座敷童の恋   作:quiet

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「じゃ、あなたが案内して」

 

 というのが、かつてエリカ・グレイが春河櫻子に投げかけた第一声だった。

 

 何年生のときだったのか、正直なところよく覚えていない。年の途中でやってきた転校生だったから、季節すらも。ただ、あの東ノ丸の隅にある学校にいかにも勝気な少女が現れて、よく通る声で「海の向こうから来た」と述べた後、一直線に自分に向かってきたとき。面と向かって、真っ赤な瞳で見つめられたとき。そんな第一声を投げかけられたとき。自分が何を考えていたのかだけは、櫻子はくっきりと覚えている。

 

 絶対いじめられる。

 全然、そんなことはなかった。

 

 エリカは確かに最初に感じた印象通り、勝気な子ではあった。走れば学年で一番で、試験を受ければ一問を落とすことだって珍しい。どこで覚えてきたのか、この狭い島国で使われる言葉も流暢に使いこなすし、書くことこそいくらか苦戦していたものの、読むことにかけてはもう、発声の見事さと合わせれば、同じ年代の子どもなんかでは全く相手にならなかった。

 

 でも、一番最初に教科書を見せてあげてからというもの櫻子は、エリカを相手に悪い印象を全く抱くことはなかった。

 

 教科書のここが難しいと言えば、「こんなのもわからないの?」と言う。

 体操が上手くできなければ、「どんくさいなあ」とも言う。

 

 きっと、そういうのが嫌な人だっているだろう。でも、櫻子にとってはそうではなかった。だってエリカは、できるようになるまで傍にいてくれたから。居残りで勉強する間、隣で帰りを待ってもらったことがある。鉄棒ができなくて、何度も背中を支えてもらったこともある。

 

 そして、ある冬の日のこと。

 長距離走の大会の終わり。息も絶え絶えの櫻子は、一着の旗を持ったエリカが退屈そうに、けれどいつまでも最終地点の校庭で待ってくれていたのを見つける。最後の力を振り絞って、彼女のところまで走る。

 

 エリカは言った。

 

「ま、頑張ったんじゃない?」

 

 櫻子は、どうにか呼吸を落ち着かせて、膝に手を突きながら笑って言った。

 

「ありがとう。エリカさん」

 

 たぶん、その日が境だったと思う。

 

 エリカは「こんなのもわからないの?」とも「どんくさいなあ」とも言わなくなった。櫻子もまた、エリカ「さん」とは言わなくなって、教室を、通学路を、他愛もなければ予定もない休みの一日を、ただ一緒に過ごした。

 

 許されるなら、と櫻子は思う。

 こんな昔の関係が今でもそのままそこにあると期待していいのなら、エリカ・グレイのことをこう呼びたいと、彼女は思っている。

 

 友達、と。

 

 

 

 

「びっくりした。いつこっちに戻ってきたの?」

「先週、仕事のついでに。戻るっていうか、来てるんだけどね。生まれはこっちの国じゃないし、引っ越すわけでもないし。本拠はあっち」

 

 最見邸には何でもあって、何と奥の方には洋室らしきものさえある。

 外国暮らしの長い方なら、と肇が勧めてくれた。絨毯敷きで、ふかふかの長椅子がある部屋。普段掃除をしているときは「なぜこんなにも多種多様な部屋が……」とその複雑さに戸惑うこともあるけれど、今はすごくありがたい。

 

 洋机に置かれたカップを取って、櫻子はそれに口を付ける。

 ん、と口を閉じたのは、思っていたのと違う味だったから。

 

 ふ、とエリカは笑った。

 

「櫻子。それ、飲んだことないの?」

「喫茶店では、たまに。でも、思ったより苦い……」

「砂糖を入れないからでしょ。ほら、一緒に持ってきてあげたんだから」

「久しぶりだから、ちょっと見栄張っちゃった」

「何それ」

 

 エリカは楽しそうに笑って、砂糖の入った小さな袋を取ってくれる。

 カップの中に入っているのは、珈琲だ。彼女がお土産にと持ってきてくれた。

 

「前に仕事で出張に出たときに貰ったんだけど。そもそもこれ、こういう風に砂糖とか牛乳をたくさん入れて飲むやつだから。甘くして飲みなよ」

「うん。仕事って、お家の関係だったよね。具体的には……」

「投資って言ってわかる? お金になりそうなところに、お金を注ぎ込む遊び」

「へー」

「あんまり面白くないからこの話はなし。それよりこの家、やけに広いね。何でもあるし。畳に座って湯呑で珈琲を飲む羽目になると思ったんだけど」

 

 不思議そうにエリカがカップを見る。

 それに口を付ける仕草は、以前にも増して洗練されて見えた。どこかの王女様と言われても信じてしまいそうなくらいで、実際、さっきの仕事の話なんかを聞いてみると、満更その可能性もないでもないと思わせるものがある。

 

 が、本人が面白がらない話を掘り下げる理由もなく、

 

「うん。広いし、何でもあるよ。私もここに来て結構経つけど、家の中にもまだ入ったことがないところがあるし、何が置いてあるかなんて、家主の……さっきの。肇さんも全部は知らないくらいだから」

 

 ふうん、とエリカは頷く。

 

 いくらか周りに視線をやる。何だかそう聞くとうちに似てるかも、と呟く。

 それから彼女は、再びこっちに視線を合わせると、

 

「さっきのが櫻子の婚約者?」

 にやっと笑って、そう言った。

 

「そ、そうだけど……あ。もしかして、それでうちに来たの?」

「『うち』なんて言っちゃって。もう結婚した気になってる」

 

 いや、と櫻子はそれを否定しようとするが、つい口をついて出た言葉ほど否定しにくいものはない。言葉に迷ううちにエリカは続けて、

 

「ま、そうだね。あの櫻子が結婚するなんて聞いたら、気になって仕方ないし。良い機会でしょ。節目に会わないとそのままになっちゃうし、会うなら私からだろうし。で、何だっけ。お祖父さんが決めた許嫁?」

「……うん。そう。そんなところ」

「そんなところってどんなところ? どんな奴かと思ってたけど、なかなか良さそうじゃん」

 

 櫻子は、思わず身を乗り出しそうになる。

 しかしそんな隙を見せるわけにもいかず、そのまま平静を装って、こほんと、

 

「そうでしょ?」

「うん。特に率先して私たちの珈琲の準備をしてたのがいい。気が利くじゃん。なかなか味も良いし」

「何でもできる人だから」

「そういうのじゃなくて、ほら。櫻子は押しに弱いから。態度が大きいだけの横柄なクズと無理やり婚約させられてるとかじゃなくてよかったなって、その感心」

 

 どういう感心なの、と櫻子はじっとりした目付きでエリカを見る。

 エリカはそんな視線にも昔みたいに慣れっこで、

 

「そんなのが出てきたら八つ裂きにしてやろうと思ったんだけど。とりあえず今のところはその必要もなさそうで安心した」

「やめてね?」

「仲良いんだ」

「い……いいよ?」

「なんでちょっと自分で疑ってるの?」

 

 自分たちのことでしょ、とエリカは笑った。そうなんだけど、と困って櫻子が答えれば、ますますその笑みは深くなる。

 

 ふう、と彼女は息を吐いて腰を伸ばした。

 

「安心したら疲れてきちゃった。ここ、駅から遠すぎない?」

「うそ、歩いてきたの?」

「そんなわけないでしょ。駅からタクシー」

「お金持ちだ」

「まあね。でも、全然捕まらなくてびっくりした。櫻子は普段駅までどうしてるの。こっちからじゃタクシーもなおさら……しまった。帰りどうしよう」

「バスが出てるよ。そんなに本数はないんだけど」

「あ、そう。それならその時間に合わせて帰ろうかな。先に時刻表だけ教えてくれる?」

 

 バスの時間なら、もう何も見なくても空で言える。

 じゃあ、とエリカが帰りの時間を決めれば、二人の視線は自然と壁掛けの大時計に向いて、

 

「後は話し放題だ」

「うん。仕事の話……は、ダメなんだよね」

「そう。それ以外」

「わかった。任せておいて」

 

 どん、と櫻子はらしくもなくおどけて胸を叩く。

 何それ、ともう一度エリカは笑って、まずは「飛行機って怖くないの」という話から。

 

 

 

 

「肇さん」

「はい」

「何と……来週も会う約束をしてしまいました」

 

 バス停までエリカを送っていって、戻ってきて、そのことを伝える。

 今日の店番は肇がやってくれていた。子ども用の区画が朝と様子を違えているから、きっと幸多たちが遊びに来たのだろう。しかしもう夕暮れだ。今はその姿もなく、店の中には肇だけが静かに座っている。

 

 彼は、にっこりと笑った。

 

「いいじゃないですか。今度はこっちがお茶とお茶菓子をご用意する番ですね。今度、駅の方に行ったときに買ってきましょうか」

「あ、それが。あんまりこっちに来てもらうのも悪いと思って、駅の方で待ち合わせをするつもりなんです。彼女、これから汽車で東ノ丸の方に行って、また仕事があるらしくて」

 

 お忙しい方なんですねえ、と肇は驚いた顔をした後、

 

「じゃあ確かに、そっちの方がいいかもしれませんね。汽車もバスも、なかなか乗っているだけで疲れますし」

「はい。それじゃあ来週の日曜日、一日出てしまいますね」

「ええ。楽しんできてください」

 

 肇は言うと、壁に掛けた月替わりの暦を手に取った。勘定台の上に置きっぱなしの赤鉛筆で、さらさらとそこに書き込む。ご友人とお出かけ。それから可愛い花丸も。

 

「それでその、」

 と、櫻子は切り出す。

 

 今日は何とかなったけれど、来週は駅の方に行くわけだから。それだけでなく、明日からはいつものように店番を再開するつもりでもあるのだから。

 

「髪を、染めてもらってもいいですか。……もしお忙しければ、自分でやってみるつもりではあるんですが」

「ぜひ私にやらせてください」

 

 きっぱりと肇は言った。

 

「朝はああ言いましたが、実は結構、櫻子さんの髪を染めるのも好きなんですよ。女性の髪をと思うと気が引けるところもあるんですが、鴉の羽櫛なら傷める心配もありませんし」

「あ、ありがとうございます。自分でやると、どうしても耳の後ろなんかが難しそうだと思って。じゃあ、私はいつでも構わないので、肇さんがお暇なときに声を掛けてもらえれば」

「見ての通り私は暇なのでいつでもいいんですが、どうしますか。夕食の前にやってしまいますか。それとも後の方が?」

「後の方がいいですか。そっちの方が、色々慌てないで済みそうですし」

 

 そうしましょうか、と肇が言うから、それじゃあお願いします、と櫻子は台所に向かう。少し早いけれど、お客もいない。夕食の準備を始めてしまおう。

 

 前掛けの紐を結びながら、しかし櫻子は、もう笑ってしまっている。

 

 

 

 

 鏡の前で朝から格闘している。

 

 ちょっとだけ編み込みのようなものを作ってみることができたけれど、これで正しいのか全然わからない。こういうのをするには長さが足りていないのか、それとももっと大胆に髪を取った方がいいのか、やってもやらなくてもそんなに変わらないようにも見える。

 

 鏡の前で顔を右、左。

 土曜日の朝。そろそろ家を出る時間だから、このまま行くか、それとも解いてしまうか決めなくちゃ。

 

 二者択一。決める前に、部屋の外から声がした。

 

「櫻子さん。今、中に入って大丈夫ですか」

「あ、はい。大丈夫です」

 

 着替え終わってますと伝えれば、少し間を置いてから肇が襖を開ける。

 微笑んで、

 

「おや、可愛い」

 

 髪を見て言ったのか、服を見て言ったのかわからない。

 でもとりあえず、このまま外に出て行く勇気は十分に貰えて、

 

「グレイさん、いらっしゃいましたよ」

「え?」

 それから、驚いた。

 

 嘘、と立ち上がる。戸惑いながら、

 

「待ち合わせ、駅の方でするはずだったんですけど」

「って櫻子さんも言ってましたよね。私もちょっと驚いたんですが、迎えに来てくださったみたいです」

 

 そういうところは確かにある、とも思った。

 あれでエリカは世話焼きな節もあるから。あるいは予定より早くこっちに着いて、ちょっとせっかちになってここまで来たのか。いずれにせよ、直前で助かったとは思う。

 

「じゃあ、後は持ち物と外套だけ整えたら、すぐに行きます」

「わかりました。お茶……は、すぐ出るなら大丈夫そうですかね」

 

 はい、と頷けば肇が襖を閉めて店の方に出ていく。櫻子はちょっと慌て気味で、諸々を確認する。とりあえずお財布は持ったから後のことはどうとでも……なるだろうか。入念に確かめてから、よし、と呟く。もう一度だけ鏡を見る。

 

 どんな顔をするだろうか、と思った。

 もちろんエリカには、この黒髪の姿を見せたことがない。一緒にこの姿で街に繰り出したことだって、だから当然、ない。エリカは今の自分を見て、どう思うだろう。

 

 お揃いだと言って、笑ってくれるだろうか。

 

「……?」

 そのことを思ったとき、ふと、頭に靄がかったような奇妙な感覚があった。

 

 何だろう、と考えた。今、自分は何か、言葉に上手くできない気持ちを感じた気がする。過ぎ去った瞬間には、それが何だったのか思い出せなくなってしまうくらい、曖昧な何かを。

 

 気になるけれど、でも、あまりエリカを待たせるわけにもいかない。

 深追いはせず、櫻子もまた部屋を出ていく。

 

 一歩一歩、進むたびに何かが頭の中で膨らんでいるような気がした。それをやっぱり上手く整理できないまま、けれど最見邸の長い廊下にも、必ず終わりが来る。

 

 帳場の奥から、店の方に顔を出した。

 座っていた肇がこっちを見上げてくる。無言で彼が手のひらで指し示したのは、陳列棚の方。

 

 彼女が立っている。

 まだこっちに気付いていない様子で、並べられた品物にじっと視線を注いでいる。

 

 だから、櫻子から呼び掛けた。

 

「エリカ」

 

 声に気付く。彼女が振り向く。二人の目が合う。

 エリカは、大きく目を開く。

 

 それから、

 

 

「――は?」

 ひどく、怒ったような顔をした。

 

 

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