一人の竜殺しのおはなし。

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第1話

 荘厳な教会の大聖堂。煌びやかな装飾と宗教的なディテールに囲まれた、どこか神聖な雰囲気を感じさせる空間。その中心で、一人の少女が祈っていた。いや、少女……と呼ぶには、少し適切ではないかもしれない。最高品質の生地を用いた、純白の修道服。一切の穢れのないそれを身に纏い、何かを悔やむように、悲しむように、神へと祈るその姿。それは、彼女の成長途上の身体とは裏腹に、どこか老成したような雰囲気を帯びていたからだ。

 

 その姿は、まさしく、聖女と呼ぶに相応しかった。

 

「ねぇねぇ聖女さま!」

 

 突然、教会の静けさを打ち破るように扉が開き、一人の子供がとたとたと駆けてくる。ちょうど、十を数えたくらいだろうか。まだ幼気な面影の抜けきらない、無垢な容貌。息を切らして聖女の元へと走り寄ってくるその様は、その身に羽織られた上等な騎士服を除けば、普通の幼子と相違ないものだ。

 

「あら、どうしたのですか……そんなに慌てて」

「聖女さまを探してた!」

 

 子供は、とびきりの笑顔を浮かべた。聖女を見つけたのが、よほど嬉しかったのだろう。騎士服に泥や皺がついているのも、彼女の前では全く気にしないらしかった。

 

「午前の訓練はもう終わったのですか? 騎士の訓練は、とても大変だと聞いているのですが」

「抜け出してきた! だって聖女さまに会いたかったんだもん!」

 

 悪びれもなくそういう子供に、反省の色はどこにもない。聖女は怒ったように、少しだけ口を尖らせた。

 

「いけませんよ、訓練を抜け出すなど。貴方は、この国を担うことになる騎士の卵なのですから」

「でも、訓練よりも聖女さまとお話する方がいいもん。聖女さまが話す物語、すごく面白いから。だから今日も聞かせてほしいなって……」

「ですが、大切な訓練を抜け出すなどあってはなりません。それでは立派な騎士様にはなれませんよ」

「うう……」

 

 諭すように言葉を連ねた聖女に、子供は見るからに落ち込んでしまったようだ。しゅんと肩を落とし、数刻前の勢いは見る影もない。少し待ってもいつまでもそんな様子なので、流石に見るに堪えなかったのか、聖女は困ったように笑みを浮かべた。

 

「貴方は本当に、物語が好きですね。……少しだけですよ」

「やった! 聖女さま大好き!」

「もう……本当に、少しだけですからね。さあ、座って」

 

 飛び上がって喜ぶ子供を、聖女は側にある椅子に座らせる。そして、自らも隣に腰掛けた。子供が身を乗り出して、わくわくとした様子を隠そうともせずに物語を急かす。

 

「ボク、英雄の話が聞きたい! 今までになかったすっごいやつが聞きたい!」

「英雄の話、ですか」

「そう! すっごい英雄の話!」

「――英雄」

 

 英雄。聖女は一言だけ呟いて、何かを考えるように目を瞑った。子供が、不思議そうにその様子を覗き込む。

 聖女――いや、一人の少女は、心ここにあらずといった様子で、暫くそのまま目を閉じていた。やがて、何かを決心したように、双眸を薄く開いた。

 

「どうしたの? 聖女さま」

「なんでもありませんよ。少し、考えていたのです。……そうですね。では、『竜殺しの英雄』の話など、どうでしょうか」

 

 竜殺し。そう聞いて、子供の目が見るからに輝いた。

 

「竜殺し!? 竜を倒した人っていないんじゃないの!? ホントはいたってこと?」

「それは分かりません。これは、ただ人から聞き及んだだけのものなので。それでもよければ」

「聞きたい! 絶対聞きたい!」

 

 わくわくとした様子で、物語をねだる。聖女は穏やかに笑みを浮かべて、小さな窓から見える青空を仰いだ。ほんの一瞬、聖女の表情が哀しげに歪んだことに、子供は気づかなかった。

 

 聖女は語り始める。

 

「――そう。それは、貧しい、小さな村であったこと。誰も知らない、一人の英雄の話です」

 

 

――

 

 

「今ので何本目かな……」

 

 森の中。一人の少年が、斧を片手に呟いた。年は十五、六くらいだろうか。子供らしさが抜け、青年へと至る途上にある肉体。いつも動かしているのか、程よい肉付きの身体。それを、簡素な麻の服で纏っている。

 傍らの広場には、斧で割られた木の枝と、それを縛るためのロープが杜撰に置かれている。ちょうど、薪を作っていたところなのだろう。

 

 少年は、うーんと背伸びをして、そして汗ばんだ腕をぐるぐると回した。今日は、日も傾いている。木々の隙間から、次第に橙がかった光が指し始めていた。そろそろ頃合いだろう。

 

「おーい、アル!」

 

 遠くから、若い女の声が響いた。振り返ると、手に包を持ってこちらへ歩いてくる少女の姿があった。少年――アルと同じように、麻の服に身を包んだ、みずぼらしさのある衣服を着ている。

 

「シュリ、迎えに来てくれたのか?」

「ギリギリまでここにいると思ったから。って、怪我してるじゃない!!」

 

 シュリ、と呼ばれた少女が、血相を変えてアルの側へと駆け寄った。なんだなんだ、とアルは自分の身体を見回す。よく見ると、脚のあたりに少し擦り傷があった。薪割りに精を出しすぎて、気が付かなかったようだ。

 

「大げさだって、ちょっと擦りむいただけだよ」

「でも、血が出てるじゃない! ……ちょっと待っててね」

 

 シュリが傷口の前に屈み込み、両手を祈るように合わせた。彼女の身体が、淡い燐光に包まれる。そして、優しげな翡翠色の光が傷口へと向かっていき、傷口がゆっくりと再生されていく。その様子を、感心するようにアルは眺めていた。

 

「精霊の力か……相変わらずすごいな」

 

 目の前の不可思議な奇跡のような現象に、ついそんな言葉が漏れた。

 精霊の力。それは、人智を超えた不可思議な力だ。精霊が人に『輝き』を見出したとき、手にするとされる。ただ『輝き』と言っても、それが何なのかは得体が知れない。成人までに大抵の人間が使えるようになるため、特別なようで特別でない力だ。だけれども、それには個人差があった。ある人は身体を強くし、ある人は魔法のように炎を出す力を得る。

 シュリのそれは、人を癒やす力だった。

 

「どう? これで痛くないでしょ。あと、おばさんがおにぎり持って来てくれたから、これも食べてね」

「ありがとう、シュリ」

 

 感謝を述べると、彼女はえへへ、と少し照れくさそうにはにかんだ。風が吹く。彼女の美しい金色の髪が、さらさらと流れた。夕日の光を背に笑みを浮かべる彼女を見て、ああ、こんな少女に恋をしてしまったのは。きっと、仕方のないことなんだろう――と。アルは心の奥底で思った。

 

 帰り道。二人は並んで、薄暗くなり始めた道を歩いていた。村までは少しかかる。だが、完全に日が落ちる前には戻れるだろう。家に帰れば、女は家事、男は力仕事をしなければならない。それまでの間は、彼らにとってのささやかで、そして大切な自由時間だ。

 

「それにしても、本当にシュリの力は凄いよな……この前は、鍛冶師のおっさんの指を綺麗に直したんだろ? その、言いにくいけど……完全に潰れてたのに」

「私の力じゃないよ、精霊さんの力だから」

「それでも凄いよ。将来は聖職者とかになれるんじゃないか?」

 

 アルがそう思うほどには、シュリの力は凄まじいものだった。

 

 精霊の力には個人差があり。そして、強い力を持つことは珍しい。身体を強くする場合。大抵それは、極めて微弱なものだ。炎を出す場合も同じ。火起こしが楽になる程度のもの。人の生活を確かに豊かにするが、決して画期的なものではない。

 だが、シュリのそれは違った。

 

「噂で聞いたけど。凄い力を持ってたら、お国から引き抜かれて騎士とか聖職者になったりするんだろ? 人を癒やす力。聖職者にぴったりじゃないか」

「なれるかなぁ、私に。なれたらいいなぁ……とは思ってるけど」

「なれると思うよ、シュリなら。――あぁ、シュリに負けないように、僕も頑張らないとなぁ……」

 

 粗雑な黒髪を掻き上げながら、どこか浮かない顔で、藍色に染まりかけた空をアルは見上げた。

 小さな頃から、アルとシュリは暮らしてきた。二人はどこにでもいる、貧しい村の子供に過ぎなかった。このまま普通に育って、普通に終わるのだろう――と、勝手に思い込んでいた。胸に抱く小さな恋心も、いつか伝えられる日がくるのだろう。そう、信じて疑わなかった。一年前、シュリが精霊の力を得るまでは。

 

 あの日から、シュリはこんなにも近いのに、遥か遠い存在になってしまった。自分はまだ、力に目覚めてすらいないのに。

 

 遠くに、村の灯りが見えた。木で造られた粗末な入り口に、人影が見える。そわそわとしているような、焦っているような。そんな風に見えた。

 

「ん? おい、シュリか!?」

 

 声がして、人影が近づいてきた。村のおじさん――シュリの父だ。いつもは頼りげのあるその肩が、やけに上下している。どこか、いつもとは様子が違っていた。怒っているのかと思えば、そうではなく。ただ、興奮しているように見える。

 

「帰るのが遅いぞ、シュリ! 魔物にでも食われたかと心配しただろうが!」

「ご、ごめんなさい……お父さん」

「おじさん、どうしたんですか? そんなに慌てて」

「それが、大変なんだよ」

 

 アルとシュリの目の前に、彼は一つの手紙を突きつけた。

 

「お国から、手紙が届いた。シュリを是非、聖職者として育てたいのだそうだ」

 

 

――

 

 

 村は狭く、人々の繋がりは深い。だからこそ、シュリの噂が村中を駆け巡るのに、それほど時間はかからなかった。

 

「今日は宴じゃーー!!」

 

 小さな村のちょうど中心にある、大広間。普段はただの砂浜であるはずのそこに、村中の人々が集まっていた。長老が酒瓶を片手に、子供のようにはしゃいでいる。等間隔に配置された焚き火が辺りを明るく照らし、普段は静寂に包まれているはずの夜を押しのけていた。

 お国からの引き抜きがあるのは、小さな村にとって一大事だ。村には、ささやかな栄光と金が約束される。これらの事実は、貧しかったはずの村の確かな繁栄を意味していた。

 

 大人たちが、我を忘れて踊っている。子供たちが、広場を楽しそうに駆けていく。現実感がないのか、シュリは側で、ぼうっとその様子を眺めていた。

 

「聖職者……なれちゃうね」

 

 彼女の小さな声が、口から溢れる。焚き火の光に照らされて佇む彼女の姿を、アルは見つめた。今は、ただの小さな村娘であるはずの彼女は、遠くない未来にここを離れるのだという実感が、ゆっくりと心の中を満たしていく。

 

「ああ……本当に良かったな、シュリ」

 

 アルがそういって笑うと、シュリもその蒼眼をアルへと流し、微笑んだ。

 

「――ありがとう」

 

 そのシュリの笑顔を、きっと生涯忘れることはないだろう。アルは、ただそう思った。彼女は美しかった。それ以外の形容の言葉を、見つけられなかった。

 アルの心を、確かな諦めが支配していく。諦め。けれど、どこか妙に納得してしまっていた。彼女は、なにもかもが自分とは違った。違う場所で生きていくべき人だった。儚い恋心は、到底叶うはずのない夢だったのだ。

 

 きっと、遥かな世界で生きる彼女と、一時でも共にあれたことは、自分には不相応な幸福なのだろう。これからきっと、自分に特別なことは、何も起こらないだろう。そして、多くの村人と同じように、ささやかな幸せを握りしめて、死んでいくのだ。

 

「俺、なんか凄い幸せだな」

「? どうして?」

「いや……なんとなく」

 

 アルは、困ったように髪を掻いた。その様子が少しおかしかったのか、シュリはふふっと破顔した。

 

「どうした、急に」

「だってアル、ちょっと変だもん。なんか悟ったような顔して」

 

 夜の闇が、また少し濃くなった。

 

「……悪い、ちょっと腹痛いから、先に戻ってるわ」

「大丈夫?」

「大丈夫。休んだらもとに戻るから」

 

 アルは立ち上がり、その場を離れていく。誰にも見られないくらいに遠くまで離れてから、アルは自分の家に向かって駆け出した。

 扉をあけて、人気のない居間まで走る。息が上がっている。膝を折って、地面に手を付けた。

 

「……やっぱり、ちょっと辛いな」

 

 地面に一雫、何かが落ちる。それが涙だと気づくのに、少しだけ時間がかかった。

 誰にも気づかれずに、静かに泣いた。気づかれてはいけなかったから。この気持ちは、この後悔は、自分だけのものだったから。

 

 暫くして。アルは寝室へと足を運んだ。今度こそ、晴れやかな気分だった。憑き物が落ちたような気さえした。このまま眠って起きたら、シュリは側にはいないのだろう。それでいいのだ。

 ベッドへと身体を横たえて、目を瞑る。涙の跡は、既に乾いていた。ゆっくりと、意識が闇へと沈んでいく。そして、いつものように、吐息をたて始めた。

 

 ――振動。

 

 あまりの揺れと轟音に、アルの身体が跳ねた。一気に、意識が引き戻された。思考が混乱する。

 今、何が起きている? 何分眠った? 自分の周りの状況が、何一つ分からない。混乱をそのままに、窓を見る。

 

 村が、燃えていた。

 

 唖然として、目を剥く。非現実的な光景に、思考が全て意識の外へと飛んでいった。妙に澄みきった意識に、誰かの悲鳴が飛び込んでくる。誰かが村を走っている。その後ろから火球が迫り――その誰かを焼いた。生き物が、肉へと姿を変える瞬間だった。

 

 また、誰かの叫びが聞こえる。竜だ、と。

 

 あり得ない。竜が村を襲うことなどあっただろうか。あったとしても、こんな平和な村で起きるなんて。

 何も分からない。眼前の現実を、否定したくなる。だけど、彼の瞳が、ありありと、現実を突きつけてくる。また、視界の端で誰かが事切れた。辺りは既に火の海で、自分が生きていることは奇跡に近い。早く逃げ出さなければ。

 

 そして。一瞬。恋心を抱いた少女の姿が脳裏を過った。

 

「そうだ――シュリ」

 

 行動は早かった。窓を飛び越え、燃える村など気にせずに駆け出した。今まで生きてきた中で、一番速く。脚が悲鳴を上げる。肩が乱高下する。

 お前には何もできない。行っても無駄だ。自分だけなら、まだ生き残れる。そう囁く悪魔の言葉を振り切って、ただ走った。そこには、必死があった。

 

 上空から、何かの咆哮が聞こえる。大きな翼をはためかせる音。考えたくもない。いるのだとわかった。次の獲物を探しているのだろうか。怪物の考えることなど分からない。

 

 また、誰かの言葉が聞こえる。助けて、と。その姿を視界の端で捉える。胴体の上下が泣き別れていた。もう駄目だと悟った。その声に目を背けて、ただ一人のためだけに走った。

 

 大広間へ辿り着くと、そこはまさしく地獄だった。人が集まっていたところを、突然炎が焼いたのだろうか。肉の焼ける音が濃い。何十人、という数の焼死体が、折り重なって倒れていた。

 

「――嘘だろ」

 

 きっと、そこに、シュリもいたはずだ。辺りを見回す。無駄だと理解していた。それでも探したかった。

 うつ伏せで事切れた少女の姿があった。そうっと、その腕に手を触れる。熱い。手が火傷するのも厭わず、転がして仰向けにする。

 

 シュリではなかった。だけど、何度か話したこともある、仲良しの一人だった。可愛げの笑顔を浮かべる、普通の少女だった。

 

「……うぅ」

 

 絶望が、彼の心を蝕んでいく。けれど、今は泣くべき時ではないのだ。探さなければならない人がいた。

 

「アルッ!!」

 

 突然、声がした。聞き間違えるはずもない、少女の声。

 アルは喜色を浮かべて、声のした方へ振り向いた。

 

「シュリ!! 生きて――」

 

 顔を泣き腫らした少女がいた。腕に、自分よりも重いであろう、父の亡骸を抱えて。

 引きずるように、焼け爛れた男を抱いて、叫んでいる。言葉が出なかった。

 

「アル、助けて! お父さんが!! だって、こんなにも祈ってるのに!!」

 

 シュリが淡い光に包まれる。精霊の力の発露。けれど、それは彼女の火傷した手を治すだけで。

 

 だって、生きていないものは、治せないから。

 

「――……」

 

 何と声をかければいいのだろう? こんな状況で、自分に何が出来ただろう?

 決定的な無力感が、彼の全てを止めてしまっていた。彼には何もない。誰かに勝るものなど何もない。

 何かがあれば、彼女は泣かずに済んだのだろうか? 何も分からない。歩みは止まってしまった。心は、どうしようもなく折れてしまっていた。

 

 竜の羽ばたきが、すぐ近くに迫る。次は僕が死ぬのだろうか。当然だと思った。生きている価値なんて、もうどこにもないのだ。村を失い、そしてこれから最愛の少女も失うだろう。

 

 ――ふと。泣き叫ぶ少女の後ろに、竜の姿が写った。黒光りする鱗。人など容易く切り裂くであろう、長い爪。その姿を、初めて見た。

 そして、その長い爪が少女の元へと伸びていくその様を見た。

 

「危ない!!」

 

 考えるよりも先に、足が勝手に動いていた。無力感? そんなものは最早どうでも良い。それだけは――それだけは、絶対に許せない。

 先のことなど考えない。身体の全ての細胞が、沸騰するようにも感じる。少しでも早く、一歩先へ。

 

 少女の華奢な身体が切り裂かれる寸前。一人の少年の身体が、その間に滑り込んだ。彼の胴体の中心を、死神の鎌が、確かに切り裂いた。紅の花が咲く。視界が回転する。地面に倒れ込んだ。

 

「……、……――!!」

 

 声が聞こえる。薄れゆく視界に、誰かの姿が映り込む。必死で、その誰かが自分の身体を揺さぶっているのが分かった。また、泣かせてしまったのだろう。自分のエゴで。

 ごめん――と。心の中で謝罪の言葉を口にする。意識が、だんだんと薄れていく。結局、何もできなかったけれど。けれど、きっと精一杯やったのだ。

 

 そして、彼が一瞬見せた、ひたむきさという名の『輝き』は、きっと誰かに届いていたのだ。

 

 

――

 

 

「どこだ……ここ」

 

 白い世界があった。境界や果ての見えない、深い白。少年はそこに、なぜだか分からないけれど、佇んでいた。

 

「不思議な質問だ。お前が呼んだのだろう」

 

 声が響く。驚いて周囲を見回すと、目の前の空間が少しだけ揺らいでいた。白い世界の中に、純白の輝きをもつ靄のような何かが、存在していた。

 

「あなたは……」

 

 質問する必要は、なかったのかもしれない。直感的に、何となく理解していたのだ。眼前で揺らめくそれが、『精霊』なのだと。

 

「どうして、ここに……」

「とても良い『輝き』を見た。それだけだ」

 

 精霊――人間が精霊と呼んでいるそれは、淡々と答えた。曰く、一人の少年の『輝き』に、強く惹かれたのだと。

 けれど、彼にとっては、全てが遅すぎたのだ。

 

「でも――全部、終わったんです。僕は、何も守れなかった。あの行動には、なんの意味もなかったんです。シュリは死ぬでしょう。……そして、僕も」

 

 精霊は、何も言わない。

 

「もっと、強くなっていれば良かった。そうすれば、守れたかもしれないのに。平和で優しい生活が続くなんて、思わなければ良かった。もっと必死になっていれば良かった……!!」

 

 ぼろぼろと涙を流し、告白する。全てを曝け出して。後悔ばかりだった。今更、精霊の力などどうでも良かった。もっと早く、何かを成し遂げようとしていれば、結果は変わっていたかもしれない。だけど、最早戻れないのだ。

 ついに、膝が折れる。ただ涙を流すだけとなった少年に、精霊はついに語りかけた。

 

「けれど、俺を呼んだろう」

「……?」

「『輝き』を、見た。それが全てだ。あの少女を救おうとしたその姿は、強く、強く、輝いていた。この因でなければ、得られないものだった。そして、確かに、お前は『俺』を呼んだのだ。他でもない、俺を」

 

 精霊の揺らぎが、大きくなる。風が吹いているように感じた。大きなエネルギーが、その揺らぎを中心として渦巻いている。

 突然、白銀の光が無数に現れ、乱雑に少年の身体を貫いた。痛くは、ない。ただ、呆然と、精霊を見つめるしかなかった。

 

「まだ、微かに命も残っている――救いたいか」

 

 精霊は、問いかけた。

 

「僕は、救えるんですか、シュリを」

「お前次第だ。たとえその命、完全に燃え尽きようとも……救いたいか」

 

 考えるまでもなかった。少年は、しっかりと、一度だけ頷いた。

 

「救いたい。僕は――彼女を、救いたい――!」

「知っていたとも。あぁ……良い『輝き』だ」

 

 精霊が、微かに微笑んだような気がした。

 白い世界が、強く、震え始める。白銀の光を通じて、ナニカが少年の中へと入り込んでいく。大きくて、そして、暖かいナニカが。ゆっくりと、彼の五体に浸透していく。

 行き場を失ったエネルギーが、世界に亀裂を入れていく。急速に壊れていく世界の中で、最後に、精霊は呟いた。

 

「行ってこい、『英雄』」

 

 

――

 

 

「アル、ねぇアル! 返事をしてよ!!」

 

 倒れたアルの胴から、夥しい血がどくどくと流れ出ていた。シュリは彼の身体を揺さぶりながら、必死で力を行使する。だが、彼の身体は急速に、死へと向かっていく。

 

 血が、止まらない。

 

 ふと、気配がして、シュリが後ろを振り返る。そこには、獲物を前にして獰猛な笑みを浮かべる、竜の姿があった。

 あぁ、今まで何をやっていたのだろう。シュリは思う。

 

 聖職者になれば、誰かを幸せにできると思っていた。村は豊かになり、皆が笑ってくれると信じていた。なのに、そんな幻想は簡単に崩れ去ってしまう。小さな頃から苦楽を共にした大好きなアルも、もう死んでしまう。

 奇跡なんてなかったのだ。世界はひたすらに残酷で、小さな弱い命など簡単に吹き飛んでしまう。

 

 ゆっくりと、竜の口が迫る。丸呑みにでもするのだろうか。するなら早くしてほしい、と願う。もう、全てを諦めてしまっていた。でも。

 

 それでも、本能が、生きたいと願っている。

 

「…す、けて」

 

 掠れたような声が、少女の唇を震わせる。絶対に助かることはないと、理性では分かっていても。本能が、己の生存と――そして、誰かの助けを願うのだ。

 

「助けて、誰かぁっ!!!」

 

 ――瞬間、世界を白銀が駆け抜けた。

 

 膨大なエネルギーの奔流。それは風となって、少女と、そして竜の身体を、吹き飛ばした。少女の身体が、地をころころと転がる。少し離れたところで、ようやく止まった。

 

 不思議なことに、身体に怪我はない。恐る恐る、うつ伏せの身体をそのままに、少女は顔を上げた。

 

「一体何が――」

 

 目の前に、神さまが現れたのではないか。そう、錯覚してしまいそうだった。アルの身体が、ゆらりと起き上がる。彼の身体は、淡く光る白銀に包まれていた。周囲からは銀の帯が顕現し、ゆらりゆらりと彼の身体のそばで流れている。

 

 虚ろな双眸に、わずかに生命の光が灯る。彼の右手が、誰かに支えられるように前へと突き出され。そして、虚空から、銀色の剣が現れた。

 

「……きれい」

 

 なぜだろう。そんな言葉が、シュリの口からこぼれ出た。ヒトの身でもはっきりと感じられる程に、彼は『輝き』に満ちていたから。

 突然、遠くから火球が飛んでくる。アルはそれを、銀の剣を以って斬り伏せた。致死の炎が、いとも容易く散っていく。

 

「シュリ」

 

 アルが、シュリの方へと振り返る。彼は穏やかに微笑んでいた。その瞳に、確かな決意を添えて。

 

「今まで、ありがとう。――大丈夫。守るから」

 

 少年は白銀を纏う。その背からは一対の光が吹き出し、まるで翼のように輝いていた。

 ぐっと、脚に力を溜める。そして、思い切り地面を蹴りつけた。少年の身体が光の尾を引きながら、飛翔する竜へ向かって飛んでいく。その様を目に焼き付けながら、少女は思う。きっと、これが英雄なのだろうと。

 

 怒れる竜が、憤怒の形相で彼を睨みつける。だが、恐怖は感じない。もう、通り過ぎてしまったから。あとは、ただ目の前の敵を殺せばいい。

 

『やり方は、わかっているな』

 

 精霊が問いかける。

 

「分かってる」

 

 彼は答えた。精霊の力が、直感的に、使い方を教えてくれている。手を動かす時に、どうすればいいか分かっているように。初めてなのに、何度も使ってきたように、とても馴染んでいた。

 

 竜が炎を吐き、同時に突貫してくる。左手を振るうと、銀色の帯が風となり、その炎を吹き飛ばしていく。そして、竜の巨躯を剣の刀身で受け止めた。

 

 痛い。でも、それでも良い。今はただ、この敵を斬り伏せることができれば。

 

 竜が翼を大きく扇ぎ、暴風を叩きつけてくる。ひらり、と彼の身体が彼方へと投げ出される。制御を失ったその身体を穿とうと、竜が爪を擡げて飛び込んでくる。

 その姿を傍目で捉えるや否や、彼は空中を蹴った。すると、まるでそこに地があるかの如く、彼を上へと押し出してくれる。

 

 通り過ぎていく竜の身体。風を味方につけて宙を舞い、竜の背後を取る。剣を袈裟懸けに一閃する。血が流れ出た。竜が苦悶の表情を浮かべ、そして呻いた。

 

「――今」

 

 剣を纏う風が、増していく。刀身が強く、強く光った。

 垂直に構え、そして振り下ろす。月と見紛うかのような巨大な光波が。竜のその巨大な身体の中心を、確実に貫いた。竜が、地へと墜ちていく。

 それは、完璧な、紛うことなき勝利だった。けれど、その代償は大きなものだった。

 

 ――風が、弱くなっていく。彼を包んでいた白銀の帯が、徐々に光を失い始めていた。身体が、重力に引かれてゆっくりと落ちていく。シュリはそこへ向かって、走り出した。

 ポトリ、と地へ投げ出されたその身体を抱え起こす。もうそこには、燐光はなかった。『輝き』は、喪われていた。生命の残光が、弱々しくそこにあるだけだった。

 

「シュ……リ」

「あぁ、アル、どうしてこんな……」

 

 シュリは祈る。どうか救って下さい、と。彼女の身体を、燐光が包む。けれども、失われた生命は戻らないのだ。アルは、それを既に差し出してしまったのだから。

 

「ご、めん……もう、駄目なんだ」

 

 弱々しく、言葉を紡ぐ。絶対的な摂理。これから、自分は死ぬのだと。徐々に身体が、ポロポロと崩れていく。死が近づいて来るのが分かる。

 シュリもまた、彼の死が避けられないのだと直感的に理解していた。これが最期の時間になると。彼女は泣くのをぐっと堪えた。泣くだけならば、後からいつだってできる。けれども、彼との時間は今しかないから。

 

 アルは、たった一つの心残りを、彼女に告げる。

 

「シュ、リ……今まで、本当に、ありが、とう。……好き、だった。……もっと早くに、伝えるべき、だった」

 

 一瞬、時間が止まったような気がした。堪えきれない涙が、シュリの瞳から零れ落ちるのに、そう時間はかからなかった。

 

「ごめんね……私もだった。ごめんね……!」

「いいんだよ……もう……何も、心残りはない、から」

 

 薄く、だけど確かな笑みを、アルは浮かべた。

 

「何度も、だけど……ありがとう。君が、いてくれて……良かった」

「私も……守ってくれて、本当にありがとう。好きって言ってくれて……ありがとう」

 

 ほろほろと流れ落ちる涙など気にすることもなく、シュリは微笑んだ。その姿は、彼の最期を看取るのに相応しいものだっただろう。

 砂となって、風に吹かれて、彼の亡骸が散っていく。シュリは、彼のために、ずっと、ずっと祈り続けた。長い夜が、明けるまで。

 

 

――

 

 

「それで、その後英雄さまはどうなったの?」

 

 哀しげな物語だったからだろうか。興奮は鳴りを潜め、落ち着いた様子で、子供は聖女へと問いかけた。

 

「分かりません……けれど彼は、きっと遠くへと行ってしまったのでしょう」

 

 聖女は、また窓から覗く大空を見つめる。この空の向こうに、彼はいるのだろうか。そんなことを考えると、いつも、彼女は止まらなくなってしまうのだ。意味のない問いだとしても。

 

「……聖女さま?」

「あぁ、いけません。ぼぅっとしてしまいました。……これでお話は終わりです。さあ、訓練に戻って」

 

 しかし子供はその場を動こうとせず、神妙な面持ちで聖女を見つめていた。決意の籠もった瞳が、聖女の瞳を捉えている。

 

「聖女さま。……ボク、誰かを守れる人になりたい。なんか、お話聞いてたらそう思うようになった。そういう人になるために、訓練するんだ」

 

 聖女は子供の言葉に、また穏やかな笑みを湛えた。あぁ、きっと、こうして彼の『輝き』は、受け継がれていくのだろう。それが、無性に嬉しかった。

 

「立派な心がけですよ。誰かを助けて、そして自分も生きて帰って下さい。そんな騎士に、きっとなってくださいね」

「うん、頑張るよ!」

 

 子供が駆けていく。どこかその様子が、昔の彼との重なった。

 がらんどうになった、大聖堂の中。聖女は一人、また祈り始める。誰かのために。そして、彼のために。

 

「……ありがとう、アル」

 

 最愛の人の為に、彼女は、祈り続けた。


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