微睡みの中で幽鬼は悪夢に苛まれていた。
平和な現代日本で暮らす幽鬼が、明確な殺意と悪意によってその命を弄ばれる。例え、その精神が常人とは違う歪さを孕もうと、彼女の精神は天秤が傾くように均衡は確実に崩れて悪夢という形で苛まれていく。
その魂は地獄にいた。厳密には、彼女が信じる死後の世界の形、人は死んだら無になるという思想の具現の悪夢の檻の中。
「――――――――――――――――ッ!!」
幽鬼は叫び声をあげるが、その断末魔の悲鳴は虚空に吸われて形になることはなかった。
虚無という暗闇の中、幽鬼は肉体を失い意識だけでその空間を漂い続けて永遠とも感じる時間の責め苦を味わっている。彼女の記憶では
永遠の停滞を伴う闇、死後に目覚めた幽鬼はその事実に気付いた瞬間、この地獄に産まれ落ちた産声のように悲鳴をあげる。
助けて!誰か助けて……ッ!ここから出して!ユウタ!ユウタ……ッ!助けてください!
五感の感覚を喪失し、意識だけが浮かび上がる闇の中、幽鬼はただひたすらに悲鳴を上げ続けていた。
覚悟はしていたつもりだった。
虚無の中では全てが無意味だった。どれだけ後悔をしようと、救いを求めようと、改心をしようと、その永遠の停滞の世界では、幽鬼によって変化など起こることはない。荒れ狂い乱れる心が叫ぼうと、虚無はその名の通りに全てを呑み込み無に帰す。惰性で生きたことを後悔し、死んでもいいと
「――――――ッ!――――ッ?!――――……っ、――――ッ!※※※――ッ※※※※※――――※※※※※※※※!!」
後悔の叫びも、懺悔の言葉も、救いの祈りも、どれだけ幽鬼が叫んでも届かなかった。そして言葉はやがて形を失い、意味を為さない断末魔となって初めて、諦観という感情によって彼女は水を打ったかのように静まりかえる。全てが無意味、そう悟った瞬間から、どうしようない絶望で心が折れて、気力すらも奪い意思を失くしていた。
古典的な地獄で責められればどれだけ良かっただろう。責めを受け償いをする行為、それには苦痛を伴おうと意味がある。だが、本物の死後の世界には虚無の静寂だけ。責められることも、償いを求められることも、感覚すら与えられずに意識だけが、そこに永遠に存在するという虚無。
ただそこにあり続けることの無意味さを噛み締めながら、幽鬼の魂はただ泣くことしかできなかった。
帰りたい……帰りたい……ユウタの家に帰りたい。もう1度だけやり直せるなら、
祈りなんて無意味だと知りながら、幽鬼は居るはずもない神に縋り付くように懇願する。
絵画に描かれた色鮮やかな色も、歳月とともに褪せていくように、停滞した世界の中で幽鬼の心は少しずつ死んでいく。1日、1か月、1年、摩耗する彼女にはどの瞬間も無限に思えて、やがて涙も後悔も枯れたあと。
「ユウタ……」
声も失くした幽鬼は初めて、幼馴染の名を口にしていた。そしてそれが呼び水となる。
――――ここは幽鬼が
『ユウキ』
永劫に近い時間を経ても忘れられない幼馴染が名を呼んでいる。
幽鬼の沈んだ意識は、覚醒するように明瞭となっていくのを感じた。聞き間違いではない、この地獄の中で、彼女にとって唯一の居場所である幼馴染の声が響いている。それを理解した瞬間、温かなものを感じて
意識だけだった幽鬼に輪郭があった。声と手の平の温もりが彼女に形を与えていた。名は体を表すように、人間としての
「ユウタ!ここです!私はここにいます!」
地獄にいる幽鬼にとっては、天から蜘蛛の糸が垂れたような奇跡に思えただろう。
彼女は虚無の牢獄という
何が起きているのかなんて、幽鬼には何も理解できていない。ただ、もうどうしようなく幼馴染を求めて、迷子になった幼子が親に見つけて欲しいように、顔を歪めて、涙を流して、大きく名を呼んで、救いを求めるように声のする方角へと手を伸ばした。何かが触れる感触がした。虚無の中が大きく揺れた。そして――――瞼が開いて悪夢から目を覚ますと眩い光を感じる。
「ユウタ……?あれ、ここはユウタの部屋?あっ、ははは……そうですよね。ただの夢なんですよね」
目を覚ました幽鬼に待っていた光景は、ベッドに仰向けになる自分と幼馴染が伸ばした手を握っている姿。
全身の力が抜けるような感覚を幽鬼は味わう。酷い悪夢を見た疲労もあるが、何よりも幼馴染が傍にいることに心から安堵に包まれる。心配そうな幼馴染に力なく笑いかけ、大丈夫ですよ、と言うと少しの躊躇いのあとに離してくれた。彼女は再び悪夢に囚われることを恐れるように、起き上がってベッドに座る
嚙み砕くように、事実を頭の中で並び立てて幽鬼は気分を落ち着かせる。心のどこかで、あの地獄で見ている夢の中、という不安が完全に拭いきれないまま、深呼吸して大きく息を吐いた。
「大丈夫か……?ここまでユウキが魘される姿を初めてみるぞ」
「心配かけましたね。ですが、もう大丈夫ですよ、ユウタ。確かに酷い悪夢でしたが――――っ?」
カチカチ、となる音が口の中から響いて、幽鬼は思わず手を触れる。
音の原因は、震える歯でぶつかる音だった。そして、震えているのが歯だけではなく、口に触れる指先も大きく震えていた。悪夢の影響は幽鬼が思っている以上に心と身体を蝕んでいる。
「あっ……れ?おかしいですね。どうも震えが止まらないようです。私は別に何も――――――――ッ!?」
最初に感じたことは、心地よさだった。
幼馴染が幽鬼の震えを抑えるように抱きしめてくれた。ただ力強く、今にも消えてしまいそうな幽霊のような彼女を現世に留まらせるように、頭を抱えるようにして胸板に顔を沈めさせる。
「――――――――――――っぁ」
幽鬼は声があげられなかった。そして幼馴染も抱きしめるだけで、言葉は一言も発しない。
震えが収まるその瞬間まで、ずっと抱きしめようとする幼馴染の意志だけは感じて、それに甘えるように幽鬼も伸ばした腕を絡みつかせる。分かったような口なんて利かない、震える理由を無理強いしたりしない、そしてその中で自分に出来る最大限のことをしてくれる幼馴染が与えた心地よさに、ぽうっ、と極楽の湯船に浸かる時のような気の抜けた声が漏れる。
お金……バレちゃいましたか。でも、私を気遣って問いたださないんですね。
視線を下げれば、ジャージから零れ落ちた茶封筒が落ちていた。中身が露わになり、300万円の大金が覗いている。こんなもの誰が見ても、その持ち主に理由を聞くものなのに、幼馴染は決してそんなことはしない。そんなことより、震えている幽鬼のことを一番に考え、彼女を守ろうとする選択を取る姿に、どうしよもうない程の愛おしさを感じる。
いつだって幼馴染は、付かず離れず関わらずという、幽鬼にとっての最良のコミュケーションを示してくれる。
――――5分が経過して、幽鬼の震えはまだ止まらないので幼馴染は抱きしめ続ける。それを彼女は喜んで受け入れた。
お互いを抱きしめることが心地よ過ぎて、幽鬼はずっとこうしていたい思いに囚われた。
――――30分が経過して、まだ微かな震えが止まらない。それを察した幼馴染は抱きしめ続けてくれる。
このままなら、あの悪夢の世界にもう1度堕ちてもいいと、本気で幽鬼は思い始めていた。
――――1時間が経過して、完全に震えがとまった。でも幽鬼は必要以上に甘えたくて、その幼馴染を強く抱きしめようとするが、完璧に頃合いを見計らって腕を離されてしまう。彼女の腕は名残惜しそうに空を掻き、そのまま何も言わずに背を向ける幼馴染を『恨めし気』に睨んでしまう。
幼馴染は『必要以上に』幽鬼との距離を詰めたりしないのだ。こんな風に抱きしめるのは、幽鬼にとってそれが『必要』だったから。
「ありがとうこざいます」
「俺に出来ることは……それだけだから。また震えが始まったら、落ち着くまで傍にいるぞ」
カタカタ、とキーボードを叩いて仕事を始める幼馴染は告げる。
本当は色々と聞きたいはずだ。大金の入った茶封筒、悪夢に魘され目覚めても大きく震える姿、何よりも勘の良い幼馴染なら、幽鬼から体臭がしなくなったことにも気付いているかも知れない。それでも何も言わない。突き放している訳でもなく、無関心でもなく、ただ彼女から話すことを待っているのだ。
「私も本当は何があったのか話したいのですが、ユウタを危険な目に遭わせるかも知れないので……申し訳ございません」
「いや、無理強いはしない。俺たちはそんな関係だろ。でも、
「…………いえ、懲りました。関わることは、止めようと思います」
「そうか」
それに今の幽鬼は満たされている。居心地の良い場所、大切な幼馴染、わざわざ
「あっ、漫画を買って来たんですね。ありがとうございます」
「今日はしばらくここにいろ。また発作みたいに震えたら、今度は病院にぶち込むからな」
「では、お言葉に甘えますね。それで、今度は何のゲームを作っているんですか?」
「書類。来年には高校生だろ。お前はそのまま義務教育を放棄して中退コースだろうが、俺も会社があるとはいえ、世間体的に進学した方が良いからな」
来年で中学を卒業することを幽鬼はすっかり忘れていた。中退確定の自分にとっては縁のない話であるが、幼馴染にとっては形だけでも高校に進学を考えているのだろう。ここから通える地元の高校、いくつか候補があがりながらも、今の環境と大きく変化がないことを考えて思考を放棄する。どうせ、深夜になれば幼馴染は部屋にいる。
新品の本特有の紙の匂い、インクの香りが開いた漫画から漂いながら、いつもの調子で他愛無い会話を始める。
「進学ですか。考えたこともなかったですね」
「お前は本当に将来どうすんだ?本気で生活保護でも受けるのか?」
「それもアリだと思います。でも、結婚して家庭に入るってのも一つの手段かと」
「パラサイトする気しかない嫁なんて誰が欲しがるんだよ。炊事掃除洗濯の基本の3つすらできないだろ」
そしたら家政婦を雇えば良いのです、と返すと呆れた幼馴染の声が聞こえて、幽鬼は小さな声で笑う。しかし、次に発する幼馴染の言葉で彼女から表情は消えてしまった。
「
「は?」
心地の良い居場所が奪われる。大切な幼馴染が居なくなる。変わらない日常が変わってしまう。
「また、自分だけ……」
「あっ?」
こんなものはただのエゴだ。そんなことは分かりきっている。それでも幽鬼は思わずはいられない。
大人になることは、成長することは、周りの環境が変わり続けること。その変化の波を受け入れるのが『普通』で、いつまでも同じ場所に留まる
――――自分だけ、その影に憑りつく幽霊を
札束の入った茶封筒を握りしめ、ベランダに隠した<景品>の手提げバッグを掴んだまま2階から飛び降りて、痺れる足に鞭を打って人生2度目の幼馴染との喧嘩別れをした。