とある鎮守府の廊下に、パタパタと忙しない音が響いている。
まだ空が白み始めた頃、一般的には起きるにやや早いとされる時間だが、道を急ぐ少女からすれば、遅すぎると言ってもよい。少し寝坊してしまったのだ。
トタトタと、軽く足音を残しながら少女が足を止め、部屋の番号とネームプレートを確認する、目的の部屋だ。
手鏡を取り出した少女は、それを覗き込みながら、走って乱れた髪型や服装を整えて行く。
肩の辺りで切り揃えた髪、良し。前髪のヘアピン、良し。セーラー服のネクタイ、良し。右襟に付けたⅢの徽章、良し。
次いで息が整ったのを確認したら、壁や扉を通さない程度の声量に絞って、軽く発声。……良し。
部屋の主から渡されている合鍵を差し込み、カチャリと微かな音と共に扉を開く。驚くほどに簡素な部屋だ、布団とタンスと机、それと小さなキッチンに小型冷蔵庫が一つ。唯一目に留まる物と言えば、机の上に置かれている写真立てくらいのものだ。中身は、着任当初の少女である。
そんな殺風景な部屋の一切を気にかけることなく、少女はトテトテと布団に近付いて行く。初めて訪れた時は圧倒された、このどこかひんやりとした、いっそ無機的とも言える部屋にも、少女はもう慣れている。
布団の脇に辿り着いた少女は、その盛り上がりにそっと手を添え………全力で揺さぶりながら、叫んだ。
「朝よ、司令官! 起きなさい!」
前後に揺さぶる。揺さぶる。揺さぶる。
一片の慈悲もなく、爪先ほどの容赦もなく、無情に、機械的に、ただただ揺さぶり続ける。朝の五分の貴重さを知る誰もが、目を覆いたくなる残酷、なんという卑劣、これが幼さゆえの無邪気な悪意なのか、正に駆逐艦。
「あーさーよー! 変なモノローグ言ってる暇があるなら、早く起きなさーい!」
小さな悪魔の暴虐は止まる所を知らない、唯一絶対の聖域であるこの家具職人妖精特注の羽毛掛け布団を、なんと奪おうとしているのだ。これが人の業、積み重ねてきた罪の報いなのだろうか、こんなにも幼い少女が、寝込みを襲い、羽毛布団党にとって命の次に大事な羽毛布団を略奪しようとするなど。優しさを忘れた世界、人情の失われたこの冷たい現代社会の闇は、これほどまでに深いのか。なんと嘆かわしい。
「……艤装展開」
往生際の悪さに呆れたのか、はたまたあんまりな物言いにカチンと来たのか、冷ややかな目付きになった少女がポツリと呟く。すると、淡い発光と共に、少女の華奢な身体には似付かわしくない無骨な機械の塊が、背部を中心に身体の各部に装着された。
艦娘の本領発揮、戦闘形態である。
「ちょ、まっ、タンマ! それはホントにシャレにならないからやめろ!」
数週間前、同じ流れから先代愛羽毛布団を焼かれた事件に思い至ったのか、庇うように布団を少女と反対側に蹴り飛ばした青年、この鎮守府を預かる若き提督は、慌てて立ち上がる。夢うつつとのんびりできる至福の時間が……と芝居がかった大げさな所作で嘆いている。非常にうざい。
「まったくもう、司令官はいつもいつも……」
ハァ、と深く息を吐き出した少女は、艤装を解除しながら、テキパキと提督の服を準備する。帽子も制服も真っ白な、提督用の軍服だ。
「ホンット、司令官は私がいないとダメなんだから!」
まあでも、もっと私に頼っていいのよ! と得意気に平面的な胸を叩く少女。
そうとわからないほどの一瞬だけ硬直した提督は、制服を受け取りながら笑顔で少女に返す。
「いつもありがとうな、頼りにしているよ」
秘書艦の一日は多忙だ。提督を起こすことから始まり、演習・遠征・出撃にまつわる事務処理補佐、合間には提督や艦娘、妖精の体調管理も行わなければならない。目を回すような忙しさの中、その小さな身体で、クルクルと忙し気に鎮守府を駆け回るのが、少女の常である。時にサボる提督を叱りつけ、時につまみ食い常習犯の一航戦に食事抜きの罰を与え、時にパパラッチ型重巡を魚雷で吹き飛ばし、時に姉妹に心配され、時に提督といちゃつきながらも、日々の業務は続いて行く。
「ふ……あっ〜。疲れた〜」
日が沈んでから暫く、もうすっかり暗くなった頃、提督室にある秘書艦用の机に、へろへろとした様子の少女が、ぺたんと上半身を伸ばした。たれ艦娘である。
「お疲れ様。いつもありがとう、今日も助かったよ」
同じくへろへろとした様子の提督、秘書艦である少女の苦労の、およそ三割くらいはこの男が原因である。とはいえ、彼の机に積み重ねられた書類の山を思えば、逃げ出したくなる気持ちにも、
「司令官もお疲れ〜。もっと私に頼ってもいいのよ〜」
緩み切り、間延びした声で書類仕事以外ならね〜、と続ける少女に、提督が苦笑を漏らす。慣れない仕事を、いつも懸命にこなしてくれる少女には、本当に頭が上がらない。この書類量を見て、快く秘書艦を引き受けようという艦娘は、少女の他には一人しか思い浮かばない。
仕事は今、ちょうど終わった。提督室を閉めれば、ここからはオフの時間である。それを示すかのように、提督が、聞こえよがしに咳払いをする。
「さて、今日の業務は終了だ」
微かな緊張と興奮、罪悪感と悔恨をない混ぜにしたような心持ちで、声を絞り出した。
「実は今日、唐揚げを食べたい気分なんだが、鳳翔さんのとこのは人気だから、残っているのか怪しいなあ」
白々しい言葉だ。居酒屋を営む鳳翔が、提督の好物である唐揚げ用の材料を、いつも一人分確保しているのは、割と有名な話である。チラリと少女を見やる。顔が真っ赤だ。
「そ、そういうことなら仕方ないわよね……私が作ってあげるわよ、司令官」
提督と同じ色を滲ませた声で、少女は言った。
「うん、おいしいよ」
まず感じるのは、カリっと揚げられた衣の歯応え、次いで鶏もも肉のジューシーな脂と柔らかな肉の旨味がたまらない。しょうがをアクセントにした醤油ベースの味付けに、提督の箸が止まらない。余裕ありげな物言いとは裏腹で、正直なものだ。
少女が提督の部屋を訪れるようになってから、そろそろ一年が経つ。当初は目も当てられなかった少女の腕前は、料理上手の域に入った今もなお、めきめきと上達を続けている。
パクパクと唐揚げをがっつく提督の対面に座る少女は、時たま自作の唐揚げやお猪口に手を伸ばしつつも、頬杖を付きながらニコニコと提督を眺めている。提督のお猪口を、空になる一歩手前で満たすのも忘れない。
会話こそほとんど無かったー提督の賛辞にも、彼女は微笑みを返すだけだったーが、そこに気まずいものなど何一つ無く、部屋には暖かな静寂と安寧が満ちていた。
そのまま、もう少し。それから提督がもう五つほど唐揚げを平らげ、お猪口が満たされること二回。彼女が
「ありがとう、でも、今日はこのくらいにしておく」
舐めるほどしか残っていなかった酒を一気に呷り、ふぅと一つ息を吐いた。ほんの少しだけ、部屋の空気が重くなる。
ごちそうさまでした、と手を合わせる提督に、お粗末様でした、と返した少女が食卓を片付ける。そのままカチャカチャと洗い物を始めた少女の背中に、提督は零した。
「俺を恨んでいるか?」
ピタリ、と少女が手を止める。提督の声は止まらない。
「君の片割れを死なせた俺を、恨んではいないのか?」
急激に冷え、凍り付いたように重くなる空気。破裂しそうな静寂に、少女が一石を投じる。
「恨んでいるわ」
嘘。今でも苦しみ続けている提督を、恨むなんてできるわけがない。彼がどれほど彼女を大切に思っていたか、少女は文字通り身を以て知っている。
「でも、それとは比べものにならないくらい、妹を身代わりにして、のうのうと生きている
これは大嘘。真実なんて、一欠片も含まれてはいない。
「そうよ、あの時死ぬべきだったのは
嘘、嘘、嘘。真実から最も遠い戯言を、少女は血を吐く ように叫んだ。
「もういい、もういいんだ。すまない、辛い思いをさせた」
自傷行為のように嘘を叫んだ少女を、青年はそっと抱き締めた。自身の胸ほどまでしかない、小さな少女を包み込むように、安心させるように。
「雷」
青年は、少女に嘘を吐く。
「電は、お前に生きていてほしかったんだ。生きて、幸せになってほしかったんだよ」
写真立ての中の電だけが、悲しげに二人を見つめていた。
慰めるそのままにお互いを求め合い、いつものように身体を重ねた二人は、温もりを分け合うように身を寄せ合って横になっていた。
少女は気怠げにしながらも、自身に腕枕をする青年の寝顔に、くすりと顔を綻ばせた。
「○○さん?」
青年が起きていたなら、プライベートでも決して呼ぶことのない彼の苗字を、少女はそっと耳元に囁く。
返ってくるのは、微かな寝息だけだ。眠っている、と少女は判断した。少女はこの瞬間だけ、嘘で塗り固めた仮面を外す事が許される。
「ごめんなさい、司令官さん」
天真爛漫、明朗快活と表現すべきそれまでの少女の雰囲気が、礼儀正しく物静かなそれにガラリと変わった。
「私は、貴方から
「私は、ズルいのです。本当に酷い、卑怯で情の無い女なのです」
罪悪感や後悔といった感情と同時に、どうしても幸福感を覚えてしまう。姉を殺すだけに飽き足らず、姉の立場までもを奪ったというのに、電はそれに喜びを感じている自分の存在を知っていた。嫌悪し、否定し、それでもその唾棄すべきそれが、自身の内に確かに存在する事に絶望していた。
だから。
「私は、貴方を守って死ぬのです。いつか必ず、この秘密を、海の底へと沈めます。たとえ貴方に、もう一度お姉ちゃんを失わせることになっても……」
軽く触れるだけの、先ほどの情事の時とは正反対の、年相応の、優しい口付けを重ねた電は、そっと布団を抜け出し、雑に上着を羽織った。
最後にじっと数秒青年の顔を眺めた電は、音を出さないよう扉を閉めて、自室へと帰って行った。
「……馬鹿野郎だ。俺も、お前も」
殺風景で無機質な部屋に、言葉が流れて消えた。
裏側とか提督サイドとか轟沈のくだりとかあるけどめんどいからここまで