果てしない地平線を見て、どこまでも広がる青空の下で、己が何者でもないことを理解していた。
背を押していた楽しげな福音。かつて包み込んでくれていた祝福。その全ては今や色褪せ、遠ざかり、その形すらも朧気になってしまった。彼らはどことも知れない世界の果てで、何でもない談笑に花を咲かせている。
何も気にしていない。何も気に病むことはない。誰も期待していないのだから。言外に訴えられた気分になって、少女は家を飛び出していた。
だがどこまで行っても、荒野は荒野だった。どれだけ時間をかけても、景色は変わらなかった。音は聞こえず、気配などもなく、一心にそれを求めるかのように、傷だらけの身体を引きずって彷徨っているうちに、辺りは暗くなってしまっていた。
もはや帰り道はわからなかった。行くべき場所さえも、曖昧だった。語り掛けてくれる声などない。導いてくれる案内人などいない。傍にいる存在など、いない。独りぼっちの世界の中で、少女は、自分を保つ術を探さなくてはならなかった。誰も教えてなどくれなかった。助けを呼ぶ声さえ、届くことはなかった。絶え間ない発狂と覚醒の繰り返し。その果てに彼女は見つけ出していた。
仮面を見つけていた。
嘘を見つけていた。
仲間を見つけていた。
他に何もない荒野に、少女の声だけが響き続けている。ひび割れた地面は、いつになれば、綺麗な緑色に染まってくれるのだろう。殺風景なこの世界は、いつになれば、生命の気色が現れてくれるのだろう。誰にも何もわからなかった。全ては小さな彼女の中での話だった。
そして、それが理解されることはない。理解されるには、全てが手遅れだった。これが自分の運命だ。辿るべき宿命だ。果たすべき現在だ。少女は自分にそう言い聞かせた。最初は苦しかったが、それは徐々に安らかになった。板に着き、肌に着き、痛みを痛みとさえ感じなくなった。期待を、希望を、夢を、願いを、裏切られるのなら、最初から抱かないように。星々が痛々しく瞬いた。羨ましい。少女は、ボロボロになった心のまま、虚ろな瞳を綻ばせてそう思った。
少女は生きている。少女は歌っている。世界から見捨てられた今でも、無様に、泥臭く走っている。ただ、荒野は終わらず、道は続き、景色は今でも、尚も、生き物のように成長を続けている。ここはどこだろう。呟く言葉さえ、いやに小さく、弱々しかった。無音が彼女の耳を叩く。当然、それに応じる声も、そこにはいつまでも響かなかった。
――こんなところにいたんだね
少女に話しかけるものがある。
彼女が顔を上げると、そこには一人の人物が立っていた。
逆光でその顔は見えないが、不思議と少女は恐れを抱かなかった。
差し伸べられた手を取って、彼女はその場に立ち上がる。
――さぁ、行こう
手を引かれるまま、少女はそこから走り出す。
一陣の風が吹く。
雨が降り、地が固まり、やがては緑色の絨毯が辺りを覆った。いや、もしかしたら、最初から覆われていたのかもしれない。
その中心には、一輪の花が、静かに花弁を開かせていた。
ここはモンベツ、です!
北海道は日高町。
際限なく広がる青空の下、モンベツトレセン学園では、今正に、『模擬レース』がひと段落したところだった。
「――はい、みんな集合ー!」
ホイッスルの音と共に掛けられた声に、それまでレースをしていた生徒たち――複数のウマ娘が、一人の、ジャージ姿のウマ娘の元へと駆け寄っていく。
全員が話を聞ける状態であることを確認したそのウマ娘は、レースを一通り見た結果としての感想――もとい改善点を丁寧に上げていく。
一通り指摘が終わると、ちょうど響くチャイムの音。感嘆の声を上げる生徒たちだったが、偶然だって何度も言ってるのにな、と彼女は、慣れない感覚に恥じらいを抱いた。
解散する生徒たちを見送って、彼女もまた歩き出す。
手元のクリップボードに貼り付けた資料を見つめながら、頭の中の考えを整理した。
……過去のレースの模様を確認して、指導の必要そうな生徒に重点を置き、トレーニングを課す。
それぞれが課題を自覚したところで、軽い模擬レースを二度……限られた時間で、これだけ出来れば上等だろう。
が、『デビューすら叶っていない彼女ら』を本レースまで持っていくには、まだまだ足りない。
練習の密度をもっと練って、生徒との対話なんかもやったりして……必要なら残業、家に持ち帰って考えたりもしなくちゃ。
やること山積みだなぁ――考えながら、手元から目を離した時。構内に設置されたベンチに、よく見知った姿を認めていた。
黒っぽい栗色のポニーテールに、スーツ姿。
「……」
手に持った携帯電話に目を落としている彼女は、こちらが近付いていることに明らかに気が付いていない。果たして何に夢中になっているのか、と背後から携帯電話を覗き込むが――何のことはない、ただ写真を見つめているだけのようだった。
「……何してんの?」
「ほわぁっ!?」
疑問に声を掛けると、彼女はびくりと跳ね上がり、弾みで携帯電話を放り出し掛けていた。何とかキャッチしてやり過ごし、驚きに満ちた顔で振り返る。
その目には怯えも見られたものの、声の正体を知ったからだろう。すぐに安堵へと変わっていた。
「な、なんだ……くーちゃんか……」
「私以外に誰がするのよ、こんなこと。……で、何してたの? こんなとこで」
「んと、まぁ。大したことじゃないんだけど」
ソードクレインの問いかけに、フェアリィルナは、携帯電話の画面を示しながら答える。改めて画面を見つめると、まず感じたのは懐かしさ。
自分たちが、まだ学生だった頃の写真。
「ちょっと暇になっちゃったからさ。何となーくアルバム眺めてたの。そしたら、懐かしい写真がいっぱい出てきてね……」
「……『あの時』の写真ね。本当に懐かしいわね……」
クレインも一緒になって、フェアリィの保存した写真の数々を見つめる。そこには、今や会うことさえ困難になった、超有名人の姿さえある。
「……今見ても面白い顔してるわね、オルフェーヴルさん。あんた、本当によくこんな写真撮ったわよね」
「う……そ、その話やめて。軽く黒歴史だから……」
今では笑える思い出、と思いきや。彼女にとっては、消し去りたい過去らしい。心中を察し、クレインはそっか、と返すに留まった。
スワイプすると、そんな記憶の数々が、次から次へと表示されていく。鎬を削ったライバル、楽しい時間を共有したクラスメイト。教師――
そのどれもが、掛け替えのない宝物。欠かすことの出来ない、大切な記憶。
「……みんなどうしてるのかな。シュヴァルちゃんたちとは、たまに連絡取り合うけど。オルフェーヴルさんとは、全然お話出来てないや……」
「今じゃあの人も、あっちこっち飛び回って忙しいみたいだからね。この間なんか凄かったらしいわよ。会食の席でジェンティルさんと鉢合わせて、一触即発になったとかなんとか」
「うわーすごい。絶対居合わせたくないその現場」
想像するだけでもぞっとする。と同時に、安心したりもする。相変わらずみたいで――何よりだ、と。
「……ま、でもあんたも、ちゃんと気を引き締めなさいよ」
そんな、どこか他人事なフェアリィに、クレインは言う。
「今度から――クラスを持つんだからさ」
「……」
フェアリィは笑みを口に含む。
それは事実であり、自分の直向きな努力が評価された結果だ、ともいえるが――
「――あ、改めて聞くと、緊張するね……!」
「頑張りなさいよ。私も、出来る限りで協力するから」
尤も、『教師』と『教官』では、似て非なるところはあるだろうが。同じ『職場』の『職員』として、愚痴を聞くくらいなら出来るはず。そしてその覚悟も、クレインにはとうに出来ている。
「じゃ、私は行くわね」
と、そこで徐に腕時計を確認したクレインは、フェアリィに声を掛けて踵を返す。
「また後でね」
「うん。またね」
手を振り、クレインを送り出すフェアリィだが、如何せん、もうしばらくは時間が空いている。そしてそんな隙間時間を、どう過ごすかという課題は未解決のまま。
ここに留まり続けることもないし――と考えた末、ひとまず構内を歩くことにした。
車両の音。
微かに聞こえる喧騒。
風のざわめき。
それらをBGMに歩き続けて――やがて辿り着いた、正門付近。
「……ん?」
そこに、小さな人影を見た。
『自分たち』に似た姿をしていることから、ウマ娘であることは間違いない。
すすり泣いているらしい彼女が――何かに困っていることは明白だった。
「……」
見過ごすことも出来たが――
とんでもない、自分は今や、立派な大人なのだ。
困っている小さい子を見捨てて、何が教師だ! ……ということで、声を掛けることにする。
「……えっと」
というわけで、少女の元へ歩み寄り、しゃがみ込む。
出来るだけ優しい声色で、話しかけた。
「どうしたの?」
「……っ、うぅっ、お、お母さんと、は、はぐれちゃってぇ……」
「あ~……」
この辺、だだっ広いからなぁ――同情しながら、続けて訊くべきことを訊くことにする。
「……そっか。あなた、お名前は?」
「な、なまえ……」
そこで、少女は顔を上げた。
自分によく似た、黒っぽい鹿毛。
「なまえ、は……」
彼女は、嗚咽交じりの声のまま。
フェアリィの問いかけに、答えた。
「――クワイエットエニフ……」
――それを聞いて。
フェアリィの胸が、音なく高鳴る。
瞬間、強めの風が吹き。
二人の髪を、優しく靡かせていく。……
その者たちは、走るために生まれてきた。
ときに数奇で、ときに輝かしい歴史を持つ、別世界の名前と共に生まれ、
その魂を受け継いで走る――
それが、彼女たちの運命。……
「……おねえちゃん……」
少女は、フェアリィに訊ねる。
「ここ……どこなの……?」
縋るようなその言葉に。
フェアリィは、出来る限り優しく笑う。
彼女と真っ直ぐに、向き合うと。
「――、」
息を吸って――
言った。
泥に塗れた私たちへ
run into the mudness
-End-