銀世界の記憶は、いつまで経っても色褪せることがない   作:ぱらのいあ扇風機

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第一章・前

[ 第1-01話 : 3577字 ]

 

 

 青嵐は、極度の緊張下にあった。

 彼が今いるのは、彼の住居から駅二つほど離れた住宅街。たった駅二つ。距離にしてみれば10kmにも満たないものであるが、やはり住み慣れた場所と比べて、街模様の印象は異なるものがあった。

 道脇などに常緑樹が多く、街並みに緑が溢れている。木陰もまた多く、夏場になれば木漏れ日が目に楽しい空間になるだろう。

 

 そんな住宅街で、より色濃い緑を鬱蒼とさせているのが、“叢雲”という表札がかかった家だった。

 まず目を見張るのは、塀を覆う緑の蔓。

 そして鉄門の隙間からは庭の様子が見えて、そこには更に花や木が存在している。ずらりと並ぶ小木、赤い花を咲かせた椿、華やかさを添えるパンジー。

 きちんと手入れされた庭は、『家がもう一軒建つのではないか』というほどに広々としていて、それだけでも気圧されるものがある。

 

 これまで縁のなかった地域。縁のなかった人種。まるで夢のような話だが、先日渡された連絡先は確かに彼の手元に存在している。

 青嵐は深呼吸をして、インターホンを押す。

 少し待つと、玄関から、可愛らしいメイド服の女性が出てきた。

 門のあたりまで駆け寄ってきた彼女に、青嵐は軽く会釈をする。

 

「──こんにちは。月ノ瀬青嵐(つきのせせいらん)さんで合ってます?」

 

 にこりと、微笑むメイドに、青嵐は気圧されたように頷いた。

 まさかこの現代にメイドがいるとは、と驚きを隠せない。

 

「あ、はい。月ノ瀬です。……あなたは?」

「わたし、佐久間波瑠(さくまはる)です。よろしくね」

「……よろしくお願いします」

 

 クラシカルなメイド服に身を包んだ彼女が微笑む。

 甘い栗色の髪はゆるく巻かれており、背中ほどまで伸びている。整った目元は優しく垂れていて、瞳は黒色。

 波瑠は、どちらかと言うと、綺麗と言うより可愛いという表現が似合う女性だった。

 メイド服が珍しいのもあって、青嵐はまじまじと眺めてしまう。

 

「そんなに珍しい? メイド服」

「ああいや……はい。なんかすいません、不躾で」

「ふふ。別にそこまで固くならなくていいよ。確かに珍しいと思うし、仕方ない仕方ない。わたしも気にしてないし」

 

 蜂蜜を水に溶かしたかのような、さらりとした甘い声だった。

 ころころ、と波瑠が笑うたびに光が瞬くようで、青嵐は思わず目を逸らす。

 

「とりあえず中へどうぞ。案内するね」

 

 鉄門が開かれ、彼は手招きする波瑠の後をついていく。

 

「腕、大丈夫? まだ痛む?」

「大丈夫です。多少は痛みますけど、日常生活レベルならさほど」

 

 骨が折れて、まだ三日目。

 大丈夫なわけはなかったが、痛みでまともに眠れもしなかった初日と比べたら問題がないのも事実ではあった。

 

「あの、少し気になったんですが、佐久間さんは何か俺の──……僕のこと聞いてたんですか? 名前知ってたし」

「いい質問だね。さくハルポイントを1点進呈します」

「はあ……?」

「ごめんやめて。わたしが悪かったからその『何言ってんだこいつ』って目をやめて! お姉さんの心が泣いてるよっ!」

「いやすんません。ていうかポイント溜まったら何かいいことあるんですか?」

「10ポイントたまるといいことがあるよ」

「へえ〜」

 

 広々とした庭とは言え、一軒家の範疇。せいぜい玄関までは10メートルもなく、軽い会話をしていたらすぐに玄関まで到着した。

 どうぞ、と促されるままに扉をくぐり、叢雲家の中へと足を踏み入れた。

 まず感じたのは爽やかな香りで。辿ると、玄関の棚上にポプリが飾られていた。

 玄関から上がると、まず右手側にドアがあり、正面には二階への階段があり、左手側には廊下がある。

 

「あ、で、わたしがなんで月ノ瀬さんのことわかったかっていうのは単純で。ギブスしてたからかな。顔とかは知らなかったんだけど、六花ちゃんから事のあらましというか……まぁ招待した経緯とかは聞いてたから……」

 

 波瑠は喋りながら右手側のドアを開け、『こっちだよ』と目で促してくる。

 

「とりあえずこっちの応接室で待っててもらえる?」

「わかりました」

 

 応接室とは、文字通りの意味で“来客の応接用”の部屋のことだ。彼の実家に応接専用の部屋なんてなかったし、現在のアパートにも当然ない。

 だからこそ心中で驚いていたのだが、部屋の雰囲気がこれまた上等だった。

 フローリングにはふかふかのカーペットが敷かれており、対面型の二つのソファは革張りだった。そして室内はあらかじめ空調をかけていたのか非常に暖かく、端的に言って居心地が良い。

 

「とりあえずこのソファ座って待っててくれるかな。すぐ六花ちゃん呼んでくるね」

「あ、はい」

 

 案内されるままにソファへと座り、青嵐は踵を返し部屋から出ていくメイドを見送る。

 気が抜けて、深いため息が出る。

 

「…………なんか思ったより変なところに来ちゃったな…………」

 

 なんと言ってもメイドさんがいるレベルのお金持ちである。

 青嵐がこれまで生きてきた世界とは違うのだろうな、ということだけは容易に想像がついた。

 そして幾許かの時間が経って、ガチャリ、と扉が開く。

 

「月ノ瀬さん、お久しぶりです。昨日ぶりですね?」

「昨日の今日で久しぶりとは言わんだろ」

「……あは。そうですね。では『こんにちは』、と言い直しておきます」

 

 薄ら笑いを浮かべながら、車椅子に乗って叢雲六花(むらくもりっか)が現れた。

 艶のある綺麗な黒髪に、月のような琥珀瞳。美麗な印象はそのままであったが、車椅子に乗る姿が痛々しい。

 

「いやてか、やっぱり足駄目なんじゃ──」

「いいえ、はい。別に大丈夫なんですけど、昨日外出したことについて波瑠──、使用人に怒られまして。松葉杖でもよかったんですが、とりあえず完治するまでは必要最低限の歩行にしろと」

 

 過保護ですよね、と六花は淡い笑みを浮かべる。

 そこに負の感情が一切宿っていないことくらいは、出会って数日の彼にもわかった。信頼があるのだろう。

 

「というわけでですね」

「なんだ?」

「抱っこしてください」

「は?」

「……あは。びっくりするくらい予想通りの反応しますね」

「いやいやいやいや。……なんで?」

「私は足が痛いです。ソファのほうが座り心地が良いです。以上です」

「以上ですじゃないが。というか俺も骨折れてるんだよな」

「そこはほら、片手で。別に持ち上げるまでじゃなくてもいいので。席を移動するだけですし、なんとかなりません?」

「クソわがままだな……」

「一番最初の仕事ですよ。ほらほら」

 

 六花は子供のように、両手をつきだして抱っこを要求するポーズをとる。

 青嵐は眉間にしわを寄せながら席を立って、彼女のもとへ歩む。

 

「……いや無理じゃないか?」

「なんとかなりませんかね」

「なんとかなるかもしれないけど。変にバランス崩してまた足捻ったりしても困るだろ」

「……」

 

 無感動な目が、ジッと彼を上目に見つめる。

 ポーズだけなら可愛らしいが、無言の圧が付随しているため、やや怖い。

 

「いやそんな目で見られても……ていうか、佐久間さんにお願いしてくれ……」

「……うーん」

「そんなにしてほしいのか?」

「色々あるんですよ。……そうだ。月ノ瀬さんの面接も兼ねてることにしましょうか。まだ正式採用をすると決まったわけではないので、色々こう、推し量る必要があってですね」

「あぁそう……めちゃくちゃ後付け感あるけど……」

「後付けなのは事実ですが、ほら、やっぱり下心を持って触れてくる人に近寄ってほしくないじゃないですか」

 

 淡々と話す六花の台詞に、青嵐はますます困ったように皺を深める。

 下心というのは、判定が広い。それこそ金銭目的でここにいる時点で下心しかないわけであるし、既にアウトである。

 だからこそ、恐らくこの場合はそういう意味ではなく、もっと限定的な意味を指すのだろう。

 

「つまり、邪な目を向けたらアウトみたいな話?」

「そうです。その検証です。さあ」

「“さあ”じゃないだろ。……ああ、ていうかこれあれか? そう言われて実際触れたらその瞬間アウトみたいな?」

「それだと検証にならないじゃないですか」

「もう何がしたいのかわからん……」

 

 そう言いながら指一本でも触れたらアウトみたいなことだろうか、と青嵐が考えていると、すっと六花が手を差し出してきた。

 まるで、握手を求めるような姿勢。

 人は不意に差し出されたものを受け取ってしまう性質があるそうだが、彼も例にもれず、反射的に手を握る。

 

「……あぁなるほど。こういう感じなんですね」

「何がだ?」

 

 握手をして「なるほど」と言われた経験がなく、青嵐は純粋に疑問を抱く。

 

「いいえ、はい。こちらの話です。……よろしくお願いいたします、ね?」

「…………よろしく?」

 

 何をどうよろしくすればいいのかわからないが、もしかしたらこれが彼女なりの挨拶なのかもしれなかった。

 なにはともあれ、やっぱり色々と振り回されそうな予感しかしない。

 薄い笑みを浮かべた六花を見つめながら、彼は心中でそっと嘆息を吐いた。

 

 

 

[ 第1-02話 : 3704字 ]

 

 

「いいえ、はい。こちらの話です。……よろしくお願いいたします、ね?」

「…………よろしく?」

 

 六花の手を取り、握りながら。

 彼はこれからのことを考え、そっと嘆息を吐いた。

 そうしていると、こんこん、と扉がノックされる。

 

「お茶入れたよ〜」

 

 和やかな声をあげながら入ってきた波瑠と共に、ふわりと、芳醇な香りが室内に漂う。

 手にはトレイが抱えられていて、その上にはお茶のポットと人数分のカップ、それからお茶菓子と思わしきものが乗っている。

 匂いのもとはお茶か、と青嵐はひとり納得する。

 

「……わ、二人とも仲良しだね。あとでわたしも混ぜてよ」

 

 対面のソファ間にあるテーブルにトレイを乗せつつ、未だに手を繋いでいる青嵐と六花を見て、波瑠はくすくすと笑う。

 

「別にいいですけど、これから先輩後輩になるわけですし、下手にやると逆セクハラになりますよ」

「アンタがそれ言うのか?!」

「私はいいんです。ご主人様なので」

「パワハラじゃん……」

 

 するりと手を解きつつ、六花の軽口に思わず口を出してしまう。

 そんなやりとりを見て、波瑠はより一層笑みを深める。

 

「……やっぱりなんか仲良いよね?」

「別にそんなことはないと思いますけど。……気にしないでください、月ノ瀬さん。彼女は少々恋愛脳なところがありまして」

「別にそんなことはないよ?!」

「ともあれ、みんな揃ったことですし、とりあえず座りましょうか。波瑠はこっち。月ノ瀬さんは向かいにどうぞ」

 

 促されるままに、改めて青嵐は席についた。

 ぎゅむ、と体が沈み込むソファは心地いいの一言で、全身を預けたくなる気持ちを抑えるのが大変だった。

 できるだけピンと背筋を張って、きちんとした姿勢を意識して座る。

 

「よ、っと」

 

 そう声を出しながら、六花は無事な片足と両手を使ってソファへとくるりと反転するように座り込む。

 

「あ、六花ちゃんお客さまもいるのに。行儀悪いよ?」

「いいじゃないですか、別に」

 

 どうやら、特に誰の手を借りなくてもちょっとした移動くらいなら可能だったらしい。

 思わず「おい」と言いたくなったが、確かにごく短距離の移動で、かつ手が使えるなら、そう苦労することではないのだろう。

 

「あ、そうだ月ノ瀬さん。粗茶ですが。寒いでしょう? 遠慮せずに飲んでね。特に癖とかないはずだから」

「ありがとうございます」

「波瑠のいれるお茶はおいしいですよ。……これダージリンですか?」

「うん、そう。紅茶の王様だよ」

「……やっぱりおいしいですね。さすがです」

「やった〜」

 

 勧められるままに、差し出されたカップを手に取る。

 紅茶。ダージリンと言えば、彼でも聞いたことのある名前だが、当然詳しくは知らない。

 まず特徴的なのは、色。紅茶というと、名の通り紅を帯びた深みのある色をイメージする。けれど、今目の前にあるのは、黄色に近い琥珀色の液体だった。

 香りもこれまで嗅いだことがないほど芳醇で、彼がこれまで抱いていた紅茶に対する認識とは大きくかけ離れていた。

 

「うわ……すげぇ……」

 

 お茶に詳しくなくても、緑茶と麦茶の味の違いくらいはわかる。

 それと同じように、今出されている紅茶と、青嵐がこれまで口にしてきた紅茶には一線を画すものがあった。

 口当たりはやわらかく軽やかで、ともすればフルーツのような甘味がする。

 ずっしりとした重量感のある、普段飲んでいた紅茶とは全く違う味わいだった。

 

「どうやら口にあったみたいでよかった。そうだ。よかったらお茶菓子もどうぞ。羊羹だけど。意外と紅茶と和菓子っていうのも合うんだよ。ささっ」

「もちろん甘いものが苦手なら気にしなくていいですよ」

「ああ、いや。甘いものは好きっす。ありがとうございます」

 

 紅茶に羊羹。言葉だけで捉えていると違和感しかなかったが、実際にはお茶と甘いものの組み合わせ。そう相性が悪いわけもなく、おいしくいただけた。

 これはこれで、と舌鼓を打って、ほっと一息を吐く。

 そこで青嵐は我にかえり、鞄の中から一枚のクリアファイルを取り出す。

 

「すいません。……えー、一応仕事だしなと思って履歴書は書いてきたん、ですけど……」

「あら。これはご丁寧にどうも。読んでもいいですか?」

「それはもちろん」

 

 対面に座る二人は、「へえ」と声を出しながら興味深そうに覗き込んでいる。

 

「私、履歴書を頂戴する側の立場になったの初めてです」

「わたしも!」

「はあ……。メイドさん……佐久間さんとかはまた別口で?」

「波瑠はそもそも親戚ですし、私が実家に住んでた頃からの付き合いなので」

「うんうん」

 

 波瑠は頷いて、「あ」と声をあげる。

 履歴書を見ていく中で、目に留まった場所があったようだ。

 

「やっぱり月ノ瀬さん結構年下だね。いや〜、19歳か〜、若いな〜」

「……佐久間さん、めちゃくちゃ若く見えますけどそんな離れてるんすか?」

「いや〜……いや! そんなには離れてないよ! ただ、うん。いや、うん。……そんなには離れてないけど、具体的な数字は黙秘していい?」

「波瑠は24歳です」

「六花ちゃん?!」

「この会話の流れで変に隠すと28とか30だと思われますよ。それも嫌でしょう?」

「えー……」

 

 眉をハの字にして、波瑠は不満そうに唇を尖らせる。

 所作のことごとくに可愛らしさがあり、それをごく自然体で、嫌味なくやっているのが彼女の美点だった。

 子供っぽいと評するほど甘くはなくて、けれど可愛らしさをベースにした大人の女性。

 だから歳が離れていると言われて驚いたのだが、24歳と言われると納得があった。

 

「……いやでも、うーん……。まあ……いっか……24歳です……」

「ちなみに私は17です。まだ高校生二年という若輩ではあるんですけど、一応この家の家主ですね」

「家主」

「手続き上は波瑠が権利者ですが、内情的には、という意味です」

「ああ、なるほど。17って未成年だもんな。そりゃそうなる……んすね」

「そういうことです」

 

 会話をしながら、彼女らは身を寄せ合って一枚の履歴書を眺めている。そんなに大したことを書いていないのは彼自身理解していて、だからまじまじと眺められると、居た堪れない気持ちになっていた。

 ほのかな空白の時間を紅茶で潤しつつ、彼女らの反応を待った。

 

「高卒なんですね。これまで色々バイトしてたみたいですけど、今後は、少なくともうちで働き続ける場合他のお仕事は控えてもらう可能性があります。大丈夫ですか?」

「……はあ。まあやってたのは派遣がほとんどなんで、特に問題はない、っすけど。ていうかそもそも今はできないし」

「ですよね」

 

 しばらく働けないことは既に元々のバイト先には伝えてある。

 復帰するかどうかは、この家でどうなっていくかによるだろう。

 

「ちなみに、改めて仕事内容聞いても?」

「短期的には……つまり怪我が治るまでは、私の個人的な実験・検証に付き合ってもらいたいなと思っています。というか、ここに関しては“怪我人にしてもらえることが少ない”ので自然とそうなっているだけなんですけど。ちなみに、検証というのはその場その場で思いついたことに付き合ってもらうことになりますので、この場で具体的な内容を申し上げることはできません。が、嫌であれば嫌と言う権利は月ノ瀬さんにありますし、それを理由に解雇することもありません、とだけ」

 

 すらすらと長い台詞を噛むこともなく話して、六花は優雅に紅茶をひとくち飲む。

 最初に会ったときの愛想の良さはやはり偽りだったのだろう。眼差しは冷ややかで、表情筋はぴくりとも動かない。

 

「……『なんでも言うことの聞いてくれる、都合のいい人。でも感情を縛る気はない』……だっけ?」

「…………あは。そういうことです」

 

 そんな会話をする二人の顔を交互に見比べて、波瑠は少し驚いたように目を丸くしていた。

 きっと、そういう細かな文言は彼女に伝わっていなかっただけだろう、と青嵐は端的に納得する。

 しかし実際のところ波瑠が思ったことはそれだけではなく、『え、なに?! めちゃくちゃエッチじゃん!』であった。人の心とは読めないものである。

 

「あぁそうだ。さっきの抱っこのくだりとかがまさしくそんな感じですね。あんな感じで、別に拒否しても構いません」

「あーなるほど。了解」

 

 続けて放たれた言葉で、またもや波瑠は思った。『抱っこ??? わたしがいなかった間にこの二人何してたの???』と。

 

「そんなところですかね。長期的に働いていただく場合は、主に波瑠のサポートになるかと思いますが……」

「え、あ、うん! なんたってわたしたちこの家に二人暮らしだから!? 掃除とか行き届いてなかったりすることもあって!? 人手は正直足りてないんだよね!?」

「……どうかしたんですか?」

「……ッスー……。いやうんなんでもないかな……」

 

 随分と大きな声で答える波瑠を訝しげに見つめながら、まあいいかと六花は頷く。

 

「とりあえず履歴書のほうは頂戴しますね。次はそうですね……。波瑠、家の中を案内してもらっていいですか?」

「2階も見せていいの?」

「問題ありません」

 

 2階に何かあるのか、と青嵐は首を傾げる。

 

「じゃあ、お茶飲み終わったら、次に行こうか。わたしがこの家のこととか、色々教えてあげるね!」

 

 パッと両手を合わせて、波瑠はかわいらしく微笑んだ。

 

 

 

[ 第1-03話 : 2616字 ]

 

 

「じゃあ、お茶飲み終わったら、次に行こうか。わたしがお仕事のこととか、色々教えてあげるね!」

 

 パッと両手を合わせて、波瑠はかわいらしく微笑んだ。

 そしてカップが空になるまで少し話した後、「また後で細かい勤務時間などについて詰めましょう」と言う六花を置いて、応接室を後にした。

 

 一番最初に示されたのは、つい先ほどまでいた場所。応接室。

 玄関から入って、すぐ右の部屋だ。

 

「さっきまでいたのが応接室ね。お客さまが来たときに案内する部屋。でもお客さまなんてほとんど来ないし、月ノ瀬さんに対応してもらうことは考えてないからあんまり気にしなくていいかな?」

 

 玄関から正面に、2階への階段。

 

「で、ここが2階に続いてる階段。2階はまた後で案内するね。とりあえず次」

 

 玄関から左の方に、廊下が伸びている。片側にトイレ。もう片側に、佐久間波瑠の部屋。

 

「で、左手側にあるのがお手洗い。……で、こっちのほうがわたしの私室。一応月ノ瀬さんには、わたしの部屋と六花ちゃんの部屋以外は出入り自由って形を考えてるよ」

 

 廊下を抜けると、キッチン。リビング。そこに隣接するように、洗面所と浴場。

 とりあえずの感想としては、広い。物が押し込まれておらず、のびのびと空間が使われている。

 

「キッチンにあるものも基本的には自由にしてもらっていいかな。でも在庫が尽きたりしたら教えてほしいなって。これまで六花ちゃんと二人暮らしだったから、言うほどルールらしいルールないんだけど、もし色々不都合出てきたら適当にルール化しようかなって感じかな?」

「……薄々感じてましたけど、二人暮らしなんすか? このデカい家に?」

「そうそう。だからさっきの……プチ面接? お茶会? にわたしも参加してたんだよね。六花ちゃんも軽く言ってたけど、年長者のわたしが一応手続き上は保護者というか手続き人になるから」

「ああ、なるほど」

 

 書斎。叢雲六花の部屋。物置、縁側。

 書斎、と紹介された部屋は本棚で壁が埋まっている。そこには辞書や図鑑、専門書が多く、理知的な雰囲気に溢れていた。──と、思いきや、よく見ると漫画や娯楽小説で埋まっている本棚もある。六花か波瑠の趣味だろうか。

 そしてこれまた広い。図書室……とは言わないまでも、一家庭の持ってていいサイズ感ではない印象であった。

 

「書斎に入って左手側に続いてるのが六花ちゃんのお部屋かな。で、右側の部屋は物置なんだけど、その奥がお気に入りでね。庭に出れるのよ。ちょっとした縁側もあるし」

 

 こっちだよ、と前を歩く波瑠は、今日一番と言っていいほど弾んだ声をしていた。

 物置と呼ばれた部屋は確かに、物置というに相応しいというか、あまり整頓されていなかった。床にも無造作に物が置いてあったりして、普段使わないものを置いておく場所なのかもしれなかった。

 そして、大開口窓。

 一面を開けることのできる窓からは、たくさんの光が差し込んでいて、真冬の今でも日差しの暖かさが感じられる。

 

「で、ここから庭に出られるんだけど。……雑草も多いし、あんまり見応えしないかな?」

「いや、すごいです。てか広いし。ちょっとした森みたいですね……」

「森かあ」

「あ、なんかすいません」

 

 人様の家に、森はよくない表現だったかと慌てて口をつぐむ。

 けれどもう一軒家が建ちそうな広さや、草花や木に覆われている様は、庭というより森のようだった。

 

「いいよいいよ。実際伸ばしっぱなしだし、普通に木も生えてるし森っぽいかもね。玄関まわりは綺麗にしてるんだけど、六花ちゃんがさ、『雑草好きなんですよね』とか言うからさ。ここから見える風景はそのまんまかな」

「……本当に何もしてないんですか? なんか普通に花とかもちえますけど」

 

 庭の片隅に、赤い花のついた小木が見える。

 雑草と言われると花をすべて呑み込んで、他のものが何も生えなくなるイメージがあったが、そういうわけではないのだろうか。

 

「意外とふっつーに雑草に負けない花とかもあるから、緑一色にはならないんだよね。……ここから見える範囲だとなんだろ。月ノ瀬さんも知ってそうなのだと……たんぽぽとか? 道端でも見かけるようなのはやっぱり放っておいても咲くよね」

「ああ、なるほど」

「あ、菜の花とかもわかるよね。あとはなんだろ、躑躅(つつじ)とか? 躑躅は名前知らなくても絶対見たことあると思う。ネモフィラとかも有名だよね。あとは百日紅(さるすべり)も街中で普通に見かけるし知っててもおかしくないし、柘榴(ざくろ)も有名どころかな? あ、ドクダミとか? ドクダミは家の裏の日当たり悪いとこに群生しててね! あれはあれで──」

 

 そこまで満面の笑顔で話して、波瑠はピシリと固まる。

 そしてスッと笑顔を引っ込めて、天を仰いだ。

 

「……ごめん。ちょっとオタクが出ちゃった。男の子にはつまんないよね……」

「あ! いや! なんかこうすげー広い! って正直テンションは上がってます! また実際庭に出て案内してください! 楽しそうにしててもらえると俺も楽しいんで!!」

「うぅ……月ノ瀬さん優しい……」

 

 テンションを急落させた波瑠は、とぼとぼしながら「……じゃあ、次行こうか……」と言った。

 そして、さらに家を奥に進んだ先にあったのは、シアタールーム。

 広々とした部屋を贅沢に使って、大きなモニターとソファが置いてあるすごい部屋だった。ゲーム機やソフトも置いてある。この部屋で見るものは、きっと臨場感にあふれているだろう。

 

「……えーと。わたしはこの部屋視聴覚室って呼んでるけど。要するにおっきなモニターでアニメや映画見よう! って感じの部屋かな。一般的な言葉だとなんだろ。……プライベートシアターとかになるのかな?」

「……すごいっすね。いや本当に」

「とりあえず一階はこんなとこかな。どうだった? 敷地の大半庭だからさ、意外と家の中は普通でしょ?」

 

 浴場などはわざわざ見ていないが、おおよそを見て回った感想としては『いやこれが普通なら俺の家はなんなんだ?』というものであった。

 

「えぇ……いや、二人暮らしとしては破格の広さだと思いますけど……。ていうか部屋の一つ一つがめちゃくちゃデカいなって思いましたけど……。これでも狭いんですか?」

「…………いや、実のところ狭いどころか、無意味に広いんだよね。二人だと結構持て余すことも多くて……」

「そうなんですか」

 

 あはは……と苦笑しながら、波瑠は指をピンと一本立てて、上を──、2階を指差した。

 

「とりあえず、次は2階見に行こっか」

 

 

[ 第1-04話 : 3047字 ]

 

 

「とりあえず、次は2階見に行こっか」

 

 六花と波瑠のしていた、2階は見せてもいいの? という会話。

 家を持て余す、という話。曖昧な表情。

 嫌な予感がしながら、波瑠の背中を追って、階段を登っていく。

 

「実は二人暮らしってなるとこの家大きくてさ。特に2階がね? あんまり手入れも行き届いてなくて……」

 

 波瑠はぽつぽつと語る。

 階段の先は仄暗く、なんだか急に廃屋に足を踏み入れたような不気味さがある。

 そしてその感覚は、階段を登り切ると、より一層濃いものとなった。

 

「はい。ここが叢雲家の2階。……がっかりした?」

「いやあ……すごいですね。ていうか、電気つけないんですか?」

「電気全部切れてるから()かないの。……えへへ」

 

 電気が点かないという言葉の通り、2階のフロアは全体的に薄暗い。

 手入れをしていない故に、埃も積もっている。天井、部屋の隅には蜘蛛の巣も張り巡らされていて、誇張抜きに“廃屋”と言いたくなる趣きがあった。

 

「一応言い訳させてもらっていい?」

「はあ、どうぞ」

「繰り返しにはなっちゃうんだけど、わたしたち二人が暮らすには1階だけで十分なんだよね。だから2階に足を踏み込む必要がなくて、あと単純に外から見える庭とか応接室の手入れの方が大事だし。そもそも人手が足りないし……ってことをしてたらこうなっちゃった」

「……なるほど」

 

 視線を逸らして、もじもじと気恥ずかしそうにしているメイドを眺めながら、青嵐は思案する。

 電気くらいはつけたらどうか、という本音もある。けれど実際、不要なところに手を回すのは時間と人手の無駄遣いであるという理屈もわかる。

 

「ちなみに……なんて言うんですかね? ハウスクリーニング? 掃除業者? そういうの雇ってパパッと綺麗にしてもらうのは駄目なんですか?」

「あー、六花ちゃんが結構……人嫌いというか。『必要もないのに他人を家に入れたくないです』──ってタイプの子だから。前に一回聞いたら断られちゃった」

「……はあ」

 

 人嫌い、という言葉がいまいちピンと来ず、青嵐は怪訝な顔をする。

 確かに上っ面の表情と本音の表情の差には驚いたが、あれも含めて六花の人間的な魅力であると感じるし、純粋に人として面白い範囲だと思う。

 それに、経緯が経緯とはいえ、彼をこの家に招待したのは他ならぬ人間嫌いの少女自身だ。

 そんな青嵐の心情を察したのか、波瑠は苦笑する。

 

「月ノ瀬さんは、かなり六花ちゃんに気に入られてるんだよ?」

「……そうなんすかね」

「間違いないね。……聞いていいのかわかんないけど、さっきお茶持っていく前も何か二人で話してたでしょ? ……だ、抱っこがどうとか……」

「あー、聞いてました? 単に揶揄われてただけだと思いますけど……いやでも人嫌いって言うなら揶揄うとかもあんまないんですかね?」

「ないね〜」

 

 人嫌いな女の子の、特別扱い。

 明らかに好意的な態度。

 どうにもムズ痒くて、青嵐はそわそわしてしまう。

 

「……別に好かれるようなこと何もしてないんですけどね。むしろあるなら逆だと思ってたくらいで」

「そうなの?」

「あの子……叢雲さんを怪我させたの実質俺みたいなもんですし、その後の対応も正直バカ丸出しだったし……」

「へえ! よかったら聞いてもいい? わたし、怪我したって話しか聞いてないから、気になってたんだよね」

 

 六花が、『波瑠は恋愛脳だから』と言っていたことを彼は思い出した。

 目が爛々としていて、すごく楽しそうだ。一瞬話していいものか悩んだが、秘密にするような甘酸っぱいことは何もなかったし、構わないだろうと、一から話した。

 犬に追われていた六花と、公園で出会ったこと。

 木を見上げていた六花に、気になるなら登ってみたらどうかと唆したこと。

 その結果落ちて怪我をしたこと。

 彼の主観では怪我をさせた最大要因は自分自身であり、いっそ加害者に近い。

 

「で、そのあとは病院に運んだんですけど。今思うとあれもバカ丸出しでしたね。救急車呼ぶとかタクシー呼ぶとかそういう発想がまるで無くて、おぶって連れてったんですけど。まあ初対面の相手におんぶされるのも、普通に嫌だっただろうなとか」

「……」

「と、細かい経緯とか含めるとこんな感じかなってとこです」

 

 ばつが悪そうに、彼は眉間に皺を寄せて、頭をがりがりと掻く。

 罪状を告解をしているような気分だった。簡素なことしか聞いていないというなら、もしかすると『だいたいの原因は彼のせい』というのも伝わっていなかったのかもしれない。

 

「……大切なご家族に怪我させてしまって申し訳ありませんでした」

 

 深々と頭を下げる。

 今日少しの間話したりしているだけで、六花と波瑠が単なる雇用関係ではなく家族に近い存在であることがわかった。

 

「…………ふ、ふふっ。あ、だめだ面白い。……顔あげてよ。断言するけど六花ちゃん絶対気にしてないから、月ノ瀬さんも変に気負わなくていいと思うよ。わたしが保証する」

「……はあ」

「それでも何かって思うなら、あの子のこと、ちょっとだけ気にかけてあげてくれないかな。これは本当に本当のことなんだけど、あの子が他人に興味を持つってあんまりないことなんだよ」

「一応聞きますけど、俺があの子に手出したらどうするんすか?」

「……聞きたい?」

「いや、いいです」

 

 相変わらず可愛らしい容姿で、笑顔で首をこてんと傾げているのだが、いかんせん謎の凄みがある。

 別にそういうつもりは毛頭ないが、遊び半分でちょっかいを出すとロクなことがなさそうだ。

 

「まあ好きとか嫌いとか、そういうのは仕事とは切り離して考えていきたいとは思ってるんですけど。それはさておき、こういう形で雇ってもらえたのはマジで助かってるんで、できることは全部やりますよ」

「お、頼もしいね!」

「ていうか、話めちゃくちゃ脇に逸れてましたけど、使わないって言いつつここ見せたの理由あるんですよね? ここの掃除が俺の仕事ってことですか?」

「察しがいいね。そうだよ。怪我治ったらここの掃除お願いしたいなって思ってるかな」

 

 ふんす、と青嵐はぐるりと周囲を見渡す。

 ずっと階段を上がったここで話していたわけだが、1階と同じくらいのスペースがほぼ手付かずだとすると、なかなか骨が折れそうである。

 けれど、『何もしなくていい』と言われるよりはよほどよくて、気概が湧いてくる。

 

「電気なくても日差しで結構明るいですね」

「そうなんだよねー」

「片手でも、埃はたいたり、拭いたりはできそう」

「うん? ……いや、怪我人に無理をしてもらう気はないけど……」

「でもそのうちやるんですよね? 申し訳ないんですけど、また軽く案内してもらってもいいですか?」

「……見るだけだよ?」

 

 気概にあふれた彼を見て、波瑠は淡く微笑む。

 暗がりを照らすような明るい笑顔ではなく、ただ春のように優しい、大人の微笑み。波瑠はまだ24歳で、世間的にはまだ若い女性だが、この家の中では最年長の大人だった。

 だから、自分の家族である少女のことは人一倍気にしているし、そんな少女が気にかけている“彼”のことも気にかけていた。

 

「でも正直、物置きくらいにしか使ってないから案内って言ってもすぐ終わっちゃうと思うけどね」

「とりあえず、この家の隅々まで綺麗にするのを目標にします。いいっすか?」

「助かる~! でも最初は無理しないでね! 怒られちゃうから! わたしが!」

「オッケーです」

 

 まだ日は高く、窓からは光が差し込んでいる。

 彼らが進むことで舞い踊った埃と光が乱反射して、きらきらと輝いていた。

 そんな風にして、彼の勤務一日目は、お話と家の見学で終わったのだった。

 

 

[ 第1-05話 : 2731字 ]

 

 

 

 

 翌日、青嵐は朝8時前に叢雲邸を訪れていた。

 勤務時間はある程度の目安だが、何はともあれ8時には来てほしいということだった。

 怪我が治るまでは守らなくても構わない、というようなことも言われたが、やはりそれは流石に罪悪感が勝ちすぎる。

 昨日は『廃屋と呼んでも過言ではない2階の掃除』という仕事を見つけたので、それに取り組むべく気合を入れて来たのだった。

 

 ピンポーン、とチャイムを押す。

 しばらくすると応答があり、「どうぞ」という無機質な声が返って来た。

 許可を得たので玄関まで向かい、ドキドキしながらドアを開ける。この家は玄関に向かうまでだけでも、庭の鉄門をくぐる必要があるし、無駄に緊張をするのだ。

 

「おはようございます!」

「……おはようございます。朝から元気ですね」

 

 玄関には、車椅子に乗った少女が待っていた。

 腰ほどまで伸びた艶やかな黒髪と、まるで月のような琥珀色の瞳が印象的だ。

 初めて会ったときは朗らかな笑顔をした女の子だと思ったものだったが、それは表の顔であって、偽りであるそうだった。本性は皮肉っぽく、少しばかり素っ気ない。

 実際今も、冷ややかな視線を彼に注いでいる。

 

「『気負わなくてもいい』とか、『怪我してるから無理せずに』とかは昨日何度も言ってもらった──もらえましたけど、やっぱりお給料もらうならちゃんとやりたいので」

「そうですか。偉いですね。とりあえず……どうしましょうかね。とりあえず荷物とコートは応接室にでも置いておきますか?」

「はい」

 

 2階は廃屋のような有様で、1階は応接室以外はそれぞれ用途がしっかりしている。荷物を置くだけならどこでも構わないが、普段使いをしない客室的な位置にある応接室が一番便利だった。

 

「向こうは暖房もつけてますし、コートも適当にかけておいてください。荷物も置いてていいですよ」

「了解」

「……ところで何持って来たんですか?」

「ノートとペンとお昼ご飯かな」

「……ああ、なるほど。食事のことまで気が回ってなかったですね。明日から持ってこなくていいですよ。用意するので」

「そこまでしてもらわなくても……」

「私個人としては正直どっちでもいいんですが、たぶん波瑠はそのあたり結構気にするとは思います」

「ああ……」

 

 確かにあのメイドは、なんとなく『せっかくだし遠慮せず! さあさあ!』などということを言うような気がした。

 昨日淹れてもらったお茶もおいしかったし、食事もそれに匹敵するのだろうか。甘えてばかりで恐縮の念が尽きないが、やはり腹の虫は正直なようで、想像をするだけで敏感に反応をしてしまう。

 

『ぐぅ〜〜』

 

 自分でも驚くほど大きな腹の音が鳴って、思わず顔を背ける。

 

「……朝食は摂りましたか?」

「……いやあ」

「摂ってないんですね。まだ9時にもなっていませんし、持ってきたお昼を朝食にしてはどうですか?」

「……ちなみに叢雲さんは? 食べた……食べました?」

「食べてません。朝食を摂る文化が我が家にはないので」

「……へー」

「意外ですか?」

「栄養たっぷり! 三食しっかり! って感じのイメージがありましたけど」

「期待には応えられなさそうで残念です」

 

 ちっとも残念そうな顔をせず、淡々としている。

 

「とりあえずキッチンにでも行きましょうか」

「オーケーです。……車椅子押しましょうか?」

「………………そうですね。じゃあお願いします」

 

 じっと顔を見つめられた後、小さく少女は首肯する。

 青嵐はコートだけ置いて、六花の後ろへとまわる。

 彼は車椅子を押すことは初めてだったが、やはり人ひとりが乗っていることもあってやや重量感がある。片手だと難しい、と顔を顰める。

 

「ところで、佐久間さんは?」

「寝てます。波瑠は昼過ぎまで起きてきません。……あぁいえ、月ノ瀬さんが来ることはわかってるでしょうし、もう少し早いかもしれませんが」

「あー……なんか悪いな……」

「ちなみに私は毎日6時には起きているので特に気にしなくて問題ありません。仕事をさぼって寝ている波瑠が悪いだけなので、そちらも気にしなくて問題ありません」

「ふうん……」

 

 まだ記憶に新しい波瑠からの案内を振り返りつつ、片手のため少し危なげに、けれど丁寧に青嵐は車椅子を押した。

 決して心地いいものではなかったとは思うが、六花は特に思うところはないのか、涼しげな顔をしている。

 そんな調子でダイニングキッチンへと入り、青嵐はテーブルの空いたスペースに、車椅子を差し込むように止めた。

 

「悪い。自分が片手しか使えないの忘れてた。乗り心地最悪だったろ」

「不安定であったことは事実ですが、別に」

「……治ったらリベンジさせてくれ……」

「いいえ、はい。私のほうが先に治ると思いますし、その機会はないと思いますけど」

 

 そんなことより、と六花はテーブルを指で叩く。

 

「座ったらどうですか」

「え? ああ」

 

 一瞬どこに座るか考え、青嵐は対面の席へ向かおうとして──、

 

「こっち」

 

 トントン、と自分のいる隣位置を示す六花に止められる。

 特に拒否する理由もないので、青嵐は踵を返し、隣の席へと腰掛ける。

 

「では朝食にしましょうか。何持ってきたんですか?」

「おにぎり」

「……だけですか?」

「だけとはなんだ。だけとは。どんな場所でもささっと食べられる優れもの──……ですよ?」

「そうですね」

 

 何を考えているのかわからない相手とのコミュニケーションというのは、やはり頭を悩ませるものがある。

 叢雲六花という少女は、そのときどきによって口調・表情の落差が大きい。

 今現在は無機質な印象で、表情はピクリとも動かず、瞳もまるでガラスのように感じられる。

 

「…………」

「…………」

 

 ううん、と彼は腕を組んで少女の顔をジッと見つめる。

 隣り合う席で、互いに向き合う形。

 羞恥の色がない。迷いの色がない。躊躇いの色がない。そんな六花の面持ちを見て、彼はなんといったものかと頭を悩ませる。

 

「あのさぁ」

「はい」

「朝食にしましょうかって言ったじゃないすか、叢雲さん」

「はい」

「……そんなじっと見られてるとどうしていいかわかんないっていうか……ええとそうだな……」

 

 違う、そういうことが言いたいんじゃない、とかぶりを振る。

 

「叢雲さんは食べないのか?」

「はい」

「腹減らない? 朝はだめなタイプ?」

「いいえ、はい。お腹は別に空いてませんが、食べようと思えば食べられます」

「あー、じゃあさ」

 

 そうそう、これが結局言いたかった、と青嵐は頬を綻ばせる。

 

「飯、一緒に食べない?」

 

 ぱちぱち、と六花は目を瞬く。

 その所作には仄かに疑問符が乗っているようで、彼は少し発言を後悔した。

 けれど、そんな彼の心情を知る由もない少女は、素直に頷く。

 気のせいでなければ、その唇はほんの少しだけ、弧を描いているようで。

 

「……ではお言葉に甘えて、ご一緒させていただきます」

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