それからしばらくの間、エリンの記憶はなかった。
次に気が付いた時には鐘の音が建物内に鳴り響いており、それを聞いた窓口の2人――ランドルフとタナウが素早く目の前に『受付終了』の札を置いたのだった。
「「受付時間終了となりました。本日はお帰りください」」
「うむ」
「はいはい。またねー」
揃って告げたその言葉に、未だ騒いでいた常連客2人もすっと立ち上がって帰っていった。
この潔さは、次また来ればいいという実に常連客らしい動きである。
深く礼をしてお客様が出ていったのを見届け、手慣れた動きで窓口を片付けると、窓口担当の2人はものの数秒で立ち上がってこちらへとやってくる。
「アズール、これをお願い」
「こちらもよろしく頼みます」
「はいはーい。いつも通りやっときますよー」
2人してアズールへと紙束を――詩と絵画を手渡すと、タナウは一番奥、ランドルフはその向かいの椅子に自身の荷物を置いている。
だが座ることはせず、直ぐにまたこちらへと戻ってきた。
そんな2人を見て、レチシアが満足げに頷いた。
「2人とも業務ご苦労! 大体は聞こえていたと思うが、こちらのエリン君が明日からこの課に配属される新人だ。よろしく頼むよ」
「はっ! ……エリンです。よろしくお願いします……!!」
放心状態だったが、自分の事を言われているのだと我に返ってなんとか挨拶をする。
「ランドルフです。普段は窓口業務を担当しています。よろしくお願いします」
「タナウよ。窓口もやるけど、基本は事務。よろしく」
丁寧な口調でお辞儀も綺麗なランドルフは分厚い筋肉をぴしっとした真白の襟付きシャツに押し込んでいる狼獣人。
獣人は種族名に冠する動物たちの特徴を持った人型種族で、大体の種が優れた筋力と感覚器官を有している。
かといって知能的には人間と大して遜色なく、違いとしては魔力量が真っ先に挙げられる。要は1日に使える魔法の数が極端に少ない種族である。
勿論例外は存在し、特に梟獣人などは『翼ある識者』と古くから語り継がれる魔法に長けた種である。
エリンが通っていたユラリア魔法学院も、最初は寒冷地に暮らす梟獣人たちが作り上げたものだと言われている。
見る限り獣人の中でもかなり大柄に分類されるランドルフは、魔法を使うよりも自分の身体でぶん殴った方が早いタイプに見受けられる。
魔術課にいるのは不思議だが、それと仕事は関係ないだろうと、エリンは自身を納得させてもう1人へと視線を移す。
窓口にいた時とは異なり簡潔な言葉で話すタナウは、青い髪の美しい女性だ。
一見すると人間に見えるが、よく見るとその髪や肌の表面がごくわずかに揺らぎ、光を反射しているように見えた。
「……あの、タナウさんってひょっとして妖精の方ですか?」
「おや」
「あら」
「ふむ」
「おお!?」
試しに聞いてみたら、周囲の全員が驚いた反応を示した。
聞いちゃまずかった!?と慌てるエリンに、当のタナウはゆっくりと彼女を見つめて尋ねる。
「……どうしてそう思ったの?」
「その、少し水を纏っているように見えたので水の妖精なのかなと」
妖精。人間、獣人と並びこの世界に暮らす人型3種族の最後の1種だ。
彼らの最大の特徴は、その身体だろう。
エリンら人間と、ランドルフら獣人は肉で構成された肉体を持つ。
対して妖精という種は、魔力で編まれた『魔力体』と呼ばれる身体を有している。
その違いは色々とあるが、幾つか有名なものを上げるなら、寿命と外見の2つ。
まず、妖精種はとにかく寿命が長い。人間の大人とほぼ変わらぬ外見で生まれ、老化という現象は殆どみられない。
そのため老衰による死は訪れない。
代わりに長い時を生きた妖精は自分たちが生まれた自然へと戻り、自分もその一部となると言われている。
例えば木妖精は1本の木に変わり、タナウの様な水妖精は湖の湖水と変じる。そして、そこから新たな妖精たちが生まれてくるのだという。
そして肉体種との違いのもう1つは、外見的特徴が挙げられる。
彼らは自然の子供である。それ故に、身体の一部に属した自然を宿しているのだ。
木妖精は花や葉、枝が身体のどこか――主に頭部に現れる。
土妖精は岩に似た構造物を肩や頬などに纏い、水妖精は全身に薄く水の膜を纏う。
だから妖精は一目見れば分かるのだが、何故かタナウはそれを極限まで薄くしている様だ。
「そう、よく見てるね。その通り。私は水妖精よ」
「私は見ての通りの狼獣人ですね」
「そしてウチは人間だよ! 各種族勢揃い!」
「あはは……私は人間です。よろしくお願いしますね」
おかしな雰囲気になりかけていたのを2人に助けてもらったが、エリンが思わず聞いてしまうくらいには都市内で妖精が働いているというのは珍しい。
なにせ、妖精たちは文明を嫌う。
人類の文明は妖精たちの住処である自然を切り崩して作られるし、都市に至っては、妖精たちの操る妖精魔法――自身の属する自然を自在に操る強力な魔法――を封じる様に作られてきた歴史がある。
武器も魔法も使えない他種族の都市で長々と暮らしたいと思う妖精はいないだろう。
だからこのタナウは相当珍しい存在なのだが……何故かこうして、普通に働いている。
アズールの言う通り、この部署は各種族が勢揃いの、世界的に見ても多種族の職場の様だった。
「この3人と、後は課長のリセツで全員だ。そのリセツだが――来たか」
「すまん、遅くなった」
そう言って部屋に入ってきたのは、1人の男性。
頬辺りまで伸びた黒髪に青色の瞳。黒地に金の刺繍が施された丈の長い上衣に、何より特徴的なのは、両手を覆う黒手袋だろう。
全体的に黒いその男性が、これからエリンの上司になるリセツ。
彼は申し訳無さそうに笑みを浮かべながら、エリンとレチシアの所へとやってくる。
「遅いぞ。この時間には連れてくると言っていただろう」
「ミツハ君から急ぎの呼び出しがあったんだ。どうしてもすぐに直して欲しいってな……それで、そいつが?」
「ああ。新人のエリン君だ」
「そうか、よろしく頼む! 俺はリセツ。この特認魔術課の課長だ。――ああ、もう散々言ってるだろうから、自己紹介は不要だ」
「は、はい。……よろしくお願いします」
黒の革手袋を振ってリセツがそう言ったので、挨拶だけ交わす。
相手は上司。エリンの素性は知っているだろうから、確かに自己紹介は不要だろう。
レチシアといい、ここの上司は随分と話が早い。
だからこそ、さっきまで見せられていた窓口業務が夢だったのかと思えてくる。
学院長に紙を渡されてからずっと、エリンは夢の中にいるような気がしてならない。というか、夢であってほしい。
「本来なら歓迎会でも開くところだろうが、あいにくこの課にそういった文化は無くてな。代わりに、明日昼食を奢ろう」
「え、マジ!? やったー!」
「いや、お前じゃねえよ……まあいいか。2人も参加な」
「わかりました」
「構わないわ」
「あ、ありがとうございます……!! よろしくお願いします」
もはや返事するだけの人形になりつつあるエリンだが、とりあえず目の前の現実についていくのに必死であった。
先ほど記憶を失くしてから、彼女の脳内にはあのご老人の
……私は、明日から、『あれ』の相手をするのか……? と。
夢見ていた『奥』への栄光の道が、謎の
この場所で、何をどうやって世界最先端の魔法研究所に入る資格を得れば良いのだろう。
身体の奥底から震えが起き、何故だかとっても喉が渇く。よくわからずに両手を胸の前に挙げておろおろとしていた。
だがそんなエリンを置いて、どんどん話は進んでいっている。
レチシアが手を叩くと、「挨拶も済んだようだし」と場を仕切り出した。
「これからエリン君を宿に案内しないといけなくてね。今日は挨拶だけで、実際の業務開始は明日からだ」
リセツも「ああ」と同意の頷きを返す。
「明日からしばらくはこの課の仕事の流れを覚えてもらおう。午前中はランドルフと受付業務、午後はアズールと査定業務をやってもらう」
「……はい」
「朝一に先程通った扉から1階の執務室に入ってください。制服をお渡ししますね」
「……はい」
「……大丈夫か?」
「……はい。はっ! 大丈夫です!」
慌てて正気に戻ったが、少し遅かったのか笑われてしまった。
大分失礼な行動をしている気がするが、なぜだか皆優しい。……まるで、この反応に慣れきっているかのように。
「よし、では行こうか。皆、残りの業務も頑張ってくれ。ソフィ、エリン君の案内を頼む」
レチシアのその言葉で、エリンの就職初日は終わる――その直前。
その当のエリンが待ったをかけた。
「あ、あの!」
返事をして頷くだけの人形だったエリンだが、ここでようやく、ここに来たら先ずやらねばならないことを思い出した。
「……うん? どうしたのかな、エリン君」
全く想像していなかった職場と仕事であったが、それでも大筋は何をすればいいのかは理解した。
内容はアレだが、持ち込まれた呪文や魔法陣が正しいのかを調査し、判断する仕事なのだろう。
しかもエリンを魔法学院の生徒としてきちんと認識しているらしい。きっと、魔法や魔術に精通した人材として。
ならば、ここで言っておかねばならない。
自分が魔法を一切使えず、魔法的な戦力としては一切期待できないということを。
「その、ですね。採用していただいて嬉しくはあるんですが、私、魔法を使えない体質でして……お役に立てるかどうか……」
恐る恐るそう言うと、全員がきょとんと目を瞬かせる。
そして直ぐにアズールの顔が笑みに代わり、ランドルフはしみじみと頷き、タナウは呆れたように息を吐いて、全員がリセツへと視線を向けた。
「……んなこと、知ってるが」
「……へ?」
「というか、あれか。まだ言ってねえのかお前ら」
リセツの言葉に全員が頷いている。
「仕方ねえな」と頭を掻きながら、リセツはエリンを見て言った。
「安心しろ、エリン。この魔術課に所属している連中は、
「……はい?」
「この特認魔術課の最も重要な採用条件が、魔法を使えないことなんだよ、エリン君。だから中々いい人材が見つからなくてね。君が来てくれて本当に良かった」
後ろから、レチシアに肩を叩かれる。
視線を向けると、これから同僚になる全員がうんうんと頷いていた。
……特認
……しかも、お客さんは謎の詩と絵画を持ち込む常連で?
「明日から、よろしく頼むよ」
ここで働いて、魔法使いの最高峰である『奥』に入れる要件を満たしてみろ?
……いや、無理でしょ。
「はいいぃ!?」
そして、エリンは学院長室に続き、2度目の絶叫を上げた。
こうして、魔法が使えない少女エリンの、新たな日々が幕を開くのだった。