「ふおぉぉぉぉぉッ!!」
東京都は府中市。
その心臓部とも言える府中駅に、浮かれ切った大声が轟いた。
「おっきな駅!! お洒落なお店!! 見渡す限りの人、人、人ッ!!」
声の主は、それだけに飽き足らず。近くの街灯へと走り寄ると――
「ウオオォォォォォォォッ!!」
とんでもない速度でそれによじ登り――
衆目の視線を集めつつ、眼下の『親友』に向け、ぶんぶんと手を振っていた。
「――クレインさぁーんっ!! 写真を!! 写真を撮ってくださいっ!! フェアリィはここ!! フェアリィはここですよーっ!!」
「……わかった。わかったから……お願いだから大人しくしてて……」
それを見た彼女は――
顔を真っ赤に染めながら俯き、ぼそぼそと訴えかけていた。
かの話が学園中に広まったのは一瞬だった。
『フェアリィッ!!』
スカウトの話が来た翌日。
フェアリィルナとソードクレインが属する教室は、それはもうとんでもない騒ぎとなっていた。
フェアリィが登校してくるなり――
その周囲には、有名人の凱旋の如き人だかりが出来ていた。
「あ、あんた、本当なの!? スカウト受けたって話っ!!」
「はい!! 本当でありますっ!!」
その中にあっても、彼女の振る舞いはいつも通りだ――いつも通りに、元気よく。だがそこから放たれた事実確認に、クラスメイト達はいつもどおりでなぞいられない。
「嘘、嘘でしょ!? なんで!? コイツなんかより、アタシのがよっぽどいい走りしてたでしょ!?」
「ちょっと! なんかとか言わないの!」
「何かの間違いではないのですか? 呼び出す生徒を間違えたとか……」
「でもコイツと名前の似てるヤツなんて、オレたちの周りにいなくねーか?」
「ってかあたし、さっき理事長に確認したけど、間違いないって言ってたわよ」
「……理事長、どんな感じだった?」
「なんか……三徹したみたいな顔してたわ」
「いやぁー、あははは」
どよめきの中、あれやこれやと推測を立てる生徒たちを見て、フェアリィは後頭部を掻いていた。
「――とんでもない騒ぎですねっ!」
『オマエのせいだよッ!!』
「……」
そんなお祭り騒ぎを、ソードクレインは遠巻きに見守る。
自分よりも彼女が注目されていることは、若干ながら不満ではあったが。
まぁ、あんなに集られるよりはいいか――と、思い直す。
「……世の中、何があるかわかんないねぇ~」
そんな彼女に、フードのウマ娘が話しかけてきていた。
「でも、どうしてあの子がスカウトされたんだろ……」
「……さぁ。見当もつかないわ」
「『暴君』様に訊いたりしなかったの~?」
「訊けばよかったのにね。そこまで考える余裕なかった」
「気持ちはわかるよぉ~……」
同情の目を向けられるクレイン。残念ながら、あのような想定外の現実に直面してなお、オルフェーヴルに質問をぶつけられるような図太さは、彼女は持ち合わせてはいなかった。
ひと月。
それが、中央から提示された期間だった。
それまでに色々な準備を済ませなければならなかったが、幸いにも二人とも、それ以上の期間を要するほどの、大掛かりな準備はなかった。
むしろ彼女らがとうとう旅立つ前日に行われた盛大な送別会の準備の方が、よほど大変であった。
今生の別れでもないのに、とクレインは苦笑いするものの、仕方ないのかもしれない、と納得もする。
というのも、モンベツと中央との地理的関係は、北海道と東京。
寂しくなったから――などといって、気軽に会いに行けるような距離ではない。
ならば、今生と思って盛大に騒ぐのも、道理ではあった。
モンベツトレセン学園前バス停より、こちらが恥ずかしくなるような大仰な横断幕と大勢の友人たちに見送られながら、長い旅路を歩み始める。
この北の果ての大地から、東京という日本の心臓部に向かうルートはいくつかあった。
ひとつは、飛行機を利用するもの。
ひとつは、電車を利用するもの。
それ以外の公共交通機関を利用した移動も可能ではあったが、現実的でないため、選択肢から外された。
好きな方法を選ぶといい――そう言ったのは、理事長。
それに甘え、自分は難しいことは分からないので、と思考を放棄したフェアリィに変わり、クレインが選んだ手段は――
電車、であった。
全行程、10時間近い長旅。
疲れを考慮するならば、飛行機を利用しない手はなかった。
それでも敢えて電車を選んだ理由は、単純であり――
飛行機内にて。到着するまで、フェアリィルナの手綱を握っていられる自信がない、というだけの話であった。
手綱を握る、という点では、電車での移動も同じことではあったが。まだ乗り慣れている分、いくらか大人しくなってくれるだろうし。
旅程が長ければ長いほど、燃料切れを起こし、静かになる時間も長くなる。
中途半端な長旅では――彼女の体力を消費し尽くせず、こちらの体力が持たない可能性が考慮された。
そして実際。そんなクレインの采配は、功を奏していた。
「ふおぉぉぉっ……!! 久々の電車の移動っ!! なんだか楽しいですねっ!」
「そうね~」
最初こそ、そんな風に爛々とはしゃいでいたフェアリィルナは。
「ほら、しっかり歩きなさい」
「はぁ~~い……」
最初の目的地である、新函館北斗駅に到着する頃には、いつもの明るさは失われており。
北海道新幹線に乗り込み、少し経った辺りで。
「……」
「……」
隣――通路側に座るクレインに身を預け。すっかり、夢の世界へと落ちてしまっていた。
静謐な車内で、彼女は手元に開いた本に目を落とす。数時間もあると、そこそこに厚い本ですらも、読み終えてなお時間が余る。
フェアリィルナを起こさないよう、慎重に伸びをすると、身体が小気味いい音を鳴らした。ちょっと体操でもしたいな、とぼんやり考え始める。
……
フェアリィルナとは、十年来の親友だ。
知り合って以来、いつだって彼女はクレインの隣におり、実の姉妹のように、多くの時間を共有してきた。
楽しい時は、楽しさを分け合い。
苦しい時は、主に彼女がそれを吹き飛ばしていた。
太陽と月。熱湯と冷水。光と闇――
最弱と最強。
ウインバリアシオンの例えは的を射ていた。人々はたびたび、彼女らをそのように表現していた。
「……」
心に滲み出てきた、もやもやとした薄暗い感情を振り払うように、彼女は、身を預けているフェアリィルナに身を寄せる。
空いた片手で、彼女の僅かに乱れた髪を整えてやると、くすぐったそうに声を漏らしていた。
それに微笑みながら、クレインもまた目を閉じる。
揺り籠のような、穏やかな揺れを感じたのは、一瞬だったように思う。
「……」
気が付けば。
目的の駅まで、あと少しのところになっていた。
今や彼女は、座席に身を預ける形になっており。
朦朧とする頭で、フェアリィルナの方を見てみると。
彼女は、いつになく真剣な表情で窓の外を見つめていた。
普段が普段なだけに、物静かに外を見つめているだけでも、そこにいるのが誰なのかがわからなくなってしまう。
まるでこの世の終わりをそこに見ているかのような姿に、クレインは、吸い込まれたようにその横顔を見つめていたが。
「……!」
気配を察したのか、フェアリィは、目線をクレインの方へ向けていた。
瞳は光を取り戻し、表情もぱあっと明るくなる。
「……、……!! ……!!」
珍しく空気を読んだのか、身振り手振りで感情表現を行うフェアリィ。
敢えて言語化するならば、『もうこんなところまで来たんですね!! まるで異世界にでも来たみたいで、フェアリィは感激です!!』といったところか。
確かにその素振りは、発する物音を最小限にとどめていたが、それでも布擦りの音と大仰な動きとは、音なき音を視覚という形でクレインに聞かせていた。
ひと言も発していないのにうるさいと思わせるのは、もはや才能だな、と彼女は感じた。
そうして、半日近くに及ぶ長旅を終え――
府中駅に降り立ったわけだが。
「――じゃあ行くけど、もうこんなことはしないようにね」
まさか、早々に警察のお世話になるとは、さしものクレインでも予想外だった。
ウマ娘として走る以上は、衆目からの注目を集めるのは大切なことだ。
自身を応援してくれる存在――ファンがいなくては、一部のレースへの優先出走は愚か、出走する権利そのものを与えてもらえない場合があるからである。
だから、クレインの心には、いつだってどれだけ観衆を惹きつけられるか、という考えが少なからず灯っているのだが。
かといって、それがこんな形で叶うのは、不本意極まりないことであった。
「いやぁー、不覚ですねっ、まさか警察を呼ばれてしまうとは!!」
「そうね。まさか街灯によじ登るなんてね」
別の意味で不覚だった。寝起きだったこともあってか、フェアリィルナが、幼年の大型犬のような人物であることをすっかり失念していた。
これがもし飛行機での移動だったなら、果たしてどうなっていたことか。自らの判断力もまだ捨てたもんじゃないな、とクレインは感じていた。
「……、まぁいいわ。とにかく行きましょう」
何にしても、これ以上留まる意味はない。そう感じて、クレインは歩き始める。
フェアリィもまた追い縋るが、その瞳には疑問の色が灯っていた。
「バスとか乗らないんですか?」
「ここから北に10分くらい歩くだけよ。バスを使うまでもないわ」
「おぉ……! な、なんかカッコいいセリフですねそれ!」
何言ってんだコイツは、と思いながらも、クレインは先導する。府中駅から北へ、少し歩くと、背の高い建物は少なくなり、闇に浮かぶ孤城のように、それが薄っすらと遠目に見えていた。
天を突かんばかりに伸びる尖塔は、さながらバベルの塔だ。
「ふおぉぉぉぉッ!!」
「あっ、ちょ……」
電車内で睡眠を取ったのが効いたのか、本当に長旅を終えたばかりなのか疑いたくなる元気っぷりで、フェアリィはその建物の方へと駆け出す。
クレインは大声で引き留めようとしたが、近所迷惑になるし――何より行き着く場所は同じなのだから、と努めて冷静にその背を追う。
程なくして。二人はそこに辿り着いていた。
「――でっ、でっっっっかあぁぁぁぁぁいっ!!」
近所迷惑とか考えたことがバカバカしくなるほどの絶叫が轟く。
ぴょんぴょんと飛び跳ねるフェアリィの様子は、まるで初めてテーマパークを訪れた子供のようだし、
「すっごいですねっ!! まるでテーマパークですよっ!!」
実際、本人もそう感じていたようだった。
だがそれは、れっきとした国営機関であり、実態はテーマパークとはかけ離れている。あまり俗っぽい例え方はしない方がいいのでは、とクレインは考えた。
「わ、私たち、今度からここに通うんですか!? え、どうしましょう!? 写真撮っときます!?」
「落ち着いて」
これから毎日、嫌というほどその姿を見ることになるだろうし、そうでなくとも今は夜中、写真を撮るに絶好なコンディション、とはお世辞にも言えない。
だからクレインは、飽くまで彼女を落ち着かせ、ここからの行動を確認する。
「今日は入寮を済ませるだけよ。本格的な入学は明日から」
「なるほど!! ちゃんと把握してるとはすごいですね!! さすがですっ!!」
むしろなぜ把握していないのか、産まれて初めての長旅に、不安とか――感じなさそうだな、この子は。
「あれ、でも寮ってどこにあるんでしょう。それっぽいの見当たりませんけど……」
「あれだと思うけど」
きょろきょろと見回すフェアリィルナとは対照的に、ソードクレインはその場所の見当がついていた。
それは、学園と道路一本隔てた向こう側。周囲から見るからに浮いている、ホテルのようにも見える建物。
「……」
言葉を失っていた。
クレインは、ごくりと固唾を呑む。
それまで、なんだかんだ実感を持てていなかったが――
そこに来て、ようやく実感がわき始める。
中央に来たのだと。
次元の違う場所にやって来たのだと――実感する。
「――ふわぁぁぁっ!!」
が、それは飽くまでクレインだけの話だ。
フェアリィはというと、そんなものとは依然として無縁なようであり。
「あ、ちょ……」
つい先ほど全く同じやり取りをしたな、と思いながらも、クレインは駆け出したフェアリィを追う。
そうしてとうとう目の前にした、その施設は――
本当に、高級ホテルのような外観だった。
何かの間違いじゃないのか。疑わしくなってしまったが、目にした表札には、はっきりと『栗東寮』と書かれている。
「す――すごい外観!! まるで高級ホテルではないですか!!」
フェアリィは、なおも溌溂と驚愕の声を上げる。
「い、いいんですか本当に!? こんなところに住んでしまって!!」
「んー……まぁ……これがこっちのスタンダードなのかもねぇ」
故郷との落差に、クレインの感覚もだんだん麻痺してきていた。無論、そんなわけはなかった。
「あっちも寮なんですか?」
次にフェアリィの関心が向いたのは、栗東寮と路地を挟んだ向かい側にある、瓜二つの外観の建物だった。
クレインはそれを一瞥し、浅く頷く。
「……みたいよ。あっちは美浦寮ね」
気を取り直した彼女は、メモ帳に目を落とす。そこには、事前に自分なりに調べ、まとめた情報が書き連ねてある。
「違うのは寮長くらいで、あっちはヒシアマゾンって人が担当してる。で、こっちは――」
「――この私、フジキセキが担当しているよ」
――と。
結ぼうとした言葉は、別の人物によって紡がれていた。
爽やかながら、包容力を感じる、優しげな声。
「――!」
弾かれたように、二人の視線が動く。
それに晒された『彼女』は、薄闇の中、ちょうど二人へと歩み寄って来ていたところだった。
その顔には、悪戯っぽい微笑みが浮かんでいる。
「あはは。ごめんごめん。驚かせちゃったかな?」
「あ……え、えっと」
「今日入寮予定の、ソードクレインちゃんとフェアリィルナちゃんだろう? 待っていたよ」
「――、はじめまして」
当惑したクレインだったが、数瞬ほどで落ち着きを取り戻す。一礼すると、フェアリィもそれに倣っていた。
「ソードクレインです。本日より、こちらの寮にお世話になります。……もしかして、外で待っていてくださったんですか?」
「んー、半分正解、かな」
浮かんできた推測をぶつけると、彼女――フジキセキは答えた。
「君たちが来るのはわかってたからね。出迎えついでに見回りをしてたんだけど……まさか入れ違いになるとはね。
ともあれ改めて……はじめまして。栗東寮の寮長を務めている、フジキセキだよ。これからよろしくね、ポニーちゃんたち」
「……?」
言い終えると、彼女はどこからか、短めのステッキのようなものを差し出してみせる。クレインが手を差し出――そうとした瞬間、フジキセキの手が、ステッキからほんの一瞬だけ離れていた。
握り直された時――
それは二束の、長い茎を持つ青い花へと変わっていた。
「……!」
「おぉ~……!!」
「ふふっ。私からの、歓迎の印だよ」
要は手品であった。それぞれに受け取ったその花は、生け花としては質感が硬めだったが、それが何故なのか、クレインには瞬時にわかっていた。
「ニゲラという花だ。造花だから、生ける必要はないよ。花言葉は後で調べるといい」
「あ……ありがとうございます」
「オシャレな歓迎ですねっ!! カッコよくて、このフェアリィ、感激です……あっ!」
フェアリィルナは、受けた感動そのままの勢いで言葉を連ねるが。途端、何かを思い出したように声を上げると、背を伸ばし、びしっと敬礼をしていた。
「はじめましてっ!! フェアリィルナと申しますっ!! よろしくお願いしますですっ!!」
「うん。よろしくね」
そうしてお互いに自己紹介を済ませた彼女らの間に、和やかな空気が産まれる。フジキセキの思惑通りであった。
「それじゃ、早速だけど、寮を案内するよ。着いておいで」
そして彼女は、二人の先導を始めた。
共用の浴場や水回り、食堂――設備に特別なものはない。言ってしまうと、内実そのものは、『地元』の寮とほとんど同じものだ。
――ただ。
ただそれらは、例外なく一級品だった。もちろん、彼女らに言葉を投げかけてくることなどないものの。それでもクレインには、言外にこう語り掛けてきているように思えてならなかった。
『大丈夫なのか?』と。
『本当にここでやれるのか?』と。
「……」
一抹の不安。
フジキセキの説明を聞きながらも、彼女の胸の内に、そんなどんよりとした雲がかかり始める。
「うおおぉぉー!! すごいですね!! まるで美容室じゃないですかっ!!」
ただ――
ただ。すぐ隣で騒ぎ立てる『彼女』の存在が、そんなものの滞留を簡単には許さなかった。
フェアリィルナは、終始明るくはしゃぎ回っており。今回ばかりは、その無邪気さが羨ましくなってしまったクレインだった。
「さ、ここが君たちの部屋だよ」
果たして辿り着くのは、二人に割り当てられた寮室。ここまでくると、何の変哲もない木製の扉でさえ、とんでもない高級品のように思えてくる。
「くれぐれも常識の範囲内で使うこと。画鋲も使えるには使えるけど、あんまり穴を空け過ぎると、修繕費が必要になる場合があるから気を付けて。防音もそこまでしっかりしてるわけじゃないから、特に消灯時間以降は、無暗に騒がないこと。……さっきみたいにね」
「……すみません」
「はいっ!! 気を付けますっ!!」
刺された釘をものともしないフェアリィに、クレインが息を吐いてしまったのは、感心からか呆れからか。
「何か質問はあるかい?」
苦笑いと共に続けたフジキセキに、クレインは首を横に振った。
「いいえ」
「はい! ありません!」
「結構。じゃ、新たにわからないことが出てきたら、いつでも訊いてね。寝ていない限りは対応するから――それじゃ」
ともあれこれで、長かった二人の旅程も、ひとまずは終了となる。フジキセキは、その締めとばかりに姿勢を正すと、バトラーのように恭しく一礼していた。
「ようこそトレセン学園へ。……良き旅路を」
それから、そう告げると。彼女らに軽く手を振りつつ背を向け、颯爽とそこから立ち去っていた。気取るでも、格好つけるでもない。本当にただそうあるべきである、という凛然とした佇まい。自分もいつか――あんな風になれるのだろうか。ぼんやりと、クレインはそんなことを考える。
「――おぉー!! いいお部屋ですねっ!!」
――しかし、そんな余韻などいざ知らず、早速とばかりに扉を開け、大声で感想を述べたフェアリィルナは、先ほどの忠告を忘れてしまったのか。
この子にはまず、マナーモードという概念を教えないとな、と思いながら、クレインもまた、部屋の中へと足を踏み入れた。
広さ自体は、正直モンベツとさほど変わらない。その事実に、彼女はむしろ安心感を抱いていた。
部屋までスイートルームの如き広さだったらどうしてくれようか――などと考えていたのだが。そのような突飛な心配は、杞憂に終わっていた。
あるのはベッドとチェスト、勉強机に収納ボックス、冷蔵庫。小ぢんまりと纏まっており、それでいて寂しげでも、窮屈でもない。
確かにいい部屋だ、とクレインは感じた。
「……」
が。フェアリィに続いて動いた身体は。
重たいキャリーバッグを無造作に放り出し、ベッドの上へと倒れ込んでいた。
ベッドは程よい質感で、それに抱擁されたように、意識が急速に埋没しようとする。
「あれっ、寝ちゃうんですかクレインさんっ!!」
そんな意識を、フェアリィが寸でのところで引き留めていた。だが元より、クレインにそれに抵抗する気はなかった――なぜなら。
「お風呂入らないんですか!? 消灯までに入っておかないと!!」
「……気が向いたら行くわ」
「えぇー! もう気が向く余裕もないと思いますけど!!」
「……っさいなぁ……」
いつも冷静なクレインにしては、棘のある声が漏れ出ていた。
「……疲れてるのこっちは……」
そう。
疲れている。それだけの話だった。
先ほどまではそこまでではなかったが――無事、目的地に辿り着けた安心感からか。積み上げた積み木が崩れ落ちるように、彼女の身体は休息を欲していた。
親友に向けて、無意識にでもぼやいてしまうほどには。
「……」
フェアリィは、一瞬目を丸くする。
いつもなら、持ち前の元気で無理矢理にたたき起こすところであろうが――さしもの彼女も、そこまで分別がないわけではないようだった。
彼女が下敷きにしている掛け布団を引っ張り出し、その上に掛けてやる。
ぽんぽん、と布団越しに優しめに叩くと、クレインはもぞもぞと蠢いていた。
「そうでしたね、」
それを見たフェアリィの口元に、微笑が灯る。
「フェアリィはもう少し出歩いています。……おやすみなさい」
「……ん……」
短い返事を最後に――
寝息を立て始める彼女を見届けて、フェアリィは準備をする。
持参した道具一式――言ってしまえば『お風呂用具』を手提げバッグに詰め、電気を消すと、部屋から出ていた。何はともあれ入浴してしまおう、という話である。
幸いにも浴場はまだ開いており、問題なく利用することが出来たが、生徒と出くわすことはなかった。貸し切りだぁと、さっと入浴を済ませてしまう。
が、やはり『女性』の入浴とは否が応でも時間がかかってしまうものであり、出てきた頃には消灯まで一時間を切ってしまっていた。
静謐な廊下に控えめな放送が響く。要約すれば『消灯まで一時間を切ったのでさっさと部屋に戻りましょう、どうなっても知りませんよ』、といったところ。
本来ならそれで家路――ならぬ部屋路を急ぐべきところなのだが、フェアリィとしてはまだまだ探索し足りなかった――そのために、足は明後日の方へと向けられる。
そして冒険のごとく、あちらこちらをそそっかしく見て回る。
とは言え、どれもフジキセキに案内された場所だ。今一度改めて見たところで、特別何かが変わるわけではない。が、一人だけで探索すると、不思議とそれらはまた違ったように見えていた。目の輝きは爛々と煌びやかに、当分は失われそうには見えなかった。
ただ寮も寮で、無限の広さを誇っているわけではない。そして時間もまた有限だ。そうは言ってもそろそろ帰るべきか、という考えが、彼女の脳裏に過ぎり始めた時だった。
「……?」
ガコン、と硬めの物音が聞こえてくる。
それは、彼女の近くに設けられた、ちょっとした談話スペースからであり――フェアリィは、そろりとそちらを覗き込んでいた。
「……!」
そこには、一人のウマ娘がいた。
自販機から購入したらしい、ペットボトルの水に口をつけている、明るい栗色のお団子ヘア。
――コパノリッキーだ。
「……」
彼女は、ペットボトルから口を離すと、マイペースに一息つく。
思うのは、今日一日の出来事や、トレーニングの内容、今後の展望等。
なぜ消灯間際のこの時間にここにいるのか、と言えば、その理由は単純。自主トレーニングに励んでいたからである。
ただ少し熱を入れ過ぎてしまい、遅くなってしまった。
一仕事終えたような表情の彼女の意識には、少しばかりの隙があった。
だから、そこに居合わせたもう一人の存在に気付くのには、少し遅れていた。
「……」
「……」
二人の視線が合致する。
双方とも、目を丸くする。
自販機が機械的な音を出し、大きく震える。
彼女らの間に、そんな有り触れた物音が喧しく聞こえるほどの静寂が漂った。
「……えと」
先に口を開いていたのは、コパノリッキーだった。
「こんばんは?」
「!」
どこか気まずそうなその声に、フェアリィは心底嬉しそうに反応する。
「はいっ!! こんばんはっ!!」
「っ」
まさかそんな元気のいい返事が来るとは思っていなかったリッキーは、身体をびくりと震わせてしまったが、気を取り直す。
「……見ない顔だね。転入生?」
「はいっ!! 今日こちらに転入して参りましたっ!! フェアリィルナですっ!! よろしくお願いしますですっ!!」
敬礼付きの、元気いっぱいなあいさつ。軍隊か、と心の中でツッコミつつ、リッキーもそれに答えた。
「中等部2年の、コパノリッキーです。……どう? 中央は。気に入ってもらえたかな?」
「はい!そりゃもう!! モンベツとは全く次元の違う規模……!! まるでテーマパークに来たみたいです! これからここで皆さんと励むんだって思うと、今からわくわくしますっ!」
「ふふっ。そっか。ローカルシリーズからの移住ってなると、萎縮しちゃう子が結構いたりするんだけど、そんな心配は無用そうだね」
「ま、まぁ。緊張してないというと、嘘になりますけどね……!!」
フェアリィは、頬を掻きながら、照れ臭そうに応じる。そしてそこで、あ、と何かを思い出したように手で口を覆っていた。唐突な動きに首を傾げたリッキーに、フェアリィはそのまま答える。
「しまった、大声を出し過ぎないようにって言われてたんでしたっ……!!」
「あ~……うん。まぁ、大丈夫だと思うよ」
談話スペースから最も近い生徒の居室までは、そこそこに距離がある。迷惑がられるほどではないだろうと思うし、これだけ話した後なのだ。もはや手遅れだろう、ともリッキーは思った。
「……色々話したい気持ちはあるけど、時間が時間だからね」
フェアリィルナがどういった路線でいくのか。適性は。戦術は──
同じ選手として興味はあったが、掘り下げるには時間が遅過ぎた。
「今日はここまでにしよっか。また会ったら、お話しようね」
「はい! 是非とも!! お願いしたいです!!」
さっき言った割に声量が落ちていないな、と苦笑いしながら、リッキーは、そうだ、とひとつ思い付き。
「……あなた、風水とか興味ある?」
「フースイ? 占いのですか?」
「占いじゃないけど……」
ありがちな勘違いだな、と感じつつ、リッキーは言った。
「もし興味があったら、いつでも相談してね! 学園の誰よりも詳しい自信あるから!」
「おぉ~! ちょっと胡散臭いですけど、いいですね!」
「う、胡散臭い……!」
思わぬ発言に若干のダメージを受けるリッキー。軽率に言わない方が良かったかもしれない、と反省しながら、
「じゃ、またね」
「はい! おやすみなさいっ!」
立ち去る姿に、フェアリィは頭を下げる。足音が遠ざかっていく中で、彼女は人知れずテンションが上がっていた。
初日から先輩とお話出来るなんて! ――うきうきと楽しげな空気を醸し出しながら、彼女もまた、その場から立ち去っていた。