「さあ、授業を始めるよ」
先生はとにかく基礎だと、トリニティ総合学園のカリキュラムから基礎部分を抜き出した予定を黒板に書いていく。
「まずは数学と物理、これは基礎部分を徹底的に覚えてもらう。次に生物と科学、これも同様。そして現代文と古典。これは完全に暗記科目だから、本当にとにかく範囲を暗記する」
事前にナギサから貰った追試験の範囲なら、これで充分に合格点を狙える。
ヒフミ、ランは問題無い、コハルとアズサもこの基礎部分さえ頭に入れればどうにかなる。問題はハナコだが、彼女についてはどうにも今の状況を楽しんでいる様にしか見えない。何か狙いというか、目的があるのか。それは判らないが、今はハナコを信じるしかない。
あとは、ナギサが変な気を起こさないかだが、これに関してもナギサを信じるしかない。
――信じてばっかりだな。私
もっと他にないのかと、自問自答するがそう在ろうと選択して決めたのだ。
今は皆を信じるしかない。
「じゃあまずは数学からいこうか」
ランとコハルが嫌そうな顔をした。
この二人は理数系が苦手だ。いや、コハルは全科目苦手なのだが、特に理数系は壊滅的と言っていい。
ランも同様に、赤点を取る程ではないが今回の追試験では危険だ。
「ふむ、数学か。任せろ」
「アズサちゃん……」
ヒフミは全体的に問題無し、アズサも意外と理数系はマシで、このやる気なら大丈夫だろう。
「数学ですか。ウフフ」
問題かつ最難関がこのハナコだ。
ハナコの点数、そして普段の言動と行動。それら全て噛み合っている様で噛み合っていない。
前回の模擬テスト前、コハルに教えていた内容は確かに正解だった。しかも、基礎が吹き飛んでいるコハルにも理解出来る内容で教えていた。
そして言動と行動、なんと言うか下ネタを織り混ぜた会話を好み、行動も突然脱ぎ出す等、露出癖がある様に見える。
流石、成績不振と風紀を乱すからと補習授業部に叩き込まれただけはある。
だが、実のところはそうではなさそうだ。
ナギサや他の生徒から集めた情報だと、一年の頃はそんな片鱗は無かったという。
では、何があってどうしてそうなったのか。
そこがハナコの全てだろう。
「ハナコ、絶対に手を抜いたらダメよ!」
「あら、コハルちゃん。私、いつだってホンキですよ? ……見ますか?」
「な、なにをよ?!」
「ナニをって……、コハルちゃんったら大胆ですね」
「な、なにを見せる気なのよ!? エッチなのはダメ!!」
「コ、コハル落ち着いて」
一番年下だからか、それとも反応が面白いからか。ハナコはコハルをよくからかう。そして、興奮したコハルをランが宥めるのが、この数日の流れだ。
変に仲違いしたり、追試験の緊張感で妙に張り詰められるよりはいいと、今は放っておく。
コハルも本気で嫌がっている気配も無い。
それよりも、
「アズサちゃん、どうかしたの?」
「……ん、ああ。大丈夫だ、ヒフミ」
アズサの様子だ。普段は変わりないが、ふとした拍子にランの動きを目で追っている。
以前、補習授業部として集合した時、プール掃除の最中、そして今。
気になるというより、観察している様に見える。
――さて、どうするか
先生は考える。
アズサの視線はランと腰のランタンに向いている。
特にランタンを注視している様な気がする。
確かにあのランタンの光は異質だった。ただのランタン光というには、あまりにも深い蒼い光。
目に焼き付いて離れない光、ふと油断すればその光に引き込まれて、ランの銃口に額を差し出しそうになる。
そんな光だった。
――あれは持ち主の魂を食らう炉、だっけ
トリニティとゲヘナを中心に流れる噂。
――トリニティで蒼い鬼火を見たら近寄るな
――あれは持ち主の魂を食らう炉
――奴はその腕をもがれても
――その足を失っても
――蒼い鬼火に誘われるままに
――道連れを増やそうとこちらに歩み寄る。
トリニティの
「あの、先生」
「ん? どうかした? ヒフミ」
「そこ、式がズレてます」
「あら? 本当だ」
黒板に書かれた数式がズレていた。
少し考え過ぎていた様だ。
「じゃ、やり直しだね」
黒板の数式を書き直し、先生はもう一度説明を始めた。
ぼんやりと夜の旧校舎の校庭で、ベンチに座って空を眺める。
特にこれといった意味は無い。ただ、眺めたくなったからここに居るだけだ。
あの日、初めて見た空は青くて透き通っていて、初めて見た夜空は黒くて吸い込まれそうだった。
見上げても何時も真っ暗だったあの頃とは違った。
絵や写真の切れ端でしか見た事が無かった空、自分では綺麗だとしか言えないけど、〝姉達〟が見たらもっと違う事を言うかもしれない。
だから、ランは空いたベンチに視線を向ける。
「ニナ姉さん、カナ姉さん、ナナ姉さん。空だよ」
――ええ、綺麗ね
――ああ、本当にな
――うん、綺麗
「だよね。……あそことは違う」
返答は無い。そこにラン以外は居ないのだから当然だ。なのに、ランはそこに誰かが居るかの様に話している。
「それで、先生が数式を間違えて」
とりとめのない日常の会話、聞けば誰もがそこに誰か居るだろうと思うだろう。だがそこにはラン以外誰も居ない。
あまりに空虚な会話、それを暫く続けてランの腰にあるランタンがカロンと、軽い音を立てた。
Töten sie
「あ、もう寝なきゃ。じゃあね。……じゃあね?」
立ち上がり、ランは首を傾げた。
一体誰に別れを告げたのか。ここには、自分以外誰も居ないのに。
「まあ、いいか?」
不思議に思いつつ、ランはゆっくりと部屋に戻る。
その歩みに違和感は無い。ただ、巨駆が揺れる様に歩いているだけだ。
しかし、見る者が見ればこう思うだろう。
まるで、壊れる寸前の人形だと。
「……サオリ、これで本当にいいのか?」
離れた場所で、白州アズサは唇を噛み締め、そう呟いた。