「では、プールも掃除してしまいましょう」
ハナコの言葉だった。
「え、なんで? 勉強するならプールは必要ないでしょ」
「あらあら、コハルちゃん。ヤるなら徹底的に、ですよ? ねえ、先生」
粗方の窓を拭き終わり、教室へと戻ってきた二人は顔を見合せ、どういう事かと疑問する。
「えーと、プール?」
「ええ、プールです。折角なんですから、ここは徹底的にヤりましょう」
「いや、私は別にいいんだけど」
自分達が行動する範囲の掃除は済んでいる。だから、プール掃除程度ならしてもいいが、ハナコから何か違う邪念とまではいかないが、何か邪な念を感じるのは気のせいだろうか。
「……あの、ラン先輩」
「どうしたの? コハル」
「プール掃除、水着になろうって言ってるんですけど、大丈夫ですか?」
「んー、水着持ってきてないし体操服かな」
「いや、そうじゃなくて……」
コハルが言い淀むが、ランはコハルが何を言いたいのか、いまいち理解出来ない。
ただプール掃除をするだけで、戦う訳でもランタンを点ける事も無い。
何を心配しているのか。
上着の袖と手袋に隠れた抉り削られ貪られた左手首の裾を、引っ張るようにして掴むコハルの様子から、ランの疑問は解けた。
――ああ、この傷って当たり前じゃなかったんだっけ
それに加え、ラン自身の治癒力も平均よりは上だ。
それなのにランの顔や首、露出している部分から見える傷痕は消えない。
ランは知らないが一度、ツルギ達がランに内緒で治療の際に顔の傷だけでも消せないか、救護騎士団外の医師に相談した事がある。
医師はその話を聞き入れ、治療と平行して施術を行った。
しかし、ランの傷は元通りに開いた。まるで、この傷塗れの姿がランの真の姿だと言う様に。
「大丈夫、皆そんな人じゃないよ」
「うー……、分かりました。でも、水は私が担当しますからね」
「え、なんで?」
「なんでって……、なんでもです!」
初対面で顔の傷を見ても動じなかったハナコやアズサなら、手首や腕の傷を見ても大丈夫だろうとランは考えているが、コハルは違うらしい。
何を危惧しているのか。
「では、行きましょうか」
颯爽とハナコがプールへと向かい、ランとコハルが顔を見合せ、ヒフミが苦笑しながらアズサの手を引いていく。
何処にでもある日常、謂わば青春の一幕。だが、先生には気掛かりな事がある。
それはナギサの言葉、この補習授業部の真の目的だ。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
「……裏切り者、ねえ」
「ええ、今回集めた五人の内にトリニティの裏切り者が居ます。先生にはそれを探しだしてほしいのです」
言ったら悪いが、先生のナギサに対する第一印象は良いとは言えないが、しかし悪いとも言えなかった。
個人の信条として、そして先生として、先生は性善説を信じていたい人間だ。
だから、今回の目的の裏切り者探しはあまり気乗りしない話になる。
「しかし、裏切り者とは……。随分な話じゃないかな?」
「ええ、ですがこのエデン条約は失敗は許されません。万に一つの可能性すら潰しておきたいのです」
ティーパーティーがよく使うというテラス、そこでナギサは紅茶の入ったカップを傾けながら、そう頷いた。
長年に渡り争ってきたゲヘナとトリニティの平和条約であるエデン条約。
なんとしても締結させるという意思が、ナギサの目にはあった。
だが、先生にはそれ以外の目的がある様にも見える。
どうにも、この桐藤ナギサという娘は他人を疑うという事が苦手に見えるのだ。
無論、トリニティ総合学園というキヴォトス三大校の一つで、頂点に座す三人の内の一人となれば、それなりに色々と見聞きしてここに立っている筈だ。
――単純に疑うのが苦手というより、今回はあまり疑いたくない相手が居る。かな?
恐らく、この資料の五人の内にナギサが疑いたくない人物が居る。
その人物が解ればそこを起点に話を進め、このどうにもキナ臭いエデン条約の裏が見えるかもしれない。
そう、先生はエデン条約に賛成も反対もしていない。
ただ、話に聞くトリニティとゲヘナの因縁から考えて、何か嫌な違和感を得ているだけだ。
――条約の内容に違和感は無い。だけど、何か妙だ
条約の内容は凄まじくかいつまんで言えば、私達今まで色々ありましたが、これからは決まり事を守って仲良くしましょう。
というものだ。よくある平和条約に過ぎないこれに、先生は違和感があった。
「まあ、補習授業部自体は受け持つよ。先生だしね」
「ええ、有難う御座います。しかし、裏切り者を見つける事をお忘れなく」
「ははは、裏切り者裏切り者ってナギサは心配性だね」
「ふふ、だってトリニティに隠れた不穏分子、所謂ゴミに邪魔されたくありませんもの」
「ナギサ」
今までとは違う、飄々とした掴みところの無い声色とは違う硬く刺し貫く様な声色に、ナギサはこの日初めて先生をまともに見た。
その表情には情報にある穏やかな色は無く、ただ強い怒りに似た悲しみの色があった。
「私の生徒をゴミと呼ぶ事は許さない。何があろうと誰であろうと、断じて許さない。これだけは何があっても譲れない。もし……、君がこれを越えるなら私も相応の対応をする」
「……申し訳ありません。言葉が過ぎました」
「いいよ。ごめんね。ちょっとキツイ言い方になっちゃった」
ナギサが謝罪を口にすると、先生は普段通りの飄々とした笑みに戻っていた。
「それじゃ、補習授業部の件は受けるから、今日は一旦帰るね」
「はい、詳しい日時は追って連絡します」
その日の話はそれで終わった。
その直後、聖園ミカというティーパーティーの一人が飛び込んできて、のべつまくなし捲し立てナギサがキレてロールケーキを丸々一本、ミカの口に詰め込んで黙らせていた。
多分、あの時見せた顔が桐藤ナギサの素であり、仲の良い友達と居る時の生徒としての姿なのだろう。
ミカが言うにはもう一人、百合園セイアという生徒の三人でティーパーティーらしいが、その百合園セイアは病弱で、今は体調を崩して寝込んでいるという事だ。
だとしたら、普段から結構な無理を……
「あの、先生?」
「……っと、どうしたの? ラン」
「あの、悩み事ですか? ずっとぼんやりしてたから」
「そうかな?」
プールサイドにあるベンチに座りながら見ると、プールの中でホースを持ったハナコが水を撒きながらヒフミに悪戯をし、コハルがそれに右往左往する横で、アズサが棒ずりを押して駆けていた。
どうやら、少し長い間考え事をしていた様だ。
「そうかも。ランは?」
「先生がぼんやりしてたから、様子を見に。……後はちょっと休みに」
にへ、とした力の抜けた笑みでランが言う。
彼女の格好は他四人の体操服や水着とは違い、上下長袖のジャージに普段の分厚いコートにブーツで、手袋も完備しており、完全防備といった様子だ。
まだ夏というには若干の涼しさを感じる日和だが、日焼けを気にしているという気配も無い。
「ラン、随分厚着だけど暑くないの?」
「えっと、暑くはないんです。ちょっと、その……」
少し悩む様子を見せ、ランは一番分かりやすい左袖を上げて先生に見せた。
「これは……」
「あの、私、全身がこんな感じなので、コハルから水とか扱わせてもらえなくて」
「んー、コハルの判断を良しとするべきか?」
掻き毟ったというより、削り取られたかの様な左手首。火傷の様に変色した皮膚の他にも大小様々な裂傷や弾痕。
おおよそ、学生には似つかわしくない刻印が刻み付けられていた。
「全身がこれって、正義実現委員会で?」
「のもありますし、それより前のもあります」
変わらない力の抜けた笑み、左腕だけでこれなら普通の人間、先生なら死んでもおかしくない傷も、このジャージの下にはあるのだろう。
ランの評価は聞いている。争いを好まず、自身に危害を加えてきた相手さえ、銃弾の雨から身を挺して庇う優しい性格。
その彼女が、ここまでの傷を得る経緯とは一体なんなのか。
イジメや虐待ではない筈だ。
仮にそうなら、同じ正義実現委員会のコハルや同級生のヒフミが気付かないとは思えない。
その上、ラン自身も正義実現委員会でトリニティ最強とも名高いツルギや、副委員長のハスミとも親交がある。
その彼女に対して、ここまでの傷が残る行為をする様な輩とは、そしてここまでの傷が残る行為とは一体どれ程のものなのか。
「ラン、辛くないの?」
「痛いのは嫌です。暴力も、出来ればこんな
寂しげに微笑むランに、先生はどう言葉を返すか迷った。
このキヴォトスでここまで暴力を否定する子供に会ったのは、初めてに近いかもしれない。
だからこそ、零場ランという生徒の特異性が浮き彫りになる。
暴力を嫌い、他者を庇える献身性を持ちながら、自己犠牲の極みと言える戦い方をする。
まるで、誰かに突き動かされるかの様なあの戦い方、アロナ経由で見たあの光景にランの意思は反映されてない。
そう思っていた。
だが、もしあの戦い方にランの暴力を嫌う部分が反映されていて、あのランタンがスイッチになっていた場合、彼女の腰にあるランタンは
そうであるならば、先生として危険物は取り上げねばならなくなる。
しかし、それは出来ない。
「……ねえ、ラン。そのランタン、何時も持ってるけど大切なものなの?」
「え? ……あー、はい。大事な
「そっか」
生徒の大切な物を、はっきりとした理由も無しに取り上げる事は出来ない。
それ以前にシャーレの先生には、その権限が無い。
このキヴォトスでは、危険物の境界線が外の世界より曖昧だ。
住民は基本、自衛の為の武器を所持していて、それらに必要な弾薬等もコンビニや自販機で買え、薬物等も外の世界より流通や規制が厳しく、違法な集団であっても手を出し難くなっている。
そういった事から、キヴォトスで生徒が使用を禁止されている酒類や煙草、薬物以外の物品の取り締まりは、シャーレの権限では難しい。
それにこれはランタンだ。ただの普通のランタン。アロナ曰く、普通とは少々違う作動音がするだけ。
それだけで、疑惑があるからと没収は出来ない。
「誰からか貰ったの?」
「えと、姉妹と同じものなんです」
「そうか、仲良かったんだね」
「はい」
違和感はあった。仲が良い姉妹、その姉妹から贈られた揃いの901と刻印されたランタン。
もしかしたらもう少し踏み込んだ話が出来るやもと思った矢先、やけに呆気なく終わった話。
まるで、それ以外に姉妹の話題を失ったかの様な、そんな呆気なさ。
ランもきょとんとした顔でこちらを見ているが、それについての疑問が無い。
本当に姉妹が居たのかと、疑り深い人間なら疑いの目を向けるだろう。
「ラン、その姉妹についてだけど……」
「先生ー! ハナコを止めてー! アズサも変なもの仕掛けないで!」
「あらあら、コハルちゃん。プール掃除が終わったら遊ばないと」
「トラップは大事だぞ。敵は何処から来るか分からん」
「えっと、そこまで警戒しなくていいと思いますけど……」
少し踏み込もうとした時、コハルが叫んだ。
見ればハナコがホースで水を撒いて遊び、アズサがなにやら物騒なトラップをプールサイドに仕掛け、ヒフミが困った顔で笑いながらこちらを見ていた。
「ああ、コハルがびしょ濡れだ」
「ハナコー、程々にね」
「止めてよ先生ー!」
「大人が青春の邪魔する権利は無いんだよー。……ほら、ランも混ざってきなよ」
「え、でも……」
「いいのいいの。誰もその傷を気にしたりしないさ。それに、こうやって騒げるのは今の内だよ」
戸惑うランの背を押し、先生は微笑む。
ああ、そうだ。こんな子達の中に裏切り者なんて居る筈がない。
もし居たとしたら、それは裏切り者にさせられた犠牲者だ。
なら、先生は先生として生徒を守る。それは補習授業部だけではない。
裏切り者の存在に怯える桐藤ナギサも同じだ。
初夏の強くなり始めた日差しの下で、先生も誰もが楽しげに笑う。
ほんの少し、僅かに深くなったランのヘイローの亀裂に誰も気付かないまま。