◇歩夢◇
朝起きて、一番最初に感じたのは酷い倦怠感だった。体の節々が重く、寝返りさえ億劫に感じてしまうほどのそれに俺はただため息を吐き、ベッド傍の体温計に手を伸ばす。昨日のうちに少しは予想していたとはいえ、ここまで酷いのは想定外だ。
「………………はぁ」
脇に挟んだ体温計が鳴るのを待ちつつ、倦怠感以外に体に違和感がないか探る。
喉は、問題ない。
鼻も、異常なし。
全くもって嫌な予感はよく当たる。けだるさに隠れて痛みを発していたのは、どうにも頭らしい。頭痛と断言していいかはわからないが、微かな痛みと歪む視界。一度体温計を取る時に奥行きを見誤ったのもこれが原因だろう。
まぁ、この風邪の一番の原因は紛れもなく——
「昨日、雨に降られたからだよなぁ……」
昨日、学校の帰り道。あかりさんと下校する直前にゲリラ豪雨が俺たちを襲った。いつも折りたたみ傘を常備している俺と違い、基本的に必要な荷物以外持ちたくない精神のあかりさんは当然傘を持っておらず、濡れるのは必至。彼女を説得し、なんとか途中までは一緒の傘で帰ったが、別れ道で俺はあかりさんに傘を押し付けて帰宅。そりゃあもう、めちゃくちゃに雨に濡れた。
帰宅後、すぐにシャワーに入って身体を温めたが、どうやら時すでに遅かったらしい。
「……噂をすれば、か」
ピーピーと電子音を鳴らした体温計を脇から抜き液晶に目を通すと、そこに映された数字は「38.3℃」。どんなにがんばっても風邪だ。幸いなことに、時期は7月上旬。期末考査のテスト週間ということもあり、ほとんどの授業はテスト用の課題やらを配って自習のはず。
今日はみんなで勉強会をやると言っていた気もするが、熱を出したままでは迷惑がかかるだけだ。
「嘉元先生、もう学校にいるかな」
もぞもぞと重い体を動かしてスマホを掴み、時計を見る。時刻は8時前。いつもなら家を出る時間だ。即ち、嘉元先生も学校にいる。俺は、先生に電話をかけ事情を説明。学校を休むことを伝え、生徒会の面々にも一応話をしておいて欲しいと頼んだ。
「すいません、ご迷惑をおかけしてしまって」
『なぁに、気にするな。あかりたちには俺の方から言っとくから。……それより、歩夢は平気か? 一人暮らしなんだろ? 飯とか薬とか、大丈夫か?』
「冷蔵庫に何かあったはずなんで大丈夫です。薬も……多分平気です。お気遣いありがとうございます」
『……わかった。なんかあったら先生に言えよ? 担任じゃないとはいえ、俺はお前ら生徒会の顧問なんだから』
それじゃあな、そう言って嘉元先生は電話を切った。本当、大変な時は気が利くというか、善い人だ。できれば生徒会の方にもグループチャットかなにかで報告しておきたいが、正直しんどい。
腹も減ってるし汗も少しかいてるのに、体を動かしてまで飲み物を飲んだり食べ物を食べたいと思えない。
大人しく目を閉じよう。
寝て、倦怠感が少しでも抜けたら動こう。それまでは──休んで……
◇
ピンポーン。微かに耳に届いたインターホンの音。それは、気を失うように眠った俺を起こすのには頼りないものだったが、自然と目が覚めた。スマホで時刻を確認すれば、16時過ぎ。学校も終わり帰宅部たちが続々と帰り始めた頃だろう。
「……すごい量の通知だな」
通知欄に表示されるのは20件を超えるチャットアプリの通知。あかりさん、凪先輩、華乃、ひなた、クラスメイト……と、色々な人からメッセージが届いているが、一番多いのはあかりさんだろう。少なくとも5件以上は彼女だし、一番最新のメッセージには「今から家に行くから!」と書かれている。
いや、ちょっと待て。
まさか……いや、あかりさんも俺の家の大体の方角は知ってるだろうが、俺が今住んでるのは2階建てのアパートの一室。角部屋のようなわかりやすい部屋でもない。ならどうやって……
「歩夢くーん? 起きてるー?」
なんとまぁ、つくづく今日は予想が当たる。聞き慣れた声だ。いつもよく聞く声が、玄関の方から聞こえてくる。廊下は日陰とはいえ、夏場に人を放置するのはあまりよくない。
意味のない考察よりも、あかりさんの体調を気遣う方が優先だ。
誰に言い訳するでもなく、俺は自分自身にそう言い聞かせ、ベッドから起き上がる。朝よりは幾分マシになった体は、少しふらつくが歩けないほどじゃない。
もたもたと部屋をぬけ、玄関のドアスコープ越しに外を見る。
居た。
涼しそうな夏服に身を包んだあかりさんが、スーパーのビニール袋片手に待っている。大きめな袋を見るに、見舞いの品でも持ってきてくれたのかもしれない。
「今、開けます」
一言声をかけてからドアを開けると、あかりさんは隙間を縫うように室内に入り込み、俺の顔に目を近づける。急な接近に体が後ろに引いてしまうが、彼女はそんなのお構いなしで距離を詰めて、じっと目を合わせた。
「……あかりさん? あの、近いんですけど?」
「うん、体調はそこまで酷くなさそうだね。……ほんと、心配したんだよ!? 君、全然メッセージにも返信ないし、既読もつかないから!」
「すみません。さっきまで寝てしまっていて……部屋の中入ってください。エアコン入れますから」
「ありがと。みんなからお見舞いに飲み物とか食べ物とか貰ってきたから、冷蔵庫開けても平気?」
「どうぞ」
改めて、あかりさんを部屋に上げると、彼女はそそくさとビニール袋のものを冷蔵庫に入れていく。手際の良さを見るに、家でも家事をしていたりするんだろうか。
いや、今はそんなこと気にしても意味はない。せっかく来てもらったんだ、少しくらいはもてなさないと家主として失礼だろう。そう思い、コップやらインスタントのコーヒーを取ろうとするが、手が空を切る。
頭痛は収まったと思っていたが、視界の歪みは健在らしい。奥行きを見誤るのは相当に面倒だ。
「歩夢くん? どうしたの? 何か飲み物でも飲みたくなった?」
「……そうですね、コーヒーくらいだそうかと」
「もう、いいんだよ。君は風邪なんだから、大人しくする! それより、お腹空いてたりする? 簡単なものならすぐ作れちゃうけど?」
「……いえ、そこまで──」
なんて言おうとしたのもつかの間、「ぐー」と空気を読まない腹の虫が鳴く。割と大きい音で。……なんとも言えない気分だ。笑うのを堪えているあかりさんを見て、情けなさすら感じてしまえそうになる。ただ、もうここまできたら変に取り繕う必要もないだろう。
「……冷蔵庫にうどんの流水麺があったと思うんで、作って貰えますか? 水で軽く流せばいいだけなんで……」
「ふ、ふふ、わかった。他になにかいる? 冷蔵庫にはおしんことかもあったけど」
「じゃあ、たくあんを……少し」
「おっけー。……でも、それだけだと味気ないよねぇ。朝ごはんとかお昼も食べてないんでしょ?」
「ずっと寝てたんで、まぁ」
「よし! 一つくらいはちゃんと作ってあげたいし、玉子焼きでもやろっかな。歩夢くんは、甘いのと塩っぱいのどっちがいい?」
「おすすめとか、あります?」
「うーん、私は家で甘いのとかよく作るから、甘いやつの方が得意かも」
「なら、それで。あかりさんに任せます」
「了解! パパっと作っちゃうから、ベッドで休んでて」
笑顔でそう言ったあかりさんは、手早く冷蔵庫から材料を取りだし、調理に取り掛かる。彼女にそこまでさせるのは申し訳ない気もするが、今は黙って甘えよう。
それにしても、不思議な感覚だ。自分の部屋であかりさんが、俺のために料理を作ってくれてる。誰かが自分のために料理をしてくれている。一年前までは当たり前だった光景が、懐かしいと思えてしまう。母は、好みがわからず表情も変わらない、つまらない俺のために毎日料理を作ってくれていた。
美味しかったと思える料理もあれば、あまり食べたくないと思った料理もあった……が結局好きだとは一言も伝えられなかった。好きだと思えなかった。幼い頃から薄々わかっていたんだ、自分がどこか欠けていることに。世間一般から見れば裕福な家庭で、仕送りも少し過剰なほど貰っていて、愛されていた……と思う。愛していると思う。
けど、何度も何度も変わる土地。引き裂かれる交友関係や習い事の数々。いつしか、諦めて腐っていた。
普通の家に生まれたかった。お金に困っていても構わない。家に帰ったら母親が居て、帰ってきた父親と一緒にみんなでご飯を食べて、たまに家族で出かけて。小中高と続く腐れ縁と笑って青春を過ごして……それだけで、よかった。高望みかもしれないけど、そうありたかった。
意味のないタラレバ。あかりさんの後ろ姿を見てるだけなのに、不思議とそんなことを考えてしまう。
「……好きだったのかな」
重ねてしまうのは、俺が本当に家族を愛していたからなのか、それとも……熱によるただの錯覚か。
錯覚じゃなかったら、いいな。
そして、時間が経ちあかりさんが作った玉子焼きは、母さんがよく作ってくれたものと同じ味がした。
失礼かもしれないけど、彼女を通して、やっとあの味が好きだとわかった。わかれた気がした。
◇あかり
『俺……この玉子焼き、好きです。ずっと好きでした』
彼が、私の玉子焼きを食べて寂しそうに呟いた言葉。その意味を、食器を洗いながら考える。私は歩夢くんの家庭環境を知らない。嘉元先生曰く、彼の両親は悪い人ではなく穏やかで優しそうな人だった……らしいが、実際のところはわからない。
少なくとも、彼の今の人格が形成される上で参考になった人だと言うのなら間違いなく善人だし、信用できる人だろう。
でも、彼にとっては合わなかったんだ。きっと、それだけ。部屋を見渡せばわかる。
歩夢くんの部屋はまさにカオスだ。本棚には、絵本や児童図鑑があると思えば、小説や学術書があり。漫画なども発見できるが、ジャンルはバラバラだ。SF、恋愛、推理、ホラー、時代もの、ファンタジー、なんでもあり。
本棚の隣にあるカラーボックスに入れられてるCDも、洋楽と邦楽の区別はあれど、ロックやオーケストラ、演歌にJPOP、アニソンなどなど好みの把握が難しい組み合わせだ。
そして、極めつけは習い事で使ったであろう道具の数々。競技問わず所狭しと並べられたそれらは、ある種のトロフィーなのか。彼の熱の破片として、転がっている。
「……それにしても驚いたよ、歩夢くんの部屋を見て。結構物がいっぱいあるんだね」
「別に驚かれるほどじゃないですよ。優柔不断で、物が捨てられないだけです」
「優柔不断かもしれないけど、それだけその道具たちを大切に思ってるってことでしょ? 私は素敵だと思うなぁ」
後ろを振り向かずに会話すると、彼の声が返ってくる。なかなかに新鮮な感覚だ。そもそも、汗を拭いてる彼を私が直視できないから仕方のないことなのだが、顔を見てないからこそできる話もある。
「歩夢くんはさ、ご両親と一緒に行こうとかって考えなかったの? 一人暮らしって何かと大変だし」
「…………考えましたけど、流石に海外は面倒ですし……それに……」
「それに?」
「誰にも邪魔されない環境が欲しかったんだと思います。何かを始めても、誰にも止められない環境が。1人だったら何を好きになろうが、俺を止められる人はいませんから。……まぁ、勉強をサボりすぎると祖父母になんて言われるかはわかりませんけどね」
冗談交じりに話す彼の言葉に深い意図は恐らくない。歩夢くんは本心からこの状況を望んでいるんだろう。
好きなもの、か。
彼が好きなものは、私、なんだろうか。
あの映画の中の『絵』のように、私を好いて傍に居てくれるんだろうか。
「ねぇ、歩夢くん? 歩夢くんの好きなものって──ううん、なんでもない」
「? そう、ですか」
「……勝手に、居なくならないでね」
彼の熱は、今まで何度も消されてきた。まるでそれが運命かとでも言わんばかりに、何度も何度も繰り返してきたんだろう。もし、私への熱も消えたなら……消えたなら、どうなるのか。
正直、怖くて考えられない。
やっとできた寄りかかれる人。弱くても受け止めてくれる人。わかってる、きっと代わりはいるって。それでも、彼がいいんだ。
迷う彼を導き、彼に甘えて、歩いていきたい。重いかもしれないけど、私は彼に……この先も近くにいて欲しいんだ。友人としてでも恋人としてでも、関係なんてものに当てはまらなくても、ただ傍にいて欲しい。
「洗い物終わったら帰っちゃうけど、大丈夫?」
「大丈夫です、ありがとうございました、あかりさん」
「いいよ、これくらい。私も……誰かに料理振る舞うの楽しかったし」
もう少ししたら夏休み。
そしたら、もう一歩だけ踏み込んで彼との関係を深めよう。彼が遠くに行ってしまわないように、深く深く。
次回もお楽しみに!
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