蠢動 作:瀬田薫だいすきクラブ
この生活が始まってから、二ヶ月ほど経った。たしか、私がこの部屋に来たのは二月ごろだったか。あまりよく覚えていないけれど、彼が美味しいケーキを用意して私の誕生日を祝ってくれたことだけは、明確に覚えている。
最初の一週間は、とにかく何も話せなかった。少しでも彼の正解にそぐわない発言をして、彼を刺激してしまうのが怖かった。
二週間ほど経ったら、最低限の会話はできるようになった。まだ少しだけ声が震えてしまうが、意思疎通が図れるようになった。
一ヶ月経つ頃には、軽い日常会話もこなせるようになった。当たり障りのない雑談もできるようになって、ようやく気が楽になった。人間の慣れというのは、案外すごいものなんだね。
だが、彼には、この生活において一番大切な、とある「真実」を言えていない。
……もう、動かしても大丈夫だろうか。あたりを今一度確認して、私は少しだけ脚を浮かせる。
そう。私の脚は決して動かなくなったわけじゃない。むしろ、思う通りに動くんだ。実際に動かなくなったのは、彼に薬を打たれてから二十四時間の間だけだった。三日ほど経つごろには、今までと遜色ないほどに動かせるようになった。
きっと、彼は気を病んでしまったあまり嘘と本当の区別がつかなくなってしまったのだろう。彼は嬉しそうに言っていた。この薬で薫の脚は一生動かなくなるんだ、この薬で脚の細胞が壊れちゃうんだ、と。あまり医学に精通していない私でもわかる。そんな薬、あるはずがない。だが、彼にとっては違うらしい。彼は、この薬の効能は本当にあると信じて疑わなかった。正しいと信じて疑わなかった。
たとえ本当はそれが紛れもない嘘だったとしても、私たちがそれを真実だと思い込めば、はたして嘘は真実になるのだろうか。そんなことを考えながら、眠る彼の隣で水遊びをするかのように少しだけ脚を動かしてみる。
もしこの様子を彼が見たら、どんな顔をするのだろう。怒って、拳を振り上げてしまうだろうか。最初の日のように、泣き出してしまうのだろうか。それは、嫌だな。私は決して、彼に傷ついて欲しいわけじゃないんだ。
嬉しそうに「動かない」私の脚を撫でる彼を見たら、何も言えなくなる。その幸せそうな笑顔を壊すことが、私にはどうしてもできなかった。
彼と出会った時も、同じような気持ちだったな。あの春の日に思いを馳せる。
舞い散る桜に誘われて、普段行かない人気のない公園に行ったのがきっかけだった。日の差す公園にある日の差さないベンチで、ただ無心で何かを紙に書き続ける彼の横顔に私は目を奪われてしまった。
今思えば、一目惚れのようなものだったのだろう。気づけば、私は彼に話しかけていた。彼は最初、ひどく私を警戒していたが、少しずつ心を開いてくれるようになった。
どうやら、彼が熱心に書いていたのは詩のようだった。私も、詩を書くのが好きだった。彼は、どんな詩を書くのだろう? 私はそれがすごく気になっていたのだけれど、彼はどうやら自分の作品を見せたくないようだ。見せたくないものを無理に見せろとせがむのは、あまり美しい行為とは言えないからね。それなら仕方がないね、と言って、それ以上彼の世界に踏み入らないようにした。
だが、いくら避けていたとしても、ふとしたきっかけで目に入ってしまうことはある。彼がつまづいて転んでしまった時、彼の鞄から溢れたメモ書きたちを拾う時、私は初めて彼の詩を見てしまった。
どう例えれば、いいのだろうか。その詩は、ひどく自罰的だった。心臓を抉るような言葉が、わざと自分を痛めつけるような言葉が、刺のように敷き詰められている、そんな詩だった。そんな彼の紡ぐ言葉が、しばらく私の頭から離れなくて。
何度も忘れようとした。何度も頭から追い出そうとした。この詩は彼の心の奥底で、踏み入れてはいけないものだと思ったから。それでも、ずっと離れなかった。
出会ってから、ずっとそうだ。彼はいつも生き急いでいる。いつも何かに追い詰められている。彼が何に苦しんでいるのか、私にはわからないんだ。きっと、これからもわかることはないのだろう。
彼は、基本的に自分のことを話したがらない。そうだね、本当に何も教えてくれないものだから、私は彼の名前すら知らないんだ。
何もわからないんだ。彼が私を階段から突き落とした理由も、私の脚を動けなくしたかった理由も。彼は、何ひとつ話してくれようとしなかったから。
けれども、私はそんな彼の理解者でありたかった。理解はできなくとも、せめて、味方でありたかった。
私は、彼が優しいことを知っている。ただ、その優しさの上手な伝え方を知らないだけなんだ。多分、彼はその優しさと剥き身の感情のギャップで、自分の行動をコントロールできずに苦しんでいるのではないだろうか? 少なくとも、私にはそう見えた。実際どうなのかは、わからないけれど。
だからこそ、かけるべき言葉が見つからないんだ。どんなセリフも、どんなシェイクスピアの言葉も、全部違うんだ。私は、彼を突き放すことも、肯定することもできない。
「薫、起きて、たんだ。おはよう」
さっきまで眠っていた彼が目を覚ます。彼は、少しだけぽやぽやとしている。寝起きだからだろうか。私は彼におはよう、と挨拶を返すと彼はへにゃりと力なく笑みを返してくれる。
私も、しばらく寝ていない上に難しいことばかり考えていたから少し別のことを考えたくなったのかもしれない。彼のことが、急に知りたくなった。だから私は、今まで聞きそびれていた名前を聞いてみることにした。
「ところで、君の名前はなんというんだい? 思えば、君と出会ってから君の名前を一度も聞いたことがない気がしてね」
「ヘンな名前だから、知らなくていいよ」
ああ、やはり。彼はどこまでも自分のことを教えてくれないようだ。それでもいい、それでもいいけれど。
……こんな時、瀬田薫なら彼に何をしてあげられるのだろう。考えても答えは出ない。
──今は無理に話さなくてもいい。……けれど、もし君が今もひとりで悩みを抱え込んで苦しんでいるのなら、どうか私を頼ってほしい。これ以上、君に苦しい思いをしてほしくないんだ。
このセリフは、違う気がする。彼は、自分の意思で私を頼っていないように思えるから。果たして本当にそうなのだろうか。心の奥底では、誰かに頼りたいのだろうか。縋りたいのだろうか。わからない。
「……あのね。俺ってさ、薫が思ってる以上にどうしようもない人間だから。だからもう何も知らないで。知ろうとしないで」
「俺の本当の名前も、俺が過去に受けた傷も、俺が抱え込んでる感情も、全部全部知らないままでいて。嘘、知って欲しいよ。全部全部薫に肯定して欲しいよ。ああだめだ、どうしていいのかわかんないや」
「俺を見て、薫」
彼の鈍色の瞳が私を捉える。その目は、ひどく濁っていた。
「……たとえ君がどんな人だとしても、私は君の元から離れないよ」
「たとえこの脚が動くようになったとしても、もうどこにも行かないさ。私は、永遠に君のそばにいる」
……今の私が、彼にしてあげることは何もないけれど。正解も不正解も、何もわからないけれど。彼の優しさが、彼の心が、いつか救われる日が来るように。ただ、そう祈った。