準一級術師凍星奏雨に言い渡されたのは、単独での状況解決だった。
「単独での一級任務……」
生得領域、即ち呪霊の腹の内は、何処か遺伝子的に親しみやすいような光景だった。
江戸時代のような古風文化的な建物が一直線に並び往く街道。空は薄暗い一方、星は見えない。
昔ながらな村だと思った矢先の話だ。この地にあってこの領域ありというか。
「私の術式とは相性がいいのは、幸運かな」
曖昧に象った半透明の人型。その貌はうかがい知れず、真白の般若面が音もなく責め立てる。
さしずめ般若霊とでも言うべきか。それらは私を取り囲むように、四、五、六……次々と湧き出でる。
「『荼毘送り・弔寵』」
般若霊は身悶えながら、紫の炎に沈む。
三級程度の呪霊ないしは式神が群れを成しているに過ぎない。余裕を取り戻したことにより、疑問が口をついて出る。
「……なんで般若?」
回想。
陰気な補助監督が言うには、この村には『呪い』が漂っているらしい。
それはかくいうところの術式、呪霊ではなく、まさに一般人が想像する形無き不景気だ。
「はい。先日、夫が病に臥しまして……」
落陽が景観の輝度へ直結する山奥の村に、彼女は独りとなった。
三十代だろうか。顔に刻まれた皺は口外に旦那を亡くした心労を語っている、見た目以上に若いかもしれない。任務中泊めてくれるらしい女性は、古めかしいこの家で一人住むという。
「下りた先の町に住んでいて……何か、記事の取材と言って、この村を訪ねてきたのが出会いでした。私が、私が彼を追い掛けるべきだったんです……」
中々、感傷的な話だ。
お悔やみ云々と返し、続く言葉に迷った私の様子を見て、女性は首を横に振った。
「ごめんなさい」
「……いえ。聞いたところ、長きにわたって、この村では男が早世すると聞きました」
「貴方を育てるのに苦労した、と母からもよく言われました……。ですが、男が、というわけではないです」
知っている。
白々しくもはてと聞き返せば、彼女はつかえることもなく語ってくれた。
「どういうわけか……この村で婚約した男性ばかりが、病にかかるのです。村の内外、どちらが出身でも変わりません。未婚者でしたら、そうですね、私が子供の頃から今の駐在さんはいますが……達者な様子でいつも励んでくれています」
「あくまで、既婚の男性ですか。例外は?」
「皆が皆というわけではなく、私の祖父も、天寿を全うしました」
ならば血筋はあまり関係ないのだろう。
婚約した男を絞った上で、ランダムに呪いをかけていると仮定しても、寿命の観点から呪詛師である可能性は低い。寿命を吸い上げるとしても、病の症状が出ているのだから、やはり呪詛師は考慮から外すべきだ。
呪霊の仕業と考えれば、それも少し引っかかる。
「共通点はありますか? 発病した時期や、この村の滞在期間など。よく身に付けていた物、習慣でも構いません」
「そう、ですね……」
思い悩む様子で、彼女は握り込んだ掌に視線を落とした。
まさか、今時に囲炉裏を挟んで膝を向かい合わせるとは思わなかったが、あんまりに風情がなく重たい話だ。
任務概要
村落内での既婚男性に限られた病死
その原因への対処
どう情報収集しても胃に穴が空くだろ。胃っ糾任務ですかって。殉胃っ糾ですこちとら。
……どれだけ可哀想ぶっても、まぁ、結局、この女性程ではあるまいが。
「……ごめんなさい」
一瞬口に出てたかと焦ったものの、すぐに思い浮かぶものがないことへの謝罪なのだと気が付く。
「いえ。そしたら一応確認を取りますが、発病に歳は関係なく、症状も違う。職や装飾品も共通したものはない。という認識で構いませんね」
「あっ、いえ、その……症状は、私が知る限りで、異なってはいない……はずです。あまり、知ってはないのですが」
まぁ人様の旦那が患ってる様子をわざわざ見ないよな。
「分かりました」
「あの……職とか身に付けているもの、って……関係あるんでしょうか?」
あー。少し、聞き方が『こちら側』すぎたか。
「そうですね。何処から感染しているか、分からないですし。職なども、共通していれば調べる先が明らかになりますから」
「あ……はい。ごめんなさい。専門家ですものね。お若いのに……」
どうも。
わたくし凍星奏雨は、風土に詳しい医療従事者だってことを忘れていた。これはいけない。
……無理あるよなぁ。
本当ならもう少し聞きたい事はあるのだが、何も喪中であるのにわざわざ本人へ聞く必要もないだろう。
その点、他所者だからこそ、ある種気軽に聞ける駐在さんに目星を付けていたのだが、聞いたところすっかり村側の視点でありそうだ。
かといって元から独り身である人物に聞くとしても、この小さい村であれこれ聞いて行ったら、折角泊めてくれたあの女性に変な噂が立ちそうで躊躇われる。
参ったな、と独り言を飲み込んだ。そこでふと、飲み込む必要はまだあるのか、離れたところで敷かれている布団を遠目で確認する。
どうやら必要なかったみたいだ。
日付けが変わった直後、東京ではまだまだこれからと言わんばかりに栄えるものだが、この村では明かり一つ灯らない。
風土研究家さんはひとまず井戸でも調べることにしよう。
村の人間がまた一人死んだかと思えば、いきなり現れた余所者が辺りを散策するというのもまた、噂の種たり得る。
井戸には何も無し。というか、こうも暗いと最早残穢の方が分かりやすいまであるんじゃないか。
ライトをつけて歩けばいよいよ悪目立ちしそうだが、そうも言っていられないかもしれない。
「……残穢」
呪詛師の可能性を排除したからといって、人が呪った可能性まで潰えたわけじゃない。
何者かが呪具の術式を使って人を呪った可能性。
狭い村で結婚した者を呪うのは、別に神妙なる不可解でもない。呪具であれば人から人で継承していくことも可能で、この場合は寿命の問題も解決する。
そうなれば残穢があってしかるべきだ。だが事実、女性の家に残穢は感じられなかった。男性が死んで一週間も経っていないのに。
この場合、どういう形でなら呪いが成立する?
腰掛ける場所も見当たらず、立ったまま携帯を使う。案の定ネットは繋がらない土地だが、メモアプリなら問題なく動作した。
遠隔で呪える呪具。
村のコミュニティなら多少強引な接触でマーキングすることも可能な気はする。遠隔で呪具を起動すれば、被呪者の周りに残穢が出ない可能性もあるか。この考えはマーキングがネックになる。死に至る程の病にいて、身体の世話を一人で済ませるというのは少し難しい想像だ。身体を拭く時にでも、怪しい点は見つかるだろう。
発病した時点で効力を終える呪具。
袖振り合ってそりゃ発病。これなら残穢が発生しても、私が調査しに来た時点で消えてしまったと解釈出来る。しかし、そうなれば呪具の術式は死に至る病を即時発病させる、というえげつないものになる。『呪い続ける』なら解呪という不利要件が発生する分納得が行くわけだが、その場合は呪具と被呪者の間が残穢で繋がっていないとおかしい。つまり、必死の病が初手の呪いで完結するのは現実的ではないと考えて良い。
「あ、いや。本当か?」
現状分かっている呪いとは、人を必ず殺す呪いではない。既婚男性を罹患させる呪いだ。
つまり、術式対象を狭める『縛り』による、術式効果の向上だ。これにより死に至る程まで強力になったとすれば、どうだ。
……書いてて思うけど、無理じゃないか?
何をもって既婚とする? 結婚と代替になる条件。接吻したことがある者、まぐわったことがある者とか。どちらも術式選択の対象にするにはちょっと厳しくないか。相当呪術に長けた者が遺した呪具になるが、そんなものまで考慮してはいられない。
『縛り』は良い線行ってる気がする。私のように射程距離を狭める縛り、それこそ袖振り合っての部分を強制するならどうだ。
……術式じゃなくて、あくまで呪具の話だぞ。近射程はそもそも前提条件としてあると考えれば、縛りで狭めても大幅な向上は見込めないだろう。
呪術の性質上、『縛り』路線は術者や呪具の保有者の技量に依存しすぎている。途方もない。
さて。
田畑で呪物を栽培してる人が人の旦那に振る舞って呪った。馬鹿だろ。失礼過ぎる。
「……遺体残ってればなぁ……」
心まで医者になったつもりはないが、あればまた違っただろうに。
どうやら既に弔って埋葬した様子。田舎のフットワークたるや。
私が出来る判断だと、どうにも呪具や呪物は非現実的な手段に思える。
一応は一級任務として振られたわけで、これまでと一線を画す難易度なのだと説かれたなら頷く他ないが、それはそれで、ずっと埒外な呪霊呪詛師エトセトラを相手にすることが決まるわけだ。
……荷が重い。
「妥当なのは呪霊、か」
本来なら最もメジャーな結論への帰結。今回の例なら疾病が妥当か。
メジャーだからこそ、特殊な手段の可能性を潰してから考えなければいけなかった。呪霊なら裏をかかれることもない。なにせ
「ジュレイ?」
「単純になったかと言われたらそうでもないけど。……。……ッ!?」
足元に光が伸びている。真っ白で無遠慮だ。
咄嗟に光源、そして音源を見てみれば、人影が立っているのが分かる。相変わらずの暗さで人柄を判別することは出来ないが、とぼけた声は壮年の男性といったところ。
「こんなところで、何してる?」
敵対的……いや、警戒されている。当然だ。
「こういうものです。今日の昼からお邪魔させてもらっていて」
この任務の為に用意された身分証を取り出す。
間近にライトを当ててしげしげと見つめた男性は、何回か私の身体も照らしながら(くっそ眩しい)文字通り照合していく。
「あぁ、先生ね、あちらのお宅の旦那さん、亡くなっちゃったもんなぁ」
呪霊について聞かれたら風土研究様が樹齢についてうんちくを語るしか無かったが、彼の関心はそこじゃないらしい。
身分証を手渡せる距離まで来れば、この人が駐在なのだと分かった。話に聞いた通り、肉付きの良い壮健なご様子。
「ここで何してたの。なんか変なことしてないよね」
「はい。水質を調べてました」
してたらしてると言わんけども。
「ホントに?」
「……短い間ですが、滞在させていただく予定です。毒でも混ぜてしまえば、私も死んでしまいます」
なんかウケた。
「確かにねぇー。
「仕事道具です。繊細なので、あまり」
……呪具を見られちゃ流石にだぞ。
いや。
そもそもこの人、なんで駐在なんかしてるんだ。
目算と女性の話を整合させれば、この人は二十年以上ここの駐在をしている。二十年前であれば肉付きなんて表現の不釣り合いな、新鋭らしい引き締まり方もしていように……ここで留まるだけの理由があるのか?
呪具を見せて揺さぶるのも選択肢か。
「ふぅん、そう。暗いでしょ」
「人が死んですぐ、余所者が村を堂々と歩いているのも、居心地が悪いかと」
これは本心。
「ま、かもなぁ」
会話が途切れても、彼は離れようとしなかった。
かつて余所者だった男が、汚れた革靴を照らす。夜盗のような思いで後ずさりそうにもなるが、肩にかけた鞄の重みを確かめて、闇に陰る瞳を見た。
「……どうして貴方は、ここで駐在を?」
推測で事を荒立てるのは、専門家のやり方じゃない。
風土は知らずとも、呪い、心の機微、言葉や態度は、よく相手にするものだ。
「一目惚れかなぁ」
「一目惚れ」
機微とか態度とかじゃない話になってきた。
笑いを含んで彼は続ける。
「色々あって厄介払いされたのがキッカケなんだけど、まぁべっぴんなワケよ。良くしてくれたんだよね」
左遷先に待っていた、思わぬ憩い。と言ったところか。
「だから、護りたいなんて思ったわけなんだけど。なんなら先生、見に来るかい?」
「えっ?」
この人は結婚してないんじゃないって話じゃ。
明かりが遠ざかっていく。振り向いたような気もしたが、たじろぐ私に構うつもりはないらしい。
難航してるんだ。どんな形であれ、この村を知れるなら……。
長く歩いた。普通に歩いて枝木が頬を掠めるくらい、小さな道を歩いている。
向かってる先、駐在所なわけないよなぁ。
なんなら怪異みたいに振る舞われてる気もするけど、この人から研ぎ澄まされた呪力は感じられない。一般的だ。
黙って歩くものだから、私も口火を切りにくい。
私達はとっくに村を背にしていた。
「ここだよ」
場が少し開けた。ライトが照らした先を見るべく、男性の横に並んだ。
そこは建物ではなかった。
「病とか関係ない、事故さ。崖から落っこちて」
村墓地。
打って変わって質の柔らかくなった土は、幾つもの石を立ち並ばせる。
一つの墓標にライトが集中している。男性は墓標に近付き、膝を付いた。
「なんで駐在なんかやってるって聞いたな」
そこまで見積もった聞き方ではないけれど。
「おっかねえ幽霊を視ちまったんだよ。それでも俺ァ警察官、例え幽霊でも、解決して市民の安全を守らなくちゃいけない。だが、急遽本部は捜査を打ち切ったんだ。それでも納得出来なかった俺は独断で、捜査を進めちまった」
一般人にも呪霊が視えてしまう体質はいる。かくいう私も、術式を自覚するまで、つまり一般人だった頃はそういう分類だ。
恐らくは呪術総監部に引き継がれた案件を、それでも男性は追っかけてしまった。
だから、村奥に飛ばされた。
「その幽霊に、何かされたりは」
「ッハハ、何も聞かずに信じたのは、コイツ以来だなぁ。……なんにも? ところで」
よっこらと男性は立ち上がった。彼の言いたい事はなんとなく分かっていたけれど、彼の人生に滲んでしまったシミを拭う為に、私は黙って続きを聞いた。
「お兄さん、先生じゃないでしょ」
「――今日も同じです。貴方に、詳細を伝えることは出来ません」
呪術規定八条
非術師に呪術の存在を明かしてはならない
「ただ、そうですね、解決してると思いますよ。少なくとも、貴方はするべきことをして、私達も、やるべきことをやってますから」
「……気遣わせるつもりはなかったんだがなぁ」
「子供の頃に答えてもらえなかったことって、案外後に引きますからね」
彼は愉しげに笑った。
それから、何度も「そうか」と納得するような言葉を独りごちた。
呪術師が人を助ける仕事とは、あんまり思ったことがない。
人命と深く関わっている都合、なりゆきで人を助ける事は多くある話だ。
それでも、ルールの外で回っている規則が助けているのは、ルールの外で生きているような人間だ。大体の人間は、知らないままルールの中で生きていく。
この人は違う。たまたま、ルールの外を半歩歩いてしまっただけの、一瞬道を違えてしまった人。狐の嫁入りというやつだ。雨に降られたことが忘れられないなら、傘を見せて、なんてことない事だったというのが、狐にとって出来る有情な対応だと私は思う。
「いや、すまんかったね。いろいろと」
「構いませんよ。丁度、少し確認したくもありました」
言って墓石を見渡した私に、男性はすぐ察しがついたようだった。
それなら、と先導してくれる。
或る墓石の前には、柔らかい土を踏み均した足跡があった。花も一輪、添えられていた。
「呑める奴だったんだけどなぁ」
「……どんな人でした?」
やはり、まるで気軽に聞けやしない。
空元気かそれとも。彼は亡くなった男性について多く話してくれた。
そりゃあ歓迎されるだろうという気のいい男っぷりに、何処か剽軽な価値観も持っていたらしい。言わせてみれば浪漫というやつだろう。村に来たのも剽軽な価値観とやらに由来するところで。
思い出話の聞き手になることで何かを慰めることは出来たかもしれないが、やっぱり、今までの推定被呪者との共通点は分からずじまいだ。
「いけねえ。話過ぎたな」
「いえ」
「そろそろ戻った方がいい。あの奥さんは早起きだから、きっとお兄さんが消えてりゃ心配しちまう」
送ってくれる素振りを見せる男性だが、私は首を横に振る。
書き置きはしてあるし、なるべく急いで任務を片付けたい。
一級術師は単独行動が増えてくる。
今回みたいに、情を散らしてもいられないだろう。
なら速やかに任務を済ませて、早く帰るべきだ。
「そうかい」
「あっ、最後に一つだけいいですか」
婚約に置き換えられる条件。つまり、呪われる条件。
「結婚の証って、なんだと思います?」
「……はは、そりゃ一つしかないだろう。男にとっちゃあ」
そう言って、指をさすようにライトを私の足元へ向けた。
いや、少しズレている。
一輪の花、その傍には『証』が慎ましくあった。
「気を付けてな」
――婚約指輪。
私は屈んで、婚約指輪を手に取る。
高級感のある触り心地をしており、携帯の明かりで照らせば、小さな石が高潔に輝く。
「……呪われてる」
微かに、残穢とは違う呪いの気配があった。
私は鞄から一枚の紙を取り出す。線対称の、振袖を着た人間のようなシルエットの紙だ。その紙に筆ペンを走らせる。
一種の人型と目されるそれは、形代と言う。非術師の世界においても大祓という清めの儀式に使われる由緒ある道具だ。
尤も、これは呪いに使うわけで、本来込められた用途とはやや乖離する。
人型の頭部に位置する場所へ、婚約指輪を置く。
形代は、非術師の用途として、人間の代わりに穢れを移すというものがある。これを転じさせ、形代を呪符の媒介として扱う。
呪いの込められた婚約指輪。その呪いを形代へ移す。勿論術式対象を変動させるようなことは私の技量じゃ成立させられない。私がやっていることは、透明な水に黒い絵の具をひとつ垂らすようなこと――つまり、形代に指輪の呪力を流すことで無垢な依代は淀み、僅かなその呪いを記録する。
「書きにくいったら……」
ミスがないか見直し、筆ペンを仕舞う。最後に息を吹きかければ終わりだ。
目を凝らせば呪いが
これが出来れば持ち出す必要はない。私は元の場所に……。
「……大切な物に、勝手してすいません」
花の傍に、指輪を置いた。
これで形代が勝手に痕跡を追いかけてくれれば言う事もないのだが、残念ながら楽は出来ない。
形代を上着の中に入れて、私は墓から離れた。
先ずは足音を殺して、村中を歩き回る。文字通りの散歩というか、調査ですらないただの散策である。
形代に反応はない。
呪いを記録した形代は、その呪いの傍に来ると、引き合おうと反応する。形代の『霊が寄り付く』性質を逆に利用したものだ。
推定一級疾病呪霊の専用ダウジングマシン。
その能力を持ってしても、その痕跡を見つけるのにおよそ一時間が掛かった。
ところで、結婚がトリガーな呪霊ってなんだ? それも、呪いをかける対象は男性に限っている。
日本神話で言うところのイザナミイザナギは、結婚について大きなエピソードがあるが、それだけだ。
「ま、悪感情の吹き溜まりに、合理も何もないか」
思えば百年単位で活動していそうな呪霊だ。あからさまな村の中に居れば、もっと直接的な被害が出る。
何故村墓地が村から離れていたか。墓地そのものを敬遠したのはあるだろう。ただ、こうも考えられる。
男手が早世した結果、村を縮小せざるを得なかった。
墓地から先も、昔は村だった。
木々の合間、完全なる森の中にそれは在った。
明かりがないととても見えない。携帯の明かりで照らした先には、襖が一枚、土にまみれて横たわっている。
形代が強く反応する。
あの襖だ。
「『闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え』」
夜が湧き出る。
常闇を覆い隠す。
すぐ傍に鞄を降ろし、身体に専用のベルトを巻き付けた。
ベルトに着いたケースには形代が幾つもある。これは別に、アルティメットダウジングタイムの為ではない。
片手に呪具『葬扇』を手にする。
「一時十三分」
呪霊の結界が時間に干渉する例は幾つかある。
万全な準備。
残る気掛かりは、結局正体が推測出来ないところか。
今回の呪霊は既婚男性を限定して呪い、結果死に至る病を付与する。
縮小前の村を含めた広域術式は、恐らく縛りによって成立している。痕跡がなかったのは病に侵すところまでが術式だからだ。この病に呪力で
術式があるから一級認定というだけで、本体はそうでもないのか。
楽観。
「……行くか」
時刻が変わる前に、私は襖を持ち上げた。
突如踏んでいた土地が変わる。暗闇に慣れていた目が鮮明に辺りを捉えた。
江戸のような街並み。淀んだ気配、濃密な呪いの空間。
周囲は広々としており、領域内であることが分かる。
外敵を察知したのか、辺りには般若面を被った人型霊が湧き出てきた。
人型であればこれ以上ない絶好の相手だ。術式で蹴散らし、紫炎に消えゆく影を見つめる。
「なんで般若?」