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硝子が砕ける音によって、静寂が食い破られた。
月光が闇を照らす。赤い海の水面に鬼が立つ。
柄はおろか鍔すらなく、ただ刀身の本体のみが曝け出された一尺程度の日本刀を握り締めた青年だ。
彼女が知る、あの眼鏡を掛けた少年をそのまま大人にした様な容姿のそれは、まるで兄弟を思わせるが、身に纏う殺意と殺気に全てが打ち壊された。
「漸く現れたか、《殺戮犯》」
「デートスポットには向いていない場所だな。センスの無さが伺える。普通は遊園地か水族館だろ、魔術戦にも映える」
構える事もなく、ただ突っ立ったままに殺人鬼はのうのうと駄弁っていた。
目の前には強敵。代行者であり、一般人とはかけ離れている筈のノエルでも手も足も出ない相手。
彼女の感覚としては、場合によっては埋葬機関の代行者すら斬り殺してしまうだろうと思ってしまえる程の実力を有する存在だ。
それを相手にして、零崎儀識は余裕の雰囲気を纏っていた。
いや、相手にすらしていない様だった。敵として見てすらいないのだ。
儀識は振り返りもせず、背後にへたり込むノエルへと謝罪の言葉を投げた。
「待たせてすまんな。総耶のカレーが思いの外、美味くてな。相席した学生と意気投合し、食い漁っていた」
「ちょっと待って」
謝意の欠片もない。それについては少しばかり思う所があったが、まぁそれは置いておくとしよう。
今、自分は窮地に追いやられている訳だし。絶体絶命であり崖っぷちに立っている訳だし。
だが―――そのカレー好きな学生については、流石に命の危機の最中に居座っている彼女でも気にせざるを得なかった。
「そいつ知ってるわ! 何よアイツ、私が危機に瀕してる中で優雅にカレーでも食べてたって言うの!? 信じらんない! 埋葬機関のトップランカーが何してんの!? こんな危険人物ならぬ危険死徒が居るならアンタが出向きなさいよ!」
自分よりも優秀な上司が自分では歯も立たない相手の相手もせずに、優雅に晩餐を楽しんでいる。
そんな事実に、ノエルは憤らざるを得なかったのだ。哀れなり、ノエル。
「なんだ、十分以上に元気じゃないか。これなら俺は帰ってもいいか」
「あー、痛いなー! 腕も足も全身が痛いなー! 乙女の顔にも傷が付けられちゃったなー! これは凄く強い人に助けてもらわないと死んじゃうかもー!」
「それが運命だ、諦めろ」
「お願いします、助けてください! 後でアドレス交換してあげるから!」
「結構な自信があるな、お前…。まぁ、仕方ない。
肩を竦め、
波紋が海を走った。飛沫が宙を舞った。けれど、その一滴足りとも殺人鬼を汚さない。
剣と剣が交差する。あまりにもかけ離れた、武器と武器の差を覆す様に、殺人鬼は無遠慮に凶刃を振るう。
柄も無ければ鍔すらない、刀身だけの日本刀。それがどれだけ扱い難い武器かなど、戦闘とは無関係な一般人ですら理解出来る。
刀を武器として振るう為に必要な物が何一つとして揃っていないソレは、もはや武器と言うよりは芸術品。或いは鑑賞品でしかない。
武器であって武器に非ず。所持者の戦闘力を下げるだけのガラクタに成り下がっている。
だが、この殺人鬼は―――零崎儀識だけは、その限りではなかった。
「―――」
「っ」
弾かれる。流される。防がれる。
敵の剣は、悉く弾かれ、流され、防がれる。
まるで針に糸を通す様な丁寧な剣捌きを、殺人鬼は細かく、されど素早く簡単にこなしていく。
振り下ろされた袈裟切り。刃で受け止めた刃を滑る様に抜き去って、その体へと一撃を流す。
初めて、血潮が彩られた。斜めから刻み込まれた傷から、壊れた蛇口を思わせる量の鮮血が舞う。
「っ!」
「危ないな。人に刃物を向けるなよ、吸血鬼」
「貴様が云うか! 殺人鬼の貴様が!」
「人ですらない奴に言われたくはないな。人になってから出直せ」
大きく踏み込む。赤い海が割れる。風が裂かれる。
鍔迫り合い。確かな剣と未完成の剣が、本来ならば一方的な蹂躙になる筈の差がある二つが、互角に殺り合っている。
それこそ、殺人鬼の技量の高さ。零崎儀識という殺人鬼の、鬼斧神工の如き絶技の表れだ。
相手を確実に殺す為の剣技。殺す為に必要な技術の全てを詰め込んだ剣。零崎儀識という殺人鬼を象徴とする技術そのものである。
「しかし、やはり硬いな。吸血鬼というだけはある」
剣を手放し、相手の顔面へと蹴りを穿った。
速度は良好。腰の捻りも問題無し。解き放たれた槍の如き威力を誇った右足が、亡霊の頬へと叩き込まれる。
吹き飛ぶ亡霊。まるで路傍の石の様に、呆気なく蹴り飛ばされた亡霊は、ついさっきまでノエルが叩き込まれた壁へと激突した。
「―――やはり、コレか」
瞳を閉じた。瞼を降ろした。
その瞬間―――世界は、色褪せていく。
それは、当然の様に其処に有った。
それは、生命の様にありふれていた。
それは、枷の様に世界を縛り付けていた。
死。いつか来る終わり。生物だけでなく、あらゆる全てに内包された最期の時間。
それを視る眼が、この世界には存在する。この世界にありふれた死、誰も視る事のない筈の概念を
「逝くぞ、吸血鬼。銭は要らん、ただ墜ちてゆけ」
色褪せた世界を、一匹の鬼が駆けていく。
それは、一秒で事足りた。瞬いて、世界を飛ばす刹那に満ちた時で、十分過ぎた。
飛沫すら上がらない。波紋すら走らない。
彼の肉体は、しなやかに。されど点を逸らさず、ひたすらに真っ直ぐだった。
鉄の様に硬く、刃の様に鋭い肉体。殺人鬼として完成された五体は、死を視る瞳で以て完了へと至っていた。
死など、視る前から
あって当たり前で、無くてはならない必要なものであったから―――零崎一賊にとって、死とはそういうものでしかなかったのだから。
「惨殺を以て殺戮を為す」
振り降ろされた凶刃は、
「零崎を完了する」
神すら殺してみせる。
アルクだよ!
ルージュよ
ねぇねぇ、ルージュ
なにかしら、アルク
私と仕事、どっちが大事なのよ! って言われたらなんて答える? 私は勿論、相手! だって仕事してないから!
無職に愛される相手も困ったものね。そうね、私は…遊びかしら。
まさかの第三の選択肢!
道は外れてこその道よ
次回、第四章「(略)」