもの、成し遂げたこと。それだけじゃなかった。
自分は……あたしは……きっと、その、望み通りに。
……お父さん。
観てる? 今も、どこかで。
あたし、あたしね。ここまで、滅茶苦茶して来たけど。失敗もしたけど。間違いも、犯した、けど……
ようやく。
一人の子を。
幸せに、出来たよ。
「っ……」
混沌とした感情に押されて、再三、彼女は顔を俯かせる。
「……、もぉ~……」
そんな彼女の肩を擦りながら、フェアリィもまた、言う。
「泣かないで、くださいよぉ……」
自身もまた、その姿から、もらい泣きをしながら。……
……
……一方の、病室の外。
「……行くか」
滲んできた涙を指で拭ったソードクレインに、庄野が声を掛ける。
彼女の、はい、という同意を合図に、二人はそこから歩き始めた。
「本当にいいのか? 会わなくて」
庄野の問いかけに、クレインは再度、はい、と答える。元々、こうして会いに来たのは、彼女の容態の確認――精神的な負担を軽くしてあげるためだった。が、見るにその心配は杞憂だった。
自分たちの存在は邪魔になりそうだし――何より。
「あの子もトレーナーさんも、あぁいうところを見られるのは、好きじゃなさそうですから」
自分だってそうだ。変に介入して、微妙な空気にするくらいなら――落ち着くまで、二人にしておいた方がいい。そう思う。
「そうか。……」
「……何か?」
ただ、庄野は尚も、何かを言いたげだった。小首を傾げたクレインに、彼はいや、とひと言前置きして、
「単に、嬉しいだけだよ」
恥ずかしそうに笑いながら、答えた。
「これで親父さんも報われるな……ってな」
「……あの人の父親って……」
クレインは、ふと浮かんできた疑問を投げかける。
「どんな人だったんですか? 私、よく知らないんですけど」
「いや? 俺もよく知らねーよ。会ったことねーし」
会ったことないのかよ、とクレインはずっこけそうになる。庄野は特段と、声色を変えることなく続ける。
「けど……ウマ娘の幸福を、第一に考える人だったって聞く。厳しいこともあったし、優しいこともあった。数多いるトレーナーの一人だったとしても――少なくとも、高橋にとっての、偉大な先人だったわけだな」
大した奴だ。
「大した奴だよ。あいつは」
「……それを言うなら」
称賛に、クレインは付け加える。その言葉には、おおむね同意だけれど。
「あいつ『ら』、でしょう?」
クレインは続ける。
「……本当に一時は、どうなるかと思ってました。昔みたいな関係に戻れないかも、って思ったし、このまま退学しちゃうのかも、とも思いました」
だがそうならなかった。
自分との戦いに、彼女は見事に打ち勝った。
そして――自分たちの、望む未来を掴み取った。
「……大丈夫ですよ、もう」
――自分も変わった。
これまでの出来事を通して、自分の意志、想い、歪だった部分――それら全てを、見つめ直すことが出来た。
これから先、私たちの命は続く。想像だにしない苦難や苦悩が、いくつも立ちはだかることだろう。……けれど。
「私たちは、もう……大丈夫です」
……私たちが。
暗闇の路頭に迷うことは……
きっともう、無いだろう。
そう思う。
「……そうかい」
その考えは、庄野もまた同じだった。
最初に会った時とは、大きく成長した両者。
どんな困難も、きっと乗り越えられるだろう、と感じる。
「――あ!」
同意の先――
病院のロビーに到達した時。
快活な声と共に、彼女らの元へ駆け寄ってくる影が一つ。
「くーちゃーんっ!」
「え――ヴィブロスさん?」
クレインは、驚きをもってその名を呼ぶが、人影はそれだけではない。
「ちょっとヴィブロス、病院で騒いだらダメだって……!」
その背後を、慌てて追走してくるシュヴァルグラン。
「そうよ。あんまり騒ぐと、締め出されるわよ?」
優雅に歩くヴィルシーナに。
「ったく。だから留守番させた方がいいって言ったのに」
隣にはスイープトウショウ。
「あはは。まぁ気持ちはわからないでもないけどね~」
「いやいや。マナーはちゃんと守らないと……」
「そうだねぇ。叩き出されちゃあ、元も子もないからねぇ」
「……」
更には、コパノリッキーに、ホッコータルマエに、ワンダーアキュート、西浦までも。
総勢8人、相当な大所帯を前にして、クレインは困惑を隠せなかった。
「え、えと……皆さん、どうしてここに……」
口調に迷ったクレインは、ひとまず敬語にて対応する。真っ先に応じたのは、ヴィルシーナだった。
「お見舞いのためですわ。あれだけの騒ぎだったんですもの。『友人』として、容態を確認するのは当然ではなくて?」
「あ、あぁ~……そりゃもう……」
しかし大丈夫なのだろうか、とクレインは考える。あの雰囲気、あの状況。あんまり大勢で訪問したら、色々と台無しになるのでは……
「難しいこと考えてんじゃねーよ」
そんな彼女を、庄野は軽く小突いた。
「行ってこいよ」
「え、でも……」
「お前、そういう頑固なとこは変わってないよな。いいから行ってこい。話もひと段落してるだろうしな。俺は――」
ちらと、彼女らの表情を確認して。
「……この辺で待っとく。終わったら連絡してくれ」
「……」
クレインは、その一言で全てを察する。
正論で留めようとする自分の本能を、無言で説き伏せた。
「……じゃあ」
「やったー! じゃ、受付してくるねっ!」
「だ、だからそんな騒いだらダメだって……!」
「おう。頑張れよー」
そうして、再度騒ぎ始める集団を見つめながら、庄野は続けて言う。
「……やっぱり、多少うるさくても、鬱陶しくても、友人は持つべきだよな。あんたもそう思うだろ?」
「……」
「……はは。問うべくもねーか」
隣に立つ西浦は無言だが、庄野はわかり切ったように自答する。無事受付を終え、廊下の方へと歩いていく少女たち。
「……、」
自分たちからすれば、まだまだ年端も行かない『ガキ』だが。
その向かう先は――きっと。
「……美しい友情、だな」
光に、満ち溢れている。
泥に塗れた私たちへ
run into the mudness
結章
-fin-