「わかんないわかんない! つまんないもうやだ!」
先生が疲れた表情で天井を見上げる側で、コハルが癇癪を起こした。
プール掃除が終わり、簡単に今の現状を確認する為の小テストを行ったのだが
ヒフミ¦86点
アズサ¦45点
コハル¦26点
ハナコ¦ 0点
ラン ¦78点
と、合格点である60点に足らぬ者が三人現れた。
これには流石の先生も参った。
次の第一次追試験まで二週間も無いのだ。
これはヤベエ……。
何というか、マジでヤベエ。
「45点、……紙一重だったか」
「いや、その紙は大分厚いな。原稿用紙20枚くらい厚い」
アズサが惜しそうなな声をだすが、約20点の差は厚すぎる。
「と、とにかく! 勉強! 勉強です!」
ヒフミの悲鳴の様な宣言に、先生は我に帰る。
我には帰ったのだが、これは一体どうするべきか。
アズサはまだなんとかなる。コハルも答案を見る限りでは、基礎がガタガタなのでそこを固めればどうにかなる。
最大の問題はハナコだ。
「ちょっとハナコ! あれだけスラスラ解いてたのに0点ってどういう事?!」
「ちょっと問題が難しかったですね」
「そんな訳ないでしょ!」
コハルの言う通り、ハナコにとってこの小テストは難しいものではなかった筈だ。
少なくとも、先生が事前に得ている情報としては。
しかし、これも裏付けが取れているものではなく、空いた期間に何かあってこうなった。と見れる。
問題はその何かだ。
「……よし、気を取り直して対策だ!」
先生はとりあえず問題を先送りにした。
ハナコの事を考えるより、今は目の前にある最大の問題である勉学だ。
ヒフミは余程の事がなければ問題無い。ランも数学等の理数系に若干の不安はあるが、文系の科目で取り返せている。
アズサとコハルは基礎が軒並み吹き飛んでいるだけで、そこを固めればどうにかなり、ハナコは手を抜いているのをどうにかすれば一番の安牌となる。
「まずは基本、基本的なところから始めよう」
先生は教科書を片手に黒板に向かい、目標を書いていく。
「まずは基礎、かなり駆け足になるけど今回の追試を乗り越える為に必要な部分を徹底的にやるよ」
今回の事案は補習授業部だけの問題ではない。
ここで補習授業部を退学にさせればトリニティ、ひいては桐藤ナギサという一人の生徒が終わってしまう。
今、ナギサは不信感に苛まれている。
トリニティの首長、この重責は並みではない。
キヴォトス三大校の一つ、そして長年の仇敵とも言えるゲヘナ学園との友好条約と、それに伴う内外からの反発。
はっきり言える。桐藤ナギサは限界だ。
これ以上の負担は彼女を壊してしまう。
そしてもう一人、注意が必要な生徒が居る。
「だから、コハル。そこは代入するだけでいいから」
ランだ。勉強もそこまで問題があるという訳ではない。
だが、先生の勘が警鐘を鳴らして止まない。今、一番危ういのはランだと。
「でも、先輩。それだとこっちが」
「ああ、大丈夫。そっちにこの代入した式の答えを入れるだけだから」
この警鐘の原因は彼女の体中の傷というより、時折見せる何かが抜け落ちた様な表情だろう。
ランは自分ではぼんやりしていたと言うが、先生からして見るとあれは違う。
まるで何か大切なものが抜け落ちた人のそれだ。
人が人として生きていく為に必要な何か。ランは時折、それらがストンと抜け落ちている。
それがひどく歪で、まるでランの中に何か違うものが巣食っていて、それが表に出ているのではと。
そんな疑いを抱いてしまう程に、今のランは歪で満身創痍に見える。
それに加えて、あの話だ。
「よし、皆。とりあえず基本の再確認を始めよう」
あのプール掃除の後、最後に一人で用具の確認をしていた時、先生の前に彼女は現れた。
「やっほー、先生」
「君は確か……」
「ミカだよ。聖園ミカ」
トリニティ、ティーパーティーの三首長の一人、聖園ミカ。
噂と初対面だけで判断するなら、天真爛漫でいながらどこか抜け目が無い。そんな生徒だった。
恐らくだが、先生が一人になるのを狙っていただろうミカは、人好きのする明るい笑みを浮かべている。
「ちょっと話がしたくて、今いいかな?」
「いいよ。ちょうど終わったところだからね」
「そっかそっか。じゃあさ、先生はどう考えてる?」
「何をかな?」
「エデン条約、上手くいくと思う?」
ミカの問に先生は思案を巡らせる。
出た答えは不可能ではないが困難を極める、だ。
まず、トリニティとゲヘナの関係は最悪と言ってもいい。一般生徒同士でも顔を会わせれば争いになり、個人間は別でも両者共に互いを嫌い合っている。
その証拠の一つに、ゲヘナ発トリニティ行とトリニティ発ゲヘナ行の列車の乗客に両校の生徒はほぼ居ない。
両者、互いの縄張りに足を踏み入れればどうなるか、それを一般生徒基準ですら理解しているからだ。
そして、トリニティは秩序、ゲヘナは混沌。と、信条とする行動原理の違い。
加えて、それらの裏付けとなる長い時間の中で積み重ねてきた歴史的不信感。
これは先生が居た外の世界でもあった。これを拭いさるには人が全てそっくり入れ換わりでもしないと無理だ。
だが、これらの条件を加味しても、エデン条約自体は不可能ではない。
桐藤ナギサ、羽沼マコトの両首長がこの条約に同意したという事は、少なくとも表向きは両校は憎しみを捨てて、手を取り合い歩もう。という意思表示となる。
だから、ここからがスタートになり、内側の問題は各校がどうにかしていくとして、最大の問題は外なのだろう。
「ミカ、君の心配は他校かな?」
「……当たり。びっくりしたぁ」
両目を丸く見開いて、やや大袈裟な仕草でミカは応えた。
「まあ、当たりだよ。ゲヘナは先生も知ってるだろうけど、トリニティも結構荒事に強いんだよね。そんな二つが手を組む。さてさて? 周りはどう思うかな?」
「まあ、単純に考えたら阻止か迎合だね」
トリニティ、ゲヘナ、ミレニアム。この三つの学園がキヴォトスの中で最も強い勢力を持つ。
その中で、トリニティとゲヘナは互いを牽制し合い、ミレニアムは単独を保っている。
しかし、エデン条約が締結すれば、トリニティとゲヘナは手を組み、ミレニアムが孤立する形になる。
最大勢力の三竦みが崩れるとどうなるか。
単純に考えるなら、他校が動きを見せる。
キヴォトスには三校以外にも、山海経や百鬼夜行、レッドウィンター等も存在し、他にも大小様々な学園自治区がある。
これらは今の三竦みが成立しているから成り立つパワーバランスであり、これが崩れると新たな争いの火種にもなりかねない。
力の無い自治区は迎合し、反発する自治区は阻止か反乱の動きを見せるだろう。
そうなれば、今の連邦生徒会で抑え込めるか。
難しいだろう。キヴォトスの現状やエデン条約の内容から見ても、これは〝超人〟と呼ばれた連邦生徒会長が居る事前提のもので、その彼女は居ない。
「どうなるかな? 今まで眠り続けていた
「……そうだね。月並みだけど、ナギサを信じるしかないかな」
「どういう事?」
「ナギサの狙いとか、真意については判らない。だから、私に出来るのは信じる事だよ。ミカ、君の事もね」
「私?」
「そう、君もだ。今、ナギサは独りだ。疑心暗鬼になって、向こうから呼ばれないと何処に居るのか分からないくらいにね」
現在のナギサは自身の居場所を明かしていない。
これは彼女が警戒する裏切り者への対抗策なのだろう。
「でも、君が居る」
「私?」
「そう、話は聞いてるよ。ナギサの幼馴染みだって」
「えー、誰から聞いたの先生」
「ナイショ。でも、君が居るなら、ナギサは独りじゃない。だから、私も君達を信じるよ」
大人は権力という力はあるが、結局のところはキヴォトスでは無力だ。
アビドスで大切なものの為に必死に抵抗し、今も抗い続ける対策委員会。
正直、自業自得な部分はあるものの好きだからこそ、そこに嘘は無く、望む未来を勝ち取る為に自分達の夢と世界を叩き付けたゲーム開発部。
それらは大人対子供の、自分対世界の、ある意味で結果が見えた勝負だった。
だが、子供達は自身の望む未来を勝ち取った。
そこに先生という大人の助力はあっても、動き歩み手を伸ばしたのは子供達だ。
これから先、信じるだけではどうにもならない事もあるだろう。そうなったら使う他無い力だってある。
だが先生は生徒を信じ、膝を折りそうなら手を差し伸べ、二の足を踏むなら背を押し送り出す。
そう選択し決めたのだ。
「……そうなんだ」
「そうだよ。だからミカも、悩み事があるなら聞くよ」
「……うぅん、大丈夫。そっか、信じてくれるんだね」
「うん、信じるよ」
「そっか。……じゃあ、一つだけ先生に教えてあげるね」
「何をかな?」
ミカは柔らかく陽だまりの様な微笑みを浮かべた。
だが、その微笑みは陽だまりの様でもあり、それと同時に先生に警戒心を抱かせる冷たさも含んでいた。
「トリニティの裏切り者。それは……」
「先生、ここはどうするんでしたっけ?」
「ん? ああ、ここは間違えやすいね」
タブレットを操作し、授業計画を立て直す先生の思考をランの質問が止める。
トリニティの裏切り者、居ないとしていた者が存在する。その証言者は聖園ミカ、トリニティの三首長の一人。
これを無視する程、先生は楽天家ではない。しかし、アズサが裏切り者だという証拠もミカの言葉しかない。
無視は出来ない。だが、行動する事も出来ない。
さて、参った。と、性別の判断が難しい中性的な顔をしかめると、すぐ横にランの顔があった。
「どうしたのかな?」
「先生、疲れてますか?」
「いや、久々に先生らしい事してるなって、ね?」
「えぇ……」
教壇のすぐ横、窓際にある机はよく日が当たる。
タブレットに反射した光で細かい文字が読み難かっただけなのだが、念のためタブレットを置いて目を休める事にする。
「あ、えっと、確か疲れた時はマッサージが良いって」
「あ~、確かにこの歳になると体中凝るからマッサージは良いね」
「はい、一番上の姉さんが言ってました。夜にしか開かないマッサージ屋がよく効くから、大人の男の人は毎晩そこに行ってスッキリするんだって」
とりあえず、先生は聞かなかった事にしようと思ったが、生徒の間違っているかもしれない知識を正すのも先生の役目だと、疲れた目を揉む振りをしてランに振り向く。
きょとんとした穏やかな垂れ目気味の顔、その顔の中央の鼻を真横に両断する魚の骨の様な傷痕。
右頬にも斜めに走る傷痕、形の良い顎には縫合跡までまる。
顔だけでもこれだけの傷痕があり、制服の襟から覗く首にも似た様な傷痕がある。
このキヴォトスで鉄火場は日常だ。生徒だけではなく、一般市民も護身用に手榴弾を持ち歩く土地。
しかし、ランの様な傷を得ている生徒は居ない。
「ラン、今の話は語弊がある」
「え? でも、姉さんが雑誌で読んだって」
「うん、多分だけどからかわれたんじゃないかな~?」
「は、はぁ……?」
故に、先生の中で言葉が木霊する。
キヴォトスではない場所から来た先生だからこそ、生徒がスルーしている現実を見てしまう。
「ま、まあ、マッサージが効くのは事実だよ」
「そうなんですか?」
「ランも成人して暫くしたら解るよ……」
――トリニティの裏切り者、それは白州アズサと零場ランだよ
ミカが残したこの言葉の真意と事実、これをどう探るか。
先生は首を傾げるランと、ランを気にする視線を向けるアズサにどう切り出し、エデン条約の裏で動く謀略をどう潰し生徒を守るか。
それを思案して、内心で溜め息を吐いた。