日本競レースの黎明期、時のURA事務総長が、「日本ダービーに匹敵する大レースを!!」という信念の下に設立した大会である!!
当時としては異例の、ファン投票による『優先出走権』が初めて導入された大会でもあり、その功績は、後に続く多くのレースに多大な影響を及ぼした!!
今では年末の風物詩として、競レースをよく知らない人々にさえ認知されている、日本競レースの歴史を語るに欠かせない盛大な催しである!!
そんな素晴らしい大会の貴賓席!!
招待された者しか立ち入りを許されない、正真正銘の特等席に――!!
――フェアリィルナと高橋はいた。
「……」
背の高い観客席の最上部、外部と隔絶された空間では、前方のガラス越しにターフ全体を見渡せるようになっている。*1
設置された二つ一組のいくつかの座席には、上品なスーツ姿の人々が着席して歓談に興じており、名家で催される立食会宛らだ。
高橋はこれで『ちゃんとした』服装に身を包んできたつもりだった。が、彼らの装いと比較すると、むしろよりみすぼらしく感じられてしまう。
自分の立ち入るべきではない領域であるということを、むざむざと見せつけられている気分だ。
「――ふおぉぉぉっ……な、なんだか緊張しますねっ、いつもと全然雰囲気が違って……!」
隣の少女――フェアリィルナも、さすがに緊張しているらしい。相変わらず浮かれてはいるが、これまでよりかは落ち着いているように見えた。
「……」
……なんで。
なんで、こんなことに――高橋の疑問の答えは、あの、オルフェーヴルとの問答の日にあった。
『――ひと月待て』
条件がある、と語った彼女は、少しの沈黙の末に、そう告げていた。
『貴様も知っているであろう。年末の有マ記念――余はそこを最後の舞台に定めている。……そこに貴様を招待してやる』
『え……?』
『余の姿を、精々その目に焼き付けよ。……その上で、改めて思案せよ』
本当に、『あれ』と契約するかどうか。……
オルフェーヴル。あの『皇帝』にも並び立つとされる、稀代の名ウマ娘。
立ち居振る舞い、思考回路、その全てが『唯我独尊』を地で行くようなものでありながらも、その実細かな気配りが出来、事務作業までもそつなくこなせる万能型でもある。
『ツンデレの超すごいやつ』――などと冗談めかして言われることもしばしばだ。
高橋もその思考を理解し切れたことはなかったし、理解しようという気すらなかった。それくらい、隔たりのある存在だった。一体彼女は、ここで何を、どうして伝えようというのか。
彼女には、疑問でならなかった。
「――あっ! トレーナーさんトレーナーさんっ!!」
高橋の肩を、フェアリィはバシバシと叩く。無論だが、フェアリィは例の『条件』のことを知らない。はしゃいでしまうのは仕方のないことかもしれないが、自身の心持とはあまりに正反対なその反応に、高橋は愉快通り越して不愉快になりそうになってしまった。
「ほらっ、ほらっ! 皆さん出てきましたよっ!!」
それを必死に圧し留めながら、向けた視線の先。
ターフ上に、今回の出走ウマ娘たちが、姿を現し始めていた。
どれだけの間、その背中を追い続けただろう。
いや、最初は追おうだなんて思っていなかったんだ。
クラシック級のきさらぎ賞。悔しさに泣いたあたしの一方で、彼女は何かを掴んだみたいに、手を開いたり閉じたりしていたっけ。
次にまみえたのは、日本ダービー。
各地の若き才能が集う中、彼女はひときわ異彩を放っていて。
一時は先行したはずなのに、その――もう、常軌を逸しているとしか表現出来ない走りで意表をつかれ、敢え無く2着。
そして、神戸新聞杯――三度顔を合わせた時。
――あぁ、きっとあたしは。
この人に立ち向かうことを運命づけられているのだと思った。
菊花賞。
宝塚記念。
大きな舞台には、必ずと言っていいほど、彼女の姿があった。
それに追い付こう、追い抜こうと、毎回試行錯誤するのに。
彼女は、そんなものなど無意味とばかりに、跡形もなく打ち崩していく。
勝ちたい。
勝ちたい。
勝ちたい――
何度、そう願ったことだろう。
「……」
……ここが願いの果て。夢の終着点。
『暴君』、オルフェーヴルとやり合える――正真正銘、最後の舞台。
耳をすませば、詰めかけた観客たちが、口々に色々と話しているのがよくわかる。
時間の経過、季節の巡り。出走者の内訳、試合後の予定――
――オルフェーヴルなら、やってくれる。
「……ちくしょう」
結局誰も、彼女以外の誰かが勝つことなんて想像もしてないってことだ。
あたしの名前もちょくちょく出ているみたいだけれど、それも申し訳程度に言及されるくらい。
どうせ敵わないんだろう、とでも言いたげな諦観が滲んでいる。
一人一人から滲むそれは取るに足らないものだ。
ただ、数十、数百と積み重なれば、確かな圧となって双肩に圧し掛かってくる。
まだレースは始まっていないのに。勝負はこれからなのに。
苛立ちと陰鬱に、気が滅入ってしまいそうになる……
「副会長さまー!」
「……?」
そんなあたしの意識を引き上げるみたいに、聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
蜘蛛の糸みたいな、少し注意を怠れば消えてしまいそうなそれを、慎重に辿って出所を探る。
最初は気のせいだと思ったけれど。声の主は……確かに『そこ』にいた。
貴賓席から――
フェアリィちゃんが、元気よく手を振っていた。
まるでその様子は、あの『視察』の時のよう。隣に座る例の……仮の担当さんが、如何にも不快そうに身体を逆側に傾けているのが、なんだかおかしくて笑ってしまった。……
……うん。
うん。そうだよね。
先輩として、副会長として。始まる前から、勝負を放棄するなんてやっちゃいけない。
「……っ」
ぱん、と自分の両頬を強めに叩く。そうだ……『雑音』なんて気にするな。みんながオルフェさんの勝利を願っていることなんて……知ったことか。
あたしは、あたしのやりたいようにやるだけ。迷うな。躊躇うな。今日こそ勝てる。勝てる勝てる勝てる……!
「――っしっ!」
根拠がなくても。確証がなくても。自分に言い聞かせると、自然と気持ちが震え立った。一度は萎んだ闘志が、しっかりと再燃したのを感じながら、俯かせかけた顔を上げ直した――
――その時だった。
「――!!」
びり――と、肌が痺れるような感覚。
その場に集ったウマ娘の全ての注意が、一斉に地下バ道の入り口へと向けられる。
闇を切り裂くように、その姿が浮かび上がっていた。
会場が、ひときわ大きな歓声に震える。
――『金色の暴君』。
オルフェーヴルが、ターフに入場していた。
『……』
普通――
それだけの歓声があれば、多少なり応えるもの。
かつて『皇帝』は優雅に手を振り、
『帝王』は元気よく拳を振り上げ、
『覇王』は満足げに両手を広げていたという。――さしたる反応を示さなかったのは、『シャドーロールの怪物』くらい。
今ここにいる『暴君』もまた、それら声援に何ら反応を示していない。
会場を埋め尽くさんばかりの声の海を――泳ぐのではなく。声の方が、彼女が通るに従い、道を作っているように感じられる。
人間は呼吸をする時に、酸素に対していちいち感謝するだろうか? それと同じだ――
声援を受けることなど、彼女にとっては当然のことなんだ。
浮かれることも、応じることもない。
……ホントにこの人は。
どこまで行っても、この人だ。
超然とした佇まいと空気に、誰もが瞬時に呑み込まれるけれど。
「……、」
……でもあたしは。
一人、彼女の元へと歩み寄った。
怖気付いてなんていられない。あたしは貴女に……
言わなきゃいけないことがあるんだ。
「……」
「……」
数歩の距離を置いて対峙するけれど、オルフェさんは何も言わない。
いつも通りの高圧的な目で、あたしを射抜くばかり。
ただ――あたしだって、引かない。対峙するのは、もうこれで6回目。今更になって、引くもんか……
「……オルフェさん」
瞳から目を逸らさずに、言う。
「今日がラストランだそうっすね」
彼女は何も言わない。黙って――あたしの言葉を聞いてくれている。
「でもあたしは、最後までやられっぱなしで終わる気はないっす」
宛ら庶民の意を聞く賢帝、余裕綽々にも見えるその様子に――
あたしは、拳を握り締めて、言った。
「……その玉座。
今日こそ、もらい受けますよ」
「……」
刹那――彼女の目が、ほんの少し、見開かれたような気がした。
しばしの無言の時間――
「――ふっ、」
やがて彼女は。
「――っははははははっ!!」
笑っていた。
表情を崩し、口元を軽く手で覆いながら、笑っていた。
「……面白い。シオン。やはり貴様は面白い」
その笑いが引かないうちに、彼女は続ける。
「我が来訪に、万夫がこれほどまでに憂懼する中で、なおも果敢に余に相対する、その無謀さ……勇猛さ……やはり、余の直感は間違っていなかったようだ」
「……」
……そうっすか。
それは、何よりっすよ。
「――であれば」
言い切ると、眼差しが神妙になる。
愉快そうな色が、瞳から消え失せる。
周囲の空気が、再び引き締まる。
「その言葉……真にしてみせよ」
そして、傲然と告げると。彼女は、あたしの傍を通り抜けていった。
豪奢な後ろ姿をしばらく見届けて……あたしも、そこから歩き出す。
……応とも。
追うとも。
その背中に――
今日こそ。
追い付いてやる――……!!
決意を新たに、スターティングゲートへ。
辺りに響くファンファーレは、宛ら王を送り出す軍歌。
誰もが、どこか畏まった動きで収まっていく。
閉ざされたゲートの中で、もう一度、拳を強く握り、青々と広がる芝生を見て、姿勢を整えた。
訪れる静寂――
『――!』
轟音が響き。
レースは、幕を開けた。
究極的な話をしてしまえば――
あらゆる勝負ごとにおいて、常に、即座に、確実に、勝利の条件を満たせるなら、戦術などは必要ない。
球技であれば、球をゴールに叩き込める技量があれば。
格闘技であれば、一撃でノックアウト出来る力があれば。
競レースにおいては――全てを置き去りにする速さと、それを維持出来る体力があれば。
どんなに卓越した戦術も、たちまち無意味となる。
20世紀末期の、競レースの様相を指す用語だ。
『異次元の逃亡者』とまで呼ばれた、正しく次元の違う『逃げ』を披露したウマ娘が出現したことで、一時は鳴りを潜めたはずの『速度重視』指向が復活。
トレーナー、観客共々、過度なまでに速度を求め続け、最後には光さえ置き去りにするんじゃないか、などと言われたこともあった。
だが――ウマ娘は生物であり、神仏の類ではない。
行き過ぎた速度は、身体に深刻な負担を齎し――
――やがては、痛ましい悲劇を生むに至った。
以降、取り分け21世紀に突入してからは、速さよりも『戦術』を重視する傾向が強くなった。
人々はその傾向を歓迎する一方で、不満に思う層も少なからずあり――
――『詰まらなくなった』。そう評する者もあった。
後に登場する『近代競レースの結晶』とまで呼ばれたウマ娘の出現が、またその認識を覆すことになるわけだが――それに関しては割愛。
……オルフェーヴルは、そのあまりに『王様然』とした振る舞いを除けば、才色兼備の優等生である。
運動はもちろん、学問も、娯楽も、何をやらせてもそつなくこなす、稀代の才覚の持ち主だ。
こと競レースにおける知識量ともなれば、並のウマ娘を大きく圧倒して余りある。
だから、レースの立ち上がり――
彼女が後方に着いたことを、調子のせい、などと判断する出走者はいなかった。
「……」
ウインバリアシオンもまた、序盤は後方。
すぐ背後に、『彼女』の気配を感じられる位置取り。
先行している状態ではあるが、それは浮かれる理由になどなるはずがない。
オルフェーヴルも、よく認識している。
現代の競レースが、ただ速ければいい、というだけのものではないことを知っている。
もし万に一つ、億に一つ、兆に一つ――調子が悪いのであれば、それは単に運が良かったというだけのこと。
油断するな。気を抜くな――シオンは、そう自身に言い聞かせながら、レースを進める。
1コーナー、2コーナーを抜け、最初のホームストレッチ。
位置取りは最内、少しラチに近過ぎる気がするけど、悪くない。
ただそれも最初だけ、ゴール板を一度通り過ぎる頃には、周囲に出走者が固まる形となった。
……これだと、抜け出すのに苦労しそうだ。
全体の動きも統率が取れている。
誰もが、誰もの動きを伺っているみたいな――どこか緊張感のある空気。
――もしくは。
誰もが、後方に控える『王』の存在から。
必死に逃げているようにすら映る雰囲気――
どう抜け出すか、どう繰り出すか。
考えているうちに、レースはバックストレッチへ。
依然として前方は複数の選手で遮られている。偶然か、それとも自分をちょっとでも意識しているのか。
――はは。いや、あり得ないか。自虐的に、シオンは口端を緩めていた。
啖呵を切ったけど。宣戦布告したけど。この中じゃ自分は……言ってしまえば『下』の方。
健闘はすれど、1着になり切れない『脇役』。
その全ての所為は――あの『暴君』にある、と言っても過言じゃない。
貴女さえいなければ。
そんなことを思うことさえあった。
オルフェさん――実際貴女も、もしかしたら、あたしのことを『下』に見てるのかもしれない。
取るに足らない奴隷――もしくは石ころくらいにしか思ってないのかもしれない。
でもだからこそ――だからこそ、貴女を引きずりおろせるのは、あたししかいないって思ってるんだ。
奴隷は失うものがない。
どんな圧にだって屈しない。
だから、どんな偉大な王様にだって、刃を向けられるんだ。
やれるのは――自分だけなんだ。
その責任は重い。でも、分不相応とも思わない。実際これまで、自分以上に彼女に近付いた者がいただろうか。
誰もが恐れ、逆らえない。自分だ。自分だけが、あと一歩――とまではいかずとも、二歩、三歩のところにまで迫れているのだ。
他の奴なんかじゃ――絶対に出来ない!
「――っ、」
神とか運命とか、そんなくだらないものの奴隷になる気なんてない。
でも、心の底から湧き上がる、燃え上がる炎のような感情は自分のものだ。
……やるよ。やってやるよ。
すぐにそこまで行ってやるから――
首を洗って待ってろよ、
クソ『暴君』――!!
――そうしてレースは、バックストレッチの終端へ。
誰もが、勝負の終盤を意識し始める。
それまで抑えていたものを解き放つように速度を上げ始め。
前に出るための行動に移り始めた――
「――よい」
――のちに出走者が語ったところによると。
その時、確かに聞こえたという。
「――興は終わりだ」
あの『暴君』の。
裁決を下すかのような声が――……
『金色の暴君』。
『怒れる金獅子』。
『黄金の風』。
オルフェーヴルを表現する異名には、常にそういった煌びやかな単語が着いて回る。
彼女の走りを見たものは、誰もが一様にこう語るのだ――黄金の道筋が見えた、と。
それは勝利への片道切符。王のみが通ることを許される覇道。
彼女は、このラストランにおいても。それを示してみせた。
「――!」
ウインバリアシオンのすぐ傍を、あの豪奢な影が通り過ぎる。
――来た。彼女は直感した。
オルフェーヴルの見出した筋道は外側。すっかり一塊となった集団の横を、凄まじい速度で走り抜けていく。それを邪魔する者も、それに追随する者もいない。まるでその道が、侵してはならない聖域であるかのようだ。
誰も満足に介入出来ず、彼女の猛進を見送るばかり。
「――、」
荒々しくも芸術的なごぼう抜きに、シオンも一時は呆気にとられる。
しかし――呆然としている暇などない。勝負は着きかけているのだ。そう――着き
まだ、まだ着いていない。そして幸運なことに、他の選手もその動きに着いていけていないのだ。動くなら今――
勝つには。先行するには。追いつくには。抜き去るには――
行くしかない。
「――ッ、」
――あたしも、
行くしかない――!!
「ッ――!!」
行く。
だから、シオンも行く。
オルフェーヴルの示した黄金の道をなぞるように、その背後を追走していく。
コーナー終端、その距離は目と鼻の先にまで一時は迫るも――
無情に加速する彼女の姿は、みるみるうちに遠ざかっていき。
ホームストレッチに入るころには、既に1、2バ身ほどの距離が着いていた。
「……、……」
本能が語っていた。
あぁ――もうダメだ、と。
最後の直線コース、小細工の利かない、純粋な速度勝負。
ここに来て、これだけの距離を詰めるだなんて不可能だ。
だって、あたしと彼女は違うから。
何もかもに、差があり過ぎるから。
娯楽も、勉学も、立ち居振る舞いも。……レースも。
何もかも、彼女の方が、格上だから――
『――シオン、』
数ヶ月前の映像が過ぎる。
半年ほど前の記憶が思い出される。
『我が生徒会――側近は貴様だ』
『え?』
『これは王の勅命である。拒否権はない』
『へ?』
トレーナー室に押し掛けてきたと思えば、直接、『副会長』に指名してきた彼女。
それからというもの、腰巾着みたいに着いて回っては、時にオブザーバーをしたり、時に身の回りの世話をしたり――
……時に。
憧れてもいたっけ。
ねぇ、オルフェさん。
あたしはね、貴女さえいなければ、と思ったことがあったよ。
……でもね。
貴女がいてくれたから――
とも、思ってるんすよ――
「――っ、」
貴女が何を考えてるかなんてわからない。
でも、あたしを側近に置いたってことは、
ほんの少しでも。ほんの、塵芥程度であったとしても。
――あたしに、
期待してくれてるってことでしょう――!?
「――、」
ならあたしがすべきは。
自分が果たすべきは。諦めじゃない。
最後まで。終わりの間際まで。今際の際まで――
貴女に立ち向かうことだ――!!
「――ああぁぁぁぁぁぁッ!!」
ウインバリアシオンは咆哮し。
最後の力を振り絞り、遠ざかる背中に追い縋る。
『おっとしかしここでウインバリアシオン来た! ウインバリアシオンが来た! ウインバリアシオン魂の追走! 先頭をひた走るオルフェーヴルに追い縋る――!!』
「――!」
そのような展開は予想外だったのだろう。オルフェーヴルは、肩越しにその姿を認める。その目は、珍しく驚愕に見開かれていた。
覇道を猛然と行く、黄金の風に――
赤色の刃が、勇猛に行く――
『届くか! ウインバリアシオン届くか! 残り5バ身、3バ身――……』
「――っ、」
――届け。
「ぉ、」
――届け。
「おぉぉぉぉ――」
――届け――!!
「おおおぉぉぉぉぉぁぁぁああああッ!!」
力の限り。魂の限り。ウインバリアシオンは追走を続けた。
その距離は、最後、2バ身ほどにまで縮まっていた――あと数メートルあれば、その結果は変わっていたかもしれない。
……ただ、勝負は無情。現実は非情。
とうとう、その泥塗れの手は――黄金の風を捉え切れなかった。
『――しかし決めたぁー!! オルフェーヴル、渾身の追走を退け、見事に有終の美を飾りましたっ!!』
……戦いは。
終わりを告げていた。
『これぞ王の最後の凱旋――! 目に焼き付けよ! これが! オルフェーヴルだぁー!!』
会場が、再びの歓声に満たされる。
それは、彼女を出迎える祝砲の轟き宛らだった。*3
「――っ」
思わず、ターフに尻もちをついた。
乱れた呼吸を整えながら、ターフビジョンを見上げる。
もしかしたら――なんて思いが、一割――いや一分――いや一厘くらい――あったけど。そんな思いが、叶っているはずもない。
……あたしの番号、4番は……疑いようのない、2着。
変わるはずのない――二番手。
突き付けられた――『敗北』の現実。
「……」
……魂を費やした。
全力を投じた。
全霊を――叩きつけた。
それでも駄目だった。届かなかった。無駄……だった。あたしは。
結局、最後まで……
貴女に。
勝てなかったんだ……
「……、……」
目頭が熱くなる。
届いたかもしれない、という思いが、それに拍車をかける。
込み上げてきたモノが、溢れ出そうになるのを、必死に抑える――中。
「……?」
影が落ち。
顔を見上げた。
そこには、眩い太陽を背負い。
こちらを見下ろしている姿がる。
……オルフェさんが。
あたしに、手を差し伸べていた。
「……」
あたしは、一瞬は躊躇うも。
その手を取る。
引き上げられるまま、立ち上がり。
彼女と、改めて相対する。
その表情は、いつも通り毅然としているけれど。
どこか――驚いているようにも見える。
「……シオン、」
彼女は言った。
「――見事であった」
いつもと変わらない調子で……言った。
「貴様の刃。
確かに余に――届いていたぞ」
「……」
――ただ。
あと一歩――
「……、……」
それは彼女にとっての、最大限の賛辞だったのかもしれない。
でも同時に、努力や才能の不足を、この上なく突き付けられたような気もして。
嬉しい、と。
悔しい。
両方が綯交ぜの、奇妙な感覚のまま……
「……、……っ……」
ただ、俯いて。
立ち尽くしていた。
ただ、目元に手を当てて。
泣くしか、出来なかった。……
「――ふわぁぁぁっ、すっごい、すっごいレースでしたね、トレーナーさん!」
レースの開始直前のように、フェアリィルナは、高橋の肩をバシバシと叩く。
「会長さんも凄かったですけど、副会長さんも凄かったですよ!! 私、思わず泣いちゃいそうになりましたっ……!!」
「……」
「あれ? トレーナーさん? 聞いてます? トレーナーさん、トレーナーさんトレーナーさんトレーナーさんっ!!」
うるせーな、と思いながら、高橋はなおも返事をしない。彼女の注目は、フェアリィルナよりもターフにあった――まぁ確かに、レースは凄まじいものだった。
王の名に恥じない結果――見事なラストラン。その事実に疑いようはない。
ただ――そこからメッセージ性を汲み取ろうとすると、また話は違ってくる。
レースを観た上で、契約を改めて考える。
それはいいが――結局、観せた意味は何だったのか。
――オルフェーヴルが、ウイニングサークルへ向かう。
彼女の強さを『目に焼き付けた』ところで、感想は『強い』以外の何物でもない。
――しかし、不意にその場に立ち止まる。
そこから生まれる、それ以上の意味はない。
――ゆっくりと、顔が動いた。
一体、彼女は何を考えて――
――鋭い瞳が。
彼女を刺し貫いていた。
「――ッ!!」
その行動は一瞬で、彼女はすぐさま振り向き直し、再びウイニングサークルへ歩を進める。
石像のように硬直する高橋を見てだろう。フェアリィルナは、小首を傾げると言った。
「……? どしたんです? トレーナーさん」
「……フェアリィちゃん」
無邪気な問いかけに、彼女は答えた。
「あの……契約の話だけど」
「へ? あ、はい! そうですね! そういえば、これ終わったら本契約しようって――」
「――ごめん」
飛び上がらんばかりの彼女の言葉を、高橋はやや乱暴に遮ると、何かに怯える小動物のように言った。
「少し……考えさせて」